ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2021年12月

 
    好いお年を 
 
 
  他人事のように語る楽山
 
 2021年12月27日
 『地球を包む愛』を見た。
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
楽山は、元HS信者、ということは、興味本位で語ってはいけない立場です。多くのテーマにおいて、楽山の、この、自覚がない、病識がない、誠意がない、興味本位、ということが表れてきます。無反省、無責任、そして、病質などが、楽山の書いたものによって明らかになってきます。
 
*メモ
大川隆法総裁の法話『地球を包む愛』の動画を見た。自分のメモは次の通り。
体をゆらゆら揺らしたり、ぼそぼそ言ってるかと思ったら、急に声を張ったりしている。
日本の超古代文明の話。富士山の近くにもう一つ山があったが、宇宙船が着陸したら潰れたとか、当時の女性は凛としていたとか…。
現代の哲学者は、計算式や記号をつかって何を言いたいのか。こんなものは一円にもならない、給料泥棒だ。
 」
 
超常の架空の動画が好きな楽山にとって、興味本位以外ではないようです。荒唐無稽な話をすることで、何が言いたいのでしょう。茶化すことは出来るが、批判は出来ない楽山です。つまり、HSの影響を、今も受け続けているということです。真面目なアンチからは程遠いのです。
 
イスラム原理主義には反対する。
私が嘘つきに見えますか? 見えたら地獄です。
我が言葉を軽んじるなかれ!
わたしの言葉を聞かなかったら人類半減する。どうか、わたしの言葉を信じて、伝えてください。
 」
*感想
個人的な感想を述べると、こうなる。
ひさしぶりに大川隆法総裁の話を聞いて、善川顧問を思い出した。善川顧問の話は聞き取りにくかったが、大川隆法も年をとってそんな風になってるなあと。
ゆらゆらしたり、ぼそぼそ言ってるかと思ったら大声を出したりで、落ちつかない人だ。
超古代文明の話は好きだったのだが、今回、日本のそれを聞いても、それほど面白いとは思えなかった。自分の興味関心は前とは変わってきたということか。
 
HS批判ではなく、「年をとって」と、老化したことを、あざ笑う楽山です。楽山と付き合うと、こういう扱いになるということを学習するべきでしょう。センスがズレているようです。しかし「ゆらゆら」「ぼそぼそ」「落ち着かない」は、いずれも、楽山自身の印象とイメージであります。
 
楽山には、無学習からの、思いつき、節操のなさ、言ってることが安定せず、まとまらず、行ったり来たりで、かつ、責任をいっさい負わない、つまり、冷静を気取るだけで、実際は、落ち着いた冷静な筆致など、見かけだけで、どこにも認められません。
 
だから、感想が「面白いとは思えなかった」になり、楽山は、批判するのではなく、真剣味のない、趣味的な「興味関心」だけで揶揄して楽しみたいのです。楽山は、真実を追求したいのではなく、面白おかしいことや、自分が悦に入り、満悦できることだけを求めています。
 
原理主義に反対しながら、自分の言葉を軽んじるなかれ、そうすれば人類半減するというのは矛盾しているように思える。
原理主義に反対するなら、「我が言葉は字義通りに受け入れなければならないことはない。その時々の状況次第で応用、解釈してよろしい。どうしてもその状況には合わないのであれば放棄してもよい。批判するのもよい。これは我が言葉を軽んじることにはならない。それがために災厄を招いたり、人類半減することなどない」とすべきではなかろうか。
 
楽山は、これまでのことから、単方向だけの、詭弁屋の嘘つきですから、原理主義もなく、そして、現実主義もありません。気持ち悪いことに、お手本を示していますが、これは、宗教は、いい加減なのが良い、という、以前からの、宗教と信仰についての無理解からの、何の役にも立たない愚痴です。
 
*ハズレ
法話について、このような内容を予想していたのであるが、ハズレだったようだ…残念。
総裁の法話は、タイトルと内容が一致しないことがあるのを忘れてた。
 
「このような内容を予想していたのであるが、ハズレだった」・・楽山は、日本語が苦手のようです。恐らく、思いついたままに書いて、反省も推敲もしないのでしょう。そして、書いたことさえも、忘れてゆくのでしょう。こういう無責任筆致は、ずっと前からです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
気張って、こんなこと言いそうだな。
「我はかつて愛の発展段階説を説いた
いまここに、愛の最上段階として
包む愛が存在することを明かそう。
包む愛とは何か?
それが知りたければ、その権化たる我を見よ
さすればその何たるかを垣間見ることができよう」云々。
 
三文芝居好きの大根役者である楽山は、しばしば、求まられても信頼されてもいないのに台詞を考えて、さらに無責任に、書き捨ててゆきます。程度の低い揶揄です。誰が、楽山に愛を問うというのでしょう。冷静を装いながら誇大的なのが楽山ですから、とても気持ち悪いです。
 
楽山は、前に、愛について詩を書いているつもりだったか、"愛させてくれないことには(愛せない?)” みたいなことを書いています。愛させてくれることって何でしょう。ニヤニヤしてくれとでも言いたいのでしょうか、裸になれってことでしょうか。ズレ方が気持ち悪いです。
 
 
みにくい自己陶酔

みにくい自己陶酔
 
 
(2021年12月31日)
 
 
 
  失恋の歌
 
私のための
喪があけた
君の情事も終わった
流れのように足の下で
歌のように繰り返される悔恨が
やがて花開く
私の胸の空洞だ
招きもしないのに
別れを告げられても困るからと
微笑よ
君の純潔が苛立つとき
首のないセックスが
傾いたベッドの上で
ケラケラと笑いころげ
君の喪があけ
私の情事が終わるとき
うぶな陶酔は
血まみれの風音をたて
血の気のない泣き声をあげて
遠い崖ふちから肉体まで
ひそかに受胎する砂と唇
 
 
  あの世
 
明け方バイクに乗って山の上から
雲海を眺めていた
太陽、雲、あらゆる光
この目はうばわれて、どこか
この世にいなかった
翌朝、山のふもとの道
雲海の雲の中を走っていたのだろう
体はバイクの上で冷たく濡れていった
急に開ける視界
いつのまにか朝日をあびて
シャツが乾いて汚れていた
体はうばわれて、どこか
この世を離れていた
 
昼下がり、車のフロントガラスから
太陽を隠す大きな雲
そのふちは輝き、やわらかい輪郭の
空の上から下へ
隠された太陽から放射状にまっすぐ広がって
注ぐ光、光の帯
天国への階段かと
虹を思い出そうとして
色をうばわれて、どこか
この世に別れを告げていた
 
太陽は神ではない
しかしときに自然が見せる
とくに太陽にまつわる
この世ならぬ感覚は
ある種の喪失か自己消滅か
あの世
でもいいけれど
信じているものは求めて目に見えず
信じたい世界では
信じたい人々からは
信じるべきものは目に見えて闇のようだ
 
 
 
楽山日記へのコメントを再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
約3年もの長きにわたって批判されていながら、何も気にせず、平気で書き続けられるのは、楽山が、恥も、罪悪感も、まるで感じない、いわゆる厚顔無恥だからでしょう。おかげで、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)についての資料にはなってゆきます。
 
 
 
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  的外れの批判(2)
 
 
一応、コピペできた文章について、批判してゆきます。対象となるブロガーは、佐倉哲という人です。
 
筆致が楽山に似ていますが、今の時点では、断定はできません。宗教と信仰の的外れな理屈に溺れているようです。
 
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。
佐倉 哲
 
無理に、信条や教理を信じ込むことが信仰だという主張のようですが、そこで、既に、間違っていると思います。信仰は、個人の人生の体験と、聖書から、心に訴えかけるものを感受して、キリストを好きになり、生きる縁(よすが)とすることです。
 
聖書とは
What is the Bible?
96年x月x日
聖書という言葉の指すものは決して一つではありません。「どの時代の誰にとって」ということを明確にしなくては、決して答えることのできないものです。
 
聖書の言葉の指すものは、読者にとって、生きるために必要かどうかで判断され、信仰となります。「どの時代の誰にとって」ではなく、今生きている自分にとってですから、人間としての必須の共通や共有はありうると思いますが、個人によって、救いや癒しの言葉が、異なってくるのは不可避であります。
 
聖書の間違い
Biblical Errancy
03年11月27日更新
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することです。たとえ神の導きを仮定したとしても、実際に聖書の各書を書いたのは不完全な人間なのですから、それはきわめて疑わしい主張のように、わたしには思われるからです。
 
聖書は神の言葉と言われることから、「すべて正しく、いかなる間違いも含まない」ということですが、人が、間違いなく読み取れるかというと、神の言葉を、受け取る人の言葉の限界があり、全て正しく・・というわけにはいきません。
 
ですから、決めつけないことは大事ですが、救われたのだから、否定できないということもあり、そういう言葉の意味や価値は、今、不可欠のもの、という気持ちでいればよいでしょう。少なくとも、正否を理屈で、決められる問題ではないのです。
 
聖書は書き換えられたか
Has the Bible Been Rewritten?
97年8月15日
「聖書は神の霊によって書かれたものであり、いかなる誤謬も含まない」という聖書信仰が、わたしたちにとって意味あるものとして認められるためには、単にオリジナルの聖書に間違いがないというだけでなく、現在のわたしたちに伝わってきた聖書に誤りがない、ということでなければなりません。
 
上に述べたように、今の時点で大事な言葉について、変な理屈で、正否を論じて、結論が出るようなものではありません。訂正不能にならなければよいと思います。信仰は、決めつけられるようなものではなく、学習し成長してゆくためのものです。誤りも何も、あるのは、聖書ではなく、私たちなのです。
 
しかし、果たして、長い伝承の経過のなかで、聖書は誰かによって書き換えられた可能性はないのでしょうか。本論は、「申命記」の作者に関連した部分の最新翻訳をいくつか吟味することによって、聖書が人間の意思によって意図的に書き換えられている事実を示し、しかも、この場合、その書き換えの動機が聖書信仰そのものであること、つまり「聖書には誤謬がない」と信じる聖書学者が、聖書の矛盾を隠蔽しようとしたためであることを明らかにするものです。
 
佐倉氏は、まるで、聖書も信仰も完全なものでないといけないと言っているようですが、神の言葉が、人にとって完全に受け取られることのほうが無理なのです。信仰は完全になることはありません。それを自覚して判断できるような能力が人にはないからです。
 
聖書における「死後の世界」
The Life After Death
97年11月11日
「人は死んだ後どうなると思いますか?無に帰るのでしょうか?モーセやサムエルを はじめとする旧約の偉人達は今頃どこで、どうしていると思いますか?また神を知ら ずに死んでいった世界中の多くの人達の場合はどうでしょうか?そして現在生きてい る我々は死ぬとどうなると思いますか?」というお便りを AK さんよりいただきました。人間は死んだらどうなるのでしょうか。本論は、聖書における「死後の世界」について考察します。
 
死んだ後、どうなるか、佐倉氏は、分かるというのでしょうか。聖書の文言を、人の不完全な知性で云々できると思うほうが、間違いなのです。何も出来ないのではなく、言葉と体験から、学ぶことが必要であり、佐倉氏の言うような、今考えて、今決める、などという必要はないことを知るべきであります。
 
「永遠の命」の思想
The Eternal Life
97年11月29日
キリスト教(新約聖書)は「永遠の命」の宗教です。キリスト教の救いとは「永遠の命」を得ることです。キリスト教における信仰者の究極的目的は「永遠の命」です。しかし、このことは、キリスト教が本来の聖書(旧約聖書)の伝統から逸脱した宗教であることを意味しています。本来の聖書には「永遠の命」の思想なるものは存在しないからです。
 
ここで、佐倉氏は、「永遠の命」という、いちばん、難しいことを俎上にあげてきました。少し、呆れます。永遠の命を得ること・・という気安く言って、表せるものではありません。思考、想像、希望、などといった視点が必要であり、地上では、答えの出ることではありません。
 
佐倉氏は、永遠の命の思想がないと言っています。ひょとして、佐倉氏は、時間的永遠を考えているのでしょうか。そんな永遠など、超常のこと、人に分かるわけがないのです。あるいは、分からないことを、分からなければいけないキリスト教は、おかしいと言いたいのでしょうか。
 
キリスト教と日本
征服の踊り
A Dance of the Conquistador
96年x月x日
メキシコのインディオの人々に「征服の踊り」という民族ダンスがある。それは、スペイン人がマヤ文明やアステカ文明を壊滅し、先住民を奴隷化し、メキシコにおける征服者となったこと忘れないためインディオが踊るダンスである。踊り手はスペイン人に似せた仮面をかぶり、左手に十字架、右手に剣をもって、聞く者の心をえぐるような、もの悲しいリズムにあわせて、十字架と剣を、「これを取るかそれともこれか」、というようなしぐさで交互に突き出しながら踊り歩く。これを見物するインディオの人々の顔が悲しい。私はこれを見て、いつも涙を禁じ得ない。このやり場のないような悲しみはどこからくるのだろうか。
 
こういうことで、人間としての自己顕示をして、キリスト教は、こんなに、おかしいんだと言いたいのならば、佐倉氏は、相当なペテン師ということになります。この話は、キリスト教を征服の象徴化道具みたいにしている人々の、とんでもない過ち~罪なのです。
 
これは、一部の汚点をもって、全体を否定しようという詭弁です。かつ、悪いイメージを刷り込もうとする、悪意の印象操作でもあります。ここで、佐倉氏への信頼度は、著しく落ちます。このような詭弁が通用すると思っているのでしょうか。残酷なんだよ・・と悪口を吹き込む下種のやり方です。
 
十字架のあがないと日本人
Redemption and the Japanese
97年9月4日
本論は、なぜ、キリスト教の十字架のあがないの思想が、日本人にとって分かりにくいかを考察したものです。
その他
殺せ!と神が命じるとき
When God Commands a Murder
95年12月9日
イスラエルのラビン首相暗殺事件も、オウム真理教の一連の殺人事件も、ある困難な宗教的問題を抱えている。殺人が、神あるいはその代理者の命令として与えられるとき、信者はいかにすべきか、という問題である。
 
佐倉氏は、悪い例ばかり、重ねてきます。ラビン首相暗殺はユダヤ教徒が犯人ではなかったでしょうか。また、十把一絡げで、オウム真理教まで持ち出してくる下種は、いったい誰なのでしょう。
 
「世の終わり」は1914年に始まったか(96年x月x日)
Has "the End of the World" Begun in 1914?
メキリストが1914年に戻って来られ、敵のまっただ中で支配を開始されたことを示す聖書的証拠については、この本の16章で考えました。それで次に、キリストの臨在の「しるし」の様々な特色と、サタンの邪悪な事物の体制が「終わりの日」にあることを示すさらに多くの証拠とを、注意深く調べてみることにしましょう。‥‥(中略)‥‥以上述べた事柄を考えると、キリストが言われた「しるし」や、キリストの弟子たちが予告していた証拠となる事柄が今起きつつあることは明白ではありませんか‥‥。それでわたしたちは次のことを確信できます。まもなく、すべての悪と悪人が、ハルマゲドンで突如終わりを迎えるということです。(『あなたは地上の楽園で永遠にいきられます』より)
本論は、このエホバの証人の終末論を検討します。
 
こういう謎解きみたいな考え方をするところ、楽山に、酷似しています。これ以上、キリスト教と信仰について、何も語ってほしくないです。佐倉氏の、この記事は、詭弁と印象操作だらけの悪意に満ちたインチキ思想に過ぎません。
 
最後に
キリスト教に関するわたしの最後のコメント
My Last Comments on Christianity
2004年6月9日
「佐倉さんご自身はキリスト教をどうお考えでしょうか?...佐倉さんの率直な意見を聞かせていただけたらと思いメール致しました。」という便りを最近いただきました。もちろん、本サイトにはわたしのキリスト教に対する数多くの言及がありますが、ここ数年キリスト教についてはほとんど何も研究していないので、その理由も含めて、これを機会に、わたしのキリスト教に関する最後のコメントを述べさせていただきます。半年ほど前に書いた「結論」もまた参照してください。
 
自己顕示欲なのか。言い方だけ、学者風だが、思想の程度が低いから参考にもならないし、詭弁ばかり書いて、ここで、謙虚芝居とは、まさに、楽山が、ずっとやってきたことです。お仲間か、楽山の成りすましである可能性が高いと思います。
 
キリスト教が再びわたしの関心の相手となり得る日
The Day When Christianity Can Become Worthy of my Attention
2004年6月9日
「佐倉さんは、もうすっかりキリスト教批判の意欲を無くしてしまわれたんですね」というおたよりをいただきました。わたしの「キリスト教に関する最後のコメント」の発表と行き違いになるようなタイミングでいただきましたので、「最後のコメント」の補足として、なぜ、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が期待できないか、を簡単に述べます。
かつてキリスト者であった私ですが、現在、個人的には -- つまり自らの救済とか生き方とかといった地平では -- キリスト教にはもう全然興味がありません。キリスト教の本質は、結局のところ<根拠のない思い込み>であり、キリスト教が生み出す輩はその<ドグマの奴隷>だからです。
 
佐倉氏は、程度の低い詭弁屋です。キリスト教に興味がないなら、二度と書かないでください。キリスト教と信仰は、思い込みではありません。キリストを好きになり、生きる縁とすることです。「ドグマの奴隷」ということなら、多様なキリスト教内外よりも、佐倉氏の決めつけの教祖願望のほうでしょう。
 
それは、本サイトにおける来訪者とのやり取りの中でも、意図せずして自然に明らかにされていった事柄の一つです。
心理学的あるいは社会学的問題としてとか、歴史的興味の対象としては、もちろん、オウムやイスラム教などとともに、まったく無視してしまうということもないでしょうが、なにか自分自身のために、キリスト教を学ぶとか、それについて云々するといったことは、もうまったくありません。そのためにわたしの大切な時間を費やすなんの魅力もキリスト教にはありません。
 
それは、佐倉氏の勝手。しかし、他者に詭弁で影響を与えないでください。数々の詭弁によるデマ宣伝、読むに堪えない芝居がかった落胆の様子、三文芝居の大根役者である楽山にそっくりです。
 
しかし、わたしは、ながい時をかけて自分がキリスト教や聖書を学んでみたことは、結果的に良かったと思っています。キリスト教は、まだ日本人にとっては、鼻をつまんでも飛び込んで<体験入学>してみる価値はあると思います。単なる教養としてではなく、体験的にキリスト教を知っておくこと、つまり、食わず嫌いではなく、自ら食べてみて「本当にまずい」と身をもって知っておくこと、それも決してわるいことではないからです。
 
長いことキリスト教と聖書を学んだ?・・とんでもない。何も本質的なことを理解していません。どうやら、教祖願望の強い、プロのペテン師のようです。楽山も、三文芝居の大根役者ですが、悪意と欺瞞を隠している、とんでもない人のようです。楽山と同様の病質と呼ぶ日も近いでしょう。
 
わたしは、キリスト教に関する最後の個人的関心 -- 聖書の無誤謬性 -- に結論が出てしまったからでしょうか、自分でもむしろ意外なほどの速さで、キリスト教は忘却の彼方に小さく小さく消え去っていきました。
 
独りで結論を出すことの恐ろしさを再確認しています。それこそ、ドグマです。忘却は自由ですが、ならば、キリスト教と信仰について、何も語らないでください。
 
キリスト教のような閉じられたシステムからは革新的な発展は期待できないし、日本での信者も相変わらず1%の域を超えられず、日本が欧米のように成り果てる心配もあまりないので、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が来ることはおそらくないだろうと思います。
佐倉 哲
 
閉じられてはいません。信仰は自由なので、私などが、単一の信仰者になっています。また、佐倉氏が、閉じられていると感じるのは、何も理解できず、理解しようともしていないからでしょう。クリスチャンであった過去も、恐らく嘘だと思います。もっともっと裏の顔が、いずれ明らかになってゆくでしょう。
 
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することでした。その結果、わたしはこの主張は間違っているという結論に達しました。つまり、聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。したがって、聖書は真理の根拠にも権威にもなり得ません。
 
佐倉氏が、聖書の間違いを書いてゆくなら、私は、佐倉氏の間違いと詭弁と悪意を書いてゆくことになるでしょう。こんなところにも、シャロームの偽牧師、楽山の反キリストに、劣らないほどの、ひょっとしたら成りすましの、カルト教祖マニアがいるようです。
 
宗教は、思い込み、妄想、訂正不能、学習不能、などに至れば、非常に危険です。しかし、それは間違っているのであって、宗教と信仰の本質ではないのです。佐倉氏は、詭弁屋、そして、煽動者だと判断します。実に、楽山のペテンの刷り込みに、よく似ています。
 
 
教祖願望の詭弁

教祖願望の詭弁
 
 
(2021年12月30日)
 
 
 
  きらいだ
 
何故そんなことを聞いた
「いやとんでもない僕なんか」
とでも言えば満足だったのか
少なくとも嫌な思いをせずにすんだんだ
そう、済んだことだった
些細なことだった
ずっと後になって
全く別のことで
もっと冷たい目と口が向けられるまでは
 
学生の頃、ずいぶん昔の話
悪意と作為には耐えられなかった
 
最初から用意されたような
答えを期待されて
質問されるのは
きらいだった
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
 
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
 
誰のものなのか
 
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
 
誰のものなのか
 
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
 
誰のものなのか
 
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、佐倉哲氏を肯定的に、ブログの記事に書いています。同類なのか、成りすましなのか、いずれにしても、息を吐くように、嘘を吐き、詭弁を弄する。それ以外の、例えば真実を、一度も書いたこともないし、書く気もないのでしょう。病質のために現実認識が出来ないからです。
 
 
 
(近況)
発熱で入院していた母は、12月29日、総合病院を退院して、元の老人ホームに戻りました。
私は、明けて、1月4日、入院費を払いに行きます。
 
 
 
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  楽山の反省芝居
 
 『知的生活の方法』渡部昇一著
 2021年12月27日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
楽山は、反省文らしきものを書いてきました。とても浅い、おふざけに過ぎません。既に、3年が過ぎ、無反省と無責任では済まないところに来ています。それでも、呆れるほど、全ての非を無視したまま、書くことで済ませようとしてきます。楽山が書けば、批判記事が付いてくる、という成り行きが続きます。
 
*内容
『知的生活の方法』を読み返してみた。前半は知的生活の基本(自分に正直であること、繰り返して読める愛読書を持つべきことなど)が説かれており、後半は知的生活を継続する上での注意点、教訓などがいくつも紹介されている。
 
知情意の全てが不足~欠損している楽山が、「知的生活」などと言っています。気取りを隠さなくなったようです。正しい教訓を真摯に受け止めているなら、現在のような嘘と詭弁のお気楽山にはならなかったはずです。また、嘘を吐きました。信頼度ゼロらしい日々を過ごしているようです。
 
*反省
前は本書を読んで、わくわくして前向きな気持になったものだったが、今回はそれよりも自分の未熟さを思い知らされた気分である。
 
「わくわく」しなくなったのは、高等感情鈍麻が進行したからでしょう。「未熟さを思い知らされ」ているなら、今回の記事は書かなかったはずです。楽山の言葉が、楽山の嘘を知らせています。
 
まず一つは、自分は克己心が弱まり、背伸びした読書をしなくなっているということである。著者は楽しみとしての読書だけでなく、意志を用いた読書もしているらしい。でも最近の自分は、後者の読書はさぼっているので、ここは直したい。
 
「背伸びした読書」とは何でしょう。楽山が、これ以上背伸びしたら、恐怖です。「意志を用いた読書」とは何でしょう。楽山は、誇大妄想的に、いい言葉を拾っては自分に当てはめてきただけでしょう。実に、お気楽に、「ここは直したい」と言って、忘れてゆく楽山です。
 
もう一つは、未読本を追いかけてばかりで、同じ本を繰り返し読むことを怠っているということである。本を十冊読むとしたら、そのうち二、三冊は過去に面白いと思った本の再読にしてみようかと思う。三つめは空間確保である。こればかりは良い案は浮かばず、今後も改善できそうにないのが残念。とほほ
 
楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の精神病理から言葉を選んでいるので、「とほほ」が読者に対して失礼だということが分からないのです。ならば、反省して、自らの書いてきたことを否定するしかありません。この3年間は、「とほほ」で済む話ではありません。
 
病質のために無反省だから、おかしな文章を書いてくるのです。言い換えれば、「とほほ」と言えば反省したことになると思う心性が、病質なのです。真剣味が、そこで、打ち消されるということです。「とほほ」と書くくらいなら、「改善できそうにない」なら、書いて公開するべきではないということです。
 
この他にも反省点は多くあるのだが、とにかく今回は自分のふがいなさを痛感した次第である。でも落ち込んでいても仕方がないので、自分なりに状況を改善する努力をすることにしよう。
 
「反省点」「ふがいなさ」「痛感」「改善する努力」・・今までのことがなかったら、うっかり真に受けてしまいそうな、優等生の真似をする楽山です。しかし、無反省で、言葉だけで、努力というものをした跡が、この3年間、表れたことはないのです。楽山が、否応もなく、楽山の失格を表しています。
 
「状況を改善する努力」という当たり前のことを、全然、してこなかった楽山が、今さら、何をするつもりなのでしょう。楽山には、何を言っても信じてもらえず、相手にされなくなって、独り言だけの日々が待っているとしか思えません。人間で在り続けることから、どんどん、遠くなるでしょう。
 
(ネットより)
イソップ童話のひとつ「オオカミ少年」。「嘘をつく子供」というタイトルでも知られています。ではまずあらすじを簡単に紹介していきましょう。
ある村に、羊飼いの少年が住んでいました。退屈しのぎに「オオカミが来たぞ!」と叫んでみると、大切な羊が襲われたら大変と、大人たちが武器を持って大慌てで飛び出してきます。しかしオオカミはどこいもいません。
大人たちは少年を叱りますが、少年はその後も懲りることなく嘘をついては、慌てる大人たちの姿を見て面白がっていました。
ところがある日、本当にオオカミが現れます。少年は慌てて「オオカミが来たぞ!」と叫びましたが、もう大人たちは誰も彼の言うことを信じてくれません。
結局助けは来ないまま、大切な羊たちは皆オオカミに食べられてしまったのでした。
このあらすじから転じて、「オオカミ少年」という言葉は、嘘をくり返して信用されなくなった人という意味をもつようになりました。
 
まさに、楽山は、ひどい目に遭うまで恐れを知らぬ、嘘吐きの、オオカミ少年の、成れの果てに向かっています。本当に危ない時に、崖っぷちの大事な時に、誰にも助けてもらえない人生です。
 
 
自滅の刃

自滅の刃
 
 
(2021年12月29日)
 
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな君の住む国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の嘘と詭弁と罪と偽善が「人間の性」であるなら、とうに人類は滅びています。楽山の被害者は、おとなしく退いてゆく人ばかりではないと思います。楽山が良心のある人ではないように、この地上には、良心のない人が、いっぱい、います。心からの反省は、そういうこの世を生きるためです。
 
人間でなくなるばかりではなく、人体ですらなくなるような危うい道を、楽山はさまよっているのです。オオカミ少年みたいな楽山が、嘘吐きが嘘吐きに出会うと、サディストがサディストに出会うと、いつか、路地裏に転がり、がけの下に潰れ、海面に膨らんで浮かぶような惨事もあり得るでしょう。
 
 
 
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  的外れの批判 
        by 佐倉哲
 
 
佐倉哲という人のブログですが、楽山に筆致が似ています。既に、聖書のキリストから、人間として生存することについて、癒しと慰めを得ている私としては、取り急ぎコピペした記事について、批判してゆくことにします。
 
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することでした。その結果、わたしはこの主張は間違っているという結論に達しました。つまり、聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。
 
おかしいです。神と聖書の正しさを、人間が完全に理解することは不可能です。そこを弁えないのは、カルトや偽善者ということになります。神聖については、人の側に不完全性定理が成り立つようです。神について、人によって、いるとかいないとか、正しいか否か、などは分からないのです。
 
聖書は、そこから、絶望を希望に変えるような、心を生かす言葉を見つけて共感することであります。それは聖書がなければありえなかったこととして記憶され、聖書と、生きることの間を、何度も往復する動機となります。
 
聖書の記述が間違いだらけであるということは、もし神が正しいことしか語らない<真理の神>であるとすると、聖書は<神の言葉>ではありえないという事を意味します。
 
生かす言葉を見つけられないならば、「聖書は<神の言葉>ではありえない」というような結論に到達することもありえない、ということを意味します。聖書から、心、命、人生を、生かす言葉を見つけられないならば、正しいのは、見つけられないという自らを自覚し、弁えることです。
 
それでも、もしあくまでも聖書は<神の言葉>であると言い張れば、神は<真理の神>ではないということなり、結局、神の言葉そのものが信用できないという、より受け入れ難い事態が帰結することになります。神が<真理の神>であるとすると、どうしても、聖書は<神の言葉>ではない、ということになります。
 
神と神の言葉を、自分で決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。
 
自分にないものを人が持っていることへのジェラシーでしょうか。自分は分かっているから、分からない人へ教えようとする態度だけで書くと、こう言う屁理屈を振り回すようになるという例になるでしょう。この屁理屈も、楽山に似ています。
 
聖書が神の言葉ではないことの証明
前提:神の言葉は正しい。(神の定義より)
事実:聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論:ゆえに、聖書は神の言葉ではない。
 
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという罪が明らかです。また、信仰は、神を判定することではありません。キリストの教えに、生きた言葉を見つけた人は、それを救いとして生きる縁(よすが)にして生きるのです。不躾に神聖を並べて、自分の屁理屈で判定する、・・楽山に似ています。
 
しかし、もしあくまでも「聖書は神の言葉である」と言い張れば、
前提:聖書は神の言葉である。(キリスト教の教理より)
事実:聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論:ゆえに、神は真理の神ではない。
 
歴史の定説と思われたことが、のちに、疑われ、否定されることがあります。過去の事実は証明できませんし、神を証明する事実も否定する事実も証明できません。上の決めつけの理屈、とても、幼稚だと思います。
 
事実をもって、人間の辻褄をもって、否定したつもりになっても、そこには、神についての事実を人が決めつけるという、大きな罪が働いています。これは、信仰だから・・という以前に、成り立たないことです。それを、恥ずかしげもなく根拠みたいに言うのは、分かっていない証拠になります。
 
つまり、「聖書の間違い」シリーズから帰着する結論は、「聖書は神の言葉ではない」か、あるいは(聖書は神の言葉であると言い張るなら)「聖書の神の言うことは信用できない」ということです。
 
激しい短絡と傲慢が働いています。このブロガーは、人間の理路で、あら捜しはしても、救いとなる言葉の実感に到達していないようです。つまり、聖書について、理屈や事実をいじくることはしても、人生の言葉として何も考えていないのです。
 
信仰は、論理や事実によるのではなく、キリストを好きになることであり、神とキリストを矛盾なく正しいと証明することではありません。人間として、生きるために必要な、心に響く言葉が見つからないなら、黙っているべきです。
 
さて、聖書が間違いだらけであるとしても、それで聖書のすべてがでたらめであるということにはなりませんから、たとえば、神が世界を創造し、イエスを救い主として世に送り、彼の犠牲の死によって、彼を信じるものは救われるなどといったキリスト教の中心的教理が間違っていることが、この「聖書の間違い」シリーズから帰結するわけでは、もちろん、ありません。
 
卑怯ですね。救いを見い出せないから、否定しまくっておきながら、間違っていることが・・帰結するわけではない、などと言っても、それは、責任回避であります。このように、神とキリスト教を否定する人は、自らの貧相な理屈を振り回します。信仰を知らない証しなのです。
 
しかしながら、「聖書に書かれていることは全て正しい」という主張が覆されてしまった以上、「聖書に書いてあるから」という理由では、それらキリスト教の教理が真理であることは、もう主張できなくなります。
 
聖書が神の言葉と信じても、全ての正しさを、人間は理解できるわけではないということが、このブロガーは分かっていないようです。人間のインテリジェンスは、信仰と聖書を理解するうえで、超常がどうこう・・といったことについては、全く無力です。私たちは超常に住んでいないからです。
 
聖書が真理の根拠ではありえないことの証明
事実: 聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論1:ゆえに、「聖書に書かれていることはすべて正しい」という主張は間違っている。
結論2:ゆえに、「聖書に書かれているから」という理由は、ある主張が正しいことの根拠にならない。
 
神は絶対であっても、人は絶対ではない、ということが、信仰の弁えです。同格に見て論ずるなら、それに使う時間は、ことごとく、無意味です。つまり、神と聖書が無意味であると、否定することは、そう言った者を、とことん無意味にするでしょう。無駄なことは止めたほうがいいです。
 
(結論1より)
つまり、「聖書の間違い」シリーズから帰着する二つ目の結論は、「イエスは人類の罪のあがないのために犠牲の死をささげた」とか「イエスをキリストと信じるものは救われる」などといったキリスト教のすべての教理は、それらが「聖書に書かれているから」という理由では、真理であることを主張することはできない、ということになります。言い換えれば、聖書は真理の根拠あるいは権威ではあり得ないということです。
 
論理的に書いているように見せかけていますが、現に、キリストを好きになり、生きる縁としている人々への、一方的な侮辱になります。その原因は、「聖書に書かれているから」が、正しさの理由になっているという先入観的な見方が、むしろ批判者側にあるからです。
 
聖書は神の言葉であっても、ゆえに、人の言葉しか持っていない私たちには、完全に理解できるものではないということです。人の理論体系に、神は、納まる御方ではない、という恐れをいだくべきなのです。それを自覚せずに、神そのもの、聖書そのものを、否定することは、傲慢でしかありません。
 
聖書の記述における数字の不一致のような、一見「些細な」矛盾も、したがって、キリスト教の中心的教理の主張とまったく無関係というわけではなく、むしろ、それらの教理を真理であると主張するための重要な、おそらく唯一の、土台そのもの(真理の権威としての聖書)が、その「些細な」誤謬のために崩壊してしまったといえるでしょう。
 
信仰は、数字や理屈の一致に支えられてはいません。矛盾がないから信じているのでもありません。また、教理と、信仰は、違います。教理は、直観に結びつきにくいものですから、さらに、心の癒しにも直接は結び付きにくいものです。教理は、信仰のヒントとなる言葉の集まりに過ぎません。
 
信仰は、キリストの一つの言葉で生まれることもあり、人によっても、状況によっても、違うことがあり、それは、教理や理屈を大きく超えて、救いと癒しというテーマに関わることです。だから、その経験のない人が、通念的な理屈で語る神は、読むに耐えないほど、拙劣なものになるのです。
 
このS氏というブロガーが、批判するべきなのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。既に救われ癒された人の信仰の、神とキリストに向けることは、即、侮辱となるのです。
 
批判対象ブロガーであるブロガー(S氏)は、教会で、教理ばかり信じるように言い聞かされてきて、うんざりして、自分の直感力や理解力を反省もしないで、根こそぎ否定の方向に変えたのでしょうか。深いところを受け取れないのかもしれません。屁理屈の筆致は、楽山に、実に、よく似ています。
 
 
的外れの計算

的外れの計算
 
 
(2021年12月28日)
 
 
 
  選ばれた民
 
キリスト者(クリスチャン)は神によって選ばれた民である
それを否定するつもりはないが
選ばれた、とはどういうことなのか
恵まれた、とも言えるかもしれない
しかしこういう言い方は誤解を招きやすい
選ばれた、とは優劣を意味しない
また特別に善いことをしたから選ばれたわけでもない
キリスト者でなくても優れた人はいるし
また尊敬に値する人格者であり
キリスト教についても知識を持ちながら結局
信仰には無縁なまま一生を終える人もいる
強いて言うなら助けが必要なほど愚かだから
神の憐れみによって選ばれたのかもしれないが
ことさら卑下する必要もないだろう
無理な謙譲は陰湿な思い上がりの住みかである
 
主イエスが弟子として選んだのは
人格や知識の優れたものではなく
多くは無学で愚直でありながら
人間的な感情の豊かな人々のようであるが
詳細は明らかではないはずだ
 
少なくとも選ばれるということは
選ばれる人々の都合によってではなく
秘められた神の都合によって選ばれるのである
 
だから選ばれたことは縁のようなものであって
選ばれた民は異教徒や無宗教の人々を
軽んじてはならず憐れむべきでもない
人の憐れみはしばしば陰湿な軽蔑の住みかである
 
キリスト者はただ神の都合により選ばれた民である
そして父なる神から甘くなさそうな盃を与えられた者である
人間としての喜怒哀楽を経て、離れようとしても
盃の縁のゆえに、たとえ苦くとも
盃の宴に立ち返るほかにない人間をキリスト者という
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書くことはあっても、本当に反省することはないのでしょう。しかし無反省で無理解のまま言葉だけ書いて、それで済む世界は存在しません。
 
楽山は、利用できるものを、無断で好きなだけ利用してきました。しかも、言葉の表面だけだから悪用というべきです。しかし、この記事の屁理屈は、楽山の筆致に、実に、よく似ています。上のS氏も、楽山の成りすましなのでしょうか。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、
アンチが相手でも、冷静に対話ができる人もいる一方で、
アンチはこういう者だと決めつけて、即、拒絶する人もいる。
こういう違いは、一体何が原因なんだろうな。
午後0:06 · 2021年12月26日
 
楽山は、先入観と偏見と妄想で、いつも、「決めつけて」きます。そして、他者の言葉を、都合のよい言葉だけ、都合の良い方向に、引用して、味方が多いように見せかけてきます。一般常識がありません。良心がありません。たくさん成りすましていると思います。
 
楽山には、冷血はあっても、「冷静」はありません。楽山は、正当な対話が出来ません。不快なことや都合の悪いことは無視します。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので、自己中の単方向しか持っていません。それを、丁寧語で、ごまかしているのです。
 
 
 
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  カルトの棄教2
 
 信仰も棄ててしまえばあっけないもの
 https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41557551.html
 楽山のブログ。2019/6/30(日) 午前 10:37
 
 
「信仰も棄ててしまえばあっけない」というのは、keitaという人の言で、佐倉哲という人が引用したものです。二人とも神否定のようです。これを、楽山は、反キリストのサイコパスらしく、キリスト教と神を否定するために引用~悪用しています。加えて、佐倉哲の筆致は、楽山に似ています。
 
(私)
はたして、信仰は、タイトルのようなものでしょうか。絶対の正しさを妄想的に主張するカルトにおいてのみ、あっけない、と言えるのでしょう。
(私)
真の信仰は、関係であり、絆(きずな)であります。神のほうから救いの約束を反故(ほご)にすることはありません。人が救いを拒むことはありますが、あっけなく捨ててしまうことは出来ないと思います。狭き門は、いつも、狭く開いているのです。
(私)
ただ、シャロームのような、悪意が継続するような偽者は、捨てるというより、最初から、信じる気など無くて、自尊の飾りとして言葉だけ「信じている」と言い、中身の乏しさを埋めるかのように、讃美しまくったり、全く成り行きも道理も立場も弁えず、余裕ありげに、振る舞うサイコパスです。
 
・「信仰を棄ててしまえばあっけないものです」 keitaさん
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/n148.html
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。
 
(私)
カルトは、超常を決めつけるところから始まっています。つまり、人間の手に負えないところを、決めつけて信じ込むために、無理が生じます。強く思い込み信じ込むことに、大きなエネルギーの無駄遣いをするのです。
(私)
そのために、上に書いてあるように、何も知らないのに、知っているかのように振る舞う無理があるのです。自然体と書いてあるのは、不完全であることを自覚する人間に戻ることであり、それが必要ですが、楽山は、妄想体とでも言うべき、極めて、犯罪性の高い異常人格です。
(私)
楽山とシャロームは、言葉遣いは、わざとらしく丁寧ですが、徹底して自己中心です。シャロームは神の意志と行為を決めつけて、どんでん返しの奇跡で救われると言い、罪を認めず悔い改めることがありません。
(私)
楽山は、不都合な一切のことを無視して、結局、ボンヤリ言語の曖昧さでしか語れなくなっています。それで、慢心できることこそが異常だと思います。二人は、同一の成りすましかもしれませんし、どちらも、罪悪感のない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。
 
(私)
キリスト教にも、神を思い込んで信じ込んで、神の前で祈りの体裁を整えようとする信仰者もいるかもしれません。間違っていると思います。まるで社交の礼儀のような、神に失礼なことを言わないように整えて善いことばかりを唱えるような立派な祈りゆえに救われるなどということはないと思います。
(私)
誰も、神の前で、立派に物が言えることなどあり得ないからです。それは、聖書の中の、胸を打ち、赦しを乞う取税人の祈りに表れているのです。それがキリストの教えであり、楽山とシャロームは、そこを全く理解していません。それぞれ、反キリストと偽牧師としか言いようがありません。
(私)
何度も言いますが、神の前には、精いっぱいの正直しか通用しません。祈るとき、すでに心を見透かされているのです。したがって、祈りが立派かどうかを神は見ているのではなく、人の信仰の唯一の正しさとして、正直な祈りを、神は待っておられると考えるべきなのです。
(私)
処女懐妊、奇跡、肉体の復活を、起こったと信じ込むことが信仰なのではありません。それらが史実であってもなくても、人間の手には負えないことゆえに、史実と信じ込んでも、人間の心には、固定観念か強迫観念が生まれるだけなのです。正直に、分からないと言うべきです。
(私)
これも何度も言いますが、神の完全と人の不完全を弁え、キリストと人間との交流から、キリストの共感と同伴すなわち愛を知った人間は、人間として生きて成長するために、キリストを忘れることが出来ないから、キリスト者(クリスチャン)なのです。
(私)
これは、いかなる観念でも論理でもなく、キリストの愛に触れて、キリストに惚れること、すなわち、愛によって絆(ほだ)されることです。だから、人間性を超えるものなど、要らないし、むしろ、信仰にとっては邪魔なのです。その超常の奇跡を信じ込んでいるのが偽牧師シャロームです。
 
keitaさんの文章を再読してみたけど、その通りのように思う。
信仰は棄ててしまえばあっけないものだ。
宗教の教え…特にその世界観は、
信じているうちはリアルに感じられるけれども、
信じなければ少しもリアルではなくなる。
そのあっけなさは、驚くほどだ。
 
(私)
楽山は、真の信仰を知らないから、また、自身の完全欲から世界観を欲望しているだけです。たとえ、信仰を捨てたと言っても、真の信仰は、人を捉えて離しません。何故なら、共感に満ちた愛というのは理屈ではないからです。
(私)
捨てても、心のどこかに信仰の思いは残るでしょう。一度、道を外れ、否定したとしても、真面目に信仰を考える人には、また、祈りにおいて、飾ったり、嘘を吐いたりした人にも、再び、罪を悔い改める機会は、いつでも与えられています。それが神の寛容です。
(私)
信仰は、一気に悟る境地ではなく、信仰は、学習し成長するための道です。その旅を支え続けるのは、聖書であり、キリストの共感と、キリストへの共感であり、正直な告白と祈りであります。神聖の辻褄など、地上の人には、理解できるものではありません。
(私)
自分の日常における罪や善悪についてさえ、人は、自分の言動の影響を、影響がなくなる果てまで追うことなど出来はしません。罪と善悪は、時々に、感じることであり、完全に出来ることではないのです。私たちの不完全は、ここに明らかであります。
(私)
あっけないのは、カルトのほうでしょう。カルトは、妄想そして理屈が絡んだだけのものだからです。カルトの場合、それで救われるかどうかは根拠がないために、殆ど、無謀で投機的な賭けの持続になるのです。だから、株券を捨ててしまうと、あっけなく終わるのでしょう。
 
ついでに言えば、これと同じことは、宗教以外のことにも言える。
たとえ自分が、これには意味がある、価値があると信じていることであっても、
そういう思いを取っ払ってしまえば、とたんにそれは無意味、無価値になってしまうものだ。
 
(私)
またまた、楽山の、詭弁というか、壊れた理路の瓦礫です。一般的な話になりますが、信じていることなら、思いを取っ払うことは出来ないはずです。その、出来ない状態の自覚を、信じている状態というのです。楽山は、何も本気で信じていないから「無意味、無価値」という暴言に至ります。
(私)
以前の記事で、運命論肯定のように、自由意志を否定しておきながら、取っ払ってしまえば、などと、信じているものを、自分で取っ払うことが出来るような言い方です。何も持っていないから、「あっけなさは、驚くほどだ」などということを平気で言っているのです。
 
この点、GO!GO!7188の歌詞は、当たってる。
 やり切って やり切って やり切って
 初めて気づいた
 ずっとこだわってたことってよく見るとすごく小っちゃい
 ほんとうにバカみたい笑っちゃう
・飛び跳ねマーチ
曲はこんな感じ(上の歌詞の該当部分)。
・飛び跳ねマーチ/GO!GO!7188
https://youtu.be/crKVjNW-aEg?t=1369
一曲まるごとだとこう。
・飛び跳ねマーチ/GO!GO!7188
https://www.nicovideo.jp/watch/sm20383667
ちなみに、こういう状況の対抗策としては、次のような考え方があるという。
「一切は無意味であるなら、自分で意味を見出せばいいのだ。
一切は無意味であるからこそ、人は何にどのような意味をつけるか自由に決定できるのだ」
意味、価値のあっけなさに気が付いたものの、虚無的にはなりたくない人にとっては、
これは一理ある考え方ではないかと思う。
 
(私)
またまた、恐ろしい脱線です。無意味であるなら、自由に自分で意味を決定できる、と言っています。無意味が本質なら、自分で、捏造してよいということになるのです。つまり、詐欺でよいと言っているのです。愚かすぎます。
(私)
無意味であるなら、というのは、どういう仮定なのでしょう。本質を指して言っているのでしょうか。本質が無意味なら、どこまでも、無意味です。楽山は、何を言っているのでしょう。・・ちょっと、耐えがたいので、発散のため、ひと言、罵詈雑言、吐きます。・・馬鹿か・・
(私)
あとで暴言吐いたと言われそうですが、その通り、暴言吐きました。私の場合、理由と根拠を示してきた批判や意見に対して、相手の無礼なオトボケや無反応が続く場合、ガス抜きすることはあります。暴言ですから罪ですが、楽山のように無視して、やさしさ芝居するよりはましだと思います。
(私)
楽山やシャロームという病質者は、ガス抜きが必要なほどに、何の役にも立たない雑言を、殆ど発作のように繰り返すのです。聞く者の理路を混乱させ、ボンヤリさせて、その深い情緒や理性を破壊するためです。その先には、人格破壊が待っています。どうか、この二人に近づかないでください。
 
 
((コメント欄))
 
(シャローム)
楽山さん こんにちは
記事を読んでふと孫悟空の話を思い出しました。
まちがいかな?
あちこち、飛び回り、ふと気がつくて、どうもまたおなじところに行き着いたようだ。ふと見上げると優しいまなざしに見つめられているのに気づいた。なんと自分があちこち飛び回っていたのはお釈迦様の御手の中で、ぶつかっては止まっていたのはお釈迦様のゆびだったのだと。宗旨替えしたわけではありませんよ。(笑)
2019/6/30(日) 午後 0:38[ shalom ]返信する
 
(私)
確かに、シャロームは、学習も成長も拒否しているので、達しえたところという自覚に安穏として薄笑いを絶やさず、世界の総てが成長を求めて変転していっても、ずっと同じところにいるわけです。御心を決めつけて、これで大丈夫と信じ込む腐った信条の沼に、笑っていられるらしいです。
(私)
孫悟空のストーリーから言うと、どれだけ遠くに飛んだつもりでも、お釈迦様の、手のひらをさえ超えるものではなかった、という、悟空の思い上がりを戒める話だったと思います。つまり、それで、悟空は、絶対者を知り、恐れ、崇めるようになるのでしょう。シャロームとは、真逆です。
(私)
それを、遠く離れても、いつも神は自分の味方、という身勝手な話にすり替えています。自己中心に凝り固まっていまうと、いくら神聖の名を唱えても、余裕の笑いを見せても、こうなってしまうということです。それは、真っ向からの背教であります。
 
(私)
本質を何も弁えず、思想家・宗教家・聖職者のつもりでいるシャロームが、また「(笑)」をつけて、和みのつもりのコメントを入れています。真摯に批判に向き合う信仰の思慮もないので、笑って、和みの嘘芝居しか出来なくなっています。
(私)
シャロームの和みは、嘘を土台として、無条件に、いつでも生まれます。状況を無視して、気安く笑えるのです。現実離れしたカルトというのは、反省がなく、後悔もせず、気楽に、とんでもないことを書いてきます。前に「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」という反キリストです。
(私)
キリスト信仰から宗旨替えしたのではなく、シャロームは、キリスト信仰者ではないのです。シャロームが、いくら、宗旨替えしていないと言って、いくら神を讃美しても、自尊から生まれた信仰?を訂正不能に信じ込んで、罪を認めず、悔い改めをしないのだから、堕落するプロセスでしかいないのです。
 
(私)
楽山とは、自己中心という共通点のために、好意的に付き合っているシャロームです。一人の成りすましの可能性もあります。シャロームと楽山に近づかないでください。キリスト信仰は自己中心とは正反対のところにあります。
(私)
シャロームは、総ての不都合を、楽山と同様に、無視しているから、笑えるのです、というか、笑ってしまうのです。笑っている場合ではないことが8年続いていても、分からないのです。
(私)
シャロームも、楽山も、前にコメントの遣り取りをしたことがありますが、こちらの話を全く理解できず、偏向した仲間ぼめだけを、ぶつけてきました。人間なら分かるはずのことが、分からない、そして、受け取る気がないのです。だから、今では、直接のコメントの遣り取りはしない方針です。
 
(私)
「またおなじところに行き着いたようだ。ふと見上げると優しいまなざしに見つめられているのに気づいた」・・なぜ、シャロームは、こういう白々しいことが書けるのでしょう。楽山と違って、シャロームは、信仰者キャラなので、悟ってるふうを装います。
(私)
戒めの話は、戒めとして、神の救いと守りに結び付いてゆくのですが、シャロームは、戒める神も懲らしめる神も信じていませんから、シャロームにとって神?は、いつも、シャロームの総てを肯定してくれるだけの神?でなければならなくなります。
(私)
シャロームにおいては、戒めの話も、自分が何をしても、神?が、いつも自分を守ってくれる、という都合の良い話に、ほぼ自動的に、変換してしまうのです。これは、妄想であり、カルトであり、悪魔性でしかありません。この神への冒涜は、楽山の言と、よく似ています。
(私)
楽山とシャロームは、嘘を吐いて、だまさないと、尊敬を得られない病質者です。それは、神と人の違いを弁えないで、不正直であり、自己正当化することであり、聖書において、神が最も嫌う人の姿です。キリストによって痛烈に批判されたパリサイ人と同じです。
(私)
真の神は、このような身勝手をゆるしたでしょうか。聖書を読めば、その多くの記事において、明らかなのです。自分で決めつけた聖三位?と信仰?を絶対として慢心し続ける者を、神が赦して信仰の義を与えることは永遠にないということです。
 
 
嘘吐きの魂胆

嘘吐きの魂胆
 
 
(2021年12月27日、再録+)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善と崩壊を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書いても、本当に反省することはないようです。しかし、無反省で無理解のまま、言葉だけ書いて済む世界など存在しないのです。
 
 
 
余談ながら、認めてくれる人がいないので
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三平方(ピタゴラス)の定理の図形による証明
 
 
 
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