ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年01月

 
  想うところに3
     シモーヌ・ヴェイユ
 
 
人には想像する自由がありますが、信仰の本質は、想像ではありません。また、事実でもありません。信仰は、悲しみを知る心に生まれ、いちばん酷い孤独からの解放を与えます。確定は出来ないが、否定できない真実として受け取って、信仰者が生まれます。ゆえに、神秘と呼ばれます。
 
人が想い描く人物像は、人格も含めて想い描いた像ですから、その人ではありません。常にその人の偶像を相手にしているようなものです。想うところに人はいないのです。しかし、人は、想い描かれた人の偶像の間違いを、完全ではないが、ある程度、態度や言動で知ることが出来ます。 
 
人間関係は誤解で成り立っているところがありますが、お互いの偶像を修正しながら、不安定ながら、未知に立ち向かって、良かれ悪しかれ活性化してゆくことが可能です。衝突しても学習が可能だからです。
 
人の像と違って、想い描く神の像の間違いを、導きによって啓示するのが神だという証拠を人は持ち得ません。また、自力で、神と偶像を、完全に区別することも出来ません。聖典を通して学んで、深く知ったと思えば思うほど、神と人との関係は、人にとって、誤解の中にしか存在しないのです。
 
想うところに神はいない。想うところに人はいない。さて想うところに自分はいるであろうか。この問いを尋ねる御方を仰ぎ、祈り、生きる縁(よすが)とすることが、信仰です。しかし、私たちは、答えを、確定的には知りえません。
 
 
神は、いつまでも黙ってはおられない、と思うのですが、私は、時々、失敗しています。学ぶことを新たにする日々にも、折に触れて、癒しをいただきたく存じます。
 
 
シモーヌ・ヴェイユという哲学者がいます。
 
  存在しない神に祈る
 
キリスト者が祈るとき、必ず祈る対象があります。それは神です。神を信じているから、神に祈ります。神はいると信じています。しかし、その祈る対象は、祈るとき常に、祈る人が想い描く神であり、イメージであり、極端な言い方をすれば偶像であります。
 
偶像は神ではありません。人が想い描くイメージの神は実在しない。真の神は偶像でもイメージでもない。ゆえに、信仰は、神を確信することではなく、信仰の心を、唯一の希望にささげることです。
 
シモーヌ・ヴェイユという人の言葉があります。「神に祈る、人々から離れてひそかに祈る、というだけでなく、神は存在しない、と思いつつ祈る。」という。どう受け取ったらよいのでしょう。
 
つまり、このヴェイユが言うように、祈るときにも、祈る相手として想い描いた神のイメージがある。つまり、どう祈っても、祈っている相手がいて、避けられないこととして、それは即ち思い描いたイメージであり、そこに「神は存在しない」・・・が繰り返されます。
 
人は、本当の神を想い描けない。神は人が想い描けるような御方ではない。想い描くところに神はいない・・・これは、真実であります。この真実に背くのは、人が、全能の神を決め付けることになります。
 
現実に祈っている相手としての神の実体を人は知らない。存在しない神に祈りが聞かれるはずはない。しかし、キリスト者は祈る。キリスト者にとって、そこにしか希望はないからであります。
 
しかし、想い描いている神がいなくても、想いの始末を任せる神への信仰は希望として存在します。信仰は、検証できる客観ではなく、信仰者ひとりひとりの必要として生まれてくるものです。
 
神は、人が勝手に想い描くところではなく、人の身勝手を超えたところに、信仰者の生きる縁(よすが)ととして、祈りを聞く主体として存在します。祈りは、孤独が癒やされるところだからです。
 
その神が存在しないとか、人と全く無関係で、人を聴いていないこともまた、証明できません。祈りは確信に支えられてはいません。祈りは、唯一、希望のみに支えられている。正直が癒しに変わるところ、・・世々のキリスト者が証人である。
 
 
(ネットより)
シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ、Simone Weil, 1909年2月3日 - 1943年8月24日)は、フランスの哲学者である。父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。
ヴェイユは第二次世界大戦中に英国アシュフォード(ケント)でほぼ無名のまま客死した(享年34)。戦後、知人に託されていたノート(カイエ)を編集した箴言集『重力と恩寵』が出版され、ベストセラーとなった。その後もあちこちに残されていた膨大な原稿・手紙・ノート類を、知人やヴェイユの思想に感銘を受けたカミュが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は高まり、多言語で翻訳されるようになった。
シモーヌ・ヴエイユ:wiki
 
 
おもうところに神はいない

おもうところに神はいない
 
 
(2010年12月8日)
(2019年03月18日、一部修正)
(2021年01月30日、さらに一部修正)
(2022年01月31日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無神論者、即ち、無神教カルトの信者である楽山は、神の存在を証明することを要求して、それが出来ないから神はいない、という心ない妄想を繰り返します。神の不在も証明できません。そもそも、神の存在も不在も、人が証明することなど決して出来ません。
 
神は超常の存在、人は地上の存在です。その位格の決定的な違いが、楽山には理解も区別もできないのです。それは、楽山が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であるため、自分より高い存在を、全く考えることができない病質人格だからです。
 
楽山が、神とキリストと信仰について何か書くことは、常識的にも、約3年間余り言い続けた嘘と詭弁を、反省し修正した後でなければ成り立ちません。楽山が、厚顔無恥のまま書き続けるあいだ、楽山否定の批判記事が地に積まれ、楽山の背教の証しが天に積まれるだけなのです。
 
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
  絶望から生まれて
 
絶望から生まれてきたものがある
やさしそうな
さびしげな顔をしている
それでいて 安らかな笑みをうかべている
肩の力が抜けてゆく
 
私は眠っているのか
夢を見ているのか
 
何か言いたそうに
こちらを見ている
 
私の体は動かない
夜明けは遠い
 
光は遠いのに
そこにいて
静けさでまわりを包む
存在
 
存在は不安
不安は友だち
君は誰?
 
答えず
話しもしない
ある深夜気づく
そのとき
もう誰もいない
 
ひとり思いがまわっている
君が私を
支えてきたのですか
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をリンクまたはコピペ)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の虚言2
 
 『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』内村鑑三著
 2021年01月23日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の虚言は、そっと懐に滑り込ませるような狡猾さがあります。実際は、総て、反キリストの、作為と悪意の産物です。
 
楽山は、HS批判を、こそこそと、別のブログを立ち上げてするつもりのようです。自らが、批判されていて、それにまったく答えないままで、無反省・無責任に、別のところを批判をする、などということは、正常なら出来ないことです。
 
自身の不都合を無視して、平気で、他者の不都合を批判するところに、訂正不能の異常性が表れています。楽山は、批判している側にいるつもりの自分をよく見せるために、自らが批判の対象であることから読者の目を逸らしたいのでしょう。
 
 
『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、中公の「日本の名著」で一度通読したことがあったが、キリスト教徒となる前の著者は、神社の前を通る度に礼をしていたという話以外は何も覚えていないので、今回は岩波文庫で読み返してみることにした。感想は、以下の通り。
 
新しく信仰者になる前は、違うことを考え、違うことをしているのは、当たり前のことでしょう。しかも、日本という国のあり方も影響していたでしょう。それを、ことさら、「神社の前を通る度に礼をしていた」などと書いてくるのは、揶揄して否定したいからにほかなりません。
 
今日もまた、楽山は、キリスト教の伝道者を侮辱するのだということが、書いたものによって表れています。楽山には、何を言っても無駄だから、引用と批判記事を資料としてゆくことにしています。
 
 
まず一つは自分の教養不足を痛感したということ。本文と訳注を行ったり来たりして読みつつ、自分は聖書、古典、歴史などについて何も知らないことを思い知らされた。反省。
 
そもそも、楽山は、宗教と信仰を知りません。単なる知識不足ではないのです。ゆえに、このような「反省」も、柔和を装うための嘘ということになります。
 
本当に反省するのならば、恥じて書くのをやめているはずです。そのブレーキが、病質のために欠損しているのです。今までもあったことです。同じごまかし方が、今も通用すると思っていること自体が、厚顔無恥というべきことであります。
 
 
二つ目は本書の前半はやや平板だが、中盤以降、米国に渡ってからの文章は勢いがあって迫力があるということ。これは前半よりも中盤以降の方が、葛藤、対立、主張が激しいからだろうが、本書を読んで退屈に感じた人は、いっそ第六章から読む方がいいと思う。
 
このように、反省と書いた後で、乱暴に「第六章から読む方がいい」などと読み方を教えられると思っていることが、反省は嘘だということを示しているのです。惑わされないでください。
 
自己愛が、楽山を、暴走させ、堕落させ、周りを見えなくさせて、既に、久しいのです。どんなに失敗しても、立ち直るのではなく、何も反省せずに同じことを続けることに、自己愛性パーソナリティの闇を感じないではいられません。
 
 
三つ目は著者は信仰対象を日本の神々からキリスト教の神に変えてはいても、熱心な信仰者であることは少しも変わっていないということ。著者は常に全身全霊で何かを信じないではいられない根っからの宗教者なのだろう。
 
神々信仰からキリスト信仰に変わって、信仰者が変わらないということは、信仰というものを、楽山が全く理解していないことが分かります。楽山が言う熱心さは、実に、胡散臭い超常趣味の臭気に満ちたものであることは、今までの楽山の記事から、明らかであります。
 
特徴的に、「熱心な信仰者」という褒め言葉こそ楽山の皮肉に満ちた揶揄への通り道となっています。今までの経過から、誰とも交流も議論も出来ず無反省・無責任のままの楽山の褒め言葉は、全身全霊で悪意と敵意と呪いを隠している姿なのです。
 
つまり、楽山は、無反省と書かれ続けているから、反省と書けばよいじゃろ、という根性で返してくるのです。煽動者・詭弁屋以外の何者でもなく、書いた言葉の大きさに比して、実感の乏しさが目立つだけなのです。「全身全霊」で何かを感じることのない楽山の、理解したふりに、だまされないでください。
 
以前からの、楽山の、マイナスの言葉のあとに、プラスを書けば、プラマイゼロじゃろ、という気安さであり、いい加減さであり、責任回避の言い逃れであり、悪意の軟派カルトなのです。
 
 
四つ目は著者は自分の行動を改める際に、理屈を必要としているということ。他人に援助は求めぬとしていたのを援助を求めることにしたり、牧師にはならないと公言していたにもかかわらず神学校で学ぶことにしたことについて、かくかくしかじかの理由で考えを改めたと説明しているところは、なかなかの理屈屋だ。ちなみに自分もこれと同じで自分の判断にはそれなりの筋の通った説明をつけたい性質ではある。
 
理屈を必要としていたのではなく、理由と動機と根拠を説明しているという当たり前のことでしょう。それを「なかなかの理屈屋」と言ってしまうのは、著者の遍歴をあざ笑っていて、キリスト教の伝道者に対する楽山の揶揄であり悪意なのです。
 
しかも、楽山も同じなどということはありません。説明する者と無視する者との違いであり、楽山は、一度も、当たり前のことをしていません。「自分の判断にはそれなりの筋の通った説明をつけたい性質」・・楽山は、筋の通った説明など、したことはありません。寒気のするような白々しい虚言です。
 
 
以上、本書にはこれ以外にもいろいろなことを考えさせられたが、そのすべてを書くのはすぐには無理なので、とりあえず本稿ではここまでとしたい。
 
総ても、一部も、楽山は書けない人です。書けば、病質が表れ、くずれた文脈の詐欺行為が見られるのみであります。腐敗の病巣が染み込んでいる楽山が放った矢は、故意か体質かの、悪意として、いつも、独特の悪臭を放つことになります。放置すれば、そこに、新たな病巣を作るでしょう。
 
真面目なふりをしているだけです。分かったような顔と丁寧語です。得々と語っても、楽山という偽善者には説得力のある中身がありません。書いて気取りたいだけの時間と文字数の無駄です。批判する目的ではなく楽山を読むことは、その分、時間をペテン師に吸い取られるような者です。
 
 
敗北の反動

敗北の反動
 
(ここは、とても易しく優しいオセロゲームのサイト。
  ゲーム苦手の年寄りには軽い気晴らしです。)
 
 
(2021年01月27日、同日一部修正)
(2022年01月30日、再録+加筆)
 
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
  あの夜と病
 
幼いころ
母と汽車の旅
窓から見た
蒸気機関車の
機関室から吹き出す炎
あの夜とともに
 
母の背にいた
幼い頃ではなく
小学生の私がいた
痛くて足が動かなかった
 
癒えていた確かに
進学し就職した
それだけで孝行息子と
恵まれていると喜んでくれた父と母
 
確かに
耳の遠くなった父母に
今更の病は信じられないことだ
私も詳しく説明はできない
でも追い越し
やがて遮るだろう
 
この類(たぐい)は
自業自得のようでもあり
誰も責めようがない
親不孝に親不孝を重ねて
むしろ恥ずかしい
 
勝ったつもりか病よ
だがお前と私が同じ体にいる以上
お前も恥ずかしい代物(しろもの)だ
私が最後に意識を失うまで
勝負だ 言っておくが
私の恥は
お前の憎々しい喜びほど
軽くはない
 
消してみよ
あの夜を
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘吐きは、実でも真でもなく、虚を生きることになるので、結局は、自分を失ってゆきます。自分の、善悪、真偽、美醜が、混乱して分からなくなります。代わりに、だますことだけが残り、だますという虚偽の煙幕の満悦のうちのみに存在して、何も、良いものを追い求めることが出来なくなるのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 

http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  3つの聖句(二つの聖句3)
 
 二つの聖句 2020-01-19 00:05:05、再録+
 
 
キリスト信仰は、行為義認ではなく、信仰義認です。そして、信仰とは、神の前に、すなわち、祈りにおいて、精いっぱい、正直であることです。それが、神の存在を人が認めることであり、神の前に、それ以上のことを人は為しえません。すなわち、救われる必要十分条件であります。
 
キリスト信仰を、安い道徳に貶めないために、おさらいになりますが、大切な2つの聖句について。
 
 
聖書の犯罪人の話です。磔刑という死刑ですから、殺人犯なのでしょうか。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
23:39
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
23:40-42
もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
 (ルカ23:39-43、新約聖書)
 
聖書の中にも、行いを重視する聖句はあります。しかし、行いは、信仰の中心ではありません。十字架上の犯罪人は、何か善行を施したから救われたのでしょうか、否です。これから肉体が死ぬという時、恐らく地上では最後の、そして、唯一の、正直な告白のみによって救われたのです。
 
 
次は、教えを守ってきたという自信のある金持ちの青年についての聖句です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18-19
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:16-22、新約聖書)
 
「よいかたはただひとりだけ」なのです。いかなる人の善行も、神に比べれば、遠く及ばないのです。善の完全なるは、ただ御一方、神のみであります。言うまでもないことです。なぜ、人は、神の善までを欲望し、敬虔を忘れて自慢したがり、完全などという大それたものを欲しがるのでしょう。
 
キリストは、青年に尋ねられて、戒めを守ることを告げるのですが、そのあとの、青年の言葉「みな守ってきました」という言葉に対して、ただ単に、謙遜せよ、という意味で戒めているのではありません。完全に守れる者など一人もいないからです。
 
人は、神の前で、決して、分かっている、守っている、見える、と言うことは出来ないのです。これらは、完全なる神聖だけに通用する言葉だからです。青年は、やや自慢げに、永遠と完全を欲しがりました。それは、神のみの持ち物です。
 
その証拠に、21節では、キリストは、青年の不備を見抜いているかのように、「完全になりたいと思うなら」と言って、青年が守れない教えを告げました。恐らく、キリストは、青年のうちに、完全欲と慢心があることを見抜いたのだろうと思います。
 
完全は、神だけのものです。そして、キリストは、命をもって、それを成し遂げました。キリストは、青年に、社会通念的な道徳の善ではなく、神の完全な正義のことを話したのです。それは、人間が、ふつうの善行によって出来ることではないからです。
 
青年は、"悲しみながら" 立ち去りました。ここは大事なところです。青年のその後は書かれていないと思いますが、パリサイ人のように否定されたわけではありません。パリサイ人のように、批判されるとキリストを殺そうと企む者たちは、悲しむことがなく、怒りと憎しみを返すしかなかったということです。
 
青年は、パリサイ人とは違います。なんとなくですが、キリストの、悲しみながら去る青年の、信仰の成長を期待しているような温かい眼差しを感じます。ここで、短い引用ですが、
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
(ネットより)
マタイによる福音書 5:28 新共同訳
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
この聖句を、完全になりたいと思うなら、これを守れるか、と考えてみると、この心の中の姦淫の罪を犯さない者はいない、すなわち、完全な者は、罪なき者は、一人もいない、ということが分かってくるでしょう。これは、人間という存在に着いてまわる不可避の欲望、つまり、原罪だからです。
 
そういう教えとして受け取らないと、この聖句は、できるだけ守ればいい、という安い道徳に堕してしまいます。そう解釈している者もいるようです。新共同訳の、キリスト教を、安い道徳におとしめようとする、「女」→「他人の妻」→「不倫の戒め」という誤訳の罪は、非常に大きいのです。
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、受け取る私たちは人間の言葉しか知らないのです。受け取るたびに誤解しているのかもしれません。ゆえに、成長可能な解釈そして解説と、成長可能な信仰の心が必要です。信仰を通念的道徳におとしめる者は、訳と解釈に加わるべきではありません。
 
神の言葉を、目覚めにつながらない安易な道徳律に書き換える者は、既に、偽善者、背教者、反キリストと言われる罪を犯しています。聖書を無力にしようという企みの集団でもいるのだろうか・・とさえ思ってしまいます。闇を照らす光を、誰でも知っている道徳に変えてはいけません。
 
人間の真実として、あるいは、むしろ救いとして、文字通りではなく、妄想でもなく、真実として響くものを追求する歩みに、そして、人間の成長に、少なくとも終末まで、終わりはないのです。こう書いておけば無難だろうという、ぬるい気持ちで解釈して改める気もないなら、悪魔の所業と言わざるを得ません。
 
神と違って、人間である信仰者は、不完全で罪深いという自覚ゆえに、信仰に救いを求めて、神に祈ります。それは、過ちを犯しても、絶望することなく、立ち直って生き続けることを可能にします。決して、不倫はいけません、あるいは、どうすれば正しい・・という単純さで、まとめることなど出来ません。
 
信仰は道であります。決して不変の境地ではありません。洗礼は、人から神への導きを乞う祈りの形式であります。決して信仰の保証でも生命保険でもありません。信仰者も罪を犯します。上の新共同訳に、その典型を見ています。
 
 
闇を照らす光

闇を照らす光
 
 
(2020年01月19日、同日一部修正)
(2021年01月27日、再録+)
(2022年01月29日、再録+加筆)
 
 
 
  寒い目覚め
 
悪い夢から
目覚めてみれば
もっと辛い世界でした
外は明るく
人の働く音がして
車の音がして
ときおり方言めいた声がして
働く音がして
トントンカンカンと
楽ではないはずの力仕事の音を
支えている元気は何だろうと思いながら
いっそもう一度眠りについて
夢の中に目覚めたい
でも覚めるから夢
覚めない夢に落ちたら
それが地獄というものなのでしょう
 
冬の寒さの中に起きてみようかと
求められてもいない
人の間に
砂の顔を滑らせながら
もう少し
人間の声の匂いを求めてみようかと
誰にも説明できない痛みを
雪解けの冷たさに隠しながら
 
 
  祈り・目覚め
 
また嫌なものを見てしまった
という気分で目が覚める
まだ生きてるの 頑張るねー
という呟きで自嘲する 
それでも
最後の眠りが未だ訪れていないように
生きるための一番大切な目覚めは
まだなのですから
欲しがっていてもいいですか
目覚め
欲しがるだけで終わりそうですけれど・・
 
まるで神様に保証を求めているようだな
と呟いてまた自嘲して
人目をできるだけ避ける暮らしでも
人々の間に自らを曝してゆく
見られる嫌なものになって
去らせてゆく
 
 
  螺旋階段
 
狭く細い螺旋階段では
休む場所がない
安らぐ場所がない
踊り場もない
動く気もしない
下に何があったか覚えていない
上に何を求めていたか忘れた
上れば息が上がる死にそうだ
下れば転ぶ落ちそうだ
どちらにしても目が回る
動く気にもならない
狭く細い一日の
中途にいつも立たされることになるのだが
不安な未知に向かって
這ってでも上る人は多くても
飛び下りる人は稀であり
なぜかその稀な人のほうが
気になって気になって仕方がないから
上ろうともせず下ろうともせず
動かないのに目を回している昨今
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
ペテン師の楽山には、何の魅力もありません。ネトウヨで、インテリ気取りで、軽薄な自己顕示欲だけのブロガーで、無反省、無責任、無神経の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、見るべき価値は皆無です。正常の議論が、楽山には出来ません。学習機能がないからです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の神?の光?
 
 『潜在能力点火法』三木野吉著
 2022年01月26日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/31900998.html
 
 
これが、楽山の正体、楽山の生業、楽山の無知と無恥、楽山の嘘と詭弁と誘導、という、鼻曲がりの詐欺へ向かう開き直りなのでしょうか。悪臭、吐き気、厚顔無恥の、ペテン師、詐欺師、偽インテリ、腐ったアドバイザー、・・決して、楽山に関わってはいけません。
 
 
*概要
スピリチュアル関連の書籍を読んでいると、「神の光」という言葉を目にすることは少なくないが、残念ながら、それがどのようなものであるか、どうしたら見ることができるかなどの説明はされないことが殆どである。
 
無神論つまり無神教というカルトの記事を紹介し、自らも神否定の信者である楽山が、「神の光」などと言ってきました。このような記事が通ると思っているのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の人格が崩れ出してきたのかもしれません。
 
 
本書はこの神の光をテーマとしたものであり、その特性、種別、人の心との関係…などを説明している。神の光を見ることについては具体的な実践方法を明らかにしてもいる。
 
楽山の、打って変わって超常神霊心霊肯定、そして「具体的な実践方法」だそうです。平気で「神の光」と書いてくるところが、恐れを知らぬ厚顔無恥であり、既に、狂気へと誘導する精神、つまり、良心のない、高等感情のない、元々思慮など持ち合わせていない、サイコパス(精神病質)の症状なのです。
 
 
これについては「書いてあることを、その儘、鵜呑みにして、実行して見て下さい」(まえがき)という言葉から、著者の自信のほどがうかがえ、頼もしくもある。この点、本書は神の光に興味があり、かつ実践家にとっては一読の価値ありと思う。
 
「その儘、鵜呑みにして、実行して見てください」「著者の自信のほどがうかがえ、頼もしく」「一読の価値あり」・・ペテン臭とカルト臭がプンプンします。楽山は、こういう怪しいところの宣伝をしてきたのでしょうか。楽山は、光を闇に変え、悪を添加し、売買する人です。嘘と詭弁のカルト宣伝虫です。
 
 
*光の体験
(以下には、本書の実践方法を試した結果について書くことにする。ただしこれには個人的なことを多く含むのでプライベートモードとしておきたい。失礼)これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。
 
あなたにだけ、そっと教えますよ・・という、だまし文句のモードに入っています。詐欺の手口、カルトの手口であり、楽山の本性が、尿便失禁のように、悪臭を放っています。つまり、本来、そういう人であり、それで飯を食ってきたのでしょう。人をだまして、エヘヘと失禁して、笑っているのです。
 
以前から、プラスを言い、マイナスを言い、断定していないから、責任問題は生じない、などという詭弁で、スットボケて書いてきたのが、楽山です。精神がバラバラなのです。自分の言ってることに責任が持てない病質です。どうか、相手にしないでください。
 
バレた詐欺師の末路、醜い素顔のあぶら汗、失禁に気づかない神経麻痺の思考破綻、節操を失う人格崩壊、今までのことを、"まるで記憶にございません" 精神~論法~商法、・・・決して近づいてはいけません。楽山の神は闇、光は怒り、点火法は喧嘩法、潜在能力は顕在無能力です。誰の助けにもなりません。
 
「神の光」で検索してみたら「末日聖徒イエス・キリスト教会」と・・モルモン教でしょうか。渡辺泰男(ペンネーム三木野吉)ともあります。いずれにしても、カルトだと思います。楽山は、お構いなしに何でもダシに使います。こういう邪教やカルト狙いは、楽山がアンチでないことを証明しています。
 
 
虚言の末路

虚言の末路
 
 
(2022年01月28日)
 
 
 
  末路に立つ
 
人が生きている
と言えるほどに
私は生きているだろうか
人が死んだ
と言えるほどに
私は日々死につつあることに
気づいているだろうか
 
何という末路に立って
情の絡みをほどこうとしている
 
舌の痺れか
目の回転か
手足の不随意か
肉体は常同の仕草で
ところかまわず真似続けるのだ
人が生きている
と言えるほどに
私に殺すべきものがあったかどうか
 
 
  歯痛
 
日ごと歯を穿(うが)つ痛みは
怒りの硬い礫(つぶて)を
脳天に飛ばしながら
歯肉の腫脹と圧痛を伴ってくる
 
鎮痛剤とペニシリンを服用して
治まるのも束の間
しばしば突如として
片側だけから唾液の流出を伴って
口を開けたまま動かせないほどの
強直性の神経の電撃を齎(もたら)す
 
(歯科へ行け)
 
齲歯(うし)は暫く痛み暫く痛まず
を繰り返しながら進行し
歯根から顎骨へ骨髄炎の末路
敗血への道標となる
 
あの時ああしておけば
と再燃と緩解を繰り返す痛み
を発して傷み続け
毒に内臓が侵されるころ
堕落だ
敗れた
血は汚(けが)れた
と観念して果てるまで
何か道具でも持っていたら
引き抜いてしまいたいのが悔いである
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
>(再録?)
★こも/楽山日記3
@komo266
これは悲惨すぎる(口を開けて冷や汗をかいた顔)
引用ツイート
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
自己愛性のモラハラ者は、自分こそが良識人であるという顔をし、気づくと、こちらが≪悪者≫にされていることさえある。
午前9:31 · 2022年1月23日·Twitter Web App
 
楽山からのハラスメントは、常識と情感の欠如がどれほど明らかになっても、獣皮のような面構えで、真っ黒な鼻をほじりながら、良識人の仮面をかぶり、何事も無かったかのように、白々しく、嘘を吐いて人をだまし続けてしまうところの、罪悪感が全く欠如したサイコパスの末路なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
陰を好む害虫が、毒で飼い主を殺して、くちゃくちゃとその肉を、おいしそうに食べるような、一滴の恩情も持ち合わせていない楽山に、またしても、だまし心が生えてきて、今回は、分かりやすく詐欺師の正体を表しています。平気で嘘を吐き、オレオレと言いそうな、楽山の生業なのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山は無神教徒
 
 
楽山が引用してきた無神論は、「神の不在は証明できない」に対して「神の存在は証明できない」ことをもって「神が存在する根拠を示せ」と言い、「根拠が無いから神は存在しない」という結論のようです。しかし、神が存在する根拠があるなら証明されたのだから、信じる必要はないのです。
 
人間に存在の根拠を示すことが出来るような、人間の論理で証明できるような、安っぽい捏造の神?は、巷にも、そして、キリスト教内部にも、溢れているような気がしますが、それは、キリスト教とキリスト信仰の神とは、全く違う様態のカルトの神?であります。
 
さらに、神を、人の論理で扱えると思うこと自体、人の傲慢であり、その時点で、無神論は、論理の破綻をきたしています。不完全な人が、完全な神を、理屈で扱い、その在か不在かを語るなら、それは、捏造した神?であって、どちらを証明しても、聖書に表された神とは全く違うものです。
 
無神論は、成り立ちませんが、同様に、有神論も、成り立たず、神の存在を証明することなど出来ません。人の論理で、神は存在したり、しなかったりする御方ではありません。つまり、信じる人にとってだけ、神に対する信仰と、その弁えが推測されるのです。信仰の邪魔をしないでいただきたい。
 
タイトルに、無神教徒と書いたのは、神はいないという乱暴な信仰を持つ集団ということです。言い返れば、無神教?の信者ということです。その間違った思い込みは、カルトに負けないくらい、憎しみを伴って強く確信されているようです。無神論は、楽山の怨念を表していると思います。
 
そして、無神教徒は、理屈のようなことを言ってきますが、人の理屈で語ることが、そもそも、神については成り立たないということです。聖書を、ベースにおいて取り違えて、誤解し曲解した結果なのです。加えて、楽山の記事から察するに、その曲解の程度は、カルトに勝るとも劣らない頑迷なものです。
 
無神教徒が、神を批判するなら、神に代わる救いを提示する責任がありますが、いくら理屈を整えたとしても、信仰に代わるような福音にはなりません。辻褄合わせをしても、癒しにも、慰めにも、救いにも、愛にも、共感に、至ることはないでしょう。彼らによって誰も救われることはないのです。
 
 
信仰の根拠は、論理や史実の整合性にあるのではなく、共感と癒しとにあります。つまり、理屈ではありません。人間に、人間らしい温もりと潤いを与えるのが信仰です。キリスト信仰者は、神という存在が整っているから信じるのではありません。神の整合性を人は知りません。
 
信じるに足るものなど、この地上に在るとは思えなくなった人にとって、聖書の、キリストからの共感に、人として、キリストへの共感に至ったから信じる、という言い方のほうがマシでしょう。聖書を読めば、キリストは、洞察力と共感性に溢れた御方であります。
 
旧約聖書の神の業(わざ)や、新約聖書のキリストの奇跡のうち、物や肉体への奇跡は、超常現象であり、超常を、人の日常が理解するのは、理解の実感が伴わないので不可能です、物や肉体の奇跡は、信仰に直接つながる実感を表してはいません。現代、次々に起こっているとも思えません。
 
ゆえに、聖書に書いてある超常の奇跡については、"分からない" と答えるほかはないのです。分かるのは、人間性によって受け取ることの出来るもの、つまり、人間として共感できることだけです。超常は人間には分からない、これが正直な信仰告白のベースであります。
 
物や肉体の奇跡によって信じ込むのは、非現実を信じ込むことになり、陶酔気分から、ありがたや宗教になって、現実を疎かにする危険があります。分からないことは、神に向かっても、人に向かっても、分からないというのが正直なのです。それで信仰を捨てるなら、元々信仰があったのかが疑問です。
 
キリストによって与えられる癒しと慰めは、現実にあって、避け所として、祈りの時と場を与えます。それは、自動的に続くものではなく、折々の祈りによって、絶対孤独からの解放として与えられるものです。祈りを受け取る神は、聖書の言う永遠不変と信じるゆえの祈りです。
 
神の属性である、全知全能・絶対完全・永遠不変は、どれも、人には手に負えないものばかりです。しかし、手に負えないことがあると知ることで、人間としての不完全、即ち、罪の性質を知ることになるので、神の怒りや裁きの話と同様に、信仰の弁えとして大事なことです。
 
 
背く 明暗

背く 明暗
 
 
(2022年01月27日)
 
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無神教徒になる人には、キリスト教の先入観に対する反発があるのかもしれません。あるいは、クリスチャンの家庭環境からの誤った押し付けに対する反発もあるのかもしれませんが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、反省力や罪悪感が育たないこともあるでしょう。
 
あざ笑いと怒りに生きる病質には、悔い改める、ということが、理解できないのかもしれません。ゆえに、嘘を吐き、詭弁を弄し、それが通用すると、万能感が生まれ、芝居をするようになり、不祥事にも「反省。とほほ」などと言って、気安い嘘の手当てが通用すると勘違いするのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ