ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年01月

 
  この俺が説教か
 
 
映画「ロッキー」
 
夜中に通りをうろついている子供に、ロッキーが「夜遊びするな、家に帰って勉強しろ」とか説教めいたことを言う。子供が大声でメチャクチャ悪たれ口を返して逃げてゆきます。それに対してロッキーが言った台詞。このやろうと怒って追いかけるかと思ったら、
 
「この俺が説教か・・」と自嘲するのです。
 
私は感動しました。自分を低くできる人は幸いです。
 
 
 自嘲
 
この俺が説教か
フッ・・と
自分を笑える人は幸いです
 
思いを述べるだけなら
人の欲求として当然であり
そっと差し出す気持ちがあれば
好ましいこともあります
 
しかし
自分の言うことが人のためになる
という訂正不能な
使命感さえ持ってしまうことがあって
それは結局
人が自分と同様になることが望ましい
という判断を繰り返すことになると気づかないまま
自分と異なるものを悪と見なして排除し
狂わせてゆきます
 
しっかりすることを岩石と勘違いし
うわべだけ柔和なことを語っているつもりだが
真面目でも自由に発言したら
お利口になれないのです
言動において既に横暴なのですから
 
何かを崇(あが)めることが
ときには人間性を失わせることがある
という例なのです
 
そういう人は
誰かが忠告しても無駄なようです
染み付いているからです
欠点ならば自覚も可能ですが
染み付いたものは自覚されにくいようです
だから「染み付いた」というのでしょう
 
そういう人に限って何度でも
救われた導かれたと
たやすく立ち直る特性を持っていて
過ちを正さず
同じ過ちを繰り返すことになるのです
 
この俺が説教か
フッ・・と
自分を笑える人は幸いです
 
 
低き身ゆえに 真実

低き身ゆえに 真実
 
 
(2011年06月30日)
(2011年07月01日、若干修正)
(2022年01月26日、再録+加筆)
 
自分の言うことが人のためになると思っていないか、少し思っていることがあるかもしれません。反省と自戒のない信仰は、無意味以上に有害です。
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに割れて
中央は欠損していた
 
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー
まあ、大昔、失恋の傷・・
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
誰が神を
神と名付けたか
誰がやさしい父を呼ぶように
神を呼んだか
流された夥しい血を
皿の上の相づちで受けながら
誰が気安く許される
罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」と一般化して自己正当化しようとする楽山の詭弁です。反省しない、責任を負わない、このような無責任言動は、「人間の性」ではなく、個人、即ち、楽山の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によるもので、病質であり、決して人間共通の罪で正当化は出来ません。
 
 
 
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  信仰の反例
 
  より
 
キリスト信仰の、曲解のパターンをあげてみます。
 
1.悟りを得たかのような平安の薄笑み
 
イメージと雰囲気に陶酔する信仰です。信仰の初期に見られやすいものですが、そこで固定してしまうと、うわべだけ安らかな気分で、中身の罪深さを隠すようになり、偽善の方向へ向かいます。
 
2.いかにも敬虔?という控えめな態度、世辞、褒め言葉、批判禁忌
 
信仰は、控えめになることだという短絡です。丁寧語や世辞を言うようになり、偽善に偽善を返すことになるなら、自らが偽善者になってしまう可能性があります。信仰は、社交ではありません。信仰に基づく人間としての優しさや柔和は、社交ではありません。
 
3.この世を敵とするような剣幕の豪語
 
自分は信仰者だから救われ、あいつらは信仰がないから滅ぼされる、という、復讐心の信じ込みです。ルサンチマン(負け犬根性)とも言います。ざまあみろ信仰、いまにみていろ信仰です。
 
4.信仰の弱者に怒り、弱者を笑う偽善
 
弱気な人を信仰が薄いと思い、上から責めたり、軽蔑したりする心性です。それぞれ個人は、できることをして正直に祈り、結果を神に任せるのです。できることの質も量も異なると自覚するべきです。批判することはあっても、最終的に裁くのは神だけです。
 
5.何でもうまくいく、御心が導くから、という決めつけ
 
御心の深淵を、人は知り得ません。自分のしていることが正しいかどうかの結果は、神に委ねるのです。人が勝手に、神の意志と行為を決めつけてはいけません。
 
6.どんな不幸も、喜んで受けろというのか、という疑問
 
神の計画を、人は、詳細には知り得ません。不幸も試練ですが、外見的に、ハッピーエンドとなるかどうかは分かりません。殉教を思えば、最終的な裁きは、神に任せられています。全部が、この地上で、自分に分かるわけではなく、神に任せるという自覚が、神の民としての信仰であります。
 
7.信仰の戒めを守って完全になれる
 
このような信条は、神の完全を自分のものにしたいという傲慢であり、殆どパリサイ人です。信仰は、神のごとく完全になるためではありません。信仰を支えるのは、欲望や野望の成就ではなく、キリストの共感によって結ばれた絆(きずな)であります。地上で完全になる人はいません。
 
 
共感に導かれ運ばれる

共感に導かれ運ばれる
 
 
(2022年01月25日)
 
 
 
  漕いでみます
 
広さを狭さを
高さを低さを
長さを幅を奥行きを
空気を漕いでいます
少しも進みません
わかっているのです
当たり前のことだと
 
時間を漕いでいます
加速も減速もしません
進んでいる感触もありません
 
いや実は感じることがあるのです
ときに呆然とするほどに
でも大方それらは意に反していて
わかっているのです当たり前のことだと
何を為すところもなく
何を為すときもないまま
無為に過ごせば
経過においては
永遠のように長く苦しく
結果においては
まるで無かったかのように空しい
 
だから横になったり
坐ったり立ったりしながら
空しく且つ無いものを
もうしばらく漕いでみます
 
自分を漕ぐことが
当たり前のように進ませることが
できないから
 
 
  浴びる光
 
弱々しい光を浴びながら
待宵(まつよい)の影が
命の帰趨(きすう)へ落とす
一滴(ひとしずく)の収斂(しゅうれん)でもよく
 
弱々しい光を浴びながら
夜明けの朝靄(あさもや)が
次第の熱に命を捨てるように
霧散し発散するのでもよい
 
いつの日か時空と呼べる光の場が
いかに虚妄であっても構いはしない
 
真っ直ぐに進もうとしても
強い力には引かれて曲がり
手に取られ守られることはなく
逆に手を囲み
その脆(もろ)さを教え
水に取られても
吸収する何ものもなく
逆に吸収され減衰しながら
 
幾たびも屈折し
幾たびも反射して
しばしば陰り隠されそうになりながら
衰える光は
衰える光を浴びている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、小理屈を振り回して、相手が弱ってゆくのが快感だったのでしょう。それで自分を確認して、一生うまくいくとでも思ったのでしょうか。実際は、嘘と詭弁で、だましてきたのですから、告発され、どこに出ても恥ずかしいペテン師になってきたわけです。反省せずに正しい人は、いません。
 
 
 
 「幸福の科学」の勝訴(宏洋敗訴)
 幸福の科学とは何だろう?2022年01月22日
 
争点となった発言について、HS側の動画では説明されているが、こちらの動画では、3年前の動画のことだから忘れた、どーでもいいとして具体的に話す気はないようだ。ここはすごく対照的である。
 
「忘れた、どーでもいい」精神も、他者の意見を、ことごとく無視できる心性というより病質も、具体的に、あるいは、真剣に、話す気がないことも、楽山に、特徴的に見られることです。他者のことを悪く言えば、その悪さが、楽山自身に、最もよく当てはまる、つまり、ブーメランです。
 
しかも
宏洋氏は、訴訟を起こしたそうだ
では、
「ちなみに、自分はこの動画を見て、宏洋氏は愛と正義の人だなと思ってしまった。」と言っていた楽山が、上では、あら捜しをしているのです。いかに、楽山が、人を見る目も、さらに自分を見る目も、いい加減であるかということが分かる文章です。書けば、みすぼらしい自分を表してしまうブーメランです。
 
 
 
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  厚顔無恥3
 
 
 私の記事「Rose Garden」コメント欄
 コメント者:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
偽善者・偽クリスチャン・偽牧師のシャロームが、凄まじい詭弁で言い逃れをしている、という過去記事を、加筆修正して再録します。偽善者の典型が表れています。"名無し"からの荒らしコメントです。シャロームの開き直りです。
 
私が既に言って、反論も弁明も出来なかったのに、また、書いてきます。荒らしは"猫かぶり"です。宗教家に成りすました、恐らく、シャロームが、自分で、そう名乗っています。呆れます。あとで、何か言われたとき、自分じゃないよと、とぼけるためでしょうか。
 
1. 所在不明の名無しの猫かぶりです
 2020年01月21日 10:50
st5402さん おはようございます
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。
 
シャローム、名前を書きなさい。卑怯者め。
 
何を赦すというのでしょう。罪を認めて告白するから、赦されるのです。認めてもいない罪は、赦しようがありません。あなたの都合に合わせて、神が、告白もしない罪を赦す、などということは、決してありません。嘘吐き、偽善者、ペテン師の、シャロームです。
 
人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。
 
「血潮に罪贖われ」などと、かっこつけても無駄です。前にも言ったことを、また繰り返す愚は、そのまま、ネットの疲労物質としてのあなたの悪意です。どんな罪でも、甘々の自己中心に受容して気にしないシャロームです。信仰者が求めるのは、神に、罪を赦され、生きることを諦めないことであります。
 
自分信仰者の偽牧師シャロームの、汚い詭弁は、その罪を隠そうとして、隠せず、かつ、自己満悦に至って、人間とは思えないほどの、醜いイメージとともに、脂汗の不潔であり、もはや永遠に、神に受け入れられることはないのです。
 
使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。
 
これも、前に、私が書いたこと。あなたシャロームが悔い改めないでいるのは、神の慈愛も受け取らず、悔い改めもしていない、という、あなたが信仰に関する何ものも受け取っていないことの証明です。言い換えれば、シャロームは、導かれていないか、導きを拒んでいるかであることを、自ら、表しています。
 
初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。
 
"すべてはよかった" を、自己正当化して、悪質な言説におとしめているのが、あなたシャロームです。つまり、シャロームは、「すべてよかった」・・には含まれていないということです。シャロームは、人の自由意志を、神の御心とは、まるで逆方向に使っているのです。すごい詭弁です。
 
"すべてはよかった" は、天地創造の話です。被造物は、よかったと言っても、すぐ堕落の話になるわけです。その典型であるシャロームが、よかったことは、ないと思います。さらに、"人は指一本もなしうることはありませんでした" で、自分は何もしなくていい・・にはならないのです。すごい詭弁です。
 
この聖句にしがみついている醜さが、あなたシャロームです。すべてがよかった、だから、悔い改めない自分もよい、これが、あなたのエゴから出た詭弁です。自分の都合に合わせて、聖書解釈を捏造する、あなたシャロームの悪意と反キリスト全開。
 
使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?
 
実に、ふざけた皮肉を書いています。シャロームの、自分のほうが上で、私が下だと言いたいがための醜い文言です。私は、学者ではないし聖書も完璧に読んではいません。しかし、シャロームが、聖書を読んでいるとは、少しも思えません。
 
誇大妄想に聖書を悪用しているだけです。この皮肉によって、シャロームの悪意は明らかでしょう。さらに、シャロームが聖書をまともに読んでいるなら、今の悪意も、今までの偽善も、なかったはずなのです。シャロームは、自らの悪意を、自ら証明しています。楽山と、同一か、同じ体質だからです。
 
前に私は書いています。聖句は検索すればよいと。あなたは、本当に、人の言うこと、聞いてないですね。記憶障害でしょうか、認知症その他の精神障害でしょうか、否、知ったかぶりの傲慢からの悪意です。それで気持ちがいいのでしょうか、それが自己愛性人格障害の悪魔性です。
 
あなたシャロームは、わずかばかりの聖書の知識さえ、人をおとしめる道具にするのです。そういう性質しか持たないのでしょう。これも、あなたシャロームの罪と偽善に対して与えられる報いなのでしょう。明らかなのは、聖書を読んでも、何も受け取らない楽山とシャロームという悪意の者がいるということです。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:15-16
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
 (ヤコブ1:15-16、新約聖書)
 
これが、あなたシャロームです。そして
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:17-18
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
 (ヤコブ1:17-18、新約聖書)
 
私は、神について、全知全能、絶対完全、永遠不変、と書いています。シャロームは、何を勘違いしているのでしょう。絶対言葉を理解できなくても、神は恐るべし、ということです。それを、全く恐れず、悪だくみに利用しているのが、あなたシャロームです。
 
「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり
 
あなたシャロームは、聖書のキリストに聞こうとしません。また、あなたは、人の言うことを聞こうともしません。あまりにも、哀れな、くずれようです。それでも、分かっているかのように、教えようとします。あなたは、あなた自身の言論失禁の惨状に、もはや気づかなくなっています。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14-17、新約聖書)
 
楽山は詭弁が、シャロームは偽信条がバレています。書いてくるのは、罪を感じないからなのです。一切、無駄なのです。もうバレてしまったのです。だから、聖句をいくら引用しても、発言しても、他者を引用しても、楽山とシャロームの穴だらけのパンツが臭く濡れてゆくだけなのです。
 
 
私たち人間は、人格的な知性と感性から交わりを持つことしか出来ません。神聖を、自分に当てはめたり、なぞらえたりすることは、神に対する大罪であります。神聖は神のみのものです。したがって、神聖を分かってるふうに上から教えようとするシャロームは、何か書くたびに、大罪を犯しているのです。
 
その罪の日数は、赦されることを拒んでいる日数となります。あなたシャロームは、いったい、何を聞いてきたのでしょう。聞くこと、そして、キリストの言葉から、何も学んでいないことだけが表れています。むしろ、逆へ、逆へと進んでいます。
 
だから、私も、もはや、あなたとは、関わりたくないのです。あなたのコメントは、カルト宗教からのハラスメントに他なりません。あなたシャロームは、福音に聞かない者たちの一人です。キリストに聞かず、聖書に学ばず、しかも、分かっているふうに、妄想の上に、ふんぞり返っているだけです。
 
パリサイ人であり、偽善者であり、ますます、醜く、かつ滑稽です。あなたシャロームに好意的に関わる者は、あなたと同じように、人格が破壊されてゆきます。恥も罪も知らないということは恐ろしいことです。こんなに醜悪な者たちが、キリスト教の内部や周辺には、我を張っているのです。
 
あなたシャロームは、罪の門口に待ち伏せている悪魔に、詭弁で言い訳することになるのでしょう。その結果は、見抜かれて、・・目を覆うばかりです。だから、私も、偽善者の資料として以上には、もはや、関わりたくないのです。楽山とシャロームは、彼らの憎む神から、最も憎まれている者たちです。
 
ネットだからと甘く見て、書き捨て御免とばかり、嘘、でっち上げ、妄想、詭弁などを、好きなように言って、傍若無人を通してきた楽山とシャロームです。履歴と記録の残るネットだからこそ、偽善と批判の集積という莫大な負の財産=記録=資料を残すことになります。楽山は3年、シャロームは10年分です。
 
 
憎しみへの絶対

憎しみへの絶対
 
 
(2020年01月22日)
(2021年01月23日、一部加筆修正して再録、さらに加筆)
(2022年01月24日、再録+加筆)
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、間違いを自覚しません。素直さを持っていません。ゆえに、自らを正すことが出来ません。嘘と詭弁を重ねて、一人前に、出来た!と思う楽山の心性は、何の魅力もなく、卑怯で、既に失敗しているのに気づきません。自覚や反省という人間の当たり前の分別を、まるで持っていない楽山です。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは悲惨すぎる(絵文字:口を開けて冷や汗をかいた顔)
引用リツイート
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
自己愛性のモラハラ者は、自分こそが良識人であるという顔をし、気づくと、こちらが≪悪者≫にされていることさえある。
午前8:14 · 2022年1月23日·twittbot.net
 」
 
モラルと人格へのハラスメントを生業(なりわい)とする楽山の本性を実感すれば「口を開けて冷や汗をかいた顔」になるでしょう。むしろ、「良識人であるという顔」をして、人を「≪悪者≫」にしてしまうのが、楽山です。ゆえに、楽山からの批判は、ことごとく楽山に向かうことになります。
 
こういうブーメラン現象が起こるのは、楽山が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であるため、自分を省みることが出来ず、人のことばかり評論家気取りで言う、という楽山の負の学習の結果なのです。それを知ってしまうと、楽山の文章は、とても恐ろしく感じます。
 
 
 
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  例外
 
 
パリサイ人と律法学者は、キリストを、殺すほどに憎んだ反キリストの代表ですが、例外がいます。いかなる悪の集団にも、善の種を持つ例外がいます。パリサイ人のニコデモであり、そして、律法学者にもいるようです。一方、いかなる善の集団にも、悪の種を持つ例外がいます。ユダが、その例でしょう。
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
3:1-2
パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。 
 (ヨハネ書3:1-2、新約聖書)
 
このように、ニコデモは、キリストを讃えています。この時のキリストとの対話に、何か不思議な魅力を感じたのでしょうか。ニコデモは、恐らく人目を忍んで、キリストの葬儀に訪れています。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
19:39
また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。
 (ヨハネ書19:38-39、新約聖書)
 
 
次は、キリストに褒められた律法学者の話です。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
12:32-33
そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。 
12:34
イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
 (マルコ12:32-34、新約聖書)
 
「遠くない」という表現が微妙ですが、キリストの敵となり、キリストに激しく批判された律法学者とパリサイ人ですが、キリストは、やたら批判したのではなく、人の話を聞いて受け取る御方であることが表れています。
 
 
これらのパリサイ人や律法学者が、のちに、キリストに従ったかどうか、書かれてはいません。聖書に書かれているのは、今、罪に塗れていても、希望が失せているわけではないということでしょう。
 
 
ユダは、キリストを裏切り、敵に売りましたが、その後、悔いて、自死します。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。 
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書)
 
ユダは、政治的な実践家を志していたのかもしれません。キリストが、ユダの考える実益や名誉を実現することとは合わない道を進んだことで、キリストを裏切りましたが、のちに悔いていることから、ユダはサイコパスではないということが表れています。
 
一人の悪人の、悪の精神の中にも、善の精神が全くないとは言えないことを表しています。しかし、ユダは、後悔のあまり、自殺してしまったので、詳細は分かりません。
 
 
 
さて、偽牧師シャロームと、反キリストの楽山についてはどうでしょう。シャロームは、ネットでも現在、所在不明です。楽山は、自分で書いて、または、無神教徒の言を引用して、キリスト教をおとしめ続けています。ゆえに、宗教ペテン師の資料となっています。
 
資料となっているというのは、反キリストの偽善者は、どう言動するかという見本となっているということです。彼らが書かなくなっても、訂正もないのだから、批判を続けることになります。批判しか方法がありません。真の裁きは、神のみの専権事項であります。
 
二人と議論するつもりはありません。既に、二人と遣り取りをすることの、無駄、無意味、徒労、そして、言い知れぬ疲労を与える性質が明らかになっているからです。彼らの記事が出たら、批判記事を当てることになります。さらに、過去記事についても、必要があれば、改めて批判記事を書いてゆくつもりです。
 
 
反キリストたち

反キリストたち
 
 
(2022年01月23日)
 
 
 
  共感の主
 
人の言うことには裏がある
という項目が心理テストに上がるほどに
何て人は疑い深く弱いのでしょう
 
あらゆる時と所に
楽になりそうに見えて乗りやすい
悪魔の天秤を携えているほど
何て人は狡賢く弱いのでしょう
 
目には目を
歯には歯を
死には死を
同害報復が
失われた目も歯も命も
戻してはくれないのに
心情的に理解できるほど
何て人は感情的で弱いのでしょう
 
突然襲いかかる理不尽な不幸に
崩れた戦時の教会の
キリスト像を投げて割ってしまう映画
今も覚えているほど
何て人は背教へ走りやすいのでしょう
 
割ったのは実は作り物の像ではなく
自分の心だと分かる前に
怒りの黒い種を育み
死と復讐を結びつけて
嘆きの赤ブドウ酒に溺れてしまうほど
何て人は弱いのでしょう
 
キリストは
このような人々に
罪から逃れられない人に
その悲しみに共感し
共感する信仰を説いているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が「実践するのは難しい」なら、楽山は、人間ではないということです。ゆえに、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと書いてきました。楽山は、また、書いてくるのでしょうか。私は、高齢ですが、書けるあいだは、批判を続けようと思っています。
 
 
 
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  楽山の嘘と詭弁2
 
 
霊能者・評論家などの気取り、無反省・無責任・無理解・訂正不能、高等感情の鈍麻、理路の未熟と荒廃、などが見られる反キリストの楽山の詭弁について、今までの約3年の経過から、メモしたことを投稿しておきます。宗教と事実の話ではなく、楽山の、執着と虚実の話になります。
 
既に、反キリストの偽善者の例として、約3年間の資料となっている楽山は、宗教も信仰も、趣味的に、甘く見た楽山の、宿命のような我執に対する、おのずからの報いとして、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、他者の人格を破壊し、自らも人格破壊を来たしています。
 
楽山の、批判されても、弁明も反論も出来ず、にもかかわらず自分の言いたいことだけ書き続けることこそが、体質的な執着の奴隷と化して、宗教に対する無理解を表し続け、議論と交流の相手にしてはいけない単方向性の習性となっているものです。
 
子供のときから、仏様の心が分かるっぽい?と思い込んでいた教祖願望とか、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、もはや、関わる人の、神経と精神を害するだけの、愚かさを積み上げてゆく不感不応の醜態と言わざるを得ません。
 
 
楽山の、道徳的正論に見せかけた詭弁を弄した、ありえない"道徳的な詭弁"は、実体が、虚偽であり、ただ単純に、道徳に反する経過と結果だけをもたらしています。楽山は、当然、宗教と信仰にも反する企みの暴言者、反キリストであります。
 
楽山にとっての、自然のままであることは、道徳や節操を無視して、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念すること、そして、自己満悦に浸って、自己愛に溺れる病質のことです。誰に対しても、思いつきのインチキしか示せず、真摯、誠意、真面目、というものを、あざ笑っているような変質者であります。
 
例えば、思考も情緒も意志もなく因果もない悪の台詞を、気持ちがいいのでしょうか、真実であるかのように語ります。語ることに根拠が無く、お伽噺で宗教を語ったつもりになる自閉の回路から、必要とされてもいないのに、無理を、詭弁で飾って押し出してきます。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいようです。恐らく、楽山には、基本的な節操・分別さえもないのでしょう。楽山には、基本的な人権を考えることが無意味になるでしょう。
 
楽山は自分の意見に反することを、「堅苦しい主義や封建的道徳」などと見なしてくるところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。否定を言い、肯定を言い、断定していないから、責任問題は生じないなどと言う外れ方です。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山は、思いやりと共感、温もりと潤い、そういったことを学習していないので、人間なら当然の反応が出来ないのです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っていましたが、またしても、有能な人間だと自慢したいだけなのです。誰にも認められていないからこそ、皮だけを整えたつもりで飾って、インテリぶっているケダモノです。
 
楽山については、カルトが自身を言い表すのと同様に、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して、だますしかないという習性があり、心霊、スピリチュアル、死後の世界、超常体験、などの超常が大好きな楽山の特徴となって、結果的に、理路の錯乱を、容易く表してしまう現状です。
 
一気に、安易に、超常になりたい教祖願望は、楽山やカルトの特徴であろうと思います。超常ホラーを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山は、しかし、霊が分かるっぽいという自覚だけであり、実際には、洞察力は皆無で、いかなるスピリチュアルの深さも、書けたことはありません。
 
 
都合の良い他者の口を引用し悪用し、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、カルトの断線した回路であり、邪悪の一本道であり、自己中の沼であり、反宗教の身投げであります。
 
 
楽山が、批判されても批判されても、弁明も反論も出来ないでいて、全くお構いなしに、無視して、平気で、言いたいことだけを書いてくるのは、心性に欠陥がある病質としか思えず、常人のものではないと思っています。もはや、楽山の話を聞くくらいなら、犬猫の鳴き声を聞くほうがマシなのです。
 
楽山においては、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」が、病質・変質の詭弁として、他者の良心と感性と思慮をもてあそんで、精神を食い荒らしてゆく、という愚鈍なケダモノになることを意味することになります。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」などと、わざわざ書いて、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は常識人そして霊能者だ、という印象操作と宣伝です。「ないでもない」「と言えなくもない」等の、語尾のぼかし方も、ボンヤリ言語の特徴です。
 
楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするので、豪語するカルトと違って、邪悪さに気づきにくい傾向がありますから、何より、楽山を相手にしないこと、楽山に関わらないこと、近づかないことが大切です。
 
 
私は、数か月、だまされていました。受け答えがハッキリしないため、次に、責任を負うことが大切だ、といった牽制・指摘によって問いただしたら、ごまかして応じなかったため、相手にしてはいけない人だと気づきました。実際には、実のある何ものも持っていない人です。
 
批判して、信頼度ゼロと判断しましたが、その判断を覆すような記事を、楽山は、一度も書いたことがありません。楽山は、批判に対して、嫌がらせ、言いがかり、嘘、詭弁を書いてくるだけだ、という証拠も、約3年分、同時に積み重ねられて資料となっています。
 
 
「かなあ」「ていうか」「言えなくもない」「反省、トホホ」「信じやすい性分」など、芝居がかった若者言葉や、逆に、同情をひく年寄り言葉や、曖昧表現、婉曲表現、丁寧語で、言い逃れようとします。
 
ちょっと変に丁寧だけど、いい人そう、と思うような人を待っているホラーが楽山です。楽山の、嘘と詭弁に、自己中に、自他破壊、そして、絶望伝道に、どうか、巻き込まれないように、警戒し、関わらないようにしてください。ネットには、いろいろな、具体的に関わると大変な、ペテン師がいます。
 
 
はてしない脳天気

はてしない脳天気
 
 
(2021年01月20日、同日一部修正)
(2022年01月22日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びることもなく、反省や修正をすることもなく、思いつきを、プラスもマイナスも、好きなように語って責任を負わない楽山は、結局、"ええかっこしい" のインテリ気取りだけであり、実質的には、何も語っておらず、何も持っておらず、何も考えていない、という、空しい疲労だけを与えてきます。
 
楽山はキリスト教とキリスト信仰について幼稚な悪口を書いてきました。批判を受け取って反省できる人なら書き続けても迷惑ではないが、無反省に無責任に偏見を垂れ流すだけなら、そのたびに批判記事を当てるしかありません。既に資料となっているので今後も加筆して投稿することになるでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
「人は〔利を求めて〕自分を与えてはならない。自分を捨て去ってはならない。ひとは、善い〔やさしい〕ことばを放つべきである。悪い〔粗暴な〕ことばを放ってはならない。〔やさしいことばを口に出せ。荒々しいことばを口に出すな。〕」(中村元訳『ブッダ 神々との対話』岩波書店、P101)
午後2:03 · 2022年1月21日·Twitter for iPhone
 
楽山は、自分を捨て去った人です。人間を捨て去ったと言ってもいいでしょう。だから、丁寧語で言えばいいと思い、人間とは思えないような醜い嘘と詭弁を含ませることが出来るのです。粗暴な言葉を控えて、丁寧語に軽蔑を込めるのは、分かりやすい悪口より悪質です。偽善者と対話してはいけません。
 
 
 
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