ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年02月

 
  無神論=無神教カルト
 
 
楽山が信奉する無神論=無神教カルトの言い分は、神の辻褄を追う・・という、人間には不可能な論理モドキによっています。ゆえに、成立するわけがないのです。
 
キリスト信仰の救いは、ひとえに、キリストと人々のかかわりの中に、洞察と共感によって、心に生まれるものです。そこでは、いかなる論理も詭弁も無意味になるところです。
 
楽山は、最近、無神論者=無神教カルト信者のリツイートが多くなりました。そして、過去記事のコメントをコピペして、だらだら、大量に並べています。独自の言論が不可能であることを表しています。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
人種で人を批判することは明らかに不合理でばかげているが宗教を批判することは正当で自由なことだ。あらゆる思想―誰かが心から信仰しているものでも―を批判する自由は社会の基本的自由の一つだ。―ローワン・アトキンソン
 
宗教が理不尽であれば、「宗教を批判すること」人の宗教に基づく言動を批判することは、信者も、異教徒も、非信仰者も、可能です。しかし、宗教の本質を批判したければ、宗教と信仰を深く知っていなければなりません。楽山のような幼稚な妄想的曲解は通用しません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
もし子供が理性的な思考力を身につける年齢になるまで宗教的教育が許されていなかったとしたら、我々はまったく違った世界に住んでいただろう―クリストファー・ヒッチンズ
 
私は、父も母も無宗教で、仏壇が置いてある程度でしたから、宗教的教育は受けていません。17歳の頃に、聖書って何だろうと思っていて、たまたま、聖書を無料でもらえるという話を聞いて、教会に行き、通うようになり、洗礼を受けました。無神論=無神教は、理性の産物とは思えません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
人種で人を批判することは明らかに不合理でばかげているが宗教を批判することは正当で自由なことだ。あらゆる思想―誰かが心から信仰しているものでも―を批判する自由は社会の基本的自由の一つだ。―ローワン・アトキンソン
 
「宗教を批判することは正当で自由」「批判する自由は社会の基本的自由」・・宗教の信条や教理そして行動は、批判してもいいと思います。ただし、その責任を負わなければなりません。また、信仰する人の思想について批判できても、キリスト信仰や神聖そのものを批判することは不可能です。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
一神教の絶対神(の信仰)が弛緩するとき、多神教の神霊が声を上げ始めると同時に、人間の死後の運命の想像力も蠢き出し、ちょうど神が「一」から「多」になるように、死後のケジメも「一」から「多」に増殖し、一回限りの審判ではなく、幾度も転生して人生やり直すイメージがヒットするようになります
 
(ネットより)
中村圭志(なかむら けいし、1958年 - )は、日本の宗教学者、編集者、翻訳家。 北海道小樽市生まれ。北海道大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。
 
「絶対神(の信仰)が弛緩」「多神教の神霊」「死後の運命」「幾度も転生」・・超常カルトの筆致です。無神論=無神教は、人間の論とは思えません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
19世紀以来の心霊主義および神智学系の動向は、いずれも輪廻のようなものを認めています。これはまさしく絶対神信仰の弛緩によって逆に増殖した人間の霊魂の旅の物語だと言えるでしょう。神が全部決めるんじゃなければ、人間が霊界ないし転生において学んでいく形でしか真理は開示されないんですね。
 
心霊主義を是とするのでしょうか。輪廻を信じているのでしょうか。「絶対神信仰の弛緩によって逆に増殖した人間の霊魂の旅の物語」・・飾っていますが、「絶対神信仰の弛緩」について説明していません。「霊界」「転生」という超常を学べるのだそうです。人間に可能な論理ではないようです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
『クラウド・アトラス』のようなSF的設定には、絶対神は存在しません(『スター・ウォーズ』もそうです)。一切は人間の織りなす物語です。神を持ち出さずに、ただし神秘的な記憶や予感を持ち出して、複数世代にわたる大河ドラマを構築すると、それは輪廻っぽい物語となってしまう。
 
2つの映画の話です。それで「絶対神は存在しません」が成り立つでしょうか。「神秘的な記憶や予感」「輪廻っぽい物語」・・殆ど、超常のフィクション~想像~空想ではないでしょうか。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
輪廻の文学的効果の第一は《私が他者の立場だったら、どう思うか》という反省的効果です。差別していた者が差別される者になる、といった教訓です。『クラウド・アトラス』ではそれよりむしろ《時代は変わっても人類は同じ愚行を繰り返す》という集合的な既視感が「輪廻」の意味する所かもしれません。
 
無神論ではなく「輪廻の文学的効果」と言いながら、差別が非差別になる輪廻を繰り返す、「集合的既視感」などと言って、フィクションを語るのか、現実の宗教や神を語るのか、境界と区別が判然としないようです。無神論は、空想やフィクションなのでしょうか、カルトなのでしょうか。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
そういったあたり、未だにウェーバーあたりの精神論的文化論で考えている日本のクリスチャン系評論家の意識はガラパゴス化しているかもしれません。なんかガラパゴス化しやすいのは、むしろ非常に日本的な特質であって、ちっとも西洋的じゃないところが、アイロニカルなところです。
 
(ネットより)
ガラパゴス化(ガラパゴスか)とは、日本のビジネス用語のひとつで、孤立した環境(日本市場)で製品やサービスの最適化が著しく進行すると、外部(外国)の製品との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い製品や技術が外部から導入されると、最終的に淘汰される危険に陥るという、進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句である[要出典]。ガラパゴス現象、ガラパゴス症候群ともいう。
Wiki:ガラパゴス化
 
日本がガラパゴス化しやすいというよりも、日本特有というよりも、キリスト教は、風習・習慣・儀式に取り入れられて、その本質から堕していきやすいのです。また、有神論も無神論もカルト化しやすいと思います。アイロニカルというより、それこそ、罪なのです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
二十世紀半ばまでは、マックス・ウェーバーに代表されるように、西欧的特質を宗教(キリスト教、プロテスタンティズム)に帰す思考が優勢でした。これはマルクス主義に対抗する意味もありました。21世紀以降は、そんな単純な因果は考えない方向に向っています。因果ははるかに複雑だろうと。
 
単純も複雑も、キリスト信仰は、○○イズムや因果で説明できるようなものではありません。むしろ、飾らない情感や共感性が大事だと思っています。そこに、信仰の絆(きずな)があるからです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
ニューエイジの東洋宗教ブームを日本に逆輸入したのがいわゆる「精神世界」です。先日会った芸術系の人が、一神教と違って自然主義の神道などには侵略性がないみたいなイメージで語っていましたが、なに、戦前の国家神道のことを知らないだけです。仏教や神道がエコだというのも、だいぶ怪しい話。
 
「侵略性」は、キリスト教を、超常的、儀式的、教条的、論理的、学問的に見てしまう結果であります。キリスト教と信仰は、祈りを中心とする心の信仰です。学問は、資料となりますが、信仰となることはないです。○○主義やイデオロギーの理屈で、キリスト信仰を語ることは出来ません。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
リチャード・ドーキンスbot
@Dawkins_bot_jp
宗教の感情を傷つけることはできない。宗教自体はそんなものは持たない。あなたが傷つけ虐げうるのは人々であり、その彼らの宗教自体が最も人の感情を害するものである場合が多い。
 
正しい信仰は、溢れる情緒と情感が支えています。信仰は、本質的に、良心から自発的に起こるのであり、信仰に、最も傷を癒す恵みがあると個人が判断することによります。良心を持つ人間を傷つけ害することは、宗教と信仰の有無にかかわらず、悪魔の所業であります。
 
 
 
キリストの共感に支えられる心の在り方を、信仰と言います。つまり、信仰は、論理的にはなりません。愛とか心の絆(きずな)に近いものです。信条や教理は、そのヒントとしてまとめられていますが、人間の言葉では暗示的に表されるもので、論理で云々できるものではありません。
 
 
人間 信仰

人間 信仰
 
 
(2022年02月28日)
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
st問題資料集というシリーズの長いコピペ記事を書いている楽山ですが、無神論者=無神教カルトをリツイートするようになりました。自分では、コピペしか出来ないからです。楽山のような、キリスト信仰を知らない者が、神がどうのこうのと語っても、全く意味はありません。こうはなりたくない。
 
楽山は、狂ったように書き続けています。何の主張にも思想にも弁明にもなりません。無反省に書いてきたことをコピペして何の意味があるのでしょう。それしか出来ないのでしょうか。一つ覚えの発作のように、憑りつかれたように書き続けていて、楽山の異常性だけが際立っています。
 
楽山の思想が、結局は、嫌味に過ぎないことを表しています。書けばいいじゃろ的な、安易な発想が、新しい何ものをも書けない楽山から、放水か、尿失禁のように、あふれ出して止まりません。こういう人だったんだな・・ということを、これでもか・・というほどに、あらわにして、ただ、愚かなだけです。
 
一生やってろ・・みたいな感じでもありますが、自分について、みじめさを感じ得ない楽山の暴走です。パニックからの強迫行為かもしれません。このようにしか、ストレスの処理が出来ないのでしょう。こちらは、とうに、観覧モードになるしかありません。常軌を逸しています。
 
観覧したい人は、下記アドレスですが、発作的な異常行動なので意味はないと思います。最新記事一覧のページです。ここまで暴走する人は、いないでしょう。今回の楽山の、おびただしく長い記事群は、読者にとっては拷問のようなものです。
 
できれば、一生、こういう感じでコピペし続ければいいと思います。いちいち読む人もいないでしょうし、その間、それ以外の活動は出来ないでしょうから、楽山の悪影響は少なくなるでしょう。どんな顔をしてるんだろうとか思います。読んでみようという人がいるとは思えません。
 
必然もなく、常識も病識もないから、楽山は異常者です。異常者のすることは了解不能なので、誰も関わってはいけません。自分のブログだけで狂う分には、害も少ないので、楽山の言論は、無意味な執着という症状ということになり、努力は微塵も買いません。
 
楽山は、共感性のない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。執着が行為を決めるのかもしれません。底知れない恐怖の衝動が楽山を動かしているのでしょう。そして、自己満足だけで、反省せず、責任を負わず、あとさきを考えません。それで常識人の芝居をしてくるのです。
 
気になるのは、楽山の底意地の悪さですから、コメントの捏造をしている可能性です。今回の記事が、どの過去記事のコメントなのか、さらに、HNにリンクが付いているのかどうか、はっきりしません。ゆえに真偽を判定できないことを狙った可能性もあります。
 
楽山が、楽山の責任においてやっていることです。何かの当てつけでしょうか、しかし、執着の異常性が明らかになったということです。今までもそれで墓穴を掘ってきたのでしょう。これだけの強迫性に走る性癖を隠し持っていたと分かったのだから、楽山を相手にしないでください。とても危険です。
 
楽山は、"st問題" という言い方を前からしているのですが、これは、ずっと私が指摘して、何も弁明できない楽山が、自分自身の問題を全く認めていない証拠です。つまり、"楽山問題" なのです。また、過去を出して見せるのは、現在を乗り切れる自信のない、後ろめたい人のやることです。
 
楽山の書く文章は、程よいと思わせる丁寧語の書き方ですが、正直言って、何か、はっとさせて、感動するということが一度もないのです。言葉だけ、程よく並べて、退屈で、独り言だったり、うんざりするほど長く、新しい発想がなく、無反省、無責任で、どうして信頼できるでしょう。
 
 
 
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  心の波動3
   (過去記事再録+)
 
 
心の波動は、心の活性と呼んでもいいと思います。
 
心を表し伝えるために言葉を使います。しかし、私たち人間は罪深いゆえに、人間の心を表すために使う人間の言葉も罪深く、心を、いつも、間違いなく正確に言葉にすることは出来ません。ゆえに、伝えたつもりで伝わらない、分かったつもりで分かっていない、ということが起こります。
 
心を表すために対応させている言葉は、それこそ人それぞれの学習経過により、微妙に、時に、著しく、人によって違うものを伝えてしまい、誤解を生じ曲解に至ることがあります。人間も、人間の言葉も、絶対ではないのです。
 
 
心と言葉が正確な対応でないゆえに、言葉を確定することによって言葉に対応させているつもりの心が確定されるものではないのです。言葉は心を伝えるための暗号であり、言葉で対応するための心は、喩えるなら波動のようなものなのでしょう。
 
固定した形を持つ言葉と、揺れ動く現象である波動を持つ心、一対一の対応などありようがないのです。心の波は振幅を持っていて、言葉および感覚可能な媒体によって、あるとき感動という大きな波を生じても、別の時には振幅は減衰しています。
 
感動は、いつも新しいものであり、一方、過去の感動は、感動したという記憶に過ぎず、感動そのものではないことがあります。ゆえに、感動を伴うべきこと、例えば信仰において、言葉としての信条を唱えるのは、記憶を強化するが、感動を強化しません。ゆえに、信仰を強化しません。
 
感動、癒し、慰め、恵み、赦しなどの、信仰にとって、なくてはならないものは、言葉の反復によっては強化されないのです。しかし、私たちは、信仰を表すのに言葉しか持ちません。言葉に関わることで、信仰を新たにすることについて、聖書は、端的に述べています。"悔い改めなさい"と。
 
悔い改めるためには、特に祈る時には、訂正不能ではない反省する心と学習意欲が必要です。悔い改めることは、求道者が信仰者になる時だけではなく、信仰者の信仰生活の主軸であります。何故なら、それは祈りに他ならないからです。
 
私たちは地上で完全になることはありません。ということは、気づかぬうちに罪を犯しているということです。だから、私たちは精いっぱい正直に祈る必要があり、それこそが悔い改めです。悔い改めによって反省して改めて学習することが、信仰の成長なのです。
 
私たち信仰者は悟ってなどいません。完全なる神の前には、いつも恥ずかしい存在なのであり、その恥じらいを敬虔と呼びます。恥を知らない者になってはいけない。言葉に頼るしかない祈りも不完全であり、神の前には恥ずかしい言葉なのです。
 
人の祈りは、完全な祈りではありません。しかし、いかに不完全で恥ずかしくても、繰り返し、折に触れて、正直に、祈る必要があるのは、私たちが、不完全の自覚を持つゆえにこそ、神は、寛容をもって、神の民である私たちが正直に祈るのを、いつも待っておられるからです。
 
正直な祈りは人から神への唯一の音信であります。
生ける神への、生ける人からの、唯一の音信であります。
 
正直な祈りを覚えることが信仰生活の初めであり始めなのです。
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
※ 夥しい(おびただしい)
 
 
 
心の波動

心の波動
 
 
(2020年02月17日、同日一部修正)
(2021年02月23日、再録+)
(2022年02月27日、再録+)
 
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートです
 
楽山は、また、人のツイートを悪用して、自分の破綻した人格を、不相応に、高く尊く見せようとしてきます。届きようもない人の話に飛びついて、まるで、自分であるかのように、同列であるかのように、努力と才能の人を装います。楽山に努力と才能の跡が見られたことはありません。
 
楽山は、いつも、我が身を反省せずに、楽な山の上から見当違いの物を言っているだけなのです。この楽山の高慢に付き合うことだけはしないでほしいと切に思います。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるかを思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、よりいっそう学びたくなる。―アルベルト・アインシュタイン
午後9:22 · 2021年2月21日·twittbot.net
 
楽山は、他者の意見をリツイートして、自分は「無知に気づ」いていると言いたいようですが、ならば、上から目線で物を言ったり、人の意見を無視したりは出来ないはずなのです。しかも、アインシュタインです。楽山のような減らず口の怠け者が引用するのに最も相応しくない人物です。
 
学ぶ気もなく人のことばかり、評論家気取りで文句言ったり、笑ったりしているのが、楽山です。さらに、自分の無知と無恥にいちばん気が付いていないのが、楽山です。わざとらしい丁寧語を使っても、無反省、無責任、無神経な、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は隠せません。
 
このように、楽山は、他者を利用して "謙虚アピール" をしてきますが、実際は、自己愛の先入観と偏見で、訂正不能に、同じことを繰り返し言ってくるだけなのです。そして、バランスが取れているつもりのようですが、それどころか、自分を改善しようとする動機さえ、まるで持たない人です。
 
バランスというより、動いたり変わったりする必要を感じない人です。無知に気づくというより、無知と無恥を、徳や柔和や謙虚や視野の広さと勘違いして訂正しない人です。そういう人ほど、自分とはスケールが甚だしく異なる有名人の言葉の引用に飛びつくのでしょう。全然、見習えていないのに。
 
楽山のように無反省・無責任・無神経の自己愛からは、人が自分を褒めているように見えるのでしょうか。読んでも何の糧(かて)にも参考にもならない文章を書き続けています。自分の非を認めない者は、ゆえに成長できない者は、他者に何かの良い影響を与えることなど出来ません。
 
固定した病質の精神から、都合のよいことだけを表し、都合の悪いことは無視して人のせいにするような、楽山の訂正不能は、関わる人に、結局、言い知れぬ徒労と疲労を与えるだけなのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
1.のコメント者は、楽山について、よく知っている人かもしれません。目上の、近親者か、あるいは、師に相当する人なのでしょうか。楽山が、削除しないのは、大事な人だからでしょうか、それとも、そういう約束か条件でもあったのでしょうか。
 
それにしても、この忠告を無視し続ける楽山の心境というのは、いったい、何なのでしょう。楽山の心底が、闇だと書きました。楽山は上のコメントを削除しない。しかし、楽山は、このコメントを見ながら、何も感じないでいられるのでしょうか。人間なら、信じられないことです。
 
 
 
過去記事のコメント欄などをコピペしてコピペして一度に多量の無駄に長い記事を書く楽山の精神と目的は何なのでしょう。楽山は、これが自分の集大成です・・とでも言いたいのでしょうか。焦点がなく、数と量の多さを誇示したいのでしょうか。
 
熱心さを買ってほしいのでしょうか。しかし楽山に情熱はありません。楽山には、正当な高等感情がないのです。ないものは伝わりません。楽山の異常人格が暴発することにうんざりするだけです。勝手であり、自由であり、楽なのかもしれないが、その間も、生きる時間が消費されてゆくのです。
 
読者も、生きる時間を有効に使いたいわけですから、恐らく、楽山のトンデモ衝動に付き合うことはないだろうと思います。異常人格がブレーキを失ってゆく症例となるけれど、そういう症例報告は、症例自身には、症状なのだから、治癒からは、どんどん遠ざかってゆく方向でしょう。
 
楽山は、陰性の感情に駆り立てられて自分を見失い衝動的となり、さらに、量で圧倒できると思っているのでしょうか。執着なのでしょうか。発作なのでしょうか。どれだけ多量に書いても、読者を考えない自己中と自己顕示欲だけが嫌味なほどに表れて、自ら節操のなさを、わざわざ公開している楽山です。
 
 
 
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  汚い読書3
 
 2020年02月11日
 理想の世界の存在と現象世界との関係について
 (『宗教的経験の諸相』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD)
 
 
読書という行為にも、ある種の人間においては、汚い、と言わざるを得ないことがあるようです。楽山において、それは明らかであります。
 
 
しばらく積読にしたまま放置していた『宗教的経験の諸相(上)』を開いてみたら、冒頭の原著序に著者の結論は論考の最後にあるといかにももっともな助言があったので、根がどこまでもせっかちかつ単純にできている自分としてはさっそく著者の言う通りにしないわけにはいられず、下巻の後記を確認してみた。なかなかに難解な文章ではあるけれども、三歩進んで二歩下がるようにして文字を追うならば、幸いなことにおぼろげながらではありつつも著者の思想は理解できなくもない。有体に言えば著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。
 
(ネット検索)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
ウィキペディア
 
ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。それは、宗教でも信仰でもなく、そのまま、スピリチュアルであり、心理よりも心霊という超常や魔法とかを意味しています。
 
「著者の思想は理解できなくもない」というのは、楽山が、自分の霊能力を誇示するのに、都合の良い文章が見つかったということに過ぎません。楽山は、自己顕示欲という偏りによって、冷静な読書が出来なくなっているようです。楽山の解釈は理解ではなく、何かの狙い、または、妄想なのです。
 
 
まず著者は、思想家を自然主義者と超自然主義者とに分け、次に超自然主義者を洗練された超自然主義と愚かしい超自然主義とに分け、前者は理想の世界とこの世界とを交わることのないものとし、
 
こういう分け方は、その学者の説であって、本当に分けられるかどうかは、別であります。評価というものは、多くのことを説明しうるか、また、その説明が新しい理解を促すかによって評価されるものです。楽山の言は、いかなる理解でもなく、楽山の満悦のためにあるだけです。
 
(ネットより)
【超自然主義】 の解説
《supernaturalism》哲学・宗教学などで、理性では説明のつかない事象の存在を認め、これを超自然的な力や神の啓示・奇跡などによって説明しようとする立場。
 
上のような言い方で、現実離れした超自然の世界を夢想して、そこから、他者を愚かしいと言うことが、楽山には快感なのでしょうか。楽山は、スーパーナチュラルになりたいのでしょうか、既に、なっていると言いたいのでしょうか。実に、アンナチュラルで、愚かしいことです。
 
 
後者は理想の世界とこの世界とは交わることのないものではなく、理想の世界からの何らかの影響をこの世界が受ける可能性は否定しないというものであるらしい。そして著者は自らを愚かしい方の超自然主義に属するであろうとしている。
 
「ないものではなく」「あるらしい」「であろうとしている」・・楽山の筆致は、いつものように、曖昧な語尾の、ボンヤリ言語で、はっきり言っていませんが、理想の世界というのは、上に書いてあるように、超自然の世界のことなのでしょう。
 
つまり、読んだ本が、楽山の大好きな心霊の世界を言っていると楽山は思い込んでいるようです。そして、現実の世界が何らかの影響を受ける、というのは、霊が分かるっぽい?自覚の楽山自身を正当化しして、自分は特別な存在だと思いこみたいからなのでしょう。
 
"心の理論"でも、似たような、超常を自分に引き寄せる?かのような解釈をして、実に幼稚な空想と言うべき誤謬にしてしまいました。つまり、子供の発達心理学の話を捻じ曲げて、心霊の話として読むという酷い誤読であります。楽山は無理解ということの根拠であります。
 
また、奇跡の話においては、とんでもない理路の詭弁があり、楽山の理路の検証能力と常識的な理路の組み立てが破壊されていることを指摘しました。楽山の、無神経で、成り立たない屁理屈遊びです。
 
そのようなことがあって、楽山が人に自説を信じさせるためには、詭弁などの騙しのテクニックを使うしかないし、使ってきたし、これからも使うだろう、という判断になっているのです。
 
超自然は、現実に影響しても、超自然つまり超常なのだから、その影響の仕方など、人間に分かることはない、ということを考えないで、楽山は、自分を、超常の影響を受けて驚くべきわざを知り、かつ、行なう人だと思い込みたいのでしょう。
 
しかし、影響を受けるということは、この世界に影響するような超常世界が存在する可能性という考え方ですから、一般的な可能性の話であって、我欲と我執のナルシシスト楽山の霊能や超能力を指示も支持もしてなどいないのです。邪悪な楽山が超自然の者なら、地上は既に滅びているはずです。
 
こういうところにでも、楽山は、自己愛によって本の話を、理路も根拠もなく自分に引き寄せ、自分を高めようとしてくるのです。何も実のあることを語れない楽山です。信仰は、信じこみや思い込みや妄想であってはいけません。
 
 
また著者は数多の宗教的経験が証明していることはただ一つであって、それは人は自己よりも大きいあるものと合一し、それによって平安を得ることが可能だということであるという。あるものとは自己の内の自己を超えたもののことを言っているのか、自己の内とも自己の外ともいえる理想的ですべてを受容しうるもののことを言っているのかどうも判然としないところもなくもないが、心霊主義的な解釈によればそれがなにを指しているか、そう悩むことなくおおよその意味は了解できそうではある。
 
楽山は、「判然としない」と言いながら、心霊主義的に「おおよその意味は了解できそう」と言っています。この2つの言を並列してしまうところに、楽山の無分別が表れています。つまり、楽山が理解と言うとき、理解は、心霊のように、判然としていないことになります。
 
人文科学の学者の主張というのは、自然科学の法則や定理と違って、大方、決定的な結論に至ることはありません。説として、説得力と信頼度が評価されて、一定の位置を占めるだけなのです。すでに書いたのですが、楽山には、説得力がなく、信頼度はゼロです。
 
にもかかわらず、楽山は、自分に都合の良い主張を、自分に当てはめて、しかも、暗示的な表現で、実は、決めつけているのです。これが、カルト的な偽霊能者の自覚と自尊に囚われた病的ナルシシスト楽山の書物アサリの目的なのでしょう。
 
このような目的で、本を、冷静に読んだとは全く言えませんし、ますます、楽山のカルト精神に、学者の名前まで利用しているだけです。まるで、超能力者とか高名な学者とかを気取る子どもが、実際は、九九を覚えられず、掛け算を何度も間違えているようなものです。
 
人間としての身の程を弁えないということは、本当に人格を偏らせ、破壊してゆきます。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、霊能者気取り、など、楽山には、いろいろな、よくない霊が取りついているようです。
 
 
とはいえ当然ながらそれを体現し、実感として知ることは誰にでも即日可能というわけではないだろうが、一応の知識として記憶にとどめるだけであればその意欲さえ保持しているならば誰にでも可能のはずではある。
 
「即日可能というわけではないだろうが」「誰にでも可能のはず」と言って、いつかは自分も出来る、誰でもできる、と言っています。超自然を知ることは、楽山には、自然を失うことのように思われてなりません。空約束を語って恥ずかしくないのでしょうか。
 
すぐには無理だが、いつの日か、超常からの影響を悟ることができるだろうという可能性を自分に当てはめているのです。自分が霊が分かるっぽい霊能者で超能力者であることを、やんわり、ボンヤリと、しかも、強調しているのです。これが、楽山の企みの印象操作です。
 
同時に、楽山が、ボンヤリ言語で、今まで、いかなる狡い詭弁や、婉曲表現で、キリスト教とキリスト信仰をおとしめてきたかを考えれば、この人だけは、霊の力など身につけてほしくないと願わざるを得ません。ひどい悪霊になるからです。それに、今でも、酷い悪と偽善です。
 
楽山は、自分はちゃんとしていて、柔和で、超常の霊の恵みに値する能力と、客観性を併せ持ちうるということを暗示したいようですが、今まで、ずっと、鋭く深い洞察や共感の欠片も見られない楽山の文章から、すべて思い込みの無意味な作り話だと分かる記事になっています。
 
何故なら、楽山の、霊の話、"心の理論"の理解、聖書理解、奇跡についての話、いずれも、あきれるほど、幼稚な誤謬に過ぎなかったからです。学問までも平気で捻じ曲げて悪用する楽山の病質と悪意が表れているだけです。
 
 
最近はどうももっぱら超のつかない自然の世界のことに興味は限定されがちであり、実在界とも呼ばれることがあるだろう理想世界の方面の事柄については以前ほどの関心は持ち得ぬようになり、さらにはそういう課題が存在することさえも忘れていることも増えてきていたのではあるが、
 
実在界・理想世界に興味と関心と思い込みが薄いならば、厚かましく超常を語る記事は書かないはずなのです。つまり、真っ赤な嘘とは、このことです。この記事も、それまでの記事も、自分を正当化し飾るためだけに書いてきたのです。心霊に全く値しない楽山の実態だけが浮き彫りになっています。
 
 
やはりこういう文章を読むとなんとなしに懐かしい心持がしないではいられないのだからおかしなものだ。やはり自分では意識することもない心のどこかではそれを欲し続けているということなのかもしれぬ。
 
文脈から、超自然主義の超常の理想世界を「欲し続けている」のだそうです。昔そこに自分はいた、という、今度は、昔話でも捏造したいのでしょうか。霊が分かるっぽい?楽山の正体です。薄っぺらな動機で、存在しない霊能力を自我に結びつけるとこのように壊れるのですという例です。
 
楽山の霊が分かるっぽい?自覚を指示する材料は何もないにもかかわらず、楽山は、自分は悟って教える立場なんだ、特別なんだ、特別なんだと、藁をつかもうとして、いつも失敗してきました。今も変わらないのは、それだけ、我執が訂正不能に無反省に執拗に粘着していることだけなのです。
 
 
結局のところ、理想は外にあるとは限らず、もしそれが中にあるというならばそれがふさわしい時にいずれは浮上し影響力を行使するようなるであろうし、
 
このように、理想が中にあることを自分で言っています。狡猾なのは、自分の霊力と言わず、理想を主語として、「中にあるというならば」と言って、一般的な事柄に見せかけて、自分の将来を高めようとする哀れな醜態をさらしていることです。
 
今までのことを知らない人なら、うっかり受け入れてしまいそうな表現を使う詭弁が、楽山のボンヤリ言語です。ここは、楽山自身のことを書いているのですから、実際に言いたいのは、心霊の力が自分の中にあって、いずれ浮上し影響力を行使するようになると、妄想的な予言?をしているわけです。
 
いつの日か、自己中しか持たない楽山が、霊能者として脚光を浴びることを夢見ているなら、寒気のすることです。霊とか霊能とかいうものが存在するとしても、楽山なんぞの手に負えるような安っぽいものではないでしょうから。
 
 
それならそれを信頼して無理に力むことなく、自然体で寛ぎつつ待つというのが自分には合っているということなのだろう。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、自然体を全く知りません。楽山が自然体と言っているのは、周りが何と言おうと無視して平気でいることでしょう。つまり、無反応で一方的で、楽に、力を発揮するだろうと、反省も学習もせずに、労せずに、ご馳走を食べたがる低劣さなのです。
 
彼らが書いてくる文章は、よく読めば、いつも不自然であり、文脈がつながらず、無根拠で一方的であったり、詭弁であったり、印象操作であったり、おとぎ話か空想か妄想であったり、世辞であったり、わざとらしく芝居がかっていたり、奇奇怪怪なものだらけです。
 
自然というより、不自然さらに不全か憮然あるいは悲惨と言うべきでしょう。しかも、本人は、まともなつもりで、いい文章を書いているつもりでも、今まで、あらゆる詭弁を弄して、婉曲的に、ボンヤリ言語で、キリスト教には、負の、心霊と超常には、正の、印象の刷り込みをしてきました。
 
それらは、全部、どこにも通用しないような無理を通そうとしたものです。"自然体で寛ぎつつ"などと、よく言えたものです。体質的な、精神の異常であり、病質であり、虚妄の泥風呂に浸かって、のぼせているようなものです。楽山は、不自然であり、さらに、病的だと思います。
 
中身がないのに、ぼうっとしたまま、空を見上げて、口を開けて、奇跡の霊力が降ってくるのを、待っている姿勢です。これは、もともと、恵みばかりを欲しがる信仰の誤った姿勢に当てる喩えだったのですが、ここで、楽山にぴったり当てはまるとは、むしろ驚きです。
 
ここまで執拗に、詭弁を弄して印象操作で自己顕示してくる楽山に対しては、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という見方をせざるを得ず、シャロームの場合と極めて近い判断になり、同一の成りすましか、悪意の企みか、ともかくも、決して近づいてはいけない人格です。
 
楽山に似合っていること、楽山がするべきことを言うなら、だましの細工をしないこと、自らの置かれている立場を弁えること、今までのことを悔いて反省すること、これらは人間として当然のことですが、それができないならば、公開文書を書く資格はないと思います。
 
しかし、高等感情のない楽山は、既に3年以上、平気で続けていますから、私のブログでは、批判を貼り続けるしかないのです。余計なお世話ではなく、楽山のネット活動は、害毒であるという情報の敷衍(ふえん)が必要です。
 
 
暗い

暗い
 
 
(2020年02月20日)
(2022年02月26日、再録+)
 
 
 
  一つの嘘
 
お前(私)は祈りの中で嘘をついたな
御心ならばわが命に代えて、などと
お前は確かに嘘をついた
もしお前が健康で有能で仕事がうまくいっていたら
わが命に代えて、などと祈れたか
仕事がうまくいかずに
やけを起こしていたからだろう
命と引き換えに奇跡が起こって
聖人にでもなるつもりだったか
お前のやけに彼女を引き合いに出すなんて
知らないうちに、一週間も前に
もう死んでしまった人を引き合いに出していたなんて
 
さっきから煙草を吸ったり握ったり
煙草の箱をくるくる回したり
パソコン周りの空き缶や書類やごみ
下の方を見回したり何をやっている
 
馬鹿野郎・・
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
  夢に出てきた
 
初恋の人が夢に出てきた
若い頃はよく出てきた
近年お久しぶり
夢に出てくる彼女
後ろ姿だけのこともある
似ても似つかぬ人だったりする
頭に二~三個、円形脱毛症だったこともある
思い出せば全く別の人
夢の中ではしっかり彼女になっている
今日のは割とまともだったな
勝手に批評している
若い彼女
年とった彼女
ご丁寧に二人も登場した
年とった彼女など知るはずもない
もう二十年以上経つ
どう形成したのか
若い彼女より硬くて冷たい顔だった
どこか寂しげ
そこまでいくと嘘になる
目覚めのとき忘れてしまった
思い出せない彼女
もっとたくさん見たのだろうな
夢見る間だけで消えた人
本物は何処の空の下やら
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
過ちの記録も記憶も自覚も、楽山にはないのでしょう。だから、平気でいられるのです。ふつうは、慙愧(ざんき)の心があり、深く恥じて、そこから反省と成長が始まるのですが、始まるところが、楽山にはないのです。何をやらかしても気にしないでいて、成長より先に、老化が始まっているのです。
 
楽山は、また「st問題資料集」を、ほぼコピペでしょうか、6記事ほど書いています。反省もせず、責任も負わず、それでも自分が正しいと言いたいのでしょうか。異常者の心理は、病理ですから、理解できません。制御不能なので相手にしません。こうはなりたくない。
 
 
 
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  楽山のカルト性2
 
 
カルト批判に見せかけて、無反省・無責任・無理解・無神経に、放言して、評論家気取りで、自己愛を満たそうとしてくるカルト思想宣伝者、楽山のツイートとリツイートですが、なりを潜めたかと思えば、またしても、人の書いたものを、今度は他者のツイートを利用して、自己正当化を図ろうとします。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
フォローありがとうございます。
「朱に交われば赤くなる」など、ことわざには、経験的には一理あるものが多いですね。
午前10:07 · 2021年2月20日·Twitter Web App
 
楽山は、犠牲者となってゆく人を募集しているのでしょうか。
 
(ネットより)
朱に交われば赤くなる:
朱色が入り混じれば赤味を帯びるように、人は付き合う人の良し悪しによって善悪どちらにも感化されるものだ、という意味の言い回し。語源については、中国のことわざ「近墨必緇、近朱必赤」に由来するものとされる。
ウェブリオ辞書
 
ことわざについて、上のような感想しか書けないのでしょうか。「善悪どちらにも感化される」ということを、楽山は書かず、「一理あるものが多いですね」という単純な感想を書いて済ましています。一理もないことわざがあるのでしょうか。それは、ことわざになるでしょうか。
 
楽山のような偽善者に関わると、疲労し、頷き、受け入れて、悪と偽善に感化され、楽山と似たような、無反省・無責任な社交だけで、実質は、鈍麻した無神経の、傍らに人亡きがごとき無法者になってゆくという可能性もあるということです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Algorab archives
@Algorab_MAIKA
返信先: 
@Algorab_MAIKA
さん
フランスがカルト対策にあたり信教の自由との狭間でカルトの定義という壁にぶつかった時、「“宗教”を問うのでなく、その宗教運動による“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問う」という考え方を突破口としました。これはカルト問題に関わるうえで基本的な論理だと思います。(続)
午後8:34 · 2021年2月16日·Twitter Web App
 
有害極まりない自己愛性パーソナリティ障害の楽山の、性根を表すものとして注目するべきことであります。今までの、他者が書いた本を自己正当化に悪用するだけでなく、他者の、しかも、アンチカルトのツイートさえも悪用してくるという根性腐れの卑怯な楽山であります。
 
信教の自由が保証されているために、カルトに対しては、その宗教的内容の是非よりも、“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問うことを突破口にするという考え方のようです。しかし、ここには、大きな欠陥があります。これは、強制捜査や逮捕の基準に過ぎません。
 
言い換えると、犯罪行為に及んだら捕まえる、という、当たり前のことを言っているに過ぎないようです。前に、私の記事に書いたことですが、犯罪行為に及ぶ一日前はカルトではなかったのですか・・否・・という大きな疑問があります。
 
楽山は、何も受け取らない病質者だから、また、同じことを、他者のツイート引用リツイートで言ってきます。カルトは、自分を特別視したい人の集まりのようなものです。人間の努力は、人間性を高めるためのものですが、カルトには、人間性を超えたい人が集まる傾向があります。
 
つまり、こういう考え方の欠陥は、カルトに対するに、法的強制力に頼ることしか考えていない、ということなのです。カルトに対して、強制的にやめさせようとする構えだけでいるから、こういう考え方になってしまいます。
 
カルトに酷い目に遭わされるということは、どういうことでしょう。犯罪を犯すようになるから、というのは、かなりカルトに、のめりこんでいる場合であります。マインドコントロール・洗脳、そして、迷惑行為は、既に、犯罪以前に起こり始めています。人格と生活の破壊が恐ろしいのです。
 
大事なことは、犯罪以前において、私たちには言論があるということです。即ち、カルトの勧誘が取り締まれなくても、信じたら酷いことになる信条で、信じてはいけないカルトだと思ったら、批判することができるということです。しかも、その批判を敷衍(ふえん)することも出来るということです。
 
上のツイッターを載せている楽山(こも楽山)こそは、HS批判を装いながら、自身の心霊妄想を、HSへの批判という反発力を利用して広めようとする軟派カルトなのです。楽山は、人の言うことを聞かず、受け取らず、無視して、分かりもしないキリスト教の悪口をブログに書いています。
 
かつ、クリスチャン芝居をして、反対と賛同の両方を書いたことをもって、断定していないから責任問題は発生しないなどと言って、幼稚で勝手な、成り立たない屁理屈で、好きなように宗教をいじくって遊んでいる異常人格、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
楽山の武器は、ボンヤリ言語、即ち、肯定も否定もせずに曖昧な言い方で、責任逃れをして、丁寧語で、宗教を、特にキリスト教を、侮辱して悦に入るような、婉曲否定と、トホホ言語、即ち、同情をひくための、反省、トホホ、共感、などという言葉だけを書いて、柔和を装う手練手管を振り回すことです。
 
今回も、楽山の、オレが言ったのではないから責任はないじゃろ・・という企みが見え見えであります。何かに賛同したら、賛同した責任が生じます。楽山は、既存の宗教を揶揄し否定しておきながら、その責任を負わず、遊びのように自分を高めるだけですから、決して受け入れてはいけません。
 
楽山は、訂正不能の自己愛という病魔によって、非を認めない無反省、曖昧に書きながら丁寧語の遠回しな刷り込みをしてきて、かつ、責任を負いません。生まれ育った時点で、そういう人格になっていて、罪悪感がない、という人格障害なのです。
 
また、楽山の履歴として、児童心理学を心霊の話にすり替える無理解を表し、奇跡の理路を書いたつもりで何の説得力もない自己矛盾と理解力の欠乏を表し、恐らく深い情緒や思いやりなどを感じ得ない高等感情の鈍麻情性から他者が傷つくのを楽しむという心性を表してきました。
 
何よりも、自身の欠点を、全く認めようとしないで、あらゆる不都合を、人のせいにする他罰性を表すことによって特徴づけられることが、ここ3年ほどの批判で明らかになっています。コメントの遣り取りをすると、無駄に疲れるというエナジーバンパイアであります。
 
今後も、他者の意見を引用して、自分の都合に合わせて悪用することがあるでしょう。楽山、こも楽山、というHNを覚えてください。誘われて応じたら、応じた分だけ、言いようのない疲労をもたらされることになる楽山はサイコパス的人格です。批判に見せかけた教祖願望のカルト思想宣伝者なのです。
 
誘われて非常に疲れる、ということが起こったら、HNは違っても、楽山が関わっている可能性を、考えるべきだと思います。楽山は、いかなる言論の中心にも端っこにも辺縁にもいてはならない特定疲労性病原(これは造語ですが)です。
 
楽山は、右翼思想を礼賛する者であり、他者の精神を破壊するようなカルト的思想~妄想を刷り込んできますが、本質は、幼稚な自己満足と自己愛による霊能者気取りであります。やり口が、集団のカルトよりも、卑怯で、企みに満ちていて、汚いということです。
 
非常に傍迷惑で嫌気がさすときは、上記のツイートを書いた人が、楽山本人である可能性を考えるべきでしょう。楽山が、犯罪に及ばない限りカルトとは言えない、という、上と同じようなことを書いていたからです。楽山は、策士であり、ペテン師であり、嘘吐きであり、詭弁屋であります。
 
楽山には良心がないと思います。そして、同時に、楽山は、他者の良心を破壊する病原です。良心と宗教と信仰と思想に対して、何らかの根深い怨念があるだろうと思われます。書けば書くほど正体がばれるのに、今になっても、悔いることなく、正しい大人を装う芝居をしてきます。
 
 
 2021年02月20日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 霊的真相とは?(ツイート保存)
  抜粋して批判。
 
最も凶悪な者というのは、悪ばかり語るのではなく、悪と善を、真と偽を、混ぜて言ってくるから厄介、というのを聞いたことがあります。楽山という詭弁屋は、まさに、そのようです。楽山の悪と偽善の害は、人格を含めて、全否定して、相手にしないことでしか、防ぎようがないのです。
 
HSに限らず、概して宗教というものは、苦難困難に対して何らかの宗教的な意味づけをすることで乗り越えようとするものではあろうが、HSのいう霊的真相はその中でも極めて特殊、極端に過ぎるし、ここはもう少し穏当、理性的なものに改めた方がいいのではないかと思う。
 
楽山は、他者の苦難困難に乗じて、何らかの詭弁的な意味づけをして、相手を追いつめ、疲労させてきます。そして、何か言われて揶揄の返しも出来ないときは、無視してゆきます。当然、相手は、実に甚だしく消耗し、疲労します。それをいつも狙っているのが、楽山であります。
 
楽山の霊的真相は、自己愛による自己満悦・我執絶対の妄想です。それは、よく読まないと明らかにならないというのが、楽山の、ボンヤリ言語、そして、トホホ言語です。体質的に身につけたそれらの偽善の悪意は、人格レベルで固定されて、何を言っても訂正不能です。
 
 
 
偽善 詭弁 ペテン

偽善 詭弁 ペテン
 
 
(2021年02月21日)
(2022年02月25日、再録+)
 
 
 
  言質
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
 
 
キリストは、神の教えを守れないと正直に言った、または、そう表した人を、信仰の義として、救いました。一方、守っている言った青年を退けて、その心に悲しみを残しました。さらに、キリストは、守っているという確信に凝り固まっているパリサイ人を、真っ向から、敵としました。
 
神の立場で考える愚は避けたいものです。たとえば神は全能であるから罪を消し罪を忘れることもできる、というのは詭弁です。忘れることと覚えていることと、どちらが能力であるか常識で考えれば明らかです。神聖と超常について、豪語すると、カルトに近くなってゆきます。
 
人が知りもしない神の知恵と立場で考えようとすることは実に虚しいことだと思います。人は考える動物ですから人が神について考えるのは自由だけれども、あくまで人の知恵で推測したり想像しているに過ぎないということをわきまえるべきだと思います。
 
 
 
頭の中で辻褄を合わせただけの理屈を読むと、無感動で退屈な、心の閉塞感を感じます。楽山の理屈は、乾いた砂で、こすられるような不快感を伴います。心を満たすことのない人間離れした理屈の組み立ては、人間を語れない不細工だからです。
 
いつも達成できているわけではありませんが、人間の心に寄り添い、心に響くような、潤いと温もりに寄り添うような書き方をしている文章には、心の解放感が伴います。恐らく、それが、説得力というものだろうと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、作戦を練り直すことはあっても、反省、内省、訂正、修正が、できません。楽山にとって、他者に対しては、自分優位が前提となっているからです。謝罪や反省の言葉は書きますが、その前後で、ベースとなる思想や命題は変わらないことから自己愛への固着だと分かるからです。
 
楽山と議論や遣り取りをしてはいけません。信じられないほどの徒労と疲労を味わうでしょう。こちらの言うことは、楽山にとって、揶揄の材料にしかなりません。楽山は、断定していないから責任問題は生じないと言いましたが、楽山の丁寧語は、悪質な刷り込みと印象操作なのです。
 
楽山が書いた殆どコピペの無駄に長い7記事ですが、23日に全部一日で書いたようです。長い記事書けばよいというものではないということ、逆効果だということ、気づかないのでしょうか。原始的に衝動的に書いて、気が済んだのでしょうか。いよいよ冷静を装えなくなっているようです。
 
 
 
 
大国であるロシアと中国が独裁国家という現代の危機であります。中国はどう出るのだろう。独裁国家では言論と思想の自由がありません。第2次大戦では、ドイツ、イタリア、日本が、独裁であった。これだけ、強大な軍事力を持つ2大国が独裁になっている時代があっただろうか。
 
コロナ禍だけでも大きな試練であるのに、ウクライナの局地戦で済むだろうか。プーチンはヒトラー並みのサイコパスなのか。ヨーロッパとアメリカとロシアという大国が関わっている。第3次世界大戦になりませぬように。
 
 
 
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   過去作再録
 
  御旨
 
誰かが間違っているから気に入らない、という思いだけから殺したり潰そうとしたりはしないだろう。しかし、誰かが神に背く者だ、という確信が信仰になってしまうと、敵と見なして殺し潰すことが神の御旨になる。これが思い込み信じ込む宗教の怖さである。それは信仰とは言えないものです。
 
神の御旨を知る根拠は、人の側にはない。そこから、いかに強い思いであっても、神を恐れる人は、恐れのために慎みを持ち、神の御名と御旨を自らの思いに掲げることをしない。そして自らの思いについて、罪の赦しを祈ることになる。これが人としての信仰の敬虔であり謙虚である
 
人は神の道を歩めない
人は神の御旨を知り得ない
人は神を知らない
人はキリストに仕える希望の水の泡であり
ゆえに人は湧いては消える思いに悩み
祈りのうちに裸である
 
 
  絵
 
画集の中の絵画
山の中の林の小道のようだが
 
風と草木が
区別も出来ないほど
乱れ震えて
吹き出すように
動きを伝えてくる
 
外から内から
激しく震え動くのは
こちらの眼と心だ
 
留まることを許さない風景が
心を問う
 
吹かれているか
吹いているか
揺さぶられているか
揺れているか
震わせているか
震えているか
 
動いているか
 
心は
ここにはないのだと
 
 
  偽の関係
 
相手について信じていることに「偽」の称号を与えてください。自分が思っていることは、実際、仮のもの~偽物だからです・・と言うことの語弊を承知の上です。誰でも相手について、知り尽くすことはありません。知っていると思っても、無知と誤解と曲解で関係はできているのです。
 
だから相手は、自分の期待通りに答えることも行うこともありません。もし期待通りだったとしても、その見方が既に偽物なのです。自分の前にいるのは相手ではなく、自分が相手だと思いこんでいる何かなのです。
 
そして相手の意外な言動に、ある日、驚き、がっかりしたり、怒ったり、幻滅したりします。でも幻は滅びたほうがよいでしょう。ときには相手の意外な側面に、喜びを見出すこともあるでしょうが、それもまた本物の相手ではありません。それが、人間関係なのです。
 
私たちは、相手という偽者に出会い、付き合い、そして裏切られ揺さぶられ、ときに気づかされ、決して留まることのない関係という希望の動態に生かされているのです。一人の、仮~偽のものとして。
 
 
  重いテーマ
 
信仰について、理解できない学説のようなものや、根拠のない結論だけのコメントを書かれてもレスしようがないですが、その理由も含めて「レスしようがない」というレスは可能です。それも気が向かないならスルーすればよいのです。しかし、いつも気が向かないでスルーするのは、自己中の人です。
 
相手が一応真面目に書いているらしいコメントなら、削除してはいけないと思います。テキストだけとはいえ、相手は人の書いたコメントですから、削除は、人格の否定につながります。
 
話を合わせて、その場しのぎのレスを返してもいけません。記事にもコメントにも流れがあり、バーチャルとはいえ、ひとつのブログの中で、別人になることは出来ません。いずれ誰かに変だと気づかれるからです。変だと気づくのは、自分自身であるかもしれません。
 
客観的な根拠のある意見の遣り取りが正しい議論ではありますが、テーマが信仰となると、根拠も前提も、根拠、の根拠、の根拠、・・、となれば、つまるところ論理的ではありません。この場合、前提を共有できるかどうかの問題になります。
 
コメントを書く人が皆、生産的で正しい議論を始めるために来ているでしょうか。実際にはコメントの大方は、少し詳しい感想という程度だし、人対人として付き合い方を判断することはあっても、相手が一応真面目に書いているなら、たとい苦言であっても本気で対応するべきでしょう。
 
だから恐らく、それを不毛というなら、私は不毛な遣り取りで時間を無駄にしてゆくだろうと思います。不毛も無駄も非生産的も、私には日常です。それをも諦めるのは、相手が人間だと思えなくなったときだけです。
 
コメントした人は、論客とは限らず、議論するためとも限らないコメント、人が書いたものです。リニアでバイナリの心性が、「根拠がない」→「正しい議論にならない」→不毛(→面倒?)→削除。つまり、一途だが直線的で、1か0か(全か無か)という対応をするとき、自己完結だけになります。
 
即ち、セキュリティのようなプログラムが、プログラムされたかのようにファイル(コメント)を選別し排除するようなものになり、その果てには、結果とは程遠い、茫漠たるウソの国・・そして自己満足か体裁のために白々しい看板を掲げるのです。「反論大歓迎」と。
 
 
重いテーマ

重いテーマ
 
 
(2022年02月24日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間であることの条件は、人間関係の成り立つ条件でもあります。ごまかしと嘘と詭弁のないエリアを、自分の中に、特定の外に向けて、構築できるかどうかであります。それが出来ない者は、生涯を、嘘の国で過ごすことになります。そういう部分はあってもよいが、全体がそうなると破滅です。
 
 
 
 st問題資料集(2_5)悔い改め
 2022年02月23日 楽山日記(LD)
 
 
実際は、(1)、(2,1)、(2,2)、(2,3)、(2,4)、(2,5) まであります。
 
楽山は、長い長い記事を6つ書いています。ここに、読む人のことを、まるで考えない自己中が表れています。こんな長い記事、読む人いるのかね・・と思われる記事です。そういうことを、まるで気にしないのが楽山の特徴です。量で圧倒したいのでしょうか。言論は、そういうものではありません。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山にとっては、説得力など、どうでもよく、長く書いたぞと優越感を感じるのでしょう。楽山が、病質になってしまった経緯は知りませんが、現時点で、すさまじい迷惑男が楽山なのです。人を助ける代わりに、煩わす言動しかしないのです。
 
今回、いちいち、長い文章に逐一批判を加えるつもりはありません。こうなるのは、病質の症状だということを、楽山だけが気づかないということです。こちらは臨機応変に対処します。私が、楽山、シャロームshalom を批判した、その返しに、まるで、なっていない楽山の悪あがきには乗りません。
 
このように、病質者と見なしている楽山が、病質らしい執着で、書いてきた長すぎる文章を、こちらは、疲れるだけだと判断するわけだから、楽山は、強迫的に、届かないものを投げてきたに過ぎません。文章の中身を見なくても、これが、楽山の、大人に成らず、ならず者になった症状なのです。
 
つまり、自分のためだけに他者と関わる楽山の、気遣いのなさと、真実の追求ではなく、勝ち負けの勝ちを得たい短絡した欲望の自己顕示欲だけが、何も生まない、醜いブログ記事となっています。楽山に関わると、こういう地獄を当てられるわけです。つくづく付き合えない人格だということです。
 
楽山に、だまされていた数か月と、こちらの話をまるで受け取っていないことに呆れて批判に転じた3年余りのコメントの文章が、だらだらとコピペしてあり、経過をまとめるとか、批判を正当に返すために必要なことは一切していないのだから、こちらも、気色悪いので、反応する気になりません。
 
こういう書き方は、楽山は、能力を誇示したいのでしょうが、気が付かず、気が回らず、簡潔にも書けない楽山の、言論する人間としての欠陥を示すだけで、今まで、他者と、まともに付き合ってこなかった悲惨な末路だけが表れていて、哀れなだけです。楽山とは、決して関わってはいけません。
 
人は人、自分は自分、というのを、また出しているようです。他にも、人それぞれ、意見を書いてはいけないのですか、などの、だまし文句の詭弁があります。これらが成り立つのは、人間として受け取って考えて、責任を負うところの、正常人だけです。楽山が欠格なのは、何度も書いてきました。
 
以上より、楽山は、書いたものを公開する資格はないと思います。言論者ではないのです。刷り込み屋、詭弁屋、印象操作係、嘘吐き、偽インテリ、気取りだけのピエロ、そして、いつでも、どこまでも、真実から、かけ離れたところに向かって、悪意の笑いと怒りだけを向けるサイコパスです。
 
伝わってくるのは、どうだ、書いたぞ、批判してみろ・・という楽山の、体質からの脅迫だけです。文章の量で勝負できると思っている不全の者、こういうのに、付き合いたいでしょうか。否、決して相手にしてはいけないのです。節操なく、なりふり構わず怒鳴っているのと同じです。
 
 
 
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