ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年02月

 
  疑い
 
 
人間に分かる信仰、どこまで人間に分かるのか、というテーマについて、これまで考えてきたことを書いてみます。
 
 
神の性質は、全知全能・絶対完全・永遠不変、などと言葉で表します。これらの性質は、人間には手に負えないものです。人間は、全知ではない、全能ではない、絶対ではない、完全ではない、永遠ではない、不変ではない・・からです。すなわち、人間は、不完全ということです。ゆえに、罪を犯します。
 
 
Q.神は、将来起こることもご存じなのか。つまり、未来は、既に、決まっているのか。だったら、何をしても無駄ではないか。
 
A.運命論的な考え方ですが、招来は決まっているとしても、人間は、それを知らないのですから、折々に、最善を考えて、努力するしかないのです。それが、人間の宿命です。努力しないのは、ただの怠慢であります。それが、全知全能の神に対して恐れをいだく信仰の根拠であり、信仰の動機であります。
 
 
Q.神様は守ってくれるのか。ならば、なぜ、この世に悲劇が起こるのだ。
 
A.神が人を守ることが、人の都合に合うとは限りません。神が守ってくれると、人の知恵で思い込む信仰は、ご利益信仰に陥りやすく、起こった出来事を自分で解釈して神の意志を、こうなんだ、と決めつけるという背教にもつながりやすいでしょう。
 
それに、神が統べる世界が、この地上だけかということも分かりはしません。神だけがご存知のことです。私たちは、この地上にいて、この地上で成り立つところの、人が学ぶべき真実と善と正義を学んでいますが、不完全ゆえに、何をもって守られていると言うのかさえ知らないのです。
 
それと、試練ということが、よく言われますが、これから試練が起こると分かるわけではないのですし、見方によっては、一生が試練なのかもしれません。信仰は、未来の安全を保証すると考えるのは、傲慢です。信仰生活は、起こったことに対して、人間として、出来ることをして、祈ることことです。
 
 
Q.信じて、試練だけなら、信じることは空しい。
 
A.私たちは、不完全で罪深い人間です。それは信仰者になっても変わりません。恵みや試練を決めつけてはいけません。恵みと思ったことが試練であるかもしれないし、試練と思ったことが恵みであるかもしれません。全部、恵みと思うことは、人間には酷です。思い込み信仰に陥る危険があります。
 
喜び、感謝し、讃美するのが信仰の務めだと思い、悲しむという人間の陰性の感情を抑制していると、だんだん人間離れになってカルト化してゆく可能性があります。信仰者にとって、多くの目覚めや気づきという恵みは、悲しみを通して与えられるでしょう。神に対して正直であってください。
 
信仰の直接の恵みは、ただ、神に正直に祈る時と所が与えられることです。人に正直になれないことが多い地上では、信仰者にとって、包み隠さず告白できる祈りは、宝物となります。できることをする努力以上の、例えば、自分の人生の成功や失敗という結果は、神に任されることです。
 
信仰は、人に都合のよいことが、生涯にわたって保証されることではありません。信仰は、生命保険ではありません。洗礼受けたから、キリスト者になったから、大丈夫ということではありません。信仰が人生に与えるのは、生きる活性です。絶望の崖っぷちで、それを得た人がいるということです。
 
神は、何か良いものをくださるかもしれません。しかし、人は、それを、良いか悪いか、完全に判断する能力を与えられてはいません。私たちは、地上に生きるあいだ、地上の物事に縛られているのです。信仰が、神秘的な悟りのような達観を与えるというのは、人には分からないことです。
 
 
Q.信仰者は、他者より、悟っていて、優れているのか。
 
A.そういうことはないと思っていたほうがよいでしょう。キリスト者の偉人の話は、多く、死後に語られますが、そういう人々になるために信仰があるのではありません。キリストが、語りかけた人々は、ふつうの人々であり、救いの言葉をかけたのは、ただ、余計な先入観を、持てない人でした。
 
 
Q.善人にならなくていいのか。
 
福音書には、多く善人とは言えない人が救われています。信仰は、人の判断する善では測れません。同様に、信仰は、人の判断する正義でも測れません。信仰は、ただ、精いっぱい、正直な祈りをしているかどうかです。大きな勘違いがあるようです。
 
戒めを守って、正しい人に、良い人になる、これは、パリサイ人が目指したことです。キリストは、それを打ち破るために、神に相応しい人を、悪人や病人から選んでいます。守っていると言う青年には、守れない教えを告げました。信仰の真実が、高が知れている人の善や義ではないことを教えています。
 
 
Q.いつも祈っておればよいのか。
 
A.祈らなければ・・で、祈るのは、強迫症状です。祈りの本質は、神経症の症状ではありません。祈りたいときだけ、祈ってください。祈るときは、精いっぱいの正直を心得てください。正直でなかったと気づいたときには、また改めて祈ればいいのです。神は寛容です。
 
信仰者なら、祈りたい時は必ずあります。神は、既に、人が不完全であることをご存知です。正直な祈りを待っておられます。飾った祈りや讃美だらけの祈りで、義務を果たした気分になるのは、強迫神経症の症状です。神の前で、嘘で飾ることは、罪であって、祈りではありません。
 
神は、正直な祈りだけを、寛容さをもって忍耐強く待っておられます。それが、人間が、神に対して出来る精いっぱいであることを、神はご存知だからです。そういう祈りでないと、心の解放にも、魂の救いにもならないのです。
 
 
Q.なぜ、祈りの終わりに、イエス・キリストの御名によって、御名を通して・・と言うのでしょう。
 
A.聖三位の中で、イエスキリストだけが、地上で、人間に直に接した神格だからです。そして、命を捧げるという犠牲によって、人間の死を超克し、人間への命を惜しまない共感すなわち愛を成就したからです。私たちキリスト者には、キリストを通さずに、信仰はありえません。
 
 
Q.異教徒に対しては?
 
A.全能の神が、神の目的そして計画のために、キリスト教を通さずに、何らかの使命を与えて導くということを否定できません。キリスト者が優っている、キリスト者だけが救われる、キリスト者だけが正しいというのは、信仰に思い上がった優越思想であります。
 
キリスト者が特別優秀ということは全然なく、尊敬に値する異教徒も無宗教も求道者も、同じ人間として、平等に、尊ぶべきと考えます。非キリスト者の偉人も、ふつうの人も、人類の敵以外は、尊ぶべきであります。
 
 
Q.信仰の敵とは? 人類の敵とは?
 
A.人類の敵は、国家でも組織でも集団でもありません。人類の敵は、サイコパスです。邪悪な集団に、さらに、少数ですが、あらゆる集団の中に、必ずと言ってよいほど含まれている異常人格です。一方的で自己愛と笑いと怒りしか持ち合わせず、しんみり悲しむ情感と罪悪感がありません。
 
 
Q.人類の敵は殺して良いか?
 
A.殺してはいけません。特定して隔離するべきかもしれないが、法制度は、未だ、そのようには出来ていません。サイコパスからは、即、逃げたほうがよいのですが、サイコパスかどうかの判断は、その知情意と理路と感性とを経時的に見なければならず、気安く決めつけることは出来ません。
 
 
 
疑いと希望

疑いと希望
 
 
(2022年2月23日)
 
 
 
  離人
 
自分の生活の味を忘れ
どこにもいない
他人の生活の味と感じるときから
疑いは始まる
他人の夢を見、
他人の汗をかき
他人の冷汗をかき
足踏みと徘徊を繰り返す
ペンを持って自分を探す
果てしないウソの国を旅する
知らない人になって遊ぶ
そして挨拶する
誰もいない砂漠のはてに向かって
自分という友人に向かって
 
 
  バベル
 
こがねの中でバブルははじけ
大地の下でバブルはつぶれ
多くの人々が死んでいきました
高い高いビルの中で
長い長い道の上で
人々は徒党を組み
同じ志と呼んでも
人々は集いあって
同じ情と呼んでも
ウソは暴かれることもなく
さらに高い塔をあがめるのです
人は群れとなり数となり
互いを石ころのように数え
互いをコードを頼りに送り迎え
高みを高みをと求めるのです
通じ合うルールのような暗号があふれ
通い合わない心が満たされないまま
失われたもののために
低みを流れる川のように
静かな潤いを求めたとしても
求めるとき川は枯れ
渇いたとき泉はなく
飢えたとき食物は尽き
くずれてゆく群れが
カオスの集散を重ねて
いつか恨めしく見るのです
まぶしく光るきらめきを
無機質の異星のような高い塔を
そしてようやく
自らのバブルとバベルに気づき
少しずつ届かない塔を疑い始めるのです
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
 
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
 
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分を正すのは、自分の過ちや罪や悪や足らざるものに気づく人です。気づけない人がいて、嘘を吐き詭弁を弄して人を惑わすなら、放ってはおけないはずです。かといって、捕まえる権利が私たちにはありません。批判を続ける以外にないのです。
 
楽山は、ツイッターや記事、私のツイッターにも、厚かましく何か書き込んで、批判返しを書いたつもりのようです。私は、さらに批判するのに3記事3日を要しました。無駄でしょうけど、それが、批判するしかない対象に対する私の立場だということです。
 
前から言っているように、楽山の信頼度はゼロなのです。つまり、全く信頼していないのです。遣り取りなどしないのです。楽山は、まだ、言論者のつもりでいるようだが、楽山は、害毒を対話に撒き散らすだけです。自分の中の化け物に気づかないのです。楽山からは離れてください。
 
 
 
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  楽山の変な言い訳
 
 
楽山といっしょにされたくないのは、私のほうなのですが、私と楽山の筆致の違いが分からない人がいるのでしょうか。あるいは、楽山が同一説をでっち上げているのかもしれません。楽山は、こちらの言うことを、全く理解せず、当てつけや嫌がらせだけを返してくるだけの人です。
 
 
★こも/楽山日記3@komo266·20時間返信先: @komo266さん
これは長文記事で、話が分かりにくいところもあるかもしれませんが、全体構造は単純です。
私は彼とは別人ですと結論を述べた上で、同一人物認定の根拠とされるものを一つずつ取り上げて、間違いを指摘したというだけのことです。→14
 
既に批判しましたが、ブログ記事は、長い駄文です。批判対象としては、ボロだらけなので、批判記事を書くことだけは出来ますが、時間の無駄でもあります。しかし、楽山は、放っておいてはいけない人です。一日も早く、楽山のいないネットの正常な言論の世界になってほしいです。
 
 
★こも/楽山日記3@komo266·20時間
そうそう。この頃、裏垢認定してきた人たちは、私が発言する度に、「もうバレてるのに、まだ二人羽織やってる。クスクス」みたいにバカにしてきたものでした。
でも私は、そんな野次はさほど気にならなかったですね。「見当違いのことを言ってるなあ」と思ったくらいです。
 
楽山は、実に、やすやすと、自分を捏造の空想の正義の位置に置くことが出来ます。ふつう、できないことです。冷静を装って、教訓みたいな書き方をしますが、楽山の言論は、犬がヨダレを垂らしているようなもので、とても汚いです。楽山のワールドが、一日も早く、ネットから消えることを祈ります。
 
 
★こも/楽山日記3@komo266·20時間
理屈を言えば、こうですね。
・同一人物認定を覆せば、それに起因する野次は消える
・「侮辱するな」といくら怒っても、同一人物認定を覆せなければ、それに起因する野次は消えない
要は、野次を気に病んでも仕方がない。それよりまずは同一人物認定を覆すことが先決だってことです。
 
私は、人でなしとして、最悪の類人として、楽山を批判しています。人間から、温もりと潤い、つまり、良心と罪悪感という人間性を除くと、楽山のようになるのかもしれません。共感性のない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、他者を侮辱するという見本となるのが、楽山です。
 
 
★こも/楽山日記3@komo266·20時間
というわけで、私は自分の体験から、裏垢認定や侮辱されることが嫌なら、まずは第一段階としてはっきり別人宣言をし、その次には裏垢認定の根拠とされるものを片っ端から論破することをおすすめします
 
(ネットより)
裏垢
読み方:うらあか
別表記:裏アカ
ソーシャルメディアなどにおいて、自身のアカウントとして開設した本来のアカウントとは別に、秘密裏に設けた、匿名アカウントのこと。いわゆる「裏アカウント」の略。「垢」の字は「アカウント」の意味で用いられるインターネットスラングである。
https://www.weblio.jp/content/%E8%A3%8F%E5%9E%A2
 
楽山は、裏アカウントを持っていると思います。裏アカウントで、荒らしとしても働いているでしょう。楽山には、罪悪感がないからです。人を操るのが面白くてネットしていると思います。つまり、愉快犯なので、みんなで追い出すしかないのです。そのための資料として、批判してきたわけです。
 
 
★こも/楽山日記3@komo266·20時間
もう一つ思い出した。
この時、私は、同一人物認定された相手とは、個性が全く違うので、じきに別人と分かるだろうと高をくくってたら、
認定者は「この人は二重人格なのだ」と言い出して、これには驚愕とともに大笑いを止められなかったのでした🤣4 顔文字(大爆笑)
 
大笑いではなく、楽山は、多重人格というよりは、詐欺師・ペテン師の類だと思います。平気で嘘を吐き、人をだまし、不都合を一切無視して、自分可愛さの捏造記事を書くことが出来るのです。表面的な付き合いでは分からないことが、真実の追求に迫るほどに、醜い本性として、文脈に表れてきます。
 
楽山には、円居(まどい)がなく、ひとかけらの余裕もないのに、余裕ありげに装います。人を蔑んで、自分の優秀さに満悦していないと気が済まないのでしょう。しかし、楽山には、そのような優秀さは、欠片もないのです。それで、ボロが出ていることを、ことごとく無視する習慣が染みついています。
 
楽山は、仏様の気持ちが分かるっぽいという教祖願望があるようですが、実際は、発狂素でしかありません。楽山と遣り取りをすると、異様な疲労感と徒労感を味わいます。楽山は、そういう、何の意味もない有害な作用に人を巻き込み壊して、勝った気分でいるので、評論家気取りにもなるのでしょう。
 
 
普段から努めて本当のことを書いていて、時に、間違えたというのなら信頼が崩れることはありません。しかし、いつも嘘と本当を混ぜて書いてくることは、基本的な信頼がなくなることであり、結局、その人の言うことは、何も信じないほうが無難ということにしかならないのです。
 
 
楽山ブログには「香車 椪吉」という人が出て来て「へのへの」の話が始まっているのですが、その実体が、ネットにあるのだろうか。またしても、楽山の成りすましのような気がしてきました。ひょっとして、楽山は、既に、誰にも相手にされなくなっているのか。だとすれば、望ましいことですが。
 
 
楽山は、社交の世辞で付き合っている限り、ふつう~柔和に見えます。私も数か月だまされていました。本気で、真実の追求として遣り取りすると、いかに、受け答えの出来ない人かが分かってきます。そして、とても、まともに話し合える人ではない、ということがバレてゆくのです。
 
 
 
道のない放浪者

道のない放浪者
 
 
(2022年02月22日)
 
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」などと嘯(うそぶ)く病質のペテン師にだまされることなく、静かで安らかに精神的に生産的に地上で生きる糧(かて)となる言葉を求めてほしいのです。暴走は、やがて、悲劇的な結末を迎えるでしょう。その時以前に、悪の素材について防疫を整えていてほしいのです。
 
私は、今、ずっと独りです。固陋(ころう)でもあります。だから、生きている間、これ以上、小さくは成りません。しかし、楽山は、将来、周囲からも誰からも、愛想つかされて、独りになるでしょう。だます、という対人処理によって生きている楽山は、そこから、生きてはいなくなるのです。
 
 
 
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  楽山の捏造(2)
 
 【st自由同一人物説!?】
 「stと自由は同一人物?」「いいえ、stさんと私は別人ですよ」
 2018年08月18日 楽山日記(LD)
 
 
3年ほど前の楽山の記事の後半です。批判するのは初めてですが、読者を全く考えない長い駄弁です。私は、楽山を批判しているので扱いますが、決して、楽山に関わって読んだりしないほうがいいと思います。楽山は、平気で嘘を吐き、詭弁で理路を混乱させて、相手を疲弊させ、人格を破壊する人です。
 
 
私とマリアさんをstさんがカルトだと言い始めたら、タイミングよく自由さんはカルト記事を書いた、そしてそれをstさんは即座に 自由さんの記事から転載した。 それはタイミングが良すぎる。
 」
当ブログをご覧いただければ理解していただけると思いますが、私は前々からカルト問題に興味があり、その方面の記事を書いてます。
だから、カルトか否かの議論に注目し、触発され、自らの過去の反省の意味もあって、その種の記事を書いたということです。
 
楽山は、個人としての無神教カルトです。恐らく、宗教について何も分からないまま、宗教を憎んでいると思います。しかし、楽山には、本気がないので、趣味で、からかっている可能性もあります。宗教など、どうでもいいのが、楽山で、理屈を振り回したいだけで書いて、反宗教をあらわにしてきました。
 
 
この記事中には、キリスト教では「正統派を自認する側から見た「聖書を流用する異端集団」というカルト観を表明する人たちがいます。感情的に仕方ないことなのかもしれませんが。」という部分があります。
 
異端集団はいると思いますが、「感情的に仕方ない」ではなく、視野が狭くなり、良心と常識から乖離してゆくために、人間を駄目する教条は、批判対象となります。近々では、今は所在不明のシャロームshalom が、その典型例となっています。
 
 
この文章が記憶に残っていたせいか、私は、stさんがカルト云々と発言したときには、「カルト教団の信者」という意味よりは、「異端者」という意味合いなんだろうなあと思ったのでした。
 
異端は、間違っているということですから、広まってはいけないものです。シャロームは、トンデモ教理として、「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」「悔い改めは神が与える」などと言い出しました。これは、異端どころか、デタラメなカルトなのです。
 
 
あとは、Yさんらの発言を見ていて、「自分もカルト信者だった頃は、こういう考え方をしていたなあ」と思ったりもしたものです。この辺りが、自分の過去の反省に通ずる部分ですね。
上にも書きましたが、stさんと私で何十ものコメントのやり取りの最中に割り込んでこようとした事、通常の神経を持っている人間なら 入ってこないです、。 自由のハンドルネームはstさんと同一人物なので、気を使うこともなく、勝手気ままに横レスを入れられるのです。 
 」
また、Mさんと同じく、「、。」を使ってますね。こういう句読点の使い方は他では見たことないですけど、流行りなんでしょうか。
まあそれはともかく、上にも書きましたが、私は他所で、カルト信者らとの喧々諤々の議論を見たり、参加してたりしてたせいか、横レスするのも、されるのも、あんまり気にならないタイプです。すみません。
 
楽山は、喧々囂々の議論には参加しないと思います。丁寧語で品の良さを装っているからです。心の中では、笑いながら、そういう議論を軽蔑していると思います。サイコパスには、悲しみの情がなく、笑いと怒り、別の言い方をすると、あざ笑いと怨念だけがあるのです。
 
 
あ、今、気が付きましたが、「上にも書きましたが」というのは、Yさんも使ってますね。でも、こういう慣用的な表現が被ったからといって、別にどうってことはありません。たまたまそうなっただけであって、Yさんと私とが同一人物ではないのは当たり前です。
言葉遣い、語彙、決まり文句…などは、同一人物でなくとも、やり取りする間柄であれば、たとえそれが協調関係であろうと、敵対関係であろうとも、相互に影響し合うものですから、似てくるものなんですよね。
 
楽山は、気安く「似てくる」と言っていますが、いがみ合っている、論争している、という関係では、影響を避けるものです。楽山のようにはなりたくない、楽山のようになったらおしまいだ、という気持ちがあるからです。ゆえに、楽山には関わらないようにと呼びかけています。
 
 
あとは、自分で言うのも何ですけど、私が人間観の話題を持ち出したのは、それなりの理由はありました。
お互いに人格批判して傷つけあうよりも、アブラハムは義人だったか、人は義人となれるのかという議論をした方が生産的だろうし、そちらの方に話題を転じられればと期待してたわけです。
まあ結果は、「バカは黙ってろ。バカが口を開けば余計に事態は悪くなる」という教訓通りになったわけですが…。とほほ。
 
楽山の悪意と罪と偽善と嘘吐きと詭弁は、楽山の人格障害から来ていると判断しています。ゆえに、人格そのものを批判して、広く知らせる必要があると判断して、批判記事を書いています。こういう批判は、成否は度外視して、書かなければなりません。
 
 
私はリアルでも、空気が悪いと思えば、意図的にその空気を変えようとすることはあります。その時には、「お前、空気読めよ」と言う人もいれば、「お前、あんまり気を使いすぎるなよ」と言う人もいます。
私のやり方が下手だからこういう結果になるわけですが、後者は、人の内面を察するのに長けた方だなあと感心します。
 
楽山は、積極的にも、言い逃れとしても、空気を屁のように排気ガスのように毒ガスのように汚染してきます。始めのうちの優しそうな丁寧語は、全くの偽りであります。話が進むと、追いつかず、デタラメを言って、相手の理路を混乱させてきます。楽山とは、出会わないのが幸福というものです。
 
だから、楽山は「お前、あんまり気を使いすぎるなよ」と、気遣いをする人と言われると、楽山は、マタタビを与えられたネコのように悦ぶのでしょう。つまり、楽山は、本能として、褒められるというエサが欲しくてたまらないヒト型動物であります。それ以外は何も受け取らない人です。
 
 
*ものすごい怨念?
これは、stさんに向けて書いてるのか、私に向けて書いてるのか、その境目が判然としないですね。
この人は、どうしても私を否定したいようです。
抹殺したいようです。
最初は優しい言葉で近づいてきました。
しかし、彼の書いた文字には
ものすごい怨念が感じられました、
だから 自由さんには 即座に退出をさせました。
ふたりは 同一人物なのです。
 」
上の方では、私に配慮して、コメントを未承認にしてあげたという感じでしたけど、
ここをみると、はじめっから私のことを疑い、拒絶してたみたいですね。
疑い、拒絶していた相手にも配慮を忘れないのであれば、Yさんは立派な方だと思います。
 
楽山は、配慮の出来ない人です。思いやりや謙虚さなどの高等感情がないからです。ゆえに、配慮や思いやりの話を、曲解や妄想で、捏造してきます。「立派な方」は嘘です。楽山の世界には、楽山以上に立派な?人は存在しません。だから、訂正不能の高慢で上から教えて?くるのです。
 
楽山は、「ものすごい怨念」を、他者の心に、わざわざ育てています。だから、前に、ぶん殴られるだろうと言いました。もっと酷いことになるかもしれません。自己中が、いつまでも通る世界ではないのです。楽山の人を軽んじる態度は、いずれバレるでしょう。あと何十年生きるつもりなのでしょうか。
 
 
*主語は?
あとは、この二つの文章に共通する点を考えてみると、どちらもYさんについての文章だということがあります。言葉を補うと、こうなるでしょう。
(Yさんは) まあ今は忙しくて、そっちに手が回らないのでしょう、たぶん  
(Yさんは) 人間についても人間の言葉についても、神がかりと人間離れのために、失っている人のようです 。
一般に、こんな風に主語が同じであれば、つなげて読めたとしても不思議ではないです。
たとえば、こんな風に。
K 「(Aさんは)すごく優しい方ですね」
J 「(Aさんは)人の心が分かる人なんでしょうね」
これをつなげれば、こうなります。
「(Aさんは)すごく優しい方ですね。人の心が分かる人なんでしょうね」
どうでしょうか? 二つの文章はきれいにつながっているのではないでしょうか。
stさんと私の場合は、立ち位置に若干のちがいがあるので、主語が同じでもつなげると不自然さがありました。
でも、KとJの場合は、主語だけでなく、立ち位置も同じなので、つなげると一人の言葉としか思えなくなってます。
 
こういう、一見まともそうな小理屈が、楽山が、焦点をぼかし、保身するために投げてくる混乱の泥水です。ここに付き合うことから、相手が分からなくなってゆくことを狙っているわけです。だから、この狡猾さの犠牲にならないためにも、楽山を相手にしてはいけないのです。
 
 
このことから、Yさんが、stさんと私の文章はつながると錯覚してしまった原因がどこにあるか、およその見当はつけられそうです。
うっかりミスは誰にでもあることだし、これをもってYさんを責めはしませんが、元々、頭のいい人だろうし、先入観にとらわれず、じっくり考えればこんなミスはしなかったろうと思うと残念であるし、気の毒だなあとは思います。
 
楽山は、先入観を与えて「責めはしませんが」責めて疲れさせてきます。「頭のいい人」という世辞を言い、「ミスはしなかったろう」と言うことで、ミスだと断定してゆく、楽山の、だまし言葉なのです。「じっくり考え」ない相手という結論から、「残念であるし、気の毒」の蔑みにつなげています。
 
 
*まとめ(別人です!)
つい先日、私はstさんのところにおじゃまして、的外れな批判に対しては、いちいち反論しないでもいいのではないかというようなコメントをしました。
でも、st自由同一人物説を真に受けてる人がいるらしいこと、いまだに的外れな批判が続けられていること、当該記事を読み返してみたことなどから、やっぱりこちらの意見も出した方がいいかなあと考え直して、この記事を書いた次第です。
stさんには、わざわざ反論の必要ないでしょうと偉そうなことを言っておきながら、あっという間に考えを変えるなんて、我ながら節操なく、情けないと思いますが、まあ仕方ありません。
 
ペテン師だと、分からないあいだ、だまされていましたが、分かってから、反省しないし弁明もしないのは、言論者ではないということです。楽山は、丁寧は皮だけで、中身は真っ黒です。丁寧語でだます偽善者、楽山は、暴言を吐く自称ヨシュアより、はるかに偽善性の高い悪なのです。
 
 
というわけで、私の主張をもう一度繰り返しますが、stさんと私は別人です。このことは、強く強調しておきます。
すでに二人は同一人物だと信じ込んでいる人からしたら、それを修正することは難しいかもしれませんが、事実は事実、真実は真実です。二人は別人です。
 
私は、楽山を批判しています。楽山は、批判に何も答えず、いつも、だますためだけに、この記事のような冷静を気取る文章を書いてきます。優しさも柔和も芝居の、楽山のような人がいる社会ですから、人の言うことを鵜呑みにするのだけは、やめたほうがいいと思います。
 
 
この事実に反発する人に対しては、「すぐに、この事実を受け入れなさい」とまでは言いませんが、できればこれを機会に、もう少し考えてみてもらえたらなあとは思います。
以上、長い記事になってしまいましたが、最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
〈了〉
 
この礼儀正しさも芝居です。楽山には、実感というものがないのだろうと思います。数か月だまされたのち、3年あまり、批判しています。楽山は、狡猾さが加わって、私が生きてきた中で、最も悪質はワルの部類として、批判を続けてゆくつもりです。近くにいる人は一刻も早く逃げてください。
 
 
*追記
けっこうな長文なので、もしかしたら、キモイと言われてしまいそうな気もしますが、
一つ一つの論点を、なるだけ丁寧に説明したら、こんなになってしまいました。まあしょうがないですね。
 
キモイで済むような人ではありません。論点などありません。丁寧は、みな、詭弁か、偽りです。しょうがないのではなく、楽山撲滅同盟でも作りたいくらいに、楽山は、一刻も早く、ネットの言論から追放するべきサイコパスです。決して許してはなりません。
 
 
 
 精神の生産力
 
精神の生産力とは
頭脳・能力の生産性・効率という意味ではなく
創造力や想像力という才能でもなく
 
精神の破壊力に対する力です。
 
生産力または再生産力
人間が育み与えうる力の中で
精神の破壊力に対応するために
物質的・精神的な最小限の安らぎの糧(かて)
または生きるための平等な未来
日々の平安かつチャンスに満ちた力
 
精神的投資を惜しまないだけの
物質文明に劣らない精神性
それらの投資を充分にして破壊に走る力と戦うべきです
 
うわべにだまされないように
敏感力と鈍感力と
何よりも共感力が必要です
 
 
 
節操の破壊

節操の破壊
 
 
(2022年02月21日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、自身の知性におごっているのかもしれません。それこそが、自己愛性人格障害の誇大妄想です。話が進むと理路が成り立たなくなるために、安い詭弁で混乱させてきます。相手が混乱し、慌てて、感情的になるのを、楽山は楽しんでいるのです。もうこれ以上、誰も、だまされないでください。
 
楽山の記事やツイートの、論理学の初歩みたいなAとかBとか、命題めいた言い訳とか、自分の頭の中をくるくる回ってる小理屈に過ぎないし、ダイレクトな説得力も、その努力をする姿勢も、まったく感じられない、ごまかしの擦り切れた残骸には、いつ見ても、うんざりさせられます。
 
 
 
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  楽山の捏造
 
 【st自由同一人物説!?】
 「stと自由は同一人物?」「いいえ、stさんと私は別人ですよ」
 2018年08月18日 楽山日記(LD)
 
 
楽山といっしょにされたくないのは、私のほうなのですが、私と楽山の筆致の違いが分からない人がいるとは、驚きです。あるいは、楽山が同一説をでっち上げているのかもしれません。楽山は、こちらの言うことを、全く理解せず、当てつけや嫌がらせだけを返してくる人です。
 
同一説など持ちだして、stが存在しない印象付けでもしたいのでしょうか。Yという人物のことが、書いてあり、自称ヨシュアかもしれませんが、既に忘れていることが多く、省略します。加えて、楽山批判とは関係ないことも省略します。
 
 
*st自由同一人物説!?
先日、他所の議論にコメントを入れたら、そのせいで自作自演の嫌疑をかけられてしまいました。
・STさんは複数のハンドルネームを使って多重人格を形成し他者を攻撃しています。|The Gate of Heaven
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64576120.html
 」
これはあまりに頓珍漢だし、いちいち反論する気にもならなかったけど、その後、思うところあって、やっぱり何か書いといた方がよいと考えを改め、記事にすることにしました。
 
リンクは、ヤフー終了によって消失しています。楽山らしい、いちゃもんです。tenzinkuoshi というHNは、自称ヨシュアだったか、はっきりとは覚えていません。2018年の記事を出してきた楽山は、何を企んでいるのでしょう。
 
私は、st5402jp、「はてな」のstdsts、本名の戸田聡だけで、それ以外のHNは使っていないと思います。しかし百%の自信はありませんので、疑問がございましたら、私に問い合わせてください。
 
多重人格のように複数のHNを使っているのは、楽山です。ヤフー時代に、荒らしてきた多数のHNも、楽山の成りすましの疑いがあります。そのことは、既に、記事に書いたと思います。
 
 
*横レス問題
まずはこの辺りを読むと、Yさんは、議論の当事者でない私が横レスしたことを問題視しているようです。
その荒らし行為に私が対抗している最中(さなか)、ど真ん中に、「自由」さんが
突然割り込もうとしました。
突然でした。
通常、激しいやりとりが行われているところに 誰も横レスなどしません。
 」
これはまあ、普通はその通りなんだろうと思います。
ただ私は、他所でカルト信者との喧々諤々の議論を見たり、やったり、横レスしたり、されたりしてきた経験があるせいか、この辺りのことはあまり気にしない方です。
 
楽山(自由)は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので、当然、他者の立場など考えずに、罪悪感のない本能のように粗雑な精神で書き込んできます。楽山は、全く人のことを「気にしない」人です。だから今でも書けるのでしょう。
 
正常の精神ならば、到底、書けないはずです。無反省、無責任、無神経で、良心の無い人ですから、どうか、近づかないでください。楽山の理屈は、偏見と妄想で出来ているだけですが、真に受けると、疲労し情意鈍麻に陥り、さらには、楽山に隷属して人格破壊されてしまう可能性があります。
 
 
*配慮の内容
配慮うんぬんは、率直に申し上げると、よく分からないですね。
当日、二度目のコメントは 自由さんに配慮して、stさんから見えないように 
承認ボタンを押さず、
そのままとし、自由さんには その旨伝えました。
 」
私としては、私のコメントが承認公開されなかったのは、
Yさんが読めばそれで十分であること、
承認公開されるとYさんとstさんとの対決の邪魔になることなどが、理由だろうと思ってました。
 
対決と楽山は言っています。楽山は、対決して、自分の優位性を確認したいのでしょう。楽山に関わると、そのような餌食になるわけです。餌食になるというのは、楽山が、とても卑怯で、嘘と詭弁によって情報操作をするからです。
 
 
*ポチ君よろしく
これは迂闊ながらも、思わず笑ってしまった。わんちゃんみたいだったであるしょうか。
自由さんはstさんの、わんちゃんのポチ君よろしく、手先のようになって
内容を 報告していました。
 」
これについて、コメント欄の流れを見ていただければわかると思うけど、
stさんが、承認されていないコメントがあることに疑念を表明し、それが新たな火種になりそうな気配があるでしょう。
だから私は、それは大して問題視する必要ないですよと、stさんに伝えようとしたのです。
見方を変えれば、未承認コメントがあることをもって、Yさんがstさんから非難されないようにしたってこと。
 
覚えていません。こういうことを持ち出しても意味はないと思います。なぜ、楽山は、持ち出すかと言えば、焦点を外してゆく狙い以外、思いつきません。
 
 
私は自由さんに配慮していたのに、、何を自由さんはしている!?と不思議でした。
 」
それは申し訳ないことをしました。すみません。
私の方では、上で述べた通り、私のコメントが公開されなかったのは、議論を円滑にするためのものだと思ってました。
だから、新たな火種が生じないようにコメント内容を伝えるのは、この目的にかなうものだろうし、かまわないだろうという考えてました。
 
楽山は、議論を、なじり合いに変える人です。まず、楽山に、正常な理路など、成り立ったことがありません。嘘と詭弁によって論理的に見せかけるだけの、混乱因子が楽山です。楽山が、自ら火種を蒔き、さらに、言い逃れるために、曖昧な周辺事項に話を持っていって、混乱をもたらすのです。
 
 
どうして、私が わざわざ 未承認にしてあげて、気をつかって配慮していたのに、
自由さんは、
何のことは無い、stさんに 報告している。
 」
 見当ちがいだったらすみませんけど、気を使って未承認にしてあげたというのは、ひょっとしたら、私のコメントが謝罪コメントだったからでしょうか。
謝罪コメントを公開されたら私が恥ずかしいだろうと思いやったということ? 違うかな?
ともかくも、せっかくの配慮を無にしてしまったようで申し訳ありません。
 
楽山には、本気というものがありません。言っていることには真剣味が皆無です。ゆえに、何か言えば、本音の見えない嘘と詭弁と嫌がらせになるのです。そのような悪意の作業をして、人の反応を見て、人が混乱するのを見ることが、楽山の生き甲斐、あるいは、唯一の快感なのかもしれません。
 
 
*根拠について
記事には、st自由同一人物説の根拠について、いろいろ並べてあります。
私は、stさんではないので、stさんに関わる部分については答えようはないですけど、自分に関することなら答えられるので、その部分について書いてみます。
stさんは自由という言葉を好むのがすぐわかる、だから別のブログのハンドルネームには自由と名付けたようだ。
 」
私が「自由」と名乗ってるのは、マインドコントロールからの自由とか、そういう意図があってのことです。
 
楽山こそ、マインドコントロールしてくる加害者です。というより、相手の心を混乱させて遊んでいるナルシストであり、サイコパス精神病質なのです。人の良心を虫食む楽山の言うことを、決して受け取らないでください。
 
 
恥ずかしながら私は、過去にカルトにハマっていた時期があるので、そういう名前にしたわけです。
両ブログとも 思考パターンが非常に似ている。例えば、AがAなら〇、AがBなら×、AがBなら△dなどの分析的思考をブログ上でしていた、。 
 」
分析的思考というのは、ある程度ものを考える人なら、誰でもやることであって、分析的思考が共通しているから同一人物だといわれても困ります。
 
楽山と「分析的思考が共通している」というのは、驚きです。私は、AとかBとか使う説明は苦手というか、好みません。小さいことに話を変えて論理的に見せているのは楽山ですが、大方、論点を逸らせるためです。それで、相手を混乱させたいのでしょう。
 
私が大事にしているのは、人間らしい心です。楽山には、それがありません。深い情緒、感動、共感、反省、罪悪感などが、楽山には欠如していると思います。自己愛性人格障害者は、都合のよい知識を仕入れることはあっても、学習をしないので、いつまでも幼稚で、成長しないのです。
 
 
それに私は、分析、論理は大切とは思いますが、それ以上に内省的であることを大事に思ってます。
分析的論理的であっても内省的でない人の言葉は薄っぺらいけれども、分析的論理的ではなくとも内省的な人の言葉は奥深いことが多いので…。
 
内省が、全く見られないのが、楽山です。楽山は、自分の有利になるように、話を捻じ曲げてゆきます。屁理屈が得意に見せかける詭弁です。要は、混乱させて、ごまかすやり方です。最も汚い論争手法であり、まともは人はしないことなのです。楽山の吹っ掛ける屁理屈に、決して応じてはいけません。
 
楽山は、理論家ではありません。程度が低くて成り立たない理屈屋、つまり、屁理屈屋に過ぎません。ベースとなっているのは、自己愛からの欲望です。インテリ気取り、評論家気取りで書いてきますが、誰にとっても何の糧(かて)にもならないものばかりです。楽山には意味はないのです。
 
 
ところで、Yさんも、Mさんも、どちらも文末に「、。」と書きますね。
分析的思考が共通してることよりも、こういう特殊な文字遣いが共通している方がよほどあやしく、同一人物であることが疑われるのではないでしょうか。まあこれは冗談ですけど。
言葉使いまたは同じ語句の使用、そして言い回しに類似点が多くある。たとえば、「である・直感・論法・共感・様相を呈す・正直・」他にもあるが省略。
 」
ここで例示されてる言葉は、さほど特殊でなく、誰でも使うものでしょう。
「直観、論法、共感、正直」は誰でも使う言葉だし、「様相を呈す」はよくある決まり文句です。
 
楽山にとっては、議論の言葉が重宝しているのだろうと思います。反省、感動、共感、などと言葉だけ書いても、楽山には、その実感を表す文章が書けないのです。何事にも実感がないからでしょう。
 
 
また、日本語の末尾は、大きく分ければ、「だ、である」体と、「です、ます」調の二つしかないのに、「二人とも『だ、である』体を使ってるから同一人物だ」というのは無茶です。
なんかこういうのって、「stも、自由も、どちらも日本語を使っているから、二人は同一人物にちがいない」と言われているみたいで、変な感じです。
 
楽山は、丁寧語を使います。やさしい人格に成りすましています。そういうコメントが付いたこともあります。しかし、楽山の心の中が、実は闇であることが、その、ごまかしの理路や、感性の乏しい、鈍麻した平坦な文章によって、明らかになっています。
 
 
ちなみに私から見て、stさんの言葉で印象に残ってるのは、「訂正不能」という言葉です。私だったら、この場合は、「反省できない」という表現にするだろうと思います。
でもstさんと話すときは、流れを重視して、「反省できない」を「訂正不能」に置き換えて話すかもしれません。
 
「反省できない」から「訂正不能」なのでしょう。どちらも楽山の持ち物です。柔和に見せかける表面的な言葉のうわべ、しかし、奥にある闇は、隠れていても、より大きな文脈に、また筆致に、表れてきたのです。楽山の世界は、闇の中で生み出され、世辞と丁寧語という体裁で襲ってきます。
 
 
多分だけど、他の人にもこういうことはあるんじゃないかなあと想像します。
つまり、言葉遣いは、相互に影響し合う側面があるから、二人の言葉遣いが同じであることをもって、二人の間に交流があるだろうことは推定できても、、二人は同一人物であるとまでは断定できないってことです。
 
「とまでは断定できない」というような曖昧な語尾が、楽山の得意技です。つまり、何も、真剣には考えていないから、曖昧な語尾になるのです。楽山についてゆくと、光は失せ、薄闇から、暗黒に至るでしょう。精神の混乱から、精神が鈍くなり、盲従する人も含めて、人格破壊に至るでしょう。
 
 
・・楽山の捏造(2)につづく・・
 
 
 
  絶望の人
 
垢のような慈愛と善意は
容易に偽善と悪意に変わる
眼の色は容易に変わる
 
しかもどちらかではなく
しばしばそれらは混ざり合っている
眼の色は容易に濁る
 
曇った眼に何の覚悟もなく
弱肉強食の自然淘汰の
動物の世界のように
うっかり干渉してしまって
怒りともつかぬ渦が回っている
 
その重さを今日も引きずり
彼は、生きている言葉も
実在する絶望も希望も
表すことはないのである
 
 
 
絶望的な気取り

絶望的な気取り
 
 
(2022年02月20日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の表面的な、丁寧さと柔和さにだまされて付き合う人がいても、結局は、楽山の訂正不能の我執と、無反省と無責任に気づくことになるでしょう。その時、楽山は、何の節操もない者として、ふつうの生存さえ許されなくなるのではないかと思います。私が出会った中で、最も凶悪な病質者です。
 
 
 
 楽山の発言です。
 
 
「批判の内容」について触れなかったのは、率直に申し上げると興味がないということです。多分、第三者氏もそうだから触れなかったのでしょう。人は興味があることについては話しても、興味がないことは話題にしないものです。ただそれだけのことです。
 
楽山が、批判を、趣味のように考えていることが分かります。弁明する気もないようですから、こちらは、楽山を批判する一方通行になっています。そうなったら、批判が止むでしょうか、とんでもない、ますます、不感不応の楽山には、批判が重なってゆくだけです。もう3年以上になります。
 
 
前々から、st氏には、誤読、歪曲、投影、決めつけ、邪推、妄想…などが多すぎることは指摘していますが、残念ながら今回も同じ感想を持ちました。
こういうことを書くのは失礼かもしれませんが偽善や社交は嫌いなようなので、正直に書いておきます。
 
「誤読、歪曲、投影、決めつけ、邪推、妄想…など」は、あってはならないことです。しかし、楽山は「多すぎる」と書いています。では申し上げますが、これら、あってはならないことを、楽山は、日常的にやっていて、そのために、ずっと言論による真実の追求の妨害者として存在してきたのです。
 
私は、社交は苦手です。誰がやっても偽善は大嫌いです。偽善者は、聖書では、キリストを殺した者たちでした。今は、ネットの向こう側に実在しています。楽山は、社交のセリフは好きなようで、しばしば使います。それで、結局は、だましているので、偽善者という判断になりました。
 
楽山は、私のツイッターにも割り込んできました。「通知」の「すべて」の中に無遠慮に書いてきています。批判されながら、こういう図々しさというのは、良心と良識がないことの証拠になるでしょう。私は、批判を始めて以来、楽山のブログのコメント欄にもツイッターにも書かないことにしています。
 
楽山の、AとかBとか、言い訳とかは、楽山の頭の中で、くるくる回っている論理遊びの小理屈に過ぎません。大きなテーマの流れの、ダイレクトな説得力も、発想力も、気づきも、その努力をする気もない者の、ごまかしのゴマ粒に、いちいち頷く気にも、時間をかけて考える気にもなれません。
 
楽山は、私のツイッターの「通知」に攻撃して来ました。私は、楽山のコメント欄にもツイッターにも書いてはいませんが、罪悪感も羞恥心もない楽山は、平気で書いてくるのです。こういう楽山の丁寧ごかしの無礼な様を見て、批判の決意を新たにします。
 
 
 
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  信仰と確信2
 
 
信仰と確信は対立軸です。信仰の反面教師が確信です。
 
信仰は仰ぎ、確信は見下ろします。
 
確信は、信条や信念と似ていますが、人が神の意思と行為についての疑問と不都合から目を逸らして無視するので、自己においても他者に対しても、自らの思考の欠点を無視してゆきます。
 
確信は、詰まるところ、思い込みを促進する自分信仰なのです。
 
※ 一時的な確信は、覚悟であり、一時的であるので固定した確信ではありません。
 
 
信仰に信条はない。信仰は疑問を排除しない。
 
目を見張ることはあり、瞬きはするが、わざと目をつぶったりはしない。
 
 
信条と呼ばれるものは、信仰の要となる言葉のヒントとして重要です。信条を覚えて思い込んで信仰が成立することはありません。
 
 
信仰は信じるところを論理のようには知りません。人間だからです。
 
確信は信じこむことの罪を知らない。人間でなくなりつつあるからです。
 
聖書は神の言葉と言われますが、読み取るほうの私たちは人の言葉しか持っていないことを肝に銘じるべきであります。人間の精神活動に絶対はありません。それを弁えることは、信仰において必須です。
 
 
信仰は信仰者にとって、対象ではなく、不可避であり、よってきたるところを知ることが出来ない。
確信は人の業であるのに、由来を聖書と神に、実は、己の信念に帰して、人ならぬ者になりたがる。
 
信仰は文章化しにくく、経験の情緒と思考によっても伝わるとは限らない。
確信は文章化しやすく明文化することによって宣伝され伝染されることを、むしろ欲望する。
 
信仰は信仰の罪深さを自覚し、しばしば痛感するが、
確信は確信の罪深さを自覚しないから確信なのである。
信仰は反省し、確信は反省しない。
 
 
固定を好む人によって曲解され、人の確信が「信仰」と呼ばれることがあります。
 
信仰は「信仰」と呼ぶことに不全感と恥じらいを伴います。
 
確信は確信であるから、堂々と「信仰」と名乗るだけでなく、他の信仰に対しては「ふっ、何を言っとる」と小馬鹿にしながら、ときには敬虔を装って慇懃無礼な態度で、押さえ付けてさえ来るでしょう。 
 
 
信仰は心を揺さぶり、次から次へと学習を求め、成長を促し、固定を許さないでしょう。
 
確信は安定を求め、固定し不動となることを誇ることになるでしょう。
 
信仰は恐らく確信を否定することによって、ようやくその一部を暗示のように表現するのみでしょう。
 
 
信仰と確信は、罪深さによって同居していることもあります。内部にも対立軸があるということです。
 
確信は、常に、信仰を覆い隠して表され、人前で明らかと見られることを好む。
 
信仰は、常に、確信を打ち砕かれるところに、ひっそりと生まれるだろう。
 
 
20代の頃と今とで私の信仰を比べてみると、変わらないところと変わったところがあるように思われます。そのどちらにも信仰とは別のものが含まれていると思います。
 
溺れる者が藁(わら)をつかめば、藁は曲がるからです。
しかも曲がった藁は自分の持ち物になるからです。
 
 
(2013年02月26日、同日一部修正)
(2022年02月20日、再録+)
 
 
信仰と確信

信仰と確信
 
 
 
昔々のポエム
 
 
  冬の終わり
 
吹雪の向こうに
耐えるように 朧(おぼろ)げに
眼差しを向けてくる
少女のような顔
幼くて泣きそうなのか 唇は
かすかに微笑んでいるようにも見えて
初恋の人でもなく
知っている人でもないのに
去りがたく 目を
そらすことができない
 
いつの想いに
吹かれて 顔
動かないのに確かに
遠ざかる方向を
こちらへ向けている
ここでは吹雪なんて滅多に
吹かないんだよ なのに
どこへ 君は
誰のために
雪に
風に
忍ぶ 面差(おもざ)し
 
思わず伸ばそうとした手の先に
最後のように寒気(かんき)
触れて 巻いて 不意に
鳥だろうか ふと
横切って いつの影も裏切って
ここでは
吹雪はないんだ
 
 
  塒(ねぐら)
 
見てわかる星座は三つだけ
オリオンと
玄関先から
晴れた夜には
北斗七星かカシオペアか
どちらかが見える
やあ見える
北極星だ
便利な星座を覚えたものだ
ということは
我が家は北向きだ
 
田舎
という理由だけではなかったか
他の団地より安かった
最初案内された所は
もっと安かった
片方が崖
それを言ったら
家は道路寄りに建てますから・・・
遠慮しといた
 
この家だって
私にとっては塒(ねぐら)に過ぎなくなったが
住む人が住めば立派なマイホーム
私は塒の方を選んだはずだ
 
学生時代のアパートを思い出す
狭い路地の行き止まり
ベニヤ板の壁に
ナメクジが這い上がってくる部屋
高い窓を開ければ墓場だった
この立派な塒が望みだったはずだ 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違いを訂正しないでいると、間違いが身に着いてきます。そして、何か言うときに、間違いが出てしまいます。嘘吐きになるわけです。嘘吐きになると、バレたときに人に恨まれます。バレないように詭弁を工夫するようになり、凌げる場合があり、凌ぐために繰り返して、・・日常ペテン師の誕生です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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