ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年03月

 
  楽山の邪魔2
 
 幸福の科学とは何だろう? 楽山ブログ
 建造物侵入騒動の行方(「幸福の科学」広報チャンネルの動画と個人的な感想)
 2021年03月21日 ツイッター引用を含む。
  改めて批判。
 
 
勝手に言いたい放題言うのが、楽山の趣味であり、それゆえに、役に立たない曖昧な意見が、正当な雰囲気を出して、言論を乱すことになります。真実の追求という大切な問題に、思いつきだけの楽山の口が侵入して、迷惑を省みないという邪魔になっています。
 
*個人的な感想
前記事に貼った関連記事を読み、当該動画を見て、疑問に思ったところをつぶやいてみたので、それもここに保存しておきたい。
 
無反省・無責任の楽山の言は、本当に、余計な、つぶやき以上ではありません。真に受けると、真っ当な理路が、かえって混乱し、真実を見失うことにしかならないでしょう。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
これは正論とは思うのだが、
各種報道では、藤倉氏はHSに批判的な記事を書いたゆえに、HSから出入り禁止されたことを裁判所は認めたとしてる。
そのため、これは「言論は自由です。でもHSに不利な発言をしたら、相応の責任をとってもらいます」と聞こえてしまう。。😰
 
言論の自由には、責任が伴うという当たり前のことです。それを、楽山は、不当だと言っているのでしょうか。ただし、言論の責任を果たすことは、言論においてなされるべきであります。言論したら強制排除、というのは、言論の自由を脅かす行為であり、明らかに不当なのです。
 
楽山は分からないのでしょうか。また的を外しているようです。不都合を無視し続けているのです。つまり、楽山は、自由と、自分勝手を、混同しているのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
独裁国家では、移動、取材、写真撮影には許可がいるが、
日本は独裁国家ではないから、移動、取材、写真撮影は原則自由だと思ってたけど、これは間違いなのだろうか。
そりゃあ、権利者の了解を得るのがマナーだろうが、どんなところでもそうしなければならないというのは極論すぎるのでは?
 
楽山は、原則とは何かを書いていません。賛成でも反対でも公共の福祉に反しない限りにおいて自由であります。旅行で風景写真を撮るのは、大方、自由でしょう。「権利者の了解を得るのがマナー」ではありません。反対意見を言うのに、いちいち、そんなことできないからです。
 
許可の必要な施設や場所や秘密の場所はあるでしょう。そういうところでは、前もって、そういう表示をすることになるでしょう。そういう表示が為されていなければ自由なはずです。事情の詳細が分からないし、私のテーマではないので、この件は、ここまでとします。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
教団側は施設内の平穏を乱されたかのように主張するが、監視カメラ画像を見る限りは、特に平穏が乱されているようには見えないというのが正直な感想です。
内部撮影については、信者数1100万以上と称する教団の実態を知る上で、人影なく閑散とした施設内の様子をとらえることに価値はあるでしょう。
 
上と同じで、画像だけで「特に平穏が乱されているようには見えない」と言うような、楽山のボンヤリ曖昧言語や、また「様子をとらえることに価値はあるでしょう」という楽山の主観の価値判断で決められることでもありません。
 
語る資格のない者が、自己中の主観で物を言えば、こういう勝手なメッセージになるということです。
 
 
*偏向してる?
もしかしたら、上のツイートを見て、「あなたは教団に批判的にすぎる」という感想を持つ人もいるかもしれない。
これについては、自分は次の二つのことを念頭に置いて考えをまとめているとこたえておきたい。
まず一つは、今回の件は次の流れの中で生じたものだということである。
 
楽山の、言いたい放題の無知で無恥な言論も、流れの中で明らかになってきました。楽山は、自分の流れだけは、分からないようです。今回も、他者の悪の追及だけをして気分がよさそうです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)らしく、自己満足が全てなのです。
 
 
当初は、幸福の科学と藤倉善郎氏とは、極端に険悪な間柄ではなかった。職員の里村氏と藤倉氏とのおもしろい掛け合いもあったように思う。
 
具体的に書かずに、「おもしろい掛け合いもあった」ことが、険悪ではなかったことの根拠になるでしょうか。裁判に関わる問題を、まことに、法に関わることについて、自分の欠点にはまるで気づかず、楽しみたいだけの評論家気取りの楽山は、面白半分の、雑談か冗談のような言い方で書いています。
 
何よりも、根拠が示されておらず、結論からの主張を言い張っているだけなのです。現状に居合わせたのなら、あるいは、詳しく情報収集したのなら、そう書くべきですが、そうではないのでしょう。裁判を裁くなら、裁判相当の根拠が必要です。
 
他人事を、趣味で扱って、好きなように言って満悦する楽山の自己愛性病質が表れています。流れに乗って漂流するしかない者の、ちょっと見ただけの無根拠の思い込みだということでしょう。楽山には、裁判を云々する資格も能力もないと思います。
 
司法の流れがおかしいと言って根拠を示せないなら、ブログ記事としては、自分の持っている思想からの根拠を書くべできですが、そういう一貫性のある思想を、楽山は、まるで持っていないのです。結局、楽山は、揶揄しか書けないのに、評論家気取りで、印象を刷り込んでくるだけなのです。
 
なお、趣味のブログであるなら、控えめに書いているかと言えば、語尾だけ「ように思う」と書いて、実際は、断定することを面白がっているのです。野次馬評論では、真実の追求の邪魔としているだけになります。今までも、無反省と無責任によって、何事につけ、雑言を書いてくるだけでした。
 
 
①本件公訴提起は公訴権濫用にあたるか
→弁護人は本件の公訴提起は(中略)公訴権濫用にあたり公訴が棄却されるべきである旨主張する。しかし、(中略)弁護人の主張は採用できない 
・やや日刊カルト新聞: 「曖昧な判決」「報道の自由は死んだ」建造物侵入事件で執行猶予付き罰金判決を受けたジャーナリストが弁護団と会見
 」
自分は専門家ではないので的外れの感想になってしまっているかもしれないが、藤倉氏への施設立ち入り禁止は批判的言論の封殺、報復であろうことを認めながら、今回の件は公訴権濫用ではなく、施設内に立ち入ってもならぬと結論づけるのは、どうにもつじつまが合わず、捻じれがあるように思えてならない。
 
専門家でないなら、一ブロガー発信として、的外れにならないような書き方をするべきです。自己愛者の楽山には、それが出来ないのです。分かっているような書き方をして、「自分は専門家ではないので的外れの感想になってしまっているかもしれない」と書いても、とても臭い言い逃れに過ぎません。
 
裁判所が、必ずしも正しいとは言いませんが、事件ごとにバランスを取っているということはあるでしょう。それが正しいかどうかは、楽山のような自己中の単純命題で出来ている思考には判断できないことです。事の重大性を、何も考えず、大きなテーマに、外野から、無遠慮に書いている楽山です。
 
極めて幼稚な考え方として、司法は、いつも、同じ側の味方をしなければならない、という決めつけの先入観的な定理があるようにも思われます。楽山は、病的自己愛からの思いつき以上のことは、理路が拡散して、まともな思考ができず、進めば進むほど破綻してゆく生業です。
 
 
この件はこれで終わりではなく、まだ続きがあるようだが、この判決は改められる可能性はどのくらいあるのだろうか。どうなるかはわからないが、この件は引き続き注視していきたいと思う。
 
楽山は、いつも、かっこつけて、出てきては、もっともらしいことを書いたつもりで、そのたびにピント外れだけが明らかになってきました。注視すると言っていますが、今まで、不注意な記事とツイートばかり書いてきたのです。真実追求において、楽山の破綻した理路は邪魔になるだけです。
 
カルト的で未熟な精神と、訂正不能の超越意識で、客観的に書けると思っている病質者ほど、厄介なものはないということが、今回も、うんざりするほど明確に表れているのです。人の言うことを聞かずに、言い張る、ということが続いている楽山には、正義感ぶるほど、罪と悪と偽善が、バレてゆくでしょう。
 
カルトの元信者というのは、カルトから抜けて、カルト批判者として、回復した人間性を発揮してゆくのでしょう。しかし、楽山は、元HS信者と言いながら、霊が分かるっぽい自覚から、自身のカルト妄想へと悪化し変性しているのです。楽山の言は、陰気な執着以上に整ったことがありません。
 
しかも、楽山の思想は、主張すれば、人を疲労させ、傷つけるだけですから、真面目な人間関係を持つことが出来ないのでしょう。好きなように、その都度、別の複数のHNで成りすましているようです。年齢・職業不詳で、隠していますが、恐らく、リアルならば、ひどいことになっている人です。
 
つまり、楽山の人生は、心霊大好きなだけで、自分は特別と思いたいための、反宗教と、右翼思想と、無神教カルト妄想とを、浮浪者のように、さまよい歩いているのです。楽山は、自らの不遇から、敵意・悪意だけを育ててきたのだろうと思います。
 
楽山は、いろいろなことに、インテリ評論家気取りで、自己満悦から口を出してきます。私は、その楽山の口出しが、楽山の人格障害による身の程知らずの症状であり、無反省で、無責任な、偽善の悪趣味であることを、3年余り、追及し、批判しています。
 
 
自己中無神教カルト教祖願望

自己中無神教カルト教祖願望
 
 
(2021年)
(2022年03月26日、再録+加筆)
 
 
 
  神の非存在証明?(抜粋)
 
この世で人は見えざる神・聞こえざる神に祈りを捧げることができます。
 
ある日死にました。そしてあの世あるいは天国へ行きました。そこで神に会いました。もうこの世を離れ聖なる領域に召されたのだから神に会っても何の不思議もありません。
 
しかし神に会っているその場において、さらに見えざる神・聞こえざる神に祈ることができます。それゆえ今会っている神は偽者ということになり、その世界に死があれば死んで、経緯はどうあれ、さらなるあの世・さらなる高次の世界へ行ったとします。そこでまた神に会います、しかしそこでもやはり見えざる聞こえざる神に祈ることができます。
 
この神も偽者と、さらに高次の世界へ・・でも同じことの繰り返し・・どんなに高次の世界へ行っても本物の神に会うことはできません。本物の神の姿を見ることも声を聞くこともできず、それゆえ神の御旨・真意を知ることもできません。これは実質的に神は存在しないことと同じではないか。
 
もうお気づきと思いますが、以上述べた神の非存在証明モドキは明らかに詭弁です。何故ならこの世にいたときと同じ意識で考えることを前提としているからです。死後にあの世や天国があるとしても、そこで人がこの世と同じ意識や思考を持ちうるという保証も法則もないのです。
 
「御使いのようなもので・・・」というキリストの言葉もあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
 22:29-30
イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
 (マタイ22:29、新約聖書)
 
  (抜粋)
 
垢のような慈愛と善意は
容易に偽善と悪意に変わる
私の眼の色は容易に変わる
しかもどちらかではなく
しばしばそれらは混ざり合っている
眼の色は容易に濁る
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、嘘と詭弁を書いて、バレると、さらに詭弁をつないで書いて、詭弁に詭弁をつないで、ついには、荒らし根性剥き出しの破綻した雑言を繰り出し、馬脚を露(あらわ)わしてきました。嘘吐きを「人間の性」なんて成り立ちません。自らの病的体質を、人間共通のものにして正当化する幼稚な詭弁です。
 
 
 
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  現代の偽善者3
 
 
二千年前のキリストの時代には、偽善者は分かりやすかったかもしれません。聖書のパリサイ人と取税人の祈りにおいて多くの人は、かなり、はっきりと分かるでしょう。尊大で傲慢なパリサイ人と、赦しを乞う以外になかった取税人は、明らかに違っていました。
 
現代のパリサイ人つまり偽善者そしてサイコパスは、そのような分かりやすさを持ちません。現代の偽善者は、柔和な言葉遣いの丁重な挨拶から始まります。
 
現代の偽善者は、誰でも賛同するような話題を用意しています。そして、褒め言葉や讃美言葉で熱心で敬虔な信仰者だと思わせてきます。現代の偽善者が、尊大で傲慢になるのは、何らかの知的な話においてか、追いつめられたときでしょう。
 
宗教、政治、思想、などについて、彼らは、自分が知的に上だということを誇らしげに示します。中身はないのに、評論家のような立場で物を言うでしょう。こちらの話は受け取らず、弁明せず、自分の言い分だけを繰り返します。
 
その上で、じわじわと相手を貶めながら、従うことがベストだということを刷り込んでゆきます。うっかり関わり続けていると、気づかないうちに刷り込まれてゆくのです。彼ら偽善者の言うことが、すべての人に広まったら、いつのまにか、気づいたら、とんでもないことになっているのです。
 
彼ら偽善者の言うことが、何よりも自己中心を土台としていることを覚えてください。けっして自らの罪や過ちを認めず、悔いることがないということ。
 
偽善者の判断は、真実として、良かった、悪かった、近い、遠い、ではなく、策略として、うまくいくか、まずいか、という判断だけなのです。大事なことは、彼ら偽善者の言うことが、聞き手に対して、常に、上から教える態度に終始していることに気づくことです。
 
彼らの言うこととが、世辞の感謝やお詫び以上には、けっして微塵の反省も含まないこと、これらに気づいたら一目散に逃げてください。コメントにレスしないで無視して下さい。けっして彼らの話に乗らないでください。質問も確認もしないでください。
 
話し合おうと思ったりしないでください。説明を求めないでください。詭弁と無理解だけが返ってきます。現代の偽善者は、覚悟の批判者だけが疑い、消耗を覚悟しながら批判する対象です。
 
彼らは、病的ナルシスト、精神病質(サイコパス)、自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)、病質者、異常者、偽善者、変質者であり、聖書のパリサイ人の、現代文明による進化型なのです。
 
 
現代の典型的なクリスチャンは、相手の本性を確かめることなく、穏やかな話には乗りやすい傾向があります。教会で穏やかで美しい話ばかり聞かされてきたからです。批判禁忌を教会が刷り込んできたからです。現代の偽善者は、そこを狙ってくることを忘れないでください。
 
昔のパリサイ人は尊大で無知でした。現代の典型的なクリスチャンは、そのままでは、だまし言葉と詭弁だけを仕込んできたような現代の偽善者には敵いません。
 
超常信仰から自らが行う儀式的な行為の神秘性を、本気で信じ込んでいた者もいたかもしれません。今の偽善者は、良心がなく、代わりに、丁寧と柔和を装い、意図して、だますことを企みます。批判禁忌を教えられた信仰者は格好の餌食なのです。
 
 
現代の偽善者は慇懃(いんぎん)で狡猾(こうかつ)

現代の偽善者は慇懃(いんぎん)で狡猾(こうかつ)
 
 
(2019年05月24日、同日一部修正)
(2021年03月21日、再録+)
(2022年03月25日、再録+加筆)
 
微塵(みじん)
騙す(だます)
敵う(かなう)
餌食(えじき)
 
 
 
  一枚の写真
 
若い頃の私の顔
写真の中の
とりわけピントのぼけた
青年よ
私はその一枚が好きだった
しかしその微笑よ
お前があまりに狡(ずる)かったので
想い出になることも
死ぬことも許されず
この顔になった
老いへの無知が傍らで狂乱している
かつての青年よ
この顔に対して
私は殺したいほど
抱きしめたいほど両価性だ
 
 
  膏肓
 
横隔膜は病気です
胸がつかえて深呼吸したら
声帯が震えました
それを歌だというのです
腹がもたれて運動したら
筋肉がつりました
首と腰がきしみました
それをリズムだというのです
イメージは病気です
眠れない夜が明けるころ
うとうとし始めた頭を振りました
それを意志だというのです
目をこすり顔を洗い
水が目にしみて
手探りでタオルを取りました
それを狡いというのです
 
 
  黒く細い道(抜粋)
 
昔どこまで続いているのか分からない
黒く細い道があった
どこか人里離れたところへ
向かっているようだった
幾度か足を踏み入れそうになった
しかし早々とその道へ
行ってしまった人を見送りながら
 
本当は人里離れた所で
絵でも描いていたい暗く細い体は
場違いな明るさに
外側から腐ってゆく脳ミソを抱えて
漸く手に入れた紙切れに乗って
随分と長い間
違う感じの人々の場を奪っていた
今になって
あの黒く細い道を行くと体は
内側から腐ってゆく脳ミソを
抱えることになるのだろうか
 
腐る腐らないは道によるのではない
道は踏まれる所に出来るものだ
 
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·13分
この場面は、
カルト呼ばわりされたことに対して、
いかにもカルトっぽい言葉使いで反論してて、
思わず吹き出してしまったところです(笑)
これはようするに、
「わたしたち幸福の科学は、愛と悟りとユートピア建設を説く正しい宗教です」ということだし、
ぬけぬけとよく言えるなあ。
午前9:38 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、自らの招いてきた事態を全く気にしないで無視する、という、楽山個人の「いかにもカルトっぽい言葉使いで」、反論も出来ないのに、「思わず吹き出してしまったところです(笑)」と書いています。自身の無反省と無責任が招いた不都合を何も気にしていないことが表れています。
 
楽山が、高等感情を持たない病質者らしく鈍麻を表して、揶揄して「(笑)」などと書くのは、自分は正しいから余裕があるとでも思っているのでしょうか。「ぬけぬけとよく言える」ものです。
 
楽山は、「愛と悟り」も知らず、他者の意見に不応で、自らの惨状に不感の、人格破壊的な偽「ユートピア建設」の妄想をいだいている自己愛執着の、気取りだけで他者を揶揄して遊ぶ原始的な自己虫病質者です。自覚が何もないということを、一生、繰り返し表して続けてゆくのでしょうか。
 
楽山は、決して、誰の味方にもなれない人です。
 
今日も、楽山の言葉が、楽山に返って、楽山を斬ってゆくだけの、楽山の人生になっています。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
申し訳ないが、「HSの悪口を書いていながら、HSで取材できると思うな。取材したいなら、HSに対して相応の礼を尽くしてからにせよ」と聞こえてしまう(笑)
それから人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います。
午前11:28 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、「申し訳ないが」という政治家の慇懃無礼の口調で言っています。
 
「人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います」・・違います。犯罪者は、明らかに人権を制限されています。現状、最高刑は、死刑であります。つまり、公共の福祉に反しない限りでの人権です。
 
したがって、嘘吐きと偽善の悪行を働き続けている楽山には、人権を云々する資格はないのです。礼を尽くさず、礼の芝居でごまかす丁寧語で、宗教を子供じみた霊と超常の話と未熟な机上の理路の破綻で語って揶揄し、人を欺き続けている楽山は、首を洗って待つしかない立場でしかありません。
 
言い換えれば、楽山は、天然自然のあり方に、真っ向から反しているということです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
「歴史的資料となるだろう。」とは誰の言葉なんだろう。
ふつうは、本の帯にある推薦文は、他者によるものだと思うのだが、
まさか、まえがきにある著者本人の言葉ではあるまいな? 絵文字(口を開けて笑っている顔)
午後4:18 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
このように、楽山という人は、他者のみっともないことや、自分より劣っていると思う人を見つけて笑いたいだけだろうと思います。そういうことが見つかると、このツイートのようなことを書かないではいられないのでしょう。
 
結局、日常でないところ、つまり、一つは超常の現実離れ、もう一つは、恥ずかしいゴシップが、楽山の唯一の楽しみなのでしょう。楽山は、心からの笑い、例えば、おかしいのではなく、心が温まって笑顔になるようなことが出来ないようになっています。
 
楽山は、あざ笑いや高笑いはあるが、微笑みはない。共感という言葉を使っても、共感の実質がない。辻褄が合ったり、面白おかしかったりすると、感動という言葉を使うが、感動が伝わってこない。反省という言葉は知っているが、反省と言う前と後で、何も変わっていない。
 
楽山は、真摯、真剣、真面目、丁寧、ということを装いながら、その実質が全く見られません。腹の底では、他者を見下げていて、あらゆる不幸を、笑いの種と、芝居の種にするだけで、本気では何も気にしていないのでしょう。しんみりした深い情緒を感じとるセンスがないからだろうと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、「反省、謝罪」が「難しい」のは「人間の性」だからと言っています。「嘘」「卑怯」は、「人間の性」でしょうか、否、良心があればないことです。それを、悔いることなく、常習としてやってきた楽山は、まるで予言されたかのように、人間で在り続けることが出来なくなっています。
 
 
 
仏教系の荒らしがツイッターの通知欄に来たようです。
 
ハリツケにされたユダヤ人の罪人を拝んでも救われません。
因果応報を説かない低級な教えです
 
仏教系に、信じてもいないキリスト教を荒らす人がいるとは思いませんでした。抑制できないなら出禁です。真の仏教徒ではないのかもしれません。
 
キリスト教は実に幼稚で、程度が低い宗教だ。(中略)キリスト教という邪教は、この世から除去、根絶、禁止させねば絶対にならぬ。
 
何様かのつもりで言っているようです。キリスト教信仰の深さを知らないようですが、言っても無駄でしょう。宗教を勘違いした妄想的傲慢が、とても臭いです。
 
成熟した大人なら、罵詈雑言吐いても、何の解決にもならないことは知っているはずなんですけど、未熟なほど、感情的に大口を叩きます。そういう分かりやすさだけが長所でしょうか。
 
キリスト教のかたは日蓮正宗寺院までお越しください
 
以上のコメントで、行く人はいないと思います。
ハリツケ(磔、貼り付け)になっているのは誰でしょう。
 
 
 
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  危険人物3
 
 
危険人物とは、犯罪性の強い人でしょうか。犯罪性の強い人は、日頃から乱暴であれば気づかれやすいでしょう。しかし本当に恐ろしい者は、そういう印象から遠いところにいます。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者は、よく見せるための言葉を身につけます。しかし、注意深く見ておれば、芝居だということが分かるでしょう。本性は、反社会性であることが多いです。サイコパスとも呼ばれます。反省し学習し修正し成長することが出来ないのです。
 
 
聖書では
偽善者と言われています。
守っている
知っている
分かっている
見えている
という確信に満ちて
しばしば教えたがり
出来た人物と言われるのが大好きです。
 
聖書では、まず、カインがサイコパスに相当するように思われます。
 
 (創世記、口語訳)4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
 (創世記4:5、旧約聖書)
 
供え物が受け入れられなかったとき、カインは、悲しむのではなく、憤った、つまり、怒ったのです。しかも、神に対してです。そして、アベル殺害に至ります。これは、サイコパスの特徴です。悲しみを感じることが出来ません。笑いと怒りしか持っていません。
 
また、キリストに批判されて、ついには、キリストを殺してしまったパリサイ人も、全てではないが、同様であろうかと思います。
 
 
自己愛性パーソナリティ障害とかナルシシストとか言われます。反社会性人格障害とかサイコパスという言葉もあります。文字通り自己愛が強く、自我を自分で砕くことが出来ず、不備や欠点など自らの非を決して認めず、罪悪感がなく反省せず無責任で、あらゆることを自己中心にしか考えません。
 
あらゆる不都合において自分を責めることが出来ず、人のせいにします。ときに丁寧語や幼児語のような
平易な言葉で表し、精神療法のように優しく言って、柔和な自分をアピールします。
 
自己顕示欲が強く。気障(きざ)で衒奇(げんき)的で、"ひらめき"や、ときには霊感を誇示して、繊細で特別な神経を持っているかのように、一見、上品に振る舞います。しかし高等感情が無いために、人に対する思いやりや配慮に欠けていて、人と共感することが出来ません。
 
ネガティブな忠告をすることを遠慮せず、あらゆる深謀遠慮が不可能で、自制することが出来ないので、相手が傷つくことを配慮して遠慮するということが出来ません。
 
特に自らの失敗を処理できずに、弱そうに見える誰かに対して情報不足や無遠慮などお構いなしに、不向きや不適正のマイナスの忠告めいたことをして、アドバイスしたのだからと、いいことをしたかのように自己満悦します。
 
「向かないと思うね、うん」「ひらめきとしてね」「かなあ」「言えなくもない」とか、語尾「ね」付きの気色悪い丁寧語には十分注意しておく必要があります。実際は侮辱であり、受けた側は長くトラウマにさえなりかねないので、そういう人ととは、まともな付き合いなどしないことです。
 
出くわしたり何か言われたときは、そういう人だと分かったときも、逃げるしかありません。あるいは言い返すことも出来そうですが、言い返しても根腐れなので不感不応です。
 
偉そうな態度と併せて、謙虚そうな芝居をしますから、うわべの評価は一定しませんが、一度被害に遭うと一生忘れることはないでしょう。自分を責めることが出来ない人です。責められると、いつでも、腹いせの復讐を考えるような、陰険な原始反応しかできない人です。
 
勝ち負けと快楽原則で世渡りをしていて、人に勝つこと負けないこと優ることを生き甲斐とします。その前提で謙譲芝居をしてインテリぶっていますが、実際には真の勝利など全く知りません。
 
褒められることを快感としますが、人格的に欠陥があるので、多く失敗します。それらを知られることを何よりも恐れています。欠点を隠すことしか出来ず、生産的に反省し修正することが出来ません。
 
思想は通念的で独創性がないので、気取った言い方で、うわべ賢そうに見せかけますが、正体が分かれば、いちばん、つまらない人、そして、嫌われる人なのです。人格者として一定の尊敬を得ている場合がありますが、まともに見せかける芝居をしているだけです。
 
実際は、偽善者であり、人間らしい温もりがなく、冷淡で、自己満悦か、快と不快の快楽原則しかなく、大方、結局、怒りと怨念だけになっています。しんみり悲しむことが出来ません。だから共感が出来ないのです。代わりに、世辞の褒め言葉を多用する傾向があります。
 
代わりに反省や共感という言葉だけだったり、やさしさ芝居をするだけの大根役者です。本物と言えるような精神の産物を持っておらず、学習も進歩もしない怠け者で、冷酷な性根ですから、宗教・教育・医療など、人の命や人生を左右する仕事についてはいけない人です。
 
しかし実際、数式だけは得意だったり、口だけ達者だったりすることがあり、宗教や神秘や超常に関心を持っていて、決めつけていたりもします。人によっては、医者だったり、医学生だったり、指導者だったり、ある程度の知的職業についていることもあります。
 
宗教家や思想家や評論家などのインテリ気取りを伴うこともあるでしょう。しかし、発言は、大方、月並みで、独自性はなく、他者の言葉を、うわべだけ繰り返し、批判や反論をまるで理解していません。返してくるのは、嫌がらせや、いちゃもんや、荒らし的な雑言に終始します。
 
しかし人の悲しみに共感することが出来ないのです。対等の立場においての共感や同情を感じることができず、いつも上から下へ見下ろして教えを施す態度であり、人には反省が必要などと白々しく言いますが、自らの非を認めず反省することがありません。
 
最悪である偽善者は、不快を感じることはあっても、悲しみを感じない人。高等感情が欠けており、罪悪感がないので、反省せず、訂正せず、責任をいっさい負いません。ゆえに、軸のある思想を組み立てられず、共通の狙いがあると、人真似をすることが多いです。
 
丁寧で礼儀正しい外面を持つこともあり、言動の乱暴さが見られるとは限りません。しかし追いつめられると手段を選ばなくなるでしょう。気をつけてください。彼らは、演技と思い付きの気の利いた言い方をして、慢心して、・・腐っています・・
 
 
teineinakyoufu2

丁寧な恐怖
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年03月24日、再録+加筆)
 
 
 
  もうよそう
 
ひとりは首を吊り
ひとりはビルから飛び降り
ひとりは高い橋の上から飛び降りた
砕け散った肉や骨を拾うのが大変だったという
ひとりは死に際に哀しい視線で・・・
もうよそう
 
死ぬのに勇気は要らぬ
死を上回る恐怖があればいい
生きるのに勇気は要らぬ
死を上回る死があればいい
 
ストレスから逃げて逃げまくって生きてきた
そして死んだ自分を数えている
死んだ自分がまだいる ここに
ひとりの夜に対話する独語
団結はしないね
けんかもしない
 
いつかバイクの後ろに
いつも君が乗っている
スロットルを開ければ開けるだけ
君は笑ってついてくる
 
 
  光と恐怖
 
刃物の鋭さは光 凍結への熱
刃先へ走る一瞬すでに眼を切っている
 
それを際立たせる闇
闇の殺意は鋭い
迫る恐怖に震え立ちすくむ足
否応もなく急がせる
それゆえ光の殺意の鈍さは
ときにショーウィンドウの内と外
写真と人形を眺める恐れの傍観にも似る
 
恐怖は闇によって増幅される
それゆえ光によって鈍くなる
見えない周りに見てしまう
見える周りに見逃してしまう
 
刃物の眼は昼の光の最中(さなか)
いかにして開かれようか
泣いたり笑ったり怒ったり
表情をなくしたり借りてきたり
いかにして光の恐さを知りえようか
 
殺意と恐怖
熱と冷血
鋭さと鈍さ
光と闇
元々それ自体は眼に映らないものばかり
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
取材するには許可を取るというのは、マナーとしてその方が望ましいのは当然ではある。でも常にそうしなければならないというのは極端すぎる。
それでは取材される側のご機嫌をうかがうようなことしか書けなくなってしまいかねない。この辺りについては、藤倉氏のいうことに理がある。
午前11:39 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
「取材される側のご機嫌をうかがうようなことしか書けなくなってしまいかねない」ということから、楽山が書くのは批判を含む記事であることです。そして「氏のいうことに理がある」という評価を加えて、楽山が上から眺めて評価する立場で書いていることが明らかです。
 
楽山は、ご機嫌取りの丁寧語とボンヤリ言語を書き、そして、そのような返しを悦ぶようです。ここでも、人のことを言って、結果として、自分のことを表してしまっている楽山です。批判して、それが自分に返ってくる "ブーメラン" が繰り返されています。
 
なお、批判の場合は、いちいち許可を取ることは、マナーとして望ましいのが当然・・ではなく、必要ないのです。何故なら、批判は、批判対象に、苦言を呈することですから、無視する人はいても、許可する人は極めて少ないからです。それでも書くのが批判です。
 
そういう批判を、ことごとく無視して受け取らず、何事もなかったかのように振る舞い、言いがかりだけを書いてくるのが、嘘つきで偽善者の楽山その人です。そういう人の場合、ことらからの批判だけが続くことになります。
 
批判には、許可ではなく、根拠を示すというマナーがあります。それを無視して、好きなように、いちゃもんを書いてくるのが、楽山その人です。それは、批判を返すことではなく、ただの悪口に過ぎません。実に、よく見れば、楽山の言には、汲み取れる何の価値もありません。
 
楽山は、宗教、特に、キリスト教を、幼稚な先入観で、つまり、机上の理屈だけの固定観念で、繰り返し、無根拠に、無神経に書いて、似たような文言で、こちらをおとしめてきました。楽山を批判すれば、こうなるということですが、議論とは違う低次元ですから、批判は続くことになります。
 
ご機嫌取りとして、楽山は、優しそうな丁寧な言葉を使います。つまり、楽山の優しさは、世辞で取り入るための方便、つまり、便宜上の手段に過ぎません。そこには、冷静な楽山という印象の刷り込みがあり、やさしいお人柄・・などというコメントが来るのを喜ぶだけの楽山が見えてきます。
 
批判は、一つは、相手に間違いを改めるように説得することですが、自己中で訂正不能の楽山には無効です。理路の破綻と高等感情の鈍麻によって、理解が進歩しない曲解として固定しています。その有り様は、楽山の、カルト的体質を表しているのです。
 
ゆえに、もう一つの批判のあり方として、相手が不当であることを、読者一般に敷衍して、注意を促すことになります。不感不応の楽山に対する批判がそうです。批判対象に関わらないように注意を喚起するための批判~警鐘です。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Algorab archives
@Algorab_MAIKA
·18時間
人殺しになりたくて入信した人は一人もいない。そんな彼らがなぜ加害者としてこの最期に至るのか、その背景を丁寧に理解しようとしないままでは、いつかどこかでまた繰り返される。
地下鉄サリン事件犯たちの“最後の言葉” 
#地下鉄サリン事件 #オウム真理教 #文春オンライン 
午後5:25 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、なぜ、加害者に至っているのか。その背景を、楽山自身が、述べようとしないのだから、知る由もないのです。@rakusyo raku のような生い立ちなのでしょうか。
嘘吐きの楽山という履歴を積み重ねてきたのでは、信用できないし、何も解決しません。
 
何よりも、楽山が、無反省・無責任のままで、何も変わりはしないのです。変わることなく、嘘を吐き、詭弁屋の偽善者のまま、薄笑いのパーソナリティになりたい人がいるとは、信じがたく、驚きであり、脅威であり、恐怖であります。
 
楽山が、バラまいている精神の毒は、喩えるなら、水銀か鉛のようなものです。気づかずに受け入れていると、進まない理路のために、感性が疲労~鈍麻して、やがて、耐えがたい痛みに襲われるか、あらゆるところが傷んでくるのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
家田さん、宏洋さん、どちらの動画もおもしろい。絵文字(口を開けて笑っている顔)
お二人の様子は、家田さんの動画の方が和んでるみたいだから、こちらの方があとに撮ったんだろか。絵文字(考えている顔)
個人的には、宏洋動画の最後、これ以上突っ込んだら動画で流せなくなる…が、えらいウケた! ははは。大爆笑
午後7:16 · 2021年3月21日·Twitter Web App
 
楽山は、カルト批判をしているはずですが、このように、絵文字を入れて、繰り返し大笑いするのが、悦楽なのでしょうか。高等感情が育たず、原始的な感情だけになっているのでしょう。
 
楽山は、感情が、一つは陰性の怒り憎しみ恨み、もう一つは、微笑ましい嬉しい喜びではなく、誰かを低く見て、面白おかしいと感じて、あざ笑い、大笑い、高笑い、バカ笑いすることなのだろうと思います。怒りと笑いの感情だけでは、決して、理路が整う考え方にはなりません。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は「反省、謝罪は大事なことだと」分かっていません。「難しいんだよな」・・出来ない人は人間ではありません。「自分もそんな風」・・つまり、楽山は人間じゃない。「人間の性」のせいではなく、楽山が異常だということです。楽山は、反論したつもりで、実際は、否定されてゆくだけなのです。
 
 
例えば、批判返しに同じ主張を繰り返し書くというのは、常識人はしないです。しかし、楽山は、平気でやってきます。また、理路の流れの末節から、屁理屈の迷路に導いて混乱させ疲れさせるというやり方も、楽山が、理論家などではなく、腐った荒らしだから、できることなのです。
 
 
 
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  楽山の独裁2
 
 
 「自由の意味」田中美知太郎著
 2021年03月18日 楽山日記(LD)批判
  を改めて批判。
 
 
楽山が、本を読んだと言っても「メモしておきたい」と書いているように、都合のよい文言を拾ってくるだけですから、読書になっていないと思います。楽山の、こういう傾向は、聖書において顕著であります。
 
 
*自由の定義
『人間であること』に収録されている「自由の意味」を読んだので、その内容をメモしておきたい。
まず著者は、自由について次にように定義している。
「自由」とは何か。これをいろいろなふうに定義しますけれども、最もそのものずばりで言うと、自由というのは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ということでしょう。
(『人間であること』「自由の意味」、田中美知太郎著、文藝春秋、昭和59年、p.120)
 」
著者によれば、これはプラトンの「国家」第八巻による定義とのことである。
 
(ネットより)
田中 美知太郎(たなか みちたろう、1902年(明治35年)1月1日[2] - 1985年(昭和60年)12月18日[2])は、日本の哲学者、西洋古典学者。京都大学名誉教授。文学博士(1950年)。
ウィキペディア
 
「言いたいことを言い、したいことをすることができる」というのは、このままでは、自己中心と区別しにくくなります。公共の福祉に反しない限り・・という言い方があります。嘘と詭弁で、人をだます楽山は公共の福祉に反するので、自由にさせてはいけないのです。
 
つまり、自由が成り立つのは、責任ある大人としての弁えが出来ている人の場合です。それが前提なので、無責任な楽山には当てはまりません。楽山の引用自体が、自分をまともに見せたいがための詭弁でしょう。自由とか、人それぞれとか、言ってきては、当てはまらない自分を表してしまう楽山です。
 
 
*現実
 次に著者は、自由とは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ことであるが、現実には「自由社会」といえども、皆がそのような自由を行使できるわけではないとしている。
つまり現実としてわれわれは、決して自由ではないし、自由ではありえない。これをはっきりと認め、そして今日の社会というものを考えなければならないわけです。
(同上、p.123)
 」
自由は何でも好きにできることではあるが、現実としてそれは不可能であるから、自由はある程度は規制、制限されることになるというのは当たり前のことではある。
 
「言いたいことを言い、したいことをすることができる」という自由が、現実として不可能と言いながら、責任とか義務とかに言及しないのが、狡猾な楽山の詭弁です。ひどいものです。それは不当だとでも言いたいのでしょうか。自己中楽山の、言いたいこと、したいことは、公共の敵です。
 
まるで、現実が自由を奪っていると言っているようです。現実を敵に回してどうするのでしょう。つまり、自分の責任を書かないのも、自己中の楽山の特徴なのです。読書したふりで、分かっているふうに書いているぶん作為が際立ってきます。公共と闘いたいのでしょうか。
 
 
*自由の基本的な意味
著者によれば、古代ギリシアにおいて、自由の基本的な意味は二つあり、一つは国家の独立であるという。当時、外国から侵略、支配されるということは、殺されるか、奴隷にされることであったので、自由のためにはまず国家主権の確保が条件であったというのである。
もう一つは独裁の排除であるという。独裁政治の下では自由はあり得ないというのは容易に理解できることではある。
本講演がなされた当時は、国家は自由を圧迫する悪役とされていただろうことからすると、自由の守護者としての国家を語るには相当な困難があったろうと想像する。
 
哲学者の名を出して、偉そうに書いてくる楽山の、中身が、すり替えなど、詭弁という虚偽性に満ちていることには、3年余り、いつも、うんざりします。
 
ここで、国家の独立を持ち出して、話を複雑にしてきました。人の自由がテーマではないのでしょうか。「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ではないのでしょうか。楽山は、個人として人格が成り立たず、独立どころではないのに、どうして、国家の独立を語れるというのでしょう。
 
 
*「公的な自由」と「個人的な自由」
著者は、上の二つの条件…他国及び独裁からの解放を公的な自由とし、「言いたいことを言い、したいことをすること」を個人的な自由と分類しつつ、両者については前者があってこそ後者は可能となるとしている。
これは分かりきったことのようにも思えるが、上と同じく当時の政治状況を意識した発言なのだろう。
 
楽山は、個人としての責任を負う気がないのだから、公的な責任など負えません。つまり、書いたものを公開するということもしてはならない、というのが楽山です。楽山は、書いたものを、いかがでしょう、という姿勢で問い、意見や批判・批評を受け取って、成長の糧とすることが、全くできない人です。
 
 
*自由社会と人の本性(独裁政治を生む危険性)
著者は本講演の最後に、自由社会から独裁が生まれる過程について書いている。その理屈はこういうことらしい。
まず社会全体に自由が行き渡ると、あれもよい、これもよいとされ、「どんな人の生活もそれぞれを平等に同じ価値のものとして認め」ることとなり、これは「どっちにしたところで大した代わりはない、どっちでもいい」という考え方に行き着くことになる。
 
楽山の理屈話は、端的に言って、いつも、感動の無い辻褄だけになっています。その分、説得力がなくて、惹かれることもなく、実感の無い理屈遊びとなり、読んでも億劫なだけだったりして、めんどくささだけの文章なのです。つまり、楽山は、褒められることを欲するが、そのための努力をしない人です。
 
何を、他人事のように言っているのでしょう。自由には責任が伴う、ということを、まるで無視した楽山の、都合のよいところだけ拾って書いてくる自己中の病質的な解釈が表れています。楽山の言は、何の参考にもなりえないのです。書いてくる我執だけが臭気となって鼻を突くだけです。
 
またしても、楽山は、人それぞれ・・みたいなことにしてゆきます。今までも、ここでも、ずっと、楽山の、人それぞれだから、勝手にしていいじゃろ・・という無反省・無責任な欲望だけが表れてくるのです。このような繰り言は、もはや、ボケ老人にも似てきます。楽山の言に価値はありません。
 
 
このように、こうでなければならないという社会的な規範による圧力が弱まり、それぞれがそれぞれの自由にしてよいということになれば、外圧による善ではなく、自発的な善をなすことが可能となり、「本当の善人」が生まれることになる。
 
そうして、楽山は、「本当の善人」どころか、自発的な悪と偽善を、ほしいままに為してきたのです。勝手放題では人間関係も社会も成り立たなくなるので、自発的に責任を負う姿勢のない者には、永遠に自由を許してはいけません。
 
自由には責任が伴う、という、小学校レベルの道徳を、楽山は、理解できないのです。楽山は、常識と良心のない、とんだ外れ者です。詭弁臭の屁理屈こねて排泄しているだけです。楽山が「自発的」にやっているのは、人をだますことだけですから、その精神は、凶悪犯に等しいのです。
 
 
しかしその一方で、これとは「正反対の非常に悪い人間」も出現することになる。「最悪の人間のほうが、あらゆる制約が捨てられると、むしろたくさん生まれてくる」ともいえる。「人間的に下等な欲望に訴えるという形で権力をねらう最悪な人間が出て、政治的指導者になる」恐れもある、というのである。
 
実際、歴史においては、そのような最悪が実現されてきたわけです。そして今、ネットでは、楽山という自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の偽善者が、当てはまります。教えを垂れるふうに書いてきて公害となっています。最悪になる前に明るみに出して、否定されるべきです。
 
 
これは一つの理屈にすぎないのではあるが、歴史を振り返れば、民主政治の中から独裁が生まれるというのはあり得ない話ではないのだから、注意は必要だろうとは思う。
 
理屈ではなく、自由なネットで、現に、楽山が、恣意的に実行してきた自己中のことなのです。今、注意が必要なのは、楽山に対してです。今、排除するべきは、言論の責任を負わない楽山であります。楽山は、未だに、自由と責任というものを理解しようともしないのです。
 
自由についての詭弁で、人格障害から生まれたサイコパスの自己満悦を成り立たせてはいけません。楽山に、これ以上、悪さをさせないことが必要で、まず、取っ掛かりが批判ということになっています。
「注意は必要だろうとは思う」は、今読むと、寒気のするような、白々しい芝居であります。
 
 
*いろいろな考え方
自由については、政治、宗教、哲学、語源など、さまざまな方面からの考察があるが、本講演の場合は古代ギリシアの考え方を基礎にして語られており、非常に興味深いものがある。ひきつづき自由とな何であるのか、過去にどんなことが語られていたのか、調べてゆきたいと思う。
 
楽山には、「非常に興味深い」のでしょうか。わざわざ、偽善を斬り損なっている文章の部分を引用してきたのです。楽山は、ただ、曖昧な言葉に、食らいつき、縋りついているだけなのです。楽山の自由は、他害に等しく、楽山以外にとって、害であり、病因であり、地獄になるものです。
 
自由とはなんであるのか、恣意的に書いて好きなように曲げて本当の自由を邪魔している楽山に分かることはないと思います。楽山の大好きな自由とは、楽山がほしいままにしたいがために、楽山が、自身以外を認めず尊重もしていないことです。楽山は、真実を裏切り続ける下郎です。
 
このように、本を読んだことにして、また読んでいこうという姿勢を書いて終わりです。何も、糧となることを書けないのが、楽山という病質者です。「非常に興味深いものがある」・・このような、ボンヤリ言語の曖昧な褒め言葉で、楽山は、嫌がらせのように、執拗に、また書くぞ、と言っています。
 
自室のPCの前だけの独裁国家を謳歌しているのでしょうか。そこは、とても暗く臭いのではないかと思われます。中身のない楽山の繰り言であります。楽山の自由は、誰にとっての自由とも相容れない独裁的な自己中であり、身勝手な自己愛性パーソナリティ障害の症状だと判断しています。
 
自己中は、自由とは違います。自己中は、他者の自由を阻害し、かき乱します。こういう、徒労と疲労だけを与えるような輩の、人格破壊的な害を知らせるために批判記事を書いています。楽山が、執拗に発信だけを続けること自体が、今までのことから、自由への恣意的反逆であり、病質の症状なのです。
 
詭弁ばかり書いてくる楽山の理解力は、結局、成長がなく、小学生以下だと思います。楽山は、自由を乱す自己虫に過ぎなくなっています。楽山が、今まで、嫌らしい詭弁と誘導を書いてくるだけだったから、この判断は強化されてきました。楽山は、言論の害虫、体質的妨害者です。
 
楽山のようなワームは、ネットを這い回り、他者の良心を侵して破壊します。楽山のような人物は、ネットのモンスターとして、陰湿に生き延びて、だまし傷つけることに、快楽を感じ、満悦するのです。善人ぶっている分、ウイルスより怖い害虫です。どうか、楽山に、決して近づかないでください。
 
 
自己満足 エヘヘの独裁者

自己満足 エヘヘの独裁者
 
 
(2021年03月19日)
(2022年03月23日、再録+)
 
 
 
  涙
 
暗幕の下に賑わう目と目
代価を払って買った涙
計算機は壊れない
ガラスは割れない
安心して夢見る少女
愛情を運ぶトラック
何の保証もなく
世の中は便利になった
 
唇に青い瞳を
真昼の星に輝きを
汗をまき散らして変転する太陽
耐えた腕が鳴らす独裁
 
別れたのは父と母であったか
妻と夫であったか
親と子であったか
結ばれたのは残された国境
未来への合唱と
泣きながら遠ざかる沈黙
 
ビルの窓に反射する
まぶしい笑いと
人波の上に
今日も
代価を払っても買えない涙が
 
 
  懲りない奴
    批判者の弁え
 
例えば人里離れた急峻な山の斜面に
散りながら咲く一本の桜木のように
咲くことを愛でる季節には
散り続けるものを探し
営み順風に吹かれて生き続ける姿には
下血から骨までの道のりをたずね
旅立ちと別れのときには
今まで本当に出会っていたのかと
恥ずかしいときには
今まで恥じないで済むことがあったかと
問わずにはおれない
風流も風情もわきまえぬ性分に
神の独裁をうっかり与えてみよ
やはり同じ世界をそっくり造るだろう
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
「人間の性」ということにして、楽山は、言い逃れてきたのでしょう。「それが出来て初めて人間」という「それ」を、少なくとも、私が関わってきた3年数か月、できなかったのではなく、する気がなかった楽山です。他者の人格を破壊する者は、結局、自分の人格を破壊してゆくという経過です。
 
 
 
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  受け取るべきこと2
 
 
Q.
 
キリストは
いわれなき罪のために十字架につかれました。
パリサイ人たちは悪い奴です。
彼らが憎いです。
 
A.
 
何を言っている。
キリストを殺したのは私たちだ。
そうあってはならないから
キリスト者は祈っている。
 
そのことを、神は既にご存知であるのに、どうして、信じることを、分かっていることにしてしまうのか。信仰者は罪深くて不完全であるのだから、神の前で、知っている、分かっている、見えている、守っている、・・これらは、信仰自慢である。分からないという正直さを、神の前で持つべきである。
 
 
キリストの言行録で、私たち人間が感動できるのは、キリストの愛に溢れた洞察力と共感力だと思います。何度も言ってきたことですが、物や肉体の奇跡の話は、驚きこそすれ、今の時代、物や肉体の奇跡は滅多に起こらないという現実があるのだから、信仰の中心にはなりません。
 
数々の奇跡のみに注目して、いつか起こる、いつか起こると、物や肉体の奇跡ばかりを祈り願い待ち望んで、それで人生が終わるのがキリスト者ではありません。魔法を願って思考停止することを、神は人に求めるでしょうか。神は人を考える存在として造られました。
 
奇跡頼みは、私たちの日常において、考えるべき様々の課題から目を逸らすことになりはしないか。奇跡の話ばかりして讃美しまくり、信仰者の弁えとしての神への恐れを全く無視している者を見ると、人格を自ら破壊して、まるでケダモノのような卑しさを感じます。
 
物や肉体の奇跡は、人間にとって、わけのわからないことです。即ち、真似のできないことであり、心掛けようのないことであり、誰でも与えられる恵みとして期待するほうが無理ということです。努めようもないことなのです。
 
また、情欲の聖句や、敵を愛せよ、など、守れもせぬ教えを、できるだけで守っている気分になっていると、旧約が伝える神と人の絶対的な違いや、新約が伝える神格が人格に与えるものを、疎かにしかねないと危惧しています。
 
冒頭に書いたように
私たちが受け取って感動し共感できるのは
魂あるいは心の奇跡と呼んでいるもの
即ち、救われた人々との交流において表されたところの
キリストの洞察と共感(=愛)である。
私たちが受け取れるもので
私たちに分かるのは
それ以外にはないと言ってよい。
 
キリストの愛と洞察と共感を受け取れば
私たちの中で確かに生きてくる賜物となり力となるだろう。
 
このことは人間という存在を考えるとき
必ず、思い考え、さらに憧れてよいことである。
どうしてそのことに心を砕かないのだろう。
 
物や肉体の奇跡のことは
御心のままにしかならないものとして
私たちも御心のままにと祈るほかはない。
 
私たちは自由意志を与えられているのだから
教えや聖句について
今の自分の受け取ったと思うものを
固定するべきではない。
 
私たちは成長することで
堕落に対抗することが必要であり
それが可能になるためには
聖書についても、読んだとき聞いたとき
分かったつもりになることを避けて
正直な心で疑問は疑問として保留にしておくべきだ。
いつか本当に分かって感動するまでは
というより地上に生きている間は
理解が腐敗することのないように
訂正不能にせず、保留にしておくべきだ。
 
私たちは
神の言葉を即座に理解するほど優秀ではない。
さらに私たちは
理解したつもりのことを不変に保持することは出来ない。
心は、揺らぎ、移り変わり、場合によっては腐敗する。
 
神には起こらない不安定が起こるのが人間であり
風を追うようなものとは、私たちすべての人のことである。
その証拠は、私たちの、死すべき定めにおいて明らかである。
 
私たちの成長は、
成就しても限りあるけれども
それさえも
神の前に、飾ったり、偽ったりする者には
決して達成されることがない。
 
日々、精いっぱい正直に神に告白し祈ることで
はじめて、ようやく、達成に方向付けされるだろう。
 
 
私の言うことを取るも取らぬも読む人の自由です。
しかし、取る、あるいは、取らない、ということを、
今、決めてしまうことも
不完全で罪深い私たち信仰者の成長のあり方ではないと思います。
もし心に残るなら、時に、考えてほしいと思います。
 
悪口に、悪口だけを返すことのないように
侮辱されて、侮辱だけを返すことのないように
憎まれて、憎しみだけに固まることのないように
自分の快楽原則のみで他者を無視するようにならないために
迫害されて、お返しに、害することのないように
自分を守るために、神の名によって、硬く自閉することのないように
悪しき刺激を受けても、心がいつまでも乱れていることのないように
攻撃されても、神の復讐だけを願う生き方にならないように
被害的念慮と他罰的念慮に凝り固まることのないように
神の裁きを求めることが、人の人への復讐祈願にならないように
神を信じることが、他者を呪うことではなく、解放であるように
 
主の御名によって祈っています。拝。
 
 
(私個人の祈り)
 
どうか母をお守りください。
どうか兄をお守りください。
今は亡き父とおばちゃんたちが安らかでありますように。
私が愛する人々と私が思っている人々をどうか守り導いてください。
 
年を重ねるごとに心身の衰えが目立ってきました。
御心ならば、私の痛みと苦しみを取り去ってください。
わが罪をお赦しください。
この罪人をお赦しください。
どうか離れないでください。
 
この祈り、主イエス・キリストの御名を通して
御前にお捧げいたします。アーメン。
 
(※ 御心、御名、御前の、御は「み」と読んでいます。)
 
 
祈り 音信

祈り 音信
 
 
(2020年03月10日)
(2022年03月22日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの胸
 
風通しのよい胸だ
ほとんど風化している
どんな風が吹き抜けたのか
吹き抜けた風は
今どこに
見知らぬ野原で
草を揺らしているのか
昔懐かしい人の前を
一瞬でも通り過ぎたか
答えようもない問いが
ぽっかりあいた胸の中で
ときに胸をひらひらと揺さぶっている
 
風通しのよいことが
気持ちよいとは限らない
空っぽの胸はウソの胸
吹き抜ける風はウソの風
通いなれた道を通り
なじみの街を過ぎ
風化した穴に
今も聖なる心と
聖なる血を求めて
ため息で祈る
 
からっぽになりたいです
 
 
  涙
 
暗幕の下に賑わう目と目
代価を払って買った涙
計算機は壊れない
ガラスは割れない
安心して夢見る少女
愛情を運ぶトラック
何の保証もなく
世の中は便利になった
 
唇に青い瞳を
真昼の星に輝きを
汗をまき散らして変転する太陽
耐えた腕が鳴らす独裁
 
別れたのは父と母であったか
妻と夫であったか
親と子であったか
結ばれたのは残された国境
未来への合唱と
泣きながら遠ざかる沈黙
 
ビルの窓に反射する
まぶしい笑いと
人波の上に
今日も
代価を払っても買えない涙が
 
 
  これで息
 
ごはん炊いて
ラップに包んで
冷凍する
これで数日は息抜きできる気分
 
悪いこころ集めて
これこれと反省して
お祈りする
これでしばらくは息吹き返す気分
 
悲しいこころ集めて
じっと乾く涙を待って
目を閉じる
これでほんの少し
ため息つける気分
 
良いこころ集めて
あれこれと考えて
わからないと気づく
これでこれからも虫の息
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
嘘と詭弁で妄想を刷り込んできて、人を偽りでだましてきた罪を、「反省。とほほ」と言い、ここでは「一種の、人間の性」で済まそうとする楽山を、許してはならず、赦してはならず、放置してはならず、同じことを続けさせてはならないと思います。
 
楽山は、悔い改める日は来ないかもしれません。しかし、私たちが、悔い改めない楽山に、操られる日が来てはなりません。楽山が、何らかのカルトを始めたり、嘘で人をだましたり、嘘を吐いて何らかの偉そうな地位についたりしてはなりません。その時の被害は、今より遥かに大きいからです。
 
 
 
(ツイッターに書いたこと:)
 
私は、数か月、楽山と直接の遣り取りをしました。人格が壊れそうなほど、異常な疲労と徒労を味わいました。人生で初めてです。よって、以後今まで3年余りは、直接の遣り取りを禁忌として、こんな異常者がいると知らせるためにブログとツイッターを利用しています。その間、判断が覆ったことはありません。
 
st氏が自分はブログやツイッターに楽山批判を書くが、楽山は出入り禁止(書き込み禁止)とした事実は変えることはできない
 
楽山は、遣り取りするだけで害を及ぼすからです。犯罪者や害虫や猛獣や危険物と同じ扱いになります。家には決して入れずに、警戒情報を発しています。
 
 
どうか、楽山に、関わること、近づくこと、応答すること、一切、しないでください。ご自身の精神衛生のためです。楽山は、嘘と詭弁で、人を振り回し、疲労させ、壊してゆくサイコパスです。3年間、変わることのなかった判断ですから、人間レベルでは、結論といっていいと思います。
 
私は、努めて、できることをして、それ以上は神にお任せします。人間は、できることを精いっぱいすることが使命、そして、そこまでが能力なのです。楽山は、病質者であり、公共の害毒~病原です。
 
 
 
 幸福の科学は、宏洋氏に勝訴したそうだ。
 2022年03月20日 幸福の科学とは何だろう?
 
物事は一方の言い分だけで判断してはいけないというのは本当だと改めて思う。
 
HSについての記事のようですが、楽山は、自分の言い分だけを、ちょいと書いて、他者の意見を無視し続けています。そういう人が、上のように書くことは、実に、白々しい。楽山の言うことは、いたるところに自己正当化の詭弁が含まれてくるということです。印象操作による刷り込みと言います。
 
当たり前の道徳を書いて作為を隠すのが、楽山の気持ち悪い筆致です。今までも「人それぞれ」「人は人、自分は自分」「意見を言ってはいけないのでしょうか」などと書いて、自分の身勝手を正当化するなど、はっきりした主張をせず、ほのめかしてきました。一般的なことを、個別に印象付ける詭弁です。
 
正面から物が言えない半端者は、このようにして、憂さを晴らすのでしょうか。それとも、暗示によって、人を操る教祖願望の表れでしょうか。いずれにしても、個人でも、組織の一員であっても、まともに付き合ってはいけない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山です。
 
今まで見てきたことから、楽山は、理論家を気取りますが、まともな思考の理路が拙劣です。かつ、深い共感を持ちません。思索できず、感受できず、分かっていると思わせて、インテリを気取り、詭弁と嘘で信頼を得ようとします。遣り取りを続けると、結局は、一種異様な疲労を味わうことになります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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