ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年04月

 
  楽山の読書と詭弁
 
 『幸福なる人生 ウォレス伝』渡部昇一著
 2022年04月29日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
反対を書き、賛成を書いたから、責任問題は生じない、という、トンデモ無責任の楽山が、まだ分からないらしく、書いてきました。人格の病気で、罪悪感がないというのは、本当に不治なのだなと感じます。羞恥心もなく反省もしないので、お構いなしに、他者をおとしめてゆくのです。
 
 
*概要
本書は評伝とも、自伝ともいえず、何と言ったらいいかわからない本である。
 
だったら書くなと言いたいが、自分が何を言っているかが分からなくなったのでしょう。楽山の、おぞましい精神世界のようです。何伝であっても、楽山に読解力はありません。今まで、偏見だけを書いてきた履歴があるのに、自分を評論家だと思い込んでいるのです。
 
 
タイトルはウォレスの評伝のようだがそうではないし、本文はウォレス自身が語っているので自伝のようだがそうでもない。では何かといえば、「はしがき」で著者のご子息が語っておられることがもっとも近いだろう。
 
こういうゴシップ的な推理話から始めて、実質のある感想・意見は書けるんだと思い込むのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴なのでしょう。本の帯と表紙だけを見て書いているような思いつきを、評論家気取りで書いてきた楽山です。
 
 
この本は、そのウォレスがまるで今の日本人に、霊界から自分のことを語っているような形式をとっている。(『幸福なる人生 ウォレス伝』渡部昇一著、扶桑社、2020年、p.3)
 」
 
やはり「霊界から」が出てきます。楽山の興味は、大方、心霊と超常に向かいます。キリスト教についても、心理学の「心の理論」も、心霊の話として受け取って、幼稚な決めつけで書き得たと思い、その超常からの教祖願望によって、自己愛だけに生きているような、本当の人間関係を持ちえない楽山です。
 
 
端的にいえば、本書はウォレスの霊言という体裁のものなのである。ただし、いい加減なトンデモ本というわけではない。ウォレスの家系、幼少年期、青年期、当時の人々の暮らしぶり、社会情勢などが実に詳しく語られている。
 
トンデモは楽山なのです。批判に弁明できないのに、平気で、無視し続けながら、なおも、その文責を負わないまま、次を書いて、当たり前だと思っているのです。これは、精神病理でしかありません。こういう人は、言論から、まず、始めに追放するべき対象です。トンデモは楽山です。
 
 
時には、同時期の日本の状況についても触れていて、ウォレスの生涯と東西の歴史を立体的に把握できるように工夫がなされている。未完ではあるが、博学な著者による大作である。
 
「立体的」「博学な著者」「大作」・・これで中身が伝わるでしょうか。万事、こういう書き方です。ほめておけば、抵抗なく受け入れられるじゃろ・・という性根で書いているのです。醜いです。楽山の褒め言葉は、全て嘘ですから、真に受けないでください。自己愛者は、本気で人を褒めることはないのです。
 
 
ずいぶん前に著者が松下幸之助について書いた本を読んで感動した覚えがあるけれども、そのことも考え合わせると、もし著者が本腰をいれて、評伝、歴史小説などを書いていたら、いくつもの名作を仕上げていたに違いないと想像する。
 
楽山の「感動」は、例えば、あいまい検索の文字列の一致のようなものです。楽山には心がありません。情感や熱意をベースに読むことがないのです。だから、自説と似たようなことを書いておれば、褒めるのでしょう。おべっかを書かないといけないのは、何も受け取っていないからです。
 
 
*カトリックとスピリチュアリズム
ところで、前々から著者の発言から、スピリチュアリズムのことはよく承知しているとは思っていたが、本書を読むと相当に深く研究している気配が感じられた。貴重な文献も収集してそうでもある。
 
ここでも、そうです。「相当に深く研究している気配が感じられた」・・気配?、なんなのでしょう。褒めるには、それなりの、評価の実質を示さなければいけません。楽山にとっては、褒めておけばよいという判断なので、だんだん、形容が、霧散するような表現になります。
 
 
そこで疑問なのは、著者はカトリックの信仰とスピリチュアリズムとを、どのように整理していたのだろうかということである。スピリチュアリズムは教会に批判的なところはあるし、キリスト教とも矛盾するところもあるので、著者の理解に興味があるのだ。
 
いちばん矛盾してきたのは、楽山です。キリスト教を史実と超常奇跡の話にして、全く的外れで、理解などしておらず、しかも、平気で否定を書いてきました。だから、スピリチュアリズムと同列におけるのでしょう。スピリットは精神のことです。楽山は、人の精神を病気にするウイルスのような存在です。
 
 
たとえば、以前の記事でも触れたことであるが、著者は「私が知る限り、キリスト教で生まれ変わりを信じる人はいませんよ。これは絶対ない」と断言していた。これはつまりクリスチャンの著者は、生まれ変わりは信じていないということでもあるのだろう。
 
まさに、このことです。キリスト教について、生まれ変わりを問題にしています。楽山には、生きている間のことは、どうでもいいのでしょうか。信仰は、人が生きるためにあります。いくら考えても分からない超常や霊が中心ではありません。楽山は、まさに、ホラーです。
 
 
でもスピリチュアリズムでは基本的に生まれ変わりを真実だとしている。著者はこの矛盾をどのように解決していたのだろうか。この問題について触れた文章があるなら、ぜひ読みたいと思う。
 
生まれ変わりについて、こだわり、他の記事では、史実にこだわり、霊にこだわり、どちらも、キリスト教を否定するためのようです。一方で、楽山の精神は、無反省、無責任、嘘と詭弁、刷り込みと詭弁、幼稚な芝居心、努力せずに高みを誇るなど、最低の病質を表すばかりです。
 
楽山は、人をだます嘘と詭弁だけを性癖として身に着けてきました。楽山には、一般常識、良識、良心、共感力、冷静な理路、罪悪感、責任感羞恥心、など、いずれも欠けています。楽山の記事は害毒です。恥さらしになっていることに、楽山は、まるで気づかないのです。
 
 
 
もう一つ、楽山の無責任が表れている記事を再録しておきます。
 
 
 「幸福の科学」の自己責任論について
 2013年02月22日 楽山日記(LD)
 に対する私の批判記事↓
  ここで、改めて批判しておきます。
 
 
自己責任論は、私的な問題のみならず、
公的な問題にまで適用しようとするとおかしなことになりがち。なぜなら、公的な問題を、私的な責任問題としてしまうなら、公的な問題は解決されないままに放置されることになるから。
 
責任問題を、公的と私的に分けるのは、楽山の詭弁です。責任問題は、公私問わず、誰が責任者か、どういう責任かを、追及することです。楽山は、こう言う詭弁を、自己保身のために使ってきます。理路は滅裂に近いと思います。
 
 
たとえば、危険な道路で事故が多発しているとき、事故に遭うかどうかは、各人の運転技術の問題であり、自己責任だとすれば、危険な道路はいつまで経っても危険なまま放置されてしまう。 
 
事故が頻繁なら放置されることはないでしょう。そして、楽山の責任も、最後まで追及されなくてはいけません。それに責任の問題について、「公的な問題を、私的な責任問題としてしまう」・・おかしいです。責任は、公私問わず、責任者が負うべきものです。
 
こういう詭弁を吹き込んでくるのが、楽山という無責任です。追放しても、またどこかで、悪さをするでしょう。その都度、その場から追放されるべきです。楽山の発言こそが、放置してはいけない「危険な道路」なのです。早く、言論の場から、いなくなってほしいです。
 
 
 自己責任論は、
反省のための心構えではあっても、必ずしも事実とは限らない。何らかの問題が発生した場合、すべての責任は一方にあり、他方にはまったく責任がないという事例は少ない。その割合は、3:7、2:8などいろいろだろうが、大概は、当事者双方に責任がある。
 
それは、裁判が明らかにすることです。楽山が、いかに、責任を負う気がないかが表れています。事実とは限らないから、反論と論争になることはあるでしょう。気持悪いのは「双方に責任がある」と言っている楽山は、あらゆる発言において、一度も責任を負うたことがないのです。
 
 
自己責任論は、こういう現実を承知した上で、反省の動機づけとして、あえて、いったんはすべての責任を引き受けようとしているだけである。必ずしもすべての責任がその人にあるというわけではない。
 
責任問題は、当事者にとって、決して、そのまま、曖昧に済ませてはいけない問題です。「反省」という言葉を書きながら、その前後で何も変わらず、反省することのない病質者の楽山には、責任者として、追放以外にないのです。楽山が、いかに、自分の庭で正当化しても、通りはしないのです。
 
 
自己責任論はマインドコントロールに悪用され得る。たとえば、宗教教団において、自己責任論を徹底すれば、信者は自分を責めることはできても、教祖や教団の責任を追及することはできなくなる。
 
責任を問えばマインドコントロールになるというのでしょうか。裁判、あるいは、批判によって、楽山のようなアンチ気取りの病的な偽者を、正常人の罪から区別することは、どうしても必要です。楽山の理屈は詭弁であり、自己中の言い逃れであり、全く成り立ちません。
 
 
既にいろいろなところで指摘されているように、自己責任論は本来、自分に対して適用するものである。より詳しく言えば、自と他の関係において、自分に対して、「すべての責任は自分にある」というものであって、相手方に対して、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
 
決定的な発言ですが、楽山は、いかなる不祥事においても、一切、責任を取りません。こういうことが出来るのは、人間が腐っているからです。しかも、この記事だけでなく、詭弁付きです。人を批判しても自分の責任を負わない害毒には、決して近づかないようにしてください。
 
 
また、他と他の関係について、第三者の立場から、どちらか一方に向かって、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
 
楽山の責任は、楽山だけの言動によるものですから、その責任の全てを負わねばなりません。軽口でキリスト教と良心をおとしめた責任です。さらに、言い逃れに、悪口と嘘と詭弁を弄してきた責任です。そして、今では、反省を全くしないというサイコパスの責任も加わります。
 
 
以上自己責任論というものはいつでも、どこでも、誰にでも適用できるわけでもなく、さらには使い方を間違えば、人を深く傷つけることにもなりかねず 毒性も強く、その扱いには細心の注意が必要なのではないかと思う。幸福の科学の界隈では自己責任論によって他者を責め、裁こうとする事例が少なくないようなので自分なりの考えを書いてみた次第である。
 
楽山が、いかに責任を逃れたいかが表れています。楽山は、今まで、いかなる責任も負う気がないということが明らかになってきました。他の人はともかくとしても、一度も責任を負う気のない楽山は、書けば醜い自己正当化の刷り込みにしかなりません。
 
 
ウソッピ物語 嘘っ屁の言い逃れ

ウソッピ物語 嘘っ屁の言い逃れ
 
 
(2022年04月29日、一部再録+加筆)
 
 
 
  うしなったよる
 
みそこなった このみちは
たれのみち どこへ つづく
みうしなった このよるは
たれのよる なにを つつむ
みすてられた このときは
たれのとき いつを かくす
みな ねむるころ
めさめる いまを さかいに
みとどけたい あしたを
くらやみの くさむらの
むしたちの こえと
むねにおちる しずくの おとが
なくしたものを ひろげながら
とおくへ くぎってゆく
 
 
  かえらないもの
 
もう そこには ないのですね
うつむいた ときから
もう そこには いないのですね
なぐさめようもなく
うなだれた ところから
ひとは みな かえってゆきます
たずねびとが みちに まよい
たびびとが よわきになった そのみちを
ふたたび あう やくそくも できないまま
みつからない ひみつを のこして
いいつたえと なぞの あけくれに
ひとは みな いってしまいます
ないものと いないもの もう
たれも さがしは しないのですか
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
本も読めていない。理路も組み立てられず、詭弁の悪用しかない。信仰も宗教も、まるで理解していないのに、書くことに慢心して、内省できず、ろくでもない記事だけ書いてきます。嘘と詭弁が明らかになった今では、意味など無く、否定するしかない楽山の老廃物です。
 
思慮と高等感情、楽山においては、さらに劣化してきました。楽山が、大きなテーマ、つまり、宗教、信仰、真実、などについて書いてくることは、まるで、楽山のハラワタに溜まった汚い老廃物を垂れ流してくるようなものです。楽山の汚らしさを、その都度、味わうことになります。こうはなりたくない。
 
私はキリスト者のつもりなので、信仰の記事やポエム的なものを書きます。絶対の正しさはないので、修正や加筆することも多いです。
 
楽山は、批判に全く答えることなく、悪口を衝動的に多量に書くか、無視するだけの訂正不能です。どう生きたら、こういう人間になってしまうのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  いちばん大切なもの2
 
 
この世において、キリストの心が伝わるのを妨げようとする者の話には、聖書とキリストの話を、奇跡や超常の話ばかりにして、史実か事実かどうかで追いつめるてゆく、というやり方です。それは、いちばん大切なキリストの心から遠ざけようとする誘惑なのです。
 
反キリストや無神教カルトは、キリスト教について、人間離れした呪(まじな)いか魔法のような超常現象だけを伝えて、人間の、共感できる心から離してしまう誘惑をしてきます。
 
キリスト教について、聖書を実際の史実として、神がいるなら、奇跡が起こるなら、復活したのなら、などの仮定から、無節操な自分信仰から、おかしい、という仮定法をもって、神はいない、聖書は虚偽だと主張し、キリスト教を否定する誘惑です。
 
超常に信仰は要らない。そして、信仰に超常は要らない。
 
神は、人と、取引はしない。信仰は真実であり、史実に依拠しない。
 
疑問は、自分信仰を否定しても、疑問であり、そんなことはない、そんなことはないと、無理に疑問はないかのように、疑問を否定して凌ごうとするならば、既に、反キリストの術中にはまっていることになります。疑問は、祈りにおいて、そう感じている自分を正直に告白するしかありません。
 
聖書や教理の、現実における疑問には、私たちは、共感を持てるはずです。それが、人間らしさであります。何ごとも動じないのは、神だけです。私たちは、疑問は疑問として、解決するのではなく、無視するのでもなく、"分からない箱" に入れて保留するべきです。
 
その上で、福音伝道者すなわちキリスト者は、超越性ではなく、成長し得る知性と感性を持ち、良心を持つ人間性から、信仰を考えて伝えることが使命であります。
 
否定するだけのお気楽な者たちが語れないこと、それが、キリストの心なのです。
 
人間に共感するキリストの心に、私たちが共感することによって、信仰は生まれます。
 
超常現象に驚たり信じ込んだりすることからは、真のキリスト信仰は生まれません。
 
肉体や物への奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないが、
魂の奇跡は、キリスト以後、二千年にわたって起こっており、多くのキリスト者が生まれているということです。
 
魂の奇跡、と言うのが、超常的だと思うなら、心の奇跡、でもいいのです。
 
信仰の誕生は、趣味的なものではなく、超常現象でもないところの、人間が生まれ変わる、というのが超常的であるなら、人間を目覚めさせるところの、心の価値観がどんでん返しになるような、その後の人生において決定的な変化ということです。
 
それは、絶対孤独からの解放に表れ、共感に表れ、感動に表れ、愛に表れ、新しい価値観に表れ、温もりとして表れ、潤いとして表れ、祈りとして表れてくるものです。
 
何よりも、そこには、聖書に表されたような、キリストの同伴、すなわち、キリストの洞察と共感と慈愛の同伴が、人を絆(ほだ)すしるしとして顕れるからです。
 
反キリストや、好事家の、聖書の話には、それらが、スコ~ンと抜けているのです。
 
 
前に書いたことですが・・
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 
10:41-42
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
 
先ず、この個所を読んで、キリストはマルタよりマリヤを好んだとか、マルタの信仰よりマリヤの信仰のほうが上だ、という解釈をしないようにしてください。このような読み方は、反キリストや好事家が、キリストの心をけがすためにする読み方です。
 
キリストの、マルタへの愛を見逃してはいけないと思います。ここでのキリストの言葉は、マルタのために語られています。そして、私たちのために語られているのです。
 
「マリヤはその良い方を選んだ」というキリストの言葉は、マリヤの信仰の優越を表しているのではなく、マリヤは、マリヤの出来ることの中で、間違ってはいないということ。マルタは、マルタの出来ることをしていたが、マリヤと比べることで心を煩わしていました。
 
キリストの言葉は、マルタのために語られている。そして、私たちのために。
 
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」
 
キリストは、マルタがマリヤと同じようにしていたら、もてなす人がいなくなることは承知の上で、マルタに対して、マリヤと同じようにせよということではなく、マリヤは、これでよいと、信仰の義を与えます。
 
そして、マルタには、慈しみと親しみを込めて、名前を二回呼んで、山上の垂訓と同じように、思いわずらう必要のないことを語っているのです。信仰の優劣ではないのです。
 
 
信仰の義

信仰の義
 
 
(2020年
(2022年04月29日、再録+加筆)
 
 
 
旧約と新約聖書に書かれている数々の超常奇跡を読んだときに、話にならんとあきらめる人と、そのまま奇跡が起こると信じこんでしまう人、・・この2つの場合は、キリスト信仰には至らない例となるでしょう。
 
物や肉体の奇跡という超常のことは、神に任されるべきことです。人がどうかできることではありません。つまり神の行為であり、人の信仰の信条とは成りえないのです。奇跡が起こるという希望を抱くことはあっても、奇跡が起こると信じ込むことは、神の行為を決めつける冒涜です。
 
私たちが受け取れる、そして、受け取るべきことは、キリスト・イエスの、人々に対する共感性にあります。人々の置かれている状況と事情を洞察し共感するキリストからの教えは、人間がいかに不完全であるか、そして、キリストがいかに共感しているかが分かります。
 
ゆえに、人生におけるキリストの同伴を受け入れることが信仰です。言い換えれば、イエス・キリストの御名によって、神に祈ることが、信仰であります。正義や善は、信仰に伴うことがありますが、信仰そのものではありません。ゆえに、罪人にも信仰が生まれ得るのです。
 
そういう目で聖書、特に、新約聖書を読むと、いかに、不完全の自覚を持っている人ばかりが救われているか、ということに気づくのです。不幸の分、自分を空しくしているような人々なのです。取税人、娼婦、姦淫を犯した人、病人、犯罪人・・などです。絶対孤独から絶望していた人々です。
 
一方、キリストの敵となったのは、自分は高いと思っている人々でした。高慢はくじかれ、傲慢は裁かれるというのが、キリストの教えです。聖書では、例外はあるようですが、パリサイ人や祭司、そして、言葉だけに詳しいと思われていた律法学者たちでした。
 
こういうキリストに憎まれた偽善者になってしまう恐れは、今の時代でも反キリストとして、キリスト教の内外に、たくさんいるわけです。絶対孤独から解放された人が、裸の王様になってはいけないということです。また、安っぽい教条主義だけで、自己満足してはいけないということでもあります。
 
キリストの共感を受けて、キリストに共感する人は、キリストの民となり、キリストの同伴をもって、絆(ほだ)され、そして、生き直し、比喩的には、生まれ変わるゆえに、正直な祈りを、人から神への唯一の音信として、信仰生活を送ることになります。正義と善は、ここでも、結果に過ぎません。
 
キリスト信仰の福音は、正義や善を勧める教えではありません。もちろん悪を勧める教えでもありません。一途に救いを伝える教えです。一途に、孤独ではないことを知らせる教えです。正直な祈りだけで、信仰の義を与えられて生き直す日々を伝えています。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  無の真実
 
独り思いは掌中に風化し
砂のように行方も知れず
毀(こぼ)れ落ちる
 
後には何も残らないか
と尋ねられれば独り思いは答える
毀れ落ちたという真実が残ると
 
それは意義や意味
といったものには縁のない
売れない虚無の踊り子だ
 
しかし売り出し中の
毳毳(けばけば)しいダンサーよりも
しばしば長く残る
 
拍手喝采のない舞台で踊り続け
舞台を選ばず外でも内でも
ホーホーラララ・・・♪
 
けれど耳に聞こえず目に見えず
掌中から去って久しく
ときに手のひらよりも胸に
遠い浜からの潮風を通す
 
 
  相対性情緒
 
討論会というものにおいて
喧々囂々(けんけんごうごう)の論争を経ても
一定の結論に達することが殆どないのは
それぞれが異なった譲れない一線を
結界のように引き直し引き直し
自らのベクトルに乗っていながら
しかも語ろうとしているのは
絶対的な速度の源についてであるから
そこで起こり語られる
あらゆる現象も事物も時間も空間も
知識や論理さえ
多様に歪み変形し展開するために
絶対的な真理を見出すよりは
相対的な誤りを見逃すほうが
はるかに容易(たやす)く
すれ違う脈絡の渦の中で
感情の起伏は激しく波打つのに
論者は知性と理性をもって語るように
義務付けられているから
討論会は結論を出すことが
目的でもなければ期待でもなく
論争があるということを示す
統一されない場にならざるを得ず
よって周りで見ている人々は自らの
自転する思考に乗って公転するように
目を回しながら注目し
サラウンドしながらラウンドする
ノイズのような声に聞き耳を立てている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のボンヤリ言語というのが「大事なことだと分かって」「実践するのは難しい」に表れています。反省できなければ人間ではないということを、難しいことのように言うのは、反省する気がないということで、「んだよなあ」という語尾で「人間の性」と一般化するという気色の悪さです。
 
楽山の文章を見るとき、体質として性癖として身についてきたボンヤリ言語と、三文芝居のトホホ言語に、安っぽく同情するか、気持ち悪い作為だと気づくかで、楽山の罠にはまるかどうかが決めってくるようです。嘘と詭弁だけの楽山は、善きものをことごとく捨ててきたのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
 
 

 
  神について語るには4
 
 
キリストや聖霊についても同様ですが、神という御方を考えるとき、全知全能の神については、私たちの概念の箱には到底納まらないということを先ず言いたいのです。神と聖書について人間が持つべき箱は、修正可能な分かった "つもり" と、分からない保留の箱だけです。
 
したがって、「神」を概念や観念として言葉で考えることは、無理すれば、人が全能者を扱うことになり、教条主義という罠に堕ちるでありましょう。最悪の例を、一人は10年、もう一人は3年、批判しています。全能者は人に扱われるような御方ではありません。
 
つまるところ、全能ではない人が、神の概念を語ることは困難であり、語るにあたって、少なくとも恐れを持たなければなりません。
 
では神について語ってはいけないのかということになりますが、恐れを持つということは、語るなということではなく、語る内容を言葉で決めつけてはいけないということです。どういう姿勢で神を語ればよいのでしょう。
 
神そのものではなく、導き、憐れみ、戒め、懲らしめなど、神が人に及ぼした作用の、人における経過と結果から、推測できるものを語るべきなのです。
 
その場合、導きを受けた人のことを語ってもよいし、そういう人の様子や経緯から推測できることを語ってもいいでしょう。神そのものは、人によって捉えられるものではありませんが、神が人に及ぼした影響
つまり人の信仰については、人は不完全ながら知りうるということです。
 
そういうことですから、人が聖三位について語るとき、最も多く語れる対象はキリストであります。人格としての言行録が福音書としてあるからです。
 
その中の物や肉体の奇跡については、なお人間の理解の届かないところにあります。キリストについて、物や肉体の奇跡を追いかけて、魔法使いの言行録みたいに語ってはいけないと思います。そういう奇跡は
人間の守備範囲外にあるからです。
 
キリストと、キリストが救った人々との交流から、救いとは何か、キリストが批判した人々との遣り取りから、救われないとは何か、こららのことを学ぶことは、決めつけない限り可能でしょう。
 
またキリストを信じることで、自分に、そして人間関係に、さらに思考や感情に、そして人生に、どのような変化があったのかを語ることも可能でしょう。
 
そこから推測できるところの、信仰がどうあるべきか、信仰者がどう生きるべきか、などに話を広げてゆくことも出来るでしょう。
 
信仰者として心が揺さぶられることは、キリストからの愛に、そしてキリストへの愛に帰してゆきますが
信仰者の人間としての営みの成り行きにおいて、総じて、導きは祈りに帰してゆきます。祈りは、その日までの経過であり、その日からの出発点なのです。
 
 
神様のことは、徳の高いお爺さんか先生がいるから話を聞いて仲良くしましょう・・ではないのだから、会えば分かるわけでもないのだから、会って直接話を聞ける相手でもないのだから、信仰者は、善の代名詞みたいに気軽に話のネタにしてよいことではありません。
 
また、カルトのように、自分の見なしを大仰な小理屈?の教条にして、形容だけ大袈裟にして、大真面目を装って嘘を吐いて、神の意志と行為を決めつけてよいわけもありません。
 
神聖について、人が持つべきなのは、確信ではなく、恐れであります。
 
人に起こることというのは、聖書からだとしても、よく語られる超常話が人を救うのではなく、つまり物や肉体の奇跡ではなく、人間であれば理解できるような、人間の喜怒哀楽とか愛とか洞察とか、人間に共感できることだけが人を救うのです。
 
私たちを惹きつけ共感させることが、聖書にはたくさんあります。そこに価値を見出した人は、理解できないことや疑問や矛盾は、人ゆえにいだくものとして保留するのです。
 
聖書が教える信仰は、自らの経験と思考の届きうるもの、すなわち、人間であれば理解できること、共感できること、それらをもって問いかけてきます。
 
信仰の学びとは、こんな不思議の奇跡のわざが起こるんだ・・すごぉい!・・というような、奇跡の粗筋と一覧を覚えることではなく、主イエス・キリストが思いを共にして下さるという孤独からの解放を、人間らしい温もりと潤いの心で、聖書から学び、考えて、伝えてゆくことなのです。
 
ここでいう学習とは、聖書を読み、心に響いたことを、体験において考えてゆく作業であります。それは、その人の生き方の問題であり、人間関係の問題であり、人間とは何かという問題になります。キリスト信仰は、それらを、道徳としてではなく、良心の生き方と在り方して学ぶことなのです。
 
 
共感と学習の道

共感と学習の道
 
 
(2019年、2020年、2021年)
(2022年04月28日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
人間が持ちうる
最も良質な
精いっぱいの
神への告白は
讃美ではなく恐れである
 
神の全能への恐れと
それを憐れむキリストの共感が
キリストへの共感を生むとき
キリスト信仰は生まれる
 
 
 神への恐れ
 
人間は
神について確信的に知ることなど出来はしない。
神は偉大というのは
私たちには知りえないほど偉大だということだ。
神は永遠というのは
私たちには到達できないほど永遠ということだ。
 
そこを取り違えた者たちが
神の言葉を代弁するかのように豪語するのは
"紙の言葉" をもてあそぶことに過ぎない。
 
机上で神をもてあそぶ者たちに惑わされないように
 
私たち人間は
お笑いのように
泣き笑いのように不全であります。
 
先ず
神を恐れることを学んでください。
 
次に
恥ずかしく、泣き、笑われる、私たちに
同伴し、寄り添い、共感し、共感を与える、キリストを覚えてください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が大事なことだと分かっているなら、いつでも、反省は出来ることなのです。それをせずに「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などと言っているのは、反省する気のない者か、反省ということを知らない者でしょう。育たなかったのでしょうか、反省と学習の精神が。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
 
 
 

 
  悪い例だけ刷り込む2
 
 宗教は幸福感を得るための手段である!
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD) 2020年04月25日
   を改めて批判。
 
 
楽山の、偏向した、安っぽい、悪い材料だけ見せてくる詭弁の、宗教への執拗な侮辱が、全開です。一部の間違っているところだけを論(あげつら)って、キリスト教全体を否定してくる楽山の詭弁は、吐き気を催すだけです。
 
 
この文章からすると、著者は宗教は目的ではなく手段であると考えているようだ。
幸福! 幸福! 宗教は人々がこの賜物を手に入れるための方途の一つでしかない。容易に、半永久的に、そして有効に、宗教はしばしば、もっとも耐えがたい悲惨をも、もっとも深くもっとも永続的な幸福に変形するのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.265)
 」
 
宗教は麻薬と言われたことがありますが、それを楽山は言いたいのでしょう。一面的な偏見だけで書いてくる楽山です。自己愛に陶酔することによって、他者や人間一般を無視し、自分だけの勝手な幸福感を得ようとしている楽山が、自分を棚に上げて書いていることを強調しておきます。
 
キリスト教と称して、神を恐れぬ傲慢や、聖人気分や、陶酔気分や、ルサンチマンによる被害意識などといった間違った信仰?が、キリスト教内外にあり、それは、勘違いから生じているわけです。また、キリスト者に成りすました自己中妄想のシャロームのような偽キリスト者もいます。
 
そのことは、私のブログの記事にも、信じ込み思い込み信仰の罪として、長く批判してきたところであり、人間的な潤いと温もりがあれば理解できるはずですが、楽山は、恐らく、そのような人間の深いことが全く理解できないのでしょう。
 
誰も避けようのない死とか不幸とかの運命に対しては、慰めの必要な人に、それを与える救いが必要ですが、楽山は、悲哀に不感であるため、その必要を考えないので、間違った信仰の例をもってキリスト教とキリスト信仰をおとしめないではおれない悪意の宗教知ったかぶりの異常者であります。
 
楽山は、自己陶酔のプライドを傷つけられた、というより、元々根拠のない自尊を批判され否定されると、寸足らずの言論で、露骨に、おとしめてくるところの、カルト妄想の、教祖願望の、反宗教反キリストです。信じないのは自由ですが、根拠もなく否定するのは、無知の無恥の因業であります。
 
無理解のために、勘違い、さらには、知識不足、怠慢、自己愛、霊能者気分、超人気分の陶酔、ルサンチマンの裏返しによる神を恐れぬ傲慢、などによって、凶暴な悪意をもって、キリスト教を毛嫌いして、あくどく、嫌味ったらしい貶めをしてきたのが、楽山その人であります。
 
まさしく、キリスト教の敵、反キリストとして、楽山は牙を剥いてきました。どれもこれも、こう書いてあるとばかり、学者の説をあげないと何も言えない、というより、学問を悪用しているだけの楽山の煽動です。どこまでも空疎で、災いしか与えない楽山です。楽山は、言論の敵です。
 
キリスト教は、陶酔気分によって、悲惨を幸福に変質させる麻酔ではありません。その勘違いの例をもって、キリスト信仰の救いも恵みも踏みにじろうとする悪魔性の迫害言論者が、楽山その人であります。楽山は、本性を表し、牙を剥いてきました。
 
 
これは確かにその通りだ。宗教は一見したところでは、事実、真実を教えているようだが、実際にはそうではなく、物事の解釈、意味づけをしているにすぎず、宗教はこれによって人の苦しみや悲しみを軽減しようとする。たとえば近親者の死を嘆く者には、生死には意味があるとしたり、死者の魂は天国で平和に暮らし、地上で生きている者を見守ってくれているとしたり、いずれ時がくれば死者と再会できると説くなどして、その苦しみや悲しみを癒そうとする。
 
楽山は、個人的にも、自分発想でも、独創性による宗教理解を追求することが全くできないので、このように「これは確かにその通りだ」と言うしかないのです。独創性が皆無の楽山の人真似です。解釈は、聖書の文言だけではなく、人間の心にとっての必要性があるから生まれてきます。
 
信仰の真実は、物事の解釈や意味付けではありません。宗教が不幸を勝手に意味付けして騙しているとでも言いたいのでしょうが、楽山が、今になっても、まるで、読書による知識の広がりがないことの証拠になります。だまし続けているのは、楽山です。
 
さらに、では、どうしようもない不幸に対して、楽山は、何をどう言えるというのでしょう。何も癒しを持ち得ず、教えることが出来ない楽山、愚かです。この人にだけは、人生の相談をしないでください。自分のことしか考えない人です。
 
 
この他、神、天使、仏、菩薩、守護霊、生まれ変わり、カルマ、神の試し…なども、どれもこれと同じような効果を持っている。この点、宗教は悲惨を幸福に変えるための不思議な道具ではある。
 
私は、神聖の言葉、超常の奇跡、などは、人間には手に負えないから、それを信仰の根拠にしてはいけないということを、何度も書いてきましたが、楽山は、また、同じような、けなし言葉しか使えないのです。しかも、超常神聖の霊の分かるっぽい自覚に生きているのは、他でもない、楽山であります。
 
楽山は、私の書いたものを理解する気もないということです。このことは、楽山が、受け取らずに、勝手に書きたいことを書く、受信せずに発信する、という、自己愛を振り回すだけの言論失格者であることを示しています。カルトも宗教も、区別できず、いっしょくたになっている楽山の言です。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自慢と自己愛の妄想~決めつけによって、ブログを書いています。教祖にでもなるつもりなのでしょうか。そのための学問的味付けを求めて書物を漁(あさ)っているのでしょうか。ただの好事家ではなく、人間離れの神がかりの超人意識に生きているのでしょう。
 
楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分からないっぽすぎると言い、ゆえに、霊の話に興味があって、仏様や霊の気持ちが分かるっぽいと自覚を表し、神霊や超常に興味を持っていることを明らかにしています。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
心理学と心霊主義も区別できない楽山です。ろくに、本の真意も理解できないのに、インテリ気取りで、人をボンヤリ言語と詭弁で騙すのは、楽山の生業のようです。
 
 
ただこれがために宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ。宗教によって幸福感を得た者が、宗教に依存するようになり、そのあげくに宗教は手段ではなく目的であると勘違いして、宗教に奉仕させるのでなく、宗教に奉仕するようになってしまうことがある。宗教が人に奉仕するのでなく、人が宗教に奉仕するようになってしまってはおしまいだ。ここが宗教の怖いところではある。
 
「やっかい」なのは、楽山です。宗教は、勘違いすれば、悲劇をもたらすことは明らかですし、事実でもあります。ですから、私は、超常意識に思い上がるような誤ったキリスト教への批判も書いてきました。楽山は、宗教を、ひとまとめにして否定し、まともな根拠を持ちません。
 
しかし、私は、信仰がもたらす、絶対孤独からの解放という恩恵も、キリストの愛と共感、キリストへの愛、という、絶望を希望に変える信仰を書いてきたつもりです。これらについて、全く感受性を持たないで、何も受け取らず、嫌らしい人間になってしまったのが、楽山であります。
 
 
こういう考え方は、宗教を目的とする熱心信者からは嫌悪されるだろうけれども、宗教の奴隷にされて骨までしゃぶられるようなことになりたくない人は、宗教は目的ではなく、あくまで手段にすぎないという考え方は知っておいて損はないはずだ。酒は飲んでも飲まれるなというけれども、宗教もこれと同じで信じても飲まれたらいけないし、適切な距離を取ることを忘れないようにしたい。
 
「骨までしゃぶられる」宗教?は、宗教でも信仰でもありません。キリスト信仰は、真実の可能性に導くものです。楽山が持っていない人間としての理性と情緒を養うものです。骨まで腐った楽山のようにならないために。
 
何も考えないで、神のことも自分の頭で扱えるつもりの、楽山の惨劇です。
 
楽山の言は、宗教については、飲むな、飲まれるな、関わるな、真に受けるな、と言いたいようですが、皮も、肉も、骨も、髄も、しゃぶりたがっているのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスの、楽山その人であります。
 
ゆえに、宗教を理解できないのを、宗教のせいにして、ナルシストの低劣な本性がバレた今となっては、安っぽい引用と、成り立たない理路をもって、自らのカルト精神を省みもせず、宗教を、未熟な理屈で決めつけ、それこそ、理路もなく悪あがきの詭弁の反復によって悪口だけを書いています。
 
こんなことしか言えないのかというほどに、楽山の反キリストの主張は、定型的となり陳腐になってきました。そのことさえ学習障害によって知らないままの楽山の、執拗な言い張りを、実際は、カルトの洗脳・暗示・刷り込みを、すなわち、良心を食い尽くす牙を、どうか真に受けないでください。
 
 
虚言の澱(おり)

虚言の澱(おり)
 
 
(2020年)
(2022年04月27日、再録+加筆)
 
 
 
  池のある公園
 
ここに来るのも久しぶりだ
暖かい日曜の午後
池には無人のボートが数そう浮かんで
緩やかな風が
池の面にかすかな波を立てている
 
ほとりに向かって歩いていくと
俺に似たやつが
セメントのベンチに腰掛けている
片手には詩集のようなものを手にしているが
眺めているのはほとりに戯れる小魚の方だ
 
向こうからもやってくる
よれよれのブレザーを着て
手には紙屑を握っている
あれも俺だ
 
よく見れば
あっちにもこっちにも
数人の俺が歩いている
大学に入った頃の俺
野球場からの帰りの俺
バイクに乗り始めた頃の俺
ここにいる俺
 
見てみろ
俺達はなんてさびしげだ
声をかけあうこともなく
ただ声もなくたたずんでいる
 
俺が小石を池に投げると
ベンチに座っているやつがそれを眺めている
そいつの後ろから
そっと手を伸ばしてみた
 
それより早く
誰かが俺の肩に触った
はっとしてあたりを見回せば
暖かい日曜の午後
まわりを歩いているのは
みんな知らない人たちばかりだ
 
 
  椅子(いす)
 
他人(ひと)の作ってくれた椅子に
腰掛けていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
立ち上がり
椅子を打ち壊す
人は驚いていなくなり
誰もいなくなった
扉をあけ
扉を閉めた
長い廊下がつづいた
長い廊下が続いた
 
長い廊下の終わりには
錆びた扉がしまっていた
外では何やら
がやがやと音が聞こえた
戻ろうか と思っていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
あわてて扉をこじあけた
するとまたたく間に
彼をとらえた光の中に
彼はいなくなり
誰もいなくなった
 
彼のを行方を
たずねてはならない
 
 
  荒療治
 
ダニか他の虫刺されか
赤いブツブツ
かゆいけれど
かけば汁が出てひろがる
悪いものはたいていそうだ
 
毒には毒をと
タバコの火、近づけて
熱さが、痒みから痛みへ
一、二秒がまんして
軟膏を塗る
 
この荒療治は、しばしば
やり過ぎて水疱をつくる
破って中の液を
ティッシュで吸い取り
また軟膏を塗る
 
何カ所かやって
ひとつだけ治らない
絆創膏でかぶれて
ますます赤くなって痒い
 
悪いものはたいていそうだ
またタバコであぶったり
ちり紙でゴシゴシこすったり
手持ちのあらゆる軟膏を塗ったのち
愚かなことをしたと気づく
愚かなものはたいていそうだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、ますます、かぶれて、ただれてゆくようです。人格が、元々未熟な上に、反省もせず、学びもせず、罪悪感の欠乏から、何も気にしないで書いてくることが、病質を表してゆきます。どこへ行くのでしょう。ホラーアニメとお伽噺と超常の霊を、独り待ち続けてゆくようです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の薄い感想文
 
 『国民の修身』渡部昇一監修
 2022年04月23日 楽山日記(LD)
 
 
この文章を感想文と言うのでしょうか。好みを書いているだけで、殆ど感想の中身を書いていません。楽山が、いかに作文が苦手であるかが表れています。書かなきゃいけないノルマでもあるのでしょうか。まるで、いやいやながら書いたかのようです。
 
 
*全体の印象
本書は、戦前の修身教科書(一~三年生)をまとめたものである。
全体の印象としては、挿絵や仮名遣いに味わいがあって心地よいものになっている。旧仮名遣いの文章を読んでいると、いかにも書物を読んでいるという気分になる。
 
「挿絵や仮名遣いに味わいがあって心地よい」「いかにも書物を読んでいるという気分」・・心地や気分だけで感想文と言えるでしょうか。書くのが面倒くさい小学生が、書けと言われて書いた作文のようです。なぜ、公開するのでしょう。
 
 
内容については、自分は保守的な方なので、それほどの違和感はなかった。ただ皇室に関する記述については、戦後生まれの自分には分からないところが多かった。
 
「違和感はなかった」「分からないこところが多かった」・・この曖昧さ、具体性の無さは、何なのでしょう。よほど書きたくなかったとしか思えません。好きで本を読み、ゆえに、書いた感想文とは、到底思えません。楽山は、いったい、何のために本を読んだのでしょう。
 
 
*三箇所
次は例のごとく、本書中、特に印象に残った箇所をいくつか挙げておきたい。
まず一つは、雄鶏と雄鶏が喧嘩をし、勝った方が屋根に上がり、勝どきをあげて威張っていたら、飛んできた大鷲につかまったという話である。
 
思い上がりを戒める道徳でしょうか。上には上があるという教えでしょうか。「という話である」で終わって、意見も説明もないのを、作文とか感想文とか言えるでしょうか。楽山のブログは、愚痴なのでしょうか。その割に、宗教や思想を、好きなように揶揄してきました。
 
 
もう一つは、本居宣長の蔵書は膨大なものであったが、よく整理していたので、夜、明かりをつけなくても目当ての書物を取り出せたという話である。
 
整理整頓が大事という話でしょうか。また「という話」で終わって、楽山は、何の違和感もいだかないのでしょうか。下書きでしょうか。なぜ見せるのでしょうか。小学生の作文としても、いい点はもらえないでしょう。そういう思いか思い出か履歴でも書いて、同情を誘っているのでしょうか。
 
 
最後は、貝原益軒は大切にしていた牡丹を折られたときに、「じぶんがぼたんをうゑたのはたのしむためで、おこるためではない。」として、粗相をした者を許したという話である。
こういう話は説教臭くて嫌いだという人もいるだろうけれども、自分にはどれれも面白かった。
 
イタズラを許せる人を、褒めたいのでしょうか。これが、道徳でしょうか。昔の道徳を書いて、掘り下げるわけでもなく、批判するでもなく、時代の倫理観を考察するわけでもなく、また、どうして、これが「国民の修身」なのか、全く説明も、批判も、していません。楽山の終身刑でしょうか。
 
 
このように、楽山は、読書感想文一つ、まともに書けないのです。苦手なら、書かなければよいのです。何らかの見栄なのでしょうか。義務か命令でもあるのでしょうか。このような出来の悪い文章、公開すれば、今までのことから、当然、低い評価になること、予想しなかったのでしょうか。
 
このような国語力で、楽山は、悲劇が起こるから神はいない・・などという幼稚さで、キリスト教を批判し否定してきたのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による無学習が、いかに有害であるかが表れています。
 
ネトウヨであり、反キリストであり、偽牧師シャロームshalom に同調し、あるいは、成りすましも疑われている楽山であります。書いてきたものは、余談とも言えないような偏見に過ぎず、それを批判しても、スルーすると言って無視し、訂正不能の自己満悦だけの無知と無恥が表れてくるだけでした。
 
人の言うことを、平気で無視して、嫌がらせのような文章しか書けないでいて、評論家気取り、読書家気取り、インテリ気取りで、しかも、根拠としては、ホラーアニメ趣味レベルの知識と感性しかありません。罪悪感、羞恥心、悔いて反省する、・・などの高等感情がありません。
 
楽山の書くものは、論理的に見せかけた文章でしかありません。初歩的なAとかBとかの命題や「~ならば~」という論理に見せかけながら、先入観と偏見だけが鼻に突くような決めつけで出来た文章を、うんざりするほど多数、そして、執拗に、評論にも批判にもならない刷り込みや攻撃として書いてきました。
 
楽山は、否定を書き肯定を書いて断定していないから責任問題は生じない、などと言って、詭弁を平気で書く人です。否定すれば否定の責任が、肯定すれば肯定の責任が、大人には生じることを、まるで理解しません。つまり、楽山は、大人に成り損なった未熟な人です。宗教も学問も語る資格はないのです。
 
楽山は、排気管だけのオートバイです。乗って、転がして、転倒して、大声を出して、モーターサイクリストを気取っているような、図体だけ大人の、孤独なゲームボーイなのでしょう。あるいは、受けねらいの世辞や嘘や詭弁を弄して、評論家を気取るペーパー王子なのです。
 
 
虚空と孤独

虚空と孤独
 
 
(2022年04月26日)
 
 
 
※ 信仰の中心(再録)
 
 
何度も書いてきたことですが、例えば、処女懐妊、数々の奇跡、肉体の復活などは、二千年前、起こったにせよ、起こらなかったにせよ、キリスト信仰の中心ではありません。したがって、本当にあったというのか、という質問には、分からないと答えていいと思います。
 
何故なら、起こるにせよ、起こらないにせよ、その奇跡は、私たち人間には、理解できないからです。さらに、起こったと信じることで、救いにつながるとも思えないからです。
 
そういう奇跡は、神に任されることです。人が神の意志と行為を決めつけてはいけません。分からないことは、正直に、分からないと言うのは、信仰の条件であります。
 
物や肉体の奇跡について、起こると確信することは、この地上での視点が、超常に向いてしまい、日常を疎かにする危険があります。さらには、誰も知らないが起こるんだよ、と信じることが、誤った信仰者の優越意識にもつながりかねないのです。
 
私たち信仰者は、非信仰者に比べて、優位に立つのではありません。同じ罪人であることは、信仰があってもなくても、変わりはないのです。ゆえに、福音伝道は続くのであって、そこに、他者は劣る者という視線を持つことは、神に背く傲慢だと思います。
 
信仰の中心は、私たちにも理解可能な、キリストの、人間に対する洞察と共感であります。ゆえに、二千年前に、キリストは、教条主義や戒律主義の偽善を最悪として批判したのです。そこを外してはいけないと思います。
 
私たちは、聖書から、人間としての心に響いて、受け取れることを、受け取るべきであり、それ以外は、""分からない保留の箱" に入れておくべきであります。
 
さらに、キリスト信仰は成長するものですから、訂正不能に思い込んだり信じ込んだりすることは、厳に、戒めるべきです。信仰は、繰り返し念じて、こびりつかせて、肯定の癖をつけるような安物ではないのです。
 
信仰の中心は、敬虔と経験によって深めてゆく人間としての共感です。原初の信仰は大切ですが、訂正不能にしてしまったら、言葉だけの教条に堕してゆくでしょう。
 
一挙に、神の真理を、さらに、信仰の奥義さえも、人が得ることはないということです。自閉的な人も、社交的な人も、人間関係の中で、それなりに学習し成長することが大切なのです。ゆえに、私事ですが、自閉的で疑い深い私も、キリスト者になったのであります。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間の持つ心の、"土の器" と書いてあるものに、信仰は与えられ、成長します。譬えだと思います。人が、神によって、土から造られたことによるのでしょうか。
 
ところが、この土の器を、何やら、超常の魔法の器のように信じ込んで、信仰は心のどこにもないと言っていた者があります。自分を特別な恵みを得たと特別視して自慢するためです。
 
その者シャロームshalom は、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与える、などとも言っていました。悔い改めていないことを正当化するためです。しかし、彼の言を言い換えると、彼には、神は悔い改めを与えていない、導いてもないということです。
 
つまり、これは、人を見下すこと甚だしいところの、真っ赤な偽者の例です。キリスト教に疑問をいだくのは自由ですが、このような大馬鹿者にだけはならないでください。
 
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。 
 (ローマ2:4-5、新約聖書)
 
神の、慈愛、忍耐、寛容、と書いてあり、人間にも理解できることです。
 
このシャロームの言を、当たり前のように、肯定していたのが、楽山であります。このことで、楽山の語る宗教・思想の言は、信頼度ゼロであることが明らかになりました。つまり、神の怒りを自分の身に積んでいる楽山とシャロームであります。
 
シャロームは、神の導きということを、まるで、魔法がかかって操り人形のようになって、悔い改めるとでも思っているのでしょうか。笑止であります。
 
悔い改めは、神の前に、罪を正直に告白して赦しを乞うことです。つまり、祈るとき、世俗から、神へ、方向転換していることになります。神様のほうを向く・・という言い方があります。
 
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 
4:8-9
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 
4:10
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
 (2コリント4:7-10、新約聖書)
 
信仰による勇気を語っていることは明らかです。土の器は、自慢するためではないし、魔法でもないのです。カルトや妄想家は、教条を信じ込んでいて、直感的な理解が、劣っているか、ない場合が多いです。
 
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした
その目は絶えず中空にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱はふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
 雲がわき
 雲が飛び
 雑多な雲が流れ
 千々に流れて
 虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
正しさを実践しようとすれば、滑り、転がり落ちて、反省せずに、人のせいにし、嘘を吐いて、都合の悪いことは、アドラー教や、「人それぞれ」や「自分を貫く」などという言葉の曲解で、無反省で無責任に自己正当化して、結局、ゴミの山に棲んでいる楽山です。
 
楽山は、責任を負わず、反省をしないので、学習せず、成長せず、その結果、精神が不細工になっています。しかも、それを自覚しません。不細工のまま、よく見せようとして、妄想と作為の嘘と詭弁を言いふらしています。自分について反省が出来ないのに、他者を批判して何になるのでしょう。
 
楽山とコメントなどの遣り取りはしないほうがよいと思います。楽山は、自他の理路を理解していないので、世辞以外は、甚だしく理路が乱れます。そして、幼稚な詭弁や論理遊びで、惑わそうとします。そこで、言いようのない疲労を患い、抗弁する気もなくなる・・というのが楽山の狙いです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
あと、アンチとも普通に話せる信者が多ければ、マイコンはなさそうに思えるけど、
春氏みたいに、退会者は落伍者とし、アンチとみれば全否定してくる信者ばかり目立っている現状では、
「HSはマイコンされてる信者が多く、異論は許さない閉鎖的な集団だ」というイメージを持たないことは無理だね。
午後10:26 · 2022年4月20日·Twitter Web App
 
楽山は、訂正不能の自己愛によって支配されています。楽山という詭弁屋は、誰とも普通に話せません。楽山は、不通なのです。批判されると、スルーすると言って、無視するだけです。楽山だけは、誰からも除外されるべき人です。楽山は、異論を受け取らない自閉的な教祖願望の個人カルトです。
 
 
 ※
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のサイコパスが二人。スケールの違いはあるが、露者風珍と楽山。何千人何万人を殺しているのが風珍。何人も何十人もだましているのが楽山。風珍は命の裁きを受けるでしょう。楽山は精神崩落の裁きを既に受けつつあるのです。
 
 
私事ですが、批判している私は、ちゃんとしているかというと、それこそ真逆で、失敗ばかりしてきた固陋(ころう)の老人です。しかし、私は、失敗も、能力不足も、嫌というほどには自覚しています。それゆえに、その反省からの自分発信の記事を書くこともあります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ