ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年04月

 
  楽山の悪霊
 
 
 「霊言の冒涜は人類叡智の冒涜
   ~イタコ芸など、いい加減にせよ!~」を見た!
 2022年04月23日 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
   を批判。
 
楽山は、一見、HSを批判しているように見えますが、実際は、聖書から、残酷な言葉を選んで、書いています。楽山の目的は、自分が批判されたことへの、キリスト教に対する復讐でもあるのでしょう。実に、片落ちで、聖書は殺すことばかりで残酷ですよ・・と言いたいのでしょう。
 
聖書を理解しない者が、ましてや、言動が聖書を裏切っている者が、聖書を引用する・・これほど、危険で、醜悪な偽善はないでしょう。この楽山のような者のゆえに、終末の裁きは用意されているのでしょう。というより、既に、楽山は裁かれているのですが。
 
 
*公式見解?
・霊言の冒涜は人類叡智の冒涜~イタコ芸など、いい加減にせよ!~
(動画省略)
この動画では、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」という主張がなされている。
まるで、他の宗教でもHSの霊言と同じことをしていると言っているようだ。
はたして、本当にそうだろうか?
 
聖書において、霊については、聖霊と悪霊とが書かれています。これは、よかれあしかれ、人間を誘導し動かす心の働きを表しており、楽山が好むようなホラーの霊とは違います。霊について、とんでもない偏見で、楽山は、おとしめたいのです。楽山を信用しないでください。
 
楽山の、霊についての文章は、一足飛びにエスパーになりたい妄想なのでしょう。その欲張りから、楽山は、結局、悪意、つまり、悪霊にばかり憑りつかれているようです。楽山が、いちばん危険な霊の思い込みだけの、実際は、霊の無能者なのです。全く俗の欲望と興味だけなのです。
 
 
*聖書と霊言
たとえば、聖書にはこんな風に書かれている。
「(聖句)
霊媒を訪れたり、口寄せを訪ねたりして、汚れを受けてはならない。
(レビ記19.31)
 」
 
まさに、超常現象としてのホラーの霊を信じて、霊が分かるっぽい自覚で、嘘と詭弁を書いてきたのは、他でもない楽山です。楽山は、努力せず、学習せず、一気に超常のヒーローになりたくて、崇められたい教祖願望で、あらぬことを書きまくります。
 
 
男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる。
(レビ記20.27)
あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。
(申命記18.10)
口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ。
(レビ記20.6)
 」
これを基準にすれば、死者を呼び出し、その言葉を伝えるHSの霊言が容認されることはあるまい。
 
まさに「霊」を悪用する悪霊が楽山と言いたくなるような、ただれた発疹のような、断片的な聖句の引用の仕方と言えるでしょう。誰が、言論の場に「いてはならない」かを、楽山が表しています。楽山の、ブレーキの利かない血生臭さです。
 
 
*聖書と預言
預言については、こうある。
その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。
(申命記18.22)
 」
さらに、神については、こうある。
神は人ではないから、偽ることはない。
人の子ではないから、悔いることはない。
言われたことを、なされないことがあろうか。
告げられたことを、成就されないことがあろうか。
(民数記23.19)
 」
この場合、大川隆法が預言者とされることはもちろん、神とされることもないだろう。
大川隆法は、90年代には、今世紀中に日本国民全員をHSの会員にしてみせると豪語したり、2009年には幸福実現党が政権を取るかのような物言いをしていたが全くそうはならなかったのだから。  
 
キリスト教を、ミソクソに言っておきながら、聖句を引用して根拠とするとは、楽山は、もはや、真実も、節操も、なくなって、亡者と化しているということです。楽山のような曲解を習いとするような者が、恣意的に引用してよいような聖書ではないのです。楽山は、悪魔性の冒涜者であります。
 
 
*心霊研究と霊言
イギリスの心霊研究協会では、霊言現象の検証方法として次のものがあるそうだ。
子供のいたずらではないかという懸念が、関係者の中にあり、ハステッド教授という心理学者が現地に行って調査した。ジャネットの口に水を含ませ、唇をテープで貼って、それでも声がでるかどうかを試したのである。 
(『イギリスの霧の中へ 心霊体験紀行』三浦清宏著、南雲堂、昭和58年、p.35)
 」
はたして総裁の霊言は、この検証に耐えうるだろうか。
ちなみに、映画『死霊館 エンフィールド事件』では、霊媒少女が口に水を含んだまま、霊言をする場面がある(1:10:25付近)。
 
このように、楽山は、超常現象とホラーに興味があるだけのオタクです。宗教や信仰を語れるような、柔和な器を、全く持っていません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が、聖書を引用すれば、ことごとくインチキになる定めなのです。近づかないでください。
 
 
*まとめ
以上のことからすると、HSの霊言は、聖書の預言とは別物であることが分かる。心霊研究における霊言にも該当しないだろう。
 
聖書の意味など、全く分かっていない楽山が言っています。戒律的な文言を、預言とか霊言とか呼んでいるところもそうですし、宗教の歴史を考えずに旧約聖書を、実に無遠慮に利用~悪用しまくっているのは、もはや、できの悪い子供が、マンガ雑誌を振り回して暴れているようなものです。
 
聖書を読むためには、聖書を読むための宗教的興味と冷静な弁えが必要です。楽山のように、キリスト教を否定しておきながら、自分の企みに都合のよい文言を集めるなどという引用は、悪魔性か、怠け者か、無節操か、凶暴性としか思えません。楽山を、決して信用しないでください。
 
 
したがって、これらを同一視して、HSの霊言は、他宗教と共通しており、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」と言うのは詭弁なのである。
 
「詭弁を弄する者」は、他でもない、楽山です。ずっと、そうです。そして、霊言という言葉を、平気で、分かっている前提で使っているのは楽山の傲慢です。霊は、心を意味したり、超常を意味したり、心霊、聖霊、悪霊など、多義でありますから、慎重でなくてはなりません。楽山は粗忽(そこつ)です。
 
 
詭弁を弄する者は、意識的であれ、無自覚であれ、言葉の多義性を利用しつつ、同じものを違うとしたり、違うものを同じとしたりすることがある。たとえば今回の場合は、「霊言」の意味を広げて、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」とし、HSの霊言も、他の宗教の啓示なども同じだということにしたわけである。こういう詭弁には注意したいものである。
 
霊言という言葉の定義も書かないで、霊言という言葉を振り回して、霊言が分かっている前提で、物を言う楽山こそ、あくどい詭弁屋の典型です。楽山の思い上がりは、もはや、有頂天妄想の領域にあると判断するしかないでしょう。教祖願望から正気の喪失に向かっているようです。
 
 
*冒涜?
余談ながら、本動画では、大川隆法総裁は「モーゼの霊言の中で、“神の声”と“悪魔の声”を聴き間違えたことを明らかにされた」云々という箇所があった(11:50以降)。
これはつまり、聖書には悪魔の声が神の啓示として記されている箇所があるということだろうか。もしそうであれば、これは明らかに冒涜だろうし、訂正した方がいいと思う。
 
超常ではなく、悪魔性が、助言者などに化けて、誘惑することはあるでしょう。楽山こそが、そういう言動を続けてきました。悪魔的な人物は、露者にもいるようですが、嘘吐きで詭弁で人をだましてきた楽山は、他人のことを言う前に、わが身を省みるべきです。しないでしょうけど。
 
楽山の言は、楽山の指摘する罪悪は、全部、楽山に返ってゆきます。自らを見ない自己中の宿命かもしれません。ワッハワッハと勢い任せで書いて、罪と恥だけが返ってきて、楽山の持ち物になります。言論の素地を持たない楽山の宿命のような自業自得の悲劇が、今回の記事です。
 
 
悪霊も真っ青

悪霊も真っ青
 
 
(2022年04月25日)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔
 
外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
  叫ぶ男
 
山頂で叫ぶ男の
叫びを追いかける
 
耳で追えば
木霊(こだま)となって返りながら
遠ざかるばかり
 
何を叫ぶのか
男は誰なのか
男は何をしでかしたのか
 
叫んだ後は・・・
追い方はありそうなのに
足でも目でも頭でも
叫ぶ男に追い付くことはできない
しかし無謀にも
その男にではなく
その叫びになろうとした
もう一人の男を
聴きたいと待っているのだ
 
煤けた胸の中を木霊して
空っぽになるくらい揺さぶって
音ではなく
話でもなく
もはや叫び声でもなく
声にならない人の響きを
つかまえたくて仕方ないのだ
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
 
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
 
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
キリスト教を、ミソクソにけなしてきた楽山が、別の他者を、聖句を引用して、批判しているのは、不道徳の者が、白々しく道徳を教えるようなもので、全くのホラーとしか言いようがありません。罪悪感のない楽山だから出来ることなのでしょう。悪と偽善が沸騰しています。
 
 
 
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  隠された攻撃性3
 
 
 神義論、弁神論について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月07日
 楽山日記(LD)批判再録+
 
 
楽山は、またしても、神についての幼稚な疑問を投げてきました。誰も分からないということだけが、分かっている疑問です。弁神論は神義論とも言い、神の正しさの問題です。大事なこととして、信仰は、その疑問を解決して生まれるのではないということです。
 
楽山という人は、宗教には全くの無関係なところで、霊能者を気取っているだけで、信仰など持つ気もないなら黙っておればよいのに、著しく幼稚ないちゃもんを嫌がらせのように繰り返し書いてくるのです。
 
楽山には、分からないだけでなく、何度も繰り返し言って、信仰者と言論者を、疲労と混乱に陥れようという攻撃的な意図があるとしか思えません。楽山は、否定するために、分からないことを偏見で決めつけてきます。
 
楽山は対話を求めていません。また、私も、楽山のような、何も聞かず、受け取らず、嫌がらせだけを書いてきて、話の双方向の成り立たない人と、対話する気はありません。楽山は、人間としての身の程も弁えない底なしの愚か者です。
 
いい加減な楽山の言説を、いちいち批判して否定するのは、丁寧語に騙されて真に受ける人がいるだろうと思っているからです。その弱みにつけ込む人です。私は、私にできることをしています。批判記事を重ねて、楽山は、シャロームと同様、悪意と偽善の資料になりつつあります。
 
 
前々から、神義論、弁神論には興味があるのだけれども、本書でもそれについてチラリと触れていた。
一元論的あるいは汎神論的な見解によれば、悪は、他の一切のものと同じように、その根拠を神のうちにもたなければならない。そこで、もし神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問が生じる。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.201)
 」
多神教的な世界を想定すれば、神々にはそれぞれ個性があって、善神もいれば、悪神もいる、温厚な神もいれば、戦好きの神もいるだろうから、そういう神々の影響下にあるこの世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ないことではある。
 
神々のせめぎ合いを「致し方ないこと」と言っています。神々の知り合いか・・ってことです。楽山は、引用の文章を、恐ろしく、幼稚な低次元の空想話にしています。「善神もいれば、悪神もいる」・・見たのか・・ってことです。呆れます。神と神聖を全然知らないから、こういうことが言えるのです。
 
 ※
 
神が、悪に与えた存在の根拠を、人が知り得る、知らないと気が済まない、という疑問は、悪と神の存在に無関心で、興味本位の遊びだけの欲望であります。神が悪の存在を支配しているとしても、その悪を神がどうするかは、神の意志によるのであって、神の意志が、人に分かるはずはないのです。
 
いったい、誰が、神の台所に行って、悪を何故どうして作ったのですか?悪をどう料理するのですか?などと聞けるでしょう。そのような者は、真理の絶対に対して、ただ、自らの不遇を、神のせいにしているだけなのです。
 
神の存在下で、悪が存在の根拠を持っていたとしても、人という地上の存在が、それを問いただして理解できるなどと思うのは、神の超常と同等に成り上がろうとする身の程知らずであり、虚妄であり、地上では、どこまでも、空想から詭弁に堕ちてゆくだけなのです。
 
地上の貧相な理屈で、神と超常の真理を語ることなど出来ないと弁えるべきです。聖書は、神の仕組みではなく、神からの恵みを、人がいかに受け取って弁えるべきかを表しています。
 
人は、神の意志を知り得るほど賢くはない!・・という弁えこそが、聖書の語ろうとしている第一義なのです。そこを受け取らない者には、信仰も、神の愛も、キリストの共感も、人の愛も、人の共感も、理解はおろか、人間性さえ理解できはしないのであります。
 
楽山は、蚊のような不全の知性において、ンンンンと空しい音を立てて、世界を飛んでいるつもりで、神がいるなら悪がなぜ存在するんじゃ?・・と言って、神を否定したつもりになるようだが、そういう理路は、存在しない妄想の出発点から、知恵を見せびらかすような虫の糞に過ぎないのです。
 
真実の知性は、真実の共感とともに、神には及びもつかない、という、人としての身の程を知っています。虚偽の知性は、自らの存在の箍(たが)が外れて全能と同等のレベルにいるつもりで、それこそ、自らの存在さえも理解していないということだから、信仰を理解することなど出来ません。
 
地上にいる私たち人間は、神に近づくのではなく、神との決定的な違いを学ぶのが、信仰なのです。聖書は、繰り返し、そのことを語っています。楽山の不届きについては、楽山の書いてきたことから推測し、楽山の書かなかった文脈から行間から臭ってくるものとして書いています。
 
 ※
 
楽山の言っている神は、「鬼滅の刃」のようなホラーアニメの視点です。だから、気安く、神もさまざまで、善神も悪神もあるなどと、多神教のお伽話と同様に言ってくるのです。つまり、小学生くらいの子供の空想と基本的に同じです。
 
「神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問」
楽山が同意しているこの引用は、実態は、楽山が前から言っていた幼稚な神否定の考えです。楽山は、都合の良いことだけを、学者の名をもって、引用し悪用してきます。
 
楽山の言う神は、矛盾のないことが人間にも分かりやすい神で、人間が何もしなくても幸せを与えてくれる神なのです。そのような勝手な者に対して、神は、そうですかと、ご利益を恵んだり、いちいち分かりやすく説明するでしょうか。否であります。
 
こういうことは、考えれば、ふつうに推測できそうな話なのですが、幼稚な楽山にはできないようです。無神論と呼ばれる無神教カルト信者も出来ないのでしょう。楽山は、たぶん、こう言われても、なお、性懲りもなく、いちゃもんをつけてくるのでしょう。
 
キリスト教の神は、聖書から全能ですから、人類を全体として見るだけでなく、人間一人一人を見て、その個性も、その発言も、その行為も、個別に、漏らさず見ておられます。そのことについて、根拠を人に示す必要のないところの、在って在るものとして、神を信じる者は、恐れをもって受け入れます。
 
楽山のような欲張りで勝手な人を納得させるために、神が、いちいち矛盾がないように摂理を整えることも、いちいち説明してくれることもありません。だから信仰なのです。愚かなナルシストは、どこまで思い上がっているので、神聖から遠く、かつ、神聖を否定してゆくでしょう。
 
神にとっては、地上には、キリスト者になりそうな、あるいは、救いが必要になりそうな、砕かれた魂を持つ敬虔な人がいっぱいいるわけですから、楽山のような不満と否定と苦情で出来ているようなナルシストにかまうことはないのでしょう・・くらいは、厳密でも完璧でもない人でも推測できるわけです。
 
楽山のような人は、神は矛盾するとか疑問だとか言い張って、人を惑わしながら、自己満足するような恵みがないことに、さらに不平不満を募(つの)らせて、キリスト者を何とかして貶(おとし)めようとして、気づきもなく年を取り、時の流れの飛沫として消滅するだけです。
 
自分の都合に合わせた神?を見下ろして考えているだけなら、戒める神への信仰もないわけですから、無反省に終始して、思考も感情も崩壊してしまうだろうと推測されるわけですが、楽山は分からないのです。楽山が、その通りになっていること。
 
楽山が引用しているこの神についての疑問には、この地上では、人間に答えなど分かるはずもない、ということを、常識のない楽山は、まるで分かろうともしないのです。楽山は、ただ、自分は、神・上・紙を語るインテリだ!と、片手にアニメの広告を眺めながら、おめいているのです。
 
つまり、楽山は、神を信じる気など元々ないということです。ということは、楽山は、神を茶化したいだけの荒らしみたいな存在です。良識ある人が、付き合える相手ではないのです。大真面目な学者口調が、楽山の欲望と悪意です。
 
悲しみ多く苦しみ多きこの世界に、それでも生きてゆくために私たちは生まれています。楽山のような者が、安直な思考で、洟垂れ(はなたれ)安穏を貪る者に惑わされてはいけません。
 
「多神教的な世界を想定」・・楽山が、いかに神を軽く想定しているかが分かります。
「善神もいれば、悪神もいる」・・楽山が、いかに神を軽く見ているかが表れています。
楽山は、底なしの、身のほど知らずの傲慢、そして、泥酔した自己満悦の愚か者です。
 
これが「この世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ない」ことの説明になるでしょうか。何の実感も伝えていません。まさに、楽山のような反キリストに答えられる問いではないのです。楽山の昨日も今日も明日も、詭弁を弄しているだけに終始するのでしょう。
 
 
でも愛と義を有する唯一の全能の神のみが存在すると仮定すると、その神はこの世の悪を一掃する能力を保持しつつも、それをしないのはなぜだろうという疑問を持たずにはいられなくなる。
 
楽山は、このような、最初から答えなど得られない問題にこだわって、安い理屈で、神などいない、いたら、おかしい、という悪態を吐きながら、自分は一段高所から神と世界を眺めている慢心にどっぷりつかりながら、ますます人間としての感受性を鈍らせながら、ぼんやり一生を過ごしたいようです。
 
だから、毎回、同じことをグダグダ書いて、何の努力も成長もしないのでしょう。そして、信仰者を侮辱し呪い続けるのでしょう。真面目に信じる信じないのは自由、いちゃもんは批判対象です。
 
神が、楽山の酸っぱい納得のために、全能の力を振るうことはないと思います。救いは、それを必要とする人に、意味を持ちます。だから、楽山は、人格的成長がない間、宗教については、愚痴とクレームを言うことに終始するのでしょう。
 
 
神にはある種の計画があり、あえて悪をそのままにしているのだろうという推測もできるけれども、そういう場合であっても児童虐待事件などをみれば、どんな計画にしろ、その完遂のために、愛ある全能の神が小さな子供を救おうと思えば救えるのに、それを見殺しにするというのはおかしな話であるし、もしその計画の実現のためにはどうしても子供の犠牲が必要だということであるならば、そういう神は愛深き神というよりも、ホラー映画に出てくる、自分の目的のために無垢な子供の血を欲する悪魔に近いということにもなる。
 
先ず、考えることの順序が、著しく間違っています。楽山は、神を頭の中の前提にして、おのれの理想と要求を出して、これに沿わないからダメと、まるで、神相手に試験をして合否の否を与えているのです。
 
信仰者は、まず、神がいるとは思えない世界を嘆きますが、そこに、聖書から、希望の光を見出します。今は、ひどい有り様だが、この背後には、いつか、大きな世界への導きを用意した聖なる御方ががいるのだろうと思い、そして、そうでなければ、生きられない自分を、正直に捧げて信仰者となるのです。
 
そこには、つまり信仰に至るプロセスには、キリストとの縁のようなものがあります。また、この世の外に、何があるのか、意識はなくなるのか、何もないのか、だとしたら、しかし、救われるとは何か、こういった問題を、考えながら、生きていくのが信仰者です。
 
楽山のように、分からないから安直に否定するのではなく、分からないこととして、自分で決めたりせずに、自らの存在と比べて、世界の奥深さに恐れをいだきながら、神に、キリストに、希望を託して、耐えることと、待つことと、望むことと、生きることと、祈ることを、学んでゆくのです。
 
楽山は、その縁のようなものを感受することが出来ず、しかも、それを、自分ではなく、神のせいにして、不満だけを述べているわけです。楽山の、神がいるならぁ・・前提は、決して理路ではなく、自己愛性人格障害の症状となっているようです。
 
信仰が持てないなら非信仰者としての生き方もあるでしょうに、その努力を一切せずに、自分の作った神?のいない無為・安穏の沼につかって、インテリ気取りと学者気取りで視野の広いさまを見せかけ、実際は、最も見苦しい有り様となり、自己愛だけで、いい気になってバハバハ言っているのです。
 
 
またこの唯一の神からすべてははじまったのだとすると、善だけでなく悪についてもその起点は神にあったということになる。「人は神から与えられた自由をはき違えて、悪を為すようになった。これが悪の始まりである」という考え方もあるけれども、もし人が善きものとして創造され、その内には少しの悪も存在しなかったのであるならば、仮に自由を与えられても悪の犯しようはなかったはずである。悪の種を持たないものには悪は犯せるわけもない。とすると、人が自由を与えられて悪を犯したとすれば、人のなかにはもともと悪の種、悪の因が埋め込まれていたことであろうし、これは神が人を善きものとして創造したという話と矛盾する。
 
神の目的も意志も、神の秘密、神秘であります。神の秘められた意志も計画も、自分で決めつけている哀れな楽山です。楽山のように、神の原初を分からないと気が済まないのは、分かるはずの自分に酔い痴れる悪態でしかありません。その精神が、いわば、悪の起源となり、伝染してゆくのです。
 
どうして、神が、楽山のこしらえる神の理屈に付き合う必要があるでしょう。創造主以上に高いものはないのです。楽山のように、神を見下ろす視線には、いないようにしか見えないのが神であります。これによって、思い上がった者は、篩(ふるい)にかけられ、救いに向かわなくなるのです。
 
このような者は、神の恵みに与る可能性を自分で否定し拒んでいるだけの、実に、くだらないナルシストとしか言いようがありません。神が、罪の種を人に残そうが、蛇の誘惑に乗ってしまう弱さを造ろうが、人の許可も、ましてや、楽山の許可も問題にするわけがないのです。
 
善きものと言えば、自分の欲望からの完全に善きものしか思い浮かばず、どうだ、どうだと、いちゃもんの材料にする愚かで凶悪な反キリスト・反宗教・オレがオレがの教祖願望が、楽山の本性です。
 
楽山は、学者気取りで難癖をつけながら、一方では、神によってもたらされた恵みに、いっさい気づかず、人の意見をも、いっさい受け付けず、常同行為のように、同じことを繰り返して、学習と進歩を拒否しながら、超常と霊が分かるっぽい自分を、ひとかどの人物に見られたがっているのです。
 
楽山は、我欲と自己中のみで、訂正不能に完成したつもりでいる人格の末路を表しています。楽山は、勝手に、神という存在に、思考においても、情緒においても、気づくことなく一生を過ごすのでしょう。無反省なのに、人に、影響を及ぼそうとするあいだ、批判対象となります。
 
神に難癖をつけても、何も返ってこないことをよいことに、神と、問答、駆け引き、取引でもしているかのような尊大な言は、永遠の堂々巡りです。進歩のない楽山の記事は、百害あって一利なしの怠慢の退屈地獄への道です。
 
 
こういう話は、興味ない人は本当に興味ないだろうけれども、自分としてはついついあれこれ考えないではいられなくなる話題ではある。
 
楽山は、大事なことを何も考えてなどいません。考える信仰者や、考える非信仰者とは、全く違う人種です。楽山のような、自己愛からの無神論が訂正不能の前提となる者には、思考も情緒も、有意義に働くことはないのです。
 
ただ、言い張って、いい気になって、やたら、しつこく、無駄や詭弁を重ねて、自己満悦して、その実、自己破壊しか起こっていないという証拠を自ら積み重ねてゆく経過になっています。堂々巡りを選んで、進歩がなく、同じように繰り返し宗教をおとしめて、悦に入る堕地獄の人が楽山です。
 
楽山は、明けても暮れても、同じところだけを巡っています。考えたつもりでも、自己愛が思考と情緒を妨げるために、同じところだと気づかないのです。気づかない、感じない、考えない、ということだけが、積み重なってゆきます。決して真面目に相手にしてはいけない人です。
 
 
これについては多神教的な世界観を持っていた頃はさほど関心もなかったのではあるが、一神教的な世界観を知り始めたら俄然関心を持たないではいられなくなったのである。一見したところでは一神教的な世界観は多神教的な世界観と比べてシンプルで分かり易いように見えることもあるけれども、実際には案外にやっかいな世界観だなと思う。
 
世界観という概念が、楽山の宗教観なのでしょうか。人間一人の様々な問題について、不感不応で、言いたいことだけを言って、実際は、何の関心もないことが表れてきました。だから、楽山は、何も解決しない不毛の時空をうろついているだけなのです。
 
つまり、楽山は、セカイカンに酔い痴れているだけで、世界観を理解してはいないということです。何故なら、世界観を考える意味は、それが、一個人の人間にとって建設的な意味を持つ場合だけだからです。楽山が白々しく語る世界観という言葉には、ひとかけらの実感も含まれていません。
 
霊が分かるっぽいと楽山が訂正不能に思い込んだ時から、今に至るまでの、空疎で、進歩がなく、建設的な要素がないにもかかわらず、反キリストのシャロームの肩を持ったりするような、理路も無ければ人間の正常な感情も持っていない無意味な、信仰への妨害行為が続いています。
 
厄介なのは、意図的であり、気に入らないと無視することしかできず、どこまでも悪意に徹する楽山の質量のない口であります。このように、良心のない人は、何を冷静に書いたつもりでも、彼の言う霊性?の訂正不能から、妨害にしかならないのです。
 
楽山の提示する疑問は、ことごとく、いちゃもんであることが明らかになってきて、これからも、単純に、同じ繰り返しになるでしょう。それは、楽山の、今までの、受けて答えることをしない卑怯者の態度と姿勢から既に予測されてきたことです。
 
丁寧そうな言葉に騙されないでください。文脈と今までの記事の流れから、分からないことを分かったことにしないと気が済まない楽山は、人を巻き込んで混乱させる、きわめて狡猾な言論の攻撃性を持つところの、悪意の人です。
 
楽山は、例えば、読書と考えることがお好きなのですね、インテリなのですね、やさしいお人柄ですね、など、世辞を言ってくれる人か、素直に受け入れて騙されやすい人、などが現れてコメントを書いてくることを待っている生業(なりわい)なのでしょう。・・カビのように陰気臭いと思います。
 
世々にわたって、この楽山やシャロームのような、責任を負わずに自由を悪用して自己中で勝手なことを言い続ける者たちが、中身のない説法を専らとして、人の良心を破壊して、人にも社会にも世界にも、災いの種を蒔(ま)いてきたし、また、蒔いてゆくのだろうと思っています。
 
しかし、楽山が、いかなる仲間と、いかに神に疑問を呈して、人を、神否定の方向にマインドコントロールしても、命の沙汰は、私も楽山も誰も知らず、神が決めることなのです。
 
私は、楽山のように、神を否定して、逆に、神に否定されるような被造物にはなりたくないから、できる範囲で、書いています。楽山には、くれぐれも近づかないようにしてください。
 
 
楽山には、宗教と信仰を云々するための理解のベースが、論理および感性の両方において、全くと言っていいほどありません。そして、ベースがないことを、これまた、理解できずに、弁えもせずに、自己愛の衝動のようなものによって、身の毛の弥立つような詭弁と刷り込みを書いてきます。
 
楽山が信仰しないのは楽山の自由であり、楽山に対して福音伝道が不可能なのは明らかであり、神もキリストも分かっていないのだから、宗教と信仰について書かなければよいのに、楽山は、なおも、いちゃもんをつけるという陰湿な自己顕示だけは、じとじとと、じめじめと、いつまでも止めないのです。
 
 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与えるから自分でしなくていい、という信条に無条件に賛同しました。この時点で、二人とも、キリスト教と信仰を語る資格はありません。
 
正常な人間には、最低限度の正常な言語能力があります。それは、人の言うことを受け取り、自分の意見と照らし合わせて、新しい意見を考えるという能力です。上の二人には、それがありません。だから、世辞でごまかして、訂正不能のままです。
 
プラスでも、マイナスでも、言った時点で、言った責任は生まれるのですが、楽山は、プラスを言い、マイナスを言ったら、はっきり言っていないから責任はない、などと、プラマイゼロだみたいなことを、平気で言っていたのです。この詭弁は、駄々っ子と同じ、小学生にも劣る低次元の言い逃れです。
 
楽山は、大人になり損なった人なのです。大人の常識的理路が発達しておらず、人間ではなく、脳の機能の大事な部分が欠損した、言うならば、人体、あるいは、ヒトに過ぎないと言ってもいいでしょう。
 
それで、楽山が、学習もしないで、本から都合のよい言葉だけを集めて、今も、一人前の大人を気取っているさまは、もはや、自らによって破壊された人格としか言いようがないのです。
 
 
怨念の潜伏

怨念の潜伏
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月24日、再録+加筆)
 
 
 
 私のライブドアブログの記事
 「神と人の未分化」に付いたシャロームのコメントを批判
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、私)
 批判再録+
 
 
シャロームであることは筆致から明らかですが、名無しの猫と名乗っている荒らしです。荒らしという本性の正体を現して、ライブドアの私のブログに、揶揄コメントを書いてきました。
 
 
1. 今も名無しの猫2020年04月08日 10:13
おはようございます!名無しの猫です。お久しぶりです!
相変わらず誰も相手にしてくれないようですね。
マグダラさんであればあるいはコメントしてくれるかもでしょうか?
 
上に「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」と揶揄しておきながら、下のほうには時候の挨拶を入れています。この極めて不適切なアンバランスに、まだ気づかないようです。シャロームという人のケダモノのような荒々しさには、気づくことを期待するのが無理のようです。
 
楽山とシャロームは、カルトの仲間ということです。自称マグダラマリアも仲間なのでしょうか。私が自称マグダラに批判記事を書いたので、そのことを書いています。仲良しカルトの根は深いのでしょう。同一人物の成りすましの可能性もあります。
 
 
Yahooブログ時代が懐かしいですね!
今年はことさらにきれいですが、
満開の桜がいいですね!
色とりどりの花と木々の緑も鮮やかな公園を今日も散歩します。
スポーツを楽しむ人の姿もあり、いいですね!
お元気でお過ごしください。
名無しの猫より
 
「Yahooブログ時代が懐かしいですね!」・・反キリストの親分のようなシャロームなど、私は、ちっとも懐かしくなどないのです。早く消えてください。挨拶は入れません。名無しの猫、という荒らし、実は、足掛け10年間、批判対象のシャロームです。
 
いくら、時候の挨拶、自然を愛でる文言、「お元気でお過ごしください」と書いても、上の「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」で、敵意は明らかなわけです。荒らしであることを隠さず「名無しの猫」と書いて、短い揶揄+挨拶のコメント、相手にする価値はありません。
 
シャロームは、例えば、アドラー心理学が人間をどうしようもない自己中に変える、ということの中心的な要素を持っています。また、在日らしいシャロームは、日本人を嫌韓に変えてゆく典型的な要素を持っています。
 
それは、自己中、人の言うことを聞かない、受け取って反応することが出来ない、反省しない、理路と情緒がない、思考力も理解力も共感性もない、罪悪感がない、訂正不能、平気で嘘を吐く、ありもしない事実を平気で捏造する、真摯な態度を欠片も持たない、などです。楽山も、大方、似たようなものです。
 
シャローム、楽山、易坊、自称ヨシュア、自称マグダラのマリア、この者たちは、つながっていると思っています。言ってることが、よく似てる。ひょっとしたら、アドラー心理学も?。そして、乱暴だと思われて嫌われることを避けるために、言葉だけ丁寧です。
 
共通するのは、自己中という滅びの道です。言うことが、うっすら、冷たくて、気に入らないことは無視して、刹那的に世辞だけ書いて、次には気づかない人をだましてゆく、という特徴です。社交の世辞レベルで、既に、心を侵してきます。
 
 
 
 楽山の悪意のリツイートです
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
普通なら敢えて言うまでもないことだが、信仰者は知っておいたほうが良い。相手の人格を非難するようなことをいくらしようが、あなたの主張の正しさを証明する上では、何の役割も果たさない。あなたの主張の正しさを示したければ、行うべきことはただ一つ、それを支持する客観的根拠を提出することだ。
午後7:21 · 2021年4月12日·twittbot.net
 
楽山は、自分で言えなくなると、他者の言うことを利用するという卑怯者の典型です。前にも書いたことですが、楽山は、学習しないので、何の進歩もなく、また、他者を悪用しています。人格が、病的で、虚言、妄想、無反省、無責任、であるゆえに、その口で何か言えば、迷惑にしかなりません。
 
その迷惑を、指摘して、批判しなければいけません。本人を変えることは不可能だと諦めています。楽山に近づいて、ひどい目に遭わないように、関わらないように、相手にしないように、・・などを、広く伝えることは必要です。
 
人の客観などで、神を扱うことは出来ません。つまり、神の存在も不在も、人が証明することは出来ません。証明できたら信じる必要はないのです。信仰は、証明の可否が結論となる世界ではありません。なぜか、楽山は、そのことを弁えず、理屈を言ってきます。
 
信じる信じないは、人の自由だけど、神の不在を、屁理屈で言うのは、無意味なだけでなく、曲解に基づく一種の宣伝~煽動になるでしょう。なお、こちらは、人の理屈では、神の肯定も否定も、証明不可という認識です。
 
人生の体験から、楽山やシャロームのような者、他にも、平気で人を傷つけようとする者に出会ったからです。必要だから、信じているのです。繰り返しますが、人の理屈によって、神の存在も不在も証明できません。
 
人が信仰を持つのは、生きるのに必要だからであって、証明されたからでも、客観的根拠があるからでもないのです。
 
無神論が論として成り立つと思っている楽山には分からないところの、共感の話に対して、言い換えれば、信仰について、即ち、キリストを好きになることに対して、いちいち、悪意に満ちた屁理屈で否定の誘導をしかける楽山は、いつまでたっても、変わることはないのでしょう。
 
その都度、屁理屈の詭弁だと批判して警戒を呼びかけるしかありません。楽山は、迷惑で、有害で、対話の成り立たない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。楽山の書いてくることが、今まで、その根拠になってきたし、これからも証拠になってゆくでしょう。
 
 
 
  毒満ちる眼(まなこ)
 
怨の妙法聖櫃に座す
臨死の刹那四方(よも)を眺む
未開の熱未だ暁光の内に在り
紫衣の薄明に降ること頻りと
煩悩疾駆して頚骨を砕く
飢えよ饐(す)えよ地に果てよ
疼痛過ぎて覚醒に及ばず
頭蓋窩に寄する烈火の華(はな)
唯(ただ)流る水銀の涙
毒満ちる眼の裏
 
 
  あきらめのふち
 
いずれ
あきらめなければならない
ことは あり
ときは くる
 
こころのこりは ないか
やりのこしたことは ないか
たしかめることは むずかしいけれど
あらゆる
あとを ひくもの
ひっかかるものを さがして
あきらめの ふちで
おもいのこしたもの みつけたら
たとえ すこしでも
のこった ちから
おいてしまって いいのですか
それだけ きいておきたいと おもうのです
 
ちから つきた と
あきらめても
いのちは のこる
はしるのを やめても
あゆみは つづく
いのちの きえゆく ところ
たった いちどだけの
たった ひとつの
さくひんにむかって
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「だよなあ」「恥ずかしながら」「でしょうかね」・・こういう言い回しを、ボンヤリ言語と呼んでいます。反省しないのが「人間の性」だと言っています。もしそうなら、世界はとっくに滅びているでしょう。いつも、成り立たないことを平気で言ってくる楽山です。
 
 
 
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  楽山のトンデモとインチキ2
 
 『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著
 2021年04月18日
 
 
(ネットより)
鹿嶋 春平太(かしま しゅんぺいた、1941年 - )は、日本の経済学者、宗教社会学者。明治学院大学名誉教授。本名・肥田日出生。 1965年慶應義塾大学経済学部卒業。71年同大学院商学研究科博士課程単位取得退学、明治学院大学経済学部専任講師。74年助教授。80年教授。日本広告学会賞を二度受賞。聖書研究家として鹿嶋の名を用いる。2011年定年退任。
ウィキペディア
 
楽山は、キリスト教と信仰をおとしめるために、インチキ本を勧めています。トンデモ本は、なぜ、インチキなのかと言えば、聖書を面白おかしい話に落として、信仰による救いを損なっているからです。楽山には、ご馳走なのでしょう。
 
批判に答えられず、いかなる弁明も詭弁で成り立たず、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の病質が明らかになってきて、もはや、ケダモノの荒い鼻息のように、開き直って手段を選ばず、侮辱の悪魔性に没頭する楽山です。
 
 
タイトルから聖書入門だと思って本書を読んでみたのだが、スピリチュアリズム的な考え方が多く紹介されていて意表を突かれた思いである。その例を上げるとするならば、まず著者はイエスの教えについて次のように記している。
イエスの教えようとするのは、徹頭徹尾「霊界の真理」です。
(『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著、新潮社、1996年、p.81)
 」
 
霊界に心を奪われると、楽山のように、現実が見えなくなり、言動は狂い出し、言うことが変になり、あげくに、詭弁と嘘ばかりになって、さらに、開き直って、人に化けた幽霊が、本当の顔を表すように、みすぼらしく醜い素顔をさらすことになります。
 
 
イエスの教える真理は、霊界の真理です。そして霊界は人間には見えないから、見える物質界にたとえて話しているにすぎないことになっています。
(同上、p.230)
 」
宗教教義は霊界理論であり、宗教的に考えるのは霊界的に考えることであるともいう。
 
キリストの教えが霊界の理論だけならば、信仰に生かされる人はいないはずです。実際は、霊界に溺れた楽山のような人が、救われない者の醜態を、悲惨な例として晒しているだけです。キリストの教えは、人間への共感であり、理解であり、信仰は、キリストへの共感であり、神への正直なのです。
 
 
宗教形而上学理論の中心は霊界理論です。だから、宗教思考に導かれるというのは、霊界思考に入ることをも意味しています。
(同上、p.301)
 」
信仰とは神と波動を合わせることであり、それができれば神のエネルギーに満たされるという。
 
信仰は、霊界理論でも霊界思考でもありません。また、どうして、人間が、「神と波動を合わせ」られると言うのでしょう。生きている間の、あくまで、人間としての共感であります。楽山が、神のエネルギ-などと言うのは、いかにも、ペテン師らしい出まかせの発想です。
 
霊界思考に生きている楽山を見てください。これほど醜い人はいません。「神と波動を合わせる」などと言い出したら、おしまいなのです。宗教についての思考が、甚だしく偏っており、まるで成り立たず、偏見だけで、結論を出して、病識も反省もありません。
 
宗教と信仰について考えることは、人間について考えることです。それを、止めてしまった楽山は、もはや、人間らしい思考が何も出来なくなり、過大な自尊のために、歯をむき出して、臭い息を吐いて嘘っぱちの霊界話を捏造し、人生に復讐を企んでいるのです。つまり、人間ではなくなるのです。
 
 
バイブルにおける「信仰」とは、物理的イメージで言えば想像霊の意識波動に自己の意識波動を協和させることです。そして、それが一定以上に実現されると、神の力(栄光)は、その信仰を通して発揮される、というのが基本思想です。
(同上、p.251)
(*注 「想像霊」は「創造霊」の誤植と思われるが、ここでは引用元そのママにしておく)
 」
 
心の欠片もない言い分が続いています。信仰の物理的イメージだそうです。信仰に、人に分かる物理はありません。比喩としては拙劣すぎます。神の基本思想?などと言われて、それを悦ぶ楽山は、あらゆる人間の道から、人間の理解から、遠くなった報いを、今、受けています。
 
 
神もまた霊ですから、相応の意識をもっています。そして同時にそこからは「いのち」エネルギーが放射されています。それを自らの霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要、という図式なのです。不協和なら、浸透しないことになっています。
(同上、p.75)
 」
 
人間として受け取るべき信仰を、楽山は、低劣な霊の話にしてしまいます。こういう男が、いちばん信仰を駄目にするのです。神を対象にして、相応の意識を持っている、などと言える人間はいません。命は、エネルギーみたいに物理で論じることは出来ません。神は、人の論理の対象にはなりません。
 
「霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要」「不協和なら、浸透しないことになっています」・・どういう捏造の霊界物語なのでしょう。学ぶことに怠慢な者は、でっち上げで、自分は分かるんだ、特別なんだ、などと吹聴してくるのでしょう。
 
宗教から、お伽噺に、空疎な造語と豪語に、そして、果ては、インチキ占い師らしい空想と妄想に堕して、最後は、路地裏の屍になるか、刑務所で一生を終えるのではないかと思います。楽山は、その中でも、気取りの話とは裏腹に、誰よりも危険な人物です。
 
 
聖書の記述…「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです」(コリント二 12.2)については、次のように説明している。 
これは今日の心霊科学でいうと「幽体離脱」ですね。
(同上、p.74)
 」
本書は、日本的なキリスト教理解の問題点を指摘し、その一例として遠藤周作、曽野綾子、三浦綾子の作品の難点を指摘するなど興味深い箇所もあり、学ぶべきところは多々ある。
 
楽山は、自分は特別だと言いたいために引用していますが、何も学んでいません。引用元も、何も学ぶところのないインチキだと思います。その傲慢ぶりは、楽山に見られる訂正不能の霊の引き寄せ妄想と、それこそ、同じ波長を持っているのでしょう。
 
つまり、楽山が、名のある小説家を、軒並み侮辱してきたのは、こういうベースがあったからでしょう。知が足りず情が曲がった者の意は、単純に、人間らしい知情意への復讐だということが分かります。もはや、既に、滅びているのです。誰も関わってはいけません。
 
 
けれども上のことからすると、これは一般的な意味での「聖書入門」というよりは、「スピリチュアリズム的解釈による聖書入門」とすべきではなかろうか。アマゾンのレビューでもこういう特殊さを指摘しているものがあった。スピリチュアリズムに馴染みのある人であれば本書の聖書読解に共感し信じる人も多いかもしれないが、一般の人は本書を読む際にはこの点について注意が必要ではある。
 
聖書は、人間として読むべきであり、スピリチュアル的解釈など存在しません。人間が、神の霊、即ち、聖霊を、いくら考えても、そのスピリチュアルは、如来の掌から逃れられない孫悟空のようなものなのです。楽山の低次元が、救いがたい捏造の霊界を語っています。
 
霊能者気取りが、魔人気取りと、肩を並べて、首を並べて、断頭台に座っているようなものです。決して、影響を受けてはいけません。神に対して人間としての身の程を弁えない者は、ここまで来るという例なのです。悪霊から悪例までの現実を、当てもなく、ふらついている楽山です。
 
楽山の霊性は、腐った料理にたかる蝿のようなものです。楽山の息は、できるだけ多くの人々を、伝染性の、人でなしウイルスに感染させることでしょう。楽山の人間性の崩壊は、ここまで堕ちてくるのでしょう。自らに呪いをかけている楽山ですが、自覚だけは、ずっと、ないのです。
 
霊と超常は、神に任されるべきものです。それを、人が云々するのは、神のごとき自らを自慢したいからに他なりません。言論と真実への冒涜です。霊が分かるっぽい楽山が、それこそ、欺瞞によって、捏造した神霊世界を、どうか、信用しないでください。
 
アマゾンカスタマーレビュー
偏っているからダメと断ずるつもりはありません。こういう本は、特定宗教団体や特定出版社から数多く出ています。これが好きな人もいるかも知れません。ただ、一般読者向けの「聖書入門」としてはあまりにも独断的で水準も低いというだけです。星二つは、その「トンデモ本」度に敬意を表したものです。
アマゾンカスタマーレビュー
 
「トンデモ本」に敬意を表すのでしょうか。信仰とは無関係です。楽山は、同じように敬意を欲しがっていますが、楽山という自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、いかなる癒しも、つける薬も、讃える名前もないのです。私は、著者にも楽山にも、敬意の欠片も感じません。
 
 
インチキはインチキを呼ぶ

インチキはインチキを呼ぶ
 
 
(2021年04月19日、同日一部修正)
(2022年04月23日、再録+加筆)
 
 
 
  どっちを選んでも罪
 
仮に極端な話ですが、既に百人を殺した者が目の前にいて自分を殺そうとしたとき、彼を殺すのが正しいかどうか。殺せば理由がどうあれ人殺しをしたことになるのだから、それは罪です。決して正義ではありません。
 
では殺さず殉教のつもりで殺されたとしたらどうでしょう。彼はさらに千人を殺すかもしれません。その中には愛する家族や隣人・友人も含まれるかもしれないのです。隣人を愛さなかったという、これも罪です。たとえ殉教であってもです。
 
つまり殺す・殺される、どっちを選んでも罪なのです。では実際どうしたらいいのか、語る口を私は持ちません。しかし何(いず)れかの行動を人はすることになります。極端な場合の話ですが、これは、人が罪人であることを示すための思考実験です。
 
しかし今の世に生きる限り、このような極端な場合でなくても何かを選びながら何かを切り捨てながら人は生きていくのですから、どっちを選んでも罪ということがむしろ多いように思います。罪を犯さない生き方などないと思います。
 
義人はいない、一人もいない。キリストは罪については厳しい見方をしておられました。罪を認めない者にはあくまで厳しかった。罪というものが、赦していただくほか救いがないということは、認められていない罪は赦しようがないからです。
 
人という罪にまみれた創造物は、神の前においては裁かれるだけの存在であるということです。ここにおいて私が言いたいのは人が天国というところに行けるとすれば、それは人が正しかったからではない。人間は、創世記が示すように、全(まった)き正義に生きることができる存在として創られてはいない。
 
人は神の裁きの場において、神に憐れまれることのみによって御国・天国へ行くことを許される。それ以外に御国へ至る道はないのです。そして、神に憐れまれる唯一の方法は、正直な祈り以外にはないのです。言い換えれば、それだけでよいのです。
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
 
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性なんでしょうかね」と、嘘吐きが、嘘吐きの言い訳に、嘘を吐いています。嘘吐きは、結局、何を言っても信用されなくなります。信用されず相手にされないことを、嘘と詭弁で慰めることは出来ません。そして、嘘吐きは、嘘に嘘を重ねて、ついには、自らの存在をも嘘にしてゆくのです。
 
 
 
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  憐れみ病2
 
2014年04月30日の作です。
フィクションであり、実際にあった会話ではありません。じわじわと意見や見解ではなく、感情的な決めつけの当てつけだということが表れてきます。
 
 
某:
 A先生が心配しておられます。
 
私:
 私の書いたものを見せたのですか。
 
某:
 見せられませんよ、あんなもの・・
 でも神様はあなたを守ってくださいますから。
 
私:
 私の意見を知らずに
 A先生は私のことを心配しているということですか。
 それで「神様はあなたを守ってくださいます」だとすれば
 キリスト者が陥りやすい「憐れみ病」です。
 
某:
 憐れみ病?・・なんですか、それは・・
 あなたのことを心配して言っているのに。
 
私:
 なぜ心配するのでしょう。
 私の意見の内容を知ることもなく
 なぜ心配することが可能になるのでしょう。
 原因のない結果をもたらしているのは
 いったい何なのでしょう。
 
某:
 ですから、あなたがあんなことを書くから・・
 
私:
 「あんなこと」と言ったとき
 私は「憐れまれ心配される人」という
 見なしの行為が前提となっているということです。
 
某:
 いえ決してそういうことではありません。
 私としては
 とにかく隣人愛として考えているということです。
 
私:
 相手の結論だけ強く否定しても
 根拠がなければ、それで済んだことにはなりません。
 否定表現だけでは何の否定にもならないのです。
 
 「とにかく」は、めんどくさいときに
 それまでの話をぶった切る感情表現ですから
 自分の結論以外、何も語ってはいません。
 
 「憐れみ病」は
 やたら憐れむことが善だと思い込む病であり、
 人の憐れみが病んでいるとも言えるでしょう。
 
 憐れむ理由もなく他者を
 「神の恵みに気づかない人」として低め
 ゆえに自らを高くすることです。
 「悟らない人」「かわいそうな人」として
 ありがたい施しを感謝して受け取りなさい
 という態度を身に着けてしまう病です。
 
 隣人愛と言われるが
 この「憐れみ病」は愛とは全く関係ありません。
 これは伝染病なのです。
 私を含めキリスト者なら誰でも
 犯しかねない慢性の過ちによって発症します。
 
 そういう性質ですから
 一度に一つの方法でスパッと切り離すような
 スマートな治療法も予防法もない感染症です。
 だから、人間には「常に(健全に)」は不可能で
 せいぜい慢性化しないように
 折に触れて考え直すしかないのです。
 
某:
 せっかく心配して言ってあげたのに・・
 
私:
 「してあげた病」という名前でもよいのですが・・
 伝道が伝染や宣伝になりませぬように・・
 
某:
 あなただって私をさげすんでいるでしょう。
 
私:
 「あなた「だって」」で
 ご自身の「さげすみ」の「憐れみ病」
 を認めたことになりますが、
 それは言葉の綾か勢いだとしても・・
 
 私は反対意見を言っているだけです。
 黙っていたら恐らく
 いかなる叫びも嘆きも届かなくなるでしょう。
 
 さげすんでも憐れんでもいませんよ。
 ・・少し怒ってるけど・・
 
 
馬
 
当時、2014年、うま(馬、午)年、私、うま年生まれの還暦、失礼・・
今、68歳です。
「馬」という漢字をぐにゃぐにゃっとして見ました。
・・落ち着かない「馬」?最終行の「怒ってる」からの連想で持ち出しました。
 
 
(2014年)
(2022年04月22日、再録+加筆)
 
 
 
  余言?
 
過去百年と、その前の百年を比べてごらんなさい
過去五十年と、その前の五十年を比べてごらんなさい
人類は急速に肥大している
人間の精神性は同じスピードで追いついているのでしょうか
今や人類は片手に自殺の道具、核兵器を握り
もう一方の手で完全に解明されないまま
遺伝子に手をつけようとしている、そういう時代なのです
 
人類は自らを殺す能力を持ちました
神様の御心はわかりません
しかし少なくとも自然は
急速に肥大した人類に
人類がしでかしたことの
責任をとることを迫ってきているのです
 
人類は滅びるのだろうか
いつかはね
人類の滅亡は近いのだろうか
自然が人を育んできた時代や
剣と鉄砲だけで争ってきた時代に比べれば
すでに自滅の手段を持ってしまったのだから
ありえないとは言えないが
それほど馬鹿ではないだろうと思いたい
 
彼ら、次の時代を担うべき人々は
今の時代を動かしている人々が
心配するほど愚かではなさそうだが
安心するほど賢くもなさそうだ
 
未来は
彼らが彼らの責任において
変えていくほかはないように用意されている
彼らを教育し
道を用意して
その上を歩ませようとすれば道を誤り
彼らを指導し
指さして
引き連れようとすれば離れるだろう
 
変えていかなければならないものは多いけれど
変え方を知っている者がいるだろうか
できることは努めて道を整えること
でもどう整えたらよいものか
 
あってはならないことだけれど
仮に人類滅亡の時が来るとして
隣人がみんな死んでいくのに
自分だけ助かろうと思うべきだろうか
むしろ自らの命を失っても
愛する人々が助かるように祈るべきではないだろうか
「命を得ようと思えばそれを失い、」…聖書の言葉だね
あるいは「天に宝を積む」ということか
 
救いであれ怒りであれ
神の力が人に及ぶことはあるかもしれません
人が人の都合で神を選ぶのではありません
神が神の都合で人を選ぶのです
人が神に近づくのではありません
神が人に近づくのです
 
だから神の知恵は人にはわかりません
人の知恵はどこまでバランスをとり
どこまで片寄ってしまったのでしょうか
 
不安と希望に伴われて努める人々
心も体も人間である
百%でもなく0%でもなく
その間にさまざまにいて
その間を揺れ動く人間である
 
いつの世にも
世の終わりまで
彼らとは呼べないほどに
彼らも我らも愛すべき
ただ 人 である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省は「実践するのは難しいんだよなあ」・・でしょうか。そう言って、一生、反省も謝罪もせずに生きてゆくつもりなら、人間ではないと思います。人間として生きておれば、反省するべきことは、いっぱいあります。ごまかしてばかりいると、自分をも、ごまかすことになります。
 
 
 
  落ちる
 
 
ストンでも
ドスンでもいい
落ちるとき
 
擬音語が
付くのは
落ちた先がある
 
こわいのは
音もしないで
落ちるとき
 
知らぬ間に
自分のまわりが変と
気づくだけ
 
落ちても
まわりのせいに
してきたから
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
なにやら、春氏と田中氏は、HSは洗脳もマイコンもしてないと言いたいらしいが、
大概の信者は、いつもいつもHSの方針に右に倣えするのだから仕方がない。今回でいえば、「プーチン擁護、ウクライナ非難」の方針に異を唱える信者なんてほぼいない。
これではHSではマイコンはないと言っても仕方ない。
午後10:22 · 2022年4月20日·Twitter Web App
 
アンチ芝居の楽山です。楽山は、偏見を、嘘と詭弁で刷り込んできます。悪意、敵意、裏切り、成りすまし、妄想、自己愛、・・悪いものしか表れてこない楽山です。にもかかわらず、他者のことを、上から見下ろして批判して快感を得る、真っ赤な偽物の正義の味方芝居です。
 
アンチ芝居なのに「HSではマイコンはないと言っても仕方ない」というのは、逆の意味にも取れそうな稚拙な表現です。元々が、宗教も信仰も、そして、日本語も、学習という学習を怠けてきた楽山です。いい気になって、今日も、粗雑な文章で、言い得たと思う生業(なりわい)です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
あと、アンチとも普通に話せる信者が多ければ、マイコンはなさそうに思えるけど、
春氏みたいに、退会者は落伍者とし、アンチとみれば全否定してくる信者ばかり目立っている現状では、
「HSはマイコンされてる信者が多く、異論は許さない閉鎖的な集団だ」というイメージを持たないことは無理だね。
午後10:26 · 2022年4月20日·Twitter Web App
 
「アンチと普通に話」・・対立軸が普通に話すのでしょうか。詭弁屋の楽山とは、決して普通に話ができるなどと思ってはいけません。言論の伝染性病原である楽山に対しては、出禁にすること、遣り取りしないこと、1ミリも信用しないこと、それが、必須になります。でないと汚染されるでしょう。
 
 
 
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  聖書におけるサイコパス
 
 
悲しむことなく、悔いることはありません。
後悔するとき、人は、悲しんでいます。
悲しみと悔いは、人間の高等感情です。
 
そして、悔いることのないまま、改めることはないのです。
 
正義や慈善とかではなく、悲しみを知ることが、人間の良心なのです。神に、正直に祈る人は、楽山のような嘘と詭弁と決めつけではなく、正直に告白して救いの希望を祈り願います。
 
そして、悲しみを知らないのが、サイコパスです。何か言われると怒るか笑うだけなのです。
 
聖書に登場する二人の悪役、カインとユダについてについて考えてみます。
 
カインはサイコパスだと思います。しかしユダは違うと思います。
 
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6-7
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世記4:5-7、旧約聖書)
 
供え物が受け入れられなかったとき、カインは、悲しむのではなく、怒りました。
そして、弟を殺します。
 
 
 (創世記、口語訳)
4:8
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 
4:9
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
 (創世記4:8-9、旧約聖書)
 
殺すという行為には、過失致死、正当防衛、そして故意の殺人があります。カインは、3番目の殺人です。そして、神に問われると、カインは、ふてくされて、弟の番人でしょうか、と言い返します。
 
サイコパスには、笑いと怒りしかありません。良心がありません。罪悪感がありません。悔いる、反省する、しんみり悲しむ、という高等感情がありません。いつも、自分の都合だけで反応します。罪を指摘されると、怒り、恨みます。
 
 
聖書を書いた人も、同じように思ったのか、カインの子孫も殺人者という書き方です。
 
 (創世記、口語訳)
4:23
レメクはその妻たちに言った、
「アダとチラよ、わたしの声を聞け、
レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
わたしは受ける傷のために、人を殺し、
受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
4:24
カインのための復讐が七倍ならば、
レメクのための復讐は七十七倍」。
 (創世記4:23-24、旧約聖書)
 
 
サイコパスは、罪を指摘され、傷つけられると、悔いることも改めることも悲しむことも恥じることもなく、怨念を燃やし、復讐ばかりを考えます。ユダは、どうでしょう。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。 
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書)
 
ユダは、裏切ったのち、後悔して自殺しているので、サイコパスではないと思います。裏切りの罪ならば、他の弟子たちも、十字架の時には逃げているので、同じです。そして、それは、私たちの罪でもあります。私たちも、神に対しキリストに対して、恥ずべき罪人です。
 
 ※
 
裏切りの罪人である自覚ならば、神について、キリストについて、聖霊について、決めつけたり、豪語したりなどは出来ないはずです。神とキリストと聖霊と話をしました・・などとも言えないはずです。
 
キリスト者は、神の前に、ただ、正直な祈りを捧げることのみをもって、キリスト者なのです。
 
 ※
 
時間も宇宙も果てしないのに、人間の心は、一部でも見えにくいのに、ほんの一点のような時空を右往左往して生きている人間には、思い上がれる道理はないのです。果てまでなど、とても、追えない、見えない、分からないという非力を弁えているならば、正直に分からないと祈るのです。
 
 
信仰 vs サイコパス

信仰 vs サイコパス
 
 
(2022年04月21日)
 
 
 
  夜の行き方
 
夜を見ている目に
写らない夜が行きます
夜を見ない昼の目に
写らない夜が映っています
 
街の片隅
野辺の果て
唇を噛み締めて
拳を握り締めて
蹲(うずくま)る傷んだ黒い筋力が
痛みに盛り上がっていないと言えますか
 
夜と呼ばれる前に
夜は行くのです
闘いに
 
だからいつも抵抗する相手がいて
それぞれが独りで
抗(あらが)っては軋(きし)みながら
沈黙のうちに広がる暗黒の肉体を
引き裂こうと引き裂かれようと
潰そうと潰されようと
そうして夜は夜であり続けるのです
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
魂を揺さぶられて、恨みに思う者もいるようです。反省と悔い改めの機会を逃し続けて、身につけた嘘と詭弁から正しさを求めても、得たつもりでも、悲惨な自我の、醜態にしかならないのです。もはや、思想も宗教も信仰も、語れば詭弁になり嘘になって、崖っぷちを彷徨うしかないでしょう。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
のりたま🍀358🍀
@ichigooooo0914
誹謗中傷が辞められない人。発する言葉を
一番最初に聴く人は
発している貴方自身。
午前0:19 · 2022年4月17日
 
楽山が、これを引用するのは、誹謗中傷と批判の区別が分からないからです。誹謗中傷は、楽山の記事で、対象はキリスト教です。根拠が、全く的外れの曲解~妄想です。つまり、楽山が、教祖願望の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の自分自身を誹謗中傷しているのです。
 
 
 
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