ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年04月

 
  人を傷つける楽山2
 
 人を傷つける宗教
  (『ジョイランド』スティーヴン・キング)
 2016年10月12日 楽山日記(LD)
   改めて批判。
 
 
(ネットより)
スティーヴン・エドウィン・キング(Stephen Edwin King、1947年9月21日 - )は、アメリカのモダン・ホラー小説家。作品は世界各国で翻訳され読まれている。「ホラーの帝王」の異名を持ち現代アメリカを代表する作家の1人である。
スティーヴン・キング
 
8年ほど前の楽山の記事ですが、楽山は、引用されている伝道師についての子供の死の話まで利用して、おぞましき反宗教に読者を誘導しようとしています。何も変わっておらず、以前から、ずっと、人をだまして宗教の悪い印象を刷り込もうという意図が明らかであります。
 
楽山は、生も、死も、悲劇も、小説も、学問も、事実も、誤解も、曲解も、有利になるなら、何でも、自分の快感のために利用~悪用する人なので、気をつけてください。人を傷つけているのは、宗教ではなく、神でもなく、楽山という人の罪によるものです。
 
むしろ、ゆえに、一般的には、人生経験を重ねることが出来ていたら、このように楽山に悪用されることもなく、人間らしい正しい信仰によって、癒しや救いに恵まれるストーリーもあったでしょうに・・と思われる人がいるかもしれない、という感想になります。
 
罪の自覚さえ持たない楽山のような者こそが、満悦した正義の味方気分のために、子供さえも利用して、学習と修正が不能の状態のまま、宗教が悪い、宗教が悪いと、人を、誘導し、惑わせ、迷わせ、傷つけてゆく悪魔性の外道になり得るのであります。
 
楽山の病理には不遇からの怨念なども考えられますが、詳細は不明です。少なくとも、楽山は、反省と学習の意志がないために、自身の欠点について、全くの不感であり、無頓着であり、その分、宗教のせいにして、発言の責任も負わず、恥じるとことがないのです。
 
今までに明らかになったことから、楽山は、無神経、無反省、無責任で、訂正不能の自己満悦に生きている自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)者です。人格の異常には、効く薬がありません。罪悪感がないので、発言は、丁寧を装っても、低次元で偏狭で野卑で残酷になります。
 
 
スティーヴン・キングの新作が出ていたので読んでみた。その中で、ハッとする言葉があったのでメモしておく。
「世の中は苦しみだらけだっていうのに、どうして人間は宗教を使って傷つけあったりするのかしら」とショップロウ夫人が言った。「宗教は安らぎのためにあるはずよ」 
(『ジョイランド』スティーヴン・キング著、土屋晃訳、文藝春秋(文春文庫)、2016年、p.211)
 」
これは、ある伝道師の発言に対する感想である。伝道師は、無神論者となった実の娘が生んだ子に、重い障害があるとわかったとき、それは神による罰だとした上で、やがて娘は「息子の受けた試練によって神の道にもどるだろう」と言ったという。
 
これは、間違った伝道師の話です。敬虔な伝道師なら、神を恐れて、「神による罰」だなどと決めつけることはしません。その責任を、楽山は、神に負わせたいようですが、罪と責任は、この伝道師が負うべきことであり、まさに、伝道師の罪は、神が裁くことであります。
 
楽山が裁いて、云々しているのは、とんでもない身の程知らずなのです。実に、この伝道師の罪の着せ方は、いつも、人を、あらぬ方向へ誘導しようとして、不祥事を何でも人にせいにする楽山の体質に、よく似ています。
 
人間集団は、宗教であれ、なんであれ、何らかの闘争状態にありますし、そうでなければ、いつでも堕落し得るものです。信仰は、折々の必要な平安を与えることはありますが、けっして、常時の安穏を約束するものではありません。
 
楽山のような自己中は、批判されることはあれ、断じて、批判する主体にはなれません。ゆえに、言ってることが、ことごとく、的を外れになります。自らを見ようともせず、その不完全を反省しないまま、人に教えたがるだけで、自己満悦しているような、楽山のようになってはいけません。
 
人に意見を言うが、人の意見を聞かない、という人格の悲惨が表れています。この伝道師には、自己中で訂正不能の思い込みがあるのでしょう。つまり、楽山に似た人かもしれません。キリスト教の内部にも外部にも、楽山的人物はいるということです。
 
「人間は宗教を使って傷つけあったりする」・・これも、宗教の間違いから起こることであり、責任は、宗教の誤解~曲解という罪を犯す人間の側にあります。つまり、こういう人間の間違いを、神は、ひょいひょい出てきて正すということは、なさらない御方なのでしょう。
 
それが不服なのが、自分可愛さだけの楽山は、分かってもいないし知りもしない宗教・信仰のせいにするのでしょう。楽山は、神に、何でも困ったときには、出てきて、うまくいくようにしろ・・とでも言っているようなものです。
 
自分の罪の性質を省みない者は、何事につけ、反省することがないので、このように、安易に他罰に走ります。そして、信仰の恵みを何も知らないまま、厚顔無恥の反キリストになっているのです。反キリストの楽山は、自らを省みず、嘘っぱちの正義をもって、神を、宗教を、悪者にするのです。
 
ゆえに、この記事の中で、いちばんの悪者は、言い方が丁寧を装っているぶんだけ、不幸を反宗教に悪用する楽山その人であります。
 
罪深い不祥事の例をもって、正しい理解を知らないものだから、宗教って、こんなに、おかしいから、信じないほうがいいよ・・という方向に、誘導したい楽山のような悪魔性の輩もいるということです。本当に、何の救いも、癒しも、慰めも、見出し得ないのは、楽山の言であります。
 
 
本当に、ショップロウ夫人の言う通りだなあと思う。世の中には、つらいこと、苦しいことがたくさんある。本来なら、宗教は、苦しんでいる人たちに、安らぎを与えるべきものだ。
 
宗教をけなす楽山は、「苦しんでいる人たちに、安らぎを与える」すべを、何も持っていません。つまり、いちゃもんだけを言って、楽しんでいるサディストの自己愛性人格障害者です。そのために、悪知恵をめぐらせ、一部をもって、全体を否定する詭弁を作っては投稿してくるのです。
 
 
でも実際には、宗教者はそういう人たちに対して、神罰だ、裁きだ、地獄に墜ちるぞ、カルマだ、自業自得だ、心掛けが悪いからそうなるんだ、祟りだ、悪いものに憑りつかれているんだ等と言ったり
する。必ずしも悪意でなく、善意で言うこともあるから余計に始末に悪い。
 
楽山によく似ています。神のせいだ、神が裁くからだ、信者になると苦しみが待っているぞ、神はカルトだ、神なんかいない!、自分は出来た人だから自分に聞け、宗教に "取りつかれると大変なことになりますよ" とでも言いたげな、遠回しの印象操作によって、さらに悪性度が高いのです。。
 
 
実を言えば、自分も宗教を信じていた頃は、そういうタイプの信者だった。信仰熱心になるほど、人の気持ちが分からなくなり、無慈悲になっていた。ひょっとしたら信仰は、人を無慈悲にするのかもしれない。こういう自分が言うのもなんだけど、この辺りのこと、どうにかならないものかなあと思う。〈了〉
 
「信仰熱心になるほど、人の気持ちが分からなくなり、無慈悲になっていた」・・これは、楽山が、自己中によって、信仰を曲解してきたからです。そして、うまくいかないのを、信仰のせいにしているわけです。信仰熱心と、思い込み固定を、いっしょにしてしまうと、こうなります。
 
つまり、都合がよくないと、人のせいにし、神のせいにする、この他罰性が、楽山の悲惨をもたらし、さらに、他者に、その偏見を宣伝して、不幸を広める因業となっています。楽山は、体質的な異常人格によって、人の気持ちが分からず、無慈悲です。
 
楽山との交流は、人を、同じように無慈悲にしてゆく洗脳~マインドコントロールなのです。楽山は、人がどうなろうと知ったことではなく、ただ、訂正不能の自分の妄想から、反キリストの思い込みを書き、他者を支配して教祖になりたいか、少なくとも、優位に立っていたいのです。
 
無反省と無責任という病的人格こそ、最も冷酷で残忍な言動に、人を走らせます。理解を示す芝居をしたり笑ったりする楽山その人です。邪悪な狙いが隠れており、洞察もなく、何かを負う気もないのに、懐(ふところ)に恐ろしく鈍く硬く冷たい反応系を隠し持っている怖さがあります。
 
そして、他人事のように、心にもない「どうにかならないものかなあ」みたいな真剣味のない同情言葉を言ったりします。この遠回しの、脳天気で、深みのない表現が、楽山の、高等感情の鈍麻からくるボンヤリ言語の特徴です。やさしく言ったつもりでも実感がないので説得力が皆無なのです。
 
信仰は、不完全でも、人という存在を、悔いと反省と正直の道へ導きますが、反キリスト・反宗教の異常者には、それら良心の産物が見られないために、楽山のように、一方的に無責任に発言し、暴走になり、楽山に対する批判は、厳しさを増すという必然です。
 
楽山は、神を恐れよ、という意味を理解していません。神を恐れぬ言動を続けていることが根拠であります。神は、地上から見れば、畏敬の対象ではなく、恐怖の対象であります。ゆえに仲保者たるキリストが必要なのです。信仰は、キリストからの共感に反応する、キリストへの共感であります。
 
神は、神は、と言って、疑問というより、いちゃもんを発してくる楽山は、神を、対象物のように軽視して、その軽視と否定を宣伝しています。そこに描かれている楽山の言う神?は、楽山の吐く息と唾と臭気に蹂躙されるような捏造の紙細工に過ぎません。楽山は神も信仰も知りません。
 
神を、紙のように見なしている楽山の罪は、人を命ある塵(ちり)として大切に思う神の怒りを買うでしょう。与えられた言葉の使い方を学ばないならば、命を与えた神の前に、楽山の顔面は紙面となり、最も無残な内実を隠そうとして、剥がされてゆく安い紙細工となってゆくのです。
 
楽山ほど、物を言うたびに曲解の罠を仕掛ける詭弁屋は珍しいと思います。いわゆる悪意の煽動屋であります。悪魔性の方向に、のめりこんでしまった人物が相手ですから、これからも、楽山の白々しさを暴くのに、遠慮など、できるはずはないのです。
 
私は、もう年ですから、楽山の、言い逃れや、言い訳や、誘導の詭弁に振り回されて、私が、自分を見失うことのないように注意したいと思っています。勝ち負けではなく、できることをしています。
 
 
傷と闇

傷と闇
 
 
(2021年04月14日)
(2022年04月20日、再録+加筆)
 
 
 
  びしょ濡れ
 
ぶらりと歩いて
コンビニでお買い物
空っぽを下さい
 
銀行に入ると
通るべき空間がすでに用意されている
レールよりも複雑だ
時間と音さえ狭い通路
べらんめえ口調ってのはどうだろう
 
映画館でみている
閉じたまぶたの裏を
病のようにギラギラと波打つ闇を
 
公園に座っている
近くの草をむしりながら
意外と落ち着かないものだな
目的がないということは
目的があるということは
どれくらい本当のことかしら
 
君も遠くなったな
太古の昔のことのよう
思い出すというより
まるで想像している
君と僕に接点があったなんて
 
ライトをつける
ポンコツのバイクの音が
夜に響く
それよりもチクチクと
無数の虫がライトに飛び込んでくる
 
夏の夜の田舎道
田んぼが見えない
バイクの光だけが浮き上がる
自分が見えない
虫が当たる痛みを感じる
虫の死を感じない
 
この角は知っている
ふいに曲がるから
まだ西の空に
少し夕方が残っていた
夕暮れに連なる道
 
いつか消えて
ライトを消して
エンジンを止めると
沈黙と暗闇の中で
焼かれているものがある
 
ぶらりと歩いて
ドアを開けてふらついた
今日は濡れずにすんだね
実はびしょ濡れなんだ
 
 
 命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
 
 楽山の記事の追記ですが
 
*切実な祈り
谷口雅春の詩を記事にしたことを思い出したので、ここにも貼っておきたい。
背教の心起これば野に出でて霧に泣きぬれひれ伏して祈る
(谷口雅春『生命の實相 頭注版 第19卷』(自傳篇上)日本教文社、昭和50年、p.140)
 」
谷口雅春についてはさまざまな評価があるだろうけれども、少なくともこの詩からすると信仰について本気で悩み抜いた人なのだろうと思う。
http://mn266z.blog.jp/archives/28722574.html
 
(ネットより)
谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年11月22日 - 1985年6月17日)は、新宗教「生長の家」創始者・初代総裁[注釈 1]。
 
楽山は、なぜ「貼っておきたい」のでしょう。説明がありません。説明できないのだろうと思います。楽山の我欲に沿わないキリスト教を揶揄し、興味本位に仏教を語り、HSを批判しているようで、今度は、生長の家とは、楽山の、相手を選ばない悪気の多さです。
 
楽山は、宗教と信仰についても、悩み抜いた文章ではなく、大方、ホラー、アニメ、空想、お伽噺のような遊び半分の受け取り方しかできない人です。宗教の見方がそんなものだから、人生についても、人間についても、深い話が、まるで出来ないのです。
 
どれもこれもと、空疎な興味で書いてきます。どれもこれも、本気では信じていないので、結局、どの宗教も、本当の理解や共感には達しないまま、真剣に分かろうとしないまま、欲望の幼稚な辻褄で、軽薄な駄弁と詭弁の材料にしてしまいます。
 
こういう人の言なら、逆にカルトを批判する立場にいても、真面目さを装う筆致で、実際は、他人事のように、真剣味がないだろうという推測にもなります。理解などしていないまま語って、宗教家のふりをして自己顕示欲を満たしているだけの楽山です。
 
人生において大事なテーマと、趣味的なテーマの、重みの区別が、まるで出来ない楽山です。総てが趣味と同じように経過する筆致には、真剣味の欠片もなく、それゆえに、生きている人間性が、どこにも見えてこない軽薄な文章です。
 
楽山は、具体的な言動から、かえって、真剣味のない体質と限界が見えてくる例となっています。前に書いた霊が分かるっぽい?自覚というのが、宗教について楽山が分かると言うことが、いかに、いい加減か、いかに、インチキか、ということが見えてくるのです。
 
 
約2年も批判されてきて、なお書こうとするのは、楽山は、試練に耐える正義のヒーロー気取りでしょうか。違います。ヒーローは正々堂々としています。楽山は、卑怯な詭弁と言い逃ればかり書いてきました。楽山はヒーローとは正反対です。独りで勝利を思い込んでいる病気なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
言いたい放題で、反省しない、言い逃れで保身だけをする、「魅力の欠片もない」嘘吐き、偽善者、厚顔無恥に、影響されてはいけません。ましてや、支配されてはいけません。一定期間、慎重に見て、ようやく分かることですが、まず、楽山の、中立・柔和芝居を信用しないでください。
 
 
 
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  凶暴な詭弁3
 
 『憎悪の宗教 ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」』定方晟著
 憎悪の宗教―ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」
 楽山日記(LD) 2020年04月12日 (再録+)
   を改めて批判。
 
 
楽山は、獣性を抑制できなくなってきています。"聖なる憎悪"というのを肯定しているようです。神の怒りがどうであるかは、神に任されることです。私たちは、ただ、できることをしている姿を、神に捧げて、神の前でだけは正直に、祈るだけです。それが信仰だと思います。
 
 
タイトルから宗教批判の本だろうと見当をつけて読んでみたのだが、やはりその通りの本だった。この点、看板に偽りなしといえる。
 
これを、わざわざ書くというのは、強調でしょう。ようやくこの記事において、キリスト教への憎悪からの批判が楽山の本質であり本音であることが表れています。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の本性がむき出しになっているのです。
 
すなわち、今までの丁寧語やボンヤリ言語は、総て、作為の、うわべだけの、騙しの、刷り込みの、嘘っぱちであることを、楽山本人が認めたことになります。つまり、この記事によって、悪と敵意のモードに入っています。
 
今まで、反省という言葉は使っても、前後関係で反省が表れたことが一度もなく、一途にキリスト教とキリスト信仰を、子供だましの、実に軽く幼稚な筆致をもって、おとしめようとする意図だということを、楽山が表しているのです。それで、公共の場でも通用すると思っているのです。
 
このように、自己正当化の、訂正不能の、さらに、上から目線の、学者という他者の名による無責任筆致が、今まで、何の説得力も持たなかったのは、ナルシスト~サイコパスの、なんでも人のせいにするという、罪悪感と羞恥心の欠如、言い換えれば、良心の欠如によるのです。
 
 
自分の理解するところでは著者の主張はおよそ次のようなものである。聖書には、嫉妬、呪詛、復讐、虐殺などを肯定するかのような記述があふれており、その影響を受けた信者たちは歴史上、虐殺や破壊行為を行ってきた、キリスト教は表向きは愛を説いてはいるが、その裏には憎悪を隠している、聖書に基づく一神教は暴力的で危険な宗教であり、仏教の方がよほど平和的であり思想的にも深いものがある云々。
 
先ず、この記事は、さらに、この楽山ブログの宗教に関する記事は、楽山の、キリスト教への憎悪から、書かれていること。さらに他者の口を利用して、キリスト教を悪者にしようという意図が、今回は、はっきり表れています。
 
楽山自身の、嘘、偽り、詭弁、刷り込み、などについて、何の反省もしないで、楽山は、不遇だったから、そして、批判されたから、憎悪し、他者の口を借りて批判してくる、無根拠に貶(おとし)めてくる、という、この事実から、自己中という不都合を総て人のせいにする等々。
 
今まで私が書いてきたことが実現しているわけです。楽山はホラーです。楽山は、キリスト者から批判されて、おのれを振り返る反省も節操もなく、私のせいにし、神のせいにし、また、キリスト教のせいにし、しかも今までのように詭弁を手段としてボンヤリ言語で書いてきました。
 
そして、ごまかすことをやめたのか、と思ったら、このあと、また、理路にならない理屈を、引用元についても述べて、既に、助けを借りている引用元をなじり、結局、中立で正しいのは自分だけ、ということを出してくる卑怯さなのです。
 
敵と味方であろうとなかろうと、いちばん嫌で、いちばん関わりたくなく、いちばん、どんなに批判しても足りないと思うのは、"卑怯者"であります。楽山というナルシストが、いかに、悪意に満ちているか、そして、いかに、自分を飾らないではおれないか、ということが表れています。
 
 
自分には、こういう著者の主張にはなるほどと思えるところと、違和感を感ずるところが二つずつあった。
まず納得できたところとしては、一神教と復讐の関係についてだ。前々からハリウッド映画などを見ていて、復讐ものがやたらと多いことを不思議に思っていたのだけれども、著者の主張からすると、どうやらこれには宗教が関係しているらしい。
 
楽山は、キリスト教を、映画の復讐劇で語ろうとしています。復讐は神に任せよ、とは言われていますが、それは、神の裁きに任せよ、ということを言っているのです。神の名によって復讐するのは、信仰でも宗教でもありません。
 
まるで、人情の、刃傷の、殺し合いの、かたき討ちのような、憎悪vs憎悪に、神聖の裁きを持ち出した時点で、楽山は、アウトなのです。このように、楽山が、いかに、神を、自分より劣った人格のように見ているか、という証拠で在り、悪魔性なのです。
 
全知全能、完全絶対、永遠不変、という神を、人間には不可知という想定では気が済まず、楽山は、自分の、甚だ、みすぼらしい人間無理解と宗教曲解を、神に当てはめてくるのですから、キリスト者としては、たまったものではありません。
 
楽山は、神を手のひらに置きたがるほどの、思い上がりと欲望の人、なのに、思考の貧困者なのです。勘違いを、勘違いであげつらい、勘違いと気づかず、満悦して、人の言うことを聞かないものだから、さらに、勘違いで勘違いを深く深く、直腸指診のように、臭く掘ってゆくのでしょう。
 
 
邦画では復讐ものといえば忠臣蔵が有名だけれども、その他はあまりないように思うし、仮にあったとしても、復讐は空しいだとか、恨み心では恨みは解けぬという方向に進みがちだ。
 
忠臣蔵をあげてきました。忠臣蔵は、たくさんの映画とドラマになっていますが、復讐を美化するだけでしょうか。復讐劇は、現代劇もありますし、多くの復讐劇は、そこに考えるべき人間の課題を提供しているのであります。
 
しかし、ヒーロー気取りで、そういう広い視野を持たない楽山は、人間が考えるべき課題を、卑しい反宗教のための食材にしているだけで、まるで考えていません。アドラー教に従ったつもりで、自分の課題ではないと思っているのでしょうか。
 
 
でもハリウッド映画など欧米の映画には復讐ものは多いし、和解、許しの方向に向かうことも殆どなく、主人公が復讐を成し遂げることで観客は爽快感を得る筋書きになっているものばかりだ。主人公が仇に向かって「地獄に堕ちろ」と暴言を吐くことも珍しくない。この差の背景に復讐を是とする宗教があるというのは、よく納得できる話だ。
 
楽山には、敵に向かって「地獄に落ちろ」というのは、ただの暴言でしょうか。復讐を果たさないとしても、人間は、公の裁きが十分に働かない場合には、敵に対する怒りと憎しみが増大するということに、それは正しくないと言うだけの評価をして、満悦するのです。
 
このように、単純な道徳であっさり否定して、何の共感も表現せず、言い得たと思う楽山なのです。深い意味を考えず、深い情感を感じない、こういうのを、一面的思考というのでしょう。しかも、それを、宗教と神に当てはめるのだから、楽山の理解は、単純すぎて拙劣すぎて、恐怖なのです。
 
 
もう一つ、なるほどと思えたのは、ユダについての話だ。著者によると、『ユダの弁護人』(イェンス著、ヨルダン社)という物語では、ユダは神に対してもっとも敬虔で従順であったがゆえに、イエスを裏切るという他の誰にも果たせないほどの大きな使命を与えられ、この使命を果たし神の計画を実現させて殉教したのだから聖人とすべきだという主張がなされているらしい。
これは冗談なのか、本気なのか判然としないが、すべては神によって予定されているとすれば、こういう主張がなされるのも当然ではあるだろう。
 
だまされないでください。責任逃れに「冗談なのか、本気なのか判然としない」と書いていながら、「当然ではあるだろう」と結論している楽山です。楽山は、こういう汚い書き方をします。楽山の悪意の闇は、こういうところから明らかになってきました。

ユダが敬虔で従順であったということが聖書に書いてあるのでしょうか。書いてあるなら引用するべきでしょう。既に、楽山が、聖書を、まるで読み取っていないことが明らかになっています。
 
またしても、知恵の足りない、勉強も足りない、そのくせ思い上がる楽山は、ユダを英雄化したいようです。ユダが、金にこだわる男であったことは聖書に書いてあるのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:3
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。 
12:4-5
弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。 
12:6
彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
 (ヨハネ書12:3-6、新約聖書)
 
楽山が「神によって予定されているとすれば、こういう主張がなされるのも当然」と書いています。反キリストの本性を隠さなくなったということです。楽山は、ユダが大好きな、キリスト教に対する破壊者であるという私の判断が証明されています。
 
ユダについて、同情できるのは、ただ一点、キリストを売って死に至らしめたことを、後悔していることです。ここが、いわば、性格としては、ユダと楽山の違いです。ユダは後悔する人、楽山は、他者を無視して、後悔しない人。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書)
 
ユダは、裏切った後、悔いて、自殺しました。楽山は、ユダを利用して、キリストを、今殺しているようなものです。宗教に関しての楽山の殺意は、ユダに勝るとも劣らない悪魔性に貫かれているようです。楽山のこの記事を見ていると、ユダがかわいそうに思えてきます。
 
 
ユダであっても救われるという話は、『ライ麦畑でつかまえて』で読んだことはあり一理あると思ったのだったが、ユダは殉教者であり、聖人だという主張には驚かされるが、こういう主張は本当に興味深いものだと思う。ちなみに著者は仏教における提婆達多の評価と、キリスト教におけるユダの評価とを比べて、仏教の優位性を説いているが、このようなユダの解釈が出現したことで、キリスト教もようやく仏教のレベルに近づいてきたかのように書いている。
 
聖書を逆説的に解釈する、というのは、ゆくゆく参考になるかもしれない一つの解釈のあり方です。しかし、楽山は、悪意で受け取り、キリスト教を侮辱しているに過ぎません。何の成長も期待できない人格のむごたらしさを、楽山が体現しています。
 
そして、キリスト教が仏教レベルに近づいてきたかのよう・・と言っています。楽山の破壊された理路において、キリスト教も仏教も、同じ尺度で単純に測れると思っている時点で、アウトです。楽山は、結局、自分を高めたいだけの男ですから、仏教の方々も、気をつけたほうがよいと思います。
 
楽山のお気楽宗教品評会は、総ての、真面目な宗教人の敵です。何も分からないくせに、鼻ヒクヒク高々に得意がって見栄を張ってきただけの自己愛性人格障害者です。
 
どうか、楽山という、この果てしない自己絶対化の、ごまかし詐欺師と、このハンドルネームを忘れないでください。最後まで実名が分からないことに、楽山はしがみつくでしょうから。
 
 
次に本書のなかで違和感があった部分について書いてみると、まず一つは著者は仏教を理想化しすぎているのではないかということだ。歴史を振り返れば、仏教は公権力と深く関係したり、僧兵を抱えていたり、一揆とも関わっていたのであろうし、昨今でも仏教系のカルト教団が問題となっているだろうし、この点からすれば仏教は著者が言うほど平和的であるとは言えないように思う。また著者の聖書解釈は、その記述を最大限に悪い方向に解釈し、現代の基準によって批判を加えるという形になっているようだ。
 
何でも、単方向にしか考えられず、今度は、仏教をおとしめています。結局、自分が、いちばん柔和で中立だという教祖願望の表れです。とても、醜く卑怯なインチキ教祖になるでしょう。どこまでも腐った根性だけが噴き出してくる楽山です。
 
褒めた後で、仏教を理想化しすぎ、と言っています。楽山は、自分はバランスが取れていて、偏りがない、と思われたいのです。褒めたり、批判したりが、同居しているのが、楽山です。つまり、こういう人の主張は、信頼するに値しないということです。
 
こういう筆致は、暫定的な結論さえ出せない、つまり、まとまった主張を持たない、という経過になってきたのでしょう。いい加減さが目立ってきて相手にされない者が、自分だけ、通ると思っているナルシストの誇大妄想の偽りがここにあります。
 
反キリストのシャロームが、身勝手信じ込みの醜い妄想的確信によって、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、人だけがするべき悔い改めを、神が与えたらする、と言って悔い改めないのを、楽山は、無条件で支持しています。
 
シャロームと楽山は、ともに凶暴な、反キリスト、反宗教です。なお、キリスト教系カルトというのは、キリスト教を曲解して出来ています。同じように、仏教系カルトは、仏教の曲解か悪用なのでしょう。両方とも、理解できないばかりでなく、反省もせずに、曲解して、否定しているのが楽山です。
 
宗教とカルト、両者は全然違うのですが、楽山は、カルトの問題があることを、仏教が平和的でないことの根拠の一つとしているところ、見逃さないでください。勝手に決めて、表面的で、ゴシップ的で、一方、本質に入ることなく、万事、いい加減な、怠慢な、詭弁屋の、楽山です。
 
 
でも本来は聖書に限らず、古典聖典を理解しようとするときは、それが書かれた当時の状況を勘案し、かつその記述がどのように解釈され、実践されてきたかを考慮せずしては、正当な批判は行い難いのではなかろうか。
 
正当に反している典型が、凶暴なナルシスト、それこそ、楽山なのです。決して、気を許してはいけません。誰にとっても、出会うことが、そのまま、不幸としか言いようのない男です。楽山に同調することは、田舎の香水(肥溜め)に浸かるようなものです。偽善者のサイコパス、楽山、論外の大嘘です。
 
 
著者の聖書解釈と批判はこの辺りについてはやや説得力を欠くところが無くもないし、巻末の寸劇は風刺、皮肉というより、ヘイトに傾いているのは残念に思う。
 
ここでも、分かるように、楽山は、まるで、自分を中立の高みに置いて批評する気分で書くのです。引用しておきながら、「説得力を欠」いて「ヘイトに傾いている」「残念」などと、中立を装います。だから、神をも恐れず、自分を高めて、堕ちてゆく落差を自分で作ってゆくのです。
 
いちばん「説得力を欠」いているのは、詭弁屋の楽山です。ベースには、人間と社会へのヘイト、即ち、憎しみと怨念があると思います。誰の役にも立たず、無機能、かつ、有害な、インテリ気取りです。
 
実際には、このことから、自分の言い分の根拠にした後は用はない、とでも言うような、他者を使い捨てと見ている楽山の自己中と底知れない悪意の魂胆が見え隠れしているわけです。
 
楽山は、自分だけは、キリスト教よりも、仏教よりも、中立だから出来がよいとでも言いたげな、自慢と慢心があることを見逃さないでください。楽山は、中立ではなく、どこにも、よって立つ所がない人なのです。楽山ブログは、自慰行為に過ぎません。
 
そして、このような魂胆を見るたびに、私は、楽山に対して、一片の同情の余地もない病質者であることを再確認するという経過となっています。
 
自己修正不能の楽山とシャロームが反面教師として残す教訓は、人間が自分を絶対化すると、このような思慮と情緒の人格破壊が進むということです。ここが、自己愛性人格障害という病と、単純に自慢したがる性格特徴だけの人との、決定的な違いです。言うまでもなく、楽山は前者です。
 
楽山とシャロームについては、同一人物の成りすましも、疑うべきかもしれません。
 
単純に自慢好きなだけの人というのは、自慢するけれど、自分のせいで大きなトラブルが起きたりすると、打って変わって、驚いて、慌てて反省もするでしょう。それと楽山は全然違います。
 
そういう、がっかりして、後悔して、反省して、というのが、全くないのが自己愛性人格障害です。そして、彼らは、柔和を装います。うわべの丁寧語を真に受けないでください。
 
ひどくなれば、人を傷つけ、殺しても、罪悪感が湧かず、むしろ、笑っていられる人格です。犯罪行為に及べば、警察の仕事になります。それ以前に、できることは、批判だけなのです。
 
言論の義務としての双方向を守らない者に、言論の権利はありません。言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。楽山は、ケダモノ根性の荒らしです。したがって、楽山には、言論の権利も自由もありません。楽山は、そういう乱暴者として既に資料になっています。それだけです。
 
 
凶暴な偽善者

凶暴な偽善者
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月19日、再録+加筆)
 
 
 
  偶像イズム
 
イズムがあふれている
思想ならばいい
倫理でもよかろう
人には考える自由があるのだから
人の知恵であることを知る限りは
それゆえ間違うこともあると
知っている限りは
 
主イエスを慕い
我が主と呼びながら
腹の中にある
偶像の腐敗を
まだ消化しきれずにいる
 
それに気づいていながら
まだ気づかないもののために
私は癒しと恵みを受けながら
主を裏切り続けている
 
思い上がってはいけない
主の御名をみだりに唱えてはならない
 
信仰が
限りある人の知恵と知識を振り回し
神の御名の下に命令を掲げるとき
その信仰は
思い込みか偶像である
 
本質的なところでは
信仰は
○○イズムになるような
イデオロギーでも教条ではない
 
多くの宗教人が信仰の名の下に
そして間違うことのない絶対者の名の下に
間違っている
 
 
弟子たちは
ゆくゆく誰が一番偉くなるか
などと議論していたらしいが
 
主は人の罪を贖うために
その生涯の結末もご存知であった
 
総て承知の上で
地上に来られたのである
 
罪深い人間を救うために
精神と肉体と命の全てを捧げるために
人間に最高の共感を表すために
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。 
26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 
 (マタイ26:38-39、新約聖書)
 
そして、私たちは、次のような有り様なのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)26:40
それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。 
 (マタイ26:40、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)13:14
こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
 (マタイ13:14、新約聖書)
 
そして、次のような罪を犯しています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
新共同訳において「女」を「人の妻」と書き換えました。この罪は偽善であります。
 
神レベルの教えであり、人が守れない不完全からの罪深さ、つまり、既に、あなたがたは罪人なのだ・・という原罪の自覚からの神への恐れと信仰の義という不可欠なテーマを表しています。それを、不倫はいけないですよね・・という言い古された安い道徳におとしめてしまった軽薄な誤訳であります。
 
 
 
神を恐れず、虐殺の果てに、なお、反省せず、改めず、正義めいた嘘を吐き続けている偽善の指導者、また、それを支持している偽善の宗教指導者が、露者にもいるようです。あれだけ殺しておきながら、政治信条?とか語れるのは、罪悪感の欠如であり、到底、人間とは思えません。
 
 ※ 
 ロシアは、ウラジミルВладимир・プーチン、ウクライナは、ウォロディミル/ウラジーミルВолодимир/Влади мир・ゼレンスキーで、名前のほう、ほぼ?同じみたいで、以前の記事で、裏地見る・・と皮肉ったのは、プーチンのほうでしたが、不適切でした。失礼いたしました。
 
被害者にお構いなく、加害者が、自己正当化の妄想と詭弁と嘘を言い続けている有り様は、楽山と、とても似ています。もはや、人間とも信仰者とも思えない人々が、さらなる災いを及ぼして、人間の最も醜いさまを表しています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
聖書が教える義の欠片も、理解せず、守ったこともなく、正しい解釈への思考をすべて捨て去って、だましと嫌がらせに人生の大部分を費やしてきた楽山は、人であり続けることが出来ず、ダークサイドに堕ちて、白々しい嘘で自分を飾り、物を言えば悪臭に塗れている自分を表してゆきます。
 
 
 
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  楽山の崩壊2
 
 2021年03月25日
 家田荘子さんをめぐって(宏洋と広報チャンネル)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
(ネットより)
家田 荘子(いえだ しょうこ)は、日本のノンフィクション作家、高野山高等学校非常勤講師、高野山真言宗大僧都。家田荘子オフィス所属。マネジメントはエクセリングと業務提携。
 
 
*霊言は信じる? 信じない?
宏洋氏と家田荘子氏のコラボ動画が発表され、それに対して幸福の科学の広報チャンネルが物申してた。
ここでは動画の発表順に並べておく。
 
霊が分かるっぽい?という霊能者気取りの楽山は、反キリストのくせに、教祖願望があると思っていますが、今回は、「霊言は信じる? 信じない?」などと言っています。白々しい限りです。
 
(動画省略)
 
 
*感想いろいろ
以下には、動画を見た感想を書いてみる。
広報チャンネルでは、家田荘子氏は「霊言は本物」と明言したかのような言い方だけども、実際はもっと控えめな言い方だと思う。
 
ちなみに、楽山が、前に自分について言っていた「霊感の一種」は、丁寧語ですが、決して控えめな言い方ではないと思います。何故なら、霊と霊能力について、しばしば、話題にしてきたからです。また、「心の理論」という心理学の話を、呆れた心霊の話にすり替えたこともあります。
 
 
(過去に楽山の言ったことです。)
自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。
仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
心理学の話である心の理論を、いくら延長しても「霊感の一種」にはなりません。推測する機能がいくら拡大されても仏様やご先祖様などの超常の存在を推測することはありません。推測するには根拠がありますが、楽山の霊の話には根拠が全くないからです。
 
特に、楽山は、精神も推測も貧弱ですから、こういう、あからさまな間違いでさえ、訂正することがありません。訂正不能の確信~信条だと思います。自分には、霊能力があるんだ・・と言いたいために、とても幼稚な詭弁を振り回しています。
 
 
家田荘子氏の動画の方が、宏洋氏の動画よりも和やかな雰囲気のように感じられる。宏洋氏の動画を先にとり、家田荘子の動画はあとに撮ったということだろうか。
とすると、家田荘子氏は宏洋氏に気を使って霊言を信じているといった可能性はあるのではないか。会って間もない対談相手の実父をエセ霊能者呼ばわりすることなんてできないだろうから。
 
「気を使っ」たかどうかについて、楽山に分かることはないでしょう。楽山は全く気を使えない人だからです。心が無いものだから、机上の辻褄で思いつくことを言っているに過ぎないと思います。人間を見るセンスの無い人は、宗教を見るセンスもないのです。
 
 
霊現象を信じる人は、霊現象の真偽判定はゆるくなりがちだが、家田荘子氏もその傾向はありそうだ。
 
宗教についての楽山の真偽判定は、ゆるいどころか、全くのデタラメです。自分のことを棚に上げて、他者のことばかり、どうのこうのと言うのは楽山の特徴ですが、その資格も能力も、楽山にはありません。ひどい霊能者気取りです。
 
 
他の人の意見では、家田荘子氏は、大川隆法による霊言のことをよく知らないで言っているのではないかだとか、大川隆法の霊能に疑念を提示すると、自身の霊能の真実性にも疑念が及ぶことを恐れたのだろうというものもあった。どれも一理ある。
 
どこが「一理ある」のでしょう。人の霊能力の話です。つまり、信じるかどうかの話です。楽山は、人の霊能の真実性を云々しても、自身の霊能を疑う気はないからでしょうか。霊能という超常に対して、恐れるどころか、ふつうあるもののごとく誇大妄想化しているのです。妄想には、一理もありません。
 
楽山は、何も学ばず、何も反省せず、何の責任も負わず、何の根拠もなく、霊能者を気取れば気持ちがよくて、その勢いで、人のことばかり書けるのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)だからなのです。
 
 
家田荘子氏が駆け込み寺の話をしているのを聞いて思い出したが、幸福の科学は清水富美加の出家騒動の時に、自分たちは駆け込み寺の役割を担っているとしていたのだった。今でもそのようなことを行っているのだろうか。
「設定崩壊」って、これまでさんざん言われてきたから、同じ言葉を言い返したいだけだろう(笑)。
 
楽山の場合、いかなる設定も、自己愛から出ていて、根拠を示すことがないため、理路として崩壊してゆく必然になります。あるいは、何らかの精神病理や欲求不満や怨念で、楽山が時に見せるところの、時と場合にそぐわない不自然な「(笑)」は、真剣味や深みのない異常者の笑いとなるでしょう。
 
 
自分は、大川隆法による霊言は信じていないせいもあってか、それを本物だとする意見には厳しい見方になってしまうのではあるが、上の動画を見て、大体このような感想を持った次第である。
 
楽山は、誰も、何も、信じていないと思います。誰かを、何かを、信頼することも信用することもないでしょう。楽山にとって、他者は、都合のよいところを利用するだけの素材なのです。楽山は、体質的ペテン師です。
 
楽山が、HS批判をしているつもりなのは、自分が変質ナルシストであることを隠すためなのでしょうか。楽山は、一方では、キリスト教への、批判ではなく、否定を続けているのです。そして、断定していないから責任問題は生じないと言っていますが、明らかに、否定、軽視、侮辱の反キリストです。
 
 
 
 宏洋氏はまた嘘をついたのか?(宏洋と広報チャンネル)
 2021年03月27日
 幸福の科学とは何だろう?・・楽山ブログ
 
 
*しつこい
広報チャンネルの宏洋批判はよく続くなあと思うのだが、もうかれこれ「宏洋氏に物申すシリーズ」は110回なのか…。まあ、しつこさについては、自分も人のことは言えないのだが(笑)。
 
「(笑)」・・またしても、楽山は、真剣味もなく、何を笑っているのでしょう。これは、批判でも忠告でもなく、揶揄、ひやかし、あざ笑い、の類であります。自虐にしても、楽山は、こういうことしか書けないのでしょうか、他に実のあることを何も書いてないのは。
 
批判者の資格もなく能力もなく、楽山が、否定を書くことは、明らかな迷惑行為です。しかも、楽山のしつこさには、根拠が無く、説明の理路が破綻しているために、説得力がありません。退屈で、真に受けると、疲労と徒労が増すだけであります。既に経験済みです。
 
そして、楽山を批判すると、それに対して、楽山は、基本的に無視してきますが、前に、st問題などと題して、悪口、いちゃもん、詭弁、そして、明らかな嘘までも、平気で書いてきました。楽山は、そういうことしか書けないのです。楽山は、うさんくさい詭弁しか書けないのです。
 
 
・出家で芸能界電撃引退のトップ女優と婚約破棄で教団教祖の父と絶縁/名誉毀損で2億の請求
動画省略。
・宏洋また嘘!「出家で芸能界電撃引退のトップ女優と婚約破棄」?両性の合意なしに婚約などありえない。【宏洋氏に物申すシリーズ110】
動画省略。
 
このように、引用・悪用、つまり、ゴシップで的なことを書くのが楽山です。他者の言葉と資料を借りる、本の言葉を恣意的に利用する、・・それ以外、何も出来ないのが、楽山です。正常な議論の邪魔でしかないのです。しかも、すべて、楽山自身の自己愛と快感だけのためです。
 
理路が成り立たない、高等感情が鈍麻していて、共感、罪悪感、羞恥心、反省力、修正能力、学習と成長の意欲と能力、などがない。不備の自覚がないのは、自己愛性パーソナリティ障害のために、自分を斬ることが出来ず、反省せず、学習機能がないためです。
 
 
*話題
広報チャンネルの動画は、ツイッターで話題になっていたので見てみたのだが、自分もこのツイートと同じ感想だ。婚約があったかなかったかは傍からはわからないし、現状では事実上の引退だろうし、女優として優れているにもかかわらず、一般の映画、ドラマに出演できていないのであればその方面では干されているということなのだろう。
 
まさにゴシップですが、宗教について、真面目な話が出来ない楽山は、こういうネタに飛びついて、興味本位の悪意を増幅しています。しかも、それで、「(笑)」って満悦しているのです。下種の勘繰りもいいとこでしょう。
 
どういう病気になれば、楽山のように人格が低格化して、遊びだけで、真剣なカルトの問題に、口を挿んだり、それで、笑ったりできるのでしょうか。恥ずかしくないのでしょうか。真実の追求から最も遠いところで、滑りっぱなしのピエロが、楽山です。とても宗教を語れる男ではありません。
 
 
あらさがし ゴシップ

あらさがし ゴシップ
 
 
(2021年03月29日)
(2022年04月18日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイートです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
『運命の開拓』は、大川隆法の著作の中では、最も格調高い文体だったし、自分の先輩会員もかなり熱心に読み込んでたのだけど、だからこそ落とされてたのかもね。
大川隆法は自分より人気があるものは、人でも霊でも神でも、みんな嫌いみたいだから…。
絵文字(青ざめた顔)
午前9:03 · 2021年3月27日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1375599277888602113
 
「格調高い」と、褒めているのでしょうか、「だからこそ」「落とされてた」と、アンチとして批判しているのでしょうか。ボンヤリ言語で書いて、ごまかしに忙しい楽山です。自分のことを、全く考えなくなると、こういった無責任な他者への評価だけが楽しみになるのでしょう。
 
似たようなこととして、自己満悦か、取り入るために書いているだけで、明確な主張がないために、肯定を書いて、否定を書いて、断定していないからと責任を全く負わない、というのが、以前からの楽山の特徴です。だから、自分の言葉が、自分を斬ってくるのです。
 
楽山は、自分と、自分を満悦させてくれる霊の話以外は、人でも神でも「みんな嫌い」です。楽山に受け入れられていると思ったら、だまされているということです。その結果、楽山の書いたものを「熱心に読みこんで」近ければ近い人ほど「青ざめた顔」文字の用途にしてしまう楽山です。
 
分かりやすいカルトとも違います。楽山は、ボンヤリ言語で真面目を装い、トホホ言語で同情をひきます。全部、「絵文字」のような芝居です。何も信じていないし、信じたこともないと思います。アンチという遊び場を見つけて、オレは分かるんだと、楽しんでいるのです。
 
楽山の言の、うわべだけで気取り、中身の薄さと軽さ、生きている真剣味の乏しさ、非を求めない無反省と無責任、という、自己愛性人格障害の特徴を、見抜けるようになってほしいです。反省、共感なども、字面だけは書きますが、前後の文脈につながっておらず、まるで実感のないものです。
 
楽山の、言葉をわざとらしく書くだけで、感情・情緒の深さを表せない筆致に気づいてください。楽山は、深く考えることも、共感することも、病質のために出来ないのです。そのために、人を欺くことに快感を覚えるようになったのでしょう。
 
楽山の、高等感情鈍麻を知って、基本的に乏しい表情と、時に前の「(笑)」のようにニヤニヤするのとか「ははは」の高笑いとかを、思い浮かべながら、楽山の文章を読めるようになったら、現実的には、ただただ、うんざりしてしまうだけです。
 
他者の感情を表す「みんな嫌いみたいだから…」という婉曲表現と、「絵文字(青ざめた顔)」で、それこそ、ヒエーこわいよね・・、みたいに誘導する書き方しかできない楽山です。楽山は、感情・情緒について、表現する言葉面を持っていても、切実な中身を持ちません。
 
表現力のない楽山が、本や他者の文章を読むのも、リツイートするのも、学ぶためではなく、自分の都合に合わせた言い回しを拾って、利用・悪用するためです。結果として、薄皮のような、深みのない文章になり、賛同者は薄く同調し、一般には素通りし、理路を追えば疲労と混乱を招くことになります。
 
楽山は、他者の理路を理解できないから無視します。ゆえに、私の理路は、読者に、理路不全の楽山がサイコパスであることを知ってもらうため、私の、厳しい比喩などは、そういうことしか感じない楽山に向けています。
 
 
 
  消滅のベクトル
 
味方も仲間もいないことが
自分というものなのだと
細くなり薄くなり掠(かす)れるように
座標から消え失(う)せるベクトルの先を
何によって見ようとしている
 
贅沢病だと言われれば
そうでないことを証明するには
死んでみせなければならないだろうか
 
遠ざかるものが
遠ざかることによって
殺しにかかるなら
黙って殺されてあげようか
 
しかし何の土産(みやげ)もない
天に
何の宝も
未だ積んではいないというに
 
荒廃から崩壊へ
喪失から消滅への
方向しか持たないベクトルに
長さを問う儚(はかな)さよ
 
 
  夜明けのテロリスト
 
与えられなければありえなかったのに
人生切り取り放題と言わんばかり
聞いてもしようがないのは
成功者の格言めいた話だ
しかもそれが誰にとってもお宝のように
賛美する脇役や端役
騒ぎ立てる石ころや石焼きイモだ
 
夜は腹が減る
 
体は動物のように正直だな
賢者の話なら聞いてもよいが
賢者が賢者だと
わかるほど賢くはないのでね
 
 
 
楽山に似た筆致の raku という人のツイートです。楽山の成りすましを疑っています。楽山は、実に多くのキャラのHNに成りすましていると思います。楽山の根は荒らしですが、記事をもっともらしく書くのは、楽山の正体が、三文芝居の大好きな大根役者だからです。
 
raku
@rakusyo34
宗教アンチを見てて、素朴に思ったこと。
僕も宗教反対なのだが、
アンチ同士でなぜ反発するんだろう?
同じ目的、目標なら手を取り合っていけばいいのに、と思う。
なぜなんだろう?
同質は反発するから?
#宗教 #反対 #あんち #アンチ
午後0:21 · 2021年3月5日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/rakusyo34/status/1367676679095607302
 
自称アンチのつもりの楽山は、誰とも、「手を取り合」うことなど出来ないと思います。「同質」でもありません。正直さもなく、深さもなく、情緒もなく、道理も節操もなく、薄笑いだけで、真実を求める人々の邪魔だけをしてきます。
 
楽山は、偽者です。アンチではなく、野次馬です。議論の場にはいないほうがいい人です。自己顕示のために、アンチのふりをして、実は、自分の霊能を信じていますし、自分信仰の自己カルトを、宣伝しているような楽山ブログなのです。楽山は、誰とも、信頼関係を築けない人です。
 
楽山は、複数のキャラへの成りすましの疑いがあります。疑われていながら、それでも書いてくるのは、楽山が、鈍いヒトで、危機意識もなく、罪悪感もなく、分別・反省力・責任感もない病質者だからなのです。高等な精神機能がないために、いつも平気でいられるのです。
 
楽山のような、思い込みが前提となって、訂正不能になっている心性では、正常ならば気づくことが、汽車の窓から見る風景のように、実感のない乾燥した絵の流れように見えるのかもしれません。深い意識を集中することが出来ないのです。
 
自己愛に囚われることは、人間を人間らしくする一番大事なものを捨てることです。自己愛者に出くわすことは、不幸であり、災いであり、偶然ならば事故であり、故意ならば犯罪なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねてゆくと、自身も嘘の存在になり、存在感がなくなり、芝居とリアルの、空想と現実の区別ができなくなり、現実的な危機や罪悪に気づけなくなるのでしょう。楽山の笑いは、人格を捨てた者の笑いとなってゆくのです。
 
 
 
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  ヒーロー気取り3
 
 事実は一つでも、その感想は人それぞれ異なる!?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月11日
 
 
楽山の典型的な詭弁と誘導の文章です。まるで、説教壇か山上で教えを垂れるような、しかも、ことごとく空っぽな豪語が結論となっているという空回りなのに有頂天楽山の排泄です。
 
 
最近は、「人それぞれ」ということを感じる機会が増えているのだが、本書にもそれらしいことが書いてあった。
同じ事実でも、人が違えばまったく違った感情を呼びさますし、また、同じ人にも、時が違えば違った感情を呼びさますのであるから、同じ事実が相反するような感情的説明を受けることは、明らかである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.228)
 」
これは本当にその通りだ。たとえば、一冊の本の感想は、人それぞれ違うのが当たり前であるし、同じ人でもはじめて読んだ時と、再読では、感想が違っても不思議ではない。いや、むしろ違うのが当然だ。
 
人それぞれ、というのは、偽牧師シャロームが、妄想信条を語るときに、よく言っていたことです。人それぞれだからと言って、自己中、嘘、妄想、など、邪悪なものを是とする・・なんてことは出来ません。同じ詭弁で言い訳をする楽山です。みすぼらしい限りです。
 
「人それぞれ」という曖昧な格言を、いつでも言える法則のように見なして、自分が何を言っても、「人それぞれ」だから、正しいという詭弁を作り出そうとしています。言葉の適用範囲を、物理法則のように、広げる詭弁です。こういうインチキが、楽山という嘘吐きを作り上げているのです。
 
楽山は、本の感想を例に挙げていますが、私は、感想レベルのことを言っているのではなく、常識レベルで、楽山について、おかしいと言っているのです。批判が理解できず、本の感想に喩えるのは、ますます、おかしい楽山を、定評としてルーチン化してゆきます。
 
 
これは書物だけでなく、絵画、映画、景色、料理…その他さまざまなことでも同じことがいえる。もちろん宗教思想についてもそうだ。一つの宗教思想についてそれを受け入れる人もいれば、受け入れない人もいる。いったん受け入れても、その後で改宗、転向ということもありえる。これが現実である。
 
だから、楽山が受け入れなくても結構、むしろ、受け入れることなど期待していない。むしろ、楽山みたいな人がそのまま来てもらっては困るということです。
 
問題意識が、また、著しく的外れです。楽山は、公共の場で、キリスト教を、無理解のまま、全然成り立たない理由で否定してきたわけです。それが迷惑だと言っています。人それぞれではなく、楽山には、特別に理解力も、修正能力もないのです。
 
常識のある人なら、分かることが、楽山は分からない、というより、我を張って、ますます、話を違う方向に持ってゆくという詭弁です。鼻を突くような悪臭です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の災いと言えるでしょう。
 
 
こうしてみると、人の心というものは決して定まることのないものであって、少しも当てにならないものだということがよく分かる。
 
身も蓋もなく、楽山は、何を言っているのでしょう。迷惑行為を無常観で済ませるのでしょうか。問題が、定まらないのでも、当てにならないのでもなく、楽山が、無理解のくせに、意地を張って、言い逃れの詭弁を宛がっているということです。
 
こういうごまかしが通用すると思っている楽山です。冷静な知性も感性もなく、いちばん当てにならない楽山の言が、楽山の無責任によって、悪と偽善に拡散してゆく性質を持っています。ゆえに、人の心ではなく、楽山の言うことこそが、定まらない被害をもたらしてゆく独り芝居なのです。
 
 
一切は移ろい行くものであり、人の心もその例外ではないとすると、若干、もの悲しい心持ちがしないでもないが、どんなに悲しかろうが、寂しかろうが、これが現実なのだから、それを拒絶したところで仕方がない。一切は過ぎ去って行くのだとすれば、「一切は過ぎ去って行く」ということもいずれは過ぎ去って行き、その次には一切は過ぎ去って行くとも限らない状態が到来する可能性もあるのではないかと言えば言えそうでもあるが、これはただの理屈に過ぎないのだからどうにもならない。
 
楽山が、悪夢のような、いい加減な空想話をしています。みんな、うつろいゆくものだから自分の悪も「どうにもならない」ということに結びつけて、これで、何か正当なつもりで投稿してくることが、風を追うような、塵に縋りつくような、霞に希望を託すようなものでしょう。
 
楽山の、うわべだけ仏教哲学風味だけど、繰り言のように腐った不平不満で人心をかく乱させる詭弁です。楽山の言は、ただの理屈ではなく、体質的な、自己愛、訂正不能、無反省によるところの、社会悪につながる恐れのある有害な詭弁であります。
 
「どうにもならない」と言っているように、楽山の言説は、何の役にも立たないのです。自分で言っているわけだから、身の程を弁えて、妨害と迷惑の無益な屁理屈の自己顕示をやめるべきですが、人格障害が酷くて、シンプルな反省すらも出来ない楽山です。
 
 
人それぞれという考え方は、各人の自由を尊び、個人を尊重するにはよいけれども、人と同じでいたい、確固たる地盤の上にいたいという願望を充足させるという点では少々物足りないところがあるだろうし、誰をも満足させるものではないのは事実ではある。
 
「人それぞれ」で、誰が満足するというのでしょう。いかに、楽山が、いい加減で、継続性のない精神で物を言っているかが、如実に表れています。楽山の言こそ誰をも満足させない、というのが事実であります。自由を害し、恣意を通そうとする楽山を許してはいけません。
 
 
世の中には万人を納得させる思想などというものは存在しないし、当然ながら、人それぞれという考え方もその例外ではない。ただし個人の尊重をよしとする今の世の中では、一つの思想、価値観で統一するのは無理であろうし、当分の間はこれがもっとも多数から支持される無難、穏便なものの考え方だろうことは確かではあるし、
 
「人それぞれ」は、思想でも価値観でもありません。曖昧な格言のようなものです。楽山のような怠慢なペテン師が、しかたない、しかたない、といって、努力を怠るところの敗北思想を敷衍(ふえん)しようとしています。
 
それにしても「多数から支持される無難、穏便なもの」とは、書く値打ちのないことでしょう。「人それぞれ」は、ある条件において格言的な意味を持ちますが、一般則とはなりえません。このように、楽山は、嘘っぱちをでっちあげて自己満足しますが、一方、何も実のあることを提示できないのです。
 
自分が満足しないだけであるのに、楽山は、「一つの思想、価値観で統一するのは無理」と、真実追求をあっさり放棄しています。楽山は、しばしば、このような短絡で、総てを言い切ったつもりになる病的ナルシストなのです。誰も、楽山を参考にしてはいけません。
 
「これ」つまり「人それぞれ」は、一般則としては、詭弁の材料にしかなりません。思いつきだけの無根拠の、「人それぞれ」だから、一つじゃ無理という話なのでしょうか。呆れます。「多数から支持される」と言っていますが、勘違いが妄想になっている楽山は、誰からも、否定されるべきです。
 
何だか、ヒーローか政治家の説教みたいな言い方になっているのが、非常に気持ち悪いです。それに、楽山の思想は、霊能者気取りで、上から下にアドバイスして、何も益がないという結果が、既に、文章のいい加減さに見えているのです。
 
これが、楽山の自己愛の、根無し、あるいは、根腐れ、とでも言うべき、底の浅さであり、説得力も、説得しようという気も、全くない証拠となるでしょう。未熟な子供が、未熟な意見を、声だけ大人の大声で演説している体であります。言い張ることは、こうも醜いという教訓です。
 
 
個人の尊重をよしとする今の世の中では、一つの思想、価値観で統一するのは無理であろうし、これより善い新思想が出てくるまでは、ますます人それぞれという考え方は広く、深く人々の心に沁み込んでゆくだろうと思う。
 
今度は、思想の誇大的気分のヒロイズムで、即、幼稚と言ってよいような、預言者?の演説でもあるかのような、もったいぶった大袈裟な豪語になって、その分、中身が、いっそう、空疎で悲惨なのです。何を言っているんでしょう。間違って説教壇に立った知恵足らずの有り様です。
 
「人それぞれ」というのは、特別な考え方でも思想でもありません。沁み込むような深いものでもありません。個人的な要素の強いことに、折り合いをつけるためにあるようなものです。だまされないでください。いい加減なことしか言えない自分を正当化しようする楽山の自慰行為なのです。
 
しかし、楽山は、何について語ってきたでしょうか。なにもまとまっていません。キリスト教について否定しただけです。人それぞれでやって行ったら、際限なく、カルトが出てくる問題なのです。楽山のカルト教祖願望の妄想だと思います。
 
しかも、楽山は、説教にならないのはもちろん、教養にもならない愚痴のようなことを、ねちねちと執拗に言ってきたのです。今もそうです。それこそ、帰る場所のない野良犬が口角からだらしなく垂らすヨダレに過ぎません。全く思想にも分別にもなっていないのです。
 
この部分は、特に、楽山のベースにある自己愛性人格障害と、いつかヒーロー・・みたいな躁的興奮気分が、垂れ流されています。裸の王様でしょうか。シャロームもそうでした。反省しない自己愛者の特徴だろうと思います。よく見てさえいれば、楽山ほど貧相な発言者はいないのです。
 
こちらとしては、楽山の言説が読者にとって、宗教・信仰にとって、害毒だという判断には、とっくに十分な根拠があるわけです。今もそうです。それでも言い張りをやめない楽山の丁寧語の排せつ物を、何やら一端(いっぱし)の思想と勘違いする人がいないように、批判しているだけなのです。
 
 
 宗教が人をつくるのではなく、人が宗教をつくる!?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)2020年04月11日
 
 
楽山の正体は、風船か軽石のようです。外れ方が酷くて、中身がなくて、とても一般に供せられる質ではありません。丁寧を装っても、内容としては酷い外れ方なので、暴言・暴論と言ってもいいでしょう。楽山の思想のような解説者気取りは人を壊します。
 
 
「鶏と卵ではどちらが先か?」という話があるけれども、下のような文章を読むと、「人と神ではどちらが先か?」とか、「人と宗教ではどちらが先か?」というようなことをついつい考えてしまう。
幸福が現実に所有されている場合には、悪の思想は実在感をもつことができない。それは、憂鬱が支配している時に、善の思想が実在感をもちえないのと同じことである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.136)
 」
宗教のなかには、幸福感を強調するものもあれば、厭世的な気分を刺激するものもあるけれども、考えようによっては、こういう宗教の色合いは、人の心によって定められるということもありそうだ。幸福な人は幸福を強調する宗教を求め、厭世的な人は厭世的な宗教を求め、それぞれがそれぞれの宗教をより完全な形に熟成させていったのではなかろうかと…。
 
楽山の軽口です。「宗教をより完全な形に熟成させていった」・・宗教の完全な形、誰も知りません。楽山は、鶏と卵の話から、宗教は定まらないという曖昧な話に持ってゆきます。宗教の無理解が前提で、聞いても、何の足しにも、糧(かて)にもならないことばかりです。
 
「鶏と卵ではどちらが先か?」を持ち出してきました。鳥があるのは卵から成長するから、卵があるのは鳥が産むから、つまり、これは、循環論法という矛盾です。これを、主張の根拠みたいに上げてくること自体が、インチキだと証明しているのです。
 
これを、楽山は、以前、奇跡について語ろうとして、循環論法になって失敗しているのですが、循環論法が、よっぽど好きなのか、また、今度は、まともに宗教に当てはめようとしているのは、滑稽と言うべきでしょうか、いや、妄想に近い自己欺瞞です。欲と意地以外何もないのでしょう。
 
宗教は、一部の人々が、真実を追求して、いわゆる気づきをもって、真実の一部を収穫して、今までにない新しいこととして、人に問うことで始まるわけです。しかし、楽山は、今までの記事の流れから、宗教は人が捏造するつまらないもの、という印象だけを吹き込もうとしています。
 
安っぽい思想を捏造しているのは、楽山その人であります。ゆえに、楽山の言は、呆れるほど、何の感動も意外性もインパクトも面白味もない退屈なだけの代物です。楽山だけが、独りで、整ったつもりで、評論家気取りで、自画自賛しているだけなのです。
 
 
とすると、宗教の多様性は人の心の多様性によって育まれたのであり、宗教が人を導いているというより、人が宗教を導いているという方が現実に近いのかもしれない。
 
どっちが先?という鶏と卵の循環論法から、楽山は、人と宗教について、要素的な断片を述べただけで、人が先に宗教を作ったという循環しない結論を導いているつもりなのです。目に見えない真実というものを、楽山が、いかに見逃してきて、拙劣に、でっち上げているかを知ってほしいです。
 
人が宗教を作っている、という、悪い意味なのに、育んだ、導いている、などという、良い意味の言葉を使って、言葉の世界をけがしています。表れているのは、作文下手の楽山が、詭弁で迷路に導いているということだけです。
 
信仰を持つ人々が作るのは、言葉で表される形式や儀式や組織や道徳律のような目に見えるものでしょう。しかし、宗教と信仰の本質は、目に見えないものです。
 
多様性と書いて済ませているのも、いかにも浅薄なのです。宗教の真実というのは、深い思考と情緒的感受によって、ヒントとなる気づきに到達するものです。楽山は、そういう深淵を全く経験していないし、まるで浅瀬で遊んでいる小魚のようです。信仰は、楽山が思い付きで書くのとは、全然、違うのです。
 
しかも、楽山は、自己愛ナルシズムによって、深淵から掛け離れた未熟さを認めず、神も、キリストも、高みから見下ろした風景の可視範囲の一部を見ている姿勢で、それで、いかにも、知ってるふうに決めつけてくる慢心した愚昧(ぐまい)の輩(やから)なのです。
 
 
ちなみに自分のことを書くと、自分はいつも厭世と理想の両方に足を乗せているように思う。
 
楽山は、どちらにも、手も足も乗せていないと思います。厭世も理想も、考えれば、深く遠いものです。偉そうに言ってる楽山だけが、浅くて、思い上がって、賢者のふりをしているピエロなのです。
 
 
それでいながら、「一切は過ぎ去ってゆきます」という方に傾いてみたり、「すべては愛と歓喜に満ちている」という方に傾いたりして、始終、重心を動かしている。
 
楽山に重心はないと思います。浅さ、軽さ、だけが目立ってきました。難しく気取って見せても無駄なのです。悔いる悲しみの代わりに不快感と不機嫌しか持っていないような楽山が、太宰の言葉を引用しても無駄です。楽山と太宰は、全然、質が違います。
 
しかし、人間失格は、楽山のほうに、そのまま言えてるかもしれません。楽山は言論者でも思想家でもありません。あまり長く勝手なことばかり言っていると、人間でもなくなってしまうでしょう。自己愛は、のめりこんで訂正不能になると、人格を破壊します。
 
 
宗教でいえば、あらゆるものを厭い離れる仏教的なものに魅かれるときもあれば、克己心をふるい立てさせる儒教的な方面に関心が強くなったりもするし、文学でいえば漱石の「硝子戸の中」「道草」「門」などの雰囲気に安らぎを感じることもあれば、武者小路実篤の楽観的な理想主義で元気をつけることもある。
 
楽山には、今までの文章を読んだかぎりでは、何もないと思います。刹那的に、良さそうな言葉と文章を書いても、それは、幼稚な詭弁なのですから、有名人に自分を喩えるなど、恐ろしく身の程知らずなのです。早くネットの言論の世界から去ってほしいだけの人です。
 
さも広く学んできたような書き方をしていますが、楽山は、病質のために、本を読んでも、都合のよいところを集めているだけなのです。そして、一定の主張を持たず、それが良いことだと思い込んで、両極端を、ふらふらしているだけなのです。
 
今回、説得力が、まるでないことが表れてきました。文学の名前を出して、もったいぶっても、つまりは、自分で何も組み立てられないことを表しているのです。しかも、謙虚さが全然なくて、ヘラヘラ笑って、気安く出てくるに至っては、実に気色悪いのです。
 
 
このように自分一人の心でさえも、その時々によって揺れ動くのであれば、様々な個性を待つ人々が何億、何十億と存在する世界に、その個性に応じて無数の宗教が存在するのも必然なのだろうし、
 
もったいぶったニセ賢者の台詞です。今回は、スケールが、前にも増して誇大的かつ大袈裟であることが目立っています。一人に、一つずつ、楽山の欺瞞・・でしょうか。冗談じゃない。
 
無数の宗教を、必然だと言って、無節操に無条件に許容してしまっています。あるいは、無数にあるのだから、信ずるに値しないと言いたいのでしょうか。歴史の中で、宗教は、少なくとも、楽山の一生よりは、重みがあります。何の思想も哲学も宗教もないのが、楽山の浅薄さ、かつ、空虚です。
 
 
これこそが宗教は唯一の真実に属するというよりも、人々の理想、願望、感性などに関わるものだということを端的に示しているのではないかと思う。
 
宗教と信仰を知らない楽山は、それらを、いい加減に信じるのが正常と言いたいようです。楽山の言うとおりになれば、宗教も信仰も滅びてよいことになります。唯一の真実など、楽山は、最初から見つける気はないということです。見つける努力もしていないことが、書いたものの短絡に表れています。
 
楽山は、おのれの怠慢ゆえに、一気に到達したいのでしょう。だから、カルト教祖願望を持っていると判断しています。真実が、そのような広い門を持っているでしょうか、否であります。広き門は、悪魔と地獄の入口であります。いい加減が正しいなどという宗教には何の価値もありません。
 
楽山は、自分が、いい加減で、知識も理路も感受性も整わないものだから、宗教が、いい加減だから、とっつきやすいと思ったのでしょうが、宗教と信仰こそが、詭弁や嘘や偽善を、最も嫌っていることを知らないのです。宗教を理解できない者が、いい加減じゃろ・・と居直っているさまです。
 
「理想、願望、感性に関わるもの」などと、理想もなく、願望は自己顕示欲だけで、感性など快楽原則だけの楽山に、言われたくないのです。当たり前の幼稚なことを提言のように言って、真理に関わってる風味を出そうとしてきたのが楽山と言えるでしょう。結果、空っぽ・・だけが表れています。
 
楽山は、努力したくなくて、既に分かっていることにしたくて、以前から、それに合うところの、ああでもない、こうでもない、という、ボンヤリ言語の世界に安住して、真実というテーマを、節操もなく、だだっ広く、錆びた工具にしています。
 
楽山の、気安さが、底の浅さが、ペテン師的な詭弁精神だけが、漏れ出ている文章です。目標へのフォーカスを持たず、偉いと思われたいだけの人のようです。今回は、楽山の体質が、かなり、はっきり表れてきたと思います。
 
 
有頂天の行方

有頂天の行方
 
 
(2020年04月12日)
(2022年04月17日、再録+加筆)
 
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
 
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  人知の支配
 
そこに立てば
すべてを見渡せるという
高い高い山の頂に
太陽に向かって
王はしっかりと立っていた
自らの統(す)べる国を見るために
 
眼下の町から遠い山と海
澄み切った絶景である
しかし王は不安だ
これがすべてか
 
振り返ると陽光に照らされ
鮮明に写し出された自らの影に
大地を踏んでいる足底の影がない
すべてを望む強者は満足しない
 
後ろを向き足を上げてみる
最後には思い切り両足で跳び上がった
全身の影が鮮やかに浮かび上がった
そして崖から落ちていった
 
どんなに強くても高くても
人知の及ばぬものがある
すぐ足下(あしもと)にさえ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、思い上がって、山頂から落ちてゆくのではありません。楽山は、すでに底まで堕ちているのに、気づかず改めず、山頂にいる気分で、嘘を吐き、詭弁を弄し、人を傷つけ、だましてきた報いを受けているのです。人で在ること、その当たり前に背くと、自他ともに破壊するという地獄です。
 
 
 
 楽山のツイッター、これも再録+加筆です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これ、わかるわあ。
といいつつ、自分はこれらをきちんと区別できてないときがある。気をつけねば…。
引用ツイート
怒りのジョニー
@swiwwproud
 · 4月13日
「個人的な感情(好き嫌い・快不快・怒り)」と「客観的な現実(卑近な出来事から社会問題まで)」をごっちゃにせずに切り分けることが大切で、それは立場に関係なく、等しく大人のマナーだと思うんですよね。 twitter.com/bakanihakaten3…
 」
午後7:17 · 2022年4月13日
 
楽山は、「個人的な感情」と「客観的な現実」を「区別できていないと気がある」と言っています。しかし、楽山は、それを一緒にして、決めつけてきます。「ことがある」ではなく、区別などしていないと思います。情緒を偽造し、現実を無視したまま、安穏として生きている楽山です。
 
感情と現実は、元々別次元のものです。主観と客観と言ったほうがよいでしょう。しかし、純粋な客観は、人間にはあり得ないと思います。物を見るということは、見る人の、感覚、イメージ、記憶、情緒と理路が、さらに言葉も、複雑に絡み合って、認識が生まれます。客観とは限らないのが人間です。
 
引用された文章は、感情的にならずに、冷静に見て、偏りのないように考えることを言っているのでしょう。だから、守るべき大人のマナーと言えるのです。楽山は、体質的に自己愛の自己中心からしか言動しないので、最初から偏っているのです。「わかるわあ」なんてありえない人です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山はホラー2
 
 キリスト、パウロ、ガンジーと非暴力
 2021年04月10日 楽山日記(LD)
 楽山は、読者への思いやりなど全く持っていませんのでご注意ください。
 
 
病質者らしいことを書いて、説得力はゼロなのに、独りで「理解できた」と満悦する楽山です。こういうのが、本当の、リアルの、ホラーなのです。楽山に対する説得は無駄であります。全く、気づきがなく学習機能がない病気の脳ミソ単独の暴走です。
 
 
前の記事を書きながら思い出したのだが、ガンジーの説いた非暴力について次のような説明を読んだ覚えがある。
暴力は自らの望みを実現させるために相手に肉体的苦痛を与えるが、非暴力は自らが肉体的苦痛を受けることで相手の良心に働きかけ、真実への目覚めを促すものである云々。
 
楽山は、「自らの望みを実現させる」、即ち、快感を得るために相手に精神的苦痛を与えます。暴力について他人事のように言っていることで、楽山に、その自覚のないことの証明になります。楽山は、「良心に働きかけ」「真実への目覚めを促す」気もないのに、また、嘘を吐いて、正義感気取りです。
 
 
自分はこれこそキリストの「悪人に手向かってはならない。だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5.39)という教えの意味だろうと理解したのだった。
 
キリストは、人が出来ないことを承知で言っているのです。それゆえ、キリストは十字架につくことになります。それも承知の上です。救い主キリストの、洞察力と共感力なのです。
 
それを書かずに「理解したのだった」は、理解できない自分をも無視して意地を張る身の程知らずなのです。恐らく、何を読んでも実際は理解抜きで、理解したつもりになる見栄張りの嘘つきです。吐き気がします。
 
言われても実際には出来ないことを言っているキリストの意図は、罪なき者は一人もいないということとです。神の前に、罪を認めよ、正直になれ、という大きな教えにつながります。
 
 
でも、パウロは次のように書いている。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
(ロマ12.19-21)
 」
 
(一つの解釈としてネットより)
この地域の人たちは水瓶、果物や野菜のかご、火のついている壺などほとんどを頭の上に乗せて運びまし た。 隣人から新しい炭を受け取った後で、頭に火鉢を持ち上げて家に出発します。もし隣人が本当に寛大な人なら、その人は火鉢か壷に更に新しい熱い炭を「積み上げる」のです。壺に燃えている炭を入れて あげます。
古賀バプテスト教会
 
このパウロの発言は、慣習なのか、殉教を意味しているのか、私は分かりません。キリストの敵となった者たちは、律法を曲げて、褒められることを悦ぶ者たちであり、信仰の心が無く、思いやり・罪悪感・修正機能などがなく、キリストを殺した者たちです。楽山との共通点が多々あります。
 
 
これはキリストの言葉と関連しているのか判然としないのではあるが、もしかしたらキリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、このように解すべきなのだろうか。相手に逆らわないのは、相手の良心への働きかけではなく、神による復讐を期待してのことであると。
 
当時の宗教勢力であるパリサイ人などの者たちは、結果としてキリストを殺したことに表れており、良心がないので働きかけても反応しません。現在の現実の人格としては、楽山が、その典型例であります。だから、信仰について、平気で「神による復讐を期待」などといえるのです。
 
楽山は、恥知らずで、良心がなく、自分は偉いんだ!正しいんだ!という意地だけで書いています。書けばいいと思っているのでしょうか。反キリストの偽善者らしく、文章だけ丁寧だが、根拠もなく、わめき散らしているだけなのです。
 
 
内村鑑三にもこのような言葉がある。これはおそらくはパウロの言葉を前提にしているものなのだろう。 
我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って――すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。 
・ヨブ記講演 内村鑑三 - 青空文庫
 」
「愛を以って敵人の首に熱き火を積」むことを健全とするとは、はたしてどういう論理によっているのだろうか。
 
上の「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」というパウロの言葉を前提にしているならば、類似の「愛を以って敵人の首に熱き火を積む」という表現は、殺して呪うことを言ってはいないようです。解釈の難しいところですが、楽山のような悪意の短絡をしないことが大切です。
 
もし敵を殺し死体を呪う行為ならば、論理ではなく感情であり、正直言って、欠点の多い私は、楽山について、軽くない陰性感情をいだくことがあります。内村鑑三も、楽山のような訂正不能の偽善者に出会ったのでしょうか。しかし、信仰があるからこそ、暴力を自制するわけです。
 
楽山が、いかに、飢えた狼のように、よだれを垂らして、内村鑑三の、おかしな発言と思えるものを漁っていたかが、うかがえます。これが楽山の炭火という怨念です。ずっと、悪意の種火となっているのです。肯定し共感しているように装う楽山の嘘に、惑わされないでください。
 
楽山は、書いたものが、何も成り立たないし、何の役にも立たず、何の教えにも理解にもならないものだから、それこそ、内村鑑三とキリスト者の存在を殺して火でもつけたい気持ちでしょうか。とても危険な楽山の邪悪さが発言に、陰湿に表れています。
 
 
聖書的には、キリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、パウロのような理解の仕方が正しく、これができてこそ、内村鑑三の言うがごとく「健全に達した」とされるなら、自分にはやはり聖書は異文化であって理解するのは難しいようだ。
 
言葉面を整えるだけで、一滴の慈愛も持っていないのに、楽山は、愛について、ガンジーと内村鑑三を秤にかけています。その時点で、アウトだと気づかないのです。病質者とは、そういう者です。人間も神も、オモチャとして扱い、いちゃもんをつけては満悦するのです。
 
「異文化であって理解するのは難しい」・・分からないというシンプルなことが言えず、代わりに、理解できないのは異文化だからだ!と言っている頑固な自己愛と自己中を見逃さないでください。反省するのではなく、災いを全て他者のせいにするのは、サイコパスの特徴です。
 
 
とはいえ理解できないからこそ理解できたときは嬉しく、ここが聖書の魅力でもあるのだが…。
 
上のほうで「理解できた」と言っておきながら、理解できない」と言い、「理解できたときは嬉しく」と世辞を添えているのが、楽山の、何とも言えない気色悪さなのです。
 
楽山には、理路も共感もありません。反省も責任感もありません。ゆえに理解などあり得ないのです。だまされないでください。無反省で罪悪感のない楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。サイコパス精神病質と同様です。
 
「ここが聖書の魅力でもあるのだが」・・楽山の嘘です。反キリストの病質者は、まともに考えることも感じることも出来ません。聖書の魅力など分かるはずはないのです。騙すための褒め言葉は、楽山の常習であります。自己顕示欲のために、反キリストが卑怯な知恵だけ身に着けているのです。
 
 
 
 「第十六講 ゾパル再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年04月10日 楽山日記(LD)
 
 
飛び飛びに聖書を読んでいることが分かります。伝えようという意志がない我欲からなので、けなしたい箇所が優先されるのでしょう。じっくり考えることも冷静に計画を立てることもないのが楽山です。楽山は、自ら、自身の悪性を表してゆくのです。
 
 
「第十六講 ゾパル再び語る」を読了したので、その内容と感想をメモしておきたい。
第二十章の研究。
ヨブ記は十九章で完結とすべきところではあるが、さらに「二十三箇章」が続いている。聖書ではこのような例が他にもある。イザヤ書では五十三章で「光明の絶頂に達」するが六十六章まであり、ヨハネによる福音書では十七章で「絶頂」となるがそこでは終わらないなど。
 
何様のつもりで楽山は「ヨブ記は十九章で完結とすべき」などと著者の口を利用して言えるのでしょう。極めて安易な気持ちでしか読んでいることが明らかです。理解ではなく、言葉面だけを求める姿勢です。自分の都合でしか聖書も他の本も読んではいないと思います。
 
大事なことが何も分かっていない楽山は、分からないと遠慮する態度を持ちません。これが、楽山の学者気取りです。余計なお世話だけして、求められてもいないのに出てきます。しかし、いつも、こんなことまで知ってるんだ!と言いたいだけなのです。信仰の響きがなく、婉曲の悪口を言うだけです。
 
恐らく、最後の、神が出てきて、ヨブが悔い改める最終章へのストーリーなどは、あとで書かれたものだと言いたいのでしょう。だから何なのでしょう。信仰を求める人は、聖書が何を伝えているかを求めるのです。大昔の事実など、それにこだわる楽山など、どこにも必要とされることはないのです。
 
楽山は、事実性に、いちゃもんをつけてきます。そして、史実か否かにこだわり楽山の幼稚すぎる机上の辻褄をもって、合わないから神はいない!キリスト教は嘘っぱちだ!と言いたいのです。真実を求めて、得られると感動する、という正常人の心がありません。
 
それが、楽山のベースにあるところの、自らの不遇に対する怨念なのです。毎回、それだけが、明らかになります。もはや、楽山の読書は、節操も弁えもなく噛みついてくる狐か狸の類でしょう。ゆえに、人の話を無視し続けて、逃げ隠れして、平気でいられるのです。
 
最初から、楽山がキリスト教について書くのは、謀略だということです。だから、信仰の欠片もなく、偽善でいっぱいの楽山に、耳を貸してはいけないのです。伝染性があるので、楽山は、疫病です。罹ると、知性と感性が愚鈍になり、ついには、人格が破壊されてゆくでしょう。
 
 
ヨブ記が十九章で終わらない理由は、愛を学ぶ必要があるためである。ヨブは「信仰による勝利」は得た。しかしこれは「愛による勝利ではない。故にこれは最上の勝利ではない」。ヨブは「愛を以て友を赦し得るに至らねばならぬ」。
「我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って――すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。信仰よりも希望よりも最も大なるものは愛である」。
 
上のほうに書いたように、内村鑑三の真意は、私には、はっきりとは分かりません。しかし、分からないと言えない楽山は、餌を見つけた野良犬のように、「愛」を含む引用をして、これでええじゃろ・・とばかり、独り満悦しているのです。こういう気取りが、楽山の言には満載です。
 
楽山は、自分の言葉で書くと理路にならないために、引用が多くなってきました。引用だけという感じでもあります。なお、本の一部を選択して引用するという行為は、偏った刷り込みをするときの詭弁であります。そして、引用した責任を負わない楽山は、全くの無責任なのです。
 
 
本講の一つの勝利で終わりではなく、その先があるという考え方は、仏教でいうところの悟りを得てからの悟後の修行、上下菩提下化衆生、さらには釈尊の大悟の後の梵天勧請などを連想させるところがある。
 
何かを得て、さらに、学習する、という当たり前の態度が、楽山にはありません。楽山は、仏教の知識を見せびらかしたいから言っているだけでしょう。キリスト教と仏教、似たところもあるけれど、同じ宗教ではありません。楽山の粗忽(そこつ)の極みであります。
 
 
こうしてみると、巷でも言われるとおりに、キリスト教と仏教は異なる宗教ではあるが重なるところはあるようだ。
 
楽山には、何を語る資格もありません。楽山は、少なくともキリスト教を、全く理解していないからです。誰も関わらないでください。自己顕示欲だけの楽山は、無反省、無責任、無神経、無理解、訂正不能、罪悪感欠如の、自己愛性人格障害そしてサイコパスです。
 
 
万教帰一的な考え方によっても、どちらも人によるものであると唯物的に考えても、キリスト教と仏教に似たところがあっても当然ではあるが、それでもやっぱり異なる時代、場所、人の間で共通のものが発生したとすれば不思議である。
 
(ネットより)
万教帰一(ばんきょうきいつ)とは、すべての宗教は一つに帰するという概念である。主に新宗教で使われる。
ウィキペディア
 
楽山は、言葉だけ、なじみのない学問や宗教の言葉を説明なしに多用します。インテリ気取りからでしょうが、今となっては、説明しないで専門家を気取って自慢したい気色の悪さだけということになります。しかも、理路を説明せず、結論だけを書いて利用するのです。万教未明の楽山です。
 
「人の間で共通のものが発生したとすれば不思議である」・・何が不思議なのでしょう。世の中は、楽山の理屈で動いているわけではありません。楽山は、人も、神も、自分も、見ないで書いてくる厚顔無恥の荒らしとして、求道者を混乱させ、信仰者の平安を荒らしてくる者です。
 
言ってることが、ことごとく、詭弁であり、ゆえに、そのまま不祥事となってゆく楽山です。どうか、楽山と同類にならないために、精神衛生のために、決して、関わらないでください、相手にしないでください、近づかないでください。
 
 
光から逃げる者

光から逃げる者
 
 
(2021年04月11日)
(2022年04月16日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  夜明けのオートバイ
 
初夏の夜明けは早い
深夜眠れない男が
いそいそと仕度を始めるのは
たかだか二時間の旅
夜明けの前から後までの時を
旅立とうとしている
今日が始まる前に
求めるために?
逃げるために?
旅立たないではいられない
途中で眠くなって
永遠に帰って来ないかもしれない
愚か者は小さなオートバイに乗って
飛行機にでもなった気分
暁の中を
赤い逆光の中を
ヘルメット姿の影になって
横切ってみたい
最後の記憶の
最後の縁を
見て
確かめて
打ち砕いて
飛び去ったと 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省するどころか、ずうっと、中立を装って、読者を欺いてきたのが、楽山です。根は、サイコパス(反社会性人格障害、精神病質)だと判断しています。「難しい」「人間の性」で済ませて、「恥ずかしながら、自分もそんな風」ならば、いかなる発言も、するべきではない人です。
 
 
 
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