ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年05月

 
  善悪3
 
 
何が正しくて、何が間違っているかなど、善悪の厳密な結論は、風さえも支配されるところの全能の神ならば分かるでしょうが、風を追うような私たちに分かるはずはないのです。
 
 (伝道の書、口語訳)1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
 (伝道の書1:17、旧約聖書)
 
私たちは、ただ、懸命に考え、判断して、実行し、反省して、それを神様に正直に捧げる祈りの時を知っているだけなのです。
 
正しいか間違っているか、すなわち正邪というのは、風を追えない私たち人間にとって、判断に過ぎないのであって、そこに、信仰があるから云々とか、神の御心は云々とか、私たちが言葉を並べてみても不完全で、高が知れていると弁えるべきでしょう。
 
私たち信仰者が、何を人に伝えられるかと言えば、福音伝道と言いますから、聖書を読み、神の寛容のもとで、キリストの共感と慈愛の同伴により、正直に祈ることによって、反省し成長する道を与えられたことに他なりません。
 
与えられているということは、否(いな)みようもないことですから、その通り、与えられたと言うしかありません。それが福音なのです。聖書におけるキリストからの共感に、キリストへの共感を持つようになった人が、キリスト者になります。
 
しかしながら、聖書の話や信仰の恵みについて、神がどうであるとかいったことは、私たちも多くを知らないのであって、この地上では分からないこととして求道者と共有と共感を目指すべきであって、まちがっても知らない者に教えるという態度になってはいけません。
 
共感と共有だけが、人としての立場を弁えて目指せる目標であります。つまり、福音伝道は、自他という人が主語であります。人に共感の可能性を伝えるのであります。
 
神の導きと言えば、どのように?、神とはと言えば、どういう存在?、キリストはと言えば、どのように同伴?、という難題になりますが、自分という人間が、束縛された心から解放されたという話なら、信仰者は話が出来るでしょう。
 
受けたことを伝える、この立場を守るならば、たとえ邪悪なカルトが、私たちの完全ではないことを罵(ののし)ってきたとしても、知らないことは知らないと言えるでしょうし、受けたことは受けたと言えるでしょう。
 
良心を持たない思い込みカルトの類は、実に思い上がっていて哀れむように見せかけて、軽蔑や嘲笑いを向けてくるでしょう。そんなとき、"主を誇る" などと言ってもカルトには通じないでしょう。カルトに何を言っても無駄です。
 
信仰において気づいたこと、即ち、神という絶対者を仰ぎ、キリストという救い主を好きになり、キリストの共感と同伴を祈り願って、その大いなる存在に比べて低く弱く小さい存在であることの幸いを知ったのなら、その自覚が多くの束縛からの解放だったことを改めて自らも知ることになるでしょう。
 
余計な負けず嫌いや自尊過大がなければ、然(しか)りは然り、否(いな)は否と言えるでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:37
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
 (マタイ5:37、新約聖書)
 
そういうことをカルトは全く理解できないが、へりくだって真実を求める求道者の中には、共感が芽生えることがあるかもしれません。そうやって自分もキリスト者になったことを新たに自覚する機会にもなるのです。
 
そのようにして、信仰者と求道者双方に恵みは続き、学習は続き、成長は続き、福音は宣べ伝えられてゆくのです。善悪および正邪は、人にとって、その時の良心の判断に過ぎません。良心に基づいて行動しますが、絶対ではありません。
 
しかし、神の前に努めて正直であることは、人間に出来る唯一の "神を愛すること" であり、神に救われる必要十分条件なのです。ゆえに、正直な祈りに努めることは、神に対して人間が出来る "唯一の正しいと言えること" なのです。
 
正直な祈り以上の良きものを、人が神に捧げることは出来ないのです。決定的な優先順位を、人の不完全性と罪深さにとって不可知な善悪や正邪ではなく、正直な祈りに置くのがキリスト信仰であります。善と正義に励んでも、その影響を果てまで追うことは、人間には出来ないからです。
 
正直な祈りを捧げる心は、絶対正義の善行にはならなくても、反省と成長が可能となり、悪意と悪行からは遠ざかる生き方になるです。つまり、神の前に、正しく善となることをもって救われるという信仰は人間には成り立たず、正義と善への方向は、ただ正直な信仰の結果として表れることです。
 
そのようにして、凶悪な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)やサイコパスの嘘や詭弁の偽善の罠にも、騙されることなく、近づくことなく、不完全で不十分であっても、温もりと潤いのある豊かな良心を持つ人間性へと、育(はぐく)まれてゆくのが信仰の道です。
 
何故なら、聖書より、神は、いつも、罪に対する寛容をもって、正直な祈りを待っておられるからです。善が先でもなく、正義が先でもなく、それら、人間には重すぎる義務や戒律の負荷ではなく、人間なら誰にでも可能で、かつ、間違えても訂正可能で成長可能なのが、正直な祈りの信仰なのです。
 
 
善悪 正直

善悪 正直
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月26日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びのほうを
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
 
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
  言質
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  気分
 
いつから厭(いや)になった
世捨て人の気分でも
この世のお世話になって生きている
世俗を離れた気分でも
俗は欲と一緒についてまわる
いつから嫌(いや)になった
勝つことができなくなって
自分自身にさえ負けてばかりだから
惜しみなく勝ちは譲る気分でも
勝ち負けそのものが分からなくなった
いつから柔(やわ)になった
善し悪しも弁(わきま)えず
まさに今そういう気分
いつから今になった
ずっと気分だよ
今以外に何かあったか
 
 
  失楽園
 
緑児(みどりご)は自ら進んで
血糊(ちのり)を見せることはない
大人はときに血糊を
見せざるを得なかったり
見て欲しくなったりする
失楽園
善かれ悪しかれ
知恵をつけた結果である
生きて楽園へ戻る道は
もはや何処にもないが
心有る人々には
姿なき幼児(おさなご)が
ときおり問いかけてくる
あなたはだれ?
なにしているの?
楽園の住人に問われても
楽園を追われ
忘れてしまった大人たちは
それゆえそのとき
むしろ悩んだり悔いたりする
血糊が減ることはないのである
一方で人々はしばしば
血糊に因縁話を付け加えながら
地上の楽園を探し求めて
赤児(あかご)を自慢の腕に抱き
善かれ悪しかれ
やがて知恵を吹き込んでゆく
いずれにせよ
血糊が減ることはないのである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省、修正、学習、というプロセスを通らずに、自分は自分、人それぞれ、自分を貫く、といったことを、その範囲も是非も考えないまま続けると、人間は成長しなくなります。理路は小学生、感受性は鈍く、知識は都合のよいことばかりを集めて、いったい、どういう大人になったつもりなのでしょう。
 
 
 
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  楽山の児戯性2
 
 『竒談の時代』百目鬼恭三郎著 2020年05月16日
 楽山日記(LD)への批判記事を再録+
 
 
楽山は、今までの心霊や超常の話を、子供じみた空想話を出して、ごまかそうとしています。見苦しい言い訳ですが、楽山は、それで済むと思ってしまう人なのでしょう。恥とか罪とかを知る正常な心が無いからでしょうか。
 
 
本書は日本の古い書物にある不思議な話を分類、整理、紹介したものである。頁を繰ってみると、死後の世界や生まれ変わりについての項目があったので、とりあえずその部分だけ読んでみたのではあるが、どうも結論としては、著者の書きぶりからゆくと、それらはみな事実であるというよりも、生きている人々の作り話ということになりそうだ。こういってしまうと何やら身もふたもない話だが、どうもそれが現実であるらしい。
 
まわりくどい筆致です。「古い書物にある不思議な話」について「作り話ということになりそうだ」と書くことで、宗教一般を否定したいのでしょう。しかし、前の記事で、生まれ変わりを信じることができれば便利などと言ったのは、フィクションから何も学べない、「身もふたもない」楽山です。
 
つまり、楽山は、超常が大好きで、日常が大嫌いなのでしょう。霊が分かるっぽい?立場から、たくさんの記事を書いてきたのも楽山です。宗教と信仰を、超常現象でしか考えられず、かつ、そこから学ぶ教訓もない楽山は、勉強嫌いの怠け者と言うしかないのです。
 
心理学の「心の理論」という話を、霊の話にしたのも楽山です。心理学は、心理について語るのであって、霊について語りません。奇跡について、行き詰まりの循環論法を書いておきながら、分かったかのような筆致を捏造して、成り立たないデタラメを、もっともらしく見せていたのも楽山です。
 
楽山の話こそ、「身もふたもない」デタラメなのです。こういう人に、宗教とは何か、真実とは何か、などについて、決して、議論しようなどと、思ってはいけません。混乱し、思考と感性が鈍くなり、果ては、人格が破壊されるでしょう。どうか、関わらないでください。
 
(ネットより)
身(み)も蓋(ふた)もな・い の解説
言葉が露骨すぎて、潤いも含みもない。にべもない。「そう言っては―・い」
 
幼稚な超常の空想で、キリスト教とキリスト信仰を、否定したり、深く信じないほうがよい、などという、わけのわからない信じ方に、おとしめようとするのが、楽山です。楽山は、宗教を信じないのもよくないが信じ過ぎるのもよくないと言って、何の方向も示せない言論のクズです。
 
自分が間違っていたことを認めて修正・訂正するのではなく、くどくど言うだけで、何も実のあることが書けないのは、その場その場で、理解も努力もせず、自分の都合の良いように、ねじ曲げて否定するだけで、いい加減に書いてきた、いちゃもん屋だということを表しています。
 
 
まず死後の世界の話については、その形成過程をみると、人々の疑問に答える形で拡充されて行っており、はじめの嘘を正当化するために、後から話をつけ足していっているようだし、生まれ変わりについては眼前の不条理を我慢し、やりすごすために、前世の因業という話をこしらえ、それが広まったということのようだ。
 
「はじめの嘘を正当化するために、後から話をつけ足していっている」のは、それこそ、前からの、楽山の筆致、というより、楽山の、日常的な、詭弁の営みのようなものです。もちろん、ペテンの営みです。このように、自分の書いたことに、楽山は斬られ続けているのです。
 
今ここで、戒める側にいるかのように言っていることは、楽山が、まとまった思想を持たず、いい加減な人物で、平気で嘘を吐き、その誤りを認めて反省~謝罪~訂正することなく、別のことや、逆のことを、また平気で言うような、空想と思い付きだけの人であることを表しているのです。
 
自らの不全や欠陥を他者のせいにして、自分はそれを指摘しているかのような書き方をすること自体が、楽山という人が、言論というものについて、非を認めることのできない自己中の卑怯者であり、自己顕示欲だけがあって、無反省であり、信頼できない人であることを逆に表しているのです。
 
 
こうしてみると不思議な話は信じ込むのでなく、自分の生活をよくするための方便として聞くか、エンターテイメントとして割り切るのが無難のようだ。
 
言ってみれば、楽山は、ずっと、人を惑わし、だますことを、エンターテインメント(娯楽)としているのです。そして、楽山には、身勝手で、邪悪な、ふざけたライアーゲームの娯楽しか生き甲斐がないのでしょう。関わる者にとっては、大迷惑であり、下手をすると犯罪に結びつくものです。
 
今まで、学者気取りで、批評家気取りで、楽山の書いてきたことを、今さら、エンターテインメントだと言えば、それはそのまま、楽山は、遊びで、キリスト教とキリスト信仰をけなし、遊びで宗教や心霊について、ねちねち書いてくる変態だということです。思想の芯となるものが何もないのです。
 
 
ちなみに余談ながら、自分の周囲にも前世を記憶する子供たちのようなエピソードはある。あくまでも知人の話ではあるが、彼は幼かった頃、生まれる前のことを知っていると言っていて、両親からそんなことがあるわけがないと笑われると、決まってこう答えたそうだ。
「ぼく、お母さんのお腹の中にいるとき、おへそから外を見てたんだもん。だから、みんな知ってるんだもん」
彼は今はもう幼かった頃の自分がそんな荒唐無稽なことを言っていたことはすっかり忘れてしまっているのだが、両親はいまだにこれを笑いの種にするので閉口しているとのことである。
 
楽山の幼児期のことでしょうか。のちに親から聞いた話みたいなことでしょうか。それで、楽山は、ずっと、自分は特別だ、霊の世界が分かるんだ、と思うようになったのでしょうか。
「心の理論」で、仏様の気持ちが分かるっぽい自覚を語っていた楽山です。安易に超常に感情移入する傾向があるのでしょう。
 
楽山が、このように書くのは、まるで真剣味がなく、今まで書いてきたことなんか、オチャラケですよ、・・と言っているようなものであり、そのことは、楽山が、いかに、お気楽に、嘘を吐く人であるかを表すことになるのです。
 
ふつう、そういう人は、叱られて、書くことを禁止されるか、恥ずかしくて自ら控えるものですが、楽山には、その気がなく、何とか、冗談として乗り切れると考えているわけだから、あきれます。つまり、楽山は、言論者たる資格と節操を何も持っていない自己愛だけの人です。
 
つまり、楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だということです。惑わされないためには、近づかないようにするしかない、という結論になるでしょう。楽山は、嘘を吐いても、罪悪感も羞恥心も感じない人です。
 
 
想像するに、こういうことは子供なりのユーモアで言っていたことであろうし、それならば生まれ変わりがどうこうと真面目に受け取る必要もなく、このご両親のように朗らかに笑って楽しむくらいが丁度いいのだろうと思う。
 
楽山は、ユーモアだから、笑って楽しむのがいいと言っています。子供の話ならば、それでいいのでしょう。楽山は、子供でしょうか。いいえ、楽山は、大人として、実に長い間、宗教や心霊や超常のことを書いてきました。そして、宗教と信仰は、笑って楽しむ娯楽ではありません。
 
楽山は、真剣味もなく、霊や超常のことを話して、否定も反省も訂正もしていないということです。オカルト趣味、ホラー好み、そして、宗教を、魔法の世界としてしか語ってこなかった楽山の、小学校レベルの興味に付き合うことだけは、どうか、しないでください。
 
すでに、うんざりするくらい、読書家気取りで、本の、都合の良い文言を引用して、大きなテーマについて、空想~妄想話を書いてきて、今さら、「子供なりのユーモア」の話と言っても、嘘と詭弁で逃げようとすることによって、ますます、楽山の醜い悪意が明らかになってゆきます。
 
楽山は、底知れない悪意と企みの人、反省せず、学習せず、成長しない人、そして、病識のない異常人格です。批判目的以外では、関わってはいけない人だと思います。勉強嫌いの意地の悪い子供が、そのまま大人になっているようなものです。
 
 
独り芝居3

独り芝居
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月25日、再録+加筆)
 
 
 
  しみる夜
 
ぬるい夜
ぬるい湯に
爛れるばかりの
阿片の夢に
流れ出しては崩れていく
この顔を直接
一生見ることはない至福よ
何のために
どのようにあり
あるいはあったのか
過去は現存しない
死んだ果実の名残を求めて
臆病な浸出が
皮肉な川を渡り
また一つ色褪せて
薄くなった肌をなぞっては
しみる
痛みから
否応もなく
犠牲になって
消えてゆく
それが現存する
唯一の夜
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる

眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 なく
 
 
  青年と老人
 
公園のベンチに
青年と老人が並んで座っていました
声にならない独り言が
ときおり二人の唇を細かく動かしていました
 
青年は寂しさを知らない
寂しくないことを知らないから
たのしい人になる
たのしい人になる
老人は苦しさを知らない
苦しくないことを知らないから
しあわせの人になる
しあわせの人になる
紙袋がすうっと飛んできて
不意に舞い上がって
また飛んでいきました
青年は風を見ない
老人は風を忘れた
二人とも目の前にあるゴミ箱の
ゴミを燃やしてくれる人を待っていました
二人の間に座っているはずの男を
いつまでも待っているのでした
 
二人とも
ベンチを壊して
カゼになれ
カゼになれ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
一種も二種もなく、反省しないのは、人間の性ではなく、人間性の欠陥です。誰でもそうでしょ・・みたいな書き方に騙されないでください。自己正当化の詭弁を、いろいろ書いてきた楽山ですが、一つとして成り立ったことはありません。持つべき病識もないのは、質量のない人格とも言えそうです。
 
 
 
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  楽山の形骸
 
 『神秘形而上学入門』平一著
 2022年05月22日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
楽山の知識が、実質のないもので、経験の切実さもなく、ことごとく形骸に過ぎないことが表れています。にもかかわらず、楽山は、それで、宗教を信じないと結論し、かつ、それを公開して、人に影響を与えようとするのです。全て、短絡した熟語の概念という安物ですから、真に受けないでください。
 
 
*難解
『心經入門』を読み、同著者の書籍は他にも持っていたはずだと思って家の中を探したら、やっぱりあった。さっそく読んでみたが、予想通り自分には難解である…。
*懐かしい
でも、どこか懐かしい響きの言葉もある。例えばこんな言葉だ。
神と言うと、人間肉体のような形状を持ったものと思われるかもしれませんが、神は形状を持ちません。
神とは、無形の意識体なのです。
(『神秘形而上学入門』平一著、ブイツーソリューション、2016年、p.54)
 」
 
「神は形状を持ちません」「神とは、無形の意識体」・・このような言葉が、楽山は好きなようですが、これらが表現しているのは神ではなく、神を、人は、完全には知りえないということです。楽山は、短絡思考で、熟語をもって、ボンヤリと概念を形成して、分かったことにしているだけです。
 
こういう、文学風味の概念的熟語や言いかえで、満悦する楽山の無明の宗教性に、決して巻き込まれてはいけません。楽山は、何も分かっていません。楽山は、無理解なのに、無反省に、無責任に、詭弁によって語れると思っているのです。
 
信仰を受け取る良心がない、即ち、聖書にある"土の器"を持っていない楽山です。楽山は、宗教にも、信仰にも、神にも、何の関係もありません。楽山の言は、どこにも何も響くことがなく、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、概念遊びに終始しているのです。
 
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:6
「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 
 (2コリント4:6-7、新約聖書)
 
神の与える光は、私たちの心が、特に良心が、反応し得る幸いなのですが、私たちが持っているのは、ピカピカの金の器ではなく、地味な"土の器"であります。直ちに全てが顕れて分かるわけではなく、分かる時は、神に任されています。
 
 
人は、神の分光ですから、神へと戻ることができます。
人は、神にもなれる存在です。
(同上、p.69)
 」
我々も未完ですが、神も部分的に未完なのです。
未完であるから、我々も神も成長、拡大し得るわけです。
(同上、p.195)
 」
これらは若い頃に読んだ宗教書にも書いてあったことだけども、多分こちらが本家なのだろうな。
 
人が「神の分光」「神にもなれる存在」などというのは、楽山が好みそうな話であり、楽山の霊能者気取りを増幅させるでしょう。道徳も倫理も、反省も責任も、何も考えない楽山は、霊能によって、一気に、人間を超える特別な存在になりたがります。そのことが、楽山のインチキを際立たせるでしょう。
 
 
*無宗教の理由
ふと思ったのだが、自分は特定の宗教を信じることはできず、無宗教なのは上のような思想の影響があるかもしれない。こういう思想からは、形のある特定の教祖、教団、教義を信仰しようという発想は生まれ難いだろうから。
 
楽山の発言の信頼度は、3年前からゼロです。超常の言葉に囚われている楽山ですから、教祖願望があると思います。否定も肯定もしない曖昧教理の、何も良いものをもたらさない、とても無責任な、楽山だけが気取っていられる妄想の世界です。
 
 
ということは、どうやらこういう自分には一生、形あるものや言葉にできるものを神として信仰することはできなそうである。
 
楽山には、宗教も信仰も、形あるものも無いものも、言葉に出来るものも出来ないものも、理解することはないと思います。概念遊びだけで、信仰に至ることは、ありえないからです。楽山は、概念のオモチャ箱を漁(あさ)っているだけなのです。だから、引用する文献も、楽山にはオモチャに過ぎません。
 
 
オモチャの世界で遊ぶ概念の形骸

オモチャの世界で遊ぶ 概念の形骸
 
 
(2022年05月24日)
 
 
 
  遺訓
 
「わかったか」
といってまだ何も言ってはいないのである
「わかったか」
説教ひとつしてはいないのである
少年はパソコンに向かったまま
「ええ?何を?
大事なメール書いてるとこなんだ
部屋帰って寝たら?体弱いんだし」
老人の頭には鉢巻(はちまき)
目は充血して
手には玩具(おもちゃ)の刀
「わかったかと聞いておる」
老人の眼は潤(うる)んでおり
唇はふるえており
手も足もふるえて
起立歩行も儘(まま)ならぬ身である
少年は振り向きながら
「んな、っかるわけないだろう?
だいたいじいちゃんには関係ね・・・」
少年は老人を見た
「あ・・・いや、その・・・だ・・・
だいじょぶ・・・かな・・・とか・・・」
あくまで武骨で口下手で
遊びに縁のなかった老人と
トークもジョークもチャットも上手で
とてももてると評判の少年
 
数日後老人は他界した
 
 
  なくしたアルバム
 
少しは懐かしくもあるけれど
格別お名残惜しいわけではない
ともかくも君らが私と別れたのは幸いだった
お互い結局
いいことばかりじゃなかっただろうから
君らが今どこにいるのか知らないが
私よりは多くの陽を浴びているだろう
私は暗いところにいる
といっても気持ちはそれほどでもない
いま会ってもわからないかもしれないけれど
君らの笑顔はぼんやり残っている
それで気分のいいときもあるのだから
起きたいときに起きて
汚れたまま街を徘徊したっていいんだけれど
なかなかそこまで気が進まない
 
私が何をしているかといえば相変わらずで
傷を集めたりしている
かすり傷、細い傷、いろいろだ
傷つきながら夢中になって
君らが丈の高い萱(カヤ)の中を
あんまり急いで走り回るから
あとで血がにじんできて
びっくりして痛がっていた傷とか
けんかしたり転んだりして
君らが遊んでつくったアザとか
私の目に
はっきり写らなかったものを集めている
そして並べてみて
くすっと笑うことだってある
君らが川や海辺や山にいても
路地や工場の跡や
お化け屋敷にいても
泥んこや田んぼとだって友達で
君らの声がきらきら輝いて
何を言っているのかさっぱりわからなくて
みんな名付けようもなくひとつだった
 
若者になって並んでいた君らはもう
埃(ほこり)を被(かぶ)った私には
ぼんやりしていて
虹の向こうでかすかに微笑んでいるんだ
あの頃は
と君らは言うかもしれないけれど
あの頃いちばん大切だったものは
君らは捨て去るしかなかったこと
私はわかっていた
君らは私と
知らないまま別れるしかなかったことも
 
君らが遊んだ人形や玩具
もう二度と触れることはないと
気づかないまま手を離した瞬間が
スローモーションのように写っているよ
 
君らが私をなくした日のこと
私は覚えている
でも君らは忘れていい
君らは皆、私を卒業していった
私は埃を被ったままでいい
これから先、君らが何か
咎(とが)められることがあったとしても
咎めるのは私の役目ではないのだから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
概念と概念の辻褄だけを作って分かったつもりになる楽山です。同じように、言葉と言葉の、AならばBというような論理めいたことを書いて、人を惑わせ、混乱させ、疲労させて、いい気になっていました。大事な心を失って、的を外しまくっても、まともなつもりで書いてくるのは、悲惨です。
 
人間は、体験を経て成熟して、深い共感の情緒を持つでしょう。私は、なかなか、そこまで至っていません。しかし、発酵も成熟も怠慢と思い込みのために出来ない楽山は、短絡して腐敗するばかりで、自他の情緒を破壊し、耐えがたい悪臭を放ちながら、本人だけが、それに気づかないという始末です。
 
 
 
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  インチキがインチキを語る
 
 2022年05月22日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 イカサマ霊能者とインチキ占い師、それから宗教勧誘の手口
   を批判。
 
 
楽山の嘘がイヌのように盛っています。楽山のインチキが膨らんで破裂しそうです。どこにも、生きる縁のない詭弁や人生が、我を忘れているようです。自分を見ないで、人のことばかり言っていると、こうなります。生きることが、全部、芝居になるのです。楽山の正義面は、ひょっとこです。嘘なのです。
 
 
*裏事情
 ツイッターにて、次のブログ記事が話題になっていた。
・イカサマ霊能師やインチキ占い師の手口まとめ - A Successful Failure
 」
 これが、霊視、占いの現実なのだろうな。
 
インチキは、楽山の現実として、批判記事が3年余り続いています。嘘と詭弁を弄して、痛めつけてくるので、決して、楽山に関わらないようにしてください。
 
 
*可能性
当該記事のコメント欄では、可能性の話が出ていた。
半信半疑
世の中の「自称」霊能者の大半がインチキだろうなというのは推測がつきます。
だからといって、霊や死後の世界など存在しない。
そういうものを知覚できる能力がある人間も居るはずがない。
霊能者など漏れなく100%インチキである。
と、そう断定するのも、盲目的に超常現象を信じ込むのと同じぐらい客観的な態度ではないと思うのです。 ~省略~
 」
 
インチキ霊能者は、楽山です。楽山は、仏様が喜んでいると言って親族に笑われました。嘘と詭弁で、心理学を心霊の話に見せかけました。批判したら、オモチャの理屈で混乱させてきます。長く付き合うと、人格を破壊される恐れがあります。そのような、害毒だけの伝染性病原が楽山です。
 
 
LM-7
天と地ほどの違いがあると思いますが。
たとえば、コインを投げて100回連続して表が出る可能性は確かに存在します。
それを「100回連続して表が出ることなどあり得ない」と主張することが
問題を引き起こすことがあるでしょうか。
単に可能性が小さい事象を無視しただけのことで、これは理に適ったやり方です。
 」
 
楽山は、宗教と信仰についても、このような辻褄の話をして、ときには、印象操作という詭弁を弄して、自分の恣意の方向に誘導してきます。「100回連続して表が出ることなどあり得ない」という命題は、厳密には間違っていることによって、問題を引き起こすかどうかは、場合によって違うはずです。
 
「問題を引き起こすことがあるでしょうか」と言い、数学なのか、賭け事なのか、遊びなのかについて、考慮していないので、「単に可能性が小さい事象を無視しただけのこと」と軽く言って、これは「理に適ったやり方」と言っています。楽山は、この引用をペテンの手口にするのでしょうか。
 
厳密性が、どの程度、問われているかを考慮せず、「理にかなった」とは、ぞんざいな判断です。こういう意見に賛同する楽山は、恐らく、小さい可能性を無視しやすいだろうと思います。これが、楽山の短絡しやすい理路なのです。厳密性を飛ばして、概念の玩具遊びで結論を出しています。
 
実際には、楽山は、大きな可能性だけでなく、実際に、起こり続けている自らの短絡理路の欠陥や、嘘と詭弁で人を迷路に誘導した害悪について、反省せず、全てを無視してきました。言い訳に出してきたこの記事によって、逆に、過去から続いている悪意の不祥事が、楽山の尻に貼りついてゆくのです。
 
このコインの場合は、100回続けて表が出る、という極端な事象ですが、こういう極端な例を挙げて、あり得ない・・を理にかなったと判断したとして、この、おおまかに成り立つ命題を個別のことに当てはめるのは、楽山の詭弁で、しばしば見られてきた特徴です。
 
以前「人それぞれ」だからと自己正当化し、「自分を貫く」のだから悪くないとか、詭弁を書いていました。曖昧な一般則を個別に当てはめたり、限られた個別を一般則のように言う詭弁には、良識が欠けています。楽山は、自らの無責任を無視し、反応も成長もない永久凍土にいるのです。
 
 
「たとえば
「さっきやってみたら100回連続して表が出た」と主張する者がいたとして、
-そんなことは確率上ほぼ起こりえないから嘘に違いないと判断することと、
-確率上は確かに存在するから本当かも知れないと判断すること、
-おお、すばらしい超能力者に違いないと盲目的に信じ込むこと、
一つ目と三つ目が同レベルとはとても思えません。  ~省略~ 
 」
これは、LM-7氏に理がある。超能力者がいるかいないかの可能性は半々ではなくて、いない可能性の方が圧倒的に高いので。
 
判断の正確さのレベルを、嘘吐きで詭弁屋の楽山が決めるのは、我が身を振り返ることの出来ない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の因業でしょう。こういうところから、楽山の詭弁が始まっていると思います。
 
「同レベルとは思えません」・・嘘、本当かも、超能力、という3つの判断、・・楽山の詭弁には、こういう罠が含まれています。「ほぼ起こりえない」と「嘘に違いない」は、人間関係においては微妙になるのですが、嘘吐きの楽山は、間違いない・・という意識から、決めつけてきます。
 
 
*詭弁
ちなみに、こういう間違いは、他の議論でもある。たとえば、こんな風に。
神はいるかいないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
霊界はあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
生まれ変わりはあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
 
神は、確率の問題にはなりません。信仰は、関係の問題であり、有るか無いかなのです。楽山のような、良心の欠片もない者が、神の存在を、可能性が半々という自体が暴論そのものです。楽山のような反キリストには神はいないのです。信仰者には神が必要だから信じているのです。
 
 
冷静に考えてみれば、これらについては歴史上その存在が証明されたことはなく、事実ではない可能性の方が圧倒的に高いのだけれども、
 
「事実ではない可能性の方が圧倒的に高い」・・楽山の悪意の誘導です。何度も、神は信仰の対象であり、神を事実では証明できないことや、神がいないことの何の根拠にもならないことを書いてきましたが、全て無視する楽山のサイコパス性が表れています。良心がないのです。イカサマだけなのです。
 
 
「あるかないか、答えは二つに一つ」と前置きされると、つい「あるかないか、可能性は半々だ」と錯覚してしまいがちである。
宗教勧誘では、こういう詭弁が使われることがあるので注意が必要である。
 
こういう詭弁で、楽山は、神を否定して優位に立ったつもりの反キリストです。出会わないのが何よりの幸いで、出会ってしまったら、できるだけ早く逃げるしかないです。サディストであり、良心の欠片もないのでしょう。楽山には、門口に待っているものがいるようです。
 
 (創世記、口語訳)
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世4:7、旧約聖書)
 
 
神は、確率で存在の可能性を論じられる対象ではありません。よいものを何も示せないのに、神に恨みでもあるのか、神否定を書き続ける楽山は、確信犯で凶悪犯です。この先、救いとは何の関係もなく凶悪に相応しい経過を辿るのでしょう。信仰者と求道者を、どこまでも傷つける悪魔性です。
 
信仰者にとって信仰は命です。楽山の遊び半分の心霊趣味で語れることは何もありません。楽山の霊能者気取りや評論家気取りや、心霊や超常は、著しい的外れです。楽山は、一生、詭弁臭とペテン臭が取れないのではないかと思います。
 
神とキリスト教のことを、楽山が書くたびに、学習機能のないことが明らかになります。相変わらず、貧相な概念しか持っておらず、楽山の辻褄が合っても合わなくても、信仰とは何の関係もないことだけを確認することになります。楽山の、無知と無理解と、書き続ける無恥とに、うんざりするだけです。
 
楽山の気持ちが、超常~空想に行って、扱う次元が曖昧になり、言葉だけの引用をすることで、思考自体が迷路化して混乱し、前提も根拠もなく、思いついたままに書いています。楽山を読んで、楽山とともに、精神と文脈が弛緩してゆくのは、錯乱に陥る危険があり、非常に危険です。
 
 
悪意のインチキ

悪意のインチキ
 
 
(2022年05月23日)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
  祈り・永遠の命
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
生きてゆくと、学んだものが身に着いてきます。学ばなかった者は、ごまかしが身に貼りついて剥がせなくなります。楽山の嘘と詭弁は、一生続くのでしょう。臨終のときに、楽山は何を言うでしょう。「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」でしょうか。人間の性ではなく、楽山の性なのです。
 
 
 
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  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して、物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。こんなことが出来るから従え、という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは、神の権威をもって語ったかもしれない。物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
神の前の、正直と本気、それだけが信仰には必要です。キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ所8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という深い信仰の敬虔です。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言って、女性の食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜(へりくだ)るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
一方、私の経験から、これみよがしの偽善者の、言葉だけの敬虔芝居は、実に臭くて醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうな言葉で仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、立派だから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う無神教カルトの得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
正直に反省と学習

正直に反省と学習
 
 
(2020年05月12日)
(2022年05月22日、再録+加筆)
 
 
 
  見つめていたい
 
私の心に慈愛の目があったなら
あなたが私から何を奪っていくのか
静かに見つめていたい
私があなたから奪ったものを
あなたが取り返すのを見ていたい
 
あなたが私を嫌うなら
嫌われた裸のままの心で
どこが傷つくか見つめてみたい
 
あなたは傷つき
私も傷ついた
傷つけることで傷つき
傷つくことでわかるものがあるなら
あなたの心に同期して
傷が示すものを知りたいと思う
 
私がまだ泣けるなら
奪われなかったもののために
泣きたいと思う
 
すべて私が
まだ人間であるなら
あなたの心を癒すよりも
あなたの心を聞きたいと思う
 
耳を澄まして
あなたの傷ついた
あり方を知りたい
私の傷ついた
あり方を知るために
 
そしてゆっくりと
考えてみたい
人間はどのようにして
傷ついていくのかを
 
病める心の
癒えぬ部分の
こだわりに
言葉で上手にあてる
包帯を持たない
私の貧しさを
あなたが許せない分
私が傷つき
年老いていく姿を
今しずかに
見つめていたい
裁かれるときを待ちながら
 
 
  傷ついた犬
 
何か言いたそうな
傷がある
その傷を癒すために
なめつづける舌も傷ついている
それを見る眼も傷ついて
しばしば視線がそれている
うるんだ眼が揺れるたびに
流れる涙こそ傷を示すのに
歪んだ目から涙は見えない
ただどこを見ていいのか 探して
戸惑うように動く眼球
 
親から子へ
傷だけを相続した
兄と弟が
傷だけを共有した
互いに癒すこともできずに
 
傷でできている人間
同じ傷は一つとしてないから
痛みを通り越して
ありとあらゆる
あきらめを
諦めて
砂を受け入れている
あてるガーゼもない
巻く包帯もない
もう出血もしない
 
無数の傷を積み重ねて
人の形ができていて
遊んでいる
さらに傷つきながら
それが命と言いたげに
 
疲れて眠ろうとして
眠れない
粘液が乾いたので
見るに耐えない
傷口の中は暗く冷たそうだ
傷の縁が黒い血痕を残して
乱れている紅色
傷は笑っている
ぽっかり口を開けて
何か言いたげに
 
 
  遠い約束
 
あれは遠い約束
君は待っていたのかもしれない
きれいな人
ひょっとしたら辛かっただろうか
少しは痩せたりもしただろうか
まだ先生と呼ばれていた頃
花嫁募集と冷やかされていた頃だった
癒すために歩く道を
病人を乗せた自転車が
いつか追い越していくこと
恐れていたのかもしれない
折れたハンドル
潰れたタイヤの転倒に
どうしても君を
巻き添えにする気には
なれなかった
許せないなら許さなくていい
春の移り気な光を浴びて
忘れてくれたらと願っている
君が乗り越えるための低い壁
あるいは踏台
君は明日に向かって跳んだと信じている
きれいな人
あの日を償えるものなど何もないけれど
眠れない夜
素直に喜べない四季の移りに
うずくまっている座布団の顔
病み綴る日々の今
それがあの日に返す答だ
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
神を、悲劇が起こっているから、史実ではないから、などと、貧相な辻褄で、いないと語る愚かさは、受け取る器の貧困を、敬虔のない人格の荒廃を、神を恐れない傲慢を、自己中の思い込みから発して、詭弁と嘘を添えて、非人間の迷路へと、けがれた製氷の皿から砕けて落ちてゆく、暗黒の下水道です。
 
 
 
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