ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年07月

 
  楽山メモのあとさき2
 
 『青春詩集 愛のあとさき』大川隆法著
 2021年07月18日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
   を改めて批判。
 
 
こういうのに、感想を書いて見せてくる理由が、よく分かりません。HS批判にはなっていないようです。楽山がアンチHSというのも疑わしいということでしょう。楽山は、自分は詩が苦手ですと言っているようなものです。なのに書いてくるのです。
 
 
*感想
『愛のあとさき』をざっと見たので感想をメモしてみたい。
 
メモと言いながら、いつも、何かを狙って記事もツイッターも書く楽山です。メモだから責任負わないと言っているのでしょうか。ここでは、詩が分かるんですアピールなのでしょうか。でも、詩は、一つも引用されていないのは、批評できないからでしょう。
 
 
本書の中でもっともよいと感じたのは、水晶のようにという作品だった。
前半は孤独な若者の詩、後半はスピリチュアルにハマった若者の詩といった雰囲気である。
 
いや、やはり、霊を絡ませてきました。ORの詩です。それにしても、中身の詩が一つも引用されていないし、楽山の、いい加減な言葉で、感想みたいな、まとまらない内容で、書いて、訴えてくるものが何もない、という変な記事です。楽山はアンチHSではないということでしょう。
 
 
全体的に自己愛、自意識過剰、ナルシズム臭が強い。たとえていえば、役になりきっている舞台役者というより、役を演じる自分に酔っている舞台役者という感じ。
 
そのまま、楽山のことです。人のことを言えば、気が済むのでしょうか。「自己愛」「自意識過剰」「ナルシズム臭」・・楽山に、いつも感じることです。「演じる自分に酔っている舞台役者」・・楽山の三文芝居と符合します。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、このようにして、他者を下に見て、批評することで、誰とも本当の人間関係を築けない欲求不満を解消しているのでしょうか。自分が上だと言いたいのでしょうか。そのとばっちりのように、他者の良心を傷つけてきたのです。
 
 
オノマトペがやたらと目につく。
性愛に関する表現が多い。女性の描き方は、青年らしく女性を理想化してその聖性を賛美するというよりは、処女がどうとか、胸のふくらみがどうとか性愛がらみが多い。
 
なぜ、批判にもならないことを書くのでしょう。対象をおとしたいのでしょうか。楽山が、この2年余りの間に書いたものには、性愛の話は、殆ど、なかったような気がします。対象が、つまらないことを書いていると言いたいのでしょうか。楽山は、不能か、あるいは、欲求不満なのでしょうか。
 
 
預言者と神のちがいについて触れた最後の詩は、説明調になっており、詩というより説法のようだ。
巻末に掲載されている著者の商社マン時代の文章は、「幸福になれない症候群」など初期の文章と同じ文体に思えた。文章としては、最近の講演録よりは、こちらの方が上等だろう。
 
「幸福になれない症候群」というのは、ORの本にあるようですが、楽山に当てはまると思います。無反省で無責任で嘘吐きならば、まともな人間関係は気づけないからです。楽山は、自身をアンチと言いながら、ORを上等と褒めているようです。
 
 
HS本の表紙はすきになれないものが多いが、本書はよいと思う。ただこの表紙は男性著者よりは女性著者の方が合っているのではなかろうか。
以上、本書を読みながら思ったことは大体こんなところである。
*「デザート」と「イチゴの日」
余談ながら、ツイッター上にて、本書の「デザート」は、筒井康隆の「イチゴの日」(『薬菜飯店』収録)と似ているという指摘があったので確認してみたら、本当にその通りだった。
ただし、「イチゴの日」の初出は、『小説すばる(昭和62年冬号)』だったらしい。
「デザート」は、1956年生まれの大川隆法28歳のときに発表(昭和59年)したのであれば、「イチゴの日」よりこちらが先だろう。
筒井康隆が一商社マンの自費出版本を読んだとも思えぬし、とすれば両作品に似たところがあるのは偶然ということのようである。
 
表紙について「本書はよいと思う」と褒めて、批判ではなく賛辞を贈る楽山は、まるでORを擁護しているようです。そうでなければ書く必要のないことでしょう。そもそも、この記事自体を書く必要がどこにあったのでしょうか。また、自己顕示欲で、見栄を張っているだけなのでしょうか。
 
以前、楽山は詩のようなものを書いて載せていたことがあります。お世辞にも上手とは言えませんでした。楽山には、詩作も、詩の感想も無理だと思います。自己顕示欲で書くだけで、詩の心が無いからです。あとさき考えないで、書けば、よく思われるとでも思っているのでしょうか。
 
冒頭の「メモしてみたい」というメモを、なぜ、公開して、人に見せようとするのでしょう。独り言でも自分のは価値があると言いたいのでしょうか。わざわざ書いて公開する楽山は、自分は詩は書けません、読めたものではありません、と言っているようなものです。
 
自己顕示欲が表れている以外、内容の薄い記事でした。他者のことを批評すること自体に、何やら、興味があるようですが、大方、何らかの欲求不満があるのではないかと思います。感想を書く目的と必然と動機が、とても曖昧です。ボンヤリ感想文とでも言うべきでしょうか。
 
批評でも批判でもなく、メモというのは、今まで、書いて自己顕示してきたから、書けないことを認めたくないのかもしれません。その割に、ずっと、理路も共感もないメモ的な文章を、学者や有名人の名前を出して、書いてくるのは、論評している気分に浸りたいのでしょうか。
 
 
本物が書けないと寒い

本物が書けないと寒い
 
 
(2021年)
(2022年07月26日、再録+加筆)
 
 
 
  バザー
 
一人目は
粘液の滴(したた)る
目の粗い袋を持ってきた
ホームレスの
今は亡き人の形見だという
二人目は
汚れたハンカチを
行方知れずの
鬱(うつ)病者の残した物だと
三人目は
机に向かったまま頓死した詩人の
曲がって途切れた線
しか書かれていない原稿用紙を
四人目は
描きかけて破いた絵の切れ端を
五人目は
レンズの割れた眼鏡を
六人目は
底の抜けた柄杓(ひしゃく)を
七人目は・・・
 
バザーは日曜日に催された
セーターや上着
家具に調度品
その他いろいろ
晴れたこともあって
花が咲いたように
家族連れで賑(にぎ)わったという
 
 
 私の学生時代
 
ツタの絡まる校舎で
おんなじように絡まっていた
夢多かりしあの頃の
思い出をたどれば
懐かしい友の顔や
あんまり懐かしくない顔が浮かぶ
重いカバンを抱えて通ったあの道
夏の日の図書館の
ノートとインクとヨダレ
過ぎし日よ私の学生時代
 
 
  蕩けるモチーフ
 
ひらめくことなしには
書けないような気がして・・・
 
新聞に載っている詩を読んで
ほろほろと感動している
 
もともと乏しい詩想が
ますます連想を飛ばせなくなってゆく
探ってみるほどに
神経がROM
リード・オンリー・メモリーの
一方通行になっているような
神経線維が外套を失って ぺったん
チーズのように蕩(とろ)けて
不可算のものになったかのような
ふくらまないイメージ
時々お勉強らしきことは
やってみるのですが・・・
 
でも不可算でいいのかもしれない
不可算なものを作るのだから
それにお勉強と違って
記憶を呼び出すときというのは常に
リード・オンリーではなかろうか・・・
 
私は馬鹿者なので
感性は与えられるものだと思っています
 
 
 
  解脱
 
解脱という言葉がある。
仏教用語である。詳しいことは知らない。
辞書を引くと煩悩を超越して安らかな境地に至ること。
単純にそういう意味として考えてみる。
 
ペテロやパウロを始め使徒・聖徒と呼ばれる人たちも
ひょっとしたら似たような境地にあったかもしれない。
彼らは伝道に生き、欲に生きなかった。
しかし欲が無かったわけではないだろう。
まして死ぬのはやっぱり怖かっただろう。
それでも殉教の覚悟で主の道を彼らが歩んだのは
主イエス・キリストの愛と縁が彼らの恐れに勝ったからであって
それは極めて人間的な反応であったと思われる。
 
彼らは自らの力で自分を越えたのではない。
彼らは自分の裏切りと罪をしばしば思い出した。
そして自分の無力を誰よりも知っていたはずである。
 
全てを悟っているという者に何を告げる唇があろうか
全てを知っているという者に何を聞く耳があろうか
また全てを悟り知っていると言う者が何を教え得るというのか
全てを知っている者がどうして自分以上のものを作り出せ得ようか
自分以下のものを作るのなら全てを知っている必要はあるまい
人の知恵に優れていればできることであろう
 
不全なる人に完全を教えても無駄であろう
教えて全てを知るようになるのなら
どうしてこの世に人が住めようか
もはや何も迷うこともない代わりに
もはや何も考えることもないではないか
 
何故に人は人であるのか
しばしば間違えたり
誘惑に負けて
赤子のように神様に試されてひっくり返り
こぶだらけ、傷だらけの者たちを
神に愛された人と呼ぶ
 
全てを悟り知っている者がいたとしたら
ただそのことだけで満足して
誰にも会わず誰にも語らずにいるであろう
これは煩悩よりも苦悩と罪に満ちた無為であり無である。
何故にこのようなことを私は言うのか
私の中にしばしば
いかがわしい解脱者・超越者への欲を見るからである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「人間の性」と言ってるくらいだから、楽山は、一生涯、反省しないのでしょうね。そうして当たり障りのないことを書いたつもりで、見破られて、当たられ障られ、すり減ってゆくのでしょう。ついには、世の中は、ちょろい人だけじゃないことを知って、泡を吹きながら砂に埋もれてゆくのでしょう。
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  手の付けられない楽山2
 
 神秘体験は経験的方法によって判断すべきこと
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月18日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、批判と反対のことを書けばいいと思っているのでしょうか。楽山の体質は、勘違い→妄想と自己中→しばしば狼狽して相手を妄信者と言う生業です。楽山が言う妄信には根拠がなく、私が楽山のことを自己愛性人格障害NPDと言う精神病質については、根拠を示しています。
 
その根拠を、病識のない楽山は、読解できないために、こちらを妄信と呼んでいるのでしょう。妄信は、自分信仰の楽山のことです。そういうことしか書けない楽山だから、ネットの言論を乱すだけなのです。楽山は、混乱に乗じて、読者に自説を刷り込もうとしているのでしょうか。
 
反省と書いて反省しない、共感と書いて共感を表していない、分かったと書いて詭弁を続ける、"とほほ" と書いておいて、今また、反省もせず、引用元の言葉を自己満悦のために引用~悪用する、否定と思えば肯定、どちらも断定していないからと、一切、責任を負わない、それが、楽山です。
 
神秘体験を主張するのは、一部の人たちでしょう。そこには、楽山のような霊が分かるっぽいなどと言う偽者もいるでしょう。一般化できないことなのに、「経験的方法によって判断」など出来るわけがないのです。書けば書くほど、おかしさが増してくる悪魔性の病質者が楽山です。
 
 
*経験的方法による判断
『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、神秘体験は「天使と蛇」が住まう潜在意識から生じるものであるから無批判に受け入れてよいものではなく、天使と蛇どちらによるものなのかを慎重に判断すべきとしている。
すなわち、「天使と蛇」とがそこには並んで住んでいる。この領域から出て来ているということは絶対に確実な信任状ではない。そこから出て来ているものも、外の感覚世界から来ているものとまったく同じように、ふるい分けられ、吟味され、経験全体との対決という試練を経なければならない。私たち自身が神秘家でないかぎり、神秘主義の価値は、経験的方法によって確かめられなければならないのである。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 」
神秘はこの世の原理では判断できないとするのではなく、経験的方法(科学的合理的な方法?)によって判断でき、確かめなければならないとしているところは興味深いところである。
 
楽山は、狂ったのでしょうか、・・まあ、前からではありますが。神秘体験は「天使と蛇」というのは、まだ、お伽噺でしょう。楽山には天使の要素がなく、蛇の要素または悪魔性だけがある人です。神秘を、「経験的方法(科学的合理的な方法?)」よって確かめるのだそうです。正気ではない。
 
科学的合理的なら、それこそ、とっくに、どこかで議論され、どこかで紹介され、多くの本やTVなどメディアで取り上げられているはずです。誰からも見向きもされない楽山が、我を張るために、確かめられるんじゃ!・・と、孤独な部屋の中で、布団に顔をうずめて叫んでいるイメージです。
 
 
*霊言の真偽についての判断方法
ここで思い出すのは、佐倉哲氏による「霊言の真偽についての判断方法」である。
霊能者は、だれも知ることのできない「死後の世界」とか「霊界」とか「未来の世界」などについてのみ語っていれば、どんなデタラメを語っても、それがウソであることはだれにも証明できません。しかし、霊能者も人間であって、ついつい、地上の世界について喋ってしまうことがあるようです。地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます。幸福の科学の教祖大川隆法さんは、その著『内村鑑三霊示集』のなかで、内村鑑三の霊として、霊界のことだけでなく、つい、地上の世界(イエスの生誕や聖書)についても語られています。そのために、キリスト教の歴史やユダヤ地方の気候や聖書の内容についての無知が暴露し、その霊示のウソがばれてしまっているのです。
・大川隆法の霊示『内村鑑三霊示集』のウソ - 佐倉哲エッセイ集
 」
こうしてみると神秘現象はこの世の原理では分からないとは言い切れず、現実に関連した部分については十分に経験的科学的に判断可能であるといえる。
 
佐倉哲の筆致は楽山によく似ています。楽山の成りすましではないかと疑っています。佐倉哲のプロフィールが、あまりに乏しいのです。そして佐倉哲のサイト以外では、佐倉哲の発言も書かれてさえいないようです。
 
相変わらず、宗教と信仰の問題を、「死後の世界」「霊界」「未来の世界」と同一視しているようです。さらに「キリスト教の歴史やユダヤ地方の気候や聖書の内容についての無知が暴露」されてきたのは、楽山その人であります。しかも、それで、まだ語ろうとするから、病質が重いと判断します。
 
「地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます」ならば、嘘吐きの楽山は、言論者としても霊能者としても全く成り立たない人ということになります。自分が、本に斬られていることに、やはり楽山は気づかないようです。こういうブーメランが楽山の常です。
 
人が知り得るのは、現実に関連した部分に限られるわけです。神秘が結果として人間に表れる部分だけです。詭弁に惑わされないようにしてください。つまり、神秘体験の中心や理路などは、謎のままです。無条件に自分を霊能者だと認めてほしいがゆえの、楽山の、でっちあげです。
 
神秘が本物か偽者かは、神秘が及ぼした地上の人間の有り様からも、ある程度、判断できるということに過ぎないです。つまり現象からの推測に過ぎません。楽山は、無反省、無責任、無神経、無理解の凝固した人物であり、ゆえに、楽山の語る神秘は、ペテンであり、偽物であります。
 
 
霊言を信じる側からは、この世のことを間違ったからと言って、その霊言は偽物だとか、下等なものだとは断定できないという反論もありそうだが、この地上の事実関係ですら間違うのであれば、この地上を遥かに超えた高次元のことを間違わずに語ることができる可能性は低いとみるのが穏当な結論ではあろう。
 
事実関係、理路、節操、共感性、いずれも、楽山は詭弁以外、何も持たない楽山こそが、偽物を語る偽者だということです。自分が掘った穴に落ちてゆく楽山が、当たり前に、表してくる発言から、嘘と詭弁を指摘して、批判してきたのです。
 
つまり「この地上の事実関係」において、間違いというより、故意の悪意の悪魔性の、妄想的自己愛の結論を訂正不能に刷り込もうとしているのが楽山であり、ここでも、ブーメランのダメ出しを食らって、全く整わない楽山が「高次元を」語るに値しないことを表しているのです。
 
 
*信仰の義務はない!?
『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、重ねてこう断言している。
私はもう一度くり返して言う。非神秘主義者が、神秘的状態を、優越した権威を本質的に授与されているものと認めるべき義務はないのである、と。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 」
熱心な宗教信者、神秘主義者のなかには、誰に対しても神秘の権威を主張し、ひたすら信じよ、信じよといって信仰を強要しようとする者もいるが、非神秘主義者にはそれに従わなければならぬ義務はないのである。
 
何を言っているのでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山ですから、楽山こそ神秘主義者です。この記事は、神秘、あるいは、非神秘、どちらを言っているのでしょう。何よりも、愚劣な楽山に対しては、いかなる神秘も霊能も認めることはないのです。決して従ってはいけない対象が楽山です。
 
神秘の権威を、遠回しに、いつも、言っているのは、楽山です。私は、ひたすら信じよ、とは言っていませんし、言っている人が他にいたとしても、楽山は、答えるすべがないのです。楽山は、自らの霊能から自己正当化という神秘?というより矛盾を、この3年余り、振り回してきたのです。
 
 
これは当たり前のことだが、一部の妄信者はこの当たり前のことを理解しないのだから残念である。著者もこういう事例を承知しているから、この種のことを繰り返し書いているのだろう。
 
このように、自分が言われそうなことを、「理解しないのだから残念」と、相手に当てはめる詭弁です。自分は大丈夫という根拠を、ずっと、欠片も証明していないのです。代わりに、嘘と詭弁の卑怯な粘性のゴミをブログという丼いっぱいにネチネチさせて食わそうとしてきたのが、楽山です。
 
一部の自己への妄信者が楽山だということです。そして「この当たり前のことを理解しない」のも楽山です。病識のない楽山が、反省もせず、無責任に、妄想的に思いつきを並べても、何も整うことはないのです。楽山は、言論をしているのではなく、無意識に、症状を表しているのです。
 
 
 
 高級な神秘体験とそれ以外の神秘体験、およびその見分け方
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
  2021年07月18日 楽山日記(LD)
 
 
2年余りの批判を受け取らずに、考えずに、無視して、書いて来れることが、既に、良心のない証拠であり、人を人とも思わないで、意地の悪いことを平気で言って快感を覚えるというサディストであり、精神病質サイコパスであることの証しなのです。楽山の大量の放屁が臭い。
 
神秘を人が理解することは出来ないのに、分かっているふうを装い、その分別めいたことまで語ろうとする楽山は、演技的な悪魔性のサディストです。理解力も共感もない者が、背伸びして、学者気取りで語ると、実に、みっともないという症例です。
 
 
*高級とはいえない神秘体験の特徴
『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、神秘体験には高級とはいえないものもあるとしてその特徴について書かれていた。ここにメモしておきたい。
妄想的な精神病を教科書ではときどき偏執病と呼んでいるが、これは一種の転倒した宗教的神秘主義で、悪魔的な神秘主義と言えよう。ごく些細な出来事を言いようもないほど重要なことと感じたり、聖句や言葉が突然に新しい意味を帯びてきたり、声なき声を聞くとか、幻を見るとか、指導力や使命を感ずるとかしたり、外部のちからによって支配されたりするとかする点では、さきの神秘主義と少しも変わりがない。ただ今度の場合には、感情が悲観的なのである。すなわり、慰めの代わりに私たちはやるせなさを感ずるのである、啓示の意味するものが恐ろしいものであり、力は生命の敵なのである。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、pp.254-255)
 」
この基準に従うならば、負の感情を抱かせるような啓示、神秘体験には注意した方がよさそうではある。
 
高級な神秘体験があるなら、低級な神秘体験もあると言うのでしょうか。低級なものを、神秘体験に入れているのでしょうか。詭弁です。中には、楽山の霊が分かるっぽい体験のように、まるっきり嘘吐きの見栄っ張りもあるのだから、偽りの神秘と呼ぶべきでしょう。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、良心と罪悪感のないサイコパスであり、まさに、自己に偏執している病気なのです。だから、大事なことを、何も分からず、考えることも出来ず、責任を負う気もないのです。人の口を引用し悪用しても無駄です。
 
楽山の霊能と神秘の話は、まさに、「注意」が必要というより、決して受け取ってはいけない悪魔性の危険物と言えるでしょう。嘘吐き楽山は、断末魔的に、いっそう凶暴になってきたようです。もっともっと、孤立してゆくように、誰も相手にしないことが大事です。
 
 
*高級な神秘体験
では高級な神秘体験についてはどうかといえば、著者は次のように簡潔に述べている。
高級な神秘的状態は至上の理想を、広大さを、合一を、安全を、そして至上の休息を教えている。
(同上、p.258)
 」
どうやら高級な神秘体験は人の心に安らぎを与え、幸福にするものであるらしい。
 
人の心に安らぎを与える神秘は、安らぎの源として感じられて信仰の可能性があります。決して、楽山のような、孤独な神秘オタクや、無責任に無反省に災いの妄想屋のように、神秘、神秘と吹聴する必要はないのです。
 
神秘は、神秘を理解できない人間には、秘密のうちに働きかけます。ゆえに、神秘、神秘○○、などと吹聴する楽山は、その時点で、真っ赤な偽者であり、書けば書いただけ、インチキ宣伝だということ自ら証明し続けてゆくでしょう。
 
楽山は、自らの人間としての尊厳ある命を、反キリストと無神教カルトの病質的精神で、嘘と詭弁のペテンの技に置き換えてしまった人です。楽山の記事を読むたびに、元には戻れそうにないと感じます。楽山が書いて、それを読むたびに、進歩も成長もない訂正不能で不治の病質の災いを感じます。
 
もはや、バレているのに、苦し紛れに、2つも記事を書いても、いっしょです。楽山は、インチキ神秘気取りでしかないのです。楽山から、安らぎも幸福も生まれません。この3年余りで幸いの予兆さえ全く見られず、代わりに、人格破壊の病原となることが明らかになっています。
 
楽山は、偉そうな様々の気取りを表してきました。それらにおいて、いつも、偽者でした。つまり、偽評論家、偽読書家、偽学者、偽インテリ、偽アンチカルト、偽宗教家、偽言論者、偽政治思想家、偽スピリチュアル、偽霊能者、・・と言ってよいでしょう。
 
 
*応用
 
楽山は、神秘を応用できるのだそうです。神秘、神の秘密に対して、何の恐れも感じていない、心ではなく、毛の生えた心臓の絶対性不整脈となっています。言葉で交わろうとすること自体が無理かつ無意味というものであり、楽山の言葉は、人を安らぎから遠ざけるヌルヌルの汚物です。
 
 
これらは神秘体験の分類法としてはもっとも簡便であろうし、神秘体験のみならず宗教の見分け方にも使えそうではある。高級な宗教は他との一体感と安らぎを与え、そうでない宗教はやるせなさ、恐怖などの負の感情を強く抱かせるなど。
 
楽山の語る神秘も宗教も、破壊的な疲労を与えるだけです。楽山が病質者である証明はそれだけで十分でしょう。いつまでもネットにブログにツイッターにしがみついて離れない執念は、自己愛性パーソナリティ障害の我執から来ていて、安らぎを与えることのない惨劇であります。
 
 
神秘・宗教の正邪について、自分の情感だけで断定してしまうのはいささか安易にすぎるきらいもあろうが、それでもこれは一つの目安としては有効ではないかと思う。
 
情感のない楽山が言っています。楽山は、知情意が一体となっていることも知らないのでしょう。当然、思考も整わず、思いつきを語る以外なくなっている楽山です。今回、多量の放屁です。真実の追求においては、「目安」どころか、邪魔でしかありません。
 
ゆえに、安易な思い付きしかない幼稚な楽山は、自身の愚痴か秘密として、秘密のノートに書いて、死ぬまで独り笑いで満悦してください。今回、多量の放屁です。真摯な信仰者にとっては、極めて悪性の惑わしとなっていて危険であり、少なくとも甚だ迷惑です。
 
 
 
キリストの神性は、処女懐妊とか、数々の物や肉体の奇跡とか、復活とかの、超常物語にあるのではありません。それだけなら、私の心に響くことも、共感できることもなかっただろうし、人の心に神の愛を伝えることも出来なかったでしょう。つまり、新興宗教に過ぎなかったでしょう。
 
キリストは、知る限り、最高の、人を見抜く洞察と、人に対する共感を持ち、そして、神の愛と神への恐れについて最高の理解を持っておられました。そのことを抜きにして、キリストを語ることは、決して出来ないのであります。神聖は、楽山のインスタント屁理屈で表されるような御方ではないのです。
 
 
分別のない放屁

分別のない放屁
 
 
(2021年)
(2022年07月25日、再録+加筆)

 
 
 
  奔流
 
警鐘は朝霧の森の中に吸い込まれてゆく
鳴らす者は余計な波風を立てて
小舟に乗って沈むために
人気のない入り江から漕ぎ出でる
 
しばしば逆流する川の上流には
歳を偽って村人を名乗る者たちがいて
沼の味覚にのめり込んでは
鏡を震わせ抜いて
しきりに白髪を流す
薄くなった髪を洗うそばから
流れ出すのは顔の方だ
 
うら若い髪の血痕を
拭うことのできないスナイパーとテロリストが
礼拝堂で出くわしてしまう
兄弟よ このような激流の聖域では
手も足も不用だ
 
未来の神話を語りながら
白々しくも欺いて殺し合えずに
拳銃を実は十字架をポケットの中に握り締め
耳を切り裂く沈黙の中に
谷間の街のしがらみに向かって
夥しく浮き沈む白い眼の
奔流の中へ再び身を投じる
 
 
  油断
 
ユーモアがペーソスを孕んで
並木道をふわふわ舞っている
そんな空気にのんびり
吸われながら歩いていると
いきなりビュッと
残酷なギャグが切っていく
切られたものが見当たらない
 
見えないところで切られて
見られないまま消えたのか
まぶしいのに曇っている
目の上にピッ
何かが撥ねた
一滴だけの雨?
ひやっとする
あるいは血かと
 
ふと笑いすぎて昔
微笑むことを忘れたひととき
を思い出す
 
額に残る一筋の感覚
目を狙って
放たれた鋭いもの
少しく外れて
皮肉にも生き残る
 
 
  何やら扉
 
人は扉を開けると
何やら進んだ気分になったり
何やらほっと安心したり
何やら沈んだ気持ちになったり
何やら引き締まった気になったり
何やら元気になったりもするらしい
 
開けなければ始まらないと
人は数限りなく扉を開けてきた
そのたびに人は忘れ物をする
しばしばとても大切なものを忘れる
ときには忘れ物をしたことさえ忘れる
開けた扉は閉じられる
扉は大方オートロックである
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
>>「山や森を見ず、 枝葉を並べても、 大地を論じる事はできない」
先日、他の信者さんが、『仏陀再誕』『永遠の仏陀』を重要書籍とし、HSの信仰のあり方として、現成の仏陀への帰依を説明してました。
これを枝葉扱いする詭弁を吐いても無駄ですよ。
午前9:40 · 2022年7月24日
 
楽山は、山の高さも森の深さも知らないのに、まともなつもりで、枝葉を語ります。楽山は、一度も、宗教と信仰の本質を語ったことはありません。それらしい言葉を並べるだけです。楽山は、深い情緒が欠けており、ごまかすために、言葉だけの知識にこだわって、いつまでも無駄口を叩いているのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
今でも、『仏陀再誕』『永遠の仏陀』は特に大切な書籍なんだ。
当該書籍から信仰についての記述を引用したら、「枝葉を並べてもだめ」というようなことを言う信者がいたんで、今は枝葉扱いされてるのかと驚いたが、この信者が不勉強なだけだったんだろうな。
午後7:22 · 2022年7月23日
 
楽山は、アンチHSを自認していますが、HSの経典を「大切な書籍」と言っています。楽山は、HSを深く知っている自覚から「枝葉扱いされてる」「この信者が不勉強」などと言っています。HSを知っている自分を出して、他者のHS不勉強を蔑んでいるのです。偽者アンチの証拠でしょう。
 
HSにも、アンチHSにも、楽山の居場所はないと思います。自己中心の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、誰とも心が通じ合わず、世辞のつきあいだけなので、結局、最悪の裏切り者として、末路は孤独と離人と崩壊しかないのです。楽山に関わらないでください。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ていうか、『仏陀再誕』で現成の仏陀への帰依が説かれており、これがHS信仰の基本であることは覆しようのない事実だろうに。
これに異を唱えるのは無理だって、なんで分からんのかね。
午後0:16 · 2022年7月24日
 
アンチHSのはずの楽山が「覆しようのない事実」と言って「HS信仰の基本」を語っています。HSは自分のものだ、自分が教祖だとでも言いたいのでしょうか。「異を唱えるのは無理だって、なんで分からんのかね」・・HSの擁護者にでもなったのでしょうか。楽山の立場と理路が崩壊しつつあります。
 
 
>★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏はいろいろ書いてるけど、邪推、妄想、決めつけ、嘘、自分語りばかりで、客観的な事実については全然といっていいほど触れてません。
これじゃあ、話にならんよ😩
午後0:11 · 2022年7月24日
 
根拠と理路で説諭するのではなく、相手の言うことを「邪推、妄想、決めつけ、嘘、自分語りばかり」と決めつけ、否定する文言だけ並べて「これじゃあ、話にならんよ」と、感情的に、けなし、否定しているだけです。結局、こういう言葉で決めつけるしかないのが、楽山です。
 
楽山は、宗教無理解がバレないようにと必死です。そして、終わりに、困惑の顔マーク絵文字です。こうやって、成り立たないことを言って、通したつもりで満悦して、楽山の一日は終わり、その繰り返しで楽山の人生が終わりに向かう。これも嘘と詭弁で騒がせてきた報いと言えば報いなのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
この3年余りで明らかになったこととして、楽山には、高等感情による感性がないので、宗教も信仰も理解不能です。だから思いつきだけの嘘と詭弁を弄して書いてきますが、それは極めて迷惑で有害です。異常な疲労をもたらし、人格を鈍麻させ、混乱させ、さらには破壊する恐れがあります。
 
 
 
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  楽山のネトウヨ刷り込み2
 
 『昭和風雲録』満田巌著
 2021年07月17日 楽山日記(LD)
 
 
過激な右翼思想家のA級戦犯を讃える記事を書いたことのある楽山が、ネトウヨぶりを表しています。楽山のような信頼のおけない人が書いても、誰かを目覚めさせることはないと思います。何故なら、楽山自身が、目覚めてもおらず、まともな活動もしていないからです。
 
著者の満田巌については、検索しても、はっきりと詳しく書かれているサイトがありません。定かではないようです。有名人かどうかも分かりません。昭和史上の右翼の暴発について、参照されることのある本のようです。
 
楽山は、説明や解説の出来ない人なので、著者について書かず、ただ、読んだぞ、聞け・・とでも言うのでしょうか。人間性と情感が乏しく、自己中だけが強いと、このような書き方になる、という見本になるでしょう。
 
しかし、意見のまとまらない楽山は、引用だけといってもいいような記事になっています。自分で、理解しようとしない、理解できない、でも、書いて自己顕示したい、という楽山の特徴が表れています。それにしても、右寄りの一面的なことばかり書いて悦に入る呆れた心境です。
 
 
*概要
戦前戦中の考え方を知りたいと思ったので、昭和20年3月15日第26版(初版昭和15年)の本書を調べてみた。ざっと全体を眺めてみると、前半は第一次大戦後の日本は既得権益の確保を目論む米英から平和軍縮条約を押し付けられ、満州では排日運動が激化し、双方から圧迫されていたこと、
 
「戦前戦中の考え方を知りたい」と思って、右翼の主張を読めば、知り得るのでしょうか。こういう偏った読書を宣伝したいのでしょうか。「目論む米英」「押し付けられ」「圧迫されて」・・当時の日本について、外国を悪者扱いしている楽山の、他罰的な右翼政治思想が表れています。
 
 
後半はそのような状況を転換させようとする者たちが昭和血盟団事件、五一五事件、神兵隊事件、相澤事件、二二六事件などを起こしたこと、最後は満州事変、国際連盟脱退などについて触れており、真珠湾攻撃前夜の様子がよくわかるものになっている。
 
右翼についての本を読んで、楽山は、ネトウヨならでは・・と言うべきか、気安く、昭和の流血事件について、あっさり「よくわかる」と書いています。ネズミのように、こそこそと立ち回り、嘘を吐く活動しか出来ない楽山は、右翼の怖い勢いだけであっても借りたい心境なのでしょうか。
 
 
*繰り返し
本書中、著者の考え方として特に興味深かったものは次の通りである(旧字は新字に変えた)。
 
どう興味深かったのでしょう。書けば、ネトウヨぶりが表れるので、書かず、引用だけで、まともに見せかけようとしているのか、メモだけならば、公開する必要はないのです。引用だけの奇妙な刷り込みで、自尊過大を表す楽山です。
 
 
某代議士の如きは「軍備といふ如きものがあるから、戦争が起るのである。よろしく軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つであろう」とまで極言した。しかし、雨降る故に傘あり、傘ある故に雨が降るのではない。かくの如き非論理的な暴言が堂々として吐かれる程、当時の非戦的気運は圧倒的であった。
(『昭和風雲録』満田巌著、新紀元社、昭和20年、p.50)
 」
 
「軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つ」という考えの愚かさを暗示したいようです。かといって、軍備を増強したら戦争はなくなるということでもありません。陳腐な揶揄を書いて、楽山には、建設的な意見は皆無なのです。
 
 
ワシントン条約、ロンドン条約等は、世界を去勢せんために米英現状維持国が企んだ平和攻撃の一手段であり、国際連盟、不戦条約等と密接に関連するものである。米英現状維持国は、一に平和を鼓舞し、他に軍縮を高唱して、自己の優越的地位の保持に全力を傾倒した。
(同上、p.50)
 」
 
これも、日本が米英に脅威と感じてられていた、また、日本は米英を脅威と感じていた、という歴史状況を書いています。今につながるものがないことを、楽山は書いて、何を伝えたいのでしょうか。俺は右翼だ、宗教だけでなく政治も分かってるんだ・・と言いたいのでしょうか。
 
 
思へば拙劣な外交であった。口に平和を唱へる所謂協調外交が、米英の現状維持を保証する以外の何ものであったか。その間、却って米英の軽侮を招き、更に支那満州の排日を激化したのみではなかったか。
(同上、p.75)
 」
 
協調外交が拙劣だと書いて、楽山は、自分ならば・・戦争、云々、と言いたいのか、またしても、他者の口を借りて、月並みな右翼への傾倒を表しているだけの感想文、しかも、そのやり方は、印象操作に過ぎません。読書して、書くたびに、読書できないことを表してしまう楽山です。
 
 
そのモットーとする所は、徹底的な平和主義といふより屈服主義であり、国際連盟に心酔し切つて軍縮に大童となり、大陸及び太平洋への発言権を自ら捨てて、米英の意を迎へるに汲汲とした。その間、貴族院、枢密院、政友会そのほか国民各層の不満にも拘らず、米英は、日本に於ける唯一の国際外交の権威なりとして幣原外交への賛辞を惜しまなかつた。
(同上、p.76)
 」
 
引用しているということは、楽山も、屈服主義と書いて自己満足ということになります。結局、日本は、屈服せず、アジアを侵略して、アメリカと戦争して、自滅の道を進みましたが、楽山の言は、喧嘩に負けた子供が、相手への悪口で、腹いせをしている有り様にしかならないでしょう。
 
しかも責任を負えないものだから、引用だけというお粗末さは、責任のある言動の出来ないのに、見かけだけ評論家を気取って自己満足するという、今までの楽山を、やはり、そういう人だった・・と復習させる愚痴にしかならないのです。
 
 
こうしてみると平和外交とそれに対する批判は、昔も今もさほど変わらず同じことを繰り返しているようだ。人というものはそう簡単に変わるものではないだろうから、これも当然のことなのだろう。
 
右翼思想を書いて「人というものはそう簡単に変わるものではない」と、今を好ましくないかのように書きながら「当然のこと」と書いています。右翼思想を表しながら、面倒はごめんだと保身をする筆致、楽山の卑怯なボンヤリ言語で、右に行っても左に行っても、頼りにされることはないのです。
 
 
*将来
ところで、本書には連盟脱退についてこのように書いてある。
日本の連盟脱退こそは、連盟の本質が英米の自己擁護機関たる外何物でもないことを身を以て世界に明示したものであり、同時にまた白人旧世界体制に対する致命的な一撃であつた。
 」
 
何処が、英米に対する致命的な一撃だったのでしょう。歴史を見れば明らかです。忍耐もなく致命的一歩を踏み出したのは日本でした。この部分への感想は・・やれやれ・・だけです。
 
 
条約違反或いは経済封鎖を以てする彼等の威嚇に抗して、ここに日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出したのである。
 」
 
これ、戦争のことですよね。世界新秩序の第一歩どころか、結果として、日本を破壊するだけに終わったのです。今になって、自画自賛の豪語が成立することはありません。
 
 
これにつづいて独伊また連盟を脱退し、連盟の旧体制的構成は全く無内容と化し去つた。しかもこの寂寞の連盟にソ連が加入(昭和九年――一九三四年)し、その内実は旧国際連盟から国際人民戦線へと変貌した。一方に於ける日独伊、他方に於ける英米仏ソ――今や世界は瞭然たる二大勢力に分れ新旧闘争の決定的世界史転換の時代を迎えたのである。
(同上、pp.359-360)
 」
 
今さら、負け戦を宣伝する、あるいは、引用することが、とても見苦しく、無意味だということが、楽山には分からないのでしょう。語れば語るほど、現実離れした楽山の、妄想的幻想的右翼ファンタジーが、流れています。
 
「連盟の本質が英米の自己擁護機関」「白人旧世界体制に対する致命的な一撃」「日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出した」・・否定してないから、これは戦争礼賛になります。「世界史転換の時代を迎えた」・・万歳三唱でもしたいのかって感じになっています。楽山は偏狭な右翼だという証拠です。
 
 
最近は国連離れが加速しているようではあるし、もし「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」というのが本当であるならば、近未来において日本およびその他の国々が国連を脱退して世界新秩序建設への第一歩を踏み出すということもあるのだろうか。そんな想像をすると何やら恐ろしい気がする。
 
国連離れが加速しているのでしょうか。国連離れで検索してみると、トランプの名が出てくる程度です。さらに、もはや陳腐とさえ思える「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」という漠然としたことを書いて、新秩序、想像、恐ろしい、などと書いて楽山のファンタジーは終わりなのです。
 
新秩序建設というのは、戦争が起こるかもしれない、ということでしょうか。そうならないために、楽山は、何か政治的言動をしたのでしょうか。不安を煽っているだけでしょう。主張の見えてこない思想の話、何を書いても、いつもと同じ、中身のない評論家気取りしか見えてきません。
 
何を書いても、まともな理路にならない楽山の、右翼的な印象操作と刷り込みです。しかも、はっきりした自分の意見を持たないから、偏った本の選択と引用によって、またしても、無責任ぶりが全開の楽山です。新しいものや独自のものが何もなく、読む価値のない記事だと思います。
 
批判しても何も答えない、なのに、手を変え品を変え、書いてきて、分かってると自己顕示してくる欺瞞は、自己中の世界に陶酔しているだけの自己愛性パーソナリティでなければ、ありえない醜態であり、分かるべき身近なことさえ分かろうとしない楽山の実態であります。
 
 
  青春のない楽山
 
 マイケル・シェンカーの青春論によるマイコン解除(『飛翔伝説』)
 2021年07月17日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
楽山には、恐らく、青春などなかったのではないかと思います。その復讐なのでしょうか。嘘と詭弁の煽動者になり、批判しても、なお、平気で書き続ける自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)を表して、救われない者という病的人格のモデルとなっています。その腹いせでしょうか。
 
 
*マイケル・シェンカーの青春論
本の整理をしていたら、マイケル・シェンカーの『飛翔伝説』が出てきた。中身を確かめてみると、こんなことが書いてある。
(画像省略)
「自分自身であれ!」「自分に嘘はつくな!」「自分の意思を貫き通せ!」「人は人、自分は自分だ!」という考え方は、ギタープレイだけに限定されず、人生全般に言えることであろうし、昔も今も変わらず共感する。
 
(ネットより)
マイケル・シェンカー
ミヒャエル・シェンカー
マイケル・シェンカー(ミヒャエル・シェンカー、Michael Schenker、1955年1月10日 - )は、ドイツ出身のハードロックのギタリスト。
マイケル・シェンカー (ウィキペディア)
 
自分を見失って、自分にも嘘を吐き、自分の身勝手な妄想を訂正不能に投げているのが楽山です。また出してきましたが、「人は人、自分は自分」と、自己中とは、全然、違います。楽山は、真逆の勘違い妄想を共感と呼んで、また嘘を吐いているのです。音楽家を持ち出してくるのも驚きです。
 
 
*スピリチュアリズム
思うに、自分はこの流れで、「自分自身を信じよ」「自分の内なる神(良心)を信じよ」というスピリチュアリズム的な考え方にも共感し、これにつらなる幸福の科学にも傾倒したのだった。
 
楽山が信じて振り回しているのは、「内なる神」どころではなく、病質からの我執であります。それだけが、楽山の書いてくるものに表れてきたのです。楽山の言うスピリチュアリズムは、自らの霊能者気取りに過ぎず、それを勘違いした結果、不感不応の自己中に囚われています。
 
訂正不能の我執からの自己主張と詭弁と嘘が、楽山の恐ろしさであり、何度、批判しても、また、同じことを書いてくるのです。もはや、関わらないことと近づかないこと以外には、対処法がなくなっています。楽山から、良きものを受け取ることはありません。
 
 
*退会
でも幸福の科学は、当初は「内なる神を信じよ」と説いていたものの、途中からは次のような教えに変わってしまった。「大川隆法を信じよ。自身の小さな頭で考えたところで何がわかるか。大川隆法にはもっと深いお考えがあるのだ。大川隆法を信じてついてゆけ」云々。
 
誰も信頼していない楽山、信頼できる友のいない楽山、自分だけしか信じない楽山、丁寧語と詭弁で自分に引き寄せては、人をだまして疲れさせるだけの楽山です。楽山自身が、霊が分かるっぽいという自己中心のカルト的妄想に支配されています。そして、疲れさせることで人格を破壊します。
 
 
自分は信者として、この教えに自分を合わせようとしたものの、結局はそれを徹底することはできず、「内なる神を信じよ」「自分自身を信じよ」という思想に戻ることになった。
 
楽山の信条は、自分という神・絶対者を訂正不能に信じて、他者を、いっさい無視することです。無理解・無神経のまま、言ったら、言いっぱなし、無反省・無責任の、詭弁屋で嘘吐きですから、決して関わってはいけません。約3年間のペテン師の資料となっています。
 
 
ある意味、マイケル・シェンカーの青春論が心に染み付いていたおかげで、マインド・コントロールから抜け出すことができたということだろう。
 
楽山は、都合のよい文言を利用しているだけで、楽山に染みついているのは、自己中だけです。自己愛性パーソナリティ障害からの自己絶対の自尊過大の、身勝手ぶりです。質問と疑問を浴びせれば、正体を表しますが、そこで、こちらが、疲労し消耗して、人格を損なう恐れがあります。
 
 
*感謝
マイケル・シェンカー本人からしたら自身の発言が極東の一人の若者をカルトから救うことになるとは想像もしていなかったろうが、実際自分はそのようになったわけでマイケル・シェンカーには心から感謝したいと思う。
 
とても作為的な醜い世辞~勘違い~嘘です。楽山は、誰にも感謝したことはないと思います。「極東の一人の若者」である楽山は、「カルトから救」われたのではなく、恐らく最初から、自分自身がカルト思想だけに染まって、訂正不能に慢心しているだけなのです。決して近づいてはいけません。
 
 
偏向と詭弁に酔い痴れる愚か者

偏向と詭弁に酔い痴れる愚か者
 
 
(2021年)
(2022年07月24日、再録+加筆)
 
 
 
  彷彿
 
ワイパーが水滴と一緒に
視界を拭(ぬぐ)い去る向こうに
道はあるとアクセルを踏むから
車は暗がりを轢(ひ)いてゆく
 
ときに所々の街の灯(ひ)が
一瞬だけ信号に見えたりするから
ブレーキは早めの後ろから
大型トラックがぴったりついて来る
 
進めばよいのか止まればよいのか
後退でもすればよいのか
最初から出かけなければよい
飛ぶこと以外望まないのなら
 
空色の信号が浮かんでいる
そこでもチェックは厳重だ
拭い去れないものを火が乾かす
拒めば落ちてゆくことだけには限りがない
明るい人も大地も星も
水天彷彿(ほうふつ)みな落ち続けている
 
 
  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
  信じ方
 
病人よ
病人よ
汚れた肉体を布団に残して
どこをさまよっている
多くの顔と名前が乱れて去っていった
彼岸のあたりか
そこから命はもう行けない
魂は抜かれるだろう
抜歯のようにこともなく
麻酔でしびれた
歯肉の穴の形を
固まりかけてまだ熱を残している
血の味と臭いとともに
舌が探っている
抜かれた魂の
跡の形を探っている
 
顔のない天使の合唱が近づいて来る
♪どうしても救えない
 どうしても救えない・・・(遠ざかる)
何も知らない少女が
教えられたとおりに歌うような
くりかえしに
思わず顔をしかめる
 
恵まれているのか
試されているのか
許されているのか
裁かれているのか
わからない病人よ
信じ方を忘れた病人よ
忘恩と裏切り
魂の責め苦に寝返った
肉体は痛みを離れてゆく
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山はネトウヨです。年齢は分かりません。オジサンかもしれないが、若さを気取っています。楽山の思想は、若者の思想ではありません。情熱の欠片もないからです。おじさんの思想でもありません。思慮深さが全然ないからです。楽山が書けば書くほど、愚にもつかない、という反発が可能でしょう。
 
 
 
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  楽山の言い張り
 
 大川隆法を信じ、帰依しなければならないのか!?
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 2022年07月21日
 抜粋して批判します。
 
 
>(楽山:記事)
*発端
ツイッター上にて、「大川隆法を信じ、帰依しなければならないのか」という議論があったので、ここに保存しておきます。名前の部分をクリックすれば、ツイートを確認できます。(リンク省略)
 
楽山は、無神教カルトの教祖願望だと思います。あらゆる宗教について、また、カルトに対しても、自分のほうが中立で本物だと言いたいのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)に特徴的な、自己賛美が根底にあるからでしょう。
 
>(HS)
幸福の科学が独裁だとか全体主義だとか言う人もいるが、アンチがいる時点で、そうではなくなる。
全体主義の世界では、反対する人は抹殺されるからだ。
アンチは幸福の科学に潰れてほしいのだろうが、彼らが存在そのものが、幸福の科学が一党独裁じゃない証明になってしまっている。皮肉だ。
「愛、公正、知恵、力」サタン大川隆法彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗しその上に
大川隆法にとってアンチ、つまり「自分を信仰しない者」は「天罰を下し、滅ぼす」対象なので、真性の「独裁」です。
このように訳の分からないことを言っていますが、教義上、間違いでございます。
なぜなら、幸福の科学を信仰していなくても、天国に還っている方もいるからです。
 
★こも/楽山日記3
これは自分が学んだ教義とは違いますね。
『永遠の仏陀』(旧版)には、
大川隆法総裁を信じれば繁栄するが、信じなければ滅亡すると書いてました。
また、仏陀(大川隆法総裁)への信仰を手放せば、地獄に堕ちるとしてました。
この教義は、改定されたのでしょうか。
 
信仰者でもないくせに、元信者だからと思い上がって、以前の教義と違うと言っています。楽山は、信条(教条)の言葉の辻褄しか覚えず、信仰の心を全く持たないので、変わっただろと文句を言っています。言葉のつながりや文脈を追う場合に必要な心の感受性が、楽山にはありません。
 
この楽山の言は、むしろ、楽山の、宗教への全くの不適と無縁を表しています。この愚かさで、キリスト教と信仰を侮辱してくるのだから、無事に済むと思うほうが、おかしいわけです。例えば、キリスト信仰も、個人においては、体験とともに成長するものです。
 
信仰は、つまるところ、言葉だけで表すことは、不可能です。キリスト信仰においては、人が不完全であっても、神聖が同伴し、信仰者の心を、既に総てご存知であることによって、導きを期待して、成長が可能になるのです。楽山は、楽山らしい皮相な言葉遊びをしているだけなのです。
 
★こも/楽山日記3
ついでに書くと、
『仏陀再誕』(旧版)では、地上の仏陀である大川隆法総裁を信じないなら、たとえ、他にどんな神様を信じていようとも、それは偽物の信仰にすぎないとしてました。
最近の信者さんらは、HSの寛容さ、自由さを強調しますが、実際にはHSは激しく、厳しい宗教でもあるんですよね。
 
キリスト信仰においては、信条は、脅迫状ではありません。そういう、共感と愛の大事なところは、楽山は全く理解できないのだから、いちゃもん屋以上にならないのも不思議ではなく、こういう楽山のような者が、宗教について無理解のまま、発言するのは、傲慢不遜でしかないということです。
 
 
>(HS)
イエスを通じて天なる父を信じることにつながる人もいます。
亡くなった方々も、何かしらの宗教で、仏陀に繋がっています。
だから天国に還れる人もいるのです。
偽物の信仰とは言ってますが、天国に還れないとは書いてませんね。
そしてその偽物の信仰すら亡くなった人、これは唯物論者を指しますが、それは地獄に行くでしょう。当たり前の話です。
そして当会の教義に則ってこちらを批判するのなら、当会は、人間の魂があの世とこの世を転生輪廻しており、魂の不死性を説いています。
従ってこの場合の滅びは地球の文明が一度リセットされることを指します。
太陽の法を読んだことがあるので、分かりますよね。
魂がこの世とあの世を行き来して、この世は魂の修行場というのが前提です。
その魂修行の場が意味をなさなくなるなら、一度地上が天変地異などで滅ぶという意味です。
この世の生命の終わりがあなたたちのいう終わりでしょうが、真実はこの世だけでは終わらないということです。
 
★こも/楽山日記3
『太陽の法』では、滅亡した古代文明の話が書いてあったろうけど、『永遠の仏陀』では、「人類そのものが滅亡し去るか」と書いてるでしょう。
当該書籍の出版当時は、これまでは大陸が沈むくらいで済んだが、今回は早くHSを広めないと地球規模の大天変地異で人類が滅ぶかも…という世界観でしたよ。
 
私は、あまり好みませんが、キリスト信仰において、地獄を語るのは、地上での戒めであり、天国を語るのは、地上を生きるための希望であります。心について全くの無理解である楽山が「人類が滅ぶかも…という世界観でしたよ」などと言っても、その言の心無い有り様がバレてゆくだけです。
 
★こも/楽山日記3
『仏陀再誕』では、上に続いて、地上の仏陀を信じないのは、信仰がないということであり、宇宙の神を否定、冒涜することと同じであり、間違いの淵(地獄?)に投げ込まれるとしてます。
地上のイエスを信じず、転生後にキリスト教を信じるというのは愚かなことだそうです。
 
楽山のように「信じる」ということが、信条通りに思い込んで不変とすることになっている人は、信仰の真実には触ることも出来ないでしょう。この記事のように、言葉だけ理屈だけで超常を表しても、いくら知ったかぶりをしても、コリント13のように、やかましく騒がしいだけです。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:1
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。 
13:2
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 
13:3
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
 (1コリント13:1-3、新約聖書)
 
 
>(HS)
それは偽物の信仰だとあなたが見せたでしょう。
ご自分で出したの忘れたんですか。
文明は過去何度も滅んで、その度に人が減っているじゃないですか。
今回もそうだって言ってるだけですよ。
言葉の揚げ足取りの域を出ませんね。
お疲れ様です。
 
>(楽山:記事)
なんだか、最後のところは、話が噛み合わず、意味不明になっているので、こちらからは変に刺激せず、黙っておくことにしました。
 
都合が悪くなると「話が噛み合わず、意味不明」と言って「変に刺激せず、黙って」いるのだそうです。自分の意見が通じないと相手のせいにして、無視してきた楽山らしいことです。こういう宗教と信仰の話で、心ある人は、楽山と噛み合うことはないのです。
 
>(楽山:記事)
*飛び入り
この議論には、棒氏が横から割り込んできてました。
 
 
>(HS)
「①永遠の仏陀、②仏陀、③E.C.、④主、⑤大川総裁、⑥仏、⑦神、⑧信仰、⑨宇宙、⑩大宇宙」 
アンチ氏達は①~⑩の違いが分からない。 
①~⑩をごちゃごちゃに混ぜ、スクショに赤線を引いて熱心に非難。 
「アンチ論法」による可愛らしい議論だ・・・
これに対して田中氏は「>他宗排撃が出来ないんです。 教義上、今の世界宗教も私たちと根っこが同質としているからです。」と言う。
さすがによく理解していると思う。
 
★こも/楽山日記3
これは私のツイートに対する反論だとしたら、いまいち的外れですね。
①~⑩を説明するのは大川隆法なので、それらをどう区分し、どれを信じようが、結局は、大川隆法の言葉を信じるということに集約される。だから、ここでそれらを区分しても反論にはならず、意味ないです。
 
好き勝手に信じるならば、言葉の意味も、いい加減に捻じ曲げられるということを、考えない楽山です。例えば、キリストの言葉を信じるとしても、信じ方は、個人によって違ってくるのは不完全で罪深い人間の必然です。
 
したがって、信仰の正しさについて、結局、人間は厳密には知り得ず、ゆえに、神を恐れる敬虔が重んじられるのです。どこまで楽山は、的を外してゆくのでしょう。何も分かっていません。それで、アンチカルトそしてキリスト教批判者を気取るのだから、迷惑この上なく、邪魔な部外者となっています。
 
>(HS)
某アンチ氏の看板は『元会員』です。「>①~⑩を説明するのは大川隆法なので・・・・・区分しても反論にはならず、意味ない」との主張です。
これに対する私の指摘は「『元会員』が看板なら言葉の使い方くらいは知れ」の一言です。所詮は自称『元会員』です。①~⑩の違いが分からなくて当然です。
午前7:49 ・ 2022年7月21日・Twitter Web App
 
>(楽山:記事)
ここでは、棒氏の意見について、私なりの感想を書いておきます。
 
>(HS)
某アンチ氏の看板は『元会員』です。
 
>(楽山:記事)
私がプロフィールに「元会員」と書いてるのは、過ちの告白と反省の提示です。「私にはカルトにハマってしまったという恥ずかしい過去があります。今は宗教的情熱だけで突っ走るのでなく、客観的事実に基づき、よく考え、同じ過ちを繰り返さないように気をつけてます」と。
客観的事実より、宗教的情熱を優先する性格の強い人には分かり難いことだろうけど、自分と同じような失敗、反省の経験がある人にはよく理解してもらえるでしょう。
 
楽山は、いっそう酷い過ちを、故意に犯し続けています。それは、自己愛に思い上がり、非を認めない体質~病質だからです。病識もなく感性のないところから眺めて、他者の是非を判断している間、楽山が宗教や信仰を知ることはないのです。
 
>(HS)
他宗排撃が出来ないんです。 教義上、今の世界宗教も私たちと根っこが同質としているからです。
 
>(楽山:記事)
いやいや、現実はそうではないです。
たとえば、HSでは、仏教の真髄はこれこれで、HSと同質だとしつつ、それとは異なる解釈をする仏教学者は、地獄に堕ちたとして排斥してます。
また、『フランクリー・スピーキング』において、大川隆法は、自分の悟りは釈迦を超えており、イエスの悟りは掌に見えたとし、仏教、キリスト教を低く見る発言をしていたでしょう。
 
楽山は、キリスト教の神を、どう見ていたでしょう。悲劇が起こるから神はいないと言って、無神教カルトに賛成していたのです。無理解で幼稚で訂正不能となれば、宗教と信仰にとっても、人間世界においても、やっかい者、邪魔者でしかありません。神も人も云々する資格のない楽山です。
 
>(楽山:記事)
自分なりの感想を書いてみます。
 
>(HS)
どこをどう読めば、こんな解釈になるのでしょうか?
 
私の要約に疑問があるなら、上の議論を読み直したらいいです。その概略は、こうでしょう。ツイートの文字制限がないので、ここではやや詳しく書きます。
楽山「HSでは、大川隆法総裁への信仰が説かれてます」(根拠提示あり)
田中「必ずしも、総裁への信仰は必要ありません」(根拠提示なし)
棒「そのような枝葉を並べてもダメです」(根拠提示なし)
私は、総裁の書籍の中でも、もっとも権威のある『仏陀再誕』『永遠の仏陀』のなかの、信仰の真髄について記された箇所を提示したのですが、田中氏はそれに異を唱え、棒氏は「枝葉」として退けたという流れです。
まさしく、アンチが信仰を説き、信者が反対するという逆転現象です。
 
楽山は、キリスト教と信仰を、何も理解していないのに、神は父性か母性かだの、証明できないからいないだのと、ゴタクを並べてきました。証明できたら信じる必要はないのです。楽山には、常識的な理路も感受性も欠けていて、分からない信じないというなら仕方ないが、いないという資格はないのです。
 
>(HS)
某アンチ氏は昨夜田中氏に論破され、私に何度も論破されているので、リベンジに燃えているようです。
 
>(楽山:記事)
私は、自分の見解を示し、その根拠として『仏陀再誕』『永遠の仏陀』の記述を提示しました。
一方、田中・棒氏はこれに反対しますが、その根拠の提示はしてません。よって両氏は、個人的な感想を述べただけで、反論はできておらず、議論の土俵にも上がってないというのが現実です。
余談ながら、田中氏の意見は、一般向きの対機説法としては、必ずしも間違いではないです。たとえば、こんな風に。
>>(楽山引用)
一般向き「総裁への信仰は、絶対に必要だというわけではない。HS信者でなくとも、正しい宗教を信じて、よく生きるなら、天国に還ることができます」
信者向き「イエスと同時代、同地域に生まれながら、イエスに帰依しなかったなら、悔やんでも悔やみきれない後悔を残すことになる。釈迦と同時代、同地域に生まれた場合も同じだ。ましてや大川隆法総裁と同時代、同地域に生まれながら、帰依しないとしたら…」云々
<<
棒氏については、後者を「枝葉」として退け、田中氏を応援して前者を支持しているようなので、本末転倒も甚だしくて話にならん…ということになります。はっきり言って、後者の信仰論に反発している棒氏は、信者未満と言わざるを得ません。
 
楽山にとって自分に同意しない者は「話にならん」ということになります。このことは、いかに楽山が訂正不能で、学習しない怠慢であるかということを示します。さらに、楽山という非信仰者が、信仰者に対して「信者未満」と言っていることに、楽山の自己愛からの思い上がりの酷さが表れています。
 
*論破のためには
最後に、論破について書いておきます。
私の意見は、HSの信仰は『仏陀再誕』『永遠の仏陀』に書いてある通りのものだろうということです。
 
楽山は、私の意見と言っていますが、信条を言っているかのようです。これは訂正不能だという意味のように受け取られます。どうして、HSをやめて、アンチHSになったはずの楽山が、HSの信仰はこうだ・・と言えるのでしょう。論破のためには??・・元々成り立っていないのに。
 
これに有効な反論をするには、『仏陀再誕』『永遠の仏陀』にある信仰論を否定する大川隆法総裁の言葉を提示しなければなりません。しかもそれは低級霊の霊言や、7、8次元霊の霊言ではなく、仏陀および永遠の仏陀以上の立場で語られたものでなければなりません。
私はこれは不可能だろうと思いますが、もしそれができたなら私も意見を改めることにするつもりです。がんばってください。
 
違います。楽山が、勝手に、OR絶対の信仰をHSと見なしているだけです。「でなければなりません」・・楽山は、自分がHSを導きたいのでしょうか。さらに「永遠の仏陀以上の立場で語られたものでなければなりません」・・どれだけ、楽山は、教祖気取りで決めつけるのでしょうか。呆れる。
 
さらに、相手に、自分に反論し自分を論破するための条件まで提示しています。楽山の自己中は、ここに極まっています。これに答える人がいるのでしょうか。無分別な楽山は、誰の手にも負えないくらい、人格が崩壊しつつあります。「がんばってください」は悪質な皮肉です。
 
 
※ 私はHSのために楽山を批判しているのではなく、かつて、根拠もなく幼稚な先入観で、領域を侵犯するように、キリスト教を侮辱してきて修正もしない楽山を、反キリストとして、批判し続けているだけです。楽山は修正不能の病質者です。批判以外では関わらないのがいちばんだと思います。
 
 
不毛を作り出す者

不毛を作り出す者
 
 
(2022年07月23日)
 
 
 
  上手なサービス
 
原稿を読む声が
芸術作品を説明している
骨を上手に覆い隠して
肉の遺伝子を持っていると
イドラになれる
この部屋には誰もいないが
名前が上手に住んでいる箱がある
すり替えられた名前は上手だ
流れ弾が少年の叫びを上手に止めた
刃物が少女の日常を街角に赤く流した
上手に上手に
もっと上手に
坊主が上手に不毛を捏(こ)ねて
誰にも悟られないイコンを作った
リップサービスは上手にフリーで
幸福な未来を捏(でっ)ち上げた
サービスできない未熟なリップは
未だ上手も下手も知らないが
サービスと奉仕に
反比例の臭(にお)いを嗅ぎ始めている
 
 
  これは夢だ
 
目が覚めると何か
夢を見たらしい
誑(たぶら)かされたような気分
夢の中で
これは夢だと知ることは出来ない
かどうか試したことがある
これは夢だと夢の中で言ってやる
と何度も毎日念じてみる
数日後
夢の中で盛んに言っている
これは夢だ
これは夢だ
もうすぐ覚めるぞ
覚めるぞ
ほら覚めた
蒲団(ふとん)の中にいる
仰向けになっている
やっぱり夢だった
と妙に薄明るい部屋で
蒲団の中にいる自分を見ている
まもなく覚めた
しばらくは呆(あき)れた様子で
天井を眺めている
妙に薄明るい部屋の中
 
 
  食欲と孤独と忍耐
 
ブラウン管を見ていた
あれが人間だよ
というふうに眺めていた
この世の寄生虫
まだ食欲と僅(わず)かの信仰があります
信仰は食欲を超えられるだろうか
希望は愛はどうだろうか
試(ため)す機会はあるだろうか
食欲さえなくなれば
森か山の中にでも行って土へ帰る
ことなど出来はしない
食欲がなければ体力もない
虫のように小さく干涸(ひから)びる
ことも出来はしない
ヒトの肉体を持っている以上
ここで腐臭を放ち膨らみ
蛆(うじ)が湧き蠅(はえ)が飛ぶのだ
 
しかしまだ食欲があります
何も感じなくなる前に
最後まで残る問いは
食欲と孤独と忍耐の三つであり
最も長い泡沫の管は食欲であり
最も腫れ上がる虚無の空洞は忍耐であり
耐えて意味なく萎(な)えて耐え難く
しかして最も大いなるものは孤独である
多くの悲劇の預言者において
恐らく一見そうであったように
一人の愚かな凡夫において
恐らく実際そうである
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、どうしても、議論できる自分を誇示したいのでしょう。書けば書くほどボロが出てきます。でも、努力はしないのです。だから、進歩がありません。自尊過大の意識だけが残って・・というより、まるで亡者のように、亡霊のように、何か書こうとしますが、見苦しいだけです。
 
 
 
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  楽山ツイートの害
 
 
楽山は、ちょこちょこ刺してくる蚊のようなものです。針でつつくようなポイントは、大方、的外れです。相手を困らせればよいという目的なので、真実の追求などする気はありません。議論の本来の目的から甚だしく逸脱して、議論の焦点を、煙のように、周辺に拡散させ混乱をもたらします。
 
楽山は、難癖をつけてくるだけの人です。文脈を追うことが出来ないので、相手の文章の一部に、不適切だと思う箇所を見つけて指摘して満悦したいのです。全体の流れを把握できないので、書いた人の心も、込められた意図も、理解できません。楽山は何も伝わらない別の世界から見下ろしているだけです。
 
ちなみに、楽山がいだいている神?の概念は、あらゆる不幸から都合よく守ってくれて、楽山を満足させてくれる神?です。つまり、楽山に分かりやすく味方となる神?です。楽山は、神に条件を付けて、満足したら信じてやるぞと言っているのです。・・そういう神?は、永遠に、どこにもいません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、キリスト教信者とやりとりすると、聖書の引用を「聖句」とは言っても、「枝葉」なんて言うことはないです。少なくとも私はそんな人に出くわしたことはない。
このことからも、HS信者であるといいながら、総裁の言葉の引用を「枝葉」と言って恥じることのない棒氏の不信仰がよく分かります。
午後10:00 · 2022年7月20日·Twitter Web App
 
楽山は、キリスト者と、まともに遣り取りなどしていません。出来ないのです。キリスト者と言っても、正誤も主張もいろいろですが、そもそも楽山は、キリスト教を理解していませんし、信仰のいちばん大事なところを何も知りません。空想や妄想をを見るのと同じ視線です。
 
楽山は、枝葉末節でも、利用して、詰(なじ)ってきます。相手のフォーカスを外してゆきます。その先には混乱しか待っていないことを利用しているのです。殆ど、本能的に、そういう操作をしてくるので、一見まともに見えても、楽山との議論は禁忌なのです。精神の健康を守るためです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
またか…。相変わらず、棒氏は不信仰な人だね。
まともな信者なら、「総裁の言葉は、すべて珠玉の真理だ。一言半句も聞き漏らすまい」とは言っても、「枝葉」なんて言うはずがあるまい。
ましてや『仏陀再誕』『永遠の仏陀』の言葉について、そんなことを言うわけもない。
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。詳細はこちら
午後9:56 · 2022年7月20日·Twitter Web App
 
楽山の、批判や攻撃の口調は、しつこくて嫌らしいのが特徴です。同じことを繰り返すしかないようですから、楽山を相手にしないでください。楽山と遣り取りを続けると、感情的になって、精神が疲労し、混乱し、疲労のために弱く鈍感になります。それが狙い、そして生業(なりわい)なのです。
 
楽山は、議論の文脈を把握することが出来ません。細かいところを指摘したつもりのようですが、そこは本筋ではないので、いちゃもんを付けたいだけです。そういう進め方の悪癖は、議論の出来ない者が、まともに見せかける、卑怯な、そして無理解な策略だということも分かってきます。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
あと、この議論は、アンチの楽山が「HSでは大川隆法への信仰を説いてる」とし、信者がそれに反対するという笑える状況になってます。
このねじれ現象に気づいてないらしい棒氏は、枝葉にとらわれ、議論の本質が見えてないってことです。
信者なのに、不信仰を主張してどうすんの?(笑
午前7:13 · 2022年7月21日·Twitter Web App
 
楽山は、アンチでも、HSでもないと思います。自己満足のために関わって、かき乱して悦んでいるサディストだろうと思っています。信者でもないのに、宗教や信仰を語ってどうすんの?・・楽山は、何の福音にもならない迷惑媒体です。楽山に関わっている人は、直ちに逃げてください。
 
病的ナルシストは、はてしなく議論してきますが、実際には、はてしなく、いじって、意地悪な的外れの指摘をまともに見せかけて、得意になっているだけなのです。そして、しばしば笑います。あざ笑いです。オレのほうが上・・とでも言いたいのでしょう。自己満足の権化であります。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
いいえ。現在、私は反論待ちの状態です。
楽山「HSでは、総裁への帰依が説かれてる」(根拠提示あり)
田中「帰依の必要なし」
棒「『仏陀再誕』『永遠の仏陀』の信仰論は枝葉にすぎない」
田中、棒氏の言葉は、根拠提示なく、ただの感想にすぎず、反論になってません。
午前7:10 · 2022年7月21日·Twitter Web App
 
楽山と議論してはいけません。楽山は議論などしていません。反論など待っていません。楽山が用意するのは嘘と詭弁だけです。精神衛生上の危険人物であり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、有害無益であり、論者として成立しない人です。
 
楽山の意見のベースは、根拠ではなく、妄想です。オレは分かってる妄想です。実際には、キリスト教批判にならない、いちゃもんだけを書いてきた履歴があります。楽山は、相手が興奮して、感情的になって、乱れてくるのを、嬉しそうに眺め、勝ったと満悦する悪趣味のサイコパスです。
 
楽山の議論めいたコメントの目的は、相手を焦らせ、怒らせ、慌てさせて、勝ったと思い込むことで、極めて原始的な自己満足を求めてやっていることだから、遣り取りをしても、結実することが何もありません。糧(かて)にも参考にもなりません。気取りだけがあり、良心も共感もないからです。
 
節操も知識も分別もない楽山が何か言ってきたら、つきあって、なんだか難しいこと言われた・・という記憶にならないように、明確に、楽山との議論は拒否してください。言い返そうなどと思わないで、ただ、あっちに行け・・と言えばよいと思います。楽山は有害なバグに過ぎないのです。
 
 
 楽山のツイッター紹介文
 
幸福の科学の元会員です。幸福の科学を批判することもありますが、歪曲捏造はせず、公平でまっとうな批判を心掛けているつもりです。よろしくお願いします。無言フォロー失礼。
 
元HS会員も、HS批判も、本当だろうかと疑っています。楽山は、批判者ではなく、いちゃもん屋です。真実の追求という目的を持っておらず、難癖をつけて、相手が困るのを見て満悦するために、批判めいたことを書いてきます。慇懃な言葉遣いも、柔和~謙虚芝居も、そのためです。
 
 
崩壊する理路

崩壊する理路
 
 
(2022年07月22日)
 
 
 
 キーワード:虫
 
 
  オートバイ
 
ドアも屋根もない
回ることしか知らない
不思議な乗り物にまたがって
命を吹き込む
荒々しい響きに身を任せると
すぐに人も景色も
流れ過ぎる風となる
虫や葉やわらくずが
突然に現れては消える
長い直線の向こうに
道は曲がって消える
それから先はわからない
その疑問に向かって
早くもたどり着いた風は
心細い私を乗せたまま
今大地を
傾斜する刃物に変える
 
 
  ひっこし
 
破れて失われた
日記の頁には
何が書かれてあったのか
読めない字
意味のない落書き
詩のようなもの?
 
どこを捜しても見つからない本
ふとこぼれ落ちた小銭
買った覚えのない週刊誌
紐を取ろうとして
けつまずいて倒れた
お腹の上に文庫本落ちる
ほこりが鼻をくすぐる
ボール箱には奇怪な傷
いつのまにか壁にはしみ
窓の外では風が止み
くすんだ青空
虫が横切る
 
はて
どこかで同じような?
 
破れて失われた日記の頁に
何が書かれてあったのか
 
 
  びしょ濡れ
 
ぶらりと歩いて
コンビニでお買い物
空っぽを下さい
 
銀行に入ると
通るべき空間がすでに用意されている
レールよりも複雑だ
時間と音さえ狭い通路
べらんめえ口調ってのはどうだろう
 
映画館でみている
閉じたまぶたの裏を
病のようにギラギラと波打つ闇を
 
公園に座っている
近くの草をむしりながら
意外と落ち着かないものだな
目的がないということは
目的があるということは
どれくらい本当のことかしら
 
君も遠くなったな
太古の昔のことのよう
思い出すというより
まるで想像している
君と僕に接点があったなんて
 
ライトをつける
ポンコツのバイクの音が
夜に響く
 
それよりもチクチクと
無数の虫がライトに飛び込んでくる
 
夏の夜の田舎道
田んぼが見えない
 
ライトが照らす前景だけが
浮き上がって過ぎ去る
 
自分が見えない
虫が当たる痛みを感じる
虫の死を感じない
 
この角は知っている
ふいに曲がるから
 
まだ西の空に
少し夕方が残っていた
夕暮れに連なる道
いつか消えて
 
ライトを消して
エンジンを止めると
沈黙と暗闇の中で
焼かれているものがある
 
ぶらりと歩いて
ドアを開けてふらついた
今日は濡れずにすんだね
実はびしょ濡れなんだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の言うことが一見整っているように見えて、実際は最初から、まとまってもいないのは、相手の言うことを貶すことばかりに専念してきたマイナスの学習結果でしょう。相手が、まともに答えようとして、理路を乱してしまうのが、楽山の狙いです。精神衛生上、楽山との議論は、禁忌なのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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