ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年08月

 
  楽山の短絡宗教3
 
 『宗教座談』内村鑑三著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、弁明も反論もできないまま書き続けます。言論に耐えるだけの知性も感性も説得力もないからです。だから、嘘を吐き、詭弁を弄するしかなくなっています。毎度毎度、寒気がするようなことを、恐れも知らずに書いてくる楽山です。
 
この間の事情を知っている人からは、執拗で、妄想狂で、訂正不能で、病識のない、恐ろしく愚かな、自尊だけが突っ張っている醜い人としか見なされないでしょうに、なおも、書けば、誰か、だまされてくれるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山は、病膏肓に入って、都合の良い文言を漁っては、なにやら、わめいているだけです。やさしそうな見かけの筆致に、どうか、だまされないでください。
 
恥というものを知らないと、楽山のようになります。どこまで愚かに悪あがきするのだろうと思える楽山の言動を、この記事の終わりのほうに書くことになりました。
 
 
タイトルから宗教全般についての話だろうと見当をつけたのだが、中身を確かめてみるとそれは全然違っていて、冒頭から最終ページまでキリスト教にほぼ限定した話になっている。テーマは、教会、真理、聖書、祈祷、奇跡、霊魂、復活、永生、天国である。語り口は、時に厳しくなるときもあるが、それは著者の信仰心の強さと真面目な人柄のためなのだろう。
 
内村鑑三と言えば、キリスト者、一部には、預言者的な人物と言われているとさえ聞きました。楽山に「信仰心の強さと真面目な人柄」など分からないと思います。信仰について、楽山が的を外してばかりだったことが証拠です。またしても、見当違いのことを、恥知らずに書いてきます。
 
今回も、また、的外れだけが表れています。つまり、キリストが伝えた、敬虔も、罪も、赦しも、癒しも、分からないまま、物知り顔に言っているのが、楽山です。神も、神のわざも、神の意志も、人が軽々しく分かった、理解した、見た、などと言ってはいけないのです。
 
 
本書の中で自分にとってもっとも興味をひかれた箇所を三つ挙げるとしたら、まず一つ目は復活についての話だった。キリスト教における復活とは、肉体をともなうものなのか、そうでないのか、前々から疑問だったのだが、著者は「永生とは肉体の死後に霊魂がその新たに授かりし霊体を以て生命を継続する事」(p.102)としている。どうやら復活するときは霊魂は肉体から新しくつくった霊体に移ると考えているらしい。
 
キリストの復活については、肉体を伴うものだと信じている人も少なくないでしょう。私のスタンスは、他の、物や肉体の奇跡と同様で、人知で理解できないものを、あった、なかった、などと云々することはしません。あえて言うなら、・・分かりません・・ということです。
 
しかし、楽山の言うところの、新たに授かる霊体、ということを、地上で理解できる人はいません。つまり、このことは、死後のことは神に任せよ、という、神を恐れる敬虔に結び付いているのです。楽山は、何を分かることのように言っているのでしょう。空っぽの霊体で。
 
肉体の復活は別として、魂の復活については、言いようがあります。死ぬしかないと思っていた人が、生きるほうを選ぶようになることがそうです。絶望の人が希望をもって動き出すことかもしれません。また、楽山は、分かりもしない超常の辻褄をいじくっていますが、何の意味もありません。
 
楽山は、この記事で分かったような気になるのでしょうか。このことこそ、楽山の言が、字面の概念を組み合わせて辻褄が合うとは "言えなくもない" と前に言ったような、ボンヤリ言語的短絡で慢心している空想~妄想の証拠なのです。
 
聖書の言葉も、他者の言葉も、有名人の言葉も、まるで、理解できず、おのれの皮相ワールドを讃える捏造言語表現に変えてしまう楽山であります。人生、こんな過ごし方だけは御免です。何も生まれない、何も解決しない、深くも高くもならない、楽山の空転する脳の皮です。
 
 
二つ目は動物には霊魂はないとしているところだ。著者は「霊魂は勿論肉体の生命ではありません。もしそうならば、犬にも馬にも鶏にも烏にも霊魂があるはずでございます」(p.77)としている。また「我々が犬や馬や猫や牛などの責任を問わないのは彼らに肉体あるも霊魂のある事を認めないからでございます」(p.80)ともいう。これからすると、著者は動物には肉体生命はあっても霊魂はないと考えているらしく、いわゆる三魂説のような立場に立っているようだ。
 
いったい誰が、霊魂について、見たかのように、物体のように、語れるというのでしょう。三魂説というのはネットには見つけられませんでした。魂の三分説というのがありました。それにしても、霊魂について、楽山は、分かったふうなことを言わないと気が済まないのでしょうか。
 
(ネットより)
魂の三分説とは
魂の三分説(さんぶんせつ)とは、古代ギリシアの哲学者であるプラトンが提唱した、人間の魂を3つの性質に分ける考え方のことです。
プラトンは『国家』の中で、魂を以下の3つの区分に分けました。
①理知(ロゴス)
②欲望(エピテュメーテース)
③気概(テュモス)
 
私は、例えば知情意は、はっきり3つに分かれてなどおらず、この分け方は多分に便宜的なものであり、複雑に連動するものだと思っています。楽山には、理知と、情緒面で、明らかに欠陥があるようです。
 
楽山は、難しそうに見える言葉を、わざわざ使って、説明せず、おのれの知性を誇るために利用する、という、無能で無反省な、身の程を知らない自己愛者の特徴を持っています。何の参考にもなりません。
 
 
三つ目は人は神と同化可能としているところだ。著者は永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」(p.109)としている。自分はキリスト教は神と人とを創造主と被造物とに分けていて両者は別個のものとしているというイメージを持っていたので、上のように両者を同化可能とするかのような考え方には良い意味で驚かされた。
本書にはこの他にも興味深いことが沢山語られているので、また折をみて再読したい本である。
 
「永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」」という言葉は、地上で当たり前に起こることみたいに言っていますが、恐らく、神の側の、人に対する見なしを推測しているに過ぎないと思います。
 
神と人の同化可能という幼稚で乱暴な、神霊物語にしているところが、楽山らしいと思います。意味を、自分の妄想世界に短絡して受け取っています。もう一度言いますが、無能で無反省な自己愛者は、こういうことを平気で言えるほど、厚かましい高慢と気取りがあります。
 
キリスト信仰において、永遠の命とは、地上において、神の永遠性を持つことではなく、神との合一や一体化でもなく、また、地上で永遠に生きることでもありません。地上のこととしては、比喩以上ではないと思います。地上で超常の説明をするような説明を、私は信用しません。
 
永遠は、地上では、現象として表れませんし、表れても、誰も理解はできないでしょう。つまり、神の全能から考えて可能ということであって、信じれば起こる・・などという、楽山がやるような安っぽいカルト的短絡をしてはいけないということです。
 
内村鑑三は、何らかの結論のようなものを書く必要か使命感があったのだろうと思われますが、その意図は、今、わけも道理も弁えぬ楽山という偽善者によって、無遠慮に不細工に悪用され、けがされています。有名人を引用することによって、楽山は妄想し、そして、愚昧の馬脚をあらわしてゆきます。
 
この楽山のような曲解は、一気にスーパーな者になりたいという欲望を持つ者に見られます。楽山は、その典型です。その執拗さは、もはや人間のものとは思えません。興味深いなどと、楽山がいくら書いても、楽山は、言葉一つも理解などしていないのです。
 
 
 『神道はなぜ教えがないのか』島田裕巳著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
キリスト教も仏教も、楽山にとっては、世辞が通用すれば取り入って、いい気分になり、批判されれば、疲労しか与えない小学生レベルの詭弁を、難しい言葉を、執拗に使って、結局、おのれの学者気取りを自慢したがるネタに過ぎません。
 
楽山は、A級戦犯の大川周明を讃える記事を書いたことがありますから、神道には、右翼的アプローチをしてくるかもしれません。鵜呑みは、いちばん危険です。楽山は人を食い物にする輩です。危険物と同様、注意警戒して、決して近寄らないでください。
 
 
神道のことを知りたいと思って本書を読んでみたが、なんだかますます神道が分からなくなってしまった(笑)。
まず著者は、神道は「開祖も、宗祖も、教義も、救済もなく、「ない宗教」というところにその本質がある」(p.69)と規定している。また元来、神道は「神殿はもうけられず、祭祀は屋外の岩のところでおこなわれていた」のであり、「社殿がないのが神道のもとの姿」(p.33)ともいう。さらには神道には「教えについて述べた聖典というものが存在しない」(p.151)、「はっきりとした規制がない」(p.158)という。
 
私は、神道のことは知りません。しかし、楽山が、人に勝りたい自己愛からの自己顕示欲によって自慢する材料にしているだけだということを知ってほしいと思います。その結果は、この二年余りで、楽山の低劣な詭弁と嘘が明らかになってきただけなのです。
 
分からないことを「(笑)」と書くのは、楽山の場合、謙譲というより、宗教をバカにして、とても軽く扱っているからでしょう。楽山は、人間らしい思慮がないために、足りないものに気づけず、読書家気取りで、推敲・考察・反省・学習・成長を全く抜きにして書いてきます。
 
 
これはもう無いない尽くしである。こういう説明を聞くと、神道の特殊性が際立って見えるようで面白いのではあるが、神道がますますつかみどころのないものに思えてきて混乱してしまう。これにはまいった。
 
混乱して、まいったなら、「つかみどころのないもの」なら、評価や考察めいた記事も、書かなければよいのです。しかし、楽山は、書いて自慢したい欲望と、無神教カルト&軟派カルトの因業のみによって、次には、面白い考察だと、説得力がある、などと書いています。
 
バラバラで、軸がありません。そういう人です、決して、コメントの遣り取りをしたり、近づいたりしてはいけません。関われば、吐き気のするような曖昧ボンヤリ言語で、執拗な嘘と短絡と詭弁で、心だけでなく、体も壊しそうなくらい刷り込んで、神経も精神も疲労するだけです。
 
 
とはいえ、著者が述べている神道と仏教とが共存できた理由は興味深いものがあった。神道は開祖も教義もない宗教である一方で、仏教は開祖も教義もある宗教だったので、正面衝突はまぬがれ、住み分けが可能だったのであり、また明治維新後に両者を分離できたのは双方ともに性質が異なり、混じり合うことなく並存してきたからだろうというのだ。これは面白い考察だと思う。
 
キリスト教については、禁教と迫害の長い歴史があり、明治時代になって、ようやく認められ、また、さらに、戦争の時代の言論統制によって、迫害を受けた歴史もあるわけです。
 
遠藤周作は、警察に、神と天皇とどちらが偉いかと聞かれ、どちらも尊敬いたしております、と答えて難を逃れたという話があります。氏の選択を、誰も責められないと思います。
 
楽山は、戦争当時の憲兵隊みたいなカルトに入って、おのれの権威を振りかざしたいのでしょう。敬語で呼ばれ、先生として、もてなされたいのでしょう。堂々巡りとブーメランで、歩いている芝居をしても、一歩も進んでいない、沈澱思考の楽山です。
 
開祖が違うと、正面衝突するものでしょうか。そこに共通するところの、人間らしい真善美というものを、楽山は考えないのでしょうか。恐らく、楽山は、考えられないのでしょう。字面の駆け引きだけで面白がる姿勢には、宗教と信仰への理解はありません。
 
 
両者が共存できた理由について、神道の寛容性のゆえだとか、神道は他宗教を神道に合う形に変容させるからだという意見もあるが、著者の考察も説得力がある。
 
このような、考察も説得力もない記事を、気取りと自己顕示欲だけで、平気で書いてくる人は、むしろ珍しいと思います。楽山には、自分信仰の訂正不能の自己愛を宗教化したいのではないかという軟派カルトの疑いがあります。
 
(ネットより)
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象[1]。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
 
結局、記事タイトルの『神道はなぜ教えがないのか』についての、結論も考察も書けない楽山です。感想も、「混乱」「まいった」「面白い」「説得力がある」などと、これは、作文の苦手な小学生が、何か感想を聞かれて、よかった、とだけ言って先生に叱られるのに似ています。
 
こういう傍迷惑なことを、著名人の名を引用して、自己正当化してくる楽山です。何を書いても、理路は拙劣で情緒は乏しく快楽原則だけで褒められるのを待っている自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山の言です。カルト臭満載の、疲労だけを与えてくる二年余りでした。
 
 
短絡して堕ちてゆく

短絡して堕ちてゆく
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月12日、再録+加筆)
 
 
※ 記事の終わりのほうに、楽山についての情報を載せています。自己愛性の害に遭わないために、読んでほしいと思っています。反省しない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)である楽山の、因業、即ち、浅知恵による悪だくみです。
 
 
 
  秘められた目
 
そらした視線の奥に
とじられた来歴
見知らぬ人
途切れた眼差しの向こうに
 
乾いた涙腺にかくされた思い出
小さな花々よ
雑草の中で揺れて
 
眉間に集まる怒りをなだめて
波打つ草原のかなたに
ひそかに落ちていく果実
 
まぶたの裏に
哀しい幻を見る瞳
小さな窓から
見渡せる
限られた風景
 
力なく落とした肩が
物語る姿なき恐れ
はるかに続く道
その先は町並みの明かり
あるいは森の火か
行ってみなければ
見えてはこない
 
苛立ちを耐えている
ふるえる唇
伝える言葉は乏しく
伝わるものはもっと少なく
海岸線を眺めている
 
その足元で
海の音を宿している
拾われなかった貝の殻
それぞれの
ひとりきり
 
今日は何をしましたか
ただ生きれるように生きてみました
だから今は
数々の今日に重なる
明日を待ちます
 
 
  堕落の煮汁
 
昼も夜も
煮汁は堕落である
煮汁は有害である
煮汁は徒労の末に毒を齎(もたら)す
煮汁は濃縮する
屋根の下
蒲団の中
煮汁は乾燥する
灰汁(あく)と澱(おり)と滓(かす)
あるいは苦汁(にがり)
しかし迎える朝
鼻腔が熱の水の閉塞を訴えても
乾いた体は渇いた咽喉(のど)は
臭気と空気を放出しながら
まず最初に水分を要求する
一日分の煮汁の支度である
それが一日の
測れない量の
罪の始まりであり
糧(かて)である
 
 
  自信とは
 
自信とは自分の能力・価値を信じること
キリスト者でも
自信を持つことはあるだろうから
自信と信仰は別だろう
自信とは
努力と実績に裏打ちされた自惚(うぬぼ)れか
努力・実績・自惚れ
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
三つとも無いことがある
怠け者・役立たず・自己嫌悪
飲む打つ買うはしないものの
持たないものは持たないのだから
結果は堕落した暮らしで
せいぜい努力するよう努力して
少しばかり学び遊び
あとは与えられるものを
ありがたく頂いて
頂いたものは頂いたのだから
裏打ちも
裏も表も
あろうとなかろうと
例えば庭が自棄の荒野になり
マイホームが自虐の牢獄になろうとも
心ゆくまで悔いたい
自信喪失者
シアワセのスポンジになるまで
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
悔いれば悔いるほど
心ゆくことなどないのだが・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、嘘を吐きますが、そのために、本音が行方不明です。オオカミ少年のように、いつも狼が来たと言っていると、本当に狼が来たとき誰も信じてくれない、という報いを受けるわけですが、既に信頼度ゼロとなっている楽山は、これから、どうやって、生きるつもりなのでしょう。
 
 
 
 以下は、自己愛性人格障害である楽山の、どぎつい偽装・隠ぺい工作です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは詭弁だね。
いくらか表現はやわらげてるけど、従順さがないと、人の言うことを聞かない天狗になるかのように言うのは、
「全てか無かで途中を認めない」「勝手に極論化する」という詭弁だろう。
私見ながら、自分は従順さより、素直さの方がよほど大事だと思う。
「(引用)
ryuho-okawa.org
従順の美徳
従順の美徳がないと、いわゆる天狗になりやすいということです。天狗になるともう、人の言うことをきかなくて、自分が羽ばたくことしか考えなくなるので、やはり教えが入らなくなってきます。それと、一つの教えに収斂していく傾向がけっこう強いです。
 」
午後7:44 · 2022年8月10日·Twitter Web App
 
人格の偏りのために「従順さがないと、人の言うことを聞かない天狗」になっているのも「全てか無かで途中を認めない」「勝手に極論化する」のも、楽山です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、素直さを装う三文芝居の大根役者が、楽山その人です。
 
従順に代わる良きものとは、ただ、正直さと率直さなのです。しかしながら、正直に最も背き、嘘と詭弁で他者をだまして遊んできたのが、楽山その人です。これほど悪だくみで、他者をもてあそんできた者は、これから、偽善の標本として、ブーメランの地獄を見る定めとなるでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
naru
@kokorodrugstore
自己愛性パーソナリティ障害に価値観の押し付けやジャッジを受けたら、「あなたはそう思うんですね」で終了です。
自己愛性パーソナリティ障害は自他境界が不全なので「お前は私になれ」と主張してきますが、あなたはあなたでしかありません。
同じ考えである必要なんて無いんです。
午前0:29 · 2022年8月11日·Twitter for Android
 
楽山は、隠れ蓑に、自己愛性パーソナリティ障害批判のツイートをリツイート引用してきました。しかし、楽山こそが批判の対象となる自己愛者です。あざとく引用することで、楽山の驚くべき悪意が表れていますが、今に始まったことではないと思っています。楽山は根腐れなのです。
 
「あなたはそう思うんですね」で終わってもいいのですが、楽山の悪意あるブログとツイートなので、私の批判記事は私のツイッターにもコピペしています。罪悪感がなく反省しない楽山には、言論からの追放が必要ですが、それができない分、こちらも、いろいろ考えないといけません。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
naru
@kokorodrugstore
自己愛性PDの執着対象となってしまったら、もうまともな会話はできません。
徹底して「俺が正しい」「お前は間違ってるし価値がない」ことにするための会話です。
会話はねじまがり、記憶は改ざんされ、話が通じることはありません。
相手の障害を実感するでしょう。
午前11:44 · 2022年8月11日·Twitter for Android
 
自己愛性人格障害から受ける被害は、執着対象だけではありません。思考も自己中心になっているために、本人の主観が本人にとってだけ絶対正義となっており、訂正不能です。話せば分かるということがなく、説得不能であり、そのための時間は全て無駄となります。逃げるしかないのです。
 
会うことが不幸、話せば地獄、続ければ精神疲労から鈍麻さらに人格破壊へと進行する可能性があります。一切の交渉は無意味です。一刻も早く離れてください。そして、二度と会わないようにしてください。可哀想などと思ったら自己愛者の思うつぼです。同情に反応する感性はないのです。
 
自己愛性人格障害者には、思いやりや罪悪感がなく、相手の思いやりに反応できる良心がありません。いつも静かに微笑する柔和さなど通用しません。そういう道徳は自己愛者に対しては捨ててください。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)に対して、寛容の精神は禁忌です。
 
 
 ※※※
 
楽山は「自己愛性パーソナリティ障害とは何だろう?」という記事を書いています。内容は、上記3つのような自己愛性パーソナリティ障害NPDについての批判リツイートを、楽山のツイッターにリツイートしたもので、多数集めて、とても長い記事になっていますが、楽山の意見は殆ど書いていません。
 
楽山が書いているのは
 
最初の
*話が通じない理由
SNS上において、まったく対話が成立しない相手と出くわして途方に暮れたことがあるが、先日、その原因と思われることを指摘しているツイートがあったので、ここに保存しておきたい。
 
最後の
個人的には、「なるほど、よく分かるわぁ…」というツイートばかりです。
同アカウントのブログはこちらです。興味ある方はご覧ください。
だけです。
 
楽山がその人、つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。楽山自身は病識がないものだから何も書けないのだろうと思います。つまりカムフラージュなのです。自分で書けば、当然、自分は除外されるだろうという狙いなのです。楽山の底知れない悪意の企みを感じます。
 
「対話が成立しない相手と出くわして途方に暮れたことがある」「なるほど、よく分かるわぁ…」・・ならば、もっと詳しく書けるはずだし、書かずにはおれないはずです。経験したみたいな話ちょこっと、そして、大袈裟な褒め言葉だけ、被害者なら、これで気が済むはずはないのです。
 
私としては、愚かだな・・と思います。既に、私が、楽山の自己愛性人格障害を3年以上批判しているのに、楽山が自己愛性人格障害批判を引用して記事を書けば、その白々しい意図と企みを知らせているようなものだからです。反省する意志がなく、ごまかすことしか考えない病質の因業なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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  楽山のケツの穴3
 
 ケツの穴
 2020年07月11日
 SNS上の誹謗中傷について
 2020年07月11日
 
 
改めて批判します。今回は、ちょいと、おふざけになります。
 
楽山が、ツイッターからコピペして書いているようです。今回は、抜粋しておきます。はっきり言えるのは、自分の、当てつけや詭弁による攻撃性、という、誹謗中傷の中でも、最も悪意に満ちた策略的な、陰険なやり方についての、反省も悔いも、微塵もないということです。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、自分を、被害者の立場においても、加害者の立場には決して置かないのです。反省するはずがありません。だから、記事に引用して、笑うことが出来るのでしょう。
 
今日の私の記事は、言葉遣いが下品ですが、楽山が、すこぶる下品な言葉を使っているので、私も、使うことにしました。なお、元々、私は、それほど上品ではありません。
 
 
(引用)
みんな 真剣に/受け止め過ぎなんだ/ツイッターなんて/ただの意見に過ぎない/意見はケツの穴と一緒/誰にでもある
 」
 
楽山は、これに反応して、
 
これには思わず笑ってしまった。この大らかさは気持ちがいい。
ただ、この譬え話を知ってしまったからには、今後はSNS上で、汚い言葉を見掛けるたびに、ケツの穴…しかもきちんと拭いていない汚いケツの穴を連想してしまいそうだ。これはつらい。どうかそんなことにはなりませんように…(笑)。
 
「笑ってしまった」「おおらかさは気持ちがいい」、などと軽い扱いで、笑う楽山です。"ケツの穴"、から、「きちんと拭いていない汚いケツの穴を連想」してしまうそうです。楽山が出しているのは、自分のケツの穴から出るものでしょうか。そして、人に浴びせるつもりでしょうか。
 
自分のケツの穴を、除外しているから、笑えるわけです。そう、楽山は、批判されている間、ずうっと、ケツの穴で笑っていたのでしょう。楽山のケツの穴は、そんなにきれいでしょうか、否、今までの、嘘と詭弁によって、糞まみれのような気がします。つまり、汚く笑うケツの穴なのです。
 
明らかなのは、楽山が、全く、自分のこととして考えていないことです。他人のケツの穴と思っているから、拭いてなくても笑えるのでしょう。このように、楽山は、真剣味が何もなく、人も神も、笑って、排泄物扱いする人なのです。
 
このように、自己愛の自己中の偽善者は、病識がなく、どんなことを仕出かしても、他人事で済ませて、たとえ、批判されても、びくともしない不感不応のケツの穴?を身につけているのです。だったら、ケツの穴に相応しいところに住めばいいのです。
 
 
二、三の誹謗中傷に対してはスルー対応もできるかもしれないが、大量に長期にわたっての誹謗中傷に対してはスルーだけで済むわけもないということか…。
 
「大量に長期にわたっての誹謗中傷」・・このように、楽山は、いつも、自分を被害者の側において、スルー、即ち、無視することを、正当化します。そして、そのことが、楽山の体質として、批判のテーマとなってきました。こういう人に、勝手にさせると、議論も交流も成り立ちません。
 
楽山の長期にわたる嘘と詭弁に対して、私は、3年余りにわたる批判を続けています。もちろん、ケツの穴をほじくる趣味はないので、笑ってはいません。私の批判に対して、楽山は、批判と誹謗中傷を区別できないまま、趣味のようにとらえているのでしょうか。
 
 
たしかに、正義の立場から不道徳な行いをただすとか、自分の好きな番組を台無しにされて被害を受けたとか、そういう主張が目立つ。
こうしてみると、被害者意識だとか、正義だとかいうものは、本当にやっかいだ。
 
被害者が、被害者としての意識を持たなければ、悪が栄えるだけです。また、まともな人間なら、正義を考えないで、生きることは出来ません。しかし、楽山は、「被害者意識だとか、正義だとかいうものは、本当にやっかいだ」と言っています。どういうことでしょう。
 
自身の被害者意識を認めないということは、鈍感だということでしょう。しかし、他者の被害者意識を認めない、ということは、他者に対する加害者意識も罪の意識も持たない、ということでしょう。つまり、思いやることが出来ないということです。
 
正義などは、厄介だから、気にしない、気にしなくていい、と宣言しているようなものです。楽山の墓穴が、どんどん深くなってゆきます。楽山は、他者の意見を無視すると、他者の意見は、ますます、大きなうねりとなってゆくでしょう。楽山は、深い深い真っ黒なケツの穴になるのでしょうか。
 
私が、楽山を批判するのは、被害者意識でもなければ、正義と信じ込んでのことでもありません。楽山の書く宗教と信仰の記事が、カルト的で、有害と判断したから、批判しています。これは、判断であって、正義と信じ込むのとは違います。
 
楽山が正当であると分かる弁明があれば、私は、訂正するでしょう。しかし、楽山は、そのような弁明の記事を、この2年余りの間に、一度も書いたことはありません。いつも、被害者意識から、当てつけの悪口と、嫌らしい嘘と詭弁ばかりです。
 
楽山には、嫌らしいという感覚がないのかもしれません。楽山は、今回、「ケツの穴」という、絶妙な喩えを持ち出してきました。まさに、楽山の書く文章は、ケツの穴から失禁されるところの、とても臭い"もの"なのです。痔核があるが自覚はないのです。そして、呆然痔疾なのでしょうか。
 
楽山の口は、その "穴" であり、そして、その、しばしば真っ赤にのぼせるケツの穴を、丁寧語と詭弁のボンヤリ言語で、やさしい "くちびる" に見せかけてきたのです。実際は真っ赤な嘘を吐く口と唇です。だから、いずれ、真っ黒になるでしょう。
 
そして、あろうことか、楽山自身が、人のケツの穴を、自らのケツの穴で、笑っているのです。誹謗中傷、悪口、罵詈雑言のみならず、さらに、嘘と詭弁で塗り固めたような、嫌がらせと当てつけの言葉は、まさしく、いつも未消化の、楽山の、下痢便の臭い臭い失禁であります。
 
私は、批判するときには、辛辣な比喩表現も使ってきました。今回は、楽山が、自分を棚に上げて、しかし、いつもの気取りとは裏腹な、絶好の辛辣な "ケツの穴" という比喩を、提供してきました。つまり、虚飾の言葉を使わなければ、実際は、締まりなくケツの穴まで落ちる楽山ということです。
 
当てつけのつもりが当てつけられる、人を笑えば自分が笑われる、というブーメランという常識を、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、考えないのでしょう。笑えば笑われる、人に言ったつもりが自分にぴったり当てはまる、自業自得の楽山の因業が続いています。
 
 
ケツの穴、穴、穴

ケツの穴、穴、穴
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月11日、再録+加筆)
 
 
 
  老いと病
 
三十代から始まる
ひとこと言われた後に
続く笑いが気に掛かる
自分は照れ笑いしているくせに
 
事故で入院する
白髪がごそっと増える
面(つら)の皮が厚くなる
鼻の皮が硬くなる
放屁する場所を余り構わない
放屁自体が増えてくる
腸のグルグルが増えてくる
便秘も下痢も増えてくる
小便も近くなる
間に合わないことがある
尿漏れパッドを買ったりする
おむつも買おうかと思ったりする
 
すっかり白髪頭になってしまう
一つ難しいことを覚えると
二つ易しいことを忘れる
覚えた一つも忘れる
ひとこと言った後に
続く笑いに気づかない
ひとこと言われた後に
続く笑いに笑っている
気に入らないのに笑っている
いつまでもいつまでも笑っている
 
以上に気づいて黙ってしまう
人のせいにしたくなる
病気で入院しない
いつまでもいつまでも黙っている
わけにいくか!
と何か言い始める
 
 
   夏の終わり
 
陽射しにからんで
山に吸い込まれる風
風に乗る草
気配のように
乱れて舞う
 
家並みは遠く
乾いた玩具のよう
太陽と山の間で
熱が行き交う午後
 
だるい恐れに疲れて
慈愛の錯覚に落ちても
夢の善し悪しを問わず
旅人の来歴を問わず
 
草原に連なる山の間に
止まったオートバイの横で
小さな墓穴のように
くぼんでゆく命と眠り
やがて黒い点となって
遠景の中に消える
 
小さい光 一瞬きらめいた
オートバイを残して
熱は輝く
あらゆる夏の終わりに
 
 
  穴と窓
 
上から下まで穴だらけ
だが吸い込める穴は三つしかない
でも取り込める窓は無数にある
しかし滅多に窓は開かれない
それでも稀(まれ)に出入りする風
上から下まで穴だらけ
しかして風の方に体液は乗る
 
(人体のことです)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
相手が不機嫌な顔をしているからといって、こちらも無愛想な態度を取るなら、それは自分の行動を相手に左右されるということ。どんな相手にも、心からにっこりほほ笑みかける。誰に対しても自分のやり方を貫く。それが本当の自由です。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
午後11:31 · 2021年8月1日·Twitter Web App
 」
 
楽山は、相変わらず他者の口を悪用して自己顕示の宣伝を続けています。不機嫌に対して無愛想は、自分の行動を左右されることだそうです。どういう人なのか情報を集めるとか、危ない人なら無愛想どころではなく、逃げるか避ける、等々、多様な状況を考慮しないのでしょうか。
 
「どんな相手にも、心からにっこりほほ笑みかける」・・楽山が三文芝居でやっていそうな、気色悪い芝居だと思います。"ありがたや宗教" か "幸福信じてます教" の境地自慢でしょうか。こういう人は、楽山のような偽善者の世辞の褒め言葉に一番だまされやすいと思います。
 
「誰に対しても自分のやり方を貫く」・・安易な言い方です。楽山は、誰に対しても、自己中の裏道を貫いています。人の言うことを、聞いてるふりして、聞かない者もいるという典型として、まさに、楽山は、丁寧語でごまかして、実は何も受け取っていない、という無視の権化です。
 
信仰の道徳を説いたつもりでしょうか。「それが本当の自由」・・違うと思います。重要な「本当の」「自由」というテーマについて、気安く短く結論してしまうのは、人間を巡る状況の多様性や奥深さを考えない人に、よく見られることです。
 
総ての場合に「それが本当の自由」だと、キリストが言ったわけではないでしょう。言葉は、心を伝える暗号です。聖書は神の言葉でも、聖書を読む私たちは人間の言葉しか持っていません。付け焼刃の言葉を伝えて、考察もしないで公言してしまうのは、説教する態度ではないと思います。
 
説教者の、自己陶酔には気をつけましょう。それを自己満足で気安く引用する楽山には、決して、近づいてはいけません。楽山は、宗教でも思想でも本でも発言でも、自分の妄想に少しでも似ていれば、自分を高めるために利用するのです。楽山の、安い道徳話を受け入れないでください。
 
楽山は、神の存在を否定してたのに、信じないのもよくないが信じ過ぎてもよくない・・などという、いい加減な宗教を考えているようですが、それは、何の救いにもなりません。楽山が何か書けば、楽山の、知性も感性も鈍くなっている病質が表れてくるだけなのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 2.の発言は、楽山のケツの穴からです。だから、「反省」という必須の作業を「難しいんだよなあ」「自分もそんな風です」「人間の性なんでしょうかね」などと、必要悪のように正当化する、白々しい嘘と出まかせなのです。このような排泄ばかりしてきたのが楽山です。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
記事を読んで思ったけど、悪口と批判の違いはこんな感じかもね。
・悪口…邪推、錯誤、決めつけで、相手を悪く言うこと
・批判…客観的事実に基づいて難点を指摘すること
悪口が投影になりがちなのは、自他を客観的に見ることができていないせいなんだろう。
午後10:33 · 2022年8月9日
 
楽山は、悪口しか書けない人です。客観性がないのは、楽山が、自己中だけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。いつも決めつけてきます。根拠を示したことはありません。示したつもりになって上のようなことを書くのは、自分を見る目を持っていないからです。
 
つまり、楽山は、悪質な加害者なのですが、いつも自分が被害者であり、自分は正しいと思い込んでいるのです。楽山は「客観的事実に基づいて難点を指摘」したことは、一度もありません。そもそも、事実というのは、主観によって選択され、解釈が付き、純粋な客観性など、厳密には殆ど無いのです。
 
議論や意見において、大事なのは、解釈の真偽と、説得力であります。それを知らずに、楽山の「批判…客観的事実に基づいて難点を指摘すること」は、楽山の書くことが、先入観か決めつけで、おおよそ、客観性から、ほど遠いという事実が否定します。まだ何か言えると思っているのか。呆れる。
 
 
 
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  個人カルトの惨状3
 
 
聖書の、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活を、声高に主張し、なくてはならないと信じている信仰?は、信仰ではないと思います。。いちばん大事なものに触れていないからです。神の意志と行為を決めつけて奇跡で守られると信じ込んでいるのは、シャロームshalom という偽善者と同じ所業です。
 
例えば、総ての人がシャロームの信条を信じたらどうなるかということを考えれば、自己中の妄想症であるシャロームの言説の矛盾と害毒から、明らかになることがあります。これらは、楽山と共通しています。妄想は、救いの中心にむしろ背くものですから、信仰にはなりません。
 
例えば、信仰は人それぞれ、というのは、聞こえはいいですが、信仰は好き勝手にやっていい、という意味で使って、批判を聞き入れないのが、シャロームです。それを黙認すれば、キリスト教を名乗るカルトが、好きなように蔓延るでしょう。ここも、楽山と共通しています。
 
どうなるかというと、偽牧師シャロームの言説は、自己中心ですから、広まれば広まるほど、自己中の人間が増えてきて、結局、憎み合う経過と結果になるでしょう。閾値を超えれば、暴力的な争いを生む必然があるのです。
 
シャロームは、真実の追求が出来ません。何故なら、既に、固定された真理を得ているつもりだからです。教える立場だけを持っていて、そこから、妄想教理を何度も垂れ流してきます。教える立場しか持ち得なくなって、学習と成長が出来なくなるのです。楽山も同じ性質です。
 
シャロームに、いつのまにか刷り込まれてゆけば、シャロームと同じように、丁寧であれば、いい人、ということを真似するようになるでしょう。シャロームのお仲間は、実に、他者のあしらいが似ています。それで、易坊、楽山が、お仲間ですが、同一人物の3者への成りすましを疑っています。
 
楽山と易坊は、自己中の所業を無視してシャロームの味方をするのです。裁判ではないのだから推定無罪が成立するわけではなく、証拠不十分は、どちらが正しいとも言えないはずなのに、シャロームの言い分を是として選ぶことが、既に、中立ではない偏向の証拠です。
 
ネットでは、どちらが正しいとも、はっきりした物的証拠は、見つからないことが多いのです。そういうわけで、カルト、荒らし、成りすまし、など、偽善者が、法的な犯罪に至らずに、活動しやすい環境だということです。
 
いい言葉、よさそうな言葉、といっても、ここでは、よさそうに見せかける言葉ですから、偽善者の言う言葉であり、中身がありません。非現実的であったり、深みがないと感じたり、言動が合ってないような気がするときや、ネットでの、いい行いが伴っていないときには、警戒するべきです。
 
シャロームや楽山など偽善者は、自尊に凝り固まっているので、反省をしません。失敗や失言などの非を認めません。指摘すると、当てつけや嫌がらせを返してきます。そうして、コメントを受け取らなくなり、批判記事は無視してきます。
 
シャロームや楽山などの偽善者は、神が与えた良心、つまり、良きものであるところの、思慮分別、人間的共感性、温もりと潤いという暖かい感性、悲しみのうちに反省する心など、人間らしいものを、病質と妄想教理のために持っていません。
 
聖書の言葉から神の導きを、人は推測しながら判断して進む信仰の道だということを、つまり、一気に悟りに至って固定する境地ではないことを、シャロームは、理解できません。そして、訂正不能の固定観念によって、新しい言葉を得ても、自分の言説に合うように使うため、少しも変わらないのです。
 
ゆえに、正常な人が感じて考えていることを無視して、自分で無理やり捏造するしかなくなり、自然の良心と、作為の捏造の違いとして、奇怪にズレて外れて芝居がかった和みと世辞と豪語に頼るしかなくなっているのです。そういう説教は、人間離れを勧めているので反信仰です。
 
心のどこを探しても信仰はない、とシャロームは言っていました。恐らく聖書の"土の器"という言葉を、何かすごい超常的で神秘的なものと受け取って、自分にはそれがあると自慢したいのでしょうが、嘘です。信仰は心に与えられます。人間らしい心の温もりと潤いのない人は、信仰を受け取れません。
 
楽山もシャロームも、心にある、地味で、目立たず、壊れやすい "土の器" という、信仰の器を持っていません。代わりに、派手で、目立ちたがり屋で、訂正不能で成長不能な、派手な飾りを、器だと自慢して、慢心して、修復不能になっているのです。
 
良心のある正常な人間は、人生に悲しい出来事が起こると、深刻に受け取らざるを得ないときには、悲しいから死ぬか、悲しいけど生きるか、という選択になります。しかし、心に温もりも潤いもない者は、他者のせいにして怒り恨むでしょう。アベルを殺したカインに、それを見ることが出来ます。
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世記4:5-7、旧約聖書)
 
それらの作為の悪と偽善の醜さは、積み重ねられている途中であり、ますます、むごたらしい惨状を呈してくるでしょう。罪が門口に待ち伏せているからです。カインは、自らの不都合を他者のせいにしました。カインは、サイコパスの起源のようなモデルなのかもしれません。
 
 
人間が生きるためには、最低限の衣食住が必要ですが、それが何とかなっても、生きられるとは限りません。人間は、物質でもないし、理屈でもないし、統計の数でもないから、何かを宛がわれて、元気になるわけではありません。人間だからです。
 
人間が生きるために必要なのは、絶対孤独ではないことです。それが残っているあいだは生きるほうを選べるでしょう。人間関係がないと感じて絶対孤独に陥ると、必ず希死念慮は起こってきます。信仰は、人に見離されて、どんなに孤独でも、最後の砦として、キリストがおられることを告げています。
 
私にとって好ましい人間関係は、私の至らなさで、殆どなくなったのですが、私が、生きてみようと思い、今日一日のパンがあれば今日一日生きる、という気持ちで、生きているのは、信仰者である人間として、キリストとの関係という希望からだと思っています。
 
人間にとって、信仰、すなわち、神聖との関係は、人間の側から分かるのは、あくまでも、人間としての受け皿です。だから、人間に生きる力を与えうるのです。シャロームと楽山が典型ですが、超常のことばかり言う人を、信頼しないでください。
 
神聖との関係などと思い始めると、聖書の謎解きに走ったり、何ごとがあっても自分に都合の良いように恵みが与えられるんだとか、気合いで、ありがたがったりするような、信じ込む信仰?になります。それは、信仰ではなく、カルトと同じ思い込みの形式をベースとする間違った偽りです。
 
カルトと同じベースの信仰?は、悟り顔の、わざとらしい薄笑いや、いつのまにか、他人より自分は高いと潜在的に思い込んでしまいます。ゆえに、自尊や有頂天の陶酔になることはあっても、生きる力にならず、いかなる温もりも潤いも、みずみずしい気づきもないのです。
 
何故なら、私たちが、人間だからです。人間としての知性や情感、つまり、弱さや罪深さで反応できることだけが人間を救うのです。偉大な神が味方だからと、豪語ばかりしている人は、いちばん大事なことを、見失っている可能性が高いです。
 
人間の弱さと罪深さに寄り添って同伴してくれるのがキリストであり、正直な罪人を、飾りのない一人の人間として、二千年前に愛してくださった言行録が伝えられているのが聖書であり、キリストの同伴という聖書から得られる信仰の救いのメッセージです。
 
キリスト者(クリスチャン)というのは、キリスト・イエスに、情緒的にも、理性的にも、囚われているがゆえに、その絆(きずな)によって、自らを尊大とは成り得ない罪人として、キリストの同伴と罪の赦しと癒しと導きを願いながら、正直な祈りとともに、生きてゆく人間に他なりません。
 
決して、一気に悟って、揺るがない境地に居るのではなく、折々に反省し悔い改めて告白し、学習し修正し成長して行く生き方がキリスト信仰の生き方であります。揺るがない信仰というのは、固定ではなく、生きてゆくための忍耐力のことです。
 
キリスト者において、キリストの御名によって祈ることこそが、キリストの同伴を信仰することであり、あらゆる現実から見放されても、決して超常魔術のような一方的な理解不能の力頼みに逃げるのではなく、より人間的な温もりと潤いに恵まれて生きるのが、キリスト信仰です。
 
カルト的超常の豪語に惑わされないようにしてください。彼らは、人間でいるのが嫌で嫌でたまらなくて、超常の欲望を自らに当てはめるほうに短絡して、自己満悦しているに過ぎません。彼らは、人間離れと現実離れになりたがって、妄想世界に生きています。
 
だんだん、実際に人間らしさを失って、人を下に見るようになり、能力がないのに、信じ込んでしまったために、自身の過大な確信によって、むしろ、自らの無能と、超常の全能意識の間で、自他を破壊する道を選んでいる者たちであります。どうか近づかないでください。
 
救いのうち、超常現象は、神の偉大さを表す神聖の専権事項です。神に任せるしかないことです。人間が、ああだこうだと辻褄を合わせたり、信じ込んだりできることではありません。このことに、信仰の目覚として気づくことが必要不可欠です。人間らしい信仰者であり続けてください。
 
 
カルトの目指す果て

カルトの目指す果て
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年08月10日、再録+加筆)
 
 
 
 (ヨブ記より抜粋)
38:1
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
38:2
「無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 ・・・
40:1
主はまたヨブに答えて言われた、
40:2
「非難する者が全能者と争おうとするのか、
神と論ずる者はこれに答えよ」。
40:3
そこで、ヨブは主に答えて言った、
40:4
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです。
40:5
わたしはすでに一度言いました、また言いません、
すでに二度言いました、重ねて申しません」。
 (ヨブ記より抜粋)
 
 
ヨブが、最終的に、神に救われたのは、この聖句のように、おのれを空しくして、そのままの自分を、正直に、神に捧げる態度を示したからです。それまでの実績も、富も、正しさも、善なる行為も、神の前には、意味をなしません。
 
祈りとは、一途に、神の前に、自分の罪と無力を "正直に" 認めることです。
 
神の前には、善悪でも正邪でもなく、"正直" だけが必要です。
 
神の前に "正直" でしかありえない人は、人の前で、完全な正直は難しくても、だますような作為の悪や偽善などの罪を犯すことは出来なくなります。信仰が、善悪や正邪と接するのは、この一点においてであり、信条・教理・教条によって固定されるものではありません。
 
人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思ってしたことが、相手を傷つける、ということも起こってきます。人間は、真善美の追求において、即ち、善を心掛け、真実と正しさを追求するときに、このことを承知していることが必要です。
 
つまり、このことは、絶対の神の前において、人間が、たとえ讃美であっても、真善美を豪語できないことの根拠であります。善悪と正邪の判断は、人間にとって、絶対ではなく、完全ではなく、不完全なのです。ゆえに、神の前に通用するのは、"正直さ" だけなのです。
 
キリストが敵としたのは、褒められることだけを悦び、批判されると憎しみをもって殺意をいだくような、そして、正直の代わりに、うわべの善と正義に酔い痴れているような、いわゆる偽善者であります。結局、そのような者たちが、救い主キリスト・イエスを、殺すことになるのです。
 
 
 
  (抜粋)
 
悲しみを悲しみとして受けとめれば、泣き怒り時には背教の念さえ抱く。そういう裸のありのままの姿の自分を見て神の前にさらけ出し認め自覚することによって隠さず正直に神に告白して祈り、無力を認め力を求めることによって初めて耐えるという愛するためのきびしい忍耐の行為が生まれるのである。
 
何よりも神の前に正直であれ。疑いも正直に告白せよ。背教の念をいだいたならば、それをいだいたと正直に告白せよ。キリスト者はそのために祈りという情緒的で人間的な手段を与えられている。すべてを見抜かれる神の前に、人もまた何事も隠さず告白する権利を、そして義務を与えられている。
 
 
  祈り
 
父なる神よ
私はあなたに触れることの恐れのために
あなたを恐れます
あなたは火のように強く
私は火にかざした一本の髪の毛のように縮み上がり
それほど無力であるがためにあなたを恐れます
私は罪深く
私の知恵は乏しく
父なる神よ
あなたの御心ははかりがたく
それゆえに私はあなたを恐れます
罪の深さを知るほどにあなたを恐れるばかりです
私はやさしい父を呼ぶようには
あなたを呼べず
「私を見たものは神を見たのである」という主の御言葉にすがり
ただ主イエスキリストの御名にすがるのみです。アーメン。
 
父なる神よ
私はここにいます
あなたに恥ずかしく
隠れようとして隠せず
あきらめようとしても未だ救いを求めているのです
一体どこで
いつ私は裁かれるでしょう
いつ私は召されるでしょう
恐れる心を隠せないのです
隠す知恵もなく
隠してもあなたは見通されるからです
父なる神よ
いつまで待てばいいのでしょうか
何か私にできることがあるのでしょうか
あなたがお望みなら
それが御心ならば
私のこの世の欲に構うことなく
私の苦しみに構うことなく
御心を成就させてください
私がどんなにあがいても抗っても
すべてが御心のままになることを知っています
すべてが御心のままになることを教えてください
いつ死んでもよく
いつ生きてもよいと
私が言えますように
そして行なえますように
私の恐れを取り去ってください
私という矛盾があなたの手の中にありますように
主の御名によって祈ります。アーメン。
 
 
  告白
 
人の悪意から遠ざかれたとしても自らの悪意からは遠ざかれるものではなく、そのために罪に打ちひしがれ「私は打ちひしがれるために生まれたのですか」という裸の嘆きのあるがままの姿で、命の終わりを迎える前に「自分で自由にやっていく」ことの不自由さを、逆に、福音として受けとめるほかはない。
 
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
  酒を飲む
 
久しぶりに酒を飲む
焼酎のジュース割り
夕食の残りで深夜の空腹を満たす
短い眠気と吐き気
アルコールは正直だ
かつてそれがセレモニーとも知らずに
正気を失って飲んで歌った
べらべらと喋りまくった笑った
アルコールは正直だった
量を越せば正気を失わせた
量を越せば吐き気や眠気を与えた
アルコールが正直だった分
翌日私は何事もなかったかのように
あれも一つの仕事でした
という顔をしなければならなかった
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる
 taka のツイッターですが
 
taka
@taka84156681
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
引用マンガ(省略)のセリフ
「人生を変えようとする人を叩くのは
 人生を変えられない人だからな」
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
 
批判してきた約3年余り、楽山は、発信はするが、何も受け取らず、人生を、浪費しているだけです。しかも、発信によって、害を及ぼすだけです。そういう無反省・無責任の人に、人生を良い方向に変えることなど出来ません。被害者意識だけで、ますます、悪性に変質してゆくだけの経過です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
宗教の教団に入信していないが、その言説が、カルトと同じ、単方向の訂正不能そして無反省であるのを、個人カルトと呼んでいます。また、無神論の記事を載せ、神を証明したら信じてやるなどという見当違いの雑言に賛同する者を無神教カルトと呼んでいます。楽山は両方に当てはまります。
 
 
 
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  とこしえのマンガ2
 
 とこしえの御座 (詩編9:8)
 2019年07月27日 楽山日記(LD)
 
 
「主は裁きのために御座を固く据え
 とこしえに御座に着いておられる。  
 (詩編9:8)」
 
 (詩篇、口語訳)
9:7
しかし主はとこしえに、み位に座し、
さばきのために、みくらを設けられました。
9:8
主は正義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9
主はしえたげられる者のとりで、
なやみの時のとりでです。
 (詩篇9:7-9、旧約聖書)
 
救いに関する大事な教えが書いてあるのに、楽山は、自らの空想に都合のよいところしか引用していません。楽山が、「しえたげられる者」ではなく、しえたげる者だからでしょうか。
 
 
以前は、とこしえ、永久、永遠という言葉は、けっこう好きだった。
 
楽山が好きなのは、超常言葉であることが表れています。人間の心に目を向けないことも、ここに、表れていると言ってよいでしょう。しかも、聖書に表された神の性質を、神を否定している楽山が、ほとんど趣味的な表現で「けっこう好き」だったに過ぎません。
 
 
でも近頃は、そういうことを想像するだけで圧倒されてしまうし、ふっと気が遠くなるような心持ちがする。
 
「圧倒されてしまう」「気が遠くなる」・・とこしえ、ということを、想像することは、3次元+時間軸に縛られている人間には出来ないはずです。楽山は、どんな想像をして、気が遠くなったのでしょう。超常だからすごい、ということくらいでしかないと思います。
 
ボクって感受性が過剰・・とでも言いたいのでしょうか。芝居がかっていて、わざとらしいですから、その分、浅くて軽い気持ちの嘘だと分かります。
 
 
たとえば、とこしえという時間は、宇宙の百倍の大きさの石があるとして、、一兆年に一度、鳥の羽根でかるく撫でることを繰り返し、すべてが摩耗して塵になるまでの時間よりも、ずっとずっと長いのだろう。
 
何という分かりにくい喩えなのでしょう。「宇宙の百倍の大きさ」も「一兆年」も、人間には、想像の域を超えているはずですが、自分は分かるんだと言いたいのでしょうか。自尊過大の誇大妄想的な表現としか言えないでしょう。あるいは、何かの物語のパクりでしょうか。
 
 
そのくらいの間、神は御座についておられると想像したら、あまりにスケールが大きすぎて、めまいがする。
 
とこしえ、だから、永久なわけです。そこで、人間の限界を感じるはずです。神の御坐を持ち出す必要はないと思います。なんか、ズレていると感じます。「めまい」は、またしても、軽い気持ちの、嘘でしょう。なんだか、気障(きざ)というか、安いというか、自分で分からないのかと思います。
 
 
また、人が永遠の命を得たとしたら、そういう時間を生きることになるのだろうし、これも想像しただけで、足下がふらふらしてくる。ちょっと怖い気もする。
 
永遠を、時間としか考えられない楽山です。ときに聞くことのある、一瞬が永遠、という言葉も、楽山には理解不能なのでしょう。小学校の時空の認識のまま止まっている感じです。想像力が、正常に発達していないのかもしれません。能力の問題ではなく、体質の問題でしょう。
 
「足下がふらふらしてくる」「怖い気もする」も、軽い気持ちの、嘘でしょう。全体に、楽山は、実感がないことを補うかのように、大袈裟で単純な言い方をしてきます。飾りだけの作文です。かなり、気持ち悪いです。
 
 
そんなわけで以前は、とこしえ、永久、永遠という言葉には憧れを持ってたりもしたけれども、最近はどうも、そういうことは想像することさえ遠慮したい気分になってきている次第である。
 
楽山の「憧れ」ほど、怪しいものはないでしょう。想像は遠慮できる性質のものでしょうか。浮かんでくるものではないでしょうか。想像は、楽山にとって、はっきり決意して、浮かばせるものなのでしょうか。想像は、できるときに、してしまうものです。
 
しかし、神の性質は、想像さえできないものです。恐らく、楽山の永久(とこしえ)は、いくつもの作り話が可能になるような、紙に書いたマンガのような、平面的なものなのでしょう。
 
 
とこしえの加害

とこしえの加害
 
 
(2021年)
(2022年08月09日、再録+加筆)
 
 
 
  友
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
 
人は到底それらすべてを知り得ない
 
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
 
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
 
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
 
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
自分は優れているという自覚で、実質が伴わないのを、嘘と詭弁で飾ることによって、自意識を保っているのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。反省しないことと罪悪感の欠如が、最も加害性につながります。思いやりや共感などの高等感情がありません。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これも、よく分かるわあ。
「えっ!?」という違和感は、安易にスルーするのでなく、大事にしないといけないとしみじみ思う。
(引用ツイート)
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 · 8月5日
関係の初期に感じた、なにか奇妙だという感覚。それが後になり、自己愛性が原因だったとわかるが、本人に自覚させることは困難。
 」
 2022年8月6日
 
「よく分かるわあ」・・よくも、こんな白々しいことが言えるものです。奇妙、自己愛、・・最も感じさせてきたのが、楽山です。この期に及んで、まだ、こういう言い逃れの詭弁を弄するところに、楽山の底知れない悪意が垣間見えてくるのです。楽山は既に「なにか奇妙」ではなく、はっきり異常です。
 
 
 
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  楽山の聖書曲解2
 
 「第六講 神学者ビルダデ語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年07月30日 楽山日記(LD)
 
 
信仰者でもないのに、信仰の欠片も持たないのに、楽山は、なぜ、聖書について書いてくるのでしょう。それは、知っている、分かっている、読んでいる自分を誇るためでしかないのです。言動の動機が自己顕示欲だけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
 
第六講を読了。内容をメモしてみる。
第8章の研究。
第8章に入る前に、まず前章について、7.17-18は、詩篇より引用か。
ヨブに限らず、「健全なる人にして、神が罪の故を以て我を苦むるとの霊的実感を味わいし人が少なくない」。
「ヨブの呟き」は、神より離れていないためのもの。神を離れてはこの呟きもなくなる。「全く神を棄つるよりは呟きつつも神を保つを優に勝れり」。
ヨブは友と語り、神に訴え、自己に語りつつ、少しずつ神に近づいている。
 
 (ヨブ記、口語訳)
7:17
人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、
これにみ心をとめ、
7:18
朝ごとに、これを尋ね、
絶え間なく、これを試みられるのか。
7:19
いつまで、あなたはわたしに目を離さず、
つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20
人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、
あなたに何をなしえようか。
なにゆえ、わたしをあなたの的とし、
わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21
なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、
わたしの不義を除かれないのか。
わたしはいま土の中に横たわる。
あなたがわたしを尋ねられても、
わたしはいないでしょう」。
 (ヨブ7:17-21、旧約聖書)
 
「少しずつ神に近づいている」・・ヨブは、神に近づいてはいません。背きそうな心情を、神に向かって、訴えているのです。楽山は、小学生レベル、偏見と先入観レベルであり、深い情緒を持っていません。楽山は、聖書について、何も分かっていません。楽山が書けば、それだけが表れてきます。
 
ヨブは、例えば、自分は、神にとって、何なのですか。監視していながら、神は全能でありながら、苦しみを与えるのか、なぜ、赦してくださらないのか、もう駄目になりそうです、というような、気持ちを、正直に、神に向けています。苦難の時にも、それを神に訴える分だけ、信仰者にとどまっています。
 
とどまっているのであって、近づいてはいません。人から、神に近づくことは出来ません。人は叫びのような祈りをすることがあるということです。楽山は、何も分かっていません。楽山を是としないでください。楽山は、何も理解せずに書いています。
 
楽山の「少しずつ神に近づいている」は、楽山の無理解を表しています。ヨブに賛同するのは、部外者だからでしょう。楽山にとって、信仰者を、楽山の考えるヨブの延長?として、最終的に、神から引き離すのが目的です。それだけ悪魔性が強いということです。
 
 
第8章において、ビルダデはヨブの子の死は罪のためとする。ヨブに悔い改めをせまる。「無情なる浅薄なる神学者」である。「ビルダデの説く所に多少の真理ががないではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である」。
 
悔い改めも、信仰も知らない楽山が書いています。今までの、キリスト教と神否定の文言という自分の言さえ、なかったかのように無視して、あたかも賛同するようなことを書いている楽山の悪意の企みに、決して惑わされてはいけません。
 
信じる気など微塵も持っておらず、ゆるされることを、自尊のために、受け入れることもなく、分かったふうに、キリスト教にちょっかいだけを出してくる悪魔的存在に、決して近づかないようにしてください。悪質な、遠回しの誘導です。楽山は、神も、人も、いちばん恥ずべき自分も、見ようとしてはいません。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:4
あなたの子たちが彼に罪を犯したので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
8:5
あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6
あなたがもし清く、正しくあるならば、
彼は必ずあなたのために立って、
あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
 (ヨブ8:4-6、旧約聖書)
 
パリサイ的な、行為義認を、因果応報みたいに、ヨブに当てはめています。これで、悔い改める人はいないでしょう。
 
 
アブラハムの一夫多妻を記したのは、それが害であり、一夫一妻が善いことを示すため。ビルダデの無情さが描かれているのは反面教師としての意。
ヨブ8章と合わせて、コリント前13章を読むべし。愛なくば知識も信仰も空である。すべては愛ありてこそ。
 
楽山のように、愛も共感性もない者は、知識をひけらかしても空しいだけです。愛も共感もない楽山には、総てが空しいだけです。楽山が、コリント13章を挙げるのは、笑止であります。
 
楽山は、ただ、自分で自分を高めるためだけに聖書を読んだふりをして、学識と理解を装っている偽善者なのです。恐らく、楽山は、先入観抜きで、聖書を、例えばヨブ記を、まじめに読んだことはないのだろうと思います。
 
楽山は、寛容ではなく、情深いどころかサディスティックであり、また、ねたみ、高ぶり、誇り、不作法を省みず、自分の利益を求め、いらだち、恨み、仕返しを企みます。
楽山は、不義を喜び笑い、真理を憎み、そして、何も忍ばず、何も信じず、何も神に望みを置かず、何も耐えず、いちずに、復讐を企んでいます。楽山は、殆どサイコパス、凶暴で執拗な反キリストです。
 
自分の発信したブログの、背教の記事と発言を、ここでだけ無視して書いてくることこそが、楽山の、傲慢不遜の証拠であり、反キリストの頑強な悪魔性の証しなのです。書けば書くほど、白々しさが楽山を否定するのです。罠をかける悪魔の性質に酷似してきます。
 
 
ここで特に心に残ったのは三箇所。一つはヨブの呟きは神から離れていないからだというところ。神に対して否定的批判的なことを言うと、即、不信仰だの冒涜だのと責められることがある。でもそういうことは神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉なのだろう。
 
楽山は、本心ではなく、人心を惑わせる企みによって「否定的批判的なことを言う」人であり、キリストからも決して赦されることのない偽善者の一人です。またしても、楽山は、詭弁を弄しています。
 
楽山の言は、ヨブなどの信仰者の、本心からの、叫びに近い祈りとは全く別のもの、というより、逆であります。訂正不能で悪意だけのナルシストは、真っ向からのキリストの敵です。
 
楽山は、「神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉」と言って、またしても、自分も批判したが、神との縁がつながっている、という自己正当化を図っています。
 
楽山の詭弁は、自己愛によるもので、正直な疑いを本心から訴えているヨブとは、全然、違います。
 
楽山は、いちずに読者をだまそうとしています。これが、楽山の本性です。自ら滅びを選んでいる者に、近づいてはいけません。楽山は、何も気づかず、笑っていると思います。
 
 
もう一つはヨブは友人から誤解され、責められて傷付くが、それが真理に眼を開き、光明に近づく切っ掛けになっているという指摘だ。苦は出来れば避けたいことではあるが、それによって真理に導かれるということもあるとすると、ここは神義論、弁神論と関連が出てくる。
 
ヨブが、友人から誤解されたのではなく、友人が、信仰を曲解し、思い込んで、ヨブを責めているのです。そのような者たちが救いの助けになることはないのです。楽山が、信仰?を語ると、このようなものに近くなるでしょう。
 
楽山の、神義論と弁神論の記事は、詭弁と嘘の、成り立たない理路だったし、いかにも、信仰を理解できない好事家が、でっち上げた自分信仰の産物でした。楽山に、聖書とキリスト教理解を求めてはいけません。言いように利用され、疲労と人格破壊をもたらされるだけです。
 
つまり、このような記事を書くこと自体が、信仰者の敬虔に反していて、偽善者に相当する楽山です。楽山は、神の前で、神に気づかず、役に立たない知識を振りまワズ自己顕示欲の奴隷として、あらゆる真実の追求に対する反逆者であります。
 
 
三つ目は著者がビルダデを強く批判しているところだ。「人情の機微をも知らずして、ただちにわが神学的断定を友の頭上に加えて得々たるところ」云々とかなり手厳しい。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:13
すべて神を忘れる者の道はこのとおりだ。
神を信じない者の望みは滅びる。
8:14
その頼むところは断たれ、
その寄るところは、くもの巣のようだ。
8:15
その家によりかかろうとすれば、家は立たず、
それにすがろうとしても、それは耐えない。
8:16
彼は日の前に青々と茂り、
その若枝を園にはびこらせ、
8:17
その根を石塚にからませ、
岩の間に生きていても、
8:18
もしその所から取り除かれれば、
その所は彼を拒んで言うであろう、
『わたしはあなたを見たことがない』と。
8:19
見よ、これこそ彼の道の喜びである、
そしてほかの者が地から生じるであろう。
 (ヨブ8:13-19、旧約聖書)
 
「人情の機微をも知らずして」、まさに、楽山の拠るところは、蜘蛛の巣のような、罠に満ちています。神がいるならなぜ悪があるのか、と言って、神を否定した者が、今、信仰について肯定的であるかのように云々しているのです。精神の詐欺師であること以外に、何が言えるでしょう。
 
こういう者に掛ける言葉は、あっちへ行け!、以外には、ありません。
 
 
これには穴があったら入りたい心持ちにさせられる。というのも自分は某宗教の信者だったころ、その教義によって人を裁いてばかりいたからだ。「人情の機微を知らずして」教義を基準にしてああだこうだと人に説教していたのだった。しかもこういう悪癖は、今も完全に治ったとは言い難いのだから情けない。反省。
 
「穴があったら入りたい心持ち」、ならば、穴に入って出てこないでほしいです。こういう、心にもないことを平気で書くのが、楽山が吐く嘘の特徴です。そういう楽山だから、神に、キリスト教に、いちゃもんを、平気でつけてきて、今度は、聖書について知ったかぶりをしようというのです。
 
こういう聖書とキリスト教の記事を書けば、だまされる人は増えるかもしれませんが、楽山の、神とキリスト教に対して放った無反省の暴言を、あとになって、ほめ言葉を書けば、中和できる、反省しなくてもごまかせる、という企みであり、逆に、楽山の性根の腐れの証拠になってゆくのです。
 
楽山は、今でも、人情の機微を知らないことが、記事を書くたびに、ますます明らかになっています。共感による思いやりも知らず、ゆえに、肯定的なメッセージも、気味の悪い三文芝居か子供だましのレベルです。内村鑑三を引用して、字面だけ読んでも、心の無い楽山にキリスト教を語ることは出来ません。
 
キリスト教について、嘘を吐いて、しかも、その責任を負おうとしない楽山は、赦される道理がないのです。楽山の視野とは全く違うところに、楽山とは全く縁のないところに、キリスト教とキリスト信仰はあるとしか言えないでしょう。
 
楽山は、既に約10年ものあいだ批判対象となっている偽牧師で偽善者で反キリストであるシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条?に賛同しました。
 
このことは、キリスト教もキリスト信仰も、全く理解していない証拠となっています。悔い改めなくていいキリスト教など、どこにも存在しないからです。
 
このような経過があるので、私には、疲労だけを与えてきた楽山を説得して、言うことを聞かせようというような意図は全くありません。楽山は、シャロームと、恐らく、カルト的つながりを持つ仲間であろうと思っています。説明や説得など、まるで通じない訂正不能の病的ナルシストです。
 
キリスト者でもなく深い理解も共感も伝えたことのない楽山に、宗教と信仰は手に負えるテーマではないのに、こちらが、いくら、おかしいところを指摘して批判しても、また、理解を装って書こうとする、この不感不応の醜い姿勢こそが、楽山の、おぞましい悪意であり、宗教と信仰への根深い怨念なのです。
 
情感も共感も理路も反省も、人生の学習を怠ってきた楽山には、不能になっていることを考えもせずに、悔いもせずに、あたかも別の顔であるかのように成りすまして、聖書と信仰の話を平気で書いて、それで何とかなると思っていることが、何よりも、殆どホラーに近い異常性として表れています。
 
 
デタラメしか出てこない

デタラメしか出てこない
 
 
(2020年)
(2022年08月08日、再録+加筆)
 
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  行きます
 
その日が来たら
私は行きます
彼方の彼方へ
私は行きます
私は来ました
と言ったように
約束どおり
私は行きます
一滴の涙を土に埋めて
誰にさよならも告げないで
私は行きます
だから待っていて下さい
きっと私は行きます
でもその日が来て
もし私に行く力がなかったら
彼方の彼方から
すぐそばまで来て下さい
そして私の手を引いて
連れて行って下さい
その日が来たら
約束どおり
彼方の彼方へ
 
 
  シンプルに
 
私はだんだん
シンプルになっていくようです
口数も少なくなりました
言葉もめっきり減りました
ああ太陽
ああ夕空
ああ星と星
といった調子です
身の回りは相変わらず汚れていて
身のうちには
たくさん傷や悔いや感動がありますが
もう深くはのぞけなくなりました
しあわせが浮いていくようです
それが私なのか何なのか
昔のことはだんだん忘れて
見るもの聞くもの遠のくようで
裏返し
と唐突に言ってみたり
口を開けてじっとしていること
ときどきできます
私はシンプルに
命になって
いつか少し笑って
目をゆっくり閉じて
いつか少し泣いて
あとは
あとは
おまかせします
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「自分もそんな風です」と、「人間の性」という言い訳で、反省をしない楽山です。反省をしない人は、人間ではないのです。成長もないのです。したがって、そういう人は、人間としての発言は出来ないし、してはならないのです。
 
 
 
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