ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年08月

 
  イデオロギー3
  
 
ここでは、イデオロギーと題していますが、信条や教条など、思想が言葉や理屈で固定され、心の直感的共感を持たないものを意味しています。宗教にも、政治にも、あらゆる分野に深く関係する非人間的な固定・固着の教条です。
 
(ネットより)
 
イデオロギー(独: Ideologie, 英: ideology)とは、観念の体系である。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。観念形態、思想形態とも呼ばれる。
 
通常は、政治や宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。
 
世界観のような、物事に対する包括的な観念。
日常生活における、哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。
主に社会科学の用法として、社会に支配的な集団によって提示される観念。殊にマルクス主義においては、階級的な立場に基づいた物の見方・考え方。
 
 」引用終わり
イデオロギー(ウィキペディア)
 
 
イデオロギーは
心の面倒を見ません。
 
論理は
心の面倒を見ません。
 
教条は
心の面倒を見ません。
 
言葉は
それらだけでは
心の面倒を見ません。
 
だから
右も左もイデオロギーは
悲劇をもたらしてきました。
 
宗教も
言葉だけの
思想・信条・イデオロギーと化してしまえば
同様でしょう。
 
文字で固定されたものは
ときに
心を凝固させ変形させます。
 
言葉は
心を伝えるための
暗号に過ぎません。
 
聖書が神の言葉でも
読む私たちは人の言葉しか持っていません。
神の言葉だからと振り回す人は
心を失いつつあります。
 
人は人の言葉を絶対化してはいけません。
人は絶対ではないのだから
人は何も絶対化できないはずです。
思想、宗教、政治、総てにおいて
 
しかし
ときには
言葉によって表されたものが
心を解放することがあります。
 
そのとき
心は
様々な表現と
様々な伝え方を生み出すでしょう。
 
心が真理になったからではなく
心が目覚めてアクティブになるからです。
 
心の努力は
惜しむべきではないのです。
 
信仰は不変の平安の境地ではありません。
 
信仰は生きて学ぶ道です。
 
 
文字で表された言葉は、いつも、決して固定されない本質を暗示しています。
 
歌は、哀しいかな、ときに、心を伝え、動かして、流れ、去ってゆきます。
 
知情意が不可分であるように
思想と記憶と情感は不可分であります。
 
目を通して見せるものや
耳を通して聴かせるものは
心を動かし
記憶されることへの希望となります。
 
言葉が心を動かすのは
言葉によって表されたものを
心が受け取れた場合だけです。
 
心が動くのは
人間の心として受け取れるものだけです。
 
 
全知・全能・絶対・完全・永遠・不変、
これらは、人間の手には負えません。
神の性質を表していますが、人が神を理解するための言葉ではありません。
神に比べれば、はるかに不完全な人間自身
に気づかせるための言葉です。
 
神の全知全能を人が理解することはなく
神の全知全能は人が自らの罪性を理解するために語られます。
 
人間が何を受け取れるかを考えるべきなのです。
 
勘違いしてはいけない。
神の全知全能という言葉は
人が全知全能そして神聖を得るためではなく
人が全知全能ではないことを知るために存在しています。
 
 
神の寛容は
悪や偽善をも赦すということではありません。
讃美の言葉なら、無難で正しいというわけでもありません。
神には正直以外通用しません。
 
神は
人に対して正しさや善を求めるのではなく、
神は
人の不完全と罪深さを知っておられるので、
御前に捧げられる祈りにおいて
精いっぱいの正直だけを求めておられ、
それだけをもって信仰の義とされる御方です。
 
神は、正直な告白の祈りを待っておられます。
 
祈りの言葉を間違えたら、
正直でなかったら、飾ったら、
また、祈ればよいのです。
それが、神の寛容と言われます。
 
 
神と人、神に対して、共感と人の言葉、信仰と人の絶対、これらを同一のように語って、訂正不能に陥っているカルト的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者がいます。神と人の敵、楽山とシャロームを、十分に警戒して、近づかないようにしてください。
 
 
祈りは、独りでするものです。集団の祈りは、何かのきっかけになることはありますが、大方、讃美歌と同じであり、人々は、讃美だけで生きられるものではないほどに、心に、しこりや、闇を、気づかぬうちに抱えています。本当の祈りは、故意に隠すことのないように、独りでしてください。
 
 
神に 人は

神に 人は
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月31日、再録+加筆)
 
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
祈りは夜とともにあった
言葉は夜であった
光は夜のかたすみに
あやうい形で揺れていた
祈りは涙と親しく
いつしかお互いに拒んでいた
涙は形にならなかった
祈りはさまざまに否みながら
光となって揺れていた
光は言葉であった
それらすべてを包み込む
形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
 
 「ブログ村騒動」発言集
 2021年08月29日 Comment(0) 楽山日記(LD)
 
 
今まで、楽山が、他者にかけてきた迷惑など、何とも思っていないのに、まとめたことにして、整理したことにして、ちゃんとやっているふうを見せないと、楽山は気が済まないのでしょうか。整えることを、いちばん、妨害してきたのは、楽山その人です。
 
*発言集まとめ
他所で、ひさしぶりにブログ村騒動の記事をまとめたので、ここにも保存しておこうと思う。
・「ブログ村騒動」発言集(ぽん吉論争)
・「ブログ村騒動」発言集(コウ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ガンレオ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピッポ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(悪魔呼ばわり論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピア健論争)
・「ブログ村騒動」発言集(外伝 破邪顕正)
・「ブログ村騒動」発言集(コピペ批判)
・「ブログ村騒動」発言集(霊言論争)
・「ブログ村騒動」発言集(補選 中立的な意見)
・「ブログ村騒動」発言集(番外編 楽山論争)
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)ブログ村騒動とは何だったのか?
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)2【追記あり】
ちなみに、ブログ村騒動というのは、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内における信者同士の喧嘩のことである。これは数年に渡って断続的に続いた。主な参加者は、ガン、レオ、ぽん吉、ピア健、コウ(敬称略)などであり、ぽん吉、ピア健はこの騒動の途中で退会し、アンチHSとなったのだった。
 
ずらっとリンク(省略)が並んでいます。今まで書いてきた記事ですから、このように、楽山は、自分を責めることが出来ず、その分、それぞれの記事で、また、まとめて、ここで、他者を責めてくる人です。他者のHNを、並べて、さらし首でしょうか。自慢したいのでしょうか。
 
楽山が言いたいのは、"自分は悪くない、自分は悪くない、あれが悪い、これが悪い"、などと自己中に言い続けて止まないということです。つまり、楽山という人は、どこまでも、他罰的で、共感性がなく、自分を省みない人なのです。
 
どうか、楽山と付き合わないでください。楽山と付き合って、何も、良いことはないと思います。そして、後になって、上の一覧と、それぞれの記事として、ネチネチと悪者にされてゆきます。この間、反省は、皆無です。これほど、非人間となるのは、自己愛性人格障害としか考えられません。
 
楽山に対するには、楽山の執拗さと同じように、逐一批判をもって、終わることのない批判を続けるしかないのです。楽山に対して、病んで、または、逃げて、黙り込む人にもならず、批判し続ける人にもならないためには、関わらないこと以外にはないのです。
 
楽山には、罪悪感がありません。もし、生存をかけて闘っていた戦国時代であれば、信頼への裏切りは決して許されることはなく、はりつけ、やりぶすま、八つ裂き、さらし首、火あぶり、それ以上となったでしょう。今の時代に、個人は、批判と非難を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山の「反省、とほほ」は、"無反省、えへへ" だと思ってください。楽山は、臆病だから恐慌状態にはなっても、しんみり悲しむことも泣くことも出来ない人です。嘘と詭弁で世渡りして、言ってくることに、真実の欠片もない人格の形骸です。
 
ドラマなどで、ときに出てくるサイコパス(精神病質)というのは、反社会性人格障害の旧名です。罪悪感がなく犯罪性が高い人格障害です。サイコパスは、自己中で自己愛性なので、楽山の、自己愛性パーソナリティ障害は、近縁の人格障害です。
 
楽山のような病質者は、逃げられない状況で説教をされると、頷くかもしれません。しかし、説教が終わると、さーっと立ち去って、また同じ悪さを、さっさと続ける、平気で繰り返す、という具合に、訂正不能の無反省を基調とします。
 
恐らく、表情は基本的には乏しく、感情は、根深い怒り憎しみと嘲笑いで、本当の思いやりの温もりと悲しみの涙という潤いが、欠落しているのだろうと思います。
 
つまり、感情に深みがありません。だから、反省、共感、理解、よく分かった、読んだ、などの、言葉だけの表面的な言い方を多用し、とほほ、かなあ、と言えなくもない、などと、曖昧にして、断定していないと、後で問われる責任を逃れているつもりです。
 
味も素っ気もなく生きていて、我執の自己顕示欲で出しゃばって言って、他者のことを書きながら、他者に関心はなく、他者を全く必要とせず、ただ、自己を受け入れさせようと芝居をするのが、自己愛性病質者の症状であり、目的であり、非人間性の生き甲斐です。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·3時間
私もそんな感じに考えてます。
信者は、現実の教祖というより、自分好みに理想化した教祖像を信じている
この両者の差異に気づき、理想像を維持できなくなったときは、教祖に失望し、信仰の危機となる…と。
午後7:00 · 2021年8月29日
 
楽山は、キリスト教と信仰についても、信じ過ぎてはいけない・・など、一方的な決めつけをしてくる反キリストです。楽山は、自分はバランスが取れていて適切だと思い込んで訂正不能の妄想を語ることから、楽山には教祖願望があるように思われます。
 
神を、信じ過ぎてはいけないのではなく、自分の思い込みから訂正不能の心になってしまうのはカルトなのです。楽山は、無神教カルトとして訂正不能です。視野が広いつもりでいるようですが、信仰については、楽山に視野はありません。
 
楽山は、人を操りたいのです。しかし、言うことは、ことごとく、嘘と詭弁であり、印象操作であり、刷り込みであり、誘導であります。そういう楽山の言から、私は、楽山が自己愛性人格障害であることを何度も書いてきましたが、楽山は、反論も弁明も出来ていません。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の自己愛は、自分を大切に・・などという調和ではなく、自己絶対の訂正不能を招いている妄想であります。楽山が教祖になったら癒しも救いもあったものではないのです。何故なら、楽山は、自分の言ったことに責任を負う気が全くないからです。楽山の言には、方向も目標もないのです。
 
 
 
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  楽山のブーメラン2
 
 信者ブログを見てみた(読書、HSの自由論など)
 2020年08月28日 楽山日記(LD)
 抜粋です。
 
 
楽山は、自身の言った言葉によって、自身に返されてゆきます。それをブーメランというのだそうです。また、長い文章なので、抜粋して批判します。私がよく知らないHSのことが多いようですから、引用のリンクを省略しているところもあります。
 
楽山は、HSの信者に批判されて、返しているつもりです。しかし、それは、また、ブーメランのように楽山批判となって返されてゆきます。そして、楽山は、そのブーメランを自覚せずに無視しているのですから呆れます。
 
 
*投影
まずここでは相手の本音、願望を悪く想像した上で、批判を加えてあるが、これはいただけない。
自由という言葉の奥に隠された本音は、自分の好きなようにさせろ、気ままに生きることでもってよしとさせろ、というワガママ勝手にすぎず、それを自由という美名に置き換えているだけ、という人。
気ままで楽ちんな生活を望んでいるだけなのに、それでいて自由という美名を使いたがる。
 」
 
(ネットより)
心理学における投影(とうえい、英: Psychological projection)とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るためそれを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きを言う[1][2]。たとえば「私は彼を憎んでいる」は「彼は私を憎んでいる」に置き換わる[2]。これには責任転嫁(Blame shifting)が含まれ、たとえば習慣的に失礼なふるまいをしている人は、いつも他者を失礼な人だと言って回っているケースがある。一般的には悪い面を強調することが多いが、良い投影も存在する。
投影は日常生活においてよく起こっている。例えば、なんとなく嫌いだった人物が、実は自分の否定的な、認めたくない面を体現していたなどである。
 
「相手の本音、願望を悪く想像した」・・この投影は、いつも、何度も、やってきたことです。今回も。相手を悪者にするためです。楽山自らの不整合や矛盾や能力不足を投影しているのか、あるいは、総て作為で、投影していると決めつけているかでしょう。
 
このような心理学用語を出せば出すほど、楽山は自分の説得力が増すと思うかもしれないが、その心理学を全く理解していない楽山が明らかになるだけなのです。何度も引用しましたが、楽山の「心の理論」において、特に明らかになっています。
 
私が約10年批判してきた偽牧師シャロームも、投影ですね、という言い方を気安くしてきました。恐らく、何も分かっておらず、批判されたら言っておく・・くらいのものでしょう。つまり、相手のせいにするためのインテリ風味の便利な言葉として使っているだけです。
 
「気ままに生きることでもってよしとさせろ、というワガママ勝手、それを自由という美名に置き換えているだけ」・・楽山の、以前のHNは、"自由" でした。楽山の自由こそは、ワガママ勝手であり、自慢して気持ちよくなるための楽山の習癖だったのです。
 
上の楽山の言葉が当てはまるのは、まさに、楽山なのです。"自由という美名" と言ってよいような丁寧語が、楽山の、だましのテクニックなのです。そういう習癖が、約一年半、慎重に、楽山の書いた文章を見ることで明らかになっています。
 
今回も、楽山は、理路も感性も拙劣でありながら、批判する資格のないまま、誰かを批判して、かえって自身の根性の劣悪さをあらわにしています。まさに、楽山がしてきたことを批判されています。楽山が何か言われて返すときの常套手段が「投影」です。
 
 
お節介かもしれないが、相手の本音を悪く想像して、こき下ろすというのは、自己紹介にしかならないし、止めた方がいいと思う。
 
悪口を自己紹介というのは、ブーメランということでしょうか。しかし、「相手の本音を悪く想像して、」ボンヤリ言語の丁寧さで、ごまかしながら「こき下ろす」・・これは、実に、楽山に、よく当てはまります。しかし、楽山は、このブーメランさえ自覚していないようです。
 
 
HSでは、守護霊霊言と称して、論敵は心の中で悪いことを考えていることにして貶めているけれども、いくら信者でもこういう手法は真似しない方がいい。
 
楽山がやっていることを、弁明もなく、論敵という相手に向けています。今までの私の批判記事から、理論家気取り・評論家気取りの楽山は、霊が分かるっぽい霊能者気取りがベースにあるのです。楽山は、決して理論家ではありません。決めつけて刷り込む詭弁屋です。
 
 
*意外な発言
LEO氏は本好きだと思ってたので、この発言は意外に思えた。
本をたくさん読む、とか、読書の習慣がある、ということであっても、それのみで勤勉である証拠とはならないんですよね。
 」
本を読まない人であれば、読書習慣があって本をたくさん読んでいる人のことを、「自慢してるんだろう」「勤勉アピールしてるんだろう」と悪く言うこともあるかもしれない。
でも本好きの人にとっては、読書習慣があり、いろいろな本を読んでいるのは当たり前のことであるし、それを勤勉アピール、勤勉ポーズととることはないのではなかろうか。
 
またしても白々しい楽山です。たくさん、本と、著者の名前を出して、読書家ぶっていたのは、楽山です。「勤勉アピール、勤勉ポーズ」は、楽山の生業です。それは、同時に、インテリ気取り、読書家気取りでもあります。楽山の生き方は、まさに、"気取り" だけで出来ているのです。
 
しかし、楽山の読書は、自分の都合の良い字面を漁って、引用するだけであり、楽山自身の書く文章は、理路が成り立っていなかったし、説得力もまるでない、ということだけが、明らかになってきました。気取りは気取り、実質は何もないことが分かっています。関わってはいけない人です。
 
楽山は、文脈を読めない、理路を読めない、理路を組み立てられない、さらに、共感性がないから感動もしないのです。「楽山は、読書習慣があって本をたくさん読んでいる人」ではありません。楽山は、読書したかのように、引用と誘導で、人を欺く人、すなわち、読書家をおとしめる敵であります。
 
 
少なくとも自分はそうは思わない。本好きの人とか、読書ブログに対して、「どんな本を読んでるの? へえ、そんな本を読んでるんだ。おもしろそうだな。自分も読んでみよう」とは思っても、「読書の習慣があり、本をたくさん読んでいるようだが、それだけで勤勉とは限らないゾ」なんて考えることはない。
 
本を読んでいるから、自分は勤勉だと言いたいのでしょうか。楽山の読書は、読書と呼べるものではないことが感想文の稚拙さに表れてきました。楽山の例示する会話の台詞は、楽山が書いてきた独り芝居と同じように、平板で、月並みで、わざとらしい。このような台詞は、小学生がするものでしょう。
 
 
*知的生活
もう一つ、自分にはこの発言も意外に思えた。
他の人にも役に立つ、生産性のあるアウトプットまで行かない場合の読書は、単なる暇つぶしや趣味と言われても仕方がないもので、自分だけの独りよがりの好みでしかないことも多いわけで、
 」
そうした読書が真に役に立っている、というためには、アウトプットしてみて、他の人にとってもそれが役に立つ考え方であるか、知識であるか、モノの見方であるかを問う必要があるのだと思います。
 」
タイトルは失念したが、渡部昇一のエッセーで、とある人は論文などは書かず、知的生産はしていないが、その蔵書はゆっくりとではあるが着実に良書が増えており、読書を楽しんでいることがわかる、これも立派な知的生活だという話を読んだ記憶がある。
自分はこの考え方を支持するので、「生産性のあるアウトプット」がないとしても、論文なり、文学なりを読んで感動したなら、それだけでも充分に価値があるのであって、これに対して、「単なる暇つぶし」「独りよがりの好みでしかない」などとは思わない。
 
読書して "知的生活"しているからと言って、その人が、知的だとは限らないという例が、楽山です。だます目的で、読書したふりをして、殆ど説明できないのに、良かった、分かった、驚いた、などと、自分は分かるんですアピールをしてきたのが楽山です。これは自慢のための嘘です。
 
褒め言葉だけがわざとらしく並んでいて、読解の結果が感想に表れていないことをもって、楽山の欺瞞が明らかになってきました。そのような文章は、感想文としての意味がないと言われるわけです。さらに、だまそうと、刷り込んでくるならば、真実を追求する言論の敵ということになります。
 
楽山は、学習することなく、自己愛の自己中に好都合な言葉を漁って引用するだけですから、本と著者を侮辱していることになるでしょう。どこまでも、言い返してくるのは、反省することのない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人間らしい真っ当な反応とは真逆の方向にしか返してこないような、自己愛と慢心で動いている楽山は、とても見苦しくて、人間であることさえ疑いたくなります。このような記事を書いてくることが、さらに、訂正不能のインテリ気取りを表すことさえ気づかないのです。
 
 
ついでに書くと、名画、名曲、名演奏によって感動したということはそれ自体が素晴らしいことであって、画が描けなくても、曲を作れなくても、演奏ができなくても、他のことにつながらなかったとしても、その素晴らしさは変わらないとも思う。
 
その素晴らしさと感動を表すのが感想ですが、それが全く見られず、いつも、陳腐な褒め言葉を並べるだけなのが、楽山です。
 
さらに、驚くべき詭弁ですが、「素晴らしさは変わらないとも思う」・・ひどいものです。素晴らしくないのは楽山であって、感想の対象となる作品ではないのです。
 
また、感動するだけでも素晴らしいというのは、少しも楽山を弁護しません。感動したと書くだけでは、その中身は伝わらないのですから、伝わらないものを、ネチネチと執拗に書き続けて、正当化ばかりしてくる楽山の神経は、自己顕示欲の作為か、でなければ精神か性格の異常なのです。
 
楽山の自己顕示欲からの自己正当化の詭弁は、ことごとく、今まで成り立たなかったし、今も成り立たっていないし、今後も成り立たないでしょう。感想文を書くたびに、何を読み取ったのかという疑問が表れてだけだからです。
 
 
*指標
LEO氏は、ブログについて次のように考えているという。
独りよがりでは意味が無い。閑散ブログでは存在する意義がない。
 」
読まれる内容を書けないのなら、まだまだ他の人に感化を与えられる内容を持っていないのであって、そのレベルであってみれば、まだまだ自己研鑽が足りていないということを、自覚しないといけないのでしょうね。
他者が読んでも、そこに参考になるような何かが発信できているかどうか。
これが、自分がブログ記事を書く際に注意している、ポイントの一つですね。
自戒の意味を込めて。 
 」
これはこれで個人的信条としてはよいのだろうとは思う。ただブログの目的は人それぞれであるから、自分の考えをブログで発表し、多くの人に読んでもらい、影響を与えることを目指す人もいれば、アクセス数は気にせず、自分と向き合うためにブログを書くという人もいるだろう。
 
いえ、個人的信条ではなく、中身のない文章を公表されることは、さらに、そこに、恣意的な意図のある場合には、言論において、はなはだ迷惑だということです。楽山は、何も気にしないし、自分と向き合うこともないのです。だから、人に向けるためのネタを探しているだけの読書?です。
 
つまり、気取りだけの主張ですから、書けば、正常な言論に対しては妨害行為に匹敵します。前から言ってきたように、悪質な疲労物質である楽山の記事は、公表せず、誰にも見せず、楽山が独りで読んで、したければ独りで自画自賛し、独りで疲労していてくださいということです。
 
 
このような多様な価値観を認める立場からすれば、自分のブログ観とは異なるブログに対して、「意味が無い」「存在する意義がない」というのは、いささか行きすぎであり、乱暴である。大川隆法は著書の売れ行きや、社会的影響力の大きさを自慢げに話す人なので、信者がそんな風な考え方になるのも仕方ないことではあるが、これが唯一の判断基準であって、それ以外の判断基準は認めないとしたら、おかしなことだ。
 
楽山は、"多様な価値観"、という言葉で、自分勝手な雑言を自己正当化してきます。以前、シャロームが、"人それぞれ"、という言葉を多用していたのと同じようなものであり、曖昧で、意味の広い言葉の中に、批判の中心を紛れさせようというボンヤリ言語の詭弁です。
 
自らの与えている害に全く気づかず、無視して、言い逃ればかりを書いてくる、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、言論のサディスト、またサイコパス、という体質を、自ら証明し続ける楽山なのでしょう。
 
 
*全体の感想
LEO氏の考え方は、自己の向上が大切であって、自分がどれだけ向上できたかどうかは、ブログの影響力によって確認でき、これに益しない読書も、書くことも意味がないというものであるようだが、自分は、読書そのもの、書くことそのものに価値を見出したく思うタイプなので、申し訳ないけれどもLEO氏は、読書そのもののおもしろさ、書くことそのものの楽しさをご存じないように思えた。
 
「書くことそのものに価値を見出したく思う」・・楽山の場合、害だけを生み出しています。この楽山の言い分は、全否定されるべきであります。多様だから、人それぞれだから、何でも書いて公表していいということはないのです。無責任は無責任、迷惑は迷惑と指摘され続けます。
 
言論の責任を負わない者には、しかも多様性という詭弁で言い逃れできると思うような者には、言論の自由はないのです。楽山の読書は、多様性ではなく、恣意の自己顕示です。
 
反省もなく公表され、詭弁で言い逃れても、迷惑は、迷惑と指摘され続けますし、その結果は、楽山の自業自得となるわけです。そのとき、詭弁で何を狙って、その欲望の結果として何を失ったのか、楽山は体現することになるでしょう。
 
「読書そのもののおもしろさ、書くことそのものの楽しさ」を知っているとは、到底、思えないような、読んでも何も得られないような、空疎で、関われば、疲労だけを被(こうむ)るような記事を、何の自覚も病識もなく、自己愛によって偏向し歪曲した恣意によって書いてきたのが、楽山です。
 
 
もし読書および書くことそのものを目的とすることはできず、それらを自己実現の手段としてしか見れないとしたら、自分とはまったくちがった感性、価値観であるし、話が合わないのも致し方ないなと思う。
 
今度は、批判に対して「自己実現の手段としてしか見れない」という言葉を当ててきました。楽山が何を自己実現してきたでしょう。嘘と詭弁で刷り込んできただけなのです。言葉をすり替えて本質を逸(そ)らせる詭弁です。楽山の厚顔無恥の攻撃性が出ています。
 
自己実現するかどうかなど分かりません。必要なのは、良識と良心であり、最低限の責任感です。楽山には、それが無いと言っているのです。楽山には、人間としての最低限の反省力と罪悪感がないと判断しています。楽山が実現したのは、結果としての、悪意の企みによる害だけでした。
 
また、楽山には、しんみり悔いたり悲しんだりできるような共感性がないと思います。だから、いつも、本筋と外れたところで、自己顕示欲に塗れた感情と意志が、的外れに働くだけなのです。反省と学習のない刷り込みだけの楽山の記事の果てには、いつも離人的な自己満悦しかないのです。
 
 
*経緯
最後に、これまでの経緯をご存じない方もおられるかと思うので、その点について書いておきたい。
まずこの信者氏と、楽山とのかかわりは、言論の自由についての意見が対立したことが始まりだった。
・★ 言論の自由について 2
 」
その次は、ブログ村の幸福の科学カテゴリーにおいて、信者と信者が対立した際に、自分はこの信者氏には批判的な立場をとって不興を買ったのだった。
・★「幸福の科学村」騒動のまとめ
 」
傍から見たら、こういうことはどーでもいいことだろうけれども、こういう経緯を知ってもらえれば、信者氏がかなり感情的で、極論的な発言をしている理由についての理解が容易になると思うので、一応、参考までに書いておくことにする。
 
楽山が、極めて作為的で、詭弁家で、自己愛者で、欠陥だらけの字面言葉で、刷り込みによって、間違った印象を刷り込んでくる策略家であることも、理解が容易になってゆくと思います。
 
私は、楽山の、キリスト教への曲解と決めつけによる誹謗中傷をきっかけに、楽山批判をしてきました。私は、出来ることをしてゆくだけです。
 
この先、楽山が、ネットを含めた犯罪行為に及ぶ場合には、私のできることはなくなるでしょう。
 
どうか、楽山に、だまされないように、決して近づかないようにしてください。
 
 
陰湿な欺きの醜さ

陰湿な欺きの醜さ
 
 
(2020年)
(2022年08月30日、再録+加筆)
 
 
 
  奔流
 
警鐘は朝霧の森の中に吸い込まれてゆく
鳴らす者は余計な波風を立てて
小舟に乗って沈むために
人気のない入り江から漕ぎ出でる
 
しばしば逆流する川の上流には
歳を偽って村人を名乗る者たちがいて
沼の味覚にのめり込んでは
しきりに鏡を震わせ抜いて
白髪を流す あるいは
薄くなった髪を洗うそばから
流れ出すのは顔の方だ
 
うら若い髪の血痕を
拭うことのできないスナイパーとテロリストが
しばしば礼拝堂で出くわしてしまう
兄弟よ このようなベルトの上では
手も足も不要だ
 
未来の神話を語りながら
白々しくも欺いて殺し合えずに
拳銃を実は十字架をポケットの中に握り締め
耳を切り裂く沈黙の中に
谷間の街のしがらみにしがみついて
夥しく浮き沈む白い眼(まなこ)の
奔流の中へ再び身を投じる
 
 
  失われた箱
 
晴天
箱が焼かれる
古き宝
瑠璃も玻璃も
欺かれて漆
焦げてなお煙る
雲間を走る金色の木馬
シーソーが突き上げる
自慰に過ぎないバランス
段差の遊戯を見やりながら
階段を去っていく聖者
過ぎた儀式に埴輪のテーブル
与えあう食事
好き嫌いの食卓
押入れの中でプロペラが回る
人形の目が閉じる
滑るコップ
流れる皿
傾いた信条
広場から湖へ
手に手に合掌
南へ渡る紙飛行機
黙祷 ああ 誰を慰めている
木馬の頃を過ぎて
賂(まいない)に明け暮れる箱
見知らぬ丘
晴天
設計図が舞い上がる
新しき宝 押さえる手
どこかでプロペラが回っている
 
 
  プロテスタントの偶像
 
基督磔刑像も
聖母マリア像も
しみじみと眺めたことはない
崇めたこともない
私はプロテスタントだから
むかし通った教会には
屋根や壁や机に十字架があるだけ
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛る戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
 
罪から罪へ走らせる罪
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
 
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
今のところですが、最近、楽山は、ブログ記事も、ツイッターも、投稿が少なくなりました。このまま、退散してほしいところです。楽山が記事を書いても、精神の疲労と破壊の不幸が生まれるだけです。どこかで、また、HNを変えて、書き始めているなら、見つけるまでは野放しということになります。
 
 
 
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  謙虚3
 
 
神を知性で捉えて理解することは出来ません。これは地上の人間にとって真実であります。したがって、神を、・・のはずだとか決めつけて、自分に都合が悪いからと否定するなどという無神教カルトは成り立ちません。
 
しかしそう言いながら、解釈においては、人にとって常識的な論理つまり知性を用いて、また良心に基づいて、人は神との関係を考えることが出来ます。それが神を知ることだと語ることも出来ます。それは、神の絶対と、人の不完全を弁える人において、良心があれば、可能です。
 
ここまでは「信仰の原罪」と呼ぶべきかもしれないが、人間にとって不可避です。信仰者にとって生きるために必要だからです。聖書の言葉だけを繰り返すだけで無思考の真実に至ることなどはないからです。聖書にて神は・・こう言われています、という書き方になるかもしれません。
 
信仰は、神を理解することではなく、キリストの命を賭した愛と共感をもって、神を信じ仰ぐことであり、神に、正直に祈ることです。人から、神への、唯一の音信であります。
 
しかし、神との関係を持ち、神を知ったと思う者が、やはり常識的な論理の言葉を用いていて、つまり死ぬまで人知によらざるを得ないのに、様々な個別の出来事や事柄を、人知の及ばない秘め事であるのに、神の行為と結びつけて判断し、確信の固定をもって伝え広めようとするのは不遜であります。
 
それは、聖三位と同等の振る舞いになり、神と人に対して明らかな傲慢不遜であります。
 
神のしもべであっても、様々の驚くべき出来事について、しもべは、主(あるじ)が人知を超えた御方であることを知るゆえに、信仰をもって、主を恐れ、主なる神の行いについて、しもべの浅知恵や限りある経験によって、断定することをも恐れるべきであります。
 
慎ましく受け取り、人は、間違いのない神とは違うのだから、確信を持って声高に語ることをせず、慎ましく語り、包み隠さず正直に祈ります。少なくとも都合の悪いことに目をつぶったり耳を塞いだり口をつぐんだり他者の口を封じたりはしません。
 
さらに自らの瑕疵(かし)を消して、まるで最初からなかったかのように、見せかけたりもいたしません。さもなければ、起こっている悲劇を見聞きしながら、我が身の多幸を感謝して、自分を満たすために、信仰に見せかけた心地よい砦を心に作って固まってはいけません。
 
人間は、成長するのであり、不変になるのではないからです。抵抗しない人だけを招き入れ、自分の解釈に神秘の味付けを加え、自分の花園をこしらえ造花を植えて愛でて満悦するような偽善者になってしまうからです。それは、カルトの萌芽なのです。
 
分かっていなければならないのが信仰ではなく
 
分からないならば分からないと正直に言う、そして正直に祈るのが信仰です。
 
信仰における謙虚、言い換えると敬虔というのは、悟りの境地で完成したと言う立場ではなく、神とキリストを聖書から学んで、成長することを旨とする信仰者の、不完全で罪深い自覚からくる柔和であり、何を言われても笑って受け入れることではありません。神の前の正直が前提だからです。
 
 
 
「いいね」を入れてくれたから見てみると、その人のブログでは、批判というものを害毒のように言ってるようです。批判と、悪口や攻撃を、混同しているようにも思えます。
 
批判を書いている人はいっぱいいると思いますが、まず、この人が書いているのは批判ではないのでしょうか。さらに、批判についての基本的な誤解~曲解があるようです。
 
批判と言われているものには2種類あると思います。
 
1)相手を変えるために批判する・・これは、双方向が成り立つ間柄で、忠告や提案をすることにとどめておいたほうがよいでしょう。それ以上は、大方、うまくいかないと思います。
 
2)として、1)のやり方で相手を変えることは難しいけど、放置しておいたら害が増えるだけと思われる場合は、こんなおかしい人がいますから関わらないようにしてください・・というような、情報を公開してゆくことが必要です。
 
私の批判は、おもに、2)であります。つまり、批判記事は、こんなおかしい人がいますから、だまされないようにしてほしいという願いを込めて書いています。つまり、記事を読んでほしいのは、批判対象ではなく、一般読者であります。
 
批判対象は、記事を読んでも読まなくても、都合の悪いことは無視して、平気でいるような輩です。
 
明確な意志と方法を持って批判しているなら、批判することで不安になるようなことはありません。
 
悪いことをする人の情報を書かなくなったら、悪人は、どんどん蔓延ってしまいます。それと、悪い人の中には、善を気取ってだましてくる、いわゆる偽善者もいます。批判を全然しないのが正しいと思い込んでいる人は、偽善者クラスの悪人の手助けをしていることになるでしょう。
 
自分が批判するしないは個人の自由です。理由は、批判は苦手、とか、批判する気にならない、ということでもよいのです。しかし、一般的に、批判はよくないと決めつけるのは、それこそ、認識不足と自説への慢心による間違い~偽善と言うべきであります。
 
 
荒んでゆく偽善

荒んでゆく偽善
 
 
(2011年)
(2021年)
(2022年08月29日、再録+加筆)
 
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 
 
 
 楽山のツイッターですが(再録)
 
楽山は、記事も、ツイッターも、自らは、はっきり言わず、責任を逃れようとしながら、他者の言から都合のよい文言を引用して、味方にしようとします。それで、引用の責任さえも、負わないでいいと思うような無責任ぶりであります。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 」
 
「キリストの幕屋」は、キリストの御名を利用している右翼の教団で、信条に大和魂が入っているという話を聞いたことがあります。純粋なキリスト教とは言えないでしょう。そして、楽山は、右翼のA級戦犯を褒め讃えるネトウヨであり、クラゲのように、蠢(うごめ)いている反キリストであります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
思想・宗教についてのブログは、真実の追求という大きなテーマですから、日記とは違います。雑言とも違います。楽山は、雑談と同じように、ひやかしや皮肉をしばしば書いて笑いを入れます。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために真っ直ぐな心をなくしているからでしょう。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとするし、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  いちゃもん3
 
  とこしえの御座 (詩編9:8)
  2019年07月27日 楽山のブログ、楽山日記(LD)
   改めて批判します。
 
 
楽山は、まじめに読んでもいない聖書に苦情を言っています。
 
主は裁きのために御座を固く据え
とこしえに御座に着いておられる。
(詩編9:8)
 
詩篇9:7のようです。
 
 (詩篇、口語訳)
9:5
あなたはもろもろの国民を責め、
悪しき者を滅ぼし、
永久に彼らの名を消し去られました。
9:6
敵は絶えはてて、とこしえに滅び、
あなたが滅ぼされたもろもろの町は
その記憶さえ消えうせました。
9:7
しかし主はとこしえに、み位に座し、
さばきのために、みくらを設けられました。
9:8
主は正義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9
主はしえたげられる者のとりで、
なやみの時のとりでです。
9:10
み名を知る者はあなたに寄り頼みます。
主よ、あなたを尋ね求める者を
あなたは捨てられたことがないからです。
 (詩篇9:5-10、旧約聖書)
 
このように、裁きと救いの聖句です。しかし、楽山は、永遠という長さにこだわっているようです。聖書の文脈を読まないで、気になった言葉だけで考えているようです。そういう自分を反省することもなく、聖書に文句を言うのでしょうか。
 
 
以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉は、けっこう好きだった。
でも近頃は、
そういうことを想像するだけで圧倒されてしまうし、
ふっと気が遠くなるような心持ちがする。
 
けっこう好きだった・・という趣味では聖書は語れません。圧倒されて・・というのは、どうやら、感動ではなく、安っぽく短絡した概念から気味が悪いという気持ちに近いようです。また、信仰を、おとしめるつもりでしょうか。
 
「圧倒されてしまう」「気が遠くなるような」・・楽山の、いつもの、大袈裟なだけの驚き芝居のセリフだと思います。分からないことを、受け取れないことを、共感できないことを、ごまかそうとすると、わざとらしく大仰な言葉を使うしかなくなるのでしょう。
 
 
たとえば、とこしえという時間は、
宇宙の百倍の大きさの石があるとして、
一兆年に一度、鳥の羽根でかるく撫でることを繰り返し、
すべてが摩耗して塵になるまでの時間よりも、ずっとずっと長いのだろう。
そのくらいの間、神は御座についておられると想像したら、
あまりにスケールが大きすぎて、めまいがする。
 
「とこしえ」を表すのに、まわりくどくて整わない比喩表現を書いていますが、聖書の「とこしえ」という言葉は、物理的な時空で語れないのは当たり前のことです。楽山の、信仰に対する、いい加減なスタンスからは「めまい」というのは、嘘だと思います。また、信仰を、おとしめるつもりのようです。
 
 
また、人が永遠の命を得たとしたら、
そういう時間を生きることになるのだろうし、
これも想像しただけで、足下がふらふらしてくる。ちょっと怖い気もする。
 
足下がふらふら、怖い気がする、・・嘘だと思います。信じるかどうかは、自由ですが、信じてもいないのに、いちゃもんだけは付けてくる楽山は不当です。永遠の命を、安易に時間と決めつけて、永遠の時間を生きるなんて、想像もできないのに「ふらふらして」「怖い気」がするでしょうか。
 
 
そんなわけで以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉には憧れを持ってたりもしたけれども、
最近はどうも、そういうことは想像することさえ躊躇してしまう気分になってきている次第である。
 
とこしえ、永久、永遠、という言葉だけに、何らかの興味を持つという、少年の興味から、卒業しないまま「想像することさえ躊躇してしまう」ほど気分がよくないと言っていますが、永遠は、躊躇することではなく、もともと想像さえできないことです。
 
暗に、信仰は成り立たない、でたらめなんだとでも、吹き込みたいのでしょうか。このように、楽山のような反キリストの魂胆は、ほのめかすことによって、信仰をおとしめ、曲がった印象を吹き込もうとしているようです。
 
楽山のような深みのない病質者は、いい加減な読み方しかしてこなかった自分について、何の反省もなく、軽口で言ってしまいます。結局、何が言いたいのかが分からないほど、記事を、ボンヤリ言語の弊害で満たしています。
 
はっきり否定せず、肯定せず、しかし、否定的な印象をすり込んでゆくやり方です。この記事、企んでいなければ、書く必要など、どこにもないのです。そう感じるから、そう書いた、というのでしょうか。そう感じたなら、そう書く前に、公開する前に、考えるべきです。
 
ふつうは、いい加減な読み方をしたという自覚があれば、いちゃもんは、遠慮して、書かないものですが、楽山は、自尊第一で自分の合理化の意味付けのために、考える前に、自己中のクレームを書いてしまうのでしょう。疑問を、疑問として処理できない体質が表れています。
 
考えもなく、欲求のおもむくままにするのは、欺いてばかりだったことがもたらす災いとして起こり得ます。まっすぐ問題に取り組む姿勢をなくしてしまったからでしょう。ピンと来なくなり、感動できなくなり、不快になるのです。
 
それは、すでに、心と理路の秩序を失っているところの、偽牧師シャロームshalom の、讃美噴射とボロクソ節に表れているのです。キリスト信仰は、教えられたことを鵜呑みにして、同じことを唱えると褒められるカルトとは決定的に違います。
 
永遠は、測れないし、人知では理解できませんが、あるとき、永遠を感じることはあるのです。楽山には、それがないから、辻褄合わせに走ってしまうのでしょう。次元が低すぎます。 
 
キリスト信仰は、自己愛に固まった者や、訂正不能になった者たちには決して分からないのです。彼らは既に分かったつもりでいるからです。つまり、楽山のような、いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになって、その思い上がりだけを表しているということです。
 
 
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、神の前に、分からないことを分からないと言う祈りの正直さが基本です。楽山は、そこから、最も遠いところに居て、いちゃもんだけをつけてきます。
(いちゃもん:言いがかり、難癖)
 
 
この記事も、楽山の、いちゃもんです。聖書の短い聖句だけを引用して、前後の文脈など、お構いなしに、はっきり言って、楽山の精神年齢に合う子供のだましのレベルで、インテリを気取っているに過ぎません。永遠に驚くより、楽山の思想と宗教への脱臼したような軽口は呆れるほどです。
 
「ふっと気が遠くなるような」「めまいがする」「ふらふらしてくる」などと、山の上から景色を見ているような書き方をするのは、聖書の伝えようとする意味を、わざと、日常感覚の言葉を使って、的を外し、読者を聖書的な意味への道から遠ざけようとするものです。
 
つまり、ブログ記事本文に書いてある言い方は、キリスト教って、おかしいね、という、刷り込みであり、この、ふざけた書き方によって、感想ではなく、作為の揶揄だと分かるのです。自己顕示欲が勝っていると、まともな感想も批判も出来ないことが、よくわかります。
 
楽山は、いつも、一見、ふつうに感想を述べているように見せかけます。一見、ふつうに見せる、これが、楽山のボンヤリ言語です。しかし、実際は、反信仰、反宗教、反キリストの楽山の企みであり、ここでは、キリスト信仰の言葉を、あざ笑っているわけです。
 
もう一度言いますが、キリスト信仰は、訂正不能になった者たちには決して分からないのです。何故なら彼らは既に分かっているつもりでいるからです。いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになっているからです。
 
正直な心を持たない者は、正直に祈ることもなく、反発のように、自己顕示するしかないのでしょう。しかし、聖句を、からかっても、何の解説にもならず、意地悪に、ヘラヘラ笑っている姿をあらわにするしかないという例です。大人のわざとらしい児戯は、実に醜いものです。
 
もう一度言いますが、
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、
神の前に、分からないことを分からないと言う正直さが基本です。
 
信仰者が
神の前に祈るとき必要なのは
そのときの精いっぱいの正直さだけです。
 
正直しか神には通じないことを、楽山は知る由もなく、神聖を侮(あなど)り、低め、笑いながら、結局、自分の見苦しい高ぶりだけを表すことになるのです。書けば書くほど、楽山は、人間の良心を失ってゆくのでしょう。
 
自己愛の低次元に囚われたまま成長せず、幼稚な辻褄合わせをするしかなくなり、論者気取りだけでクレーマーとなり、知性の広がりも、感性の柔らかさも、自ら捨てて望まなくなり、気持ち悪さだけを表してしてゆく楽山です。
 
 
不勉強の身の程知らず

不勉強の身の程知らず
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月28日、再録+加筆)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
 
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
 
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
 
区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ることもできるが
迷うことも飢えることもある不自由
 
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
その両価性に循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
  (反)作用
 
ときおり自らの肩を抱きしめたり
カレンダーに石ころの印をつけたりするのは
何かを待ちたかったり
どこかへ行きたかったり
それとも待つものも行くところもなくて
知ってか知らずか
転がっていくのを止めようとしている
あまりにも軽い死の反作用
 
 
  拾った雛
 
たとえ私がひっそり死んで
横たわっていたとしても
腐乱死体のまわりを
お前は飛び跳ねていることだろう
羽毛も生えそろってきて
鳴き声も大きくなって
部屋狭しと飛んでまわるお前には
閉じ込められていることは不満だろう
でも私が死んだら
いくら鳴いても餌を与える者はいない
嘴に黄色い色を残すお前
まだ自分で食べることができない
今私が死んだらお前も死ぬ
それに飛ぶというより滑空に近く
しばしば着地に失敗するお前を
今外に出せば
また日干しになって餓死するか猫のえじきだ
私は飛べないから
早くしっかり飛べるようになっておくれ
お前が死ぬのは見たくないし
餌ぐらいは買ってやれるが
自活とはいえない私の家を去るために
お前は自活して欲しい
早く自分で餌を探し
ついばむようになってくれ
お前はたぶん野鳥だから
鳥カゴは買わない
だから部屋中の糞の始末をしてまわる
私は今
忘れ去られるためにお前といる
 
(※ 昔、玄関前に堕ちていた雀の雛を、緊急避難的に、一か月ほど、小雀になるまで、飼っていたことがあります。)
 
 
 
 
ヤフーブログ時代に、私のブログをコメントで荒らした様々なHNが、一部はスクショで残っています。楽山は、その様々なキャラが楽山だと証明できないことを利用したのでしょうが、一方では、それらが、楽山ではないと証明することも出来ないというネットの罠に嵌っているのです。
 
 
 
(ネットより):かなり前のニュースですが再録します。
 
「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」
ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2021/08/post_245909.html
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学校の先生が、いじめ被害者家族に言ったことは、驚きです。加害者とこの教頭は良心がないと思います。決して許してはいけません。人類の敵は、教育などの制度ではありません。人類の敵は、人間性のないサイコパスです。あらゆる世界に、楽山のようなサイコパスが増えていると思います。
 
サイコパスは、善悪の判断が出来ません。その場で、良さそうな屁理屈をでっちあげます。考えれば、人道に反することが常識で分かるはずですが、その常識そして良心がないのです。被害に遭っていない多数のほうを優先させて言い訳にする詭弁でした。一人の被害者が一大事なのです。
 
いじめ被害者家族に対して、加害者にも将来があると責めたそうです。加害者には、反省しない限り、将来はありません。こういうことを言う教頭は、何の人道も分かっていません。その場で、ぶん殴られても不思議はないと思いました。これが、教育の現状なら絶望的です。
 
そして、その教頭は、よく考えてくださいと家族に言ったそうです。貴様が考えろ!・・ということでしょう。理路が、楽山の詭弁に、よく似ています。形式的で、人間として考えていない証拠です。うわべだけ理屈が通っているつもりのようだが、常識があれば、成り立たないのは明らかなのです。
 
このニュースの加害者も、トンデモ見当違いの教師も、楽山みたいに、道理を弁えず、陰で人を嘘と詭弁で混乱させ、人の精神を消耗させるような者も、恐らく、人格障害だと思います。比率は少なくても、世の中の、いろいろなところにいて、時には、幅を利かせているのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、ネットと言論を見くびって、気安く考えていたようです。真実の追求としての思想や宗教などのテーマについての言論は、生き方に関わる重要なテーマであります。気安く軽口で当てつけたりできる分野ではありません。それなりの誠意と真剣さと責任感が必要です。楽山には、それがありません。
 
 
 
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  楽山の偽り方3
 
 自分の考え方
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、人の言葉を悪用して、自分を高めようとし、また、自己正当化を図ります。楽山が正当だと認められるなら、宗教はお伽噺以上には何の意味もなくなるでしょう。楽山は、ときどき発作みたいに、まとめて記事を書きます。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の宿命でしょうか。
 
私は、反キリスト楽山を資料として、批判記事を書いてゆくだけです。私が生きておれば、しばらくの間、数日は、新規投稿に不自由することはなさそうです。楽山の書く文章は、ちょうどよい世辞の対象になりがちですが、よく読めば、真善美につながる内実は、何もないのです。
 
 
*たまには…
普段、ブログ記事を書くときは、自分の思うところをつらつら書くだけで、わざわざ自分の基本的な考え方を明示することはしないのだが、たまにはそういうのもいいかと思うので、ちょこっと書いてみたい。
*諸説あり
まず自分は、人には、神だとか、霊だとか、霊界だとか、そういうことは知り得ないものだと考えている。
だから、その手のことは断定しないことにしている。
 
楽山が断定しないと言っているのは、語尾を曖昧にしていて、それを免罪符のように思こ込んでいるに過ぎません。実際は、曖昧で婉曲的な書き方は、率直なのと比べて、はるかに、嫌らしく気持ち悪い印象になります。楽山が、断定しないからいいだろう・・と思っているなら、大間違いです。
 
霊言なるものや、キリスト教への幼稚ないちゃもん、そういうことを書いてきた楽山の悪質と悪筆は、甚だしい無理解を示す根拠として明らかであります。丁寧語で書いて、冷静を気取っているけれど、品の無さは、言葉の使い方と、詭弁に表れてきたのです。底意地の悪さは隠せません。
 
楽山は、断定しないことをいいことに、ボンヤリ言語で、偏見を刷り込もうとしてきます。断定しないのは、楽山の理解の方向も内容もハッキリしないからであって、刷り込みという詭弁は、はっきり断定して述べるより、さらに恣意的な悪意の誘導であります。
 
楽山が断定しないのは、曖昧な言い方で、つまり、前から言っているボンヤリ言語で、刷り込むということですから、楽山が断定しないことを、良いことのように言っているのが、既に、詭弁と刷り込みになっているということです。どこまでも無理解で、人の気持ちの分からない楽山です。
 
断定しないと言いながら、楽山は、自分に都合のよい神がいないことから、神を否定していました。これが、楽山の、根拠のない断定のベースなのです。このように、いちゃもん、詭弁、嘘、などが、楽山の専門で、まるで、ネズミ男のような存在です。"いい加減" が人間の形をしているのです。
 
手を変え品を変え、自己正当化に励んでいる楽山ですが、そのたびに、偽りだけが積み重なって、真実の対極にいる楽山が浮き彫りになってきました。何も理解しないので、断定できず、判断も出来ず、それを反省する代わりに、そのことを柔和に見せかけて、だましてきた楽山です。
 
 
せいぜい、「××は神のことはこう言っている」「△△は神のことをこう書いている」という具合に諸説ありとし、「自分はこの説に説得力を感ずる」「自分にはこれが本当らしく思える」という感想を書き添えるくらいだ。
 
これが、何かの弁明になるのでしょうか。すごい壊れ方です。こう言っている、こう書いている、と書けば、責任を負わなくていいと思っている楽山です。引用するということは、批判のためでなければ、賛同を意味する、ということを知らないのでしょうか。
 
責任逃れが、楽山の記事になっています。無駄だと思います。断定しようが、するまいが、いっしょです。言葉を使うことの初歩的な弁えが、まるでなっていない楽山です。このような言い訳が、楽山の、ねちねちと鬱陶しい作文の特徴です。疲労だけを与える元凶なのです。
 
楽山の勘違いは、まず、意見をはっきり述べるということと断定して訂正不能にすることの違いが分かっていないことです。どう信じているかは、はっきり言わねばなりません。それが、真実でないならば、その信仰はカルトであります。
 
しかし、楽山の場合には、主張が靄の中のように明確さを欠いているので、何もはっきり言えないだけです。つまり、思想がないのです。したがって、何もはっきり言わないのがいい・・などという自己弁護の妄想に陥っています。何も本気で信仰したことがないからです。
 
信じていないなら何も言わないことです。自分が明確に言える何ものも持っていないから、その不明を人類に当てはめるというトンデモが楽山です。誰が不明確な主張を信じえましょうか。楽山は盲目を信じているカルトです。誰の助けにもなりません。楽山は主張すべき真実を何も持ってないのです。
 
 
*順序
とはいえ、当然ながら、諸説をそのまま放っておくばかりでもない。一応の序列をつけたりもする。
その基準はなにかといえば、一例を挙げれば、奇説、珍説、トンデモの類は避けて、なるだけ穏当で標準的なものを選ぶというものだ。
 
今までの楽山の理解は、奇説、珍説、トンデモの類よりも、悪質です。何故なら、一見、まともを装うからです。よく読めば、実に幼稚だと分かることを、楽山の生きる悪知恵として、ごまかしの方法だけ、いろいろ持っていて、そえゆえ、中身がないぶん、いっそう醜く煩わしいものになります。
 
今までのこと、上に書いたこと、などから、いちばんのトンデモは、楽山です。だから、今のままでいいと思っているなら、もう何も書くなと言っています。詭弁だらけの理路、虚言、無感性、無共感、無反省、そして無責任では、人間として、目も当てられないほど、欠格なのです。
 
 
*一例
たとえば、HSの『キリストの霊言』では、イエスの最期の言葉「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」とは、エリア、ラッファエロに迎えにくるように叫んだものであり、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給いし」とは言っていないとしている。
 
とんでもない解釈です。楽山は、ろくに聖書を読んでもいないのに、こういう、いちゃもんになりそうなネタを拾っては書いてきます。結局、信仰を、あざ笑っているに過ぎません。何も読まず理解せずに、人真似をして、言葉だけ引用すると、このような無知蒙昧になってしまうのです。
 
 
DSCN3959 イエス最期の言葉1
DSCN3959 イエス最期の言葉2
(画像省略)
でも、キリスト教関連の書物をいろいろ読んでみると、上のような解釈はどこにも見当たらず、イエスの言葉は詩編22の冒頭句であり、それを示すことでイエスが詩編22を唱えたことを示したのだという。
ちなみに詩篇22は、はじめは嘆きから入り、やがて神の讃美に至るものであり、その要所要所を抜粋すれば次のような流れになる。
わたしの神よ、わたしの神よ、/なぜわたしをお見捨てになるのか。 [省略] だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。 [省略] 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。 [省略] あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 [省略]
(詩篇22)
つまりこの箇所は、一見したところでは神の無慈悲さを嘆いているようであるが、実際は詩編22によって神を賛美していたともとれるらしい。
 
讃美と受け取るべきだと決まったわけではありません。ここは、決めつけてはいけないところでもあります。絶望の言葉が、キリストの復活によって払拭されるという解釈もあるでしょう。救い主が人間に与える命を賭した共感つまり愛と受け取る解釈もあるでしょう。
 
絶望でも、希望でも、人が勝手に決めつけてよいことではなく、私たちは、一人一人の人生の中で、この言葉を味わうべきであります。少なくとも、お祭り騒ぎの香具師のような、野卑な楽山を参考にしてはいけません。キリストの絶望の言葉を補えるのは、神だけであります。
 
そういう使命だったという解釈も成り立つわけです。御心は測りがたいのです。信じてもいない者が、とやかく言うことではない。楽山の言は、出来の悪い子供が、墨で髭と眉を書いて、ボクは総理大臣だい!、水と肛門様だぞ!・・とか言っているようなものです。
 
 
自分はこういう場合、後者に理を認め、穏当な解釈として支持しつつ、前者は奇説、珍説、トンデモとみなして捨てる。さらには、新約を理解するには、旧約の知識が必須であり、聖書は手前勝手に読んでいるだけでは分からないというのは本当だと実感するし、善川三朗が無教会派で聖書を学んだというのはあやしく、イエスの霊言なるものはインチキだと結論付ける。自分の判断はおよそこのようなものだ。
 
部外者の楽山は「捨てる」などという選択の権威を、いったいどこで与えられたのでしょう。言った傍から「実感するし」「あやしく」「結論付ける」と、身の程知らずの権威主義も甚だしいのです。自分は頭がいいから有名になりたいというのが、楽山の悪い夢でしょう。楽山を「捨てる」べきです。
 
今になって、分からないのが本当だと実感するのだそうです。ならば、最初から、いちゃもんなど付けないことです。神がいるならなぜ悪がある、などという方向のいちゃもんは、楽山でなくても、小中学生の時に、私もいだきました。楽山の信仰理解はゼロです。楽山が書くことは災いです。
 
信仰は、神が分かるから生まれるのではなく、聖書とキリストによって、苦難の時の支えになるから生まれるということです。そういう場合、信仰の神髄は、理屈抜きになるのです。楽山は、神と取引して損得勘定するような身の程知らずの病魔に蝕まれているだけです。
 
楽山のような因果応報の惨劇と違って、原因も分からず打ち勝つことも出来ないような悲劇があります。そういう悲劇に共感するキリストは、御自らが、最も理不尽で悲惨な災いを受けることで、魂の不滅に共感することが、新しい命の世界を開くことを証ししたのです。
 
 
*理屈屋
自分は直観は大事だと思うが、それだけでは心もとなく感じるし、ある程度の理屈も欲しく思うタイプなので、自分の判断にはそれなりの理屈をつけることはある。
 
楽山は、理屈も、直感・直観も、皆無です。だから感動とは真逆の刷り込みしか出来ません。楽山にあるのは、屁理屈、詭弁、妄想などです。成り立ったかのように見せかける詭弁に、だまされないでください。直観的洞察は、心を解放です。楽山には皆無です。
 
理屈というのは、欲しく思って付けるものではなく、なくてはならない理路として考えるべきものです。理路を支えるのは、真実への共感という実感であります。楽山は、「欲しく」「つける」などと、何を軽薄なことを言っているのでしょう。学習を捨てた楽山には、何もないのです。
 
 
ただ自分は、上のように、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を望むので、強引な理屈を必要とすることはないのは幸いだ。
藤倉氏は、下の記事において、霊言はインチキだとみんな承知してはいても、それを証明するのは困難だとしている。
 
信仰として必要なものは、生きるための感動からの共感力であります。楽山の「無難、穏当、一般的」は嘘です。何も開かれるものがないからです。月並みだが否定するのも何だか、・・というような言など、何の役にも立たず、ほぼ、お世辞と同じなのです。楽山が理解されないことこそ幸いです。
 
トンデモを退けるなら楽山の言葉を退けるべきです。楽山の、自信ありげな、評論家気取りの、あたかも知恵者であるかのような、冷静を装う気取った言は、成り立ったことなどないトンデモです。既にバレているのです。楽山は、祭の夜店でインチキを売るペテン師です。
 
 
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note
これはもっともなことだ。
でも信者を説得しようとでもしないかぎりは、大抵の人はほどほどの理屈で満足できるものだ。この点、自分はほどほどの理屈で満足できる立場でよかったと思う。
 
「ほどほどの理屈で満足できる」と、楽山が自白しています。何も真剣味のない自己愛者の、いい加減な、与太話です。楽山の言は、思いつきと思い込みが大半の酷いものです。それで満足すること自体が、楽山の言論不適応の根拠、そして、こちらの批判の動機となっています。
 
言論に「ほどほど」良いものなどありません。言論は、真実の追求です。楽山は、インチキ丸出しです。結局、何も整っていない者が、自己顕示欲のために、でっち上げの、良さそうな話で組み立てているインチキであります。それを、真顔で、書いてくる身の程知らずが、楽山に他なりません。
 
人間は大方の生き方を言葉を通して学びます。言論は「ほどほどの理屈で満足できるもの」ではありません。それに、ほどほどの理屈にも、理路にも、楽山は達していません。楽山の言は、参考にもなりません。ただただ、嘘と詭弁だらけで、迷惑で、害になるだけです。
 
 
*屁理屈屋
ちなみに、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を出すには、理屈はさほど必要とせず、ほどほどで十分ではあるが、これとは逆に、無難、穏当、一般的な結論を否定して、トンデモを正当化するためには、かなりの屁理屈が必要になるものだ。
 
楽山は「無難、穏当」以外は、トンデモという理路のようです。心の底に生き続ける真実の共感というものを除外しているか、見えないのです。ひどい怠け者が大切なものに触れる感性がないのが悔しいから、自己顕示だけはしたいという動機で、深い思慮もなく、口から出まかせを続けているのです。
 
「無難、穏当」は、命を支えません。だからトンデモを退けるなら、まず、楽山の屁理屈を退けてください。「ほどほど」ではなく、明確に、楽山を退けてください。楽山は、真実の追求に、いちばん邪魔な障害物~惑わしの危険物です。楽山は、感動という言葉を知っていても、感動体験を知りません。
 
結論というのは、人にとっては、いつも暫定的ですが、少なくとも、無難、穏当を目指すものではありません。屁理屈は、排除するべきもので、必要ではありません。そこに、人間の切実さも実感もないからです。楽山の言うことは、大方、体験に基づかない屁理屈です。
 
 
たとえば、大川隆法は至高神エルカンターレだとか、大川隆法は天上界からイエスを指導し、イエスから我が父と呼ばれていただとか、霊言はすべて本当だとか…こういう特殊、トンデモ、奇説、珍説の類を正しいとするためには、相当に無茶苦茶な屁理屈が必要になる。こちらの理屈をこしらえれば、あちらが崩れる、その崩れをなおせば、他の箇所にほころびが出るといったあんばいだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山が、他を指して、トンデモ、奇説、珍説と呼ぶのは、実に滑稽です。屁理屈だけを振り回しているのは、楽山です。楽山自身が、いつも、無味乾燥の屁理屈だけを言っています。私の経験として、3年以上、それだけです。
 
信仰について語る、ということは、神への恐れを持ち、それゆえに、神の前の正直ということだけが必要になります。その時の意見が真理や真実とは限らないということは、反省と悔い改めと成長を支える神との関係で明らかになるのです。学習も成長もしない楽山には分からないことです。
 
 
こんなことを言っては申し訳ないのだけれども、根っからのトンデモ好きな人はともかくとして、トンデモよりは常識的で穏当なものを好む信者がいたとしたら、こういうHSを信じ続けるのは大変だろうと同情する。
 
まだ、他者をトンデモと呼んで、自らを省みない楽山です。気づかない楽山です。「常識的で穏当なもの」は、楽山のものでしかなく、宗教と信仰において、宗教的でも信仰に適うわけでもないものが多いのです。さらに、楽山には常識はありません。楽山こそ嘘と詭弁とリーダー妄想のトンデモです。
 
妄想でもなく、超常でもないところで、穏当などではなく、信仰は、人の心をとらえる、縁のようなものです。俗の臭みと詭弁だけで、学習を怠け、成長をしない楽山は、人の言葉を食い、排尿、排ガス、排便しているだけです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)に真実はありません。
 
 
*信者による楽山批判
信者による楽山批判を読んでいると、本を読んで自分勝手な解釈をしているだとか、屁理屈を重ねているとかいうものがある。
 
自分勝手な解釈と屁理屈は、楽山の常習です。「心の理論」において、また、シャロームの狂信条に無条件賛同したことなどにおいても、弁明など成り立ちようがないほど、明白になっています。それでも書き続けるのは、それが病質だからでしょう。
 
 
でも自分の書いていることは、上に述べたイエスの言葉の解釈のように、ある程度のうんちくを提示しつつ、穏当な説を支持して、トンデモを捨てるというものだ。いわば普通のことだ。
 
楽山に、うんちはあっても、うんちくはありません。うんちくを、うんちくだと受け取る感性もありません。楽山は、ただただ、この世を、いい加減色に染めたいだけのペテン師です。楽山の言う「穏当」は、何の助けにもならない、楽山の、婉曲と曖昧の、ボンヤリ言語のことです。
 
それを、普通と呼ぶ楽山だからこそ、とても異常~狂気なのです。信仰は、穏当を目指しません。例えば、信仰の柔和は、無関心の鈍感で反キリストとなっている楽山などの及びもつかないような深さを持っていて、私は、ずっと、学習途上であります。楽山の「穏当」は、恐ろしい騙し文句です。
 
 
にもかかわらず、信者は楽山は屁理屈を重ね、自分勝手な解釈をしているというのだからおかしい(笑)。
 
このように、楽山の自己中と無反省は「(笑)」だけを、結局、楽山にもたらしてゆきます。そこが、楽山の病巣であり、楽山が、気づくことのできない様々な症状をもたらしているのです。ヘラヘラと人を笑うことしかできない楽山には、独り笑いの悟り顔の、おぞましい醜さが付きまとうでしょう。
 
 
正直言って、こういう信者の思考回路は理解しかねるが、大方、標準とトンデモが逆転しているのだろうと想像する。
 
楽山には、言論に足るだけの思考回路がありません。今まで、ずっとそうです。その楽山が、他者の思考回路を云々するのは、笑止を通り越して、凶悪です。言論に標準はありませんが、楽山の詭弁と嘘は完全に排除しなければ、言論も、信仰も、成り立ちません。
 
 
信者は、HSの教えこそが標準であると信じているから、それをトンデモとして否定するのは自分勝手な屁理屈であり、間違いであるように見えるのだろう。こういう逆転は、それだけマインド・コントロールが効いているということであろうし、標準的な感性、良心を見失っているということであろうし、本当に悲劇だなと思う。そこまで追い込まれてしまっている信者はかわいそうだ。
 
カルトのマインドコントロールを解除するのは易しいことではないのでしょう。しかし、楽山のマインドコントロールは、人格を破壊する悪性の病原です。標準的な感性、良心を見失っているのは、他でもない楽山であります。見せかけの柔和をもって、嘘と詭弁で誘導し、だますのが楽山です。
 
私が楽山に対して批判として書いた「感性」「良心」という言葉を、楽山が、悪用しています。これこそが、楽山に関わるならば悲劇となるという狡猾な悪意であります。楽山は、標準的な感性も良心も持っておらず、代わりに、当てつけや皮肉で、笑っています。
 
追い込まれてしまっている信者を本当に思うならば、楽山は、何も書くべきではありません。恐らく思いやりなど、楽山は、何も感じていないと思います。だから、今までも、何にも気にしないで、平気で書いて来れたのでしょう。楽山は、感性と良心を虫食む病質人格です。
 
楽山の悪は、他者を利用し、嘘の反省芝居をして、どこにも通用しない妄想的単方向を、うす笑いをしながら進んで、罪の門口へ向かっていると思われます。もっと恐ろしいところへも向かうでしょうから、楽山は、人の好意を貪ります。誰も、楽山に近づかないようにお願いします。
 
 
いちいち嘘ばっかり

いちいち嘘ばっかり
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月27日、再録+加筆)
 
 
 
  偽りの時間
 
巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
 
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
 
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて
呟く ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
 
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
 
  永遠の友・共感信仰
 
(人格は
 人格を超えるものを
 理解できない)
 
(人間の心を動かせるのは
 あくまで人間的な体験であって
 人間を超えるものではない)
 
イエスをキリストと呼び
主イエスと仰ぐくらいだから
キリスト者(クリスチャン)にとって
イエスは救い主であり
飼い主なのだが
永遠の友という呼び方もあり
永遠の同伴者でもあり
信仰が結婚に譬(たと)えられるのに似て
男であれ女であれ
キリスト者が
惚れたと言ってもよいくらい
イエスに縁付いてしまうのは
イエスとキリスト者を
結び付けているものが
契約という教理以上に
あくまでも人間的な
断ちがたい心の絆(きずな)であり
キリスト者は文字通り
イエスに絆(ほだ)された者だからである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の投稿が、最近、少ないようです。3年余り、楽山が何か書けば、私が、その非道を指摘し、楽山を批判し、楽山の言を否定しているからでしょうか。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、病識がないので、説得は無理です。批判し続けるしかないのです。
 
 
 
>(楽山リツイート)
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
【定期】教義がおかしくなくても、伝統的な宗教でも、指導者への絶対服従や偽装勧誘などを指示し、金銭的・身体的・精神的被害をもたらしてしまうカルト(化)教会は存在します。カルトかどうかは「何を信じているか」ではなく「何をやっているか」が判断する基準です。
午後9:33 · 2022年8月24日·Botbird tweets
 
キリスト教でも、おかしな教派や、さらには、キリストの名を悪用するカルトはいます。しかし、真実を大事にするキリスト教と信仰を知らずに、おかしな教派をもって、キリスト教全体を否定することはできないはずです。それを書きたがるのが、飢えたケダモノのような反キリスト、楽山です。
 
 
 
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