ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年08月

 
  不完全以下
 
 『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』
 更科功著 2022年08月24日 楽山日記(LD)
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が読書をすると、どういう短絡が症状として表れてくるかを見ることになります。何かを伝えたくて書いてはいません。自慢化インテリ気取りか、自己顕示欲だけで読んで書いて、結局、自己満悦したいだけなのです。
 
なぜ人間が不完全なのかを、進化論的にはそうなるだろうということがあり、キリスト教的には完全なのは神のみであるから人は不完全ということで分かるわけです。大事なことです。楽山が自分という人間が完全だと思っているなら、それこそNPDの症状でしょう。
 
人間が完全である根拠など、どこにもないということです。さらに、楽山について言えば、不完全というより、一般的な人間理解による判断での正常な人格よりも、良心がないぶん、最低限も成り立っていない、つまり、不完全より、不全と言ってもいいくらいです。
 
 
*万物の霊長?
人は万物の霊長であり、地上でもっとも優れた存在であるとする考え方があるが、本書ではこれは間違いであることを豊富な事例によって明らかにしている。これを読むと、人は動物とは別個に、はじめから完成品として、この形で出現したのではなく、両者は連続していることがよく分かる。
 
人が万物の霊長であることを間違いとしている本を読んで「明らかにしている」と書いて、説明しなれば、理解していないということですから、読んでいないということにもなるでしょう。今までの、楽山の読書も、おおよそ、理解したとは言えないものばかりでした。
 
楽山にとって読書は都合のよい言葉集めなのです。この本も、その域を出ていません。「明らかにしている」「よく分かる」・・なのに、何一つ、説明できていない楽山です。本を、反省と学習と成長の糧に出来ないのは自己愛性人格障害の特徴で、自慢し満悦するために、整わないまま記事にするのです。
 
人類を、万物の霊長と言うのは、人類が、本能で活動する動物よりも、知能が高く、生活様式も内容も高等であり、より深い情緒を持っているということから言われることでしょう。そうでない楽山みたいな霊長とは言えない人も、例外として、人類の歴史の中に登場しているわけです。
 
聖書から、アダムとイブのように、人間が、最初から神によって霊長として作られているというのは、実存的に解釈した場合であり、そこに罪の起源もあるという重要な話です。罪も救いも分かっていない楽山のように、創世記を、科学的事実や歴史と対抗させるのは、反キリストの企みに過ぎません。
 
楽山は、ヒトという哺乳類の話と、人間の存在という宗教的な話を、どっちだ!・・という話にして、結局、以前からの楽山の反キリストの宣伝にしたいだけでしょう。しかし、これは、楽山に、科学や歴史、そして、宗教と信仰、どちらも語るに相応しい思慮がないということでしかありません。
 
聖書は、信仰による救いの教科書です。歴史的事実の教科書になるかどうかは、歴史学や考古学が考えることであり、恐らく歴史の事実そのままとは考えにくいと思います。その区別が、ごっちゃになっていると、楽山のように、とんでもないことを言い出す者が出てくるということです。
 
 
*死と生
また本書の末尾では、死があるからこそ淘汰が作用して進化が生まれるが、もし死がなければ淘汰も進化もなく多用な生物が生まれることもないとして、死による生というある意味残酷な見方が語られている。
 
恐ろしく長い永い時間にわたる進化というテーマですが、楽山は「死がなければ淘汰も進化もなく多用な生物が生まれることもない」ということを「残酷な味方」と言っています。楽山は、生と死に触れずに、趣味的に、心地よく、進化を知って物知りになりたいのでしょうか。感性の歪みを感じます。
 
進化の意味を知っているのでしょうか。死によって受け継がれるものを考えられないのでしょうか。「ある意味」は楽山の自己愛の狭い領域のことのようです。知りたいという興味で本を読むことが出来ていないのでしょう。楽山の趣向は、一気に展開する超常であり、現実ではないからでしょうか。
 
 
この辺りの理屈は分かり難くはあるが、生あるものは必ず死ぬ、死と無縁の生はないということは分からないでもない。でももしこれが真実であるとすると、「宗教で言われるような『永遠の生』なるものは、果たして本当の生と言えるのか? むしろそれこそが死ではないか?」という気がしてくる。もっともこれは答えのない問いであり、考えても詮無いことだろうけど。
 
楽山は、いつまでも、小学生レベルの疑問のままで、また、愚痴を言っています。日常的な時間でないことが分からないのでしょうか。まだ、宗教なら時間の永遠をくれとでも言うのでしょうか。キリスト教の言う「永遠の命」は、寿命の時間の長さではないし、手に取るように分かることではありません。
 
そして、楽山は、分からないという代わりに、自己愛から、いつものように短絡して「それこそが死ではないか?」などと、対象のテーマごと否定してきます。共感を求めるつもりで言ったのなら、死の共感を求めていることになります。恐らく、宗教を否定したいから書き始めて、ズルズル滑っているのです。
 
そして、また短絡して、自分に分からないことは「答えのない問い」だと決めつけて「詮無い」のだそうです。「詮無い」だけなら、何の糧(かて)にもならないことを書くべきではないです。やはり、無責任に、自己中に、言いたいだけ言って、責任を負わない楽山が表れてくるのです。
 
しかし、生きていて、一瞬の中に、永遠を感じることはあるわけです。それが、何かに感動する時などです。そして、それで生き方が変わるならば、その人は、その解放感に出会った時を、永遠と呼んで不思議はないのです。つまり、感性によって受け取る永遠は、物理的な時間ではないということです。
 
知性が詭弁と嘘でしかなく、感性が育っていない楽山には、永遠という言葉一つとっても、何も理解できず、広がるものも無く、自己中に、自棄的に、短絡するしかないのでしょう。しかし、だんだん、自棄になる感じが増えてきて、知性も、元々成り立っていないのに、退化してゆくようです。
 
歴史上の事実は、過去にあり、現代の人々は、その真偽を推測しています。信仰上の真実は、現在の個人にあり、生きるために必要なこととして、信仰者は、考え続けるのです。そういう区別が全然できない楽山は、どちらを語るにも、失格です。世迷言ばかり言う楽山は、甚だ迷惑です。
 
 
学習と成長 怠慢と不全

学習と成長 怠慢と不全
 
 
(2022年08月26日)
 
 
 
  病と自殺
   ----虚無の力
 
病は試練であり
自殺は最大の罪である
というけれど
 
死後が楽だという保証はどこにもない
という教えは間違ってはいないけれど
助ける力にならないときもある
 
生きた方がよいか死んだ方がよいか
それは生きてみなければ分からないこと
という思いに変わりはないけれど
 
もう充分長く
試しに生きてみました
と察しを付けてしまった人には
無力なのかもしれない
 
生きるのに勇気は要らない
死を上回る死があればいい
と書いたことがある
 
見かけの関係や効率の叩き出す数が
人間の価値さえも決めてしまう時代
駆り立てる圧力に押されて
希死へ走り出そうとする速度は
急制動を掛けられた生産速度
と反比例するように
止めることは至難の業だろうか
 
死を上回る死とは
死ぬ前に死を殺すこと
死のうとする精神を殺すこと
精神は殺し肉体は生かしておくこと
生きながら屍への虚無の力動である
 
残された肉体は精神の遺物に従って
飲食と排泄と睡眠という
肉体の維持だけを行うことになる
そのとき目は虚となり
口は無となり
耳は空となるだろう
かかる虚無の精神世界において
人との関わりや柵(しがらみ)や
仕事や効率が齎(もたら)す圧力は
もはや何の形も意味も成すことはない
 
肉体は細胞であり
精神は機能である
肉体が死ねば精神も終わるだけだ
しかし
復活はしばしば
午睡のあとの目覚めのように
あるいは雪解けのように
緩やかに訪れる
例えば何かをしたい
と静かに語りかけてくる
 
なぜなら精神が死んだようでも
細胞という自然に抱かれており
自然は常に自動して
変転し再生しているからである
 
死を上回る死を生きる
それがどんなに怠け者と見られても
狂気を上回る狂気と見られても
未来永劫の死を背負い込むよりは
今日一日の
精神の死を過ごす方が負いやすい
 
明日は明日が過ごし
自然の変転のうちに
いつか与えられる死を迎えるだろう
 
肉体を殺すな殺してはならない
精神を殺せ殺してもかまわない
と許したくてたまらない人間が
少なくとも一人
自らが生きもせず
自らが死にもしないために
ここにいることを告げておきたい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、退行しつつあるのでしょうか。真善美や宗教・思想などの大きなテーマとして考えるべき理路や命題が、つながらなくなってきたようです。「考えても詮無い」のは、楽山にとってです。私たちは、健康な精神で、学習し成長してゆくために、不完全ゆえにこそ可能性を信じて努めていたいのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の無責任広告2
 
 「キリスト教に関する来訪者の声」を読む
 2021年08月13日 楽山日記(LD)
 
 
記事の大方は、リンクを貼っているようですが、いつものように、他者の口を借りて、キリスト教と信仰に、いちゃもんを言ってくる卑怯者の楽山です。話にならない人はスルーすると言っていた楽山ですが、いちばん、話にならないのは、楽山です。こちらは、リンクは貼りません。
 
楽山は、訂正不能の腐敗に陥ると、正当なものは、一切、理解できないのに、分かったつもりの、だまし言葉で、立派に見せようとしてくるのが今までの履歴であり、面白くもない偽善の道化なのです。楽山は、他者の都合を一切無視してくるので、楽山の言も一切無視してください。
 
 
*知る喜び
この間から、佐倉哲エッセイ集の「キリスト教に関する来訪者の声」を読み返しているが相変わらず面白く、かつ勉強になる。
以下に、今回特に心に響いたところをメモしておきたい。
 
佐倉哲は、聖書の話を、事実認定のように、ここが違う、ここがおかしいと、ケチをつけてくる人のようです。佐倉哲のプロフィールはホームページに「岡山県出身」「コンピューター・プログラマー(米国在住)」と書いてあるだけで、他のサイトにはないのです。楽山の成りすましかもしれません。
 
先ず、楽山は、勉強をしない人です。それで、読解力のないことが、書くものに表れてきました。そして、いつも、自分の快感につながる都合のよいことを漁っているだけです。その証拠に、読書したはずの楽山の宗教観は、読めたものではないのです。
 
楽山も佐倉哲も、聖書の心、信仰の心を持ちません。だから、一面的で、言っていることに説得力がありません。事実じゃなければ、嘘でしょうか。聖書が伝えているのは、大昔の、あるいは、奇跡の、事実性だけでしょうか、違います。
 
聖書が伝えているのは、人間のための真実なのです。心で読み取れない人には分からないのです。心に響くことを感受できない楽山と佐倉哲は、分からないまま、違う、違う、と言い張っているだけの、反キリスト、そして、妄想前提の無理解なのです。
 
 
*信仰と探究
まずこのやりとりは、自分には真に迫るものがある。以前とある宗教を信じていた時に、「この宗教は正しい。自分は正しい宗教を信じている」という信仰と、「正しい宗教とは何か? この宗教は本当に正しいといえるのか?」という探究心との間で悩んだことがあったので。
・「キリスト教撲滅運動か」
 
どうして、その間に悩むというのでしょう。しかも、言葉だけ探求心と言っていますが、楽山にあるのは、否定前提の、嘲りと悪意の犯罪心理だけです。別個の問題を区別できない楽山が表れています。楽山が「正しい宗教」も、信仰も、書けないのは、読んでも心に響くことがない病質だからです。
 
 
*あれかこれか
これも自分には他人事とは思えないやりとりである。以前信じていた、とある宗教も自由を推奨しつつも正邪善悪をはっきり区分し、二者択一を迫るところがあったので。
・「二者択一の論理」
 
嘘です。楽山には、すべて他人事だと思います。というのは、楽山には、まともな判断力がなく、この記事もそうですが、他人の言うことを、我執と我欲で選んで、もっともらしく、また、問題の的をすり替えて、怪しいと言ってくるだけなのです。
 
 
*内村鑑三
佐倉哲氏がここで紹介している内村鑑三の言葉は、自分にとっては真っ赤に焼けた鉄のようであり、一度触れれば魂に深く焼印を押され、もう二度と忘れることはできなくなるようなものだ。内村鑑三は大きな人だと思う。
・「内村鑑三」
 
楽山は、真っ赤な嘘と、焼けただれた言葉を、記事に貼り付けて送信し、それを、記事とか文章とか稿とか呼んでいるだけです。内村鑑三も、激しいところがあるので、それを、楽山は、好きなように悪用しているのです。最後には楽山自身が焼けただれることも知らずに。
 
楽山は、読む人に、最初は、やんわりと、ついには、消えようのない焼き印のように、刷り込んでゆく無神教カルトの煽動者です。反省もせず、責任も負わないで、楽山が書いてくるところの、丁寧語と、学者気取りに、だまされないようにしてください。
 
 
*生け贄と神観念
ここでは日本人にとって生け贄という考え方が難解である理由が、分かりやすく説明されている。日本的感覚では生け贄を要求する絶対的な権力者は、「やまたのおろち」と同様に悪と受け止められるというのはその通りだと思う。少なくとも自分にはそういう感覚はある。
・「十字架」
・「十字架のあがないと日本人」
 
楽山こそ、生きた人間と、生きた良心を、生け贄として、求めているのでしょう。心の底から腐ってしまうと、このように、人間離れした悪魔性になるということを楽山は示してきました。楽山ブログは、心の蓄えもなく、悪魔性が、インテリ気取りで、書いているインチキブログです。
 
 
*本音と建前
ここでは聖書の無謬性についての本音と建前が語られている。
こういう文章を読んでいると、自分が信じていたとある宗教でも似た考え方があったのを思い出す。普段は「この教えは最高の真理だ。史上、これだけ素晴らしい真理が説かれたことはない」としつつも、その教えに間違いが含まれていることを指摘されると「それは枝葉の部分にすぎません。教えの本質を見てください。この本質においては少しの間違いもありません」というのである。この辺りの本音と建前は、どこの宗教でも変わらないのかもしれぬ。
・「写本・訳本問題」
 
聖書を読んで無謬性の真理が人に分かるでしょうか、否です。聖書は、神の下でキリストの同伴によって、聖書に日々親しみ、人間として生かされる道を教えています。無謬性の真理を知るなどというのは自己満足したい人の欲望に過ぎないのです。人間離れの楽山は、聖書を曲解しているだけです。
 
信仰は、枝葉ではなく、有無の問題です。行為義認ではなく、道徳でもありません。楽山は、信仰を、多からず少なからずの安い楽山レベルの安い道徳におとしめてきました。楽山は、元々、救われたい気持ちもなく、嘘と詭弁で霊能者を気取っているに過ぎません。だまされてはいけません。
 
 
*つづき
つづきは、稿を改めて…。
 
まだ書くという脅しでしょうか・・・楽山の稿は、疲労と徒労の入り口です。あらゆる問題を無視して書いてくる楽山の文章には、今まで、説得力も、本心も、見られたことはありません。表れてくるのは、嘘と詭弁とペテンと悪意だけです。どうか、楽山と佐倉哲を、相手にしないでください。
 
 
独り芝居で自分がいなくなる人

独り芝居で自分がいなくなる人
 
 
(2021年)
(2022年08月25日、再録+加筆)
 
 
 
 2021年08月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 「ブログ村騒動」発言集(コピペ批判)
 
 
*まえおき
数年前、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
*発言集
では、コピペ批判に関連した発言を貼ります。
 
いつものように、他者のことばかり言ってくる楽山です。
 
コピペブログをやってる人たちは、自分では文章は書けないけど、幸福の科学の教えは広めたいという気持ちから、せっせとコピペ記事作成してるのだろうし、きちんとコピペ元を明示してリンクを貼ってるなら、よしとしてあげてもいいような気はするけど、どうだろう。甘すぎるかな。
でも信者村では、コピペブログはいくつもあるし、ガンさんはいくつものブログに噛みついた形になっちゃってるな。
 
楽山こそ、ツイートを貼りつけるのが好きなコピペマンです。自分では、理路が組み立てられず、共感が得られず、筋の通ったことが何も書けないからでしょう。一貫性もなく、反対して、賛成して、責任問題は発生しないなどと言っていました。
 
弱気の筆致で描いていますが、これは、楽山の芝居で、トホホ言語と呼んでいます。責任を薄くするための、お道化の一種でしょう。楽山は、「きちんとコピペ元を明示」しているでしょうか。「>」の使い方が雑ですし、リンクを付ける作業も怠っており、怠け者らしい書き方です。
 
楽山は、自分の意見に軸がないので、他者から、特に、有名人の本から、都合のいい文言を引っ張ってきます。誤解とかは考えず、自分のために、有名人さえも利用して、自分も同じレベルだと、学者やインテリを気取ります。そして、責任は、一切、負わないのです。
 
 
相変わらず、コピペブログ批判をしてるようだ。
傍から見てると、ブログの方針にしても、アンチへの対応にしても、それぞれのブログによってちがっていていいと思うのだが、それじゃあダメなのかなあ。
 
ボンヤリ言語「かなあ」が出ています。いい加減なことしか言えず、責任を負う気のない者の筆致です。それで、言ったことの責任がなくなることはありません。「ちがっていていい」と言って、引用して、責任は負わないわけです。そういう引用は、いちばん厄介でしょう。
 
 
「信者ブログはこうあるべきだ」「アンチにはこのように対処すべきだ」という自分なりのポリシーを持つのは悪いことではないだろうけど、他人も自分と同じようにすべきだというのは行き過ぎのように思える。
 
「こうあるべきだ」に対して、別のあり方を提示して説明することが、楽山には、できないのです。だから、何でも、議論も、言論も、投稿も、ブログも、リンクも、本の引用も、すべて、いい加減になってゆくのは、無責任の結果でしょう。楽山には自己愛性人格障害の病識がありません。
 
責任を負わないのなら、意見を言うべきではありません。自分のしっかりした意見が、楽山には、ないのです。楽山の人生観は、言いたいこと言って、気が変わったら、訂正も反省もせずに、好き勝手に、違うことを言ってもいいという考えなのでしょうか。だとしたら、社会人ではありません。
 
他にも、書いてありますが、似たようなものですし、お情けちょうだいの「かなあ」「だなあ」「なかろうか」の、ボンヤリ言語・トホホ言語で、まるで、おねだりしているような筆致は、臭くて、読むに耐えません。
 
「自分と同じようにすべきだというのは行き過ぎ」という言い方で、違ってていい → ゆえに勝手に書いている自分も正しい、という自己正当化です。他に、人それぞれ、自分を貫く、などという言葉を無条件に一般則にして、自己中を正当化してきました。日本語を知らないのでしょうか。
 
 
 
  縊死(いし)
 
幾人かの自殺者が残していったものは
あまりにも急な沈黙に終わってしまって
動機も理由も結局は不明のまま
明確に語れる者は誰もいなくて
噂だけが死臭のように漂ってはくるが
口の中でムニャムニャ
聞こうとして聞くに憚(はばか)り
そのムニャムニャが胸の底まで沈んでいって
さらに病みながら片隅にあるばかり
 
キリスト者とはいえ自分の場合は
自殺しない保証は何もないから
せめて「ごめんなさい」と
祈りともつかぬ最後の独り言を
今更のように戯言を
そのときには呟くしかないのだろうか
すべては自分の責任において
首を括り首を吊る
責任と意志
 
いつの日からか
我が身から出たものは
いずれ我が身に返ってくる習いから
その顔が溢血点や鬱血や
腐乱や浮腫でどんなに醜くかろうとも
正視しなければならない
 
そう気づいたときから
自分で自分の首を絞める
という縊死は
繰り返される日常の中にある
 
 
  あの世
 
明け方バイクに乗って山の上から
雲海を眺めていた
太陽、雲、あらゆる光
この目はうばわれて、どこか
この世にいなかった
翌朝、山のふもとの道
雲海の雲の中を走っていたのだろう
体はバイクの上で冷たく濡れていった
急に開ける視界
いつのまにか朝日をあびて
シャツが乾いて汚れていた
体はうばわれて、どこか
この世を離れていた
 
昼下がり、車のフロントガラスから
太陽を隠す大きな雲
そのふちは輝き、やわらかい輪郭の
空の上から下へ
隠された太陽から放射状にまっすぐ広がって
注ぐ光、光の帯
天国への階段かと
虹を思い出そうとして
色をうばわれて、どこか
この世に別れを告げていた
 
太陽は神ではない
しかしときに自然が見せる
とくに太陽にまつわる
この世ならぬ感覚は
ある種の喪失か自己消滅か
あの世
でもいいけれど
信じているものは求めて目に見えず
信じたい世界では
信じたい人々からは
信じるべきものは目に見えて闇のようだ
 
 
  メッキは剥がれて
 
板よりも紙よりも細胞膜よりも
薄いスチールをメッキして
それに塩水をかけてゆく
成長と老化
剥(は)がれてゆくメッキの中は
恐らく醜(みにく)く見にくい
好きになれない自分のために
メッキは錆びて剥がれて
ボロボロになりながら
時々そっと中身を垣間(かいま)見せる
人を愛するためには
まず自分を好きにならなければ
と多くの人が言う
でもどうしてもやってしまうなら
自己嫌悪
それは愛すべき高さを持っている
 
(※ なお、いつもキレイごとを書いている無反省の自己愛は病気です)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
与国さんなりに、自分に正直に、真摯に、命がけで意見を述べたのに、
霊的に悪い波動を受けての発言ですね、反省行に打ち込んでください、で済まされたんじゃ、たまったもんじゃないな。
まあHSでは、教祖、教団に不都合な意見は「下のものに言わせられてる」で片付けられるのが当たり前なんだけど。
午前7:09 · 2021年8月13日
 
「霊的に悪い波動」は霊能者気取りの楽山の嘘と詭弁のことでしょうか。楽山は、ふつうに生きてるつもりなのでしょうか。教団の不都合を言いながら、一方では、キリスト信仰をおとしめて、右翼思想家を讃えて、霊やホラーに気を奪われて、他者の気を奪っている超・無反省・無責任の楽山です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは、一般人とはちょっと違う特別な自分が大好きなナルちゃんキャラですね。
純文学の主人公によくいるタイプ(笑
引用ツイート
Rダークネス【幸福の科学はカルト宗教】
(画像省略)
@darknessV321
 · 8月23日
教祖のヤバいポエム。
午後7:11 · 2022年8月23日·Twitter Web App
 
教組がナルシストだと言いたいのでしょうか。楽山もナルシストで、自慢できるものは何もなく、それで、ますます自己中になって、嘘を吐き、人をだまして、迷惑ばかり掛けているのです。また、自分を見ないで、他者をけなしている楽山です。ずっと、笑い続けるしかないのでしょう。
 
「一般人とはちょっと違う特別な自分」を笑う資格は楽山にはありません。楽山は、一般人の良心も良識も持たず、無反省で無責任で、笑いながら人を貶すのが生き甲斐のようです。自分が、カルト同然の単方向になっていることも気づかず、ずっと"(笑"っているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
嘘を吐き続け、詭弁を遊んで、それで、言い分が通ったと思い込む精神は、明らかに病質です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。記事で嘘を吐き、ツイッターで嘘を吐き、引用を曲げて自分の言い分に見せかけて褒めてきた楽山です。人間としての自分が無いのです。
 
 
 
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  楽山はネトウヨ2
 
 『スピリチュアリティの興隆 新霊性文化とその周辺』島薗進著
 2020年08月16日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、異常な精神背景以外、見るべきものはありません。名称ばかり書くのは、中身を理解できないからなのです。楽山は、一度も納得のいく話をしたことがありません。
 
いつも明らかになるのは、大きなテーマや名前を、いっぱい並べて、それだけで、自分を、偉く見せよう、偉く見せよう、という、欲望への執着だけなのです。
 
新しいのは、今回、楽山が、右翼、つまり、ネトウヨだということが、はっきりしてきたことです。
 
 
タイトルにひかれて本書を読んでみたのだが、読みっぱなしだとすぐ忘れてしまうのでその内容と感想をメモしておきたい。
 
メモならば、整った文章になるまで、人には見せないものです。それを、メモしておきたい、などと言って、出してくるのは、自己顕示欲としか言えないでしょう。傍迷惑です。
 
「スピリチュアリティの興隆 新霊性文化とその周辺」というタイトルに惹かれるのは、霊が分かるっぽい楽山の精神背景を物語っています。自分もスピリチュアルだと言いたいのでしょう。
 
しかしながら、心の理論や、奇跡の話において、何ごとにつけ、楽山の誤読は、妄想的と言えるほどに偏向や恣意的な解釈が著しく、とても、楽山に、霊か何か知らないが、直観力や直感力があるとは思えません。とても幼稚な自己正当化のネタに使っていただけです。
 
「心の理論」
何度、これを引用すれば済むのでしょう。
発達心理学を、霊の話にすり替えています。
 
「奇跡について?」
ここでは、楽山の理路の混乱が見られます。
 
 
まず本書の第Ⅰ部では、戦後日本におけるスピリチュアリティ、精神世界、ニューエイジ、緩和医療、ウーマンリブなど「新霊性運動・文化」について概観し、その先駆者として山尾三省、船井幸雄、柏木哲夫、田中三津らの思想、活動を分析している。
 
分析というものをしたことのない楽山です。また、文責というものを考えない楽山です。楽山にあるのは、スピリチュアリティではなく、原始的な自己顕示欲だけです。学者気取りやインテリ気取りで記事を書いていますが、そこには通念的なことか、妄想しかありません。
 
 
また新霊性運動・文化と伝統宗教とを比較し、後者は人格を持つ超越者とそれによる救いを信じ、権威主義的傾向が強く、枠組みが明確であるのに比べて、前者は法則や大自然を崇拝し、個人主義傾向が強く、伝統宗教のような大系化もされていないとしている。
 
「としている」としか書けない楽山です。こういうのを、記事に書いて、いったい、何を主張できると言うのでしょう。いったい、この記事の内容は、どこにあるのでしょう。カルトの宣伝ビラよりも、軽薄な、実体のない名称だけの行進です。楽山は、何一つ超越も克服も出来ていません。
 
 
さらにはアメリカなどではキリスト教によるニューエイジ批判はあるが、日本では仏教や神道による新霊性運動・文化批判はほとんど見当たらず、その理由は新霊性運動・文化は自然崇拝、アニミズム的な色彩が強く、日本的な宗教感覚に近く、大きな相違が見当たらないためだろうとしている。
 
楽山は、新しい "霊" のカルトでも、作るつもりなのでしょうか。ボロクソなものになると思います。自分は、ニューだとでも言いたいのでしょうか。だるいだけでした。引用元の字面を拾って、相違が見当たらないと書いているのは、宗教感覚が皆無で、ぼんやりと妄想的に勘違いしているだけだからです。
 
楽山は、今まで、はっとさせられるような洞察の効いた文章など、一度も書いたことがありません。むしろ、だまし目的の、詭弁、嘘、謙虚芝居、霊感妄想のようなことばかりが表れてきました。月並みな先入観しか持たず、さらに、それを自分の言葉に消化することも出来ない人です。
 
 
第Ⅱ部では宗教教団に所属しつつも、その枠にとらわれない考えを持ち活動することを欲している聖職者、宗教教団に属していないが何らかの高次の存在を信じ、または求めている人、宗教とも精神世界とも無縁でそれを意識していないが、それでも結果的には新霊性文化と深くかかわった価値観を持って生活している人々のインタビューを分類整理して紹介している。
 
高次の存在と言えば格好がよいということでしょう。「新霊性文化」とは何でしょう。前の記事に書いたところの、霊的××と言えば神妙な気がする類の言葉だと思います。霊的を、霊性に変えて、さらに新を付けています。こう書いた人の、自信~高慢が表れているようです。
 
ここに並べられている言葉は、気取った者たちが書くところの、学術用語で、素人が読んでインテリ風味に受け取らせようという意図で書かれた言い回しです。常識という根拠が無いことを直観的に書く分野では、こうなりやすいのでしょう。
 
危険な要素として、楽山のような自己顕示の我欲が飛びついてくるということなのです。楽山は、それが大好きで、本を読んだことにして、実際は、自分に都合の良い言葉を漁って拾っては、書いてあると書いてきただけで、説得力皆無の世界で、他者が理解できないことに、むしろ満悦しているのです。
 
難しい言葉が、字面だけ大好きな楽山です。楽山は、真実を追求するための、理路も、直観も、直感も、理解の一切をも持ち得ない人ですが、好事家みたいに、もっともらしく、もてあそんで、偉く見せるための手段なのでしょう。
 
もう既に、批判によって証明済みの虚言の材料を、楽山は、今も漁って集めているだけなのです。楽山は、あらゆる実直な人々にとって精神の詐欺師であり、宗教と信仰の敵です。軸とか芯とかいうものがないまま、見繕って並べているだけです。真善美から最も遠い偽善者です。
 
 
私見ながら、ここで語られていること…不可視で高次な存在を信じつつも宗教とは距離をとっている、死別した近親者と心で語り合っている、「自分を持っている」ことが尊い…などというのは自分の周囲でも、しんみりした会話をする場面では、わりとよく聞く話である。
 
こういうことは、死んだ人の思い出を静かに想いながらの心の話なのですが、これによって、楽山のような霊能者気取りは、ここで、一般感情に訴えて、温もりと潤いを、それらが欠損した超常の自慢話に変換するための材料としてゆくつもりでしょうか。
 
楽山は、亡き人をしのぶという、しんみりした共感を感じることが出来ません。「わりとよく聞く話である」という軽さは、そういう話を、超常や霊の話にして、自分は知っている、分かっていると自慢しているだけです。楽山の書くことには、深い実感が、まるでありません。
 
 
第Ⅲ部ではグノーシズ主義と新霊性文化その他との関連が論じられている。具体的には如来教、桜井亜美の「イノセント ワールド」、庵野秀明の「新世紀エヴァンゲリオン」、コリン・ウィルソン、ヘブンズゲイト、ジェーン・ロバーツとセス本、ニューソート、神智学などを取り上げつつ、グノーシス主義との類似点及び相違点について語っている。この部分を読むとグノーシズ主義の新霊性文化に対する影響力は想像以上に強く大きいことがよく理解できる。
 
「新霊性文化」「影響力は想像以上に強く大きい」しか書けない楽山です。いつも、こうです。まるで、自分を飾るデコレーションであるかのように、楽山は、名称を並べ、中身を書きません。楽山の自慢の蚤の市、本当に蚤(のみ)だらけの罠の言葉ですから、誰も近づかないようにしてください。
 
 
(ネットより)
グノーシス主義(グノーシスしゅぎ、独: Gnostizismus、英: Gnosticism)またはグノーシス(希: Γνῶσις[1])は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った宗教・思想である。物質と霊の二元論に特徴がある。英語の発音は「ノーシス」である。普通名詞としてのグノーシスは、古代ギリシア語で「認識・知識」を意味する。グノーシス主義は、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向にあたる。
一般に「グノーシス」ならびに「グノーシス主義」という言葉は同義語として用いられており[6]、キリスト教「異端思想」としてのグノーシス主義を「キリスト教グノーシス派」と呼ぶことが多い。したがってこの記事では広義の「グノーシス」について、「グノーシス主義」という用語で説明する。
物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して、2つの対極的な立場が現れた。一方では禁欲主義となって顕われ、他方では、放縦となって現れる。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。後者は、霊は肉体とは別存在であるので、肉体において犯した罪悪の影響を受けないという論理の下に、不道徳をほしいままにするタイプである。4世紀の神学者アウグスティヌスがキリストに回心する前に惹かれたのは、前者の禁欲的なタイプであったと言われる。
グノーシス主義(ウィキペディア)
 」
 
(ネットより)グノーシス派:
前キリスト教的東方的起源をもつ古典ギリシア後期の宗教運動の一派。グノーシスとはこの場合神の秘儀についての直観的認識 (霊知) であり,これを根本思想としたキリスト教の分派は1世紀に起り2~3世紀に多様な発展をとげたが,正統教会より異端とされた。彼らは宗教的に徹底した霊肉二元論をとり,人間も本来は自己のうちに神の火花を有し,また地上界からの解放の欲求をいだいており,この人間の自我 (精神) に救いとしてのグノーシスをもたらすものが天上界より下ったイエス・キリストで,このグノーシスによって人間は初めて救済されるにいたると説く。
 」
 
はっきり言えば、神霊を決めつけた時点で、カルトと言ってよいのです。神聖に対する恐れを知らず、人が、自分で大発見のように、無根拠の超常の理屈を捏造して、整ったつもりになって吹聴するのは、原罪の自覚がなく、正直な祈りと告白の出来ない人々です。
 
霊と肉体、と言っていますが、心と肉体、と言うのと、どう違うのでしょう。霊と心と魂と精神、どれも見えないものですが、はっきり区別できるというのでしょうか。学問においても、宗教については、恣意的で、結論だけの文章が、信仰者を惑わしている傾向があると申し上げておきます。
 
"直観的認識(霊知)" だそうです。だから、用語が多くても、根拠を示さない分野です。この辺がベースになって、主義が生まれてくるわけですから、かなり眉唾物なのです。それで、知ったつもりになるなら、何も知らないでいることより、自尊や自己主張や自己顕示欲も絡まって、悪質になるでしょう。
 
こういうのが、楽山という反キリストにとっては、垂涎のご馳走となってきたのだと思います。根拠を示せない楽山は、直観の代わりに安い思いつきで、霊能者気取りになり、神秘を語った悟った気になって、宗教に口を出して、自己満悦してきたのでしょう。
 
 
終章は「社会の個人化と個人の宗教化」という章題の通りの内容となっており、新霊性文化は個人主義の方向に向かい、宗教教団とは距離をおこうとする傾向があるとしている。
 
「章題通りの内容」・・説明しないで、解説できないで、「新霊性文化」だそうです。楽山は、自分勝手に、他者を考えないで、全く宗教的でない思いこみと信じ込みに、社会を導きたいのでしょうか。日本国民アホ化計画でしょうか。決して関わらないようにしてください。
 
楽山だけでなく、シャロームや、アドラー教(アドラー心理学)などは、気に入らないことは無視するという教えや、自分の課題ではないと拒否するという教えを広めたいようです。多くの人が楽山やシャロームのようになったら、世辞以外の話が、まるで通じない者ばかりになるでしょう。
 
 
新しい歴史教科書をつくる会にも新霊性文化との関わりを見出しているところは面白い。自分探しの過程で、日本および日本人に興味を持ち、その意識を強め、保守の方向に進むということらしい。
 
(ネットより)
既存の歴史教科書(特に中学校社会科の歴史的分野の教科用図書)は、必要以上に日本を貶める自虐史観に毒されていると批判し、それに代わる「“東京裁判史観”や“社会主義幻想史観”を克服するとし、その双方の呪縛から解放されたという自由主義史観に基づく、子供たちが日本人としての自信と責任を持つことのできるような教科書」の作成と普及を目的として結成され運営されている[要出典]。
 」
新しい歴史教科書をつくる会(ウィキペディア)
 
これで、楽山が、"ネトウヨ" であることは明らかです。前から、右寄り、保守とかは言っていましたが、宗教とか霊とかに、こじつけて、こういう活動をしているわけです。楽山が、思想的に、右寄りの刷り込み屋だということが表れています。道理で、正面からの説得力が皆無なわけです。
 
自由主義史観、というのは、危険です。好きなように歴史を改ざんする恐れがあります。また、個人主義で、自信と責任を持て、というのも危険です。楽山やシャロームのように、自由勝手に恣意的に書いて、他者を無視することを、正当化しやすいと思います。こういうところで、つながってくるのですね。
 
楽山は、前にA級戦犯を尊敬している記事も書いていました。右翼として、曖昧な霊の問題を通じて、根拠なしに、思いこみの結論を刷り込もうと並べてきた危険な意図の一部が表れています。楽山に、一人前の正当な思想はありません。その場その場の思い付きで書いてきます。
 
 
本書を読んで、フェミニズムやジェンダーフリー方面の思想、活動と新霊性運動、文化との関連を見出していることには意外性を感じたが、保守、右派の思想、活動もそれとは無縁でないという指摘も意外である。でもそう指摘されてみれば確かにそのようだ。どうやら新霊性運動・文化の影響力は、グノーシス主義がそうであるように、自分が考えているよりずっと大きく、広大な範囲に及んでいるらしい。
 
新霊性運動、グノーシス主義が、「広大な範囲に及んでいる」とだけ、楽山は書いています。婉曲的な賛同なのでしょう。もっと広めたいのでしょう。やはり、だましやすい日本人アホ化計画のようです。楽山のような煽動屋に、十分警戒してください。関わってはいけない対象です。
 
「指摘されてみれば確かにそのようだ」・・楽山らしい責任逃れの書き方です。ボンヤリ言語と呼んでいます。相変わらず、救いがたいほど出来の悪い文章ですが、メモだと言いながら、よくこんな文章を書けるものです。ボンヤリ婉曲的に刷り込んでくるのです。
 
新コロナの、国内外、どこまで広まるのか分からない、という、国難の最中ですが、このように、宗教を悪用して、霊という言葉を悪用して、危険思想を、謙虚芝居の学者気取りの誘導によって広めようとする者がいるということは、ある意味、コロナより怖いと思います。
 
そういう者たちは、取るに足らないように見えるからこそ、今の日本が、国民一人一人が、身近で、あるいは、ネットで、警戒するしかない危険分子であり、言論の自由で書きまくっておきながら、言論の責任を負わないというクズであります。決して関わらないようにしてください。
 
シャロームshalom は在日(韓国朝鮮人)ではないかと思っています。引用リンクは、大方韓国の教会だったし、聞いたとき、日本人ならはっきり否定するところを、しなかったし、キリストよりも、韓国由来の宗教思想が好きなのだろうと思います。つまり、キリスト者ではないということです。
 
楽山も在日なのか。自称ヨシュアもだろうか。思い出すのは、いつだったか、ネトウヨは在日なんじゃね・・というのがネットに書き込まれていたけど、いったい、どうなっているんだろう。右翼は嫌韓じゃないのか。・・だから在日が右翼にご機嫌取り?・・未だ判然としない。
 
私は嫌韓というわけではないが、楽山を、その卑怯な言論から、嫌悪しています。楽山の志が、グループであるなら、さらに日本人アホ化計画なら、ますます嫌悪することになるでしょう。楽山は、既に、シャロームの仲間であり、かばい合っていることは明らか。同一なりすましの疑いもあります。
 
 
一昔前のことを思い出しました。"神の幕屋" という右翼のキリスト教の教団があるそうで、そこの、ある人は、前は左翼活動家で、のちに、右翼に転じて、その教団に入っていて、右翼思想を語っていました。極端から極端に走る人だなと思ったことでした。大和魂を信条に入れる話があるそうです。
 
私は、キリスト者が政治活動をするのは構わないと思いますが、キリスト信仰は、右や左の政治思想と合体してはいけないと思っています。信仰は、政治思想には結びつかないと思います。ですから、キリスト教を政治に結びつけることは、キリスト信仰上、禁忌だと思っています。
 
信仰が救うのは、魂つまり心であって、政治思想でも政治活動でないのです。しかし、その人は、大和魂を信条に加えるようなことを言っていて、とても違和感を覚えたことがあります。キリスト教と信仰が日本オリジナルでないことは明らかですから。
 
 
何だか、個人のブログの記事では済まないような、のっぴきならないことになってきた感があります。だいたい、このブログは、元々は、ポエム、数学など、そして、ずっと、キリスト信仰のことを中心に書いてきたのです。
 
シャロームと楽山に出会って、とんでもない偽善者だと分かってから、さらに楽山に関わってからは、批判記事が多くなってきて、とうに終わっていても不思議でないような私のブログが、今まで続いてきたということになっています。年寄りの退屈しのぎと言うには、重すぎるテーマになってきました。
 
 
 
私の近況:
 
99歳になる母は、介護施設から、肺炎で入院して、次は、老健施設に入所し、今は、介護付き老人ホームにいます。その間、2度ほど尿路感染症で発熱し、内科に入院しました。
 
私は、記憶力が落ちていて、慣れない手続き関係、つまり、保険証、医療費減額認定証、介護保険証、介護限度額認定証といった書類をどこへやったのか分からず、再発行してもらうことで、施設や市役所などに行って、郵送か否か、など、いろいろ考えているうちに、鬱が悪化しています。
 
母は、腰椎骨折がきっかけとなって、認知症が明らかになっています。新コロナではありませんが、予防のため、ずっと面会できず、転院の際に顔を合わせたとき、私の顔を覚えていなかったようなのが、かなりショックでした。
 
加えて、私が利用してきたネット回線であるADSLが、もうすぐ終わるということで、光に変える手続きが、この年老いた頭には、煩雑で、NTTの工事と、サーバーの間で、分からないまま、不安ですが、できることをして結果を待つしかありません。料金も高くなります。
 
加えて猛暑の中で、街中を1~2㎞くらいの距離を歩いても、汗だくになるし、元々心臓に持病があって、動機・息切れ・倦怠感で、家についたら、しばらくダウンしている始末です。出来ることを、ひとつひとつ、遅れがちですが、こなしてゆくしかありません。
 
 
注意・警戒・棄権

注意・警戒・危険
 
 
(2022年08月24日、再録+加筆)
 
 
 
  危険な衝動
 
高校の頃だったか悪友が
ふざけて橋の欄干の上を歩いていた
私はその横を歩いていた
欄干から降りると彼は言った
「お前が狂わなくてよかった」
「あ、わかった?」
人が崖縁を歩いていると
ぽんと押してみたくなる
 
自分が崖縁を歩いていると
ひょいと飛び降りてみたくなる
 
彼がああ言ったということは
彼も似たような・・・ということか
 
あの頃は随分と危険な衝動を
いっぱい抱えて生きていた気がする
今どこにいるか知らないが悪友よ
私はもはや狂っているから
あれが今なら言ったかも知れない
「やめとけ、あ、危ないぞ・・」
・・手を震わせながら
 
 
  冷たい熱
 
目覚めたのだろうか
眠ることを諦(あきら)めて
起きたのだろうか
 
だるい
頭と首が痛い
じっとり発汗している
顔がべっとり
下着がじっとり
 
咽喉(のど)だけが焼けるように熱を帯びて
咽喉が渇いたということに
発汗を裏付けられながら
大きな湯呑みで水を飲む
薬といっしょに
朝の水道水をごくごく飲む
冷たい水で体を満たして
また寝床に入る気でいる
渇きが水で癒(いや)されたからか
改めて眠りを確かめたいのか
まだ暗い朝
 
まだ焼けるような渇きが
熱の危険信号を発しているのか
だから目覚めたのか
それとも眠る試みを中断させたのか
夢が焼け爛(ただ)れたあとなのか
 
 
  安全な人

もう天災からも人災からも
安全な場所など
どこにもないのでしょうね
 
安全な場所はないですけれど
安全な人はいます
いてもいなくてもいい人
いてもいないのと同じ人
だってその人が死んでも
誰も衝撃を受けないでしょう?
 
でも本人は・・・
 
だから
その「本人」というのが
誰からも認められていないのですよ
つまり
存在しないのと同じなのだから
もともとその人には危険
というものがないのです
 
しかし、
そ、それは安全ということになるのですか?
それは安全というのではなく
危険も安全もないということでしょう
山奥で降る雨の一滴が
岩に当たって砕けるのを
誰も見ていないのと同じで・・・
 
山奥の水は
やがて田畑を潤します
砕けても存在しているのです
 
砕けようが潰れようが
何の影響も与えることができないのだ
 
え?・・・安全な人ってもしかして
あなた?
そう不特定多数か少数のね
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
共感がない、情緒がない、反応しない、自己主張だけ書いてくる、反対を書き賛成を書いたから責任はないと言う、人それぞれを言い訳に使う、「人それぞれ」の人から外れている自分に気づかない、受け取って考える思考がない、何を言われても気にしない、・・人間ではないと思う。
 
自己愛性パーソナリティ障害者が自分の言動を制することが出来ないということが何を意味するかと言えば、関わった人は誰でも被害に遭うということから考えると、結局、関わった誰からも、生存することを望まれなくなるということです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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  楽山こそNPD加害者
 
 自己愛性パーソナリティ障害とは何だろう?(3)
 楽山日記(LD) 2022年08月20日
   を批判。
 
 
「>」~「<」は、楽山の言、「>>」~「<<」は、楽山の引用です。前の記事の続きです。
 
楽山は、攻撃性の勝っている病質者です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ですが、自分では理屈が得意と思っているために、インテリ気取りの屁理屈屋になるのでしょう。楽山の理屈は成り立たず、悲哀や良心などの情性が欠如していて、共感性もありません。
 
驚いたことに、楽山は、NPD批判を利用して、宗教のせいでNPDになったが、今は大丈夫と、自己正当化しましたが、大嘘です。むしろ、私は、アンチHSと称するようになってから楽山の記事を読み、楽山が自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと分かりました。
 
 
 前記事の続き。
 ここでも、この問題に関連したツイートと、簡単な感想を書いてみたい。
>>
モラハラ被害者の方が「私は自己愛性パーソナリティ障害なのではないか」と思い、バリバリの加害者が「相手こそが自己愛性パーソナリティ障害だ!!」とモラハラしながら言います。
<<
モラハラされる側は内省的で自分に問題があるのではないかと考え、モラハラする側は自己の問題を相手に投影するということだろうか。
 
気取りの勝っている楽山は、投影という専門用語を使っていますが、要するに、相手のせいにするということです。
 
(ネットより)
心理学における投影(とうえい、英: Psychological projection)とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るため(防衛機制)それを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きをいう[1][2][3]。
 
自己愛者が、いつも、傲慢な態度だとは限りません。現に、楽山のような、学者気取りで、かつ、謙虚を装って、丁寧語を使ってくる者もいます。この方が、やさしい丁寧語に騙される経過を経て、いっそう害毒は酷いのです。
 
 
>>
■自己愛的変質者
攻撃して自己陶酔を補給したい→攻撃できる材料を捏造して攻撃
■そうじゃない人
何らかの被害を受けたことに対して怒って反撃
さらに自己愛的変質者はこれらをひっくり返し、自分が被害者で反撃をしていると主張しながら被害者の反撃をさらに攻撃の材料にします。
<<
この他に、モラハラする人の無視は相手を罰し、コントロールするためのもので、そうでない人の無視は相手と距離をとり、離れたいためのものだという話を読んだ記憶がある。
両者の相違点を知るのは実に有意義だ。
 
今の楽山が、その例になります。しかし、丁寧語で、話を勧めてきます。楽山と遣り取りをすると、私は数か月でしたが、魂を抜かれるような疲労感を覚えます。正当な理路がなく、理屈っぽい脇道に持ってゆくからです。それに気づくことで、楽山の自己愛性人格障害が明らかになっています。
 
 
>>
■自己愛的な変質者が好む「カモ臭」とは?
・共感的
・自分よりも相手を優先する傾向
・献身的、自己犠牲的傾向
・怒らなそう
・真面目
・反省する傾向
・それでいてトロフィー的な要素があると最高
<<
残念ながら、これには思い当たるところがある…。すぐ人のことが可哀想になったり、怒って当然のときに「まあ、いいや」と思ってしまうのだ。
 とりあえずは判官贔屓の癖や、怒るべきときに怒れないところは直さねば。
 
楽山は、自分には共感性があることをアピールしています。しかし、自己愛者が見せるのは、そういう相手に対する見せかけの共感性で、大方、世辞と、白々しい台詞です。ですから、楽山が「思い当たるところがある」というのは、カモ臭と同時に、カモる臭でもあるのです。
 
共感があるふうを装う楽山ですが、何事についても、深いところを、全く語れないということが、思想・宗教・信仰などの、感性を要するテーマについて、明らかになっています。全てが、言葉だけの浅い概念だけで、理解したつもりになります。要するに、心がないのです。
 
 
>>
奴等に対しては
とりあえずでその場を丸く収めようとしたらアカン
とりあえずご機嫌をとる
とりあえず気を使う
とりあえず謝る
とりあえず、この場を収めるために。
これはな、絶対したらいけん
<<
 
直接の遣り取りなどで関わると精神を蝕まれるので、遣り取りを避けて、記事で批判するしかありません。半端ではなく、人格の病気ですから、人格を、根底から否定するという厳しい作業になります。そういう批判を支えるのは、冷静な、反人間性の指摘ということです。
 
 
「とりあえず、この場を収めるために」というのは、すごく身に覚えがある。気が立ってる人を落ち着かせるために…相手に譲歩してみせるとか。
これが大人の対応だと思って、そうできるように努力してたけど、とんだ見当違いだったようだ。まともな相手ならともかく、世の中には絶対そうしてはいけない相手もいるということか…。
 
慣れてくると、楽山は、笑っているのが分かります。軽く見なして、あざ笑うか、見え透いた労わりの言葉か、皮肉や当てつけでしょう。大笑いではなく、冷笑、得意顔、または、世辞の労わりのような笑いです。相手に対する優越感に浸っているからです。大人の対応ではなく、幼稚な優越感なのです。
 
 
>>
ナルシストが仕掛ける罠と言動パターン
①エンパス発見→確保→モラ発動
②揉め事起こし人格否定
③『こんなことされた』とタゲを不利な立場に追いやって被害者ヅラ
④フラモンと事実を嘘で塗り固めるスミアキャンペーン
⑤評判落とす
⑥タゲがメンタル不調→おかしい人/悪者扱い
⑦自己陶酔搾取完了
<<
 
今、まさに、被害者面をして書いている楽山です。実は、いつも、自己陶酔を求めているだけです。どんなときにも、メインとなるのは、自己愛であり、被害者芝居なのです。自らの演技に酔っているところもあるでしょう。バレてしまえば、とても、醜いのです。
 
 
この流れは目撃したことがあるし、中途までなら体験したこともあるのでよく分かる。
無慈悲な結論かもしれないけれども、たとえ可哀想に見えた人であっても、無警戒に近づき、同情、共感してはいけないのだと思う。
 
楽山は「可哀想に見えた人」が「無警戒に近づき、同情、共感」してくるのが、垂涎の的なのでしょう。注意を喚起するのではなく、不注意につけ込む楽山です。信頼度は、ゼロです。どこまでも、警戒されるだけの対象で、そういう人生になってゆくでしょう。
 
 
*補足
・エンパス → 共感力の高い人
・フラモン → フライングモンキー、ナルシストに操られてる人
・スミアキャンペーン → 組織的中傷
 
こうならないように、楽山批判を、約3年余り続けています。今回、楽山は、他の批判者を、逆に利用して、自己愛性人格障害ではないという言い訳の詭弁の刷り込みをしたいようです。事実は、真逆です。楽山のような、つまらない男を、しつこく批判するのは、欺きによる害毒が強いからです。
 
 
>>
加害者は被害者に全ての責任をなすりつけてスッキリしようとします(自動的・依存的に)。
そして、なすりつけるための行動があります。なすりつけるための行動がモラルハラスメントです。
<<
>>
今までハラッサーや取り巻き(フラモン)と接してきて、この人達には「恥」がありませんでした。
良心の呵責や罪悪感でいたたまれなくなるような感情は防衛機制で無くなるので、人間らしいそれらの後悔や謝罪が無いんですね。
だから腹の中で思っても普通やらないことをやれてしまうんです。
<<
 
楽山は、恥知らずです。3年あまり批判されて、何も答えられないのに、なお、書き続けことだけは止めません。このままだと、いつか、警察沙汰か、暴力沙汰になるのではないかと思います。自覚がないために、今、過ごせれば、明日も過ごせると思っているのでしょう。正当化できると思うのも病質です。
 
 
*恥知らず
ブーメラン発言を繰り返す人を見ていて、「なんで、こんな恥ずかしいことを繰り返すんだろう?」と不思議だったが、自分を守るために、自分の問題を相手に押し付けることに必死で、そんなことを考えてるどころじゃない状態だということか。
 
ただ、楽山が、感性が異常なために、必要なことに気づかず、「自分を守るために、自分の問題を相手に押し付けることに必死」になっているという醜態なのです。ひたすら、自己正当化を企んで、言葉をあれこれ細工して、良心をけがし、その結果、何も返ってこない世界へのめりこんでゆくのです。
 
 
こういう内面を知らされると、「すごく苦しいだろうなあ、可哀想に…」と思ってしまうのだが、こういう甘さが余計な面倒を背負い込む原因なのだろうな。気をつけねば。
 
ということは、自己愛性人格障害の楽山は、少しも苦しくないのでしょう。だから今も、正当化の企みを実行しています。それは、自己愛が妄想化して、そこに、どっぷり使っているからで、いつか、温水は、冷水に、そして氷結に代わってゆくのです。そのとき悔やんでも、もう、遅いのですが。
 
今まで、楽山は、好きなように自己愛者ぶりを表して、鼻高になり高慢になり、時には、とぼけて、自己陶酔の芝居もしてきましたが、ここに及んで、自己愛性人格障害批判に近寄って、正当化を図るとは、何とも、自尊も節操もない有り様になって、程度の低い保身に走る姿が、何とも悲惨です。
 
 
洞察なき退行

洞察なき退行
 
 
(2022年08月23日)
 
 
 
  不眠と退行
 
もう遅いから
眠ろうとするけれど
眠りに入ろうとしているのか
黄泉に入ろうとしているのか
 
後頭部に住みついている
モヤモヤとしたしこり
ときに硬くなり激しく緊張して
沸き上がってくる怒りのようなものが
その理不尽を問うては責め続ける
顔と盲目と死を含んで
叫び声を誰にも聞かせない
 
お母さん
僕のお母さん
心配しないで
あなたは何もわかっていないこと
よくわかっているから
僕が相続したと思っている
泣き虫と笑い虫をありがとう
乳が欲しい
吐き気がする
乳が欲しい
もう遅いから
 
お父さん
僕のお父さん
なぜ戦争で死ななかったんだ
なぜあなたの息子は病気なんだ
見えないルールを作って
自分を厳しく律してきたお父さん
くわっと怒って自分で苦しんでいた
お中元もお歳暮も受け取らなかった
それが立派だったお父さん
なぜ今になって
長生きして欲しいのに耳が遠いんだ
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは正論だろうけど、それだけに「お前が言うな!」と感じてしまう。
総裁が素直に間違いを認め、改めたことはあるのだろうか。不都合なことは、誰かのせいにしたり、無かったことにしてる印象しかない。
>>
#本日の格言
ryuho-okawa.org
判断は大きな価値を生む
判断は大きな価値を生みます。 特に、「判断が、常に、よい方向を向いている」ということが大事です。 時には判断を間違うこともありますが、「間違った」と思ったならば、素直に改めなくてはなりません。 正しい判断をするためには、知識や情報が大事です。「知は力なり」ということを肝に銘じてください。知識や情報を持たない者は判断を間違えます。
<<
午前11:16 · 2022年8月21日·Twitter Web App
 
間違っているから指摘しても、楽山は、同じことを書いてきます。何も変わらない訂正不能です。しかも、しつこくネチネチと遠回しな婉曲表現で書いてきます。他者のことを言う資格はなく、楽山自身が、間違いを「素直に改め」ることがありません。無反省の自己愛の病質のせいなのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDでありながら、その人格障害を批判する人たちに、まるで仲間であるかのように、逆に利用して、自己正当化を企んでいます。保証など、どこにもない世界で、身の程を知らぬ妄想です。跳ね返ってくるものを、未だ何も知らない病質者なのです。
 
 
 
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  反省に見せかける楽山
 
 自己愛性パーソナリティ障害とは何だろう?(2)
 2022年08月20日 楽山日記(LD)
  を抜粋して批判。
 
 
「>」~「<」は、楽山のツイートです。
 
「>>」~「<<」は、楽山が引用したツイートです。被害者でしょうか。
 
今回、楽山の浅知恵は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)つまりNPDに対する批判の記事に賛成して、反省を表しますが、その反省は、宗教のせい、実際は、HSに入って、決めつけたからだという文脈を捏造しています。
 
つまり、宗教に入って、自己中に思い込んだが、脱会したから、正常になった、という文脈を捏造して、自己愛性パーソナリティ障害NPDであることを否定したいようです。しかしNPDは、宗教のせいではなく、楽山の体質的人格障害であり、最近は、思い込みでキリスト教を否定したのです。
 
今回、恐ろしいことに、NPD批判を引用し、悪用しています。そう言う楽山こそが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、決して真に受けてはいけません。今後、どう収拾を付けるつもりなのか、サイコパスの悪意の企みは、全開~崩壊です。
 
 
>>
ここで本当に私が皆様に伝えたいのは
「くだらない人間に振り回されないで自分らしく生きようぜ!」
ということです。
是非そのエネルギーを「自分のために」つかってあげてください!
<<
 
自分には、ついつい下らぬ議論に時間を費やしてしまう悪癖があるのだが、残された時間を考える年齢になったせいか、最近はようやくスルー能力の大切さが理解できるようになってきた。
賢い人は若いうちからこれが分かるみたいだけど、自分はこの年になってようやく分かったきたよ。
 
楽山は「悪癖」と言っていますが、悪癖とは思っていません。その前に「下らぬ議論」かどうかが分かるという慢心を表しています。そして「ようやくわかった」と言い、そこからダイレクトに「スルー能力の大切さが理解できる」と言っています。つまり、今は分かったから心配ないという正当化なのです。
 
さらには、スルーすることを能力と言って正当化しています。内実として誠意を持たない病的ナルシストは、スルー以外に他に身を守るすべがないからです。それを逆手に取っているのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山であり、決して真の反省をしないのが特徴なのです。
 
 
>>
感じ方や意見が違うというのは当たり前なんですよ。
ただ、それを許さないのはもうハラッサーの態度です。
違う意見があった時に、立場が違えば違う答えがあることを認識できずに「俺が正しい」「相手は間違ってる」と言うのはもう境界をおかしています。
これがハラスメントの根っこです。
<<
 
>>
・お前の感じ方は間違ってる
・お前の選択は間違ってる
・お前は価値が低い
これがハラスメントなんです。
一人の人間を独立した存在として認めないというメッセージを送り続けてるんです。
この毒を浴び続けると被害者は、自分の感覚を自分で信じられなくなっていくんです。
<<
 
こういう正当なことを、いくら言っても、楽山は「一人の人間を独立した存在として認めない」ので、物を言えば、ハラスメントの悪臭を発する以外にないのです。後悔しているかのような言葉を並べても、自分が悪かったとは言わず、「下らぬ議論」などと自分ではないもののせいにする因業なのです。
 
恥ずかしいことだが、とある宗教の信者だった頃の自分が、これだった。たとえば、こんな風に。
「お前が、この宗教を正しいと感じないのは間違ってる」
「お前が、この宗教を信じないのは間違ってる」
「これが分からないお前の霊性は低い」
自分が信じた宗教は、人々を一視同仁に見て、万人に通用する真理を説いているとしていたので、信仰に入れ込むほど、自他の境界は薄れ、誰もがこれを信じなければならないという発想になっていったのだった。今はどうかといえば、宗教は止めたのでこう変わった。いや変わったというより、宗教にハマる前に戻ったというべきかな。
「人には皆、個性があるのだから、ものの見方、考え方が違うのは当たり前だ。みんな違ってそれでいい
これはただの現状追認だけども、それだけに無理がなく、心理的に楽でいい。
 
楽山は、心理的には、今までずっと、楽なのです。反省せず、罪悪感がなく、思い上がって満悦してきたからです。今回は、批判され続けたので、また、新手の策略を、罠を、仕掛けています。しかも、NPD批判の記事を悪用しています。どこまで腐っているのでしょう。
 
楽山は、自己愛性人格障害NPDになったのを「ある宗教の信者だったから」と言っています。しかしアンチとなってからも、自己愛性人格障害の特徴を表してきました。人の言うことを受け取って、考えて、返すということが、全くできないし、もともと正常な理路も感性も持っていません。
 
それに、楽山の自己愛性人格障害が明らかなのを、私が見てきたのは、アンチHSを自称するようになってからです。楽山は、平気で嘘を吐きます。どうか、だまされないでください。楽山が宗教の信者だったかどうかも、怪しいと思います。楽山の自己愛は、最初から訂正不能に完結しているのです。
 
 
>>
モラハラ加害者あるある
・被害者の被害は矮小化or抹消
・被害者の罪をでっちあげ
・他人の功績は自分のもの
・自分の罪は他人のもの
・自分はいつでも被害者
・自分はいつでも正しい
…そして究極、
・これらのことに自覚がない
<<
 
これはよく分かる。
会話が成立せず、一方的に攻撃してくる相手は、大体がこういう人ばかりだ。
 
楽山は、何も分かっていません。もし本当に、分かったのなら、ここにはいられないはずですし、二度と言論者の立場にも立てないはずです。反省したふりをする自己正当化の策略以上ではなく、批判に対して、いつも、悪意による嘘と詭弁しか向けてこない楽山です。
 
だまされないでください。 「会話が成立せず、一方的に攻撃してくる」のは、まさに、楽山です。相手の言うことを、決めつけだと決めつけて、一方的に、おとしめてきます。分別がなく、共感性がないからです。都合が悪くなっても、無視スルーするか、今回のように詭弁を弄して、逆に、おとしめてきます。
 
楽山は、一方的に攻撃するという症状の自覚を、自分に当てはめることが出来ません。そして、NPD批判を利用して、反省芝居を演じています。では、どうすればよいでしょう。こちらとしては、今までと同じように、粘り強く、批判を、楽山に向けて、追いつめてゆくしかないのです。
 
楽山の反社会性と犯罪性が進行しています。他者の言葉の利用~悪用が、書物となっている故人ではなく、現存している他者になりました。病勢が増悪しているのです。今回、自らの症状を宗教のせいにして、反省芝居で、被害者を装っています。反社会性が増しています。決して近寄ってはいけません。
 
反省が本気なら、今までのことを恥じて、何も言えないし、出て来れないはずだからです。これからも、言い続けるために、理解し反省したという芝居をしているのです。状況と、理解と、発言と、行動が、矛盾しています。楽山は、何も変わってはいません。反省する楽山は、いつも、三文芝居の大根役者です。
 
楽山は、反省に見せかけて、禁じ手を使ってきました。自らのNPDを、カルトのせいにし、今は大丈夫を装う芝居です。こういう嘘は、根腐れでないと出来ないことです。徹底的に、楽山を追放する以外にないと思います。どうだ・・とばかり、楽山は自慢して、遊んでいるのです。
 
どうか、楽山のゴタクを受け入れないでください。人も、罪も、恥も、何とも思っていないからこそ、真摯な反省の代わりに、今回のような芝居を打つことが出来るのです。いつもいつも、楽山の狡猾さだけが目立ってきます。そのたびに楽山の人格破壊が進み、良心が、腐敗・崩壊・消失してゆきます。
 
 
体質的な悪意

体質的な悪意
 
 
(2022年08月22日)
 
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、思い切って、逆に、批判者を、恐らく、私を、逆に、自己愛性人格障害のように言っています。自分が言われてきたことを、逆に、相手に当てはめることで正当化を謀れるとでも思うのでしょうか。楽山が、今まで批判を無視して続けてきたことは、嘘と詭弁で騙して刷り込むことでしかなかったのです。
 
楽山は、自分が自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であるのに、まるでカルトの被害者であったかのような大芝居をしていますが、収拾がつかなくなったらどうするつもりなのでしょう。パニックへと向かう焦燥を感じますが、自業自得の自己破壊は、どうしようもありません。
 
楽山は、病的ナルシストであり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。サイコパス(精神病質、反社会性パーソナリティ障害)と呼ばれます。訂正不能、無反省、無責任など、多くの特徴を持ちます。手段を選ばなくなったら、とても危険です。決して関わらないでください。
 
楽山という病質者に対しては、コメントの遣り取りで疲労し、うんざりしたという経験を持っています。ゆえに、その後は、直接の遣り取りを避けて、記事やツイッターの批判を3年余り続けてきました。楽山の気取りや陰湿な当てつけに、できるだけ冷静に対処するためです。
 
楽山は、とても陰気な人です。批判を書いていると、こちらも、くさくさしてきます。何か言われると、相手を、うんざりさせて退かせることが、楽山の常套手段だったのかもしれません。ゆえに、楽山との直接の遣り取りをして、こちらの感情を乱すことは、何よりも禁忌です。そのことも、書いてきました。
 
どうか、楽山と、直接の遣り取りは、決して、しないでください。記事やツイッターなども見ないほうがいいです。楽山は、交流の場に、いてはならない人です。人権を考えても、表現の自由を考えても、詭弁と嘘で、相手の心をかき乱す楽山は、有害です。楽山と交わって、得られるものは、疲労だけです。
 
決して、楽山と関わってはいけません。楽山が、何か尋ねてきても、精神衛生のためだと思って、無視してください。楽山は、言葉が表す理路や共感を、言葉で逸らしながら迷路に誘導してきます。この記事においても、自己正当化と他罰性の醜さが表れています。楽山は、百害あって一利なしです。
 
体質的な人格障害ですから、改善することはないと思っておくべきです。そうすることで、楽山の言説の中の、どう考えてもおかしいというところを、ある程度、冷静に批判することが可能になります。でも、ふつう、楽山に対しては、批判するより、無視してください。自分の、精神衛生のためです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
エメラルド星氏の間違いを修正しときます。
× 当会では、人間の精神を向上させるものであれば、どのようなものを勉強してもかまいません
○ 当会では、大川総裁の教えに反しないものであれば、どのようなものを勉強してもかまいません
 
楽山は、間違いを修正と言っていますが、これだと、楽山がORの教えに反してはいけない、言い換えると、ORの教えを盲信していると受け取られても不思議のない命題になっています。長いこと芝居ばかりしていると、芝居が当たり前になって、正しさが混乱してしまうのでしょうか。
2022-8-21-18:25
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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