ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年08月

 
  白々しい楽山2
 
 『死について考える』遠藤周作著
 2021年08月18日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
反省が必要なときに、読書家気取りで、「考える」などと言われても、既に、山積みの問題が、無反省と無責任の楽山を否定するのです。つまり、楽山にとって、読書は、自らの嘘と偽善の罪を隠蔽するのに使われ、結果として、逆に、醜さを倍増してゆきます。
 
 
*気になる本
大分前にタイトルにひかれて本書をパラパラめくってみたところ、キューブラー・ロス、死後の世界といった文字が見えたので読むのは止めにしたのだけれども、その後も本書のことはなぜか気になって仕方がないので、やむなく今回通読してみることにした。
本書全体は、老い、病、死についての平易で読みやすいエッセイ集といった体裁になっている。全体的にキリスト教の話は控えめで、スピリチュアリズムっぽさが散見されるが、これは「あとがき」にあるように意図的なことなのだろう。
以下に、本書中で個人的に心に残った箇所についてメモしてみたい。
 
メモなら、公開しないでほしいとは、前から言っていることです。楽山が「メモしてみたい」というとき、"責任は負わないよ" というメッセージだからです。実際、言論の責任を負うことは、一度もありませんでした。いい加減さが、いつも、表れてくる楽山は、人を困らせて悦ぶ人です。
 
楽山の言うスピリチュアリズムは、霊とか超常とか奇跡とかいった類なので、キリスト信仰とは、何の関係もありません。人間にとって大切なことを、全く知らず、弁えていないのに、知ったかぶりをして専門家気取りで物を言ってくる楽山を、決して相手にしないでください。
 
 
*死後の世界
まず著者は、死後の世界を信じているようだ。
私自身も死というものはぷつんと切れて、それでもう何もかもおしまいで、あとは無だというのではなく、次の世界に入ることだと信じています。臨死体験をした人たちは、その後、死というものを恐がらなくなったそうです。
(『死について考える』遠藤周作著、光文社〈光文社文庫〉、1997年、p.117)
 」
キューブラー・ロスを肯定的に紹介していることからすると、これも当然か。
 
楽山の「死後の世界を信じている」という言い方は、超常世界のお伽噺を信じ込んでいる、という意味です。楽山は、今までの霊が分かるっぽい発言から、その空想レベルだけであり、生きている今を、人生を、まるで考えていないことが明らかになっています。
 
そういう、気持ちの悪い楽山妄想をもって、小説家を利用し悪用しているだけなのです。楽山は、そういう有名人の前で言える何ものも持っていないのに、死者を利用する、いわば、死の商人的な性根であり、それが、楽山の読書なのです。
 
 
*死ぬ瞬間
椎名麟三は洗礼を受けた後、これで死に際にジタバタしてもよいと思えるようになったと言っていたそうで、著者はその理由を以下のように想像、説明している。
心の奥の死の恐怖や人間の弱さ、そういうものを神様はよくご存じですから、今更、人間に見栄をはる必要もないという安心感がある、
(同上、p.129)
 」
立派な死に方をできず、無様な姿を晒すことになり、世間の人たちから笑われようとも、神様はすべてご存知だ、それで十分だという気持ちは無宗教の自分にも分かる。
 
氏の、信仰告白なのでしょう。楽山は、自分を飾るために悪用しています。嘘吐き楽山が、机上で、良さそうなことを言って通る時期は過ぎ去ったのに、真実の怖さを未だ知ろうともしない悪魔性の病質が表れています。こういう人は、死に際に、いちばんジタバタする人です。
 
生きて醜態だけを晒している楽山が言うと、これからも、人のことなど考えず、反省もせず、無責任に好きなことをやっていくぞ・・という悪意表明になってゆきます。楽山は、無宗教ではなく、反宗教・反キリストの、霊が分かるっぽいという個人カルト妄想患者です。
 
神さまは、楽山の、すべてを見ておられ、すべてをご存知です。「自分にも分かる」・・楽山は、「死の恐怖や人間の弱さ」も、何も分かっていません。分かっていたら、震え上がるようなことを言ってきて、恐らく、してきたからです。
 
 
*祈れない人
国木田独歩は死に際に、牧師から祈ることをすすめられたものの、「祈れません」といって涙をこぼしたという。これについて著者は、祈れなくともよい、祈れないのも祈りであると書いている。
祈れません、と言っても、それが既に祈りになっているのだから一向に構わぬ、と私は思うのです。
「苦しくて祈れません」
「不安で祈れません」
「もう絶望して祈れません」
「神様がいないような気がしてきましたので祈れません」
「こんな目にあわせる神様、とても祈れません」
というような祈れませんであっても、それは神との対話ですから既に祈りです。たとえ祈れなくても神がそれを大きく包んでくれるというような感じがします。
(同上、pp.133-134)
 」
不覚ながら、こういうことは考えたことがなかった。でも言われてみればたしかにその通りだ。
こういう気付きがあるから読書は楽しい。
 
不信仰の祈りは、祈りです。神に向かっているからであり、正直だからです。しかし、楽山は、正直さを微塵も持っていません。同じ言葉が通用するわけはないのです。神は、既に、本性を見抜いておられるからです。だから、楽山の「たしかにその通りだ」・・嘘臭さに、吐き気がします。
 
 
*裁くなかれ
これは頭では分かっていても実践するのは難しい。
いいこと、悪いことの判定は神がするのです。だから聖書にも「裁くなかれ」という言葉があります。神だけが判定できるのです。
(同上、p.160)
 」
正しい判定は神様にしかできないと分かってはいても、自分はこう思う、こう考えるという判断をしないではいられないのだからどうしようもない。これもいわゆる業というやつだろうか。
ふと思ったけど、「裁くなかれ」と「無分別智」とは関連があるのだろうか。  
 
裁くなかれという教えは、善悪や正邪の判断をするなということではありません。最終的な裁きをするのは、神のみだということです。自分についての判断を、全くしてこなかった楽山は、裁かれる日を待っている身分でしょう。だから、裁くなかれという教えを、また、悪用するのです。
 
「いわゆる業というやつだろうか」・・楽山の場合、人間共通の不可避は、当てはまりません。とびきりのペテン師であり、今も、嘘を吐き続けているからです。信仰には、善や正義ではなく、祈りにおける正直さだけが必要です。それは、楽山には、ひとかけらもないものです。
 
 
*地獄に堕ちる人
以前、自分がはまってしまった、とある新興宗教では、現代は全体の半分以上の人が地獄に堕ちているとしていたが、著者はそれとは大分ちがうことを言っている。
地獄というものはないかと言われれば、ないとは私も言えませんが、しかしまあ一万人中、一人が地獄に落ちるかどうかだろう、というぐらいに考えます。
(同上、p.162)
 」
著者が言うには、「自分のしたことに一度も恥ずかしいと思ったりしないで生きてきた人間が仮にいたとしたら、そういう人間こそ、一万人中で一人だけ地獄に落ちる人間だろう」とのことであるが、ニュアンスとしてはそんな人は実際にはいなかろうという雰囲気がなくもない。
「人を裁くな」というのはこういうことを言うのであろうか。自分もできれば、こういう考え方を自然にできるようにしたいものである。
 
「一万人中、一人が地獄に落ちる」には、根拠がありません。想像に過ぎないでしょう。「自分のしたことに一度も恥ずかしいと思ったりしないで生きてきた人間」・・今、書いている楽山が当てはまります。恥を恥とも思わないで、嘘を吐き続けています。
 
恥をかくことと、恥ずかしいと感じる羞恥心は、違います。楽山には、前者はたくさんあるのでしょう。そこから、何らかの怨念が訂正不能になっていると思われます。しかし、後者は、全く認められません。いわゆる、恥知らずの楽山です。
 
 
*神を否定する信仰
神を憎むことは、無関心よりずっと良いという話は聞いたことはあるが、宗教はそこから始まるという考え方は、このくだりを読んではじめて知った。
子供が白血病になり、一所懸命に神様にお祈りしたけれども、子供は死んでしまった、神なぞ何だ、と神を憎む、神も仏もあるものか、というところから宗教は始まるのではないでしょうか。
神を憎むことも、神の存在をはじめから無視している無宗教や無関心ではなく、憎むということで神を強く意識していることです。神があろうがなかろうがどうでもいいという無関心より、神を憎むことのほうがはるかに宗教的でしょう。
(同上、pp.167-168)
 」
この発想は、「祈れません」というのも既に祈りであるというのと、どこか共通するものがあるように思える。読んでいて、涙がこぼれる心持ちになるのも共通している。
どうやら、この辺りには涙腺のツボがあるらしい。
 
「神も仏もあるものか」は、信仰の出発点というより、信仰者として生きるあいだに、幾度も頭をよぎってくることです。そのたびに、信仰者は、絶対孤独を感じ、そこからの解放であった信仰を思い出すのでしょう。そういう事情で、結局、他に寄る辺のない者、それが信仰者です。
 
悪事だけに専念する楽山には、寄る辺も拠り所もありません。「涙がこぼれる心持ち」「涙腺のツボ」・・楽山の大嘘です。大根役者の三文芝居です。いずれも、この3年余りで分かってきたことです。楽山は、神を憎み、それ以上に、神を笑う者となりました。
 
 
*耳に痛い言葉
これは自分には耳に痛い言葉である。
三浦朱門君とヴァチカンで法王さまに会った時、法王さまは、
「どうか日本の仏教の人たちや、その他の宗教の人たちと、絶えず対話をつづけてください。対立ではなく、話し合いを、いつも仲良く話し合いをしてください」
と言われました。それが法王の私に対する最初の言葉だったのです。かつてのように、他の宗教を異端として拒絶することのないように、ということです。
(同上、pp.172-173)
 」
恥ずかしいことであるが、自分には対立者に向かって言わずもがなのことをズケズケ言ってしまう悪癖がある。「これだけははっきり言っておかねば…」と思って発言し、すぐあとで「あーっ、また言わずもがなのことを言っちまった」と気づくパターンである。反省。
意見の異なる相手とは、対立ではなく、仲良く穏やかな話し合いをするよう努力したい。
 
楽山の言うことは、すべて、自己正当化の詭弁でした。実際には、反省をしたことはないと思います。反省したことが、その後の文章に、全く表れていないからです。つまり、トホホ言語の嘘の「反省」芝居なのです。楽山の「仲良く穏やかな話し合い」は、ボンヤリ言語の婉曲でごまかすことです。
 
楽山は、正直に「ズケズケ言ってしまう」ことなど、一度もありません。言うときには、必ず、誘導の作為と、詭弁の悪意があります。この記事もです。どうか、真に受けないでください。
 
同じような詭弁が今も通用すると思っているのは、楽山の知情意の鈍麻症状です。
 
 
*引き寄せられる感覚
本書はいったんは読む必要なしと判断したのだったが、その後もずっと気になって仕方がないので、再び手にとってみたところ、とても勉強になり読んでよかったと思えた本である。
あまり迷信的なことは言いたくないのだが、こういう経験をしてみると、やはり「何となく…」という感覚は大事にした方がよいようだ。世の中には、必要とするものに引き寄せられる法則なるものがあるのかもしれん(笑)。
 
息をするように嘘を吐く楽山です。楽山の読書は、自分に都合のよい文言を漁る作業に過ぎません。ですから当然「勉強になり読んでよかった」・・嘘です。楽山は、しばしば「(笑)」を付けてきます。吹き出しそうになりながら書いているのでしょう。
 
「何となく…」ではなく、人間の思慮と情感に深くかかわってくるのが、信仰の感受性です。良心とも言います。そっくり欠如しているのが、楽山です。口を開けば嘘を言い、詭弁を弄し、笑っているのです。楽山は、ホラーです。
 
これが、子供のときからの、霊が分かるっぽい?症状です。実際は、理路も、情緒も、信仰も、何も感じることも考えることもしない人です。「何となく」ボンヤリと、人を、だましてきます。そして、分が悪くなると、トホホと、安っぽいお涙ちょうだいの泣き芝居をするのです。
 
人間離れして、人間に戻る気もないようですが、楽山の一生が終わるときには、もはや、形も、精神も、人間ではないと、はっきり分かるようになるかもしれません。人間の良心を、全く持っているとは思えない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)・・・それが、楽山なのです。
 
私は、その前に、御許へ行くのでしょうけれど、
 
もしも、楽山が挨拶してくるようなことがあったら、すぐ削除して、関わらないようにしてください。
 
 
笑う嘘吐き

笑う嘘吐き
 
 
(2021年)
(2022年08月21日、再録+加筆)
 
 
 
  よるの森
 
よもすがら きょうも
ひとり じれてましたね
びょうきでしたね
くるってましたね
 
ひねもす いつも
おあいその えみ や
うすっぺらな おもてで
なみうつ わらい
ほしければ
てにいれる すべは
いくらでも あったでしょうに
 
もっと ほんとうを もとめて
この ウソの 森を
えらんだばかりに
よもすがら きょうも
たれも みむきもしない
ちいさく せまい まどから
ぬけだして もりを さまようのです
 
クモのす に かおを ひっかけ
つまずいて ころんで
すりきず きりきず あざだらけ
よる と あめかぜ に
こかげで ふるえ
 
やっと みつけた
ちいさな ひかりの かけらなど
たれも みむきもしない
 
ずぶぬれの よごれた かおで
よもすがら あかつきに ひもすがら
おえつするがいいのです
わたしは みずから えらんだと
 
 
  うた
 
いつか うたも
うたを うたうことも
おおきな こえを だす
あそびに すぎなく
さけに よえば
わらうほど
よわくなりましたね
ほんとうは べつの うたを
つよい うたを
つづれるほどに
ペンを はしらせたい
 
うたが すべてではなく
すべてが うたではなく
ウソが あそんでいる
ことばに のって
ちがう くにへ ・・・
そのくには どこにあるのか
また みちに まよいましたね
あさの きずが みつけられない
 
 
  呼べない名前
 
残された光の中を
危うく滑り込んできた
いくら見つめても 夕焼け
見つめ返してくれるはずもないのに
またここへ来て今更のように
呼べないものを呼んでいる
他に誰がいよう
めぐる日は明日を教えず
生きている今の一瞬 と
思う時すでに過去なのだ
 
過ぎ去ったお伽話が呼ぶ
砂のめぐりも絶えて
何処の静脈を流れる
知られぬまま古びた血よ
 
また帰る日もないものを
人はまた呼ぶであろう
暗闇の前の熱い血の光に
ひととき心を染めて
呼べない名前を
たそかれ と
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
もっともらしいことを言い、嘘を吐き、詭弁を弄する人は、結局、何が、本心なのか分からなくなり、ついには、言ったことが、ことごとく、信用されなくなるのです。嘘と本当を見分けることが、誰にも、本人にも、出来なくなるからです。本人にとっては、ある日、世界が変わるのかもしれません。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
最近、この通りの場面を目撃しました。
その人は言葉に詰まると、「忘れた」連発して、会話を強制終了させてました。
>>引用ツイート
中村りん|ナルシスト対策解説者
@RinNakamura999
 · 22時間
ナルシストは嘘がバレた途端、記憶がなくなったかのようにとぼけて忘れたふりをします。
都合の悪いことはスルーしたいので、話の論点をすり替えます。
自己愛を守るため人を脱価値化、おかしい人と勝手なレッテルを貼り、何食わぬ顔で人の手柄をも横取りします。
🎙解説動画
<<
午前9:14 · 2022年8月20日·Twitter Web App
 
楽山は、都合が悪くなるとスルー、つまり、無視します。「話の論点」を不必要な命題ABCの論理学話に「すり替え」ます。「おかしい人と勝手なレッテルを貼り」・・自己中楽山は、相手を決めつけと決めつけてきます。楽山と遣り取り~議論などしないでください。精神が病みます。楽山のやり方なのです。 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはすごく分かりやすい。
案外、昔の人も、こういうやっかいな隣人に悩まされていて、そこから子泣きじじいという妖怪が語られるようになったのだったりして。
>>引用ツイート
ましゅまろ イヤイヤ期からやり直す🌻
@p57iE7DKPnoQZc2
 · 17時間
赤ちゃんの泣き声がするから探したら抱きつかれてだんだん重くなり、ついには取り憑いた人を殺してしまう。
不機嫌モラハラの人はまんまコレだよなw
不機嫌そうだから「大丈夫?」と近寄ったら取り憑いてきて離さない。重くなって相手をとり殺す。
モラハラって子泣きじじいになることじゃ…
<<
午前10:08 · 2022年8月20日·Twitter Web App
 
そうやって、平気で、人の心を、壊してゆくのが、楽山のやり方です。そして、責任を負わずに、逃げるのです。卑怯を絵に描いたような男ですから、楽山の悪意に比べると、子泣きじじいは、ましかもしれません。冗談として書いている楽山だけが、冗談ではない事態に気づいていないのです。
 
 
 
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  レイプ犯のような楽山2
 
 祈りと平安(『アウトサイダー』スティーヴン・キング著)
 2021年08月08日 楽山日記(LD)
 
 
遠慮もなく、自らを弁えることもなく、あらゆる良心の働きを捨てて、とぼけた顔と態度で、信仰をおとしめてくる楽山ですが、今に始まったことではありません。やさしい言葉で侮辱する習性の楽山を信じてはいけません。
 
 
*祈りと信仰
キングの小説を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。
ホリーは床に膝をついて目を閉じ、両手を組みあわせた。朝と夜に祈りを捧げるというのは、かかりつけの分析医のアドバイスだった。ホリーは、自分はかならずしも神を信じてはいないと抵抗したが、自分の不安や計画を声に出して仮想上の“高次の力”に語りかけることが――たとえ神を信じていなくとも――ホリーの役に立つといった。意外にも、その言葉どおりになったようだった。
(『アウトサイダー 下』スティーヴン・キング著、白石朗訳、文藝春秋、2021年、p.9)
 」
祈りは、もし仮に神を信じていなかったとしても、よいことだとしているところは興味深い話である。
 
楽山の言う、神を信じる・・ということは、訂正不能に思い込み信じ込むことですから、信仰とは全く異質で真逆のものです。したがって、この時点で、楽山の語る信仰なるものは、信仰とは無縁の妄想ということになります。信仰は、共感であり、心の絆であります。楽山は、何も知りません。
 
そのことを私はずっと書いてきたのですが、楽山は無視して、勝手に書き続けています。無反省、無責任の、感性鈍麻で、心の無い、人間としての節操のなさを表すだけの、楽山の執拗さの本質は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
楽山は、人の言うことなど、聞いていません。聞いたふうを装っているだけです。結局、自説の妄想に戻ってゆき、自分の言い分に引き込もうとしてきます。見せかけの柔和だけを身に着けて、非人間性の精神病理を隠し続けているのです。一定期間、楽山を見ている人には分かるはずのことです。
 
楽山が祈りについて語るなど、笑止なのです。それこそ、信仰をレイプしているようなものです。かけがえのない信仰の祈りにまで、楽山の、荒々しく、侮辱の粗い荒い手を伸ばして、愚弄する作為を、どうして許すことが出来るでしょう。楽山ごときの興味とは何の関係もないのです。
 
「祈りは」「神を信じていなかったとしても、よいことだとしているところは興味深い」・・祈りは魔法ではありません。しかし、楽山は、祈りに込められるものまで、気安く「よいこと」と言えば済むというほどの鈍麻した獣性によって触れてきます。気遣いも共感もない不感不応の罪の鮫肌です。
 
楽山が、信仰と思っているのは、超常の、現実離れした奇跡のことで、それを「高次の力」と呼んで済ませています。そして、信じ込んでいなくてもいい・・みたいな話にしています。つまり、楽山の虫のよさは、信仰がなくても、超常の力だけ、もらいたいという欲望なのです。そんな神はいません。
 
信仰が薄くても、非信仰者でも、祈ることが可能になること、神が祈りを受け取ることはあると思います。しかしながら、悔い改めの心も、共感する心も、皆無であり、かつ、今まで、信仰を侮辱して笑うだけだった楽山のような者には、祈り芝居などしても、下されるのは裁きだけなのです。
 
 
*例1
では、その祈りとは具体的にはどういうものかといえば、こうある。
「こんにちは、またホリー・ギブニーです。いまも自分なりにベストをつくそうと努めています。
[省略]
あしたはデイトンへ行きます。車のなかでわたしがずっと安全でいられるように、あらゆる交通規則を護るように、わたしを見まもってください。そしてわたしが手もとの事実をもとにして、最善の行動がとれるように見まもってください。その事実がまた興味深いものなのです」ホリーは考えをめぐらせた。「いまでもビルのことが恋しいです。今夜はこのへんで」
ホリーはベッドにもぐりこみ、五秒後には寝入っていた。
(同上、p.10)
 」
ホリーの祈りは長いので一部省略したが、全体的な流れとしては、まず神に挨拶し、友人たちの安全と幸福を願い、その後で自分の話をするというものである。
 
祈りは、人から神への、精いっぱい正直な音信です。祈りの時と場を得ることによって、不完全で罪深い自分から、絶対孤独を逃れて、生きる動機となるキリストの共感と愛は、生きる縁(よすが)となるのです。嘘と詭弁の履歴の上に、祈りを載せることは、ただちに偽物だと見抜かれるのです。
 
祈りを、単に、神に報告して願うことのような、楽山の軽い見なしなどは、信仰へのレイプ行為であり、悪魔の好むところであります。楽山が何を書いても、嘘と欺瞞と偽善など、滅びの兆候だけが表れると書いたことがありますが、楽山は、その通りに進んでいるようです。
 
 
祈りの効果については、神経質な性格のホリーが五秒で寝入ったことからするととても良いと言えそうだ。でも亡くなったビルにふれた一言からはホリーの悲しさが溢れていて読むだけで辛くなる…。
 
寝つきがいいから、祈りの効果なのでしょうか、信仰なのでしょうか。信仰を、まるで薬の効能のように安易に結びつけて、心理的な気休めと決めつけている楽山の、信仰へのレイプの有り様は、楽山が語ることの隅から隅まで、臭い臭い三文芝居にしかなりません。
 
「とても良い」「辛くなる」などと、振幅だけ大袈裟にしたような感情の言葉で、何か言い得たつもりになる楽山の、繊細な情感を持たない嘘のお世辞は、白々しさによって正体がバレてゆきます。人を傷つけて快感を得るサイコパスの身の毛のよだつセリフです。
 
 
*例2
ホリーの祈りをもう一つ。
《こんにちは、またしてもホリー・ギブニーです。いまのわたしには、あなたのお力が必要です。もうご存知でしょうが、わたしは知らない人と話すのがたとえ一対一でも苦手です。それなのに今夜これから六人もの人を相手にしなくてはなりません。いえ、故テリー・メイトランドの妻が来れば七人です。震えあがっているわけではありませんが、怖気づいてないといえば嘘になります。ビルならこなせたはずですが、わたしはビルじゃありません。でもビルとおなじようにやり遂げたいので、ぜひお力をお貸しください。人々から信じてもらえないのも当然だと理解し、信じてもらえないことを畏れないようになりたいわたしに、どうかお力をお貸しください》
そして最後の部分だけは――ほんのささやきだったが――声に出して祈りをしめくくった。「神様、頭がいかれちゃわないようにお力をお貸しください」いったん言葉を切ってから、ホリーはこういい添えた。「わたし、タバコは吸ってません」
(pp.91-92)
 」
これは惨殺事件の犯人像を捜査関係者たちに話さねばならない時の祈りだけども、これらの言葉からホリーは自分と自分の置かれた状況とを正確に把握していることがわかる。こうしてみると祈りというのは自分を知るためにも、物事を整理するためにも良いことのように思えてくる。
 
白々しいことです。「自分と自分の置かれた状況」を全く把握していない楽山です。祈りを「良いことのように思えてくる」楽山は、祈り芝居をすることがありますが、正直さがなく、自己中なので、祈りにはなりません。祈りには、神に対して、心の正直さが何よりも必要であり、真似では成り立ちません。
 
 
*祈りのすすめ
四六時中、神様と話してばかりでは大変だろうが、夜、寝る前に「今日一日無事に過ごせました。ありがとうございました」と感謝したり、悩みを神に打ち明けるというのは、心の平安と安眠のためにはよさそうだ。何か大事なことをする前に祈るのも心を落ち着かせるには良い効果はあるだろう。
 
「四六時中、神様と話してばかりでは大変だろうが」・・四六時中祈ることはないということを知りながら、笑いながら、信仰をレイプしてくる楽山です。いつか、世々の悪と同じように、楽山が無事に過ごす時間が終わるときに、楽山が直面するために、悪は、長く、長く、放置されるのでしょう。
 
楽山の嘘が続きます。ときに褒めても、今までの、汚らしい否定を覆い隠すことは出来ないのです。楽山は、ただ、心理的効果の範囲に収まることだけを「心を落ち着かせるには良い効果はあるだろう」と言っているだけなのです。信仰のレイプ魔、楽山に、くれぐれも、だまされないようにしてください。
 
 
自分は「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」と考えてしまうクチではあるが、ホリーの祈りを読んでいたら、祈りは自分が思っていた以上に良いことのように思えてきた。
 
(ネットより)
こころ【心】 だに 誠(まこと)の道(みち)にかないなば祈(いの)らずとても神(かみ)や守(まも)らん
心さえやましくないならば、ことさら神に祈らなくても、おのずから神の加護があるであろう。菅原道真の作と伝えられる歌。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について
コトバンク
 
「心だに誠の道にかないなば」=「心さえやましくないならば」・・つまり、楽山は、自分は誠の道にかなっており、やましくないから、神に祈らない、と考えているようです。このような、身の程を知らず、人を故意に怒らせるような白々しい嘘を、平気で書いてくるのが、楽山です。確信犯でしょう。
 
信仰をレイプするような侮辱を平気で言い、良心もなく自分信仰の姦淫の罪を悦ぶ楽山の在り方は、人生の経過ではなく、裁きを予定された荒廃の経過なのでしょう。次々に醜さだけを表してきます。それで、まともに思わせようとしてきます。その分、自業自得で、末路の悲惨さを暗示しています。
 
巻き添えを食わないように、決して楽山に関わらないでください。楽山は、多くを捨てた後、さらに、多くを失ってゆきます。既に、地獄なのです。嘘吐きには、嘘の報いしか与えられません。今がそうです。楽山の行き着く先は、もはや言うまでもなく、想像を絶するところでしょう。
 
楽山は、一度も、祈ったことはないと思います。心に闇を抱えたまま、祈ったつもりになっても、気味の悪い思い込みの儀式にしかなりません。祈りは、信仰者が、心を込めて正直に行うことであり、ペテン師の楽山に出来ることではありません。その都度に、物知り顔の無知と無恥が進行します。
 
滅びの貯蓄をしている楽山ですが、信仰に生きる人は、楽山に関わらないでおれば、楽山の偽善と嘘と詭弁の害は避けられるでしょう。私のような批判者は、時間の経過を歩むしかありません。楽山のような偽善者は、どこにも良い影響を与えることができず、さらに醜い悪臭の病巣となってゆきます。
 
 
※ 姦淫は、偶像崇拝や背教の比喩として使われることがあります。その延長として、この記事では、レイプという表現を使っています。
 
 
冷血の住むところ

冷血の住むところ
 
 
(2021年)
(2022年08月20日、再録+加筆)
 
 
 
  夕日と私
 
水平線のかなたに沈んでゆく夕日
太陽から見れば
地球の輪郭の上に
最初から見えない私
私は夕日と呼んでいる
夕日は名付けない 何も
 
人が物を表す
物が人を表す
 
やがて海は去り
道は流れ
街は近づき
光が増え
減って
いきなり
闇を脅かすものが侵入する
私の部屋だ
部屋の私だ
一日の終わりだ
誰のだ
 
 
  思い出
 
つくられなかった
思い出が去ってゆく
いつのまに しのびより
どのあたりを過ぎていったのか
遠くでこだまする気配さえする
 
いつどこで
つくられなかったのか
ほんのちょっと
注ぐものがあったら
なつかしさに
なれたかもしれない
 
思い出のない
思い出
偽り
つくりもの
思い込み
勘違いの
シーン
風景が揺れる
ふっと遠くなる気を
うろたえて
身震いのように首を振って
懷にしまう
 
思い出にふるさとはない
空の下、山と森と道と草木
知らない人たちの生きる姿
小さな生き物
それで十分だと
思い出されることもなく
 
振り返れば
いつもの家並み
隠された思い出の並びから
子供が飛び出してくる
犬が走っていく
蹴られていない小石
転がっていく
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした 
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱は ふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
雲がわき
雲が飛び
雑多な雲が流れ
千々に流れて
虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
 
 2021年08月08日
 「ブログ村騒動」発言集(ピッポ論争)
 
楽山は、発作のように、"「ブログ村騒動」発言集" なる記事を、続けて書いています。計画性のない記事の編集ですから、現実を見たくない楽山が、過去を、我が功績とばかり懐かしんでいるのでしょう。総て、無駄であり、裏切りであり、自己正当化であり、自己顕示でしかありません。
 
あまり読む人もいないとは思いますが、間違っても、ちゃんと書ける人などと思わないでください。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、自分の意見が、ことごとく、不正直なはかりごとだとバレてゆくので、何でもいいから、書いたことにしたいのでしょう。惑わされないでください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の理解は、見栄っ張りの小学生レベルです。つまり、楽山には信仰は分かりません。楽山は、人をだますために、知ったかぶりで、時に、賛同しているかのような書き方をしますが、全部、嘘です。楽山の主張は、受けねらいであり、一貫せず、浅く発散して、何も残りはしないのです。
 
楽山を顧みるものは、いなくなるでしょう。というより、今までも、本当は一人もいなかったと思います。楽山が、自らの本当の姿を、誰にも、見せたことがないからです。褒めれば世辞、語れば嘘、説けば詭弁、書けば雑言、誰の役にも立たず、良きものを真剣に求めない欺きの結果が表れるだけなのです。
 
 
 
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  神と人をけがす無反省
 
 反省によって、神の愛を知る
 楽山日記(LD)2013年03月30日
  古い記事ですが、偽善は既に始まっているようです。
 
 
楽山は、反省をしません。柔和と丁寧を装う筆致に騙されてはいけません。カルトに劣らないくらい訂正不能の妄想的自己愛を持っている病的ナルシストが、楽山です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山とは、真面目な遣り取りは禁忌です。人格を破壊される恐れがあります。
 
 
ブログの目的は、「アンチ幸福の科学批判ではなく、反省の実践」とのことですが、ブログ記事を読む限りは、反省というよりも、「自分は信者だ。エル・カンターレを信じ続けなければならない。絶対に退転してはならないのだ。絶対に、絶対に……」という自己暗示の実践に見えてしまいました。
なんていうか、信者さんを見ていると、心に殻(結界?)をつくり、信仰を揺るがすことは見ざる、聞かざる、考えざるとして、内にこもろうとする人が多いようです。
 
楽山の話には、耳を閉ざすのが正解です。誰も、楽山と真面目に議論してはいけないと思います。カルト信条に加えて、アンチの顔をした楽山という無神教カルトが暗躍しています。楽山は、無神教カルト、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、罪悪感がなく、無反省、無責任です。
 
 
こういう信者さんを見ていると、お節介とは思いつつも、信者さんたちに本当に必要なのは、反省と称して、自己暗示をかけて、心の殻を厚く、強固にすることではなくて、もっとリラックスして、いろいろな人たちと交流することではないかなと思います。
 
交流の相手に楽山を選ぶのは最悪だと思います。反省は、どこが間違っていたかを冷静に考えることです。楽山は間違いを認めない病質です。こういうところからも、楽山に都合のよい詭弁の誘導は、既に始まっているのです。反省という言葉を書いても、反省だけはしない楽山です。
 
 
アンチの研究さんは、幸いにして、自分の殻に閉じこもるばかりでなく、アンチ批判によって他者との交流に励んでいるようなので、これを続けることでいつかは殻を破って外に出てほしいです。外の世界は、広々としていて、空気も澄んでいるし、いろいろな人がいて楽しいものですよ。
 
アンチ批判・・「殻を破って外に出てほしい」と言っていますが、楽山は、アンチではないのでしょうか。アンチHSではなく、アンチとして批判の意味でしょうか。言葉が雑な楽山です。「いろいろな人がいて楽しいものですよ」・・こういう当たり前のことから、楽山の誘導は進行してゆくのでしょう。
 
 
ところで、今回の記事では、大川咲也加さんの発言が省略なしで引用されているようです。ここにも貼らせてもらいますと、こうです。 
人は、「希望」を持っているうちは、いくらでも頑張ることができるものですが、絶望を感じた瞬間や、「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と思った瞬間に、すべてが真っ暗になり、道を踏み外して、一気に退転してしまうことがとても多いですね。
しかし、あくまでも光明思想的に、「未来は明るい。私たちは、最後の一秒まで、自らの『信仰の力』により、未来を切り拓いていくことができる。自分たちの『心の光』で、世界を照らしていくことができる」という強い思いを、一人ひとりに持っていただきたいのです。これは、日本の特徴でもあります。
したがって、あまり悲観的になる必要はないと思いますし、むしろ、「一人ひとりの人に、もっともっと、何倍も明るい心を持っていただきたい」と私としては思っています。
できるのであれば、みなさまには、非常に“鈍感”になっていただきたいのです。どんなに負けても、どんなに辛いことがあってもへこたれず、あっけらかんとして、笑顔でいられるような、そんな強い心の持ち主になっていただきたいと思いますね。
『神国日本の精神』
 」
 
HSの人でしょうか。生長の家でしょうか。鈍感になりすぎると、人の気持ちが分からなくなり、自己中になってしまう楽山の例があります。楽山は、感性も知性も、実に、末期的に、鈍感です。分かりやすく言えば、楽山は、共感がなく、人の気持ちが分からない人です。不感不応と呼んでいます。
 
 
これを読む限りは、大川咲也加さんの考える反省と光明思想は、わたしとは全然ちがっているようです。
わたしは、反省とは、自分は間違いばかり犯してきたダメな奴だと自覚し、こんなダメな自分でさえも神は許してくれていると気付くことだと考えています。反省は神の愛を知るための道です。
 
「反省は神の愛を知るための道」・・実に、これとは正反対の道を進んでいるのが、楽山です。無反省、無責任、訂正不能、霊能者気取り、学者気取り、など、自分を立派に見せようとして、最も汚く卑しい自己愛を表してきたのが、楽山です。
 
 
そうしてここまで到達したならば、自分の力で未来を切り拓くとか、自分の心の光で世界を照らしていくと自惚れることはなくなり、「神様、わたしをお導き下さい。光を広げるために、わたしを使ってください」と謙虚に祈るようになるのだろうと思います。
 
この祈りの言葉、全くの嘘です。楽山には、謙虚も敬虔もありません。以上に答えて、嘘ばかり言っている楽山です。誰よりも、欺きの度合いの酷いのは、楽山その人です。この9年前の記事も、全く信頼できない楽山です。楽山の嘘吐きは生まれつきの悪魔性のものなのでしょうか。
 
 
ですから、大川咲也加さんがいうように、自分は間違っているのではないかと反省することを敬遠していたのでは神の愛を知ることはできないし、自分が未来を切り拓き、光を広めると自惚れていたのでは自我を肥大化させるばかりで信仰を持つことは難しいだろうと思います。
 
白々しいことを言っていたのですね。人には言うが、自分は守らない典型でしょう。つまり、偽善者の典型でもありす。口だけ、言うだけ、ここでだけ、言葉を飾って、実際は、人をだまし続けているのが、楽山というペテン師なのだと再確認しています。
 
 
上から目線のようで恐縮ですが、大川咲也加さんの年齢を考えれば、その言葉に深みがなくても、それは致し方ないことではあります。ただ、そういう大川咲也加さんを静かな環境で大切に育みもせずに、騒がしい表に連れ出して、著書を発表させ、よいしょする教祖、教団、信者たちは何を考えているのだろうと思います。
 
楽山は、相手の言葉に深みがないと言っていますが、嘘で欺くよりはましだと思います。最悪が、悪を、批判している形でしょう。視点を変えれば、このように他者の思い込みを批判して、自分は、好きなように、人をだましてきた楽山であります。
 
 
また上の引用文は、絶望と自惚れ(強がり?)という両極端になっています。鈍感になるべきだともしています。もしかしたら大川咲也加さんは、些細なことで気分が大きく変わるタイプなのでしょうか。もしもそういう傾向があるなら、ますます騒がしい表よりも、静かな環境にいる方がよいのではないかと思います。わたしの推測は全然、見当違いかもしれませんが、教祖と教団には、この点について再考してほしいと思います。
 
楽山は、他者に意見できるような人物ではありません。能力も誠意もありません。むしろ、サイコパスと言ってもよいほど、自己愛性~反社会性を持っていると思います。だますこと、嘘吐き、反省しないこと、ベースとなる霊妄想、これらに染まっている楽山は、人類の敵、という、モデルかもしれません。、
 
 
 
(コメント欄)
1. ueyonabaru2013年05月01日 23:08
さやかさんのお考えは好きです。楽山さんはクリスチャンのような感じを受けます。どちらも、正解。
 」
2. 楽山 (自由)2013年05月22日 19:59
ueyonabaruさん、お返事が遅くなってしまいましたが、コメントありがとうございます。
当方、クリスチャンではありませんが、キリスト教には興味を持っています。とはいっても教会には行かず、自分なりにキリスト教関連の本を読むくらいですけど。
 」
 
どちらも否です。しかし、楽山は凶悪な反キリストです。それは、この9年間、表れてきました。これほど卑怯な男はいません。楽山の知能は、笑いながら、刃物のように人を刺してきます。そして、共感性は、皆無なのです。楽山は、この他害性によって、サイコパスと言ってもよいと思っています。
 
 
無反省が反省を言う

無反省が反省を言う
 
 
(2022年08月19日)
 
 
 
  情報人間だ
 
多くの人が歩いている街
それぞれは血も涙もある人間だし
会って話している人もいるけれど
出会うことないお互いは
動く障害物にすぎない
障害物をよけながら
多くの人が上手に歩いている
群がり移動するお互いは
えさを運ぶ蟻以上の無関係
整然と群衆が移動する風景
確か複数のファイルをまとめてコピーする方法があったな
 
情報化社会のシステム
マルチメディア・ネットワーク
規格の統一
バーコードになった言葉
会話?
その恩恵から取り残されるとよっぽど怖いことになるのかな
 
今でさえテレビにも新聞にも本屋にも
情報はあふれているのに
どう選択したらいい
人間の記憶には限界があるのに
どう整理したらいい
コンピューターに保存しておけばいい
コンピューターの記憶装置が整理してくれる
コンピューターと記憶装置はつながっているが
人間とコンピューターはどうつながっている
人間の記憶の中にあった大切なものが
コンピューターに移されて
 
大切な約束のために訪ねたある日
ちょっと待ってねと
彼は部屋に入った
入ったきり出てこない
心配で見に行くと
パソコンがやさしい声で言った
「もうすぐですから少々お待ちください」
パソコンの前に座っている彼は
背筋をまっすぐ硬直させたまま
ディスプレイに向かって
複雑なバイナリーのコードらしきものを
さかんに左右の眼を点滅させながら
口から泡をふきながら叫んで発信し続けているのだった
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
神ノ義ヲ得ルコトガデキル
神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
人ハ生キルコトガ許サレテイル
人ハ生キルコトガ望マレテイル
人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
私ハ伝エルベキ
何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
神ノ立場デ物ヲ言ウナ
・・・・・・・・・
 
 
  敬虔な
 
ケーケンなクリスチャンが
祈りをささげる場所になじめず
憐れみの眼差しに胸がいっぱいで
胸くそもいっぱいで
悟らない下等動物は
居場所を求めて
いい場所を求めて
あとずさりを始めた
ここでもない
そこでもない
気がついてみると後ろは崖で
もうあとずさりはできない
まわりには誰もいなかった
あざける者もいなかった
風がヒューヒュー吹いていなかった
教会はどこにあるのか
十字架はどこにあるのか
悟らない下等動物は
陰険なクリスチャンになって
祈りをささげた
ああこんなにも人畜無害であるのに
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山が書かなければ、宗教と信仰に訪れた、楽山害とでも言うべき災いが、一応、納まるかに見えて、いえいえ、また別のところで、楽山は、同じようなことを繰り返すでしょう。それが因業というものです。楽山は、その生き方しか身についていないのです。終わらせることが出来るのは、神だけです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
大川隆法は批判されるのは嫌いな人だと思ってたけど、宗教間で真摯に批判し合い、切磋琢磨することをよしとしてるんだね。この本は読んだことはあるはずだけど、すっかり忘れてたよ。
あんまり批判したら申し訳ないかと思ったけど、それほど遠慮しなくてもよさそうだ。
引用ツイート(省略)
午後10:32 · 2022年8月17日·Twitter Web App
 
批判されると逃げるというのは、楽山の常套手段です。楽山が何か書いても、悪口だけで、理を通すことが出来ていません。それを反論のつもりで返してくるので、返されたほうは、無駄に疲労します。ゆえに、精神衛生のために、楽山との直接の遣り取りは禁忌なのです。
 
 
 
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  楽山のインテリ気取り2
  
 
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 2021年08月06日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
プロデューサー気取りで、最初に、書く時の注意したことなど、同じパターンの、書き方も同じような前書きがあるのですが、後は、だらだら長い長い引用だけで、結局、自分の見解は、何も書いていません。書けば、批判されるからでしょうか。
 
どこまでも他人事として、自らの、議論での嘘と詭弁による欺きには何も触れず、後悔も反省もなく、上から見下ろして、人をネタにして楽しんでいる筆致が、楽山の特徴です。専門用語を好んで使うのも「と言えなくもない」など婉曲・曖昧な語尾も、楽山のボンヤリ言語の特徴です。
 
 
>この騒動における発言をまとめてみました。
 
何もまとまっていません。引用して並べただけで、まとめようともしていません。
 
だったら、記事自体を書くべきではないでしょう。資料としたつもりでしょうか。だったら、記事に納まるような量ではないはずです。私事を言えば、偽牧師シャロームは10年、楽山は3年余り、資料となり、どちらも、とても一つの記事で表せるものではありません。
 
私の記事に書いたと思いますが、楽山の原始反応なのでしょう。書けば批判される、書かなければ満悦気分に浸ることが出来ない、ということで、ずっと前からの習性として、他人の口を持ってきて、書いたという充足感を得たいのでしょう。前記事と同じく、数年前の論争だそうです。
 
読もうという気にさせない記事です。しかし、勘違いした人が、長い記事書きましたね・・と思ってくれることを期待しているのでしょう。そして、苦労しましたが、一助となればと思って・・みたいな謙虚なインテリ気分を味わいたいのでしょうか。まことに酸味に溢れる楽山です。
 
この異味と異臭は、楽山が、何も考えない、組み立てられない、書けない、責任負う気もないから、自分の意見を言うとボロが出るという現実と、楽山の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の内的欲求の間を、他人のコメントを並べればいいじゃろ・・と短絡した結果なのでしょう。
 
前置き以外は、うんざりするほど、引用が長々と続いているだけです。しかも、クリックで、さらに続きが見れるようにしています。楽山は、何をプロデュースしたのでしょう・・自分はこれらのコメントを把握している、と自慢したいのでしょうか。
 
昔だまされて食べたことのある、祭りの出店の、タコの入ってないタコ焼きみたいなインチキです。楽山は、コピペだけを並べて、べったら漬けにしています。これも、インテロ楽山の専門分野なのでしょう。しかも失敗して腐臭ばかりを垂れ流すべったら余言者、楽山です。
 
 
 「ブログ村騒動」発言集(ガンレオ論争)
 2021年08月07日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
その後も、楽山は、数年前の騒動について、執拗に、長いだけの、引用だけの記事を、アップし続けているようです。異様な長さです。狂ったのかと思いたくなるほどの、3つの、数年前の騒動の、引用だけ長い記事です。
 
楽山が勝手に無駄な体力を使っているだけで、これを読む人がいるのだろうかと思います。自己満足だけで生きている者は、こうなるのかと、楽山の症状を眺めています。今回は、楽山のコメントもあるようです。楽山以前のHNは「自由」でした。それにしても、分かりやすさからは程遠い編集です。
 
 
*かわいそう
この記事を読むと、コウさん、ピッポさんが気の毒になってくる。
ガンさんの批判の仕方は、コウさん、ピッポさんの発言趣旨や、言葉のあや、話の流れなどにはあまり配慮せず、一部の問題発言を切り取り、教義的にダメ出しをし、そこからさらに推し進めて、全人格をも否定するというやり方だからね。これでは二人があまりにかわいそうだ。
 
登場人物の人格は知りませんが、楽山について言えば、批判するべきは、まさに、楽山の人格であり、つまり、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、そこからの、詭弁、嘘、逃避、自己満足、無反省、無責任という、人間とは思えない異常性であります。
 
恐らく、人格異常は治らないでしょう。しかし、だからこそ、こういう異常者がいます・・ということを、批判記事として当ててゆくしかないのです。関わると引き込まれ、疲労し、鈍麻し、従属状態となるなどは、カルトと同じなのです。情報を広めて、予防するしかないのです。
 
楽山には、高等感情が欠けており、思いやりや共感が出来ません。その分、言葉だけ「かわいそう」と書いておくだけなのでしょう。今まで、何度も、そういう安いセリフを使ってきた楽山は、三文芝居の大根役者なのに、自分だけ、論者気分の、論客気取りなのでしょう。
 
 
その中の楽山のコメントを、一部抜粋してみます。
 
こういってはなんだけど、コウ、ピッポさんは自分の心にあることを、正確に、論理的に言葉で表現することはあまり得意そうではないし、議論に不慣れで、理論武装も十分でない。そういう人の発言を、趣旨、あやに配慮せず、問題視して、やっつけるのはどうかしてる。
もう少しだけでも、彼等の発言趣旨、言葉のあやなどを思いやってあげればいいのにと思う。
◇真理が素直に入ってこない人達の特徴|やすらぎのガンブロ
2016/9/26(月) 午後 8:43[ 自由 ]
 
見逃さないでほしいのは、ここに、楽山の、自己愛からの、オレは論客だ、という自慢が表れていることです。そして、思いやったつもりの人たちのことを、自分より低い人だという満悦の優越感を表しています。楽山は、そういうのが失礼だということを感じることができないのです。
 
「正確に、論理的に言葉で表現することはあまり得意そうではない」「議論に不慣れで、理論武装も十分でない」「思いやってあげればいいのに」・・楽山の同情は、見下ろして憐れんでやるということです。自分は上にいて、劣った者を、かわいそうにと、下に見る態度なのです。
 
しかし、相手が劣っていることを表すコメントは、誰よりも、自己愛のために反省せず学習せず成長しない楽山の特徴であります。理路も感性も情緒も、病質のために整わず、相手の欠点をあげつらっては楽しむサディスティックな趣味~生き甲斐なのです。
 
また、引用することになります。
 
「殴られるより悪いことがある」
 
(三島由紀夫原作映画「午後の曳航」セリフ字幕)
 
いつも優越意識がある楽山に哀れまれて、勝手に書かれて、ありがたがる人がいるでしょうか。楽山をまともだと思って楽山に関わっている人は、早く目覚めてほしいと思います。
 
 
ガンさんは、自分は悪口を言われた被害者と考えてるらしい。あれだけのことを書いといて、悪口を言い過ぎたという、やましさがないというのは中々、面白いね。
・・・
2016/7/26(火) 午後 9:59[ 自由 ]
 
楽山のインテリ気取りの婉曲ボンヤリ言語の皮肉・当てつけです。相手に「やましさがない」ということを、おかしいじゃないか・・ではなく、「面白いね」と言っています。下種がインテリを気取るときの、実に、白々しい、穏やかさを装った、くさい当てつけの皮肉の丁寧語です。
 
楽山は、インテリではありません。知識も、知性の理路も、感性の情感も、整っていません。だから、こういう言い方で書いて満足できるのです。本当の相手の気持ちを察することの出来ない人がやることでしょう。「悪口を言い過ぎたという、やましさがない」のは、楽山のほうです。
 
いよいよ、リアルに追いつめられたら、楽山は言うでしょうか、サスペンスドラマなどでよく見るの悪役のセリフ「君は、誰に物を言っているか分かっているのかね」。それとも、パニックでしょうか。支離滅裂になって狼狽するでしょうか。狼狽して引っ込んでほしいです。
 
 
今、私は、楽山という、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、反省せず、理解力がないのに自己満足で他者に意見したがる人の、正体を暴いて広く知らせるために、批判記事を書いています。誰も被害に遭うことのないようにしてほしいからです。
 
私は、インテリではありません。評論家でもありません。読書も苦手です。知識も乏しいです。しかし、不完全で罪深いから、人についても、自分についても、考えることは好きなほうです。
 
楽山に対しては、数か月の直接の遣り取りに危険と恐怖を覚えて、以後は、批判を続けています。
 
 
気取るほどにますます孤独

気取るほどに ますます孤独
 
 
(2021年)
(2022年08月18日、再録+加筆)
 
 
 
  欲しいもの
 
車を買った
新車である
しかも増車である
さらに外車である
といっても軽自動車である
 
大きい車体と大排気量で
ステータスを欲しがる人に
それを売ってくれる外車メーカーが
戯れのように試みに作った
無駄なスペースがなく
必要なスペースも足りない玩具?
 
この小さい車でステータスを気取れば
笑われるだけでなく
車を2台も持っているなんてと
顰蹙(ひんしゅく)も買うことになる
 
買わずに残しておけば
一年くらい暮らせる金額
今持っている車が壊れてから
次に国産なら
チャージャー付きのフル装備の
上級グレードの軽自動車が買えるが
というものが五体満足で
運転できる神経を持った状態で
はたして私にあるだろうか
 
欲しい物があり
それが軽よりも小さい軽であり
買うお金が今はあるから
買った
ただそれだけのこと
 
いつ終わるか先のことなど
わからない寿命・余命
については無視した
ただそれだけのことだが
経済的寿命と肉体的寿命
同期してくれたら・・・?
 
本当に欲しいものは他にある
と我慢しているものも
あるにはあるのだ
 
走行距離約千五百キロの
慣らし運転を終えて平均燃費は
リッター二四・五キロメートル
楽しめる贅沢(ぜいたく)な玩具は
剽軽(ひょうきん)なマスクをして
家の前に居座り
私を無視も注視もしない
 
※ ずいぶん昔のことです。スマートK、という500ccのサイコロみたいな軽自動車に乗っていたことがあります。2人乗りというより2人しか乗れない。価格はシビックより安い車です。リアエンジンで、シフトするたびに、軽いフロントがピョンコピョンコ上下して、風景も上下しました。6速AT/6速クラッチレスマニュアルフロアシフトを楽しんでいました。ターボが付いて、動力性能は、私には十分でした。独りだからできた遊びでした。50代前半で運転は車もバイクも止めています。現在、68歳。
 
昔の記事「鯛夢トンネル」スマートK(2010年9月)
 
 
  シンプルに
 
私はだんだん
シンプルになっていくようです
口数も少なくなりました
言葉もめっきり減りました
ああ太陽
ああ夕空
ああ星と星
といった調子です
身の回りは相変わらず汚れていて
身のうちには
たくさん傷や悔いや感動がありますが
もう深くはのぞけなくなりました
しあわせが浮いていくようです
それが私なのか何なのか
昔のことはだんだん忘れて
見るもの聞くもの遠のくようで
裏返し
と唐突に言ってみたり
口を開けてじっとしていること
ときどきできます
私はシンプルに
命になって
いつか少し笑って
目をゆっくり閉じて
いつか少し泣いて
あとは
あとは
おまかせします
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
よく読めば、楽山の筆致が、おふざけ半分であることが分かるでしょう。「人間の性なんでしょうかね」・・自分のせいじゃないよ、誰でもそうだろ・・という言い逃れです。いかなる発言にも責任を負わない病的な体質が滲み出ています。発言自体が、正常ではない、一種の非人間性を表しているのです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
自分には、「霊界は思いの世界なので、対象に思いを向ければつながる」という方が分かり易い。
墓や位牌など、ものを介してつながる霊存在は、物質界に近い低級霊…下手をすると地縛霊に過ぎないと思う。
ryuho-okawa.org
お墓の役割
お墓には一種の“アンテナ”のような役割があります。要するに、お墓参りをするなり位牌を祀るなり、そうした供養のスタイルを取ることによって、天上界や地獄界にいる亡くなった方と心が通じる交差点になるところがあるのです。その意味で、実は重要なものなのです。
午後8:09 · 2022年8月14日·Twitter Web App
 
楽山の霊の見方が表れています。「思いの世界」と言いながら、「低級霊」「地縛霊」と言っています。霊が分かるっぽい?と言っていた楽山の霊能者気取りが表れているので、見逃さないでください。理論家どころではありません。心の問題以上の、自らの超常的な霊的優位を自認しているのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはよく分かるわぁ。。
引用ツイート
naru
@kokorodrugstore
 · 17時間
モラハラ被害者の方が「私は自己愛性パーソナリティ障害なのではないか」と思い、バリバリの加害者が「相手こそが自己愛性パーソナリティ障害だ!!」とモラハラしながら言います。
午後7:14 · 2022年8月14日·Twitter Web App
 
楽山の「よく分かるわぁ。。」は印象操作です。楽山が言いたいのは「相手こそが自己愛性パーソナリティ障害だ!!」ということでしょう。読む人の心に、そういうことを「モラハラしながら言い」続けたいのでしょう。楽山に汚い霊が充満しているような気がしてきます。
 
 
 
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  楽山の放屁・追記3
 
 批判をスルーすることについて
 2020年07月26日 楽山日記(LD)
 追記分を改めて批判。
 
 
聖書の言葉は、キリストの言葉は、謎解きのように読み解いて自慢するものではなく、私たちの心に、雫(しずく)のように与えられ、折に触れて、生きて活きることを教えています。
 
ゆえに、乾燥した鮫肌に擦られても、ひび割れた地上に倒れても、温もりと潤いに生き続けててくださることを願っています。
 
楽山は、ねちねちと実に言い訳がましい追記をしてきました。自分の言いたいことだけを言って、相手の言い分を受け取らず、自分で勝手に終わったことにしてきました。これは議論ではなく、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。楽山の優しい言葉は、罠です。
 
 
◇◆ 追記 2020.7.26 ◆◇
*スルーの理由
記事を読み返してみて、ちと不親切と感じたので、スルーの理由について以下に補足説明してみた。
・時間…リアルの議論であれば、せいぜい二、三時間もすれば一段落できるだろうが、ネット上の議論であれば、何日も、何週間も続くことがある。人によってはこちらが何も書かなくなっても何カ月も何年もねちねち悪口を書き続ける者もいる。これには付き合いきれない。
 
楽山は、議論など出来ません。賛同者と世辞の遣り取りをするだけです。そして、あたかも、議論したかのように、議論できるかのように、論者であるかのように、見せかけているだけなのです。私の批判記事に、反論も弁明も、一度も成り立ったことはないのです。楽山はペテン師です。
 
「リアルの議論であれば、せいぜい二、三時間もすれば一段落できる」・・そんなことはありません。生涯にわたることもあるでしょう。その都度、保留して、整理して、考えてゆく姿勢が必要です。理路を追えない楽山は、嘘と詭弁で、成り立たないことを言って、まともな気でいるだけです。
 
楽山は、あらゆる真実追求の理路において、破綻し、欠落し、妄想的にショートカットして、フリーズして、逃げてゆく人です。その言い訳にもならないことを、また書いてきました。付き合い切れないなら、何も書かないことです。
 
 
・真理…世の中には、真理を多角的に理解できる人もいれば、理解できない人もいる。たとえば、ueyonabaruさんはこのようなコメントをしていた。
1. ueyonabaru2013年05月01日 23:08
さやかさんのお考えは好きです。楽山さんはクリスチャンのような感じを受けます。どちらも、正解。
2. 楽山 (自由)2013年05月22日 19:59
ueyonabaruさん、お返事が遅くなってしまいましたが、コメントありがとうございます。
当方、クリスチャンではありませんが、キリスト教には興味を持っています。とはいっても教会には行かず、自分なりにキリスト教関連の本を読むくらいですけど。
 」
 
だまされた人がいるようです、いや、いたようです。2013年ですか。ずいぶん前ですが、楽山は、そういうところまで持ち出さないといけなくなったようです。気持ち悪さは変わりません。昔は、こんなにも、軽く、だましていた、という思い出話でしょうか。
 
楽山は、反キリストです。楽山が、多角的視野と言っているのは、何も結論が出せず、いい加減に、信じると信じないを、さまようことを意味しています。楽山も、さまよっているように見えますが、実際は、否定して悪用しているだけです。何の助けにもなりません。
 
多角的視野など、楽山は、全く持っていません。折々に多角的に逃避してる人です。批判に何も返せない楽山は、自己満足の自己愛だけで、書いて、だまして、やさしいお人柄ですね・・などと、褒められることが大好きです。くれぐれも、だまされないように、決して、関わらないようにしてください。
 
 
これはつまり、HS教義とは違う考え方であっても、アンチが言ったことであっても、真理は真理だと認識できていることを示している。またその考えが何の影響を受けているのかも分かっている。こういう人とであれば信者とアンチという立場を超えた議論は不可能ではないだろう。
 
意味不明です。「真理は真理だと認識できている」「何の影響を受けているのかも分かっている」・・すごいことを、平気で言っていますが、そういう人はいないので、楽山と議論できる人はいません。何を思い上がっているのでしょう。
 
楽山とは、いかなる議論も、交流さえも、不可能です。しっかりした立場など、楽山にはありません。だから、気持ちよさを維持するために、曖昧なボンヤリ言語で語り、不都合を無視し、反省せず、責任を負わないで済まそうとしていることが、文章に表れてきたのです。
 
 
でもHS教義に合致していないものは真理ではない、アンチがいうのは真理ではない、アンチで退転者の楽山が言うことに真理はないという風に、党派的、護教的な決めつけばかりで、真理の何たるかを全然分かっていない人とは、まともな議論ができるはずもなかろう。
 
すでに、上で、真理は真理だと認識できていると、軽く書いた時点で、真理についてはアウトなのです。楽山の言葉は、病質によって腐っているようです。楽山は、あらゆる人間の真実に背いている卑怯者です。この人に、他者を云々する資格は、全くありません。
 
楽山の、真理は、思いつきのように、あまりにも、軽いのです。かつ、お伽噺かホラー話のように幼稚です。楽山の視野は、おもちゃ箱以上ではありません。病質者に真理も真実もテーマとして扱うことは出来ないということが明らかになってきたのです。
 
「真理の何たるかを全然分かっていない人とは、まともな議論はできるはずもなかろう」などと書いていますが、楽山は、真理の何たるかを語る資格はありません。自己愛の自尊過大に凝り固まって、あらゆる真実に背いているのが、楽山です。
 
有頂天の煽動者、誇大妄想患者、無反省・無責任の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、決して近づかないでください。楽山は、自分の言いたいことだけを言って、後は、雑言だけで逃げ回っている男です。許してはいけません。
 
 
・ケチ…真理を求めての議論なら意味もあるだろうが、無暗な人格批判だとか、否定のための否定だとか、ただ相手にケチをつけたいがための難癖などにはいちいち付き合う気にはなれない。
 
無暗ではありません。根拠を示して、楽山の人格の偏向、自己愛性人格障害と、無益な教え方をしている自己満悦を、指摘し、批判しています。責任を負わず、反論も弁明も出来ないなら出てくるな・・という批判です。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、自らの欠点など非を認めることが全く出来ないのです。そして、いつも、見下ろす視線で、学者気取りで教えたがります。高みから見下ろしている人とは、議論も交流も、出来はしないのです。
 
根拠のない嘘や悪意の詭弁を武器として、無反省で無責任な人格的欠損によって、何事にも、共感できず、感動できないので、共感や感動や反省という言葉だけを多用しています。全部、言葉だけの飾りのオモチャに過ぎません。
 
その嘘を、ごまかすために、専門用語とか、さらに、反省とか、トホホとか、書いてきますが、文脈においても、記事の流れにおいても、何も、良い方向に変わっておらず、芝居に過ぎません。楽山は、自分さえ満足できればよいだけの利己主義の自己中の、嘘吐き、詭弁家、精神の詐欺師です。
 
 
・テーマ…事実関係についての議論であれば、思想、主義、信仰、感性などが異なっていても可能だろう。でも、「神とは何か?」「信仰とは何か?」「いかに生きるべきか?」という答えのない問題については、思想、主義、信仰、感性が異なる相手と議論しても平行線に終わるだけであまり意味はない。とくに当事者間に悪感情がある場合は、ただの喧嘩になるだけだ。
 
思想と宗教は、事実関係とは限りません。むしろ、知性と感性の両方を必要とする精神の作業です。しかし、楽山は、理路の調和も情緒の共感も成り立たないために、言葉の字面を細工する詭弁に終始してきたのです。
 
楽山は、自分が出来ないものだから、平行線に終わると言っています。・・平行線は、決して終わることはないのです。放り出して無視するから終わるのです。楽山という基準のない平行線が、ガラス片のように、人を傷つけ、人を滅ぼしかねないから批判を続けています。
 
こういう楽山の言い分こそが、自らの非を認めず、人のせいにする自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状です。思想も主義も信仰も感性も持っていない楽山と、話し合おうなどと思ってはいけません。否定し続けることだけが批判であり、逃げることだけが安全保障であります。
 
楽山は、批判や議論を、喧嘩になるだけと短絡をしています。こういう短絡も、楽山の特徴です。深く感じることと考えることが、楽山は、できないのです。だから、すっ飛んで、他者を無視することに専念し、逃げているのです。一気に楽になりたいカルトの特徴的な習性でもあります。
 
「喧嘩になる」種を、いつも、バラまいているのは、楽山です。そして、無視、無反省、無責任、訂正不能、自己中の誇大妄想なら、議論など、成立するはずもないのです。楽山は、議論の場から、まず最初に追放されるべき男です。
 
少なくとも「神とは何か?」「信仰とは何か?」「いかに生きるべきか?」という問題について、「答えのない」「あまり意味はない」と決めつけている楽山こそ、答えもなく、意味もないのです。人間は、人生の様々な問題に直面して、その都度、考えることで成長してゆくのです。
 
 
・公平…人は身内に甘く、敵対者には厳しくなりがちなものだ。だから少々のタブスタはやむを得ないことではある。
 
ダブルスタンダードが止むを得ないのではありません。違う定めに生きている人もいるという共感によって、許容できることがあるということです。それに、楽山は、相手を疲労させることで、既に、とてもいやらしい報復だけをしてきたのです。ダブルスタンダードではなく、楽山には軸がないのです。
 
恐らく、楽山には、本当に身内と呼べる人はいないと思います。共感できない楽山は、規範のほうを、いい加減なものにして、自分かわいさだけで、正当化して、二重規範(ダブルスタンダード)などと言っているだけです。これは、妄想信念による自慰行為です。
 
 
ただそれには程度があるのであって、他人のコピペブログを強くしつこく批判していながら、お友達のコピペブログは殆ど不問に付すとか、自分が批判されたらすぐに相手をネットストーカー呼ばわりしておきながら、多数からネットストーカー扱いされている問題児が、自分の論敵に喰いついてるのをみて、正当な批判が行われているかのようにいうのは、ダブスタにもほどがある。こういうダブスタ人間とは、意義ある議論は期待できなかろうと思う。
 
「自分が批判されたらすぐに相手をネットストーカー呼ばわり」・・楽山がやってきたことです。実に、きたない。また、程度などという曖昧な言葉で表されるような問題ではありません。楽山の、自己に慢心している様子が、楽山の発言に表れています。
 
人間の規範は相対的ですが、楽山のように、同時に2つの、特に相反する規範を持っているのは、詭弁であり、人格乖離か精神分裂かもしれません。真実追求とは違う目的があるとしか思えないのです。楽山は、人を傷つけることに快感を感じているとしか思えません。それはサディストと言います。
 
そういうとき、楽山は「疲れたんじゃないですか」などと言うことがあります。気遣いや思いやりなどと思わないでください。サディストが、うまくいったと、独りで満悦しながら、勝利宣言みたいに、上から見下ろして、同情芝居をしているだけです。今までの、楽山の、鈍く冷たく粗野な性格が根拠です。
 
また、批判に答えないまま、反省しないまま、修正しないまま、学習も成長もなく、ネットストーカーのように、自己満足の詭弁の記事を書き続けて、公に垂れ流し続けているのは、楽山のほうであります。つまり、楽山は、ブーメランとなって、精神の崩壊という自分の病理を、自分で語っているのです。
 
 
・地雷…巷には、プライドが高く、何かというとすぐに怒り、逆恨みし、粘着してくる人がいる。こういう人と議論すれば、易怒性を誘発し、面倒なことになるのは目に見えている。触らぬ神に祟りなし。以前はこういう人の存在は知らなかったが、いまはこの手の人物が存在することはわかったし、批判があったからといって、相手がどういう人物か確かめぬうちに、すぐに議論に応じるような迂闊な真似をする気にはなれない。
 
楽山は、高等感情が鈍麻しているのに、自尊が過大で、粘着した雑言を妄想して語ります。ゆえに、怒らない人のように見えることがありますが、感じていないからであり、人の意見を受け取る器がないからなのです。やさしい柔和と、うすぼんやりの鈍麻を、混同しないようにしてください。
 
「プライドが高く、何かというとすぐに怒り、逆恨みし、粘着してくる人」・・怨念が根底にあることを知れば、これが当てはまるのは、楽山だと分かるでしょう。表に出すと、現実的に、見放されるので、ボンヤリ丁寧語の一点だけ保って、客観的に見せかけて、正体を分かりにくくしています。
 
楽山の、スルーは、無視であり、アドラー教(アドラー心理学)の、気に入らないことは無視しましょう、という説教を書いていたのは、他でもない、楽山その人であります。どこまでも、フンドシ担いで逃げまくる楽山のような男は、追放する以外ありません。
 
私は、途方もない病的な疲労を与えるだけの楽山と議論をする気はありません。デタラメな記事を書くのをやめなさいと言っています。楽山の発言は、誰にとっても、全く参考にも糧(かて)にもなりません。かつ、言論の責任を負わない人に言論の自由はないのです。
 
楽山は、迂闊なのではない。楽山は、能力的にも、議論や話し合いのできる人ではなく、人格欠損による無責任であり、都合の悪い他者を平気で無視して、作為的に、賛同者だけを選んで、世辞を言います。いかなる反対意見にも、全く答えることの出来ない人です。
 
 
・関心…人は自分に対する批判には敏感なものだ。だから批判があればどんなものかと興味を持ち、つい見てしまうし、反論してしまうこともある。でもあんまり下らぬ批判ばかりが続くなら、じきにバカバカしくなっていちいち確認することもなくなるだろう。楽山日記には愛読者ならぬ、嫌読者もいるようだけども、自分は嫌読者が何を書いているかいちいち見に行くほどの興味関心はない。
 
「批判があればどんなものかと興味を持ち、つい見てしまうし、反論してしまうこともある」・・楽山には出来ていません。嘘と詭弁だけを返してきました。批判に興味もなく、反論も出来ないでいて、言説の皮だけを、まともに見せかけようとしても無駄なのです。
 
「あんまり下らぬ批判ばかりが続くなら、じきにバカバカしくなっていちいち確認することもなくなるだろう」・・これが、楽山の、怒気であります。「下らぬ批判」は、楽山の判断基準に過ぎません。感情的な表現ですが、楽山は、内心、怒り狂って吠えているのです。発言が何時も無意味な楽山です。
 
これが、楽山の心を満たしています。日頃、隠していることが、批判されることによって、表れてきます。楽山は、言論と交流において失格の、病的ナルシストです。丁寧語が通用しなくなって、楽山がキレるとき、どうなるかを思うと、恐怖です。
 
結論だけで、根拠が全く示されていない、という特徴を見逃さないでください。これが、楽山の、無視の、実体であります。悪口や罵詈雑言を、論者風味の学術用語や、インテリ風味の引用で飾って、見た目、柔和を装う楽山の記事が出来ています。
 
つまり、楽山は、自分以外に「興味関心はない」のです。また、興味や関心で議論が成り立っているという楽山の曲解でもあります。ということは、自己中の楽山と、議論をしている、交流している、などと思うのは、勘違いです。何も進行しておらず、ただ、疲労だけが積み重なります。
 
楽山にとって、他者は、利用して自分を飾るための対象でしかないのです。それが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。ほぼ、不治の病です。関わらないようにすることだけが、自己防衛になります。どうか自衛してください。
 
 
・わけあり…通常の感性を持っていれば、大川隆法は神だとか、霊言は真実だとか信じることはできないだろう。いまだに信者を続けているということは、それ相応の理由があるのだろう。たとえば、「持病があって苦しんでいたが、信者になってから体調がよくなった。信仰に疑問はあるけれども、退会したら体調が悪くなるかもしれないし、止めることはできない」「夫婦で信者になったが、つれ合いは熱心信者のまま亡くなった。自分は疑問を持っているが、さきに亡くなったつれ合いのことを考えると棄教できない」「二世信者で生まれた時からずっと信じて来たので、おかしいとは思いつつも、すべては嘘だったとはどうしても受け入れ難い」など。自分はこういう人たちと議論し、退会を説得したいとは思わない。
 
思いやりのある自分をアピールするための芝居です。ここでは、意見の違う人を、やすやすと無視してきた履歴が、楽山を否定します。楽山に、思いやりの欠片(かけら)もありません。もっともらしいことを書いてきますが、楽山には、共感という高等感情はないと判断しています。
 
楽山は、高等感情の鈍麻によって、共感や感動も得ることはないでしょう。楽山の筆致に、概念的、通念的、そして、無味乾燥の粉みたいな感覚を覚え、生き生きとした活性を感じないのは、そのためだと思います。盲目と混乱と疲労と鈍麻をばらまくだけの、浴びてはいけない有害言質です。
 
 
・弱味…ブログ村騒動のときの信者らを見ていたら、アンチによる大川隆法批判はほぼスルーしていたのに、自分が批判対象にされたときには、わあわあ騒いでいた。自分はこれはみっともないことだと思ったので、不当に貶められている他者を庇うことはしても、自分に対する批判はスルーを基本にした。
 
自分が批判されたら、反論か弁明をするべきであり、スルーを基本にしてはいけません。スルーは無視することであり、楽山のような無反省で無責任な者の特徴です。楽山は、元々、議論する気はなく、自己満足の快感を得たいだけの病質者です。
 
他者の意見を「わあわあ騒いでいた」くらいにしか見ていないことを、楽山自身が証言しています。何を根拠に「わあわあ騒いでいた」のかを書けない楽山こそ、このような記事で、いたずらに、内心わあわあ騒いで、スルーを決めこんできたのです。楽山は、人の意見も気持ちも分からない人です。
 
 
そういうわけで、ずっと前は自分の意見が誤解、誤読されていると思えば、「それはちがう」とすぐに喰いついたりもしたけれども、今は誤解、誤読による批判があったとしても放置することが多くなった。
 
無責任な男です。むしろ、誤読し、曲解しているのは、楽山のほうに頻繁に見られます。聖書がそうです。キリスト教思想がそうです。楽山は、基本的な理解力がないのです。無視・放置・スルーをするなら、それだけ、自己中を自分で証明することになります。
 
楽山には、人間らしい理路と共感性がないのです。だから、人間としての節操や弁えが育たず、平気で書いて、平気で人を無視して、かつ、この記事のように、ネチネチと詭弁を垂れ流すことが出来るし、今のような事態を迎えても、書き続けることが出来るのです。
 
楽山は、自己愛が勝ってしまうので、無反省、無遠慮、訂正不能が、ベースとなり、関わる人は、疲労するだけです。楽山は、無益で粘着性の、この記事のように、執拗な自己正当化の詭弁によって、だまされる賛同者・犠牲者だけでなく、誰にとっても、有害な他罰的人格となっているのです。
 
 
大体、スルーの理由についてはこんな感じだ。
これに対しても、文句を言う人もいるだろうけれども、こちらは上にある漱石の田山花袋に対する対応を見習って、いちいち批判者のブログに出張したり、反論したりするつもりはない。侮辱するつもりはないけれども、一部例外を除いて大概の信者さんの話は総裁の受け売りばかりなので、さほどの興味は持てないのだ。
でもどうしても批判を読め、議論に応じろというのであれば、当ブログのコメ欄にでも書いてくれればよい。その場合は一応全部読むくらいのことはするつもりではある。以上。
 
楽山が、必要性によってではなく、興味本位で書いていることが分かると思います。つまり、自分がリードして面白ければ書き、面白くないと、スルー=無視して、保身するのです。本質的に自己中であり、それは、楽山の病質によるものなのです。
 
こんな感じでスルーしていたのだから、真実の追求など出来るわけもなく、我執の追求だけをしている楽山だと分かるでしょう。でなければ、この記事のように、成り立たないことを、ぐずぐず、ねちねちとクレームにして書くのではなく、黙っておればよいのです。
 
訂正不能の結論と感情を、わめいているだけで、スルー・無視の、理由・根拠になっていません。楽山は、読書も同様で、全部読むと言っても、字面に目を通すだけで、理解してはいないと思います。「心の理論」「奇跡」について、救いがたい曲解をしています。
 
「一応全部読むくらいのことはするつもり」・・「一応」「くらいの」?・・楽山の言の端々に出てくる高慢ですが、真摯に読むこととは、真逆の見方が表れています。このような楽山に、軽く扱われたり、あしらわれる人になってはいけません。
 
楽山は、正常人とは、見えてる世界が全然違うのかもしれません。完全な自己中心世界なのでしょう。霊が分かるっぽい、と言ってたから、妖怪か幽霊かファンタジーでも見ているのでしょうか。ですから、決して、楽山ブログに、コメントなど書いてはいけません。
 
「一応全部読む」ことなど、楽山には出来ません。楽山には、ふつうの読解力もありません。自分にとって好都合か不都合かを見ているだけです。楽山は、好都合なら世辞を言って利用するだけで、不都合ならクレームのような当てつけを繰り返して疲労させ、無視して去るのを待つのです。
 
 
楽山は、目の悪いナルキッソスなのでしょう。とても醜い自分を、水面ではなく、歪んだ鏡を見ながら、うつくしい!と、うっとりして、水仙の咲いている泉に、ではなく、昔のポットン便所から落ちて、糞まみれになって、気づかないでいるようなものだと思います。
 
それで、なおも、自分を、美しくなければならないという強迫観念でもって、様々な嘘と詭弁の気取りだけで飾ってきたのでしょう。その害は、測りしれません。自分の失敗に、他者を巻き込むことに、他者のせいにすることに、何のためらいもなく、遠慮もない、一種のサディストなのです。
 
今まで3年以上見てきて書いた批判記事の数だけ、楽山は、全部、間違っていると、私は主張しているわけです。こういうことが起こるのは、今のところ、楽山とシャロームだけなのです。ふつうは、何かしら、良いところが人間にはあるのですが、二人には皆無なのです。
 
社交ではなく、真剣な議論や交流は、興味を持つとか持てないとかの話ではないのです。不都合を、何でもかんでも、無視できるというのは、尋常ではない、常人ではない、常軌を逸している、体質的病人だということです。
 
正体を知れば、いままでの、楽山の、霊が分かるっぽい、霊能者気取りと、学者・評論家気取りは、目を覆わんばかりの著しい妄想的曲解でした。楽山が、そういう自説を、そして、そこで生まれた自身の高慢と誤った自信を、根底から否定し修正しない限り、楽山に対する批判は、止むことがないのです。
 
楽山は、過剰な自己愛による自分信仰カルトです。本名は分からないし、名前を変えてHN使えば、何でも言えると高を括っているのです。そういえば、楽山は、私が本名を出していることを、自己顕示欲だと言ってきたことがあります。私は、修正可能なので、文責を明確にしているだけです。
 
念のために言っておきますが、楽山にだまされる人はいても、楽山の発言によってこちらが修正するべきところは、未だ、一つも見つかっていません。楽山が何も受け取らないで、考えないで、思い込みだけを言ってくる人だからです。
 
本名を出さず、責任を明確にしないうえに、嘘と詭弁ですから、楽山に、思想を、宗教を、カルトさえをも、批判する資格はありません。楽山に近づくのは、怪しい薬局で、わざわざ副作用だけを買うようなものです。楽山には、薬効のような作用も成分もありません。
 
楽山の言は、楽山だけが、楽になるためです。既に、自己愛性パーソナリティ障害NPDの資料になっています。粉末性の放屁を放つインテリ気取りの楽山が、何を書いても、理路の破綻も、詭弁も、詭弁臭さも、表れてきます。どうか、一言も、吸い込まないようにしてください。
 
もう一度、書いておきます。私は、途方もない病的な疲労を与えるだけの楽山と議論をする気は全くありません。デタラメな記事を書くのをやめなさいと言っています。真実を追求してゆくような大きなテーマについては、言論の責任を負わない者に、言論の自由はないのです。
 
 
叩けば有毒のホコリが出る

叩けば有毒のホコリが出る
 
 
(2020年)
(2021年) 
(2022年08月17日、再録+加筆)
 
 
 
   夏の終わり
 
陽射しにからんで
山に吸い込まれる風
風に乗る草
気配のように
乱れて舞う
 
家並みは遠く
乾いた玩具のよう
太陽と山の間で
熱が行き交う午後
 
だるい恐れに疲れて
慈愛の錯覚に落ちても
夢の善し悪しを問わず
旅人の来歴を問わず
 
草原に連なる山の間に
止まったオートバイの横で
小さな墓穴のように
くぼんでゆく命と眠り
やがて黒い点となって
遠景の中に消える
 
小さい光 一瞬きらめいた
オートバイを残して
熱は輝く
あらゆる夏の終わりに
 
 
 
また、楽山は、無責任に、引用だけの記事を書いて、空しい印象操作をしています。
 
 「ブログ村騒動」発言集(悪魔呼ばわり論争)
 2021年08月09日 幸福の科学とは何だろう?
 (記事引用省略)
 
 
「悪魔呼ばわり論争」だそうです。映画などに表される超常の悪魔について、私は知りません。しかしながら、悪意だけ、嘘と詭弁だけ、だまそうとする意思、無反省、無責任、という、人間の悪を集めたような精神をもって言動している者は知っています。楽山であります。
 
悪魔性と書いたことはあります。悪魔と書いたかもしれません。これは、明らかに、人間のすることとは思えない場合です。人間なら出来ないようなことを、楽山は、平気で、しかも長期にわたって、してきました。それが体質だから治らないのかもしれません。弁明できない楽山です。
 
楽山は、私の批判記事においても、さんざんに批判されていますが、それを、完全に無視して、総ての罪を、他者、特に批判者のせいにして、平気で書き続けています。そのようなことは、人間ならばできないはずだと判断し、楽山を、悪魔性と呼んでいます。間違ってはいないと思います。
 
したがって、この記事は、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山の、嫌がらせと言ってもいいでしょう。その証拠に、楽山は、自分の意見を、全く説明できないのです。ただ、憑りつかれたように、悪魔呼ばわりされていることを、不当だと、無根拠に、婉曲的に、言い続けているのです。
 
私は、楽山の非道について書いてきました。楽山は、嫌がらせ以外、何も返したことはありません。この記事もそうです。この人にだけは、誰も関わらないようにしてほしいです。楽山が執拗に、引用という、ぼかした手口で書いてくるのに対して、私は批判記事を書き続けています。
 
もはや、だいたいにおいて、同じような返しをすることしかできない質の低い楽山ブログです。思想を考察して磨くことをしない者は、結局、同じような無責任発言を繰り返すことになります。引用だけで、"悪魔呼ばわり" を書くのも、今までと同じ、悪魔性の、糞尿性なのです。
 
 
 
  悪魔の臨終

軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
 (抜粋のいくつか)
 
 
悪魔はイエス様の生誕を知っていて
神様に勝てないことを知っていて
少しずつ居場所が減っていくものだから
残った隙間に上手に入っていこうとするんだ
 
それは子供の靴下よりも
大人の袋や箱よりも恐いもの
悪意や誘惑のプレゼントを配っては
心の中にキーンキーン
キーンキーンと響きを忍ばせて隠しておくんだ
見えない足跡を残しておくんだ
 
 
怒りと災いがふりかかる中
乳と蜜は悪しき誘惑
絆を求める声は心のうちに叫ぶ
私が頼りにするものはどこにあるのか
私をとどめる絆はどこにあるのか
ただ肉体が生き
命は物と金で商われるだけなのか
ただ肉体が死に
死は物と金で商われるだけなのか
そのときどれだけの者が答えられるだろう
いつか人はおびただしい人々の中で
独りで荒野に立っている自らの姿に気づくかもしれない
乳と蜜、緑と川と水、国と民と人々、人間
悪魔は誘惑を用意してほくそえみ
神はそれらすべてを見ておられる
 
 
真実を祈り求めることと、奇跡を探して見つけようとすることとは違う。後者はすでに神のわざが人間の目の届くところに人間の手の届くところに人間の知恵の及ぶところにあるという思い上がりである。さらにそれを見たあるいは得たと思い込むことは、かえって目に見えない奇跡をそこなうことになるであろう。そしてそのようなところに悪魔は好んで隠れ住もうとするのである。
 
魔術を捨てよ。超常を知ったと思ってはならない。悪魔に住みかを与えてはならない。神秘の力から離れよ。聖なる答えを探してはならない。聖なる答えを口にしてはならない。聖なるものを自らに擬するのをやめよ。それらは神の持ち物である。人間は生きている限りどこまでいってもどれだけ修道しても人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが人間の誇り、キリスト者の誇りである。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の言は、今まで、ずっと、他者の言葉か、通念か、偏見か、安い先入観か、芝居、思いつき、嘘、詭弁に過ぎませんでした。体質的な悪意は、悪魔性かもしれません。思いやりと共感の欠如、反省と責任感の欠如は、性格だから・・では、済まないのです。
 
 
 
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