ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年10月

 
  反面の偽善者3
 
 
洗礼だけなら信仰ではない。
儀式の過去は信仰を保証しない。
 
善の意識だけなら信仰ではない。
できるだけ、では、安い道徳に過ぎない。
 
全能の神聖に向かって
守っていますなんて通用しない。
 
人に対して
ほどほど善い人になるのが信仰ではない。
 
それは信仰の目的でもない。
それは信仰の達成でもない。
 
信仰は道徳ではない。
信仰は戒律でもない。
信仰は保険でもない。
 
信仰の義は
知っていることではない。
分かっていることではない。
守っていることではない。
それらは神の前で
人間には成り立たない。 
 
 
そこを外せば信仰ではなく
そこを弁えれば信仰となるのは
 
神聖に対する正直さだけだ。
神聖に対してだけはは正直しか通用しない。
それだけでよいゆえに万人の救いとなる。
 
 
神聖の前で嘘を吐いてはいけません。すべて見抜かれているのだから。
神聖を恐れるなら、キリストを愛するなら、人に弁えられるのは、御前での正直さだけです。
 
神聖なるわざを整えるのは神の仕事。評価するのは神の仕事。裁くのは神の仕事。
 
 
人の善などはことごとく神の前では成立しない。なぜ自分で体裁を整えようとするのだろう。それは神の仕事です。だから人が、神に対して捧げられるのは、善ではない。
 
※ できるだけ頑張っているのだけど・・通用するのかなあ・・などとあいまいな考えで、神を侮るものになってはいけません。こういうのは、反キリストの偽善者のすること。
 
私たち人間は、神の前に捧げられるような、いかなる善も持ち合わせてはいない。人に出来て、神の御前に出せるもの、正直以外に何があろう。罪を犯しても、神の前に正直であるなら赦される。
 
人に善人と言われ、熱心な信仰者と言われても、神の前に飾る祈りは聞かれない。神に対して偽る祈りは退けられる。神を偽りの讃美で包む者は、偽りの赦しに包まれている。
 
人は騙せても、神は騙せない。既に総て見抜かれているからだ。ゆえに、信じるに値する。
 
正直な祈りだけが赦され救われるための唯一の条件である。
 
背いた者が、主のもとに戻る道もそこにあり、そこにしかしかない。神に対して、人の道徳など通用しない。いかなる功績も、自慢も、誇りも、通用しない。神の前に、人の道徳など成立しない。
 
神が総てを見抜かれる有り様を、人は地上で知り得ない。だから正直以外の捧げものはないのである。
 
 
  反面の者
 
神の啓示と聖霊の導きが根拠ですから
議論の対象になりませんね・・などと言う者がいる。
 
ああでもない、こうでもない、ていうか
それが信仰というものなのかなあ・・などと言う者がいる。
 
説明も解説も弁明も反論も反省もできない者たちだ。
代わりに社交の世辞や曖昧な言い方をしてくるだろう。
 
ずっと神聖に向かって
立小便をしている者たちだ。
真実を排泄物に変えてゆくく者たちだ。
 
こうなってはいけない
というモデルとなるために生まれたのだろうか。
 
罪の門口に行って
やがて来たるものを待つためだろうか。
 
反面教師、即ち、悪い見本がいて、しきりに教えたがる。
 
 
御心は測りがたいが、偽善者の謀ることは御心ではない。神の前では総てが明らかにされ、反省しなかった者には弁明の余地はない。
 
私たち信仰者にも、御心は測りがたいが、折に触れて反省はいくらでもできるのが、神の賜物である。
 
信仰者は正直な告白と悔い改め。
 
偽善者は虚偽と詭弁と不感不応。
 
 
神の啓示と聖霊の導きについては、人は、これがそうだとは言う能力も資格もない。
 
 
神の啓示と聖霊の導きを根拠にする者は
感じることと考えることを怠っているのであり、
既に信仰者ではない。
 
幼稚で滑稽な詭弁を
さも重要であるかのように
言葉の組み合わせだけ振り回す偽善者は
滅びを自覚できない。
 
彼らは
自覚しないまま
人間としての能力全般が鈍くなり壊れてゆくのを
平安と呼び、恵みと呼び、信仰と呼んでいる。
彼らの褒め合い笑い合うに任せるしかない。
 
信仰者は
信仰にとって破壊者となる偽善者に近づいてはいけない。
彼らは見え透いた冗談のように虚しい。
 
偽善者を知ることは、ある意味、重要である。
その対極に信仰があるからだ。
 
 
信仰者は、神聖を根拠にはできないことを知っている者です。神の啓示と聖霊の導きについて、不完全な罪深い人間は、これがそうだとは言えない存在だということを知るのが信仰であります。
信仰者は、神聖に対して、神聖の真理を知らなくても、救いの希望として、信じ仰ぎ祈るのです。
 
精いっぱいの人知をもって判断し行動する。そして精いっぱいの正直さで神に捧げる。そういう祈りだけが信仰生活を支えてゆくのです。できることを精いっぱいする、知らないことは知らないと言う、それが、キリスト信仰者です。
 
それを超えることは神に任せられるべきことであり、
人は、神を恐れるならば、神の領分について多くを語れると思ってはいけない。
 
 
偽善の色

偽善の色
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年10月31日、再録+加筆)
 
 
 
  いい
 
いい
もういい
まあいい
いいんだこれで
いい加減の
いい?
思い切れぬまま
何かを受け容れ
何かを得て
何かを失い
何かを切り捨てる
それはいい
とは違う
分別され過ぎた
いい
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
----------------------------
※ 「果(はか)」は、
「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
  祈り・エレジー
 
捧げまつるひとつの哀歌
紡いでは千切れ
織っては破れ
綴っては綻(ほころ)びる
 
狂おしげに病める韻律
あまりに私(わたくし)に過ぎた形
が私を拒み形を拒む
 
他には何も編めませんでしたと
細い手に乗せて差し上げ
一日の糧(かて)を求めてはなりませんか
 
あなた様だけには物乞いをしたいのです
すすんで切に切に求めたいのです
糧がもはや不要と尽きるまで
事切れるその日までは
私には肉体があります
だから肉欲のように祈り求めます
 
 
 
楽山日記、誰なのか分からないコメント。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  自分を見ない楽山
 
 大川隆法の人間観(『メシアの法』)
 2022年10月29日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
 
また、楽山は、何も表現も説明も出来ないのに、しまりのない文章を書いてきました。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、いかに有害であるか、楽山自身が表さないと気が済まないようです。自分を見ない楽山、良心が育っていないゆえの醜態です。
 
 
*大川隆法の人間観
 『メシアの法』の中で、大川隆法総裁は、人間は自己中であって、非常に貪欲なものだとしていた。
 動物的生存と言いましたけれども、私もよく「自己中、自己中心的になるな」という教えは説いているのです。なぜかというと、「自己中である」ということは、動物でも人間でも、自然体でなれることだからです。この世に生まれ落ちて育ったら、どうしてもそうなるのです。食べ物は手に入れたいし、それから自分の命は惜しいし、自分が死ぬぐらいなら、ほかの人に死んでほしいと思うし、食べ物が二人に一つしかないなら、自分のものにしたいと思うし、家も欲しいし、職業も欲しいし、いろいろなものが欲しいわけです。
 これは、当たり前としては当たり前のことなのですが、本能的に必ずそうなります。動物的なものからの延長上でも、そうなってはきます。 
(『メシアの法』大川隆法著、幸福の科学出版、2022年、p.271)
 」
前述したように、自己中になることは誰にでもできます。生まれつき、なれるのです。昆虫も動物もみんな自己中です。自分中心に餌を取り、自分中心に死を免れることばかり考えています。
人間だってそうです。みんな、基本的には、自己中に判断するようになっています。
(同上、p.318)
 」
こうしてみると、大川隆法総裁は性悪説を支持する立場のようだ。
 
性悪説にかこつけて、楽山は、自らの自己中の言い訳に、ORの言を引用しています。ここまで汚い人だと、自ら、悪意の詭弁をを新たにしています。自分を大事にすることと、自己中病質は違います。自分を大事にする人は他人を疎かにはしません。それが自分のためになると分かっているからです。
 
楽山は、後者の典型的な自己中病質です。人を、人とも思わず、詭弁の迷路で混乱させ、騙して、うまくいくと満悦する人格破綻者です。楽山は、説得も聞いているふりだけで、世辞を返すのが精いっぱいの、無理解脳なのです。自分の狭い視野を絶対としてしまうと、こうなるという例です。
 
 
*性悪説と信仰
ちなみに、信仰の必要性について、性悪説の立場から説くと、このようになるだろう。
「人は自己中心的で、利害損得にこだわるものだ。したがって人に善を選ばせるには、善いことをしたら天国、悪いことをしたら地獄というアメとムチが必要になる」云々。
 
楽山と話し合うのは止めましょう。宗教を、性悪説や、アメとムチで、語ろうとすれば、道徳のようなものにはなりますが、信仰にはなりません。悪意も善意もあるのが大半の人間です。楽山のようなサディストだけが、悪意しか持っておらず、その自覚もないのです。
 
 
*性善説と信仰
 一方、信仰に性善説を絡めて話すとこうなるだろう。
 「人の本質は善であるから、自由な環境では、ごく自然に善を指向することになる。したがって人が善を選ぶには、自由があればいいのであって、アメとムチ(天国と地獄)は必要ない」
 
楽山の空論です。本質が善ということを、善を希望するのではなく、極端な意味でしか語れません。楽山は、自己中の自分勝手を、自由だと妄想的に勘違いしています。楽山に「自由があれば」・・だから、今の楽山のようになってしまっています。
 
 
*HSの立場
 HS教義では、人は神の子(仏の子)であるとして、性善説の立場に立っているのではあるが、大川隆法は上のように人は自己中なものだとしていること、「人は信仰がなければ…天国地獄を信じていなければ…悪に流れる」という旨の発言を繰り返していること等からすると、性善説は建前で、本音は性悪説を支持しているということなのだろう。
 
楽山は、自己中の、殆ど欲望的低次元なので、性善説、性悪説、という理屈の辻褄合わせで語りますが、良心を持つ人間は、もっと複雑です。そういう幅を持った話が、何も出来ずに、こっちなら云々、そっちなら云々と、決めつけを語って言い得たと思ってしまうのが、貧相な病的ナルシストの楽山です。
 
 
*疑問解決
「HSは人は神の子だとして性善説の立場に立ちながら、人は天国地獄を信じないと悪に流れるとしているのは矛盾している」と長らく疑問だったのだが、とりあえずこれで疑問解決である。
 
楽山の疑問は、解決不能です。楽山には自覚がまるで無いからです。楽山は、いったい何を解決した気分なのでしょう。楽山自身が狂った軸から、疑問解決などと、言うこと自体が、全て自己愛性人格障害の症状なのです。書けば書くほど、明らかになってきたし、そうなってゆくでしょう。
 
 
*利他的利己
最後に自分の考えを述べておくと、私は、人にしろ、動物にしろ、すべて自己中心的だと決めつけることはできないと思っている。たとえば、捕食動物から雛を守るために自らがオトリになる親鳥、スズメバチを退治するために自らが犠牲になることもいとわないミツバチ、群れの仲間を轢き殺した車に向けて、いっせいに石を投げたサルたち、大飢饉の際に自らの肉を子に与える親、家族の重荷にならないために自死する病者…動物にしろ、人間にしろ、このような利他的行動の例は多々ある。
 
楽山は、人間を考えるのに、動物を挙げて、利他的行動の例としています。楽山自身を例にしたらどうでしょう、楽山は語れない、語らない、利他的なところがないからです。楽山には、それこそ、動物の本能のような自己中の防衛反応しかないのかもしれない・・言動のパターンは一致します。
 
 
見方によっては、これらについて、すべて本能による行動にすぎないとか、その動機の中に利己心が皆無ではないとはいえない等と言うこともできなくはないが、それでもそれらの行動自体の利他性は否定できないだろう。
 
動物の利他性を語っておきながら、反論を恐れたのか、本能について、そう「言うこともできなくはない」と言いながら、「それでもそれらの行動自体の利他性は否定できないだろう」と話を戻してしまう乱れ方です。理路というより、駄々のような言い張りです。楽山には、こういうのが多々あるでしょう。
 
 
そういうわけで私は、人は総裁が言うほどには自己中ではないと思うし、総裁はよくもそこまで人の善性を信じないことができるものだなと不思議に感じる次第である。
 
楽山が、強烈な自己中だということです。しかも、その言い訳に、ORを持ち出し、動物を持ち出し、ボンヤリ言語で、結局、不思議と言って終わりなのです。何も語っていないより、理路に見せかけている分、悪質です。これは、楽山の常態であります。
 
 
◇◆ 追記 2022.10.29 ◆◇
*もう一つ
『秘密の法』にも、総裁の人間観が語られている箇所があったので、こちらも保存しておきたい。
やはり、どのような人にも、心のなかに利害関係というか、損得勘定があるので、修行をしていること、仏法真理の勉強をしていること、あるいは、学業や真理のために打ち込んでいることが、相手の利害と一致しているときはうまくいくと思います。ただ、それが一致しなくなることもあるでしょう。そういうときに大きく崩れてくることはあります。
(『秘密の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2021年、p.184)
今まで自分を応援してくれていたような人が急に手のひらを返したようになるというのは本当に残念なことですが、「自分は純粋な信仰者だ」と思っているような人であっても、欲を持っているのです。
(同上、p.187)
 」
総裁は以上のように述べつつ、その実例として、HSの立ち上げの時には大きな貢献をしたが、その後、離れていった人物のことを話している。この人物はHSの中心にいたときは張り切っていたものの、教団が発展し、新しい会員が増えるにつれて、自身の地位と影響力が低下してくると、名誉欲などを満たせなくなり、そのために去って行ったのだろうと…。
私から見ると、その人物は「総裁は真理に背き、道から外れた。損得勘定からすれば、それでも総裁から離れない方がいいかもしれないが、自分にはそれはできない。自分は真理にのみ従う」と考えて去ったのではないかと思うのだが、総裁はあくまで自分は正しいと考えているので、去る人がいれば、その人は真理に従うより、己の欲望に流されたという結論になるのだろう。
 
またボンヤリ言語でありながら、自分の意見のために、他者を決めつけています。「真理のみに従う」「と考えて去ったのではないかと思う」と「欲望に流されたという結論」とを併記して、火の粉を避けたつもりで、醜い自己正当化になっています。そうして、後では、忘れてしまうのです。
 
 
総裁は、性善説を説く宗教家にしては、ずいぶんと殺伐とした人間観を語っていることに違和感があったのだが、要は、総裁は自分は絶対に正しいと考えているので、自分に従わない人たちに対する見方が厳しくならざるをえないということかもしれない。「私は正しいことをしている。それなのに信じてついて来ないのは、彼らが善悪を知らず、欲にまみれているからだ」という風に。
 
「自分に従わない人たちに対する見方が」最悪なのが「自分は絶対に正しいと考えている」楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDからの無反省によるものでしょう。善悪を、自分の幼稚な知識と、曲解と、妄想と、決めつけないためのボンヤリ言語で、決めつけてくる、という惨事に至っています。
 
 
結局、人に優しく、温和な人間観を持とうとするなら、自分は絶対に正しいという思い上がりは捨てて、謙虚になることが大切だということなんだろう。実際、謙虚な人は、人に優しく、温和な人生観を持っていて、傲慢な人は人に厳しく、荒んだ人間観を持っていることが多いのも、これが理由かもしれない。
 
「自分は絶対に正しいという思い上がり」を一番持っているのが楽山です。決めつけていないとでも言いたいのでしょうが、語尾をやわらげても、いっしょなのです。「人に優しく、温和な人生観を持って」いると見せかけてくるのが、楽山です。訂正不能の「荒んだ人間観を持っている」からです。
 
 
 
 『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤著
 2022年10月29日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
*概略
「はじめに」によると、本書は、名言集としてまとめられ、好評を得た小冊子『天籟の妙音』に新たな内容を加えたものであるという。
目次を見ると、安岡正篤の言葉は、以下のテーマ別に整理されている。自己修養、人生の知恵、日々の心得、「人望」という財産、成功する人、心と体の養生、人間の品格、学び続ける人生…と。
 
言葉だけ拾って、並べるのが、楽山の読後感想でしょうか。それで、読者家なんだと思ってもらいたいのでしょうか。読書家気取りだけで、言葉だけ引用して並べて、理解したかのように思わせる誘導でしょう。こういうのは、読書とは言えません。自己愛性人格障害の壊れた自慢に過ぎません。
 
 
*熏習
名言集であれば気が向いた時にでも、つまみ読みしたらいいだろうという軽い気分でいたのだが、本書を開いてみると、膝を打ちたくなったり、思わす背筋を伸ばしたくなるような言葉が並んでいた。
心に書き写したいと感じた言葉のいくつかを、ここにメモしておきたい。
我々は、何のために学ぶのか。何のためでもない。学ばなければならないから学ぶのだ。学ばずにはいられないから学ぶのだ。学問の第一義は、道心の長養でなければならぬ、道徳の発揮でなければならぬ。
(『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤著、三笠書房、2007年、p.202)
 」
我々は学んで初めてその足らざるを知り、教えて初めて到らざるを知る。そこで自ら反り、強めるのだ。
(同上、p.196)
 」
中国の最も突きつめた哲学では、人間の意識の内にあるようでは駄目で、いわゆる無意識、無でなければならん。人にほめられるようではまだまだ駄目で、人が気付かないくらい偉くならなければいかん。こういうのが理想なのだ。
(同上、p.165)
 」
何でもこつこつ根気よく努力を続けてゆくと、たとえ愚でも、それはそれなりに味が出てくるもので、俄造りはどんなに器用に見えても、必ず駄目になるものだ。
(同上、p.25)
 」
自分にとって、本書の言葉は自らの至らなさを思い知らせつつも、もっと頑張ろうという前向きな気持ちにさせてくれる本である。これなら多くの人々が本書の刊行を希望したというのも納得である。
 
「頑張ろう」「納得である」「膝を打ちたくなった」「思わす背筋を伸ばしたくなる」という褒め言葉だけの感想文というのも珍しいです。中身がありません。これで感想が終わりです。いつも、そういう具合で、はっとさせる洞察や、その切っ掛けさえも皆無です。
 
楽山が、何を書き足しても、思いつきの雑言だけだから、いっしょなのでしょうが、無駄を省くために、書かない、まだ書けない、・・という自覚と選択がないのが、楽山です。そこが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)なのでしょうが、悪意の偽善者に見えます。
 
それで、インテリ・読書家・学者・評論家・批評家などを気取るのだから、傍迷惑です。一日も早く、ブログの読者を騙すのをやめてほしいです。ボンヤリ楽山が、褒められる日は来ません。また、楽山が、何やら宗教~カルトの、教祖になる日も来ません。
 
何もはっきり書かないことは、柔和でも中立でもありません。その時の定まった意見がないのならば、書かないことです。揶揄するだけの意見など書いてはいけません。書けば書くほど、いい加減さだけが、印象としても、評価としても、積み重なってゆくだけです。
 
 
楽山の成りすましか仲間の、シャロームshalom は、しばしば韓国の教会だけを引用していました。在日なのかもしれません。楽山も在日でしょうか。私は、特に嫌韓ではありませんが、人によるわけです。楽山はネトウヨで、A級戦犯を褒めていました。ネトウヨは在日・・という意見もネットにはありました。
 
 
何もない 裸の王様 嘘吐き

何もない 嘘吐き 裸の王様
 
 
(2022年10月30日)
 
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山とは、前に、数か月コメントの遣り取りをしたことがあります。何を言われても無視して、殆ど、こちらの理路を受け取らず、言いがかりだけを返してきました。混乱し、疲労しました。以後、楽山を批判して、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと判断しています。
 
 
 
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  不明瞭な楽山
 
 『メシアの法』大川隆法著
 2022年10月27日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
 
楽山は、短くて、いい加減な記事ばかり書いていると思ったら、今度は、長くて、いい加減な記事を書いてきました。楽山は、アンチHSという立場のはずですが、批判の根拠よりも、思いついたことを安易に書いていて、HS批判なのか解説なのか、分かりにくくて、焦点が定まりません。
 
楽山はHSを批判しているようですが、私は、楽山を批判しています。楽山は批判者としての資格がないからです。楽山は、嘘と詭弁、無根拠の妄想と決めつけ、曖昧な語尾や、混乱を招くだけの捏造した偽論理遊びなどで、読む人を煙に巻き、混乱させるだけの病原です。
 
「メモして」おくのは自由ですが、楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、それを、いちいち公開して、インテリを気取ります。例えば「メモしておきたい」という軽薄な乗りでキリスト教を否定的に弄(いじ)られては、たまったものではありません。
 
定まった見解を持てず、書いた責任を負えない楽山の病質が、秋を迎えて、また、枯れ葉の季節です。楽山は、どうしても批評家を気取りたいらしく、今回は、HS・OR批判を書いているつもりです。そして、アンチHSとしては疑問だらけの文章で、語尾を濁して、書いて、また、忘れるのでしょう。
 
 
*読書メモ
『メシアの法』を通読したので、特に興味をひかれた箇所について感想をメモしておきたい。
*暫定的な教え
まず本書の「まえがき」には次のように綴られていた。
まだ私自身が、最終目的地まで到達していないので、事実問題としては、中途報告的なものはあるであろう。
〈省略〉
これが大川隆法が満六十五歳で語った「メシアの法」(救世主の法)である。
(『メシアの法』大川隆法著、幸福の科学出版、2022年、p.1)
 」
以前から総裁は自分で自分の言葉を否定することがよくあるのだが、ここでは総裁自ら、自分はいまだ解脱できておらず、その言葉は永遠不変の真理ではなく、現時点での考えにすぎないことを認める発言をしているのはおかしい。
おそらく本人はそのような告白をしたつもりはないのだろうけど、結果的にそのように受け取られる発言をしてしまっているのだから仕方がない。これは、いかにも総裁らしい失敗だと思う。
 
楽山は、一度も「自分の言葉を否定すること」がありません。妄想的に無反省で訂正不能ですが、とても乱雑な思考で、一定した見解を持ち得ず、否定も肯定もせず、思いついたことだけを書いているのでしょう。そして、忘れてゆくのです。だから、責任など、最初から負う気はないのです。
 
 
*言うべきことは言う
従順であることは日本国民の美徳ではあるけれども、「おかしい」と思ったら、言うべきことは言わなければいけないと思います。
(同上、p.45)
 」
これは自分にも理解できるし、賛成もできる。意見を述べるには、時と場所、言い方などに注意は必要だろうが、おかしいと思うことについては、「おかしい」と声を上げることは大事なことだ。
明確な意思表示をすると、人から恨まれたり、面倒なことになることが無いではないが、それでも言うべきことは言わねばならないときはあるものだ。
 
「言うべきことは言わねばならないときはある」・・すっかり正義の批判者気取りですが、気取りだけで実質がない楽山を、うっかり受け入れてしまうと、計り知れない害毒を盛られてゆくことになります。果てしない嘘吐きであり、忘却の詭弁屋であります。白々しさが粉を吹いてくるタイプです。
 
楽山については、いつも「おかしい」と思うのです。言うべきことを言っても、全く無視して、不感不応なのが、楽山です。そして、成り立ちもしないような「おかしい」ことを、正義の見方みたいに、言ってくるのも、楽山です。社会とネットに巣食う悪質な塵埃です。
 
楽山は、言うべきでもないことを言う人です。また、言われるべきことを言われて、弁明できず、反省せず、忘れて平気なのも、楽山です。上のような批判をする資格を、楽山に与えるのは、犯罪者を総理大臣にするようなものです。楽山は、ペテン師であり、何も言うべきではない人です。
 
 
*不明瞭
総裁の言葉は、時折、意味が分かり難いことがあるのだが、やっぱり本書にもそういう箇所があった。たとえば、これである。
どうか、幸福の科学が発信する情報のなかで、今行われている政治や経済、あるいはマスコミの仕事のなかに、「間違っている」と思うものがあったら、一石を投じ、意見を言ってください。
やはり、「おかしい」というものには「おかしい」という一言を言っていただきたいと思います。
(同上、p.61)
 」
これは、「幸福の科学の行っている政治経済マスコミ批判は正しいと思うなら、『幸福の科学の言う通りだ。政治経済マスコミはおかしい』と声を上げてください」と同調することを求めているのだろうか。
「幸福の科学の行っている政治経済マスコミ批判は間違っていると思うなら、『幸福の科学の行っている政治経済マスコミ批判は間違っている』とそう言ってくださって結構です」と批判を求めているのだろうか。たぶん、前者なんだろうけれども、どうなんだろう。
 
ごちゃごちゃと、めんどくさいことを、しかも、まわりくどく言うのが、楽山の特徴です。かつ、自分がどう思うかについては、言いません。つまり、雑言専用の口しか持っていないのです。かつ、それを丁寧語で包んで、書いて、いい気になっています。楽山は、時間の無駄を作るだけの男です。
 
 
*宗教と平和
唯物的な科学万能主義を抑止するものがあるとすれば、それは一つには、やはり、「地球全体のことを考える神への信仰を持つ、そういう、民族を超えて国を超えた信仰を持つ勢力が一定の抑止力になる」ということは確実だと思っています。
(同上、p.111)
 」
民族や国を超える宗教といえば、一神教を連想するけれども、一神教は果たして地球全体の平和に貢献できるものだろうか。現状を見る限りにおいては、一神教が対立と騒乱の原因になっていることが少なくないように思えるのだが…。
 
楽山は「一神教を連想」しても、まるで理解していません。言葉だけ、無遠慮の極みで、引用するのです。そして「一神教が対立と騒乱の原因」などと言っています。対立と騒乱を生み出すとすれば、無知がインテリを気取る楽山が典型でしょう。
 
また、楽山は、宗教の悪口を言っています。宗教を悪い例をもって決めつけていることを、指摘し批判しても、やはり、同じことを言い続ける無理解・無反省・無思考・鈍感の楽山であります。楽山は、言うには言うが聞かない、そのくせ、正義の論者だという妄想に駆り立てられて生きています。
 
 
個人的には、世界全体を民族や国を超えると称する宗教の影響下におこうとするよりも、宗教には民族や国を超えさせない、自国、自民族の宗教によって他国、他民族を裁かないという方が、全体の平和と幸福の増進に寄与するのではないかとは思う。
 
国が、他国を、宗教によって裁いているでしょうか。国の対立は、利害が主な原因です。利害が関係なければ他国の宗教など、どの国も、どうでもよいのです。楽山は考え方が幼稚です。楽山は、宗教が他国も何でも裁くから宗教は悪い奴だ、という先入観を刷り込んでくる無知の悪意です。
 
 
*唯物論と個人崇拝
「無信仰である」ということは、「神や仏の目はもう意識しなくていい」ということなので、これは自動的に「地上で権力を持った者が“現人神”になる」という思想です。その人の考え方によらず、「人民からの本当の意味での支持を得ているかどうか」にかかわらず、最大権力を持った者が地上での“神”になるのです。
これは何を意味しているかというと、中国で言えば、「古代の暴君と同じような者が神を名乗れる」ということを意味しているということです。
(同上、p.123)
 」
神仏の存在を否定する唯物論国家では、指導者の銅像を建てて個人崇拝に向かう傾向があるという話は聞いたことがあるが、総裁はこの話を膨らませて語っているのだろうか。
 
人間には心があるのに、唯物論国家というのがあるのでしょうか。精神を持つのは、神仏だけでしょうか。救いがたいほど楽山の理路と言葉は雑です。こういう些細なところにも、オレサマが上という自己愛と自己中の高慢が表れてくるのです。自己愛病質者は一般常識も節操も分別も欠けてゆきます。
 
 
でも私は、唯物論国家における個人崇拝は、新興宗教における教祖崇拝(生き神様信仰)と同じようなものだと考えているので、神を自称する新興宗教の教祖が、唯物論国家の個人崇拝を批判する図は滑稽に思えてならない。
 
神仏なしで宗教なしの国家を、唯物論国家と、平気で言ってしまう楽山こそが、唯物人間です。楽山には真っ当な心がないのです。加えて、正しい理路もありません。それが自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)なのです。
 
そういう無情・唯物の楽山が、お高く留まって「個人崇拝を批判する図は滑稽」だそうです。一日も早く、崇拝されたい教祖願望のインスタント乾麺のような楽山を、決して崇拝することなく、吸うことなく、二度と関われないように、遠くへ排出するべきです。
 
 
天上の神の権威を認めない地上の人(生き神様)と、天上の神の存在を認めない地上の人(独裁者)は、神を畏れず、冒涜しているところは同じであって、どちらか一方が正しく、他方は間違っているということはないだろう。
 
「天上の神の権威を認めない地上の人」こそ、教祖願望の高慢から、神も人も貶めて、誰の批判も受け取らない楽山その人であります。頭も心もおかしいのに、指摘しても、無視・無反応で、平然として、また、書いてくるのです。相手にしないでください。楽山の言は、言論ではなく、症状なのです。
 
 
*共通項
日本の作家では、私と今、霊的に少し交渉があるというか、話をしたり仕事を手伝ってもらったりする作家としては、芥川龍之介や川端康成などもいますが、こうした人たちはシャンバラに出入りしているので、かなり霊的な、精神的なインスピレーションは受けていると思います。
(同上、p.205)
 」
芥川龍之介と川端康成の共通項というと、自死ということが思い浮かぶが、これはHSでは禁忌事項となっているのではあるまいか。
記憶はおぼろげながらも、総裁の見解としては、川端康成については大方の使命は果たした後だったので指導霊から注意があったくらいで済んだとのことだったと思うが、芥川龍之介についてはもう少し厳しい話になっていたのではなかったろうか。
どちらにしても自死した作家の霊たちと頻繁に交流しているというのは、HSの価値観からゆくと筋が通らない感じはする。
 
楽山は、ORの、川端康成や芥川龍之介の "霊" の話に乗っていますね。そして批判しています。つまり、楽山は、自分は、OR以上の霊能者だと言っているのです。こういうところが、根拠のある批判と、無根拠の楽山の、言論における違いなのです。霊能優先?の楽山です。
 
「あるまいか」「なかったろうか」「感じはする」・・以前からの、ボンヤリ言語で、はっきり言えない楽山です。はっきり言って、責任を問われることが怖いのでしょう。ぼかしても、言った責任は、必ず、追いかけてくるのです。そして、いずれ、楽山の、いい加減さを追及するでしょう。
 
 
*嘘はつかない
宗教にも違いはあるのですが、幸福の科学では、「真理は真理で正しいけれども、ある程度、そういう社会的摩擦を避けつつ、正々堂々と広げていく、嘘をつかない」ということです。そういう、騙して入れたり、ダミーを使ってやったりするようなことはしないで、正々堂々の陣でいつもやっているのです。
(同上、pp.302-303)
 」
このくだりを読みつつ、ふと思ったのだけれども、総裁は霊言集の表紙について何らの問題意識も持っていないのだろうか。霊言集の表紙を、まるで本人の著作であるかのような体裁にして売り出すことは、嘘ではなく、騙しでもなく、正々堂々としたやり方であると…。
また香港の活動家の守護霊霊言を、まるで本人が発した言葉のように宣伝したことも、正々堂々とした行為であって、嘘でも騙しでもないと…。
もしそうであれば、総裁と世間一般とでは、嘘、騙し、正々堂々という言葉の意味は多少ちがっているのかもしれないなという気はする。
 
嘘吐きの楽山が、他者の嘘を責めています。「ふと思ったのだけれども」「かもしれないなという気はする」・・ボンヤリ言語で、ごまかしても、無駄なのです。人の嘘を責めれば、同じように、楽山の嘘も責められるでしょう。そのことを無視している楽山の卑怯さが、自身の人格崩壊を早めるでしょう。
 
 
*神学
オックスフォード大学だって、ハーバード大学だって、神学部からできているのです。ですから、神の教えを教える修道士をつくるようなところから、まず大学はできて、修道士たちが教えていたのです。それが「大学の始まり」なのです。
〈省略〉
こういうことを知らない人たちが大学の審議をしていて、「宗教の教えが入っているから、これは学問ではない。大学ではない」とか、「霊言が入っているから、学問ではない。大学ではない」とか言っているけれども、霊の言葉、あるいは神の言葉が降りてこなかったら、宗教など、この世で成立していません。ですから、「根本のところで理解していない」ということだと思います。
(同上、pp.321-323)
 」
総裁にとっては、キリスト教神学と霊言とは同レベルのものなのだろうか。「キリスト教神学が学問として認められるなら、私の行った霊言だって立派な学問だ。これを認めないのは間違っている」と。
『黄金の法』では、アウグスチヌスやトマス・アキナスについても書かれていたので、総裁は彼らの著書を読んだことはあるのだろう。熟読はしていなくとも、少なくとも、およそどういうものであるかぐらいは知っているのだろう。それでもやはり、霊言はキリスト教神学と同等、またはそれ以上に学問的だと考えているのだろうか。
 
楽山も、霊言を引用していました。"仏様の気持ちが分かる" と言うこともありました。不思議世界の使者でもあるかのような空想虚言のヒーロー願望があると思います。その実は、無反省、無責任、無理解、偏見、訂正不能、趣味の超常と現実の信仰の混同など、混乱を極めている不潔な病巣です。
 
 
もしそうであるばら、嘘と同様に、学問についての判断基準も、総裁と世間一般とでは多少ちがっていそうだ。総裁の考える学問とはどのようなものなのか、ぜひ聞いてみたいものである。
 
楽山は、人のことなど言っている場合ではないのです。楽山の判断基準は、世間からも、常識からも、正しさからも、遠いというより、自己中の欲のままに、デタラメだということです。楽山は、味方になるような人や、書物や、言葉を、好きなように利用して、言い捨ててゆきます。後には何も残らない。
 
楽山の「学問についての判断基準」は、殆ど、精神症状と言ってよいくらい、自己正当化に方向づけされています。そのような、救いがたい妄想的誤謬によって、楽山の見解は出来ていて、もはや、そのベースが改まる可能性はないでしょう。批判して3年以上になるからです。後には何も残っていない。
 
 
楽山にとって、生と死は、どういうあり方なのでしょう。信仰者は、限りある生を終えるとき、また、思わぬ不幸によって、寿命が縮まるとき、最後に身を任せる相手がおられます。そのような生き方のお手本となる救い主もおられます。信仰は、人生の最後においては、そのためにあるのです。
 
夢も希望もない悪事に毎日を費やしている楽山は、最後に、壊れ、腐れ、気を失ってゆくとき、自分に自分を救えとでも言うのでしょうか。それで、悪事は、御破算になるとでも思っているのでしょうか。楽山は、何の希望も救いもなく、唯物として破壊されてゆくことを実感することになるのでしょう。
 
 
この世の生が終わるとき、救われるのは、信仰者だけではないでしょう。神に、恐れをいだくか、少なくとも、神に対して、慎みを持つことが出来た人も救われるような気がします。聖書の神は、単なる救いの教理ではなく、神は、人の言葉よりも先に、心を見抜いておられるからです。
 
マタイ21:42-43
21:42イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、
『家造りらの捨てた石が
隅のかしら石になった。
これは主がなされたことで、
わたしたちの目には不思議に見える』。
それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
(口語訳)
 
洗礼は救いの生命保険ではありません。神は、信仰の教条や、儀式ではなく、心を見られるのでしょう。私は、神に救われたいですが、半端な信仰者ですから、異邦人としてでも、神に裁かれるなら、嘆きながらでも裁きに従うでしょう。悪魔に遊ばれ裁かれるよりはマシだからです。
 
楽山は、神に悪態を吐いてきた今までの罪と、最大の罪である偽善によって、悪魔に引き渡されるとき、お得意の世辞と詭弁で悪魔をだますつもりでしょうか。そこでは、楽山の詭弁は通用しません。楽山は、お伽噺かホラーのように、ふざけて、汚言をもって、神を侮り、信仰を貶めてきました。
 
 
悔いることのない似非評論

悔いることのない似非評論
 
 
(2022年10月29日)
 
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
  ふくらむ陰と個
 
雨に濡れ風に飛ばされ
日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰の中に
ちっぽけな影が没してゆく
 
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
 
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋(う)もれてゆく虚像として
 
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠に括られた自分が
常に自分とは違うように
既に語るに落ちて足りない
 
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
 
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
さらに自ら死を選ぶことは
自らに纏わる真偽と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
 
  悪魔と基督
 
悪魔は密かに隠れて働きかけることを好むが
 
基督は常に顕れて意識されることを喜ばれ
またそのように導かれる
 
基督の負いやすい軛は
人間性の最も温かい部分に架けられ
ゆえに一度架けられた軛は人を捕えて放さないだろう
 
それゆえ人が基督を忘れようとしても
温もりを求めないではおれないがゆえに忘れられず
死や狂気や悪しき謀に走ろうとしても引き戻される
 
人が人の都合で神を選ぶのではない
神が神の都合によって人を選ぶ
 
肉の心と体が動くとき悪魔は陰で欲望をけしかけ
知恵に悪知恵を吹き込んでそそのかす
 
意識できない悪魔を探そうとしても大方困難である
悪魔は隠れ住むことに巧みである
 
しかし基督は既に明らかな絆によって人を導かれ
御自身も明らかなることを好まれる
 
ここに明暗は分かれ、光と闇は分かれる
闇は光に勝つことはなく
闇は光が来れば消えるか更に狭く隠れるほかはない
 
このように肉の心と体が動くとき
更に深く潜む悪魔を見出そうとしても至難である
 
強い軛によって私を放さないで下さい
という祈りによって明け暮れる日々は
人に与えられる分け前として
いかなる苦痛と苦悩の中にあっても
人が希望を楽しむのに必要であり十分である
 
 
  水と空気
 
ときに無常
ときに空しさ
 
形の定まらないもの
汚染されやすいもの
汚染されているかどうか
わかりにくいもの
 
しばしば意識されないが
無いと生きてゆけないもの
わかりにくく
必要不可欠
 
水と空気のような
知・情・意
分けられない心の中から
 
汗、涙、息、……
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
十字架の意味や復活のことは私には難しいですけど、キリスト教の入門書で、十字架上の言葉と詩編22の関連について読み、実際に詩編22を確認した時は目からウロコでした。
たぶん総裁はキリスト教の入門書も、聖書もきちんと読んでないと思います。
>>引用ツイート
10月25日
イエスの天の父であるはずのORは、
「十字架上での刑死は失敗だった」
だの
「イエスは十字架上でエリヤを呼んでいただけだった」
だの
「イエスの復活は霊的な復活であり死体は弟子が隠した」
だの
キリスト教上の最も重要な救いと愛を全く理解していないのである。
<<
2022年10月26日
 
「私には難しいですけど」ではなくて、キリスト教も神も信仰も救いも否定したのに「目からウロコ」などと白々しいことを書いてくるのが、楽山の大嘘なのです。もはや、一言も信用できません。嘘しか言えなくなったのでしょう。無駄なのです。楽山は、霊ではなく零なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、自分のことは、自己批判も反省もしない病質で、人に対しては、平然と批判をしています。身の程知らずは、ここまで来るということです。嘘を吐く楽山が、嘘を吐かないことを教えるなど、成り立つはずがないのです。これも一種の、楽山の性なんでしょうかね。
 
 
 
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  考える信仰3
 
 
宗教そして信仰は
一見、客観性を失わせるように見えるかもしれません。
 
というのは
信仰を知らなければ
まず信仰については語れない。
信仰者であれば
信じているのだから客観的には語れない
というような理屈になるのでしょう。
 
しかし
ここには大きな勘違いがあります。
信仰が
超常から日常まで教えられたとおりに
信じ込むことだという勘違いです。
 
キリスト信仰の場合
教えられるのは大方言葉であり
そのまま思い込み信じこんでも信仰にはなりません。
 
言葉の意味する概念や情緒が
誰にとっても完全一致するわけではありません。
同じ言葉でも、厳密には、
時と場合と人によって伝わる内容は異なります。
人間にとって言葉は
交流と理解のための暗号に過ぎないのです。
 
キリスト信仰において期待されるのは
不変の悟りではなく
即ち言葉を鵜呑みにすることではなく
感じることと考えることです。
 
考えることには感じることが必要であり
感受したことについて考えるわけだから
そこには
正直に感じることで
当然生じる疑いというものがあります。
おもに超常の奇跡についてです。
 
疑いを気合いで排除するのが信仰ではありません。
それはカルトのやることです。
 
疑いを含めて考えることが信仰です。
したがってキリスト信仰が
人生を縛ることではなく
むしろ人生の知情意の活性を促進するからこそ
私は信じているのです。
 
キリスト信仰は
神を絶対としますが
神を人は詳細に知りえないので
人が自らを相対化することでなければ
神を信じることは成り立ちません。
 
したがって
人が教えられ覚えた言葉である信条を
絶対化することは
即ち信仰を絶対化することは
背教であります。
 
信仰の相対性については
既に言われてきたことだが
何故か、絶対でなければ、絶対でなければと
思い込んでいる人が少なくないようです。
 
神の絶対を人が負えるかと聞かれて
負えると、また、負うべきと言う者は
少なくとも勘違いしているか
最悪の場合、思い上がった背教者です。
 
人が信じる総てのものは
いつも絶対ではなく相対的である。
人は不完全で罪深いということを自覚しているなら
当たり前のことであります。
 
信仰は
絶対の神の存在を仰ぐゆえに
自らを絶対ではない者とすることです。
 
聖書は、絶対の神を伝え、ゆえに、
人間は絶対ではないことを伝えています。
これは、信仰の大きな目的であります。
 
そうでなければ
悔い改めの祈りなど意味がなくなるでしょう。
 
私たちキリスト信仰者が
折に触れて正直に告白して
悔い改める
即ち祈りにおいて
神との関係を新しくしていただくのは
まさに私たちが
心貧しく不完全であることを
正直に認めて
神に憐れんでいただくためであります。
 
自ら信仰を絶対として
神に対して讃美ばかりを豪語するような
偽善者になってはいけません。
 
私たちキリスト信仰者は
心の解放を受け取ったのだから
信仰についての疑問も含めて
よく感じ、よく考えて、折に触れて正直に祈り
反省し学習し成長することが期待されています。
 
 
ゆえに
楽山がボンヤリ曖昧に言うような
またシャロームが豪語するような
信じ込むことが信仰であるという固定観念は
全く信仰を知らない偽善者の言であり
この二人は信仰について
何も知らずに言い張っているだけなのです。
 
 
 
   宗教と狂気と堕落
 
ユダヤ教は選民思想と排他的色彩の強い宗教です。聖戦の名のもとに短い勝利と長い敗北の歴史をもち、その中でつちかわれた唯一神への絶対的信仰とその形式としての律法・掟を持っています。長い歴史をもつユダヤ教を母体としていても、キリスト教は成立当時は新興宗教と思われました。
 
律法の中には慈愛や思いやりを感じさせるものもあるのですが、イエスの時代には律法主義という形式主義・教条主義を頑なに守っていた人たちがイエスの敵となりました。
 
その後ユダヤの内外にキリスト教を広めるにあたっては当然、国により民族により宗教観も異なり布教するうえでの意見の対立や問題も多かったのでしょう。そのために福音書をはじめとして種々の異なった色付けをされてキリスト教は伝えられ広められていきました。
 
聖書を読むということは、それを書いた、あるいは書かざるを得なかった著者たちの目的とインスピレーションを信頼するということなのでしょう。そこに、神聖に対する思いこみや決めつけの先入観や偏見があってはいけません。神聖は、神のものであり、人のものではありません。
 
聖職者も、神と違って、信仰者と同じ人間だから、不完全という罪深さを持っており、ゆえに、教えられたことを鵜呑みにして、思考停止してはいけません。信仰は、思考と感性を、活性化してゆく道である。信仰の道は、成長してゆく道であります。
 
宗教は、うっかり訂正不能にしてしまうと、古い新しいを問わず人間離れという狂気へ走る危険性と風俗習慣へ堕してしまう危険性を常にもっていることを忘れてはいけません。ゆえに、経験から感じることを、じっくり考えてゆくべきです。
 
宗教だけから戦争が起こるということは、少なくとも正当なキリスト教においてはありえないことのように思われるのですが、利害関係や政治的な争いに宗教がからんで訂正不能の過ちを犯す経過では、戦争の中の信仰は、狂気とも言うべき残酷なものとなることがあります。
 
一方、クリスチャンの接頭語のように付けられる「敬虔な」という言葉があらわすものは何かを考えると、おとなしくて静かで、社会のお邪魔にならない、影響力の乏しい人畜無害のような印象になることがありますが、もちろん、これは間違いです。信仰は、生きて成長するための道です。
 
確かに宗教が社会に有害であってはなりません。しかし、キリスト教の大きな迫害の歴史とその殉教者たちの死を思うとき、主イエスキリストの愛と魂の救済という強い目的意識を持ちつづけることの難しさを感じざるを得ません。ゆえに、信仰者は、試練に遭い、ときに、砕かれます。
 
人間の感性と知性を軽んじて、神霊を訂正不能に思い込むような、成長を忘れた信仰は、聖書の言葉をも、意味を固定してしまって、カルトと同じようなものになるでしょう。そして、何か言われると、聖書語を振り回して豪語するでしょう。これは信仰者の態度ではありません。
 
人間の罪深さ、また、人間の言葉の曖昧さ、即ち、不完全さを思うとき、反省と修正と成長のない信仰が、いかに自分信仰になりやすいかを知るべきであります。神ではなく、自分の持っている神の概念を、神と呼んでいるのは、自分信仰です。大事なことは、訂正不能にしないことです。
 
キリストの教えは、人間に理解できない超常奇跡よりも、はるかに、人間に対する共感と愛に満ちています。それに反応する信仰者は、キリストへの共感という愛に生きる道に気づくようになるのです。
 
それを、贖罪の辻褄と超常の仕組みとして信じ込む信仰?によって損なうことのないように、日々の祈りの正直さだけが求められていると思います。
 
 
考えること 共感すること

考えること 共感すること
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年10月28日、再録+加筆)
 
 
 
  無意味の意味
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
 
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
 
  やさしい人
 
線香花火は
線香に変われるだろうか
風前の灯火(ともしび)は
蝋燭(ろうそく)に変われるだろうか
 
また来る春には
土壌の妖気となり
また来る夏には
壺(つぼ)を出て飛び回り
また来る秋には
小舟に乗せられサヨナラ
また来る冬には
まだ生きていたりする
 
燃えたかった風前の線香花火は
くずれゆく鬼の面相で
きれいに巻かれた煙草を
灰に変える
 
ぽろぽろ落ちる灰の熱では
無理な注文だろうか
やさしい人よ
やさしかった人に変われるだろうか
 
 
  傷つけて
 
古びてゆく
時間がたてば置かれているものはみな
命があることを
いや命がないことさえ
考えずに触っていた
道端や公園や街並みに
並んでいる遊びのような
色と形をもちながら
触れてゆく手は多くても
注がれる目は逸れていたから
 
人の手に触れたものは
かつて雨や風に耐えてきたもの
しかし人の手には耐えられない
敏感で弱いものたちだったかもしれない
今そこここに
相変わらずの姿で立っているけど
眼に見えない傷にいたみつづける
傷を見ない目に見られて
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山のお祭り騒ぎ2
 
 『宇宙の法―エローヒム編―』を見た。
 2021年10月12日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
   を改めて批判。
 
楽山は、アンチHSのはずですが、HS作成のアニメを見て、興味があるらしく、批判どころか、むしろ、肯定的な興味本位の評論家気取りで、感想を書いています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの幼稚さも見られます。楽山に思想の軸がない証拠となります。
 
 
 (ネットより)
「エロヒム」は、ヘブライ語聖書で「神」または「神々」を表す。ヘブライ語の文法的には、末尾の -im は通常、男性の複数形を指す。しかし神としての「エロヒム」は、通常文法的に単数であり、単数動詞や単数形容詞と共に使用される。現代ヘブライ語では、ヘブライ語の複数の男性名詞を示す -im が語尾にあるにも関わらず、しばしば単数形で用いられる。[1][2]
一般にエロヒムは、北西セム語系で神を表すエロア eloah から派生したと考えられている。[3] ヘブライ語以外の同系語には、カナン人のパンテオンの創造神であり主神であるエール El、ウガリット語のイル ilhm、聖書アラム語のエラーハ Ĕlāhā 、シリア語のアラハ 'Alaha「神」、およびアラビア語のイラー ilāh「神」、またはアッラー Allah「(単一の)神」がある。
El は通常、「強くなる」または「前に立つ」というアラム語の lh が語源と考えられている。[3]
 
 
今まで、キリスト教を否定する記事、右翼のA級戦犯を讃える記事、霊が分かるっぽいと書いた記事、ホラー趣味、空想癖で、宗教を語って、悦に入る性癖、無反省、無責任、学者気取り、評論家気取り、教祖願望などの、入りまじった異常世界を、楽山は書いてきました。そこに住んでいたいのでしょうか。
 
超常についての楽山のお祭り騒ぎのようです。いろいろな素材をいじくって書いていますが、まとまりがありません。何かを主張するのではなく、面白がって興奮しているようです。神(エル、エロヒム、ヤハウェ)を、楽山は、こういう書き方しかできないのです。信仰を語れるわけがありません。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、人のことを何も気にしないのでしょう。楽山は、書くたびに、テーマも理路も散乱して、真っ当な感性はなく、書いたというだけで、一人前を気取る悪夢の幼児となっています。
 
 
『宇宙の法―エローヒム編―』を見ながら心に浮かんだ感想をメモしておいたので、ここで整理してみる。
HS映画はいつも映像はきれいだ。これは今回も変わらない。
いきなり舞台背景の説明がはじまった。これはファンタジーあるある。
地球における善悪を知れって…普遍でなく、あくまで地球限定の善悪か。
白色彗星ならぬ、赤色彗星か? しかも艦隊の攻撃でも撃破できないとは…まるで、『さらば宇宙戦艦ヤマト』のようだ。
 
「映像はきれい」「ファンタジー」「宇宙戦艦ヤマト」「艦隊」「攻撃」「撃破できない」・・アニメを見るように、宗教と信仰を見ている楽山です。楽山は、ずっと、同一性(アイデンティティー)が発育不全か、壊れているのでしょう。この精神で、信仰は語れません。
 
 
人物の絵は、みんな止まっている。人物と背景が分離している。なんだか無味乾燥だ。人物は生きてない。蝋人形だらけ。これでは感情移入し難い。
♪~きた、きた、わたしはきた~♪♫ 歌ありの音楽と、歌なしの音楽とでは落差が激しい。もちろん歌なし音楽↑、歌あり音楽↓。
ヤイザエル、強すぎ。ドラゴンボールみたい。強い女戦士を設定するとはHSらしからぬフェミ系への配慮もあるのだろうか。
ベガの女王、一瞬、きょうこ夫人に見えた。
彗星でなく、隕石爆弾? 流星爆弾みたいだな。
 
SFかホラーの映画で、子供が燥(はしゃい)いでいるような感想です。楽山は、面白がっているだけで、宗教も信仰も語っていません。楽山は、超常を書けば宗教じゃろ・・とでも思っているのでしょうか。人間理解のないところに、信仰は生まれません。
 
 
あまりに漫画すぎる。普段アニメは全然見ない人は、退屈するのではあるまいか。
会話がいちいち教義紹介になってる。教義紹介をしたいのは分かるが、その方面に興味がない立場からするとうざったい。
 
「漫画」「退屈」と言いながら↓教義は「うざったい」のだそうです。何を求めているのか不明です。これが、楽山の宗教観・信仰観なのです。これで批判したつもりになるのなら、子供が、はしゃいでいるだけの戯れ言です。こういう幼稚さと未熟さが、楽山の言論もどきなのです。
 
 
ヤイザエルが泥酔している兵士たちを叱ってる。千眼美子(清水富美加)が泥酔者を叱るというのはおかしい。
もののけ姫のタタリ神みたいのが湧いてる。
ひとりの英雄、いやヒロインが戦況を一変させてる。漫画すぎる。
 
魔界のような超常の話です。この次元で、楽山は、宗教と信仰を考え、キリスト教と信仰に、いちゃもんをつけてきたのです。常識的にも、未熟~異常です。何の救いにも、さらに、救いのヒントにも、全くなりません。楽山の薄気味悪い話です。
 
 
アモール(イエス・キリストのエネルギー体)が、悪魔よ立ち去れの一言で戦いを終わらせている。
ヤイザエルが反省している。悪を倒すのにためらわなかったが、もしかしたら自分には愛が足りないのではないかと…。
 
(ネットより)
アモル・アモール
ラテン語:Amor
スペイン語で愛のこと。es:Amor
クピードーの別名。
アモール (小惑星) (Amor) - 第1221番小惑星。
アモール群
アモール - 『ドラゴンクエストVI 幻の大地』における架空の町。回復アイテム「アモールのみず」の産地。
 
キリストの愛ということから、エネルギー体と呼んでいるのでしょうか。科学用語を使う必要があるでしょうか。ヤイザエルは、架空の存在のようです。「愛が足りない」と言って、説明がありません。楽山には、著しく、愛と、愛の理解が、足りないか、欠損しています。
 
 
ミカエルとルシフェルが双子というのは、レムリアで言ってたのと同じだ。
 
ミカエルは天使、ルシフェルは悪魔の名前ですが、好きなように扱って、超常の神話~ホラーとして扱っています。それを面白がる楽山はピエロにでもなるのでしょうか。
 
 
話のテンポが遅すぎる。あらすじも簡単すぎる。地球を侵略しようとする宇宙人を撃退するというだけ。ヤイザエルにしても、その他の人物にしても、さほどの悩み、葛藤はない。物語を通じて、大きく成長していない。したがってストーリーに起伏がない。だから退屈。
 
宇宙人の地球侵略の話になっています。「大きく」も小さくも、「成長していない」楽山の、まとまりもなく、説明にもなっていない感想文です。このように、宗教と信仰を、遊びとしてしか捉えていない楽山です。宗教・信仰・なくてはならない真実について、語る資格など皆無だと思います。
 
私は、人間が受け取れる信仰について考えてきました。それを、否定し、著しく妨害して、混乱を招く方向しか持っておらず、到底、受け取れないホラーに化けさせているのが、楽山です。茶化しであり、ふざけており、真実に対する悪意以外の何ものでもないと思います。
 
 
正しいと思うことを自由に述べてよろしいと、エロヒムは言論の自由を認めてる。
ヤイザエルのヘルメットの額のところ、シャアと同じ形に変わってる。
アモールが山を動かしている。この山動きて海に入れか…。
 
楽山が、言論の自由と言うとき、それは、好き勝手に無反省に発言して、責任を負わないことを意味します。認められるはずがありません。超常話で、神エロヒムに認められているかのような楽山の主張は、どこまでも鼻クソでしかありません。
 
楽山は、霊が分かるっぽい?という自覚を語っていましたが、楽山が動かせるのは、山ではなく、嘘と詭弁、悪口、・・やはり、鼻クソだけです。真実を求める方向性のない楽山には、心のかさぶたを剥がすことも出来ません。
 
 
戦争が肯定的に描かれている。正義の戦争は善であるということらしい。自分は考え方としては右ではあるが、こういう戦争の描き方は受け入れがたい。戦争というものは聖戦だろうが、自衛だろうが、どのような名目があったとしても、多くの人々が悲惨に殺されてゆくものだ。大勢の血で大地を染めることを正義だとか、善だとかいうのはどうかしている。
 
楽山は、平和主義みたいなことを語っていますが、嘘です。楽山は、殺人を含む事変に関与したらしいA級戦犯を讃えていました。このことから、正義を理解しない者が、平和を語り、戦争反対を語り、つまり、騙(かた)って、受けをよくしようと、空しく、あがいているだけだと思います。
 
 
ヤイザエル、二度も油断して敵に背後をとられている。歴戦の勇士がこういう不覚をとるわけはあるまい。パングルって、らんま1/2…、いや呪術廻戦か? 本作は特に先行作品との類似性が見受けられるけれども、これはオマージュというやつなのだろうか。
 
そして、楽山は、格闘~戦闘シーンに興奮しています。ホラーアニメ・漫画の、空想の世界にしか、生きられない楽山の象徴的~特徴的な表れです。それにしても、説明が下手です。自分の満足だけに生きると、こうなる、という例でしょう。
 
(ネットより)
オマージュ(英語: hommage)は、芸術や文学において、尊敬する作家や作品に影響を受け、似た作品を創作すること、またその創作物を指す語である。しばしば「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる。
 
 
さまざまな個性を持つ者たちが集い、お互いの短所を補い合い、発展してゆくという考え方はよいと思う。
 
誰が、楽山に、善悪・良否の判断を仰いだと言うのでしょう。求められてもいないのに、考えることも出来ないのに、妄想楽山は、高みから評価し裁いている態度です。正義にも良識にも反しながら、なお、良し悪しを語る不治の病質が表れているようです。
 
 
地球神は時間を戻せると…。取り返しのつかない大きな過ちを犯しても、地球神が時間を戻してなかったことにするって…。いや、もしかしたら、幻魔大戦のように地球は滅びたものの、一瞬間のうちに滅びていない世界を想像したのだったりして。
 
呪術廻戦に加えて、今度は幻魔大戦が出てきました。漫画の世界に、どっぷり浸かって、そこからだけ、正義を語る楽山です。「滅びていない世界を想像したのだったりして」・・こういう軽口をたたくために、宗教・信仰・真実をけがしてきた楽山です。魔法と幽霊が友だちでしょうか。
 
 
ダハールを追って行ったまま戻ってこないヤイザエル。これは軍規違反にならないのだろうか。
エローヒムの演説でシメ。
最近のHS映画は、HS色が薄まってきていたようだが、今回は原点回帰したのか、HS色が非常に濃厚になっている。HSの世界観だけで物語がつくられている。そのせいか、HSを信じていない自分はあまり感情移入できず、退屈したというのが正直な感想である。
 
「感情移入できず、退屈」とは裏腹に、HS映画に興奮が表れている楽山です。恐らく、楽山は、超常カルトというレベルでしか、宗教を考えていない、ましてや、信仰など、何とも思っていないし、持ったこともないと思います。趣味と宗教の区別がつかない楽山です。
 
 
本作はHSとその信者にとっては尊い映画ではあろうが、HSも、エローヒムも信じていない一般に理解されるのは難しいだろうと思う。
 
楽山は、神エロヒムも信じていませんし、その尊さも信仰も分かっていません。なのに、「一般」を、自分より下に見ている筆致です。楽山は、「一般」にも達していないのです。破壊の、煩わしいチンケな精神世界に住む夢想であり、呪術であり、幻滅なのです。ゆえに、みんな見せかけだけなのです。
 
 
◇◆ 追記 2021.10.13 ◆◇
*ツイッター
ツイッターの方でも、映画について呟いたので、ここに貼っておきます。
心機一転★こも楽山
@komo266
·2021年10月13日
返信先: @hidenoeさん
映画の良い面をまとめれば、そのようになると思いますが、個人的には戦後育ちのせいもあってか、身分制、聖戦を肯定してるところは気になりました。
 
良い面をまとめたつもりのようです。この記事と、今までの記事を踏まえると「身分制、聖戦を肯定してるところは気になり」・・楽山が言うと、恐ろしく軽くなります。趣味と真実の区別がつかない楽山です。これで、髭の生えた子供レベルで、キリスト教を、否定するのだから、呆れます。
 
 
最も尊い存在が、最も嫌われる下層階級の仕事をすすんでするとか、戦争回避、和平への努力がもっと描かれていれば、さらに良かったと思います。
 
「さらに良かった」と肯定的にアドバイスしていることに楽山は気づかないのでしょうか。楽山も、超常アニメのレベルでしか宗教を語れないし、教祖願望があるために、つまり、教祖に憧れているために、さらに、既に教祖気取りであるために、全否定が出来ないのです。
 
「戦争回避、和平への努力」・・それより前に、楽山自身の、はしゃぐことはあっても罪悪感や後悔や反省力を持たない自分を改善するべきです。しかし、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)には、一生涯、無理なのでしょうか。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
あとは…敵味方が入り乱れて戦った戦場では、敵味方の死体の山ができるだろうし、生き残った者は自身の血と汗はもちろん、返り血を全身に浴びることになるでしょう。戦傷者はさらに酷い有り様になるでしょう。
戦争を描くなら、その悲惨さもきちんと描写すべきだったと思います。
午前7:09 · 2021年10月13日
 
死体の山と、血と汗と、返り血と、血まみれの傷病兵を、もっとリアルに見たいという楽山のリクエストです。今まで、興味本位だけで、勝手な感想を書いてきて、なお、戦争のリアルな悲惨さ見たさに飢えている楽山です。味わうことになるかもしれません。
 
楽山には、高等感情がない、とりわけ、悲しみへの共感がないのです。いわゆる、モンスターです。いくら、気取っても、言動に表れてくるでしょう。今までも、無味乾燥の筆致として、また、不祥事を他者のせいにする自己中として、訂正不能の妄想として、表れてきました。
 
実際には、迷惑~犯罪~惨劇を、他者に企んで望んでいるのは、楽山かもしれません。何度か書きましたが、いわゆる、サディストです。人が困る、あるいは、疲れる様子を見て、同情のように見せかけながら、文脈として、筆致として、満足げに、笑っているのです。
 
 
キリスト教を語るときも、まるで、神と取引でもしているような書き方をします。神がいるなら悲劇は起こらないはずだ、悲劇が起こっているから神はいない、・・つまり、自分の都合に合わせた神しか認めない態度です。悲劇の起こらない永遠を夢想する誇大妄想家でもあります。
 
楽山は、自分より高い存在、自分が知りえない存在を、認められないのです。それが、取引する相手の楽山の神?であり、信じ仰ぐ神からは、離れてゆくだけの、楽山の人生なのです。そして、楽山の視野の中に住んでいる神は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の神なのです。
 
 
空想の神しか語れない

空想の神しか語れない
 
 
(2021年)
(2022年10月27日、再録+加筆)
 
 
 
 (伝道の書、口語訳)
伝道の書/ 07章 15節
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。
 (伝道7:15、旧約聖書)
 
楽山が、いちゃもんとして言うような、神がいたら人の不幸・惨劇は起こらないはずじゃろ・・という話は、既に、昔の人が、万感の想いを込めて語っているわけです。つまり、信仰者は、地上にいるあいだ、信仰があれば現世的な良い報いを得る、というわけではないということです。
 
信仰者は、神への希望とキリストの同伴に、祈りを通して支えられながら、苦難の地上を生きるのです。楽山が、安物の文具の性能をもてあそぶように書いてくる宗教と信仰への雑言などは、また言いますが、鼻クソです。その汚れた指で、楽山は、繰り言をなすりつけてくるの傍迷惑な攻撃者です。
 
 
 
  散る
 
紅く色づいていく木々の
にぎわいに、にぎわうだけで
例えば薄い木の葉の
もうすぐ散ります
という最後の音信さえ
数知れず見過ごして
この目に見られないまま
どこからどこまで見過ごされて
散ってゆく
 
破り捨てた手紙
最後の便り
破りかけた手紙
風の便箋
破れかけた手紙
歪んだ字を
書いているペンを
握っている手
見ている眼
赤く充血していく治癒の
道行きに拙い言葉の
いつか最後の音信
どこからどこまで過ぎて
散ってゆく
 
 
  季節の約束
(これは、かなり自由連想してます)
 
針に置ける軌跡を知らないかな
脈管のさまよえる路地で待ってる
そこから先はとんがっていれば大丈夫だ
ケラケラ笑うかけらばかり
握って角度がゆっくり南に傾いて
光る曲線がいちばん長くなる所だ
行き止まりなんてあるものか刺さなくていい
血は嫌いだ綺麗な喪主を
街の眼で汚したくない
もう寒くないだろう標的の入り口付近
宝石を数珠(じゅず)に巻かないように
切り貼りして過ごせばいい
飽きたら呼び鈴を忍ばせて
カジュアルでいいから日暮れを待ちなさい
思い込みは駄目だよ紅茶色だ、いいね
たぶん木馬が飛ぶ頃になると思うよ
ただ屋根のないタクシーが
黒い額で潰しに来るから気をつけて
そろそろ芽も味方してくれる
鋭角に切り落としたら一休みして
グラスに注げる口癖もあるさ
好きな水晶玉でも探して
菜の花の夜を見つけよう
帰りは直線で別れる前に
ちらっと月夜を弾いておくれ
じゃ葬列に出会ったらよろしくね
切るよ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、反省という言葉だけを何度も書いてきました。「反省。とほほ」というのが典型的です。反省しましたよ・・とでも言うような、おどけた書き方ですから、真摯さが、まるで抜けていて、相変わらず、こちらを、あざ笑っている態度が変わらないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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