ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年10月

 
  楽山のアドラー教2
 
   アドラー心理学サロン
   より抜粋。改めて批判。
 
 
楽山は、アドラー教(アドラー心理学?)の宣伝をしていました。自己中製造カルトだと判断しています。前に書いたアドラー教批判の記事に、楽山批判を加えて再録します。
 
私がアドラー教と呼んでカルトだと思っているアドラー心理学は、誤用や悪用が起こりやすいのです。実際、自己中心になって、人の話を聞かなくなった者がいて、批判を続けています。楽山のことです。アドラー教は、不感不応の自己中を促進することになります。
 
 
1. 自分と他人を区別する
2. 人がどう思うかは、相手の課題だと割り切る
 
どう思われるかを気にしないことを勧めています。自分という存在に、他者は関係ないのでしょうか。違います。別人格同士は、影響しあって進むという正常な部分を無視しています。
 
 
3. 他人の課題に介入しない
4. 自分の課題に、他人を介入させない
 
課題は、それほど、分離しやすいようにはできていません。特殊な場合を、全体に当てはめようとする詭弁です。他人が何か言ってきて、不快なら無視するアドラー教に従うと、原始的な反応が対人関係を支配するようになり、人格は未熟なままだけでなく、鈍化し、破壊されてゆくでしょう。
 
 
5. 他人への優しさは忘れない
6. 利己主義にならない
 
上ではまずいと思ったのか、小学校レベルの道徳を歯止めにしてきました。この深みのなさが、アドラー教の、いい加減さなのです。
 
人には好きなように言って、人の言うことは原始的な判断で聞かない、という対話不能の人間を作り、それでいて、優しく思いやりのある人間になりなさいという継ぎはぎを当ててきていることを見逃さないでください。
 
 
7. 結果の責任を自分が引き受けることは自分の課題
 
どういう結果でしょう。一般的に言ってよいのでしょうか。自分と他人が一緒に関わった課題をどう区別するのでしょう。なお、アドラー教を宣伝していた楽山は、全くの無反省・無責任です。
 
 
1. 他人との課題を分離する
 
分離できない課題はないのでしょうか。課題に相手のことが含まれることはないでしょうか。無理して、この部分は私、その部分はあなた、と言い張るのでしょうか。常識的に課題の認識に無理があるのです。
 
 
2. 承認欲求を否定する
 
承認欲求だけではいけませんが、承認欲求を否定することは簡単ではありません。さらに、承認欲求を全否定すると、自分で勝手に事を運び、結果については無視して無視して無視して・・不感不応の人生を過ごすことになります。そういう人間を自己中心そして人間離れと言います。
 
人それぞれ、自分を貫く、という生きる方向の自由選択の精神を表す言葉を、勝手に拡大解釈して、自己中の正当化に悪用していたのが楽山です。自由選択に、他者への害悪は含まれず、徹底して無視し続けます。これは、人間ではありません。
 
 
3. 劣等感を健全に克服する
 
当たり前の結論だけです。きれいごとの飾り、「健全に」としか言えない思想の貧困です。そう言って済ませるしかないほど、劣等感を克服すること自体が、そんなに易しいことではないということです。
 
 
4. 家族も他人だと割り切る
 
言葉が乱暴です。筆者は専門家ではないようです。このままでは、家庭崩壊を招きかねないことを平気で勧めています。別人格ですが、他人と違って、関係性は否定できません。
 
さっきから、出来そうもないことを勧めています。それこそ、オウム真理教みたいに解脱(げだつ)して悟りを開けと言ってるようなものでしょう。心を理屈で考えるとこうなる、という例でしょう。
 
 
5. 人への優しさを持つ
 
言うだけなら、当たり前の結論だけです。飾りです。実際には、優しい人間になることは、そんなに易しくはありません。今までの筆致から、筆者は、全然、優しくない人です。
 
 
6. 人に期待し過ぎない
7. 主張すべきは主張する
 
当たり前のことですが、容易ではなく、整合性を持たせようとする強迫観念による辻褄合わせでしょう。結局、そんな難しいこと言うてもしょうがないやろ、好きなようにやれ、という感じになってしまいそうです。苦し紛れの責任逃れの言い訳になりそうです。
 
 
1. 人は人を誤解する生き物
 
人は人を理解しようと努力する生き物でもあります。否定だけを、歯切れよく書いて、気持ちいいのは筆者だけ。
 
 
2. 客観性は存在せず、全ては主観
3. 正解も間違いも存在しない
 
絶対に間違いのない客観は困難でも、人間として、より客観的に考えることは大切であり、時々の正解を求めることをやめるように教えるのは、トンデモ説教です。
 
 
4. 人の記憶なんて曖昧でいい加減
5. 人は他人に興味が無い
 
筆者は、いったい、どんな世界に生きているのでしょう。いったい、人を、どう決めつけるのでしょう。カルトが、辻褄合わせが出来なくなって潰れてゆくときの台詞か。
 
 
6. 論理性には限界がある
7. 感情や主観がある限り、他人の理解と意見は当てにならない
 
感情や主観はあるわけですから、他人は理解も出来ないし意見も当てにするな、と言っているのと同じです。これで自己中じゃなくて何なのでしょう。カルト臭。
 
 
好きな人、嫌いな人なんて存在しない。
あるのは、自分に合う人か合わない人かです。
 
合う人は好きになるだろう、合わない人は好きにならないだろう、という常識的な推測が欠けている発言でしょう。
 
筆者は、ロボットなのでしょうか。ロボットになることを勧めているのでしょうか。筆者は、人間の良識を全く信頼していないようです。しかし、一方では、当たり前の常識を書いているという矛盾だらけの有り様です。
 
 
どんな人であっても、誰かにとっては良い人であり悪い人なのです。人が他人の良し悪しを決める道理はありません。誰かが良い人間なのか悪い人間なのかを論じるよりも、自分はどういう人間なのかに集中しよう。
 
人間は、不完全、そして絶対ではなく、相対的と言うべき存在です。他者の良し悪しの判断をしないで、自分に集中しようと言っています。日常の様々なことについて真実か虚偽かの判断をしないで自分の楽だけを考えるのは、進歩しない人類になろうという勧めになってしまいます。
 
自分という存在に、どれほど、他者の影響があり、それは、余計なこともあれば、必要なこともある、というようなことは考えないようです。
 
 
いじめをするような人たちは、心が貧しい。
 
念のため、この「心が貧しい」は、精神が貧困だという意味で使っているようです。聖書とは違う意味ですから、キリスト教の信仰といっしょにしないようにしてください。
 
私は、
心貧しい =余計な先入観を持っていない。
精神が貧困=余計な先入観しか持っていない。
・・というような区別をしています。
 
聖書の「心貧しい」というのは、高ぶらせるものを持たない、先入観や思い込みがない、お金よりも物よりも自己満足よりも、心を満たす救いを求めている、謙虚である、などという意味で、救いにつながります。この2つを混同しないでほしいところです。
 
 
人のアラを探して、いじめて自分の劣等感を穴埋めしようとしているだけ。
そんな人の心が理解できない、読もうともしない人たちは落ちぶれる。
 
「そんな、人の心が・・」と書きたかったのでしょうが、それにしても、決めつけから、呪いになってきました。
 
 
更生してもらうことなんて考えず、あなたまで落ちぶれてしまうので「関わらない・距離を取る」を徹底しよう。
 
嫌われる勇気と同様のことを言っています。これで、平気で、気持ちいいなら、異常です。
「あなたまで落ちぶれてしまう」は、分からないことですから、呪いと脅迫の付け足しです。
 
「人のアラを探して、いじめ」をする人たちなら、場合によっては、批判し告発するべきです。
 
「関わらない・距離を取る」だけというのは、乱暴です。
それだけでは、解決せず、生きてゆけないことがあるからです。
 
 
心と身体が限界なら、全て投げ出してでもひと休みする。とても大切なことです。あなたが壊れてしまってはもっと重大な事態にも発展しかねません。上司や先輩、同僚からどう思われようが関係ありません。他人を気にかけて、あなたが必要以上に消耗してはいけません。
 
これは、当たり前のことです。付け足しの飾りです。こういう、言葉が荒くて粗い説教を聞いて消耗しないようにしてほしいものです。
 
心と身体が限界かどうか、自分で判断できない場合もあるでしょう。一見、まだできるようで、人に言われたり、自分も、そうかも・・と思う場合です。大事なことは省略して、言葉だけ、よさそうなことを言うのはやめましょう。
 
以上、注意深く読むと、ひどい話をしているのがアドラー教です。
 
全否定(肯定)と部分否定(肯定)など、理路全般に、日本語による文書作成が未熟で、
こう書いたら、誤解されてしまうのではないか、という気配りが働かない人のようです。
 
元々のアドラー心理学は、語られ広められているほど、単純ではないような気がします。
 
筆者たちは、
日常の言葉で書かれたところが、常識的におかしいから、というような指摘をしても、
ちゃんと読んでから言え、みたいな、貶めだけを書いてくる人たちのようです。
 
人間性において不自然なことを、新発見のように豪語する者たちを警戒してください。カルト的増長によって、人間性において不自然なことは通らないということが分からないでいるのかもしれません。
 
 
 楽山の惨劇
 
楽山は、アドラー教を宣伝していました。自己中のまま訂正していないから、今も信奉者のようです。楽山に当てはまるのは、気に入らないことは無視しましょう、ということで、まさに、善悪でもなく、正邪でも無く、真偽でもなく、楽山が気に入らないことは、つまり、都合の悪いことは、無視するのです。
 
この結果、自分の発言について、全く責任を負わない。無責任男になって、議論も、思考も、共感も成り立ちません。楽山だけは、相手にしてはいけません。
 
人格破壊は、本人には分からず、自覚がありません。破壊が進んでいるのに、不都合を無視することで、何か邪魔なものがなくなって気が楽になったような気分になるのでしょうか。本人が楽になる分、関わる他者にとっては苦が増すということが起こります。
 
それは、一種の身勝手な合理化であり、自分を取り巻く状況は、少しも合理にはなっていないのです。まわりの誰もが感じて知っていることを、自分だけは感じない知らない、という世界に妄想没入することです。自他の不一致、主観と客観の不一致は、いずれトラブルを招きます。
 
楽山を真似ると、無視によって、解決も処理もされないことが、自分にはなくなり、人には増えて、その関係の下で、自分と自分を取り巻く世界が妄想的に再構築されてゆきます。しかも、その摩擦は、生涯にわたって、増え続けることになります。いずれ、破局点を迎えるでしょう。
 
気に入らないことを無視する力が、良心や罪悪感よりもまさって、それにも気づかないでおれば、楽でしょうか。その時点で、もはや、人間ではなくなっているのですが。
 
楽山は、楽なのでしょう。楽山は、人間でいたくないのでしょう。楽山は超常趣味なので、一足飛びに、心霊?か神霊?になりたいのでしょうか。化け物のほうが、偉そうに見えるのでしょうか。確かに、楽山は、ホラーの化け物です。
 
このように、アドラー心理学から、アドラー教カルトになって、宣伝者になって、元々霊能者気取りの思い上がり体質もあって、楽山は、自己中、自己愛、無反省、無責任が、人間性を失わせているのに、気づくことがありません。
 
楽山は、今も、まともな人間であるかのように、それこそ、学者気取りか評論家気取りで物を言っています。それだけの詐欺的な嘘吐きになっています。自己愛性人格障害の楽山には、他者を批判する資格も能力もありません。手遅れなのかもしれません。楽山には近づかないことです。
 
 
楽山やシャロームなどの易坊類に見られるような自己愛性人格障害者の中には、占いをやっている者がいるかもしれません。占いならば、多少外れても、インチキと言われることはあるでしょうが、元々の期待値が低いために、責任と取れとまで言われることは少ないからです。
 
しかし、真剣に、宗教や人生などの真実の追求をするテーマについての発言は、発言をしておきながら、責任は負わないでは済まされません。楽山は、偏見を煽って、キリスト教と信仰をおとしめてきました。
 
発言について、間違えたり、言いたいことが変わったりしたときには、丁寧に、かつ、真摯に、反省と訂正を述べたうえで、出来る限りの学習を続けることが必要です。いい加減なことを言って、無責任ならば、そういうテーマに関わってはいけないのです。
 
 
花も 実も 無い

花も 実も 無い
 
 
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2022年10月26日、再録+加筆)
 
 
 
  ボールペンⅠ
 
引き抜かれた芯は
細い裸のまま
ふるえる指先のふるえを受けてふるえる
 
書けない責任を負わされて
インクの残りを見るための
視線にすーっと舐められてゆく
 
いきなり激しいめまい
天井と床の間で振られ
さらに荒々しい熱い風
悪臭にさらされる
 
このような移動と臭いは好まないと
断るすべもないままに
次は強い圧力で
押しつけられる紙の上で
嘔吐して刻まれた溝に流す
 
「まだ使えるな」と
その身が尽きるまで続くのだが
 
外筒におさめられ
改めて押される速さに
右に左に上に下に
圧力は無理矢理に片寄り
やはりふるえる指先の
ふるえを受けて
刻んだ直線を歪ませる
 
 
  ボールペンⅡ
 
くやしいペン
振っても振っても出てこない
はーっと息
まだ出てこない
しんを吹いてから
強く押す
また振って
もっと強い圧力
深い溝と
申し訳程度に
うすい文字が途中でかすれる
 
もう少しだったのに
喉まで出かかっていたのに
また消えた
最後には指先でおもちゃになって
くるくる回され
倒され
転がされ
トトトト
話にならない
やめた
後ろのごみ箱にポイ
捨ててやった
 
ようやく休むことができる
これで書く"もの"がいなくなった
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはいまいち理解できない話だった。
成績が良くて、異性と仲良くしてる同級生を、「いいなー」と羨むなら分かるけど、絞め殺したいくらいに呪うというのは分からん。
脚本家には、これがリアルな感情の動きなのだろうか。
2022年10月23日
 
楽山は「いいなー」で済ませて、嫉妬という感情が理解できないようです。これは、正しいことでも、望ましいことでもありません。人間ならいだくことのある嫉妬を、楽山は自覚しておらず、持たないと言っているのです。いい子ぶりっこの猿芝居です。でなければ鈍感の進行でしょう。
 
あるいは、嘘を吐いています。平気で嘘を吐いて、平気で飾ってきたゆえに、恥を知らず、このような、きれいごとが書けるのです。「絞め殺したいくらいに呪う」ことはしなくても、陰性の感情として自覚しておくべきですが、楽山は、そこを「理解できない」とまで言って、飾ってくる人です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
詫びることがない、正すことがない、嘘ばかり、保身だけで、魅力の欠片もない、失敗した、過ちを犯した、出店を畳むしかない、・・という経過を経て、まだ、何かを言えると思っているのは、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だから。
 
 
 
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  楽山の無責任正当化
 
 『「原因」と「結果」の法則』
 ジェームズ・アレン著、坂本貢一訳
  2022年10月24日
   を批判。
 
楽山の、言い逃れです。嘘を吐き、詭弁を弄して他者を誘導し混乱させる悪行体質を、何やかやと、有識者の本を漁っては引用して書いても、何一つ信頼できる記事ではなく、かえって、恐らく今までも、まともな意見を発したことは一度もないのだろうという判断の根拠となってゆきます。
 
 
*概要
巷には「心が環境を決定する」という考え方もあれば、その反対に「環境が心を決定する」という考え方もある。どちらを支持するかは人それぞれであろうが、本書は前者を強く支持する立場で書かれている。
 
「環境が心を決定する」という考え方で、自分の無責任を正当化したいのでしょうか。逆のことを、それらしく語って、まともに見せているのは、自己の言動の責任を、負いたくないからです。その表れは、何を狙っているかは、短い文章の後半に出てきます。
 
「環境が心を決定するという考え方」は、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の主張でしょう。環境が悪いんだ、おれは悪くない、と言いたいのでしょう。しかし、自己愛性の性質を、認めようともしないところに、いつも病質は表れてきます。
 
 
したがって、本書では次のような言葉が繰り返し語られている。「完璧に清らかな人間には、苦悩はけっして訪れません」(p.35)
 
「完璧に清らかな人間」は存在しません。これぐらいのことが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山には分からないのです。しつこく自己正当化の記事を書けば書くほど、楽山の病質が明らかになり、その底意地の悪さが目立ってきます。楽山には一片の清らかさもないと思います。
 
 
「私たちに苦悩をもたらす環境は、私たち自身の精神的混乱の結果です。私たちに喜びをもたらす環境は、私たち自身の精神的調和の結果です。喜びは正しい思いの結果であり、苦悩は誤った思いの結果なのです」(p.35)、「私達は、自分が望んでいるものではなく、自分と同種のものを引き寄せます」(p.26)。
 
楽山の病質がもたらすのは、他者の「精神的混乱」であります。楽山自身には「精神的調和」はありません。どこまで白を切るつもりでしょうか。楽山には、自分に対する調和がなく、正しい思いがなく、楽山の苦悩は、楽山の自業自得である、という経過なのです。楽山は、自分の責任を負わない男です。
 
 
*自己責任論
これは自身の心がすべてを決定するという考え方からすれば、当然の帰結ではあるが、圧倒的なほど頑健な自己責任論であるため、自分自身の戒めとしてならともかく、他人に向けられたならば相当に危険な凶器となり得るだろう。
 
楽山の責任逃れの詭弁です。自己責任は、自分の言動の責任を負う、という当たり前のことです。ゆえに、知性と感性があり、反省、場合によっては謝罪、そして、修正、といった、自分の意志による日常が可能になります。それが人間に与えられた自由なのです。
 
責任を負わない者には、自由意志も自由行動もありえないのです。自分勝手にしかならないからです。人間には、反省力と責任能力があります。楽山は、言いっぱなしで、しかも、誘導の作為があります。この記事も、責任逃れの自己正当化です。
 
 
個人的には人の能力では物事の因果関係を正確に知ることは難しいだろうと感じているので、心と環境はどちらがどちらを決定するとはそう簡単には断言できないとは思うが、人の一生には自己責任を強く意識すべき時もあるだろうから、そういう状況にある人にとっては本書を参考にしつつ生きようとするのは有意義なことであるかもしれない。本書を強く支持する人がいるのは、この辺りに理由があるのではないかと思う。<
 
「人の能力では物事の因果関係を正確に知ることは難しい」・・ここで、楽山は「完璧に清らかな人間」がいないことを自分で証明しています。実際、楽山の記事には「自己責任を強く意識すべき時」が表れてことがありません。楽山は、言動の責任を負わない自己中心の病質者です。関わらないでください。
 
どこまでも責任逃れをしてくる楽山です。そのたびに、楽山の、無反省、無責任、無神経、無理解、執拗な自己正当化、悪意、ペテンの詭弁、虚偽性、偽善性、精神の腐敗、荒廃、狡猾さ、訂正不能、感情鈍麻、頑迷、視野の狭窄が、顕著に表れてくるのです。
 
 
どこまでも責任逃れしてくる化け物

どこまでも責任逃れしてくる化け物
 
 
(2022年10月25日)
 
 
 
  影
 
人ではなく
影ではないのか
そこに黒く
うずくまっているお前
少しく動いてはいるが
影ゆえに何も語らず
眼もなく
何かを見ているとは思われぬ
ただ影も影として
考えていることはあるとみえて
ゆっくり立って
戸口へ向かっていく
性分なのだな私も
そいつのあとを追って
あわてて床をはっていったのだ
 
 
  ボールペンⅠ
 
引き抜かれた芯は
細い裸のまま
ふるえる指先のふるえを受けてふるえる
書けない責任を負わされて
インクの残りを見るための
視線にすーっと舐められてゆく
いきなり激しいめまい
天井と床の間で振られ
さらに荒々しい熱い風
悪臭にさらされる
このような移動と臭いは好まないと
断るすべもないままに
次は強い圧力で
押しつけられる紙の上で
嘔吐して刻まれた溝に流す
「まだ使えるな」と
その身が尽きるまで続くのだが
外筒におさめられ
改めて押される速さに
右に左に上に下に
圧力は無理矢理に片寄り
やはりふるえる指先の
ふるえを受けて
刻んだ直線を歪ませる
 
 
  いやなやつ
 
今だから言うけど
(今になったら責任はないのかね)
昔のことは言いたくないんだが
(まさに言おうとしているじゃないか)
あの時のことなんだ
(あの時が一体いくつあるんだい)
つまらない些細なことなんだが
(そのわりに忘れもせずによく覚えているんだね)
確かに悔いは残るかもしれない
(確かに、で何故、かもしれない、だ)
愚痴を言うわけじゃないけど
(言うわけじゃないけど言うわけだな)
いい意味で殺したかったですね
(・・・・)
 
 
  生まれた責任
 
産んでくれと頼んだ覚えはない
と誰を責める
今を嘆くのは勝手だが
自らの責任において泣け
産んでくれるな
と頼んだ覚えもないのだ
 
 
  運命の紙
 
運命は常に初め隠れており
やがて必ず顕(あらわ)れる運命にある
「隠れているもので
 明らかにならないものはない」
予(あらかじ)め定められた結果の連なり
として諦めるか
未決の前に立ちはだかる障壁
として抗うか
定め あるいは宿命
一本の紙巻き煙草を吸うにしても
瑣事(さじ)の酷なことよ
何の気なしに指が動くほどに
気晴らし・気分転換・暇潰し・・・
動脈硬化・虚血性心疾患・肺癌・・・
喫煙と禁煙
愛煙と嫌煙
権利と義務 自由と責任
ニコチンかタール
子宮から骨壺
すべて綯(な)い交ぜに
どれかを放棄し
どれかを選択し
「隠れているもので
 明らかにならないものはない」
巷にいる限り
骨牌のように
巡ってくる
紙を巻け
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、実に白々しい言い訳の詭弁を書き続けています。反省能力がないのも自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の症状でしょう。それは、悔い改めることのない、反省することのない、罪悪感のない、サイコパシーpsychopathy を、如実に表し続ける経過となっています。危険です。
 
 
 
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  楽山は邪悪に満ちて2
 
 
まず、楽山の善人芝居が、あざといです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
このエピソードを見て、給付金詐欺の総被害額と、霊感商法の被害総額と、どっちが多いだろうかと考えてしまった。
邪教の被害を無くすためにも、正しい宗教、信仰のあり方を広める必要がありますね。
>>引用ツイート
映画『呪い返し師―塩子誕生』大ヒット上映中!|公式アカウント
10月22日
限りない欲望という「呪い」
本当は孫たちと暮らしたいけど、迷惑はかけたくないと悩んでいる大滝梨乃(#星野ひらく)の祖母 芳江(#長谷川稀世)。
その葛藤に魔が入り詐欺師に(#土平ドンペイ)お金を騙し取られる…。
「貪―欲望」
映画『#呪い返し師―#塩子誕生』大ヒット上映中🎬
<<
2022年10月23日
 
「正しい宗教、信仰のあり方」を、いちばん憎んでいるのが楽山です。楽山の考える宗教は、"テキトーに信じる" ことですが、信仰の本質を全く知らない者の、そして、共感や愛ということに、全く不感な楽山の、短絡した鈍麻、無感動からの垢(アカ)のようなものです。
 
 
 
 『世界は邪悪に満ちている だが日本は……。』
 日下公人、髙山正之著
 楽山日記(LD) 2021年10月16日
  を改めて批判。
 
 
神を恐れない楽山が、神の怒りを買うシーンのようです。まことに、身の程を知らないということが、いかに、災いであるかが、表れています。本人は、何をしているのか、まるで気づいていないのです。しかし、その分別も思慮もない軽口が向かっている先は、神であります。また他者の口を借りています。
 
楽山には、正常な理路がありません。大方、嘘と詭弁と妄想で出来ています。楽山には、深い思索を可能にする、しんみりした、おもに悲哀の共感という情緒が欠落しています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からくるのだろうと判断しています。
 
著者二人は、つくる会、労組批判、などに関係があるようですから、右翼の思想家であろうと思われます。楽山が、A級戦犯を褒めていたのと、ほぼ同軸と思われます。つまり、右翼の楽山です。しかし、楽山の思想は、幼稚、かつ、支離滅裂です。
 
 
本書は、アメリカや中国などの悪辣さを指摘しつつ、日本の美点を強調しているものだが、キリスト教についても随分と厳しく批判をしており、その中には自分の知らなかったこともあったのでその一部をメモしておきたい。
 
キリスト教について悪口を並べているのは、楽山です。批判と違って、汲み取れるものが何もありません。楽山の悪辣な本性が、もはや、悪意だけの詭弁となって表れています。読むほどに、楽山に欠けている人間性の大事な部分を、逆に読み取れるでしょう。
 
 
まず本書では、欧米人の残虐さは聖書の影響があるとしている。
彼らは、主がモーセに命じられたとおり、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにした。
(民数記31:7)
 」
 
神の裁きであり、その厳しさは、筆舌に尽くしがたいものがあります。このような話は、絶対ではない人間に、絶対正義の存在である神を恐れよということを表しているのです。キリスト教について、やさしい神ばかりイメージするのは、間違いです。旧約聖書から、神への恐れを学びます。
 
モーセは預言者であり、神の意志を代弁している役割です。それを欧米人の残虐さに結びつけているのは、誰よりも冷酷で、温もりも潤いもない楽山その人です。何か個人的な憎しみを発散しているような記事になっています。神を、怨念の具材とする楽山の残虐性は、傍若無人であります。
 
神はこんなに残酷なんだよ・・とばかり、楽山は吹聴したいようですが、その楽山は神を恐れていないから、こういうことが書けるのです。神を恐れず、即ち、絶対正義の存在を恐れないエゴの妄想には、抵抗として批判を書くだけでなく、それを続けることが必要です。
 
ゆえに、批判は、こんな酷い人がいるから、楽山を読んでも、決して、真に受けないように、近づかないように、という警鐘を鳴らすためにあります。神に対する信仰とは真逆の、そして、悪魔に奉仕していることに悦楽をおぼえる、サディスティックな欲望が、無反省の病質者、楽山の記事に表れています。
 
 
直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。
(民数記31:17-18)
 」
後の方はモーセの言葉であるが、彼らはこういう考え方に馴染んでいるから、女はプレゼント、ボーナスという発想が生まれ、「慰安婦は天皇陛下からの贈り物だ」という日本的には理解できないおかしな発想も出てくるのだという。
 
慰安婦問題を、聖書のせいにしてきました。楽山は、どういう発想なのでしょう。聖書を読むのではなく、聖書を貶める材料を漁っているのです。とても卑しい根性です。ゆえに、楽山には、福音が届きません。楽山からは、厄病が送られてきます。それが、楽山ブログです。
 
歴史上、略奪・暴行によって、女性が戦の犠牲になるのは、恐らく、世界中であったことだと思います。つまり、歴史の負の遺産であります。モーセも、その時代の戦争のあり方から自由ではなかったということです。あらゆる好ましい人間性の敵、楽山などに、それを批判する資格はありません。
 
楽山は、残虐であり、共感も愛情も知らず、反キリスト・反宗教・背教者として、預言者をおとしめることに必死です。恐らく、笑いながら、自らの不能・不全の裏返しとして、残虐行為を楽しむ部類の人間でしょう。楽山の言が、まかり通る世界は、サイコパスの戦争の世界になるでしょう。
 
恐らく、戦争でも起こったら、いちばん残酷なことをするのは、思いやりなどの高等感情を失うのではなく、元々、持っていないために、冷血漢に徹することの出来る、楽山のような輩です。それが、神と預言者を、恐れもなく、心を受け取ることもなく、こき下ろせる理由です。
 
 
またスペイン人の南米における残虐行為の背景には、先住民にキリスト教を布教して受け入れたら理性の持ち主といえるが、受け入れなかったら猿と同じだから奴隷にしてよいという教会からの回答があったという。
 
歴史上の一部のキリスト教徒の過ちを、キリスト教のせいにするのが、楽山の快感なのです。つまり、一部の悪い例をもって、全体を否定する詭弁となっています。卑しい煽動者は、多く、このような詭弁の悪意ある辻褄を振り回して印象を植え付けてゆきます。これがダイレクトに楽山の因業です。
 
 
日本でキリスト教系の女子校が多い理由は、「母親がキリスト教徒になれば娘もキリスト教徒になる。娘がキリスト教徒になれば、やがて孫もキリスト教徒になる」というたくらみがあるのだという。
 
キリスト教系の女子校について、私は、よく知りません。楽山が、詳しく知っているとも思えません。つまり、おとしめるのに都合のよい材料を、むしゃぶりつくように「たくらみ」と宣伝する楽山こそが、恥も知らず、企むために発狂峠を越えているわけです。人間とは思えないです。
 
 
マヤにおける布教活動では十字架ではなく、マリア像を用いたそうで、その理由は先住民たちの儀式(心臓を取り出す)は残酷だと批判したら、磔刑だってそうじゃないかと反論されたので、十字架像は隠さざるを得なくなったからだそうだ。
 
マリア信仰を持ち出して、これで、キリスト教批判になるでしょうか。否です。いちばん残酷な冷血漢が思慮もなく持ち出してきた話には、信仰の本質の欠片も表れてはいません。このような話をしても、楽山の汚い自慰行為に過ぎないということです。
 
楽山は、キリスト信仰について、何も知りません。楽山は、誰も救えません。楽山は、自分教の薄汚い自慰性無神教カルトです。いくら、悪い例を、ベタベタベタベタ貼り付けてきても、キリストの恩恵が色褪せることはなく、楽山の薄汚さがあらわになってゆくだけです。
 
十字架は、楽山に似たサイコパス性のパリサイ人などが加害者で、キリストが被害者であり、人間の罪の贖い、そして、キリストからの無私の愛と、罪人への究極の共感を表しているのです。いつも、楽山は、その低劣な言論に見合うところの、実に不細工な誤謬と虚言を曝してきます。
 
 
本書にはこの他にもさまざまな批判が書いてあるが、残念ながら自分は無知なので、これらの批判の真偽、妥当性を判断するのは難しい。本書で語られていることがすべて本当であったとしたなら非常に残念なことだと思うばかりである。
 
「自分は無知」という自覚が本物なら、楽山は、ここまで汚い否定を当ててくることはないわけです。楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の、無根拠の思い上がりで出来ていて、ここだけ、それを隠して、いい子ぶっているだけの、嘘吐きです。だまされないでください。
 
ボロクソに言っておきながら、「自分は無知」「妥当性を判断するのは難しい」「本当であったとしたなら」という無責任が通るでしょうか。否、はてしない愚かさであります。楽山の、反キリストぶりが、制御を失って、それでも、責任逃れのボンヤリ言語で責任回避しようとする醜態です。
 
楽山における人格破壊は、これからも、進行するでしょう。肯定的に関われば、こちらも人格破壊が待っています。もはや、最小限の分別も持っていない楽山に、ブレーキが外れて自分が何を言っているか分からない楽山に、どうか、関わらないでください。身と心を、楽山から守ってください。
 
 
  わがままではなく自己中
 
 自分の意見を言うのはワガママなのだろうか?
 幸福の科学とは何だろう? 2021年10月16日
   を改めて批判。
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、嘘と詭弁が体質となって、日々、それを書くことが自慰行為となっている楽山です。
 
 
ツイッターを見ていたら、「自分の意見を言うこと」と「自分の意見を押し付けること」の違いを説明しているツイートがあった。
20211014 (2)自分の意見を言うことはワガママではない
 
意見を言い、他者の言うこと聞き、考えて、必要なら修正し、学習するのなら、成長につながりますから、わがままではありません。しかし、楽山のように、他者の言うことを無視し、考えず、修正せず、学習もしないなら、わがままというより、自己中であり、邪悪であり、病気であり、迷惑~害毒です。
 
 
以前、私が自分の意見を言っただけで、「ワガママだ!」「自己中だ!」と非難してきたHS信者がいて呆れつつも不思議に思ったりもしたのだが、多分この信者は上のツイートにあるように萎縮した考え方をしていたのだろう。
 
楽山は、誰からも、自己中だと言われるべき人です。そいう言わない人は、楽山の嘘と詭弁の丁寧語にだまされて、楽山に盲従しており、知性と感性が鈍麻してゆき、結果として、人格を破壊されることになります。楽山は、それを好んで企んでいる人です。
 
押し付けるのではなく、先入観として刷り込んでくるのは、隠蔽操作が合併しているわけですから、むしろ一層の汚さと醜さとして、その悪と偽善は決して見過ごしてはならず、人間の国から、はてしなく追放するべき凶悪さを示しています。
 
 
HSでは、エル・カンターレへの絶対的な帰依を求めているので、その信者はエル・カンターレとは独立した自分独自の意見を持つことをワガママ、自己中、高慢として抑圧しており、だからこそ私が自分の意見を言ったことをもって、ワガママだと非難せずにはいられなかったのだろう。
 
楽山は、自分独自ではなく、自分快楽原則の意見だけを持っており、我がまま、自己中、訂正不能、高慢、傲慢、偽善者、嘘吐きの、ペテン師です。ボンヤリ丁寧な筆致と、同情を引くためのトホホ言語に、だまされないでください。分別も能力もないのに、無反省・無責任に、教えたがる変質者です。
 
 
信者は「HSは自由な団体だ」と誇るけれども、実際はこのようにパワハラ加害者や毒親と同じやり方で信者を支配していることに早く気づいてほしいと思う。
 
楽山は、無神教カルトの教祖願望のであり、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害NPDであります。毒親となりパワハラが出てくるのは、もっと、うまくいって奴隷が増えてからでしょう。楽山には、正常な、親意識も、パワーも、ありません。恐ろしい疲労だけを与えてきます。
 
楽山は、詭弁と嘘と妄想とを駆使して、だましてきます。個別のことで全体の印象操作をする・・などというやり方です。罪悪感がありません。思いやり、共感などの、高等感情がありません。平気で嘘を吐きます。ネトウヨです。独自の発想も理路も感性もありません。
 
詭弁が体質となっている楽山です。それが、楽山の唯一の生き甲斐であり、生存するための悪知恵であり、それしかなく、理路も感性もないまま、図々しく押してきて、言い知れぬ疲労と徒労ともたらすので、決して、相手にしてはいけない病質者です。
 
 
 
※ 聖句:詩篇
 
 (詩篇64:5-7)
彼らは悪い企てを固くたもち、共にはかり、ひそかにわなをかけて言う、
「だれがわれらを見破ることができるか。だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。
われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。
人の内なる思いと心とは深い。
しかし神は矢をもって彼らを射られる。彼らはにわかに傷をうけるであろう。
 (旧約聖書)
 
昔から、悪と偽善のパターンって、似たようなものだったようです。楽山や、悪い政治家や思想家が、常套手段としている隠蔽と偽装は、昔からあって、その心も、そのパターンも、そんなに変わっていないということでしょう。
 
だから、例えば、孫悟空が、どんなに飛び回っても、如来様の手の内から出られないのと同じなのでしょう。また、ある意味、現象としては、自業自得で、災いを及ぼせば、巡り巡って、結局、自分に返ってくるということでもあるでしょう。
 
 
赤茶けた悪意

赤茶けた悪意
 
 
(2021年10月17日)
(2022年10月24日、再録+加筆)
 
 
 
  感動
 
山の頂に立って
そこから空を飛べとは言わないし
山を移せとも言わないが
もう少し感動させてくれないか
 
目頭を焼いて楽園を追われ
いや捨てて日没へ去れと言うのか
選民を押し潰した被愛の傀儡よ
 
伝わらないことを誰のせいにする
読み方が悪い
書き方が悪いはよしてくれ
賛美も聞き飽きた 十字架を
重い荷物にたとえる愚は
異言を放つ教祖様方
 
溢れるほどのブドウ酒
産みの苦しみに快感を束ね
満腹の上に飽食を重ね
発酵しすぎた唇が
開く赤い闇が
パンのみにて生きるものにあらずと
ずいぶん酢を噛んでいる
 
異臭の迷路から
生まれた詩の永遠が
死の永遠へ昇天する刹那
信仰は迷いさまよい漂いただ酔いながら
久しぶりに口ずさむ
古い讃美歌に泣いて
復古、復古と愛人を呼ぶ
素直すぎる狂気の沙汰だ
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
それを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
それを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
それを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから虚言が始まる
 
人には人に
限られた真理
人には人の
知るべき真実
人には人を
生かす言葉
与えられ、蓄えられ
泉のように湧き出づる
 
そうではありませぬのか
主よ
 
そうではないのか
ことばよ
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはいまいち理解できない話だった。
成績が良くて、異性と仲良くしてる同級生を、「いいなー」と羨むなら分かるけど、絞め殺したいくらいに呪うというのは分からん。
脚本家には、これがリアルな感情の動きなのだろうか。
>>引用ツイート
映画『呪い返し師―塩子誕生』大ヒット上映中!|公式アカウント
10月22日
嫉妬が生み出した「呪い」
成績優秀でクラスの人気者 五十嵐奈々子(#福永紗也)。ある日突然授業中に倒れる…。
そして奈々子の首には、謎のあざが…。
「序―嫉妬」
映画『#呪い返し師―#塩子誕生』大ヒット上映中🎬
<<
2022年10月23日
 
楽山を駆り立てている陰性の感情ですが、楽山は、嫉妬からの憎しみや殺意が分からないと言っています。気づかないのか・・いや、白々しい芝居、恐らく、善人アピールの嘘でしょう。「嫉妬が生み出した「呪い」」・・ルサンチマン、負け犬の遠吠え、殺伐とした楽山のリアルです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の病名~症状~性質は、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害NPD、サイコパス=精神病質、反キリスト、反宗教、無神教カルト、サディスト、エゴイスト、セルフィッシュ、誇大妄想者、被害妄想者、言論不適格者、単方向、ペテン師、嘘吐き、人間失格者、などです。
 
 
 
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はじめに楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
なるほど。
ブーメラン発言を繰り返す人の心理は、こういうものだったのか
>>引用ツイート
自己愛人間被害からの脱却
「何故か自己紹介とすら言える内容で他人のことを批判してくる人」
この人達は自分の問題を自分の問題だと認識できません。自分の悪いところや自分のコンプレックスは相手のものだと認識し、相手を批判します。
https://kinimininaru.com/archives/2616
<<
2022年10月21日
 
「ブーメラン発言を繰り返す」のも、「自分の悪いところや自分のコンプレックス」を相手に向けるのも楽山が典型です。上の楽山のツイートがそうです。自分が言われそうなことを、他者に向けてきます。こういうやり方を持っている人です。実は、無反省かつ無責任の卑怯な陰謀屋が、楽山なのです。
 
どんなに悪質になり、その結果、みすぼらしくなっても、折れないのは、楽山が自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからに他なりません。嘘と詭弁と妄想、そして訂正不能で、芝居の丁寧語を使う荒らしであります。騙されないために、決して近づかないでください。
 
最初の頃、数か月、楽山とコメントの遣り取りをして、大いに私は混乱し疲労しました。それで、以後は、批判を3年以上続けています。楽山は、こちらの意見を全く受け取っていません。人の意見を受け取れないのです。決して交流の相手にしてはいけない人です。常識的な理路も、共感性も、皆無です。
 
楽山が、一見、柔和で、中立で、やさしくて、いい人に見えるのは、世辞や、お付き合いの、丁寧語で交流している間だけです。宗教・思想など、真実追求のために、深く掘り下げようとすると、その欺瞞と、虚偽と、無視と、無理解などが表れます。真実を嘲笑う悪魔性と判断しています。
 
 
 
  悲惨な楽山2
 
 「狭き門」ジッド著
 2021年10月05日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
薄情で無理解な楽山が、また、キリスト教に、いちゃもんをつけてきます。そして、またしても、有名な小説をネタとして悪用しているのです。低劣な人というのは、都合がよいと思ったら、エサにありついた野良犬のように、何でも利用するので、こういう悪意の引用を平気でしてくるという例です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)7:13-14
狭い門からはいれ。
滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 
命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
 (マタイ7:13-14、新約聖書)
 
楽山は、いつも安易な道を選びます。この聖句について、とやかく言うより、この「滅びにいたる門」の聖句が自らに向かっていることを知るべきなのです。しかし、今日も、広い門を通って、堕ちてゆきます。悪意と敵意がバレバレとなっている楽山の猿芝居です。
 
 
*狭き門
「狭き門」は何回か通読したことがある作品だが、今回読み直してみたら記憶違い及び読み違いが三つほどあったのが分かったのでメモしておきたい。
*記憶の変換?
まず一つは、自分はアリサは家を出て修道院に入ったとばかり思っていたのだが、それは間違いだったということである。たぶん、アリサの性質からそのように思い込んでしまったのだろう。
*別れの理由
もう一つは、とある本で、アリサはジェロームに本当の自分を知られて幻滅されるのを怖れて、そうなる前に自ら身を引いたという解釈を読み、長らくそのように思っていたのだが、それは間違いだったということである。
 
殆どストーリーの説明がないまま、言いたいことだけを言ってくる楽山です。感想が感想になっていない、劣悪な文章です。楽山が目指しているのは、自己顕示欲からの読書家アピールだけだと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴が、いつも漏れ出てくるだけです。
 
恐らく、楽山は、本を読むだけの読解力はないと思います。また、平気で嘘を吐く虚言癖のサイコパスでもありますから、読書家気取りだけでしょう。まず、まともに読書することなど、楽山の偏狭で未熟な知性では無理で、だからこそ、見栄を張っているのです。
 
楽山は「解釈を読」んだと書いてあります。「狭き門」自体の感想が改まったのではなく、楽山は、解釈本を読んで、キリスト教批判に使えると思っただけでしょう。このような、下種なやり方で、インテリを気取って、人の良心をおとしめてくる楽山の低劣さを、知ってほしいと思います。
 
 
本作を読んでみるとアリサはとても宗教的な人物として造形されており、そのような考え方をする人物としては描かれていない。たとえば、アリサの日記にはこう書いてある。
おそらく最初のうちこそ、わたくしに対する愛情が、彼を神のほうに導いていたとしても、いまとなっては、その愛情が彼の妨げになっている。
(「狭き門」『世界の文学33』、ジード著、菅野昭正訳、中央公論社、昭和40年、p.245)
 」
わたくしが「自己完成をめざした」のも、ただひとえに彼のためだったような気がする。それなのに、その自己完成にも、彼と離れないかぎり到達できないとは、おお、神さま、それこそ、あなたの教えのなかで、わたくしの魂をもっとも当惑させるものなのです。
(同上、p.244)
 」
本作ではジェロームがアリサを偶像化していることに触れている箇所があるので、とある本ではその部分を拡大解釈していたのかもしれない。
 
小説の中の、一人の女性が結婚を諦めて命を落とすというストーリーによって、楽山は、現実の信仰を否定しようとするのですが、そんなフィクションの話より、現実には、楽山という精神病質者の悪意ある歪曲が、信仰を否定し妨害しているという害のほうが深刻なのです。
 
信仰は人間がするものですから、信仰による自己完成などありません。間違いだらけの自分を正直に祈って神に告白することで、罪の赦しによって、成長可能な人生を歩み続けるのです。完全ではなく成長が大事であり、これは、楽山には全く見られないものです。
 
 
*宗教による悲劇
三つ目は本作には悲恋ものというイメージがあったのだけれども、改めて読み直してみると単純な悲恋ものというよりは、宗教にまつわる悲劇というニュアンスが強いことである。
たとえば、アリサはこんなことを言っている。
「なぜ、あなたはイエスさま以外の案内者を求めようとなさるの?……わたくしたち二人は、それぞれ相手を忘れて神さまにお祈りするときこそ、お互いにいちばん近くにいるはずだとは思わなくて?」
(同上、p.145)
 」
「あなたのおそばにいると、こんなに幸福になれるのかしらと思うほど、わたくしは幸福なの……でも、いいこと、わたくしたちは、幸福のために生まれてきたわけじゃなくてよ」
(同上、p.215)
 」
「恋だって、ほかのものといっしょに過ぎ去っていくにちがいないわ」
(同上、p.226)
 」
ジェロームの「きみを見つけられないくらいなら、僕は天国だってお断りだね」という言葉には、次の聖書の言葉で返答している。
「まず神の国と神の義とを求めよ」(マタイ伝第六章三十三節)
(同上、p.145)
 」
この辺りを読むと、この悲劇は宗教に起因するものだとしないわけにはいかないだろう。
 
楽山の悪意全開です。聖書の「狭き門」という癒しと励ましの聖句に因んだ小説を、一部だけ引用して冷たさに見せかけようとします。楽山は、聖書の「せ」の字も知らず、細かいところまで、このような悪企みに満ちている冷血の人です。温かい情感がないのだろうと思います。真に受けてはいけません。
 
楽山は、信仰者がいだく使命感を悪用しています。信仰の使命感が、人間性を、生かすか、思い込みによって滅ぼすかは、個々によって違うのに、悪い例だけを挙げてキリスト教と信仰を全否定する印象操作でです。刷り込み屋は、こう言う卑怯な文脈を造るのです。楽山の悪だくみです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 (マタイ6:33-34、新約聖書)
 
楽山は、神の義を求めることを、全部捧げよ、とか、完全になれ、ということだと思っているのでしょうか。それは人間には不可能です。この世の持ち物や関係の全てを捨てたところで、神の義が得られるわけではありません。楽山の恐ろしく幼稚な曲解であります。"罪の赦し" を知らないのでしょうか。
 
一方で、聖書によれば、ただ、ひと言で、罪を赦されて、神の義を与えられることもあるのです。楽山は、神を、先入観で固定しています。つまり、何も知らないで言っているのです。この楽山のように、神と人の、主客を転倒してしまうと、悲惨な曲解になるという例です。
 
楽山は、まともに聖書を読んだこともなく、読解力もないので、敵意の妄想的曲解で「悲劇は宗教に起因するものだとしないわけにはいかない」という二重否定の曖昧語尾のボンヤリ言語によって、信仰を否定し続けるという極めて程度の低い反キリストです。
 
楽山は、人間にとって、何が大切か、何がいけないことか、個人が切実に求めるものが、まるで分からないまま、水漏れのように、だらしなくクレームをつけています。楽山のように、神の義などからは正反対の者が何かを言って、騙されるお仲間が増えないように、批判しています。
 
楽山の言う悲劇は小説の中のフィクションの話です。個人によって事情も違ってくるでしょう。人の恋愛の暴走が悲劇をもたらすこともあるでしょう。様々な状況で、不完全な人間を信仰対象としてしまうことの悲劇を思います。しかし、楽山の悪意は、それらよりもはるかに悪質であります。
 
ゆえに、一方、はっきりしているのは、フィクションで現実の信仰を否定しようとする楽山の未熟さ低劣さであり、自己愛の病魔から、信仰を否定するようなことを宣伝して、かつ、責任も負わない不全の者の言うことなど、いつでもどこでも信用するに値しないのであります。
 
信仰者が信仰を捻じ曲げてしまうと、様々な弊害があることは、既に、多くの事実によって、明らかであります。しかし、今、ここで、信仰を捻じ曲げているのは、信仰について、何も分かっていないことが、今まで書いてきたものによって、明らかになっている冷血非情の人、楽山であります。
 
いつもいつも、うんざりするような執念だけの筆致で、信仰を貶めてくる楽山の鬱陶しさは、目に余るものがあり、あらゆる題材の片隅を擦(こす)って拾ってきては嘲りを向けてくるのですが、一切が、無責任で無反省な発言に過ぎず、楽山の、無知と無恥の病質が見えてくるだけです。
 
 
巻末の解説にもこうある。
アリサの悲劇、それは現実的なものいっさいを拒絶するジェロームのアンジェリスムの所産であり、ここでは神への服従が人間的なものことごとくを封殺していく過程が、『背徳者』を裏がえしにしたカタチでたどられていく。
(同上、p.561)
 」
宗教が自然を捻じ曲げて悲劇を引き起こしたという物語を読んで、宗教に悪感情を持つというのはいささか単純にすぎることではあるが、
 
まさに、楽山が、宗教への悪感情に、誘導しているわけです。このように、明らかにおとしめる目的で書きながら、引用だからと、責任を逃れようとするのが、楽山という男の、嫌らしい処世なのです。腐っても、このようにだけはなりたくないものです。知恵が足りないのに見栄を張るのです。
 
 
宗教は場合によっては人の自然な感情に害悪をもたらすこともあるのは事実であろうし、自身が狭き門に迷い込まないためにも、大切な人を守るためにも宗教との関わり方には慎重を期すことが大切なのだと思う。
 
このように、「場合によっては」「こともある」という弱い表現で「事実であろう」と言ってくるわけです。楽山という偏向して無責任な卑怯者は、こういう表現をもって、出会う人を、ことごとくイラつかせてきました。一日も早く、この無反省無責任男が放逐されてほしいと思います。
 
宗教が悲劇をもたらすのは、楽山のような者が、無理解と偏見と曲解によって、宗教を、戒律や、強迫観念や、毛嫌いや、無責任の否定などの見なしによって、その恩恵から、人々を遠ざける時であり、まさに、不感不応・訂正不能のサイコパスの楽山による日記ブログが企んでいることです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDであるために宗教と信仰の心が全く理解できません。それを逆恨みして、宗教と信仰を否定しようと、陰謀を企んでいる病質なのです。温もりも潤いもない心から、楽山が放ってくる砂まじりの虫か蛇の毒のような文章に惑わされないでください。
 
楽山は、今まで、実のあることなど一言も言ったことがありません。無責任で無反省な発言は、結局、何の意義も作用も持ち得ません。楽山は、何も主張していないのです。どうか、楽山の文章をまともに読まないでください。楽山の空疎で無益な病質しか表れていないのです。
 
楽山の、狭き門を通ることのない、幅広い崖から落ちてゆくだけの、いつも、大事なところをぼかして、笑って逃げてゆく体質が表れており、その逃げ場が楽山ブログであります。決してまともではなく、このような人間がいようとは・・と呆れるばかりです。楽山は、冷静に冷淡に虚言を吐く男です。
 
楽山とは、3年以上前に、コメントの遣り取りをしたことがあります。こちらの言ったことに返せない人です。無視したり、嫌がらせを書いてきたり、話を逸らしたり、似て非なる理路の迷路に誘導したりで、その時点で、人格障害と判断しました。そして今まで、その判断は、覆ることはなかったのです。
 
 
知りもせず気づかないことの腹いせ

知りもせず気づかないことの腹いせ
 
 
(2021年)
(2022年10月23日、再録+加筆)
 
 
 
  堕落の煮汁
 
昼も夜も
煮汁は堕落である
煮汁は有害である
煮汁は徒労の末に毒を齎(もたら)す
煮汁は濃縮する
屋根の下
蒲団の中
煮汁は乾燥する
灰汁(あく)と澱(おり)と滓(かす)
あるいは苦汁(にがり)
しかし迎える朝
鼻腔が熱の水の閉塞を訴えても
乾いた体は渇いた咽喉(のど)は
臭気と空気を放出しながら
まず最初に水分を要求する
一日分の煮汁の支度である
それが一日の
測れない量の
罪の始まりであり
糧(かて)である
 
 
  自信とは
 
自信とは自分の能力・価値を信じること
キリスト者でも
自信を持つことはあるだろうから
自信と信仰は別だろう
自信とは
努力と実績に裏打ちされた自惚(うぬぼ)れか
努力・実績・自惚れ
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
三つとも無いことがある
怠け者・役立たず・自己嫌悪
飲む打つ買うはしないものの
持たないものは持たないのだから
結果は堕落した暮らしで
せいぜい努力するよう努力して
少しばかり学び遊び
あとは与えられるものを
ありがたく頂いて
頂いたものは頂いたのだから
裏打ちも
裏も表も
あろうとなかろうと
例えば庭が自棄の荒野になり
マイホームが自虐の牢獄になろうとも
心ゆくまで悔いたい
自信喪失者
シアワセのスポンジになるまで
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
悔いれば悔いるほど
心ゆくことなどないのだが・・・
 
 
  李下と瓜田の巷と地獄
 
阿鼻の地獄
叫喚の巷
さあ今日も元気に頑張りましょう
並んだ桃の木の下で
帽子を阿弥陀に被りましょう
大きく手を上げ腕を伸ばしてぇ~
おいちに、おいちに、・・・
さあ紐の解(ほど)けた靴を履いて
西瓜(スイカ)畑に入りましょう
靴紐を結んだらぁ~
大きく膝の屈伸運動
おいちに、おいちに、・・・
蟻の列を見つけたら
せわしく触角を動かして
コミュニケーション
声なき声を聞きましょう
阿鼻の地獄
叫喚の巷
街へ出たなら人の声
人の思いまで聞けたなら
さぞかし騒がしいことになるでしょう
何という誤解
と曲解で出来ている
阿鼻の地獄
叫喚の巷
さあ心臓が止まるまで
走らなければなりません
おいちに、おいちに、・・・
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
恥ずかしながら、自分もこれでした。とほほ泣き顔
はじめは「くだらん」と思ったものの、本は好きだったし、HS本は読みやすかったのでどんどん読むうちに、「これは本物だ」と思いこんでしまったのでした。
午後7:52 · 2021年10月4日
 
恐らく、嘘だと思います。楽山は、何ごとにも、本気で打ち込むことはなく、深い興味もなく、努力することもない人だと思います。本物も偽物も分かりはしません。その分、超常趣味で、羽根を伸ばせるとか、人に説教できるとか、かっこつけることだけを狙っているに過ぎないと思います。
 
楽山においては、深く掘り下げる気もなく、浅薄に、一気に努力せずに、できた人と思われたい欲求しかないと思います。本物だと言うインスタント宗教が欲しいのだと思います。だから、深い宗教より、いちゃもんカルトや、おまじないのほうを好むのでしょう。結果は醜いだけです。
 
楽山は、怠慢で、本物志向も思考もないから、気安い思い込みで羽根を伸ばそうとしては、浅さを見抜かれて、嫌われて、結局、学者とスーパーマン気取りの芝居で、独り笑いするしかなくなっているのです。哀れというより、惨めな男です。見苦しいから、早く消えてほしいのです。
 
楽山は、理路が整わず、共感もなく、かつ、反省機能がない自己愛性パーソナリティ障害ですから、何かを学ぶ姿勢もなく、何を言うか、なにをいうか、オレはオレはオレは・・と、自分信仰で自尊心を無根拠に膨らませて語って来ますが、冷静に見れば、軽薄な作り話だけなのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ワクチン接種については、メリットとリスクをよくお考えの上でご判断くださいならまだしも、「接種をおすすめしています」というのは軽率ではないですか。
とある看護師にこの件を相談したときに、「こちらから接種をすすめることはできないですけど」と慎重に答えていたので余計にそう思います。
午前7:04 · 2021年10月6日
 
誰よりも軽率な発言をしてきた楽山が、他者を軽率と言っています。前から言っていることですが、楽山には、人のことを言う資格はないのです。それこそ、楽山の被害に遭わなくて済むワクチンなり治療薬があったなら、私は熱心に「おすすめ」すると思います。
 
楽山にだけは関わらないでください。楽山は、本気では何も出来ない、中身のない、薄弱な意志の発達障害であり、病識がないために、自己顕示の悪意のアピールを企みます。うわべだけの丁寧語で、ネチネチと、しつこく粘着して、破れたギョーザの皮のような軽口になります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
自分の意見を書いて公表するためには、反省は必須であります。「人間の性」と言って、反省しないことを正当化している楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の症状を表しているに過ぎません。無反省は、いずれ、孤立と離人となって、楽山に表れてくるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山の言い訳2
 
 「ウソの国ー詩と宗教」を見てみた 2
 2020年10月04日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の、後付けの言い訳が続いています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の絡み突くような鬱陶しさと面倒臭さを感じます。
 
 
そういえば、ヤフーブログ時代に、シャローム氏が小室直樹の本の要約を書いたら、st氏はそれをシャローム氏の意見だと思い込んで批判しているのを見た記憶があります。私はこのときに、st氏は、語り手の立場、視点などが分からない人だと思いましたが、今回もまた同じ感想を持った次第です。
 
それは、記憶にありません。そのことを言って、けなしたいなら、引用したらどうですか。楽山の、このやろう、このやろうと、重箱の隅をつついているのが目に浮かぶようです。語り手が楽山なら、そこには、立場も視点もないと思っています。
 
 
*過去と現在
でも近頃は、霊能、神通力、奇跡…という超自然的なことは、前ほどは信じなくなったせいか、そういう超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった。
 
「霊能、神通力、奇跡…という超自然的なことは、前ほどは信じなくなった」ということは、前ほどではないが少しは信じているわけです。楽山の問題点は、信じ方を知らないまま、信じることを否定していることです。宗教的見解が甚だしく幼稚のまま、書いてくるので、明らかに迷惑~有害です。
 
「超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった」というなら、なぜ、超常の記事が多いのでしょう。楽山は、また白々しい嘘を吐いています。楽山は、超常~心霊趣味で、そこからしか語れないために、人間らしい理解が皆無なのです。
 
楽山の言う「近頃」というのは、どれほどのタイムスケールなのでしょう。仏様の声が分かるっぽい発言は、昔のことであっても、それをブログで語っているわけです。祈りや聖句などを書いてクリスチャン芝居をして記事に書いたのは、大昔というわけではないでしょう。それを訂正していないのです。
 
自分の興味によって、ころころ、立場を変えているだけという節操のなさは、宗教を語る者として、どこまでも身勝手であり通用しないです。今までの無反省と無責任ぶりから、ひょっとしたら、楽山は、自分が書いたことを、覚えていないのかもしれません。
 
 
概して、人の心は、現在過去未来で断絶しているのではなく、連続しているものでしょう。だからそこに書いてあるのは「超自然的なことは、〝まったく〟信じなくなった」ではなくて、「超自然的なことは、〝前ほどは〟信じなくなった」ということです。
 
「まったく」と「前ほど」で、言い訳をしている楽山ですが、霊言の記事を、最近も熱心に書いていたわけです。霊が分かるっぽい楽山の自覚は、ずっと盛んなのです。また嘘を吐いています。言えば、言い逃れの嘘ばかり、書けば、詭弁で誘導してくるのが楽山です。
 
言い方に注意です。「超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった」、つまり、ふつうの見方もそれほど抵抗がない、ときにはする、ということですから、一方の、眉唾物の超自然的な見方は、ずっと楽山の主要な精神のままなのです。
 
楽山は、弁明するような書き方で、結局、またしても、霊が分かるっぽいと宣言しているようなものなのです。誘導であることが、バレています。どこまでも、責任を負わない自己中の無責任発言です。社交と世辞で関わっていると、うっかり騙されてしまうような言い方が、楽山の悪性であります。
 
楽山に霊能力があるかどうか直接は知りようもありませんが、もしあるのなら、こういう悲惨な様にはなっていないと思いますし、この期に及んで、霊のことを持ち出すのは、事態が分かっていない、つまり、よほど、鈍感で安っぽい霊のお世話になっているのでしょう。まず、信仰は霊能力ではありません。
 
 
また、「前ほどは信じなくなった」といっても、それはあくまで自分の中の基準での話であって、世間一般の人々からみたら、今の自分であっても相当に信心深い方になるかとは思います。
 
また、否定と肯定を曖昧にして、煙に巻こうとしている楽山です。それに、宗教については、ずっと霊能で考えてきたことが記事に表れている楽山です。それで、信心深いなどと言っているのですから、楽山の霊能者気取りは、今後も続くということです。つまり、信仰者ではなく異常者だということです。
 
 
st氏は、「前ほどは信じなくなった」という程度問題の話を、信じるか信じないかという、あれかこれかの話だと解釈しているので、私の立場が180度くらい大きくコロコロ変わっていると勘違いするのでしょう。
 
信仰に、前ほどは信じなくなった、という本質があるでしょうか。それは、元々、宗教など何も信じてなどいない興味本位か、または、心霊を信じているのに嘘を吐いているかなのです。恐らく、楽山の教祖願望は、とても、いい加減なカルト+宗教の混濁した認識だということです。
 
つまり、前と大して変わらないところがあるわけだから、霊能かぶれの楽山は、現在形であり、脅威なのです。楽山らしく、ころころと言葉をいじっては、結果として、さらに、自らの汚い臓物をさらす結果になっています。爽やかな潔さとは対極にあって粘着する因業です。
 
 
*二つの方法
信仰心旺盛だった頃は、信仰がなければ真実は分からぬと考えていたけれども、近頃は信仰が強すぎれば現実が分からなくなると考えるようになったのである。
 
楽山の宗教観は、現実が分からなくなる現実離れの宗教つまりカルトの認識だと思います。楽山の超常趣味にも符合します。しかし、同時に、今の宗教全体を毛嫌いしており、取って代わるのは、自分だと思っているのでしょう。つまり、教祖願望なのです。
 
楽山に信仰心旺盛だったことなど無いと思います。それは、たぶん、超常に浮かれていた頃のことを、そう言っているのでしょう。楽山にとって、宗教に気分をよくしているときは、超常へ興味が向かうときで、宗教に悪口を言うときは、史実にこだわったり、幼稚な疑問だらけになるようです。
 
楽山は、自己愛のために現実が分からなくなっており、好き勝手に、こだわり方を変えて、仮想現実のような世界に浸かっています。楽山の半端な理路では、現実問題に答えることなど出来ませんし、奇跡の見方とか、妙に浮かれた言葉を並べるとか、不安定な精神状態が、ずっと表れてきたのです。
 
 
HSでは、信仰を続けることが第一目的になっているので、その邪魔になる現実は無視したり、霊的な理由付けによって無効化することがよくあります。上の文章はそういうことを念頭においたものです。
 
であれば、宗教と信仰について、一般的な書き方はするべきではなかったし、ましてや、キリスト教と信仰を否定するなど、以ての外であります。楽山は、迂闊であることを、自覚もないのに、明かす結果となっています。恐らく、これも、苦し紛れの出まかせの言い訳です。
 
 
また、キリスト教関連の本で、聖書の読み方には大きく分けて二種あり、一つは宗教的直観によって読むことで、もう一つは聖書研究の成果に基づいて読むことであり、どちらの読み方も大事だという話を読んだことがあります。
 
違います。どちらの読み方も、楽山のように、言葉面に執着して、小理屈だけをこねるようになったら、おしまいなのです。人間の心として受け取れるかどうかが、信仰の器ということです。それをしなくなったら、楽山のような、とても迷惑な廃物と汚物の宗教観?信仰観?になるでしょう。
 
 
私の宗教への向き合い方は、この影響を受けています。宗教的直観に頼るばかりで史実を無視するのではなく、明らかにされた史実だけを見てそれ以外は意味のない妄想として否定するのでもないということです。
 
霊能者気取りの楽山に、宗教的直観はないのです。また、史実にこだわって、神はおかしい、と言っていた楽山と同じ向き合い方をするようになる信仰は、クズ同然となってしまいます。根っこにおいて間違えて、しかも訂正しないのが、楽山です。どっちつかずは、結局、何も得てなどいないのです。
 
 
そういえば以前、某掲示板のキリスト教スレで議論したときに、相手方から、リベラルと評されたことがありました。この指摘の通り、私は自由主義神学に近いところがあるようです。
 
・自由主義神学 - Wikipedia
自由主義神学(じゆうしゅぎしんがく、英: Liberal theology, Theological liberalism、リベラル、リベラリズム)は、キリスト教のプロテスタントの神学的立場の一つ。その発生以来、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派の多くが採用する立場。
「自由主義」の語は社会学・政治学用語からの仮借であり、神学分野では「歴史的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する」の意である。教義・教理の批判的研究である教義史を確立させた[1]。
 
楽山は、理知的判断を表したことはありません。字面の浅い先入観による思いこみばかりを書いてきました。安っぽい、いちゃもんで、学者レベルのことを書いたつもりでいるのです。楽山は、少なくとも、キリスト教を、真っ当に解釈したことなど一度もありません。
 
 
あとは、奇跡の見分け方の記事というのは、これのことでしょうか。
・奇跡の受け止め方 (『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』) - 楽山日記
ドーキンスは無神論者として有名な人ですが、『神は妄想である』は名著だと思います。ドーキンスは無神論に入れ込み過ぎて、まるで無神論信仰のようになっていると感じられるところはあるし、不可知論に対する批判は極端に過ぎるところもあるとは思いますが、それでも『神は妄想である』は著者の情熱に満ち溢れていて、迂闊に触れれば手に火傷をしかねないほど、熱く、すごい本ではあります。
 
無神教カルトのドーキンスについて「『神は妄想である』は名著」と言っているのは、無神教カルトであることの証拠となります。無信仰カルトから「熱く、すごい」火傷を、既に負って、二目と見られない顔になっている楽山です。
 
批判に返すのではなく、訂正するのでもなく、「熱く、すごい本」などと、学者を褒めて、またしても、同列の学者・評論家レベルであるかのように、ぼんやり、自分を高めようとしています。真に受けないでください。学者らしい人の引用で、低劣な自分の自己正当化を企む楽山です。
 
ドーキンスという無神教カルトの書いた本です。神がいるなら証明して見せろ、証拠を見せろ、証明できたら信じてやる、といった乱暴なことを言っている人です。証明できたら、信じる必要はないのです。
 
 
*信仰は捨てよ
現実をありのままに見ようとするなら、信仰は捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといた方がよかろうと…。本来、信仰は尊いことだろうけれども、それが思い込み、決めつけ、偏見のようになっている場合は、信仰が目のウロコになってないかどうか、注意が必要なんだろうと思う次第である。
 
またしても、おかしな思想背景から、ほどほどにしといたほうがよいなどと、信仰を程度問題にしています。信仰は有無であり、ほどほど・・なんてのは、ありません。信仰は現実において生きるためにあります。正直さを持たない楽山には、正直な祈りもなく、信仰はあり得ないのです。
 
楽山にとって、信仰は非現実、という、とても安っぽい先入観が働いているわけで、そのことこそが、楽山の、信仰を語ることにおける致命的な欠格を表しているのです。楽山こそ、信仰の本質を、何も理解できていないのに、非現実を語って迷惑をかける荒らし行為を、一切やめるべきです。
 
「捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといたほうがよかろう」という信仰?など、持つ価値など全くない信仰?であり、真の信仰に救われた人々に対する最大の侮辱です。信仰の奥深さを全く知らない者の著しい誹謗中傷であり、単純な無知が、傲慢による無恥を伴うと、こうなるという例です。
 
 
「信仰は捨てよ」というのは、仏典にある有名な言葉です。また仏陀は無執着を説き、筏のたとえによれば、仏法にさえも執着してはならぬとしたといいます。私の言葉はこれらを下敷きにしています。
 
それに、信仰は、超常や奇跡を思い込むことではないということです。楽山は、またしても、今度は、仏教の教えを悪用して、字面だけを取って、語弊満載の「信仰を捨てよ」と言ったことを正当化したいようです。楽山は、何も分かっていないのに、執拗に、悪口を言ってくる執念深い異常者です。
 
よくは知らないが、執着を捨てよ、という意味でしょうか、"空" の思想でしょうか。楽山は、そういう説明が全く出来ないので、字面だけで味方と思い込んでいます。楽山は、食い違ってきて、反省するでもなく、絆創膏を当ててごまかすような後付けの言い訳をして、かつ、忘れるのです。
 
 
「ほどほど」というのは、「弦は、きつく張り過ぎれば切れてしまうし、緩くては音が出ない、ほどほどがよい。悟りもこれと同じで、苦行からも、怠惰な生活からも離れた、その間にある」という話を念頭においています。信仰もこれと同じで、本来は尊いものであっても、極端に傾けば、決めつけ、偏見、教条主義にハマり込むこともあるから、そこは警戒すべきだということです。
 
信仰の是非は、決して程度問題では語れません。語弊満載の楽山の言葉について、楽山は、言い訳も詭弁に終始しています。明らかになるのは、楽山が、信仰には全くの無理解であり、そして、実に言い訳がましいということです。決めつけと偏見に、はまり込んで言い張る楽山であります。
 
 
善悪は絶対的なものであるという考え方すれば、このような思考はおかしいと感じられるかもしれませんが、善悪は相対的なものであるという考え方からすれば、たとえ本来、善である信仰であっても、時、場所、相手、程度をまちがえれば悪に転化するというのは、特におかしくはなかろうと思います。
 
善悪を相対的と言いながら、楽山は、自身を訂正不能、つまり、絶対化していることに気づきません。絶対は、神のものです。そして、信仰は程度問題ではありません。妙な先入観を広めるのは、早く止めてほしいです。不遇の恨み返しに、できるだけ多くの人を駄目にしたいのでしょうか。
 
人間に絶対はありません。人間に出来るのは、正直な祈りと、反省と、努力だけです。楽山は、言い訳として、観念的なことばかり並べて、具体的なことを何も書いていません。こういうことだから、楽山は、実質に触れることが出来ず、何を言っても話にならないのです。
 
 
st氏は、これらの背景に気づかないままに「おかしな思想背景」と評していますが、これこそ仏教の教えを侮辱するものです。
 
楽山は、手段を選ばす、今度は仏教を悪用して、何でも人のせいにして責任転嫁してきます。背景を書かなかったのは、楽山です。書こうとすれば、必ず、書けていないことが、明らかになる楽山なのです。楽山の「おかしな思想背景」、仏教とは何の関係もありません。誰も、関わらないでください。
 
 
ちなみに、HSではしばらく前から、次のような信仰論が説かれているといいます。
「君よ、涙の谷を渡れ」(省略)
傍から見れば、何も考えず、何も判断せず、大川隆法を信じて、その言葉に従いなさい、というのは馬鹿げた話に思えるかもしれません。でも、HSによって救われたという体験を持ち、それによってHSこそ真の信仰だと信じている信者は、これを真に受けてしまうこともあるのです。
上の言は、こういうHSの信仰論や、その実態をも考えた上でのことです。だから、この宗教で救われた、真の信仰を得たと思った時であっても、冷静な自分を保つべきだというメッセージを込めてあります。
 
楽山は、常時、短絡して、のぼせ上がっている人です。冷静ではありません。冷静な記事を書いたことなどありません。いい加減で、無責任な記事しか書けないのです。だから、書けば書くほど、トラブルになっているのです。こういう偏見の固まりに、妄想は語れても、宗教は語れません。
 
上の引用、HSでは・・と書かれていますが、やはり、楽山は、アンチHSではないようです。だまされないように注意してください。楽山に、いかなる思想の軸もないと思います。私を批判するのに、仏教も、HSも、利用しているのでしょうか。血迷っているのかもしれません。
 
 
st氏は、楽山憎しの思いが強すぎて、楽山の文章を素直に読むことが出来なくなっており、その字面だけをみて、その真意も、背景事情も察せず、関心も持たず、やみくもに否定し、ひたすらに悪口雑言を繰り返すばかりになっています。どうかもう少しだけでも冷静になって欲しいと思います。
 
このようになります。これが、楽山のやり方です。批判を、憎しみに置き換えて、あとは、どう見ても、悪口でしょう。これが、楽山の読解無能力であり、責任転嫁であり、これで、批判返しのつもりなのです。付き合うと、肯定以外、大方、こういう扱いになります。つまり、楽山は、言論者ではないのです。
 
批判しても意味はないでしょう。しかし、批判しないことは、楽山という厄介を放置することになり、暗黙のうちに、受け入れてしまうことになるのです。それは、私が、生きて、何か書けるあいだ、断じて出来ません。被害に誰も遭わないように、関わらないように、努めて、批判記事を書くわけです。
 
 
*目的 
  「st、楽山 問題を振り返る」2019-12-20
  楽山日記(a)( 楽山日記(LD)とは別のブログです)
*実際のところ
ちなみに楽山日記とは何なのかと言えば、実際のところは、平凡人が平凡なことをつづっているだけのブログだ。閲覧者はわずかしかいない。
 
今までのことから、楽山は、悪人であり、偽善者であって、決して、平凡ではありません。平凡なことを綴っているのでもありません。楽山の言は、真に受けると、とても、危険な詭弁と誘導です。根こそぎ、否定するしかないのが、今も、結論であります。
 
 
yahooブログ時代のことではあるが、楽山日記は、stさんから沢山批判されても、閲覧者は増えなかったし、stブログからの流入も確認できなかった。stさんがコメ欄にきて連投し、議論をはじめたときは、閲覧者は増えるよりも、むしろ減っていた。特に女性の閲覧者は、普段は全閲覧者の三、四割いたが、ほとんどゼロになってた。
 
そういう、おもに、女性とか、気の弱い人を、楽山はターゲットにするということです。自分が何をしているか、まだ分からないようです。反信仰として批判するということは、楽山ブログの閲覧者ゼロを目指すということです。誰にも、楽山には、関わってほしくないということです。
 
 
st氏は他人をコントロールしたがり過ぎだと思います。〈自分は楽山とは関わらない、そのブログも見ない〉というだけではすまず、〈誰も楽山と関わってはいけない、そのブログも見てほしくない〉という風に、他人も自分に同調することを求めます。
 
同調ではなく、楽山が、それだけ危険だということです。嘘と詭弁の楽山と判断してから、危険ですと伝えて、広めるしかないのです。嘘と詭弁と誘導で、相手の気持ちや意思をコントロールして遊んでいるのが楽山です。ここで書いていることも、自身のプロパガンダ記事なのです。
 
 
シャローム氏に対しても似たような感じでした。シャロームと話をする人がいなくなり、そのブログも無くなるまで批判を続けるとか…。どうして、こうなってしまうのでしょう。
 
シャロームは、偽牧師ですが、ヤフーブログ終了とともに、所在不明です。ただ、私のライブドアのブログに、荒らしコメントを入れてきたことがあります。それに対しては、その都度、批判記事を書いています。楽山に、高慢な姿勢が似ていて、成りすましも疑っています。
 
 
ところで、シャローム氏の次は、楽山が標的になったようですが、楽山はいったい何人目の標的なのでしょうか? 楽山がいなくなったら、次は誰を標的にするのでしょうか?
 
長く批判したのは、シャローム、楽山です。批判する基準は、サイコパスか、サイコパスになりそうな自己愛性人格障害の要素がある場合です。文章を読めば、だいたい分かります。そして思った通り、批判を全く受け取らないことが、最初の証拠となります。
 
 
私は次の犠牲者は出したくないので、なるだけブログは続けようと思います。私がブログを続けていれば、その分だけ、st氏の攻撃は私に集中し、他の人に向けられる可能性は減るでしょうから。
 
楽山は、自分が加害者として批判されていると思っていないようです。犠牲者を出すのは、楽山のほうです。批判を受け取らず、批判に反論も弁明もせず、全部、批判者が悪いという決めつけで、根拠を示さず、嘘と悪口だけを向けてくる楽山に、批判が集中するのは、当然のことです。
 
勝手なことを言い続けたい欲望を「犠牲者は出したくない」と、これまた、あざとく正当化して、正義の味方の尊い犠牲であるかのように見せかけています。病的ナルシストは、こういう考え方しかできないのです。一日も早く、楽山が書かなくなることを願って止みません。
 
 
また仮に、私が記事更新しなくなったとしても、st関連の記事は残しておきます。次の犠牲者が出たとしても、これによってst氏の人となりを知れば、何を言われたところで気にする必要はないことが分かると思うので。
 
このように、楽山は、理路を整えて批判しても「気にする必要はない」という結論しか持たない病質者なのです。他の誰が、楽山と交流を持っても、回復不能な疲労を受けることはあっても、何かの良い教訓を得ることは、決してないと言えます。
 
楽山もシャロームも、自分の異常性に気づかないか、無視しているのです。どこに行っても、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、我を張って、自己顕示して、無反省で、無反応で、無理解で、無共感で、無責任の、災いをもたらすでしょう。二人は同一の成りすましでしょうか。
 
理路は、宗教と信仰について、読者に向けて書いています。楽山は、理路を理解しないので、厳しい比喩や雑言を楽山に当ててゆきます。理論家気取り、評論家気取り、宗教家気取り、被害者気取りの偽論客、楽山が、一日も早く退散することを願ってやみません。
 
 
偽論客の空しいあがき

偽論客の空しいあがき
 
 
(2022年10月21日、再録+加筆)
 
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
  まえがき 契約
 
今ここに保証のない契約をたてて
旅立つ前の支度のように
転がるプライドを箱におさめ
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
虚言と余言?を手紙にしたためて送ろうと思う
 
奴隷がしもべに変わるように祈りながら
呪いを自らに向けて
一つの段を降りてまた一つを降りて
もう降りようのないほど降りて
降り尽くしたとき
通じ合えることの乏しさを
触れることもなく
触れられることもないほどに
低く造られたことの喜びを
分かち合える友の少なさを
パン屑の奇跡になぞらえて
汚れの中に身を置いた
空しさの故に約束しよう
 
あなたがたは栄え
この身はいつか森の中に行って罪を悔い
見せない涙のように土に帰る幸いを知ると
 
 
  少年と空
 
少年は空に焦がれる
少年は病んでいた
 
少年は口笛を吹き
歌を歌った
 
歌は空に流れ
きらめく無数の塵となって消えた
野に遊ぶだけの
少年の毎日
 
いつか風が吹いていた
いつか草が倒れていた
日は暮れつつあった
燃えるように誰もいなかった
 
少年が空に投げた希望も、夢も
やさしさも、光も、鏡も、人形も
ついに空に届くことはなかったが
夕暮れ、赤く焼けた大地に
空はどこまでも
少年の面影を追い続けた
 
口笛は空に焦がれる
口笛は病んでいた
 
 
  ある朝
 
浅い眠りののち
終わろうとしている秋の
まだ暗い朝に目覚める
 
昨日のことを
「だったようだ」という
思い出し方をする
 
頭の中にもやのように
場所も定まらず
迷う悔い
何か言い損ねた
言葉でもあったのか
メモ帳に小さく書き留める
今日の予定
すでに果たされなかった夢の色
うつして小さなバラ色だ
 
空が白む頃には
今日の命たちの
また喜びと悲しみが始まる
 
捨てかねている命に幸いを
昔の歌を口ずさみながら
泣けてくる心に別れを告げて
朝の祈りをこめて
昨日にさようなら
 
もう少し眠れていたら
見たかもしれない夢に
さようなら
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、罪悪感がありません。反省をしません。非を認めることがありません。自身にマイナスの言葉を当てるときは受けを狙っての芝居です。「反省。とほほ」というのが最悪でした。にもかかわらず、常識人を気取ります。楽山は、成り立ってるつもりなのです。瓦礫の歴史しか持たないのに。
 
 
 
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