ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2022年12月

 
  楽山の妬み3
 
 幸福の科学の元幹部たち
 2020年12月06日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。リンクなど、省略。
 
 
楽山は、人間が、無反省・無責任、訂正不能の体質のまま、片寄らない言論者を目指せば、モンスターにしかならないという例になるでしょう。それは、自分の負うべき責任を放棄したがゆえに、自分という存在が消えてゆくプロセスでもあります。
 
本を読んでも、他者の意見を聞いても、反省もなく、責任も負わず、自分を高めるための自己正当化だけが目的ならば、ゆえに、都合の良いことだけ拾って、都合の良いことだけ受け取って、都合の良いことしか書かないならば、そこに、学習も成長もなく、ゆえに、いかなる解決も生みだせないわけです。
 
敵か味方か分からないようなことを書いて、しかも、日によって変わってきて、向上心がないままの高慢な人格ならば、関わる者を、傍迷惑の渦に巻き込むか、破壊するだけでしょう。あらゆる信頼を失うだけのプロセスでは、積み重なるのは迷惑と害だけなのです。個人的な憎悪や恨みではないところの公害であります。
 
楽山は、また、人の意見を引用して、自分の記事を書いてきました。断りもなく人を利用して、無反省の無学習のままの楽山の人生は、責任を負わないことで、真実を求める人を、オモチャをもてあそぶように傷つけて捨ててゆきます。公共の害である楽山には、もはや、見るべきものがありません。
 
楽山は、孤独のうちに、誰にも借りはない、責任は負わない、という世迷言を繰り返し、自らの存在をも、だんだん消していって、最後に口を利かなくなるまでを、誰の信用や信頼を得ることもなく、過ごしてゆくのでしょう。結局は、迷惑なだけの、誰にも相手にされない人生なのでしょう。
 
楽山は、教祖になりたいが、なるための人望も力量もないので、自己顕示欲だけになっています。もはや、真っ当に存在したいという意志もないのかもしれません。だから、楽山は、欲と意地だけで、考察のないまま自己顕示に終始して有害な煙のような実質のない存在となってゆくでしょう。
 
何か言っても、楽山は、世辞と、ごまかしだけで、批判に、反論もせず、答えもせず、逆に、いちゃもんの悪口を、言いたい放題に言うことだけはやめないのです。楽山には、邪悪な宣伝・洗脳・煽動者として批判される悪と偽善以外に、存在様態がありません。
 
 
*元幹部
ツイッターをみてたら、このページが貼られていた。幸福の科学の幹部だった小澤利夫氏が、キリスト者になったという話である。
・創価学会幹部、幸福の科学幹部からキリストへ
 」
*馬鹿げたこと
これは誰のことを言っているのかは明白だ。
考えてみると知識豊かな日本であるのに、宗教関係に至ると、本当に馬鹿げたことを平気でやっている。昔も今も、世の指導者たちの権力と、名誉と、傲り以外の何ものでもないのです。
肉体を有する人間は、生きていても、死んでも人間に変わりありません。ところが日本の宗教界には、「我は神なり」「私は仏なり」等と言っている者たちがいます。
神仏であるなら、人智で計り知れない現代日本の深刻な経済を、好景気に変えてみよ。神仏であるなら、三百万人の失業者に対し、納得のいく仕事や職場を与えてみよ。
 」
教祖が神を自称したり、生き神様を崇拝したりというのは、馬鹿げたことといわれても仕方がないことではある。 
 
宗教を、悪口で否定するなら、それに代わる救いを提示しなければなりませんが、楽山は、言いっぱなしで、責任を、一切、負わないのですから、相当に、いや、いっそう、気味の悪い、馬鹿げた存在と言われても仕方がないのです。人のことばかり悪く言う体質が表れています。
 
仏様の心が分かるっぽい気分で、霊が分かるっぽいことを、自らの超常体験として書いていてhttp://mn266z.blog.jp/archives/17513119.html、ホラーが大好きで、自ら不思議な能力者気取りで、リーダーか評論家気取りで記事を書いている楽山には、思想の実質が何も伴っていないのです。
 
このように、楽山は、人の意見など聞かずに、自分の気持ちの良さと都合の良さだけで、言いたいことを言い続けています。オレこそ生き神じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。そういう方向しか持っていないのです。楽山は、誰とも、誠の友人になれない人です。
 
 
*人生は一冊の問題集
「人生は一冊の問題集」という考え方は、HSから離れても頭に残っているようだ。HSをやめた今でも、教えにはよいものがあると考えているのだろうか。
人生とは、まさに一冊の問題集です。
 」
 
問題意識など、持ったことのない楽山が言っています。総て、自分のうちに、自我によって、解決したつもりになって、忠告できるかのように勘違いしても、それは、人間世界に通用しない、無反省と無責任の言動となって、妄想的自己確信から破壊になってゆくのです。
 
あらゆる問題は、楽山に言っても、一定しない楽山の、保身と妄想によって、徒労と疲労を残すだけです。批判する前の最初の3か月、楽山とコメントの遣り取りをしましたが、全くの無駄で、一種異様な徒労感と疲労だけが残っています。こういう人種とは遣り取りは禁忌!ということを敷衍したいのです。
 
相手にしてはいけない人だったと気づいて、私一人のためならば、相手にしなければ済むことでしたが、楽山は、キリスト教と信仰に対して、極めて幼稚な屁理屈で、無知~勘違い~偏見~妄想を表しながら、否定してきたので、以後、批判を続けています。誰も近づかないでほしいとと言いたいのです。
 
キリスト者(クリスチャン)には、議論や、理路について、苦手な人が多いようです。戒められている悪い言葉と批判を混同して、批判禁忌と思っている人もいるようです。悪意でキリスト教を否定してくる楽山は、反キリストのモデルでもあり、できるかぎり、批判を続けてゆくつもりです。
 
 
*生き神様崇拝
ここでは、『太陽の法』を高評価してる。
でも、神を自称する教祖には、どうにも我慢がならないらしい。
宗教に無知な人々にとり、特に『太陽の法』という「幸福の科学」の本は、宗教の何たるかを、やさしく解き明かしたものです。だからこそ、わずか十年の歳月で、数十万人の会員が世界中からその神の教えを求めて集ってきたのだと、思っています。
でも残念なことには、「我は神なり」という誤解される教祖の言動に、その頃から、その会にもいられなくなりました。私以外にも、去る人々が少なくありませんでした。
今、世で「私は神仏なり」という者を真に受けるのは、危険なのです。宗教界の中で、己が神であり仏であるとは、その教祖が口にすべきことではありません。
 」
ふと思い出したが、フライデー騒動のころだったろうか。それより前だったろうか。小澤氏がテレビのインタビューにこたえて、大川隆法は間違ってると思ったら退会するというようなことをいっていて驚いたことがあった。
支部では、これについて、小澤氏は大川隆法が間違うはずがないということを前提としたうえで、たとえ話をいっただけだと説明されたが、小澤氏のその後をみると、これは本気だったようだ。
 
楽山のような理屈倒れの精神の貧困な者でない限り、神聖なる存在は、今まで知らなかったような、魂の解放を伴う何からの光を感じることがあるのだろうと思います。聖書の、キリストと、救われた人々との交流に、それは表れているのです。楽山のような浅はかな知ったかぶりの言とは全く違います。
 
楽山の言うことは、誰かが言いそうな月並みなことばかりです。一応、筋が通っているなどと思って、頷いてはいけません。誰かが言いそうなことは、誰でも言えること、人真似に過ぎないこと、そういうことばかりを、中庸を気取って言っている楽山を、決して信頼してはいけません。
 
 
*十人の九次元霊
そういえば、九次元には十人の神霊が存在して、エルランティ、エルカンターレ、イエスなどが上位にあるという話があったのだった。でもその中では、イエスでなく、エルランティがもっとも偉いというニュアンスだったと思う。エルランティが、他の惑星から人類を連れて来たとか、神の光をプリズムにかけて分光させてるとか。でもまあこの辺りについては記憶が薄れてきているので、自分が間違っているかもしれん。
幸福の科学においては、東京大学出身の大川隆法ご夫妻から、イエス・キリスト様こそ、天上界の十大天使の中で最高の霊力を持たれる「神の中の神」だと、教えられてきました。
イエス・キリスト様のことは、今では聖書的な教えから理解しておりますが、イエス・キリスト様こそ最高の方であることは、じつは幸福の科学時代から教えられていたことなのです。
 」
 
楽山の「自分が間違っているかもしれん」を真に受けてはいけません。「記憶が薄れてきているので」ということと、同じ意味の、一種の安全弁なのでしょう。自分で、既に、間違っているかもしれないと思うなら、攻撃や否定をすることはなかったはずなのです。
 
実際には、無反省・無責任の楽山において、真摯に間違いを認める楽山を見たことがありません。上は、受け狙いの、白々しい謙虚芝居の、心にもない "トホホ言語" なのです。楽山は、謙虚芝居を、病質的思考障害の言い訳として、しばしば書いてきます。
 
もし、楽山が、間違える自分を認めていたら、否定した後で、平気で、祈りの三文芝居など、するはずはないし、そのあと、対話形式で、また、否定するようなことも、ないはずなのです。言ってることがバラバラです。思いつくままに、キリスト信仰を侮辱して、独りで優越感味に浸るのが目的でしょう。
 
それが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの人生なのでしょうか。結局、楽山は、楽山自身が積み重ねてきた負の実績によって、否定されてきたのです。今、ブログで書き続けているところの、他者を利用した雑言も、その類から外れるものではありません。
 
人を利用する、有名人も利用する、都合の良いところだけを拾ってくる、真剣味もなく繰り返し書いてくる、それらすべては、真実の追究ではなく、ただただ、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)である楽山の忌まわしき因業と症状であります。
 
 
*ファルコン告発
創価学会や、幸福の科学で経験したことの中には、なかなか文字にしにくいような事柄も、たくさんあります。イエス様は、
「さばくな、さばかれないためである」
と言われましたので、そうしたことなどはすべて、神様におゆだねしたいと思います。 
 」
ファルコン告発では、小澤氏がHS時代のことをあれこれ言わない理由について語られていたのを思い出す。
 
ファルコンというのはHNで、HSを批判した個人のようです。小澤氏というのは、元HSの幹部らしいですが、よく知りませんが、創価学会 → 幸福の科学HS → キリスト教と、目まぐるしい人生を送った人のようです。安穏として人をバカにする楽山とは対照的です。
 
このように、公表するにあたっての説明が何もない、というのが、楽山の記事の特徴です。罪悪感や羞恥心などの、高等感情の鈍麻によって、気配りもないのでしょう。恐らく感受性も乏しく、それこそ、活字のような型に嵌った精神で、合う合わないだけで結論するような偏見の人だと思います。
 
「さばくな」という聖書のキリストの教えは、カルトが、他者に、批判するな、という言い分のために、悪用されやすい聖句です。ここで、楽山が言っているのも、似たようなものでしょう。裁くことではなく、人間同士が、議論し、批判し、弁明することが、信じることの追求と学習が可能になります。
 
言論において、批判を許容する真面目な交流がなければ、教祖気取りの自己満悦か、言論は社交に堕して、真実追求など全然できなくなります。元幹部のことを書くのは何故でしょう。アンチは見せかけで、実際は、俺がいちばん・・と言いたいのでしょうか。
 
 
*原氏
ところで、原氏について検索したところでは、今もスピリチュアルな方面での活動をしているようではあるが、プロフィールには、幸福の科学も、大川隆法の名前も見当たらないようだ。高橋信次については恩師として多く語っていることと比べると、その違いに驚かされる。
教団との取り決めがあるために沈黙しているのか、個人的に思うところがあって伏せているのか、それともほかに理由があるのか、判然としないが、何か深い事情がありそうではある。
 
楽山が、この記事を通して、次から次に、知らない名前をあげるのは、煙に巻くつもりでしょうか。誰がどうした、という話だけになっている楽山です。「驚かされる」「何か深い事情がありそう」などと、結論のない表現も、いい加減にしてほしいのですが、楽山は、平気なのです。
 
それが、病質というものでしょう。楽山は、責任ある主張の出来ない人であります。反省・修正・責任感・直感・推敲・考察などといった言論のセンスが、自己愛性人格障害のために育たず、人格も鈍感になり、論旨がまとまらなくなってゆくのでしょう。
 
 
*期待
いろいろ難しいこともあるだろうけれども、元幹部には、できれば当時のことを率直に語ってほしいものだ。日々の平穏な生活を大事に思えば、口が重くなるのも致し方ないのではあるが、当時の本当の事情を知ることで救われる元会員、および現役会員とその家族は大勢いるだろうと思うので。
 
楽山は、元幹部に対して何かを勧め促すような器量が自分にあると思っているようです。実際は、反省せず、責任を負わず、思い付きで、いい加減なことを言い、それで、まともぶっている楽山は、ただ、ひたすら精神病理の袋小路を徘徊しているだけです。
 
誰からも信頼されていないことを、言葉でごまかして、ヒーロー気取りでいたいのでしょう。人間、堕ちると、あるいは、至らないと、こうも卑しくなるものなのでしょうか。取るに足らない楽山の、中身のない背伸びが続いています。楽山は、関わる人も集団も、結局、裏切るでしょう。病質の宿命でしょう。
 
何も負うことのできない人間が、不都合を無視することで、万能を得たかのように批判されても批判されても、自己正当化に明け暮れて、とうとう、自分の意見など、何も見えなくなって、何も成り立たなくなって、人の意見ばかり、貪っているようです。
 
 
 
評論する亡霊

評論する亡霊
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年12月31日、再録+加筆)
 
貪る(むさぼる)
 
 
 
  哀歌・性
 
想いがうまく伝わらなかったり
想いが独り善がりに伝わりすぎたり
あるいは些細なことから
勘繰(かんぐ)り
疑い
妬(ねた)み
嫉(そね)み
ときに怒ってしまう
人間の性(さが)であろうか
そうなってしまう人間同士の
関わりというものが
哀しいね そんな
哀しいことばかりではないのだけれど
ただでさえ己(おのれ)の業(ごう)や罪の
重さに宿命のように
押し潰されそうなのに
だから もちろん
露骨な悪意を向けられたときには
Fight Fright
or Flight
抗(あらが)うか戦(おのの)き
竦(すく)むか逃げるか
することになるけれど
そうでない限り
本物か偽物か分からないと
疑う性を片隅に抱えながら
どんなちっぽけな出会いも
たとえイミテーションでも
込められたものは
とても壊れやすいかもしれないから
小さな宝石として大切に
そっと扱わなければいけないんだ
あるいは些細なことから
解(ほぐ)れていくまで
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
 
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁(あく)から澱(おり)までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
 
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そうではなく、楽山固有の悪と罪と偽善だということです。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。人間以上だと思っているのか、自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。

 
 
 
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昨日から、デタラメなポップアップの広告が出て来て、×を押しても消えません。ウイルスか荒らしでしょう。楽山でしょうか。ついに、あからさまな犯罪者になったのでしょうか。やはり、サイコパスなのでしょうか。スクショ画像を添えておきます。作業画面を妨害しています。犯罪者楽山と呼ぶことになりそうです。
 
荒らしか22022-12-30_22-34-44  (2)

荒らしか2022-12-30_22-34-44  (1)


 荒らしか32022-12-30_22-38-52

 
  信仰と教義と学問そして思考3
    2013年03月13日を再録+必要なら修正
 
 
コメントの日付は省略します。ずいぶん昔の、ヤフーブログ時代の、今では見つからないブログ「日常×非日常」の記事「「信仰」を捨てて神に従う」のコメントから編集を加えて記事にしています。
 
 「信仰をなくす(必要性)」について
 
信仰、さらには宗教というと、人間としての共感以外にも、余計なものが着いてきてしまうことがあります。「信仰をなくす」は、信仰がなければそもそも言う必然のないことです。信仰と思っているものの中の、余計なものを削ぎ落とすか、少なくとも、区別することが必要です。
 
 
>「信仰をなくす」ことが必要だという考え方が
>別の「信仰」に基づいているなら、それはすでに偽善的
 
これが端的に表していると思うのですが、「信仰をなくす」必要性を考えることが、既に何らかの教義的信条?に束縛されていることを意味しているからだと思います。つまり、言葉だけを固めるだけでは、なくさなくていい信仰を明らかにすることには、近づくことさえ困難になります。
 
隣人愛さえ全うできない罪深さから神への恐れを抱いているなら「隣人愛」の行為が優先するのは当然のことで、それは、キリストが、実践したことです。なのに、慣習のような「古い教義的考え」をなくすべきであるのに「信仰をなくす」と言ってしまうと、まだ的を射ていない感じです。
 
一人一人違う信仰を、言葉で一致させることは不可能です。厳密には言葉も一人一人違うからです。大事なことは、キリストに救われた人間の心を、感じ取り、考えることでしょう。救われたのは、教条に専念した人ではなく、そういう人に軽蔑される悲しい人々だったということです。
 
また「私の神様」が何を今お望みであるかを考えるときに、長く染み付いた教義と教理的思考が束縛なのです。この場合「なぜ神は・・」は「神様、分かりません!」という悲鳴に近く、嘆きと叫びであって、「なぜ神は・・」を神義「論」として答えを得られるという考え方がおかしいのです。
 
教義、教理、信条は、信仰のヒントとなる言葉であります。大事なのは、信仰が生まれる土の器、という比喩で表された信仰の心なのです。信仰は、心以外にはないからです。
 
かつて、偽牧師シャロームshalom は、心のどこを探しても信仰はないと言っていました。土の器という言葉から、何か魔法の器があり、魔法のような信仰?を受け取るつもりなのでしょう。人間離れの偽善者は、そういうところまで、無理解を魔法に置き換える害毒となります。
 
 
 「クレド」について
 
クレドは、辞書によると信条、また「われ信ず」とありました。神という御方として・・選択肢が他にない人においては「われ信ず」は肯定せざるを得ないものとして、私にもあります。祈り嘆き叫ぶ相手として・・であります。
 
いつでもどこでも正しく通用するかのよう語られる「信条」は、そのものが言葉である以上、実感できるように心と、隠された導きを要することです。最悪なのは、"分かっている" と言うために、導きを決めつけて思い込むことです。人は、神の関わる信仰を、完全には知りえません。
 
信条を、信仰そのもののように語ることは、批判対象になるだけでしょう。信仰は、形無きものです。神と、神の賜物は、推測や想像は可能でも、人が確定することは出来ず、ある時、判断するだけであり、不可知と弁えるべきことです。聖書と体験から、成長してゆくのが、人の信仰です。
 
 
「教義的信条という類のものは信仰に含まれない」
 というコメントについて
 
本当に含まれていないでしょうか。神学を知らない私でさえ含まれていないとは言えないから自己も含めて批判したいのです。教義的であっても信条は、信仰そのものではなく、忘れないほうがよいヒントとしての道しるべとしての役割を持っていると思います。言葉は、そういうものです。
 
ヒントは、ヒントとして、大事にすればよいのですが、若き日より教会などで教えられたものに無条件に「信仰」の名を付けて、当為的なものやROM回路的思考のような言葉が、無意識にこびりついていて、先入観のように、いろんな場面で顔を出してくるのを自覚しています。
 
 
 「神学批判」という批判コメントについて
 
少なくとも私はよく知らない神学を否定することは出来ません。私は、人間の信仰のあり方として望ましくないことを批判しています。神学は、信仰の参考として、提言や仮説は可能ですが、信仰は、何学とも何論とも同等ではなく同一視できないと思っています。
 
学問はその前提に従って整合性を追究するのでしょうけれど、神の関わることだから信仰の整合性は、人の側には完全には解明されません。人が信仰の整合性を学問に求めることは出来ないと思います。無理に整合性を図ろうとすれば、それは自己満足そして自分信仰への固着になります。
 
信条について・・神の全知全能を信じるかと問われれば、私は信じると答えるでしょう。しかし神についても、全知全能についても、全知でも全能でもない私という人は理解できません。神の全知全能はしばしば人には耐え難いものだと思います。
 
つまり「分かりやすいとか分かったかのような神の全知全能」はあり得ず、信仰は、神の全知全能を信じるという言葉だけでは成り立ちません。それは、言葉としての出発点に過ぎないのです。
 
学問は、失礼ながら興味に始まっているような気がします。
 
信仰は、私には、まさに魂の死活問題ですから死ぬまで考えます。
 
「学問的思考(整合性をつけるべきもの)と信仰的思考(整合性にとらわれない思考)とを区別して考えてゆかないと、結局、誰にも共有されないままに終わってしまうのではないでしょうか。モノローグで終わりたければ、それでよくても、ダイアローグにしたい私には耐えられない」
 
 
※ ここからはコメントではなく私の感想です。
 
なんとなく分かるような気がするのは、私は学者ではないので「学問的思考(整合性をつけるべきもの)」を持ち合わせていません。ですから専門用語をいっぱい使った学者同士の遣り取りには入って行けません。
 
楽山の言うことを受け入れても、何の役にも立ちません。詭弁によって理路が混乱し、曖昧さによって感性が鈍麻するだけです。そして、神経~精神が疲労し、人格そのものが鈍化してゆき、最終的には、人格が破壊されて、楽山と同じようなボンヤリ人間になってしまうでしょう。
 
「日常×非日常」ブログは、哲学、神学、人間学のブログですが、テーマは広く、震災などの現実的な問題を始め、文学、音楽、等々、また部分においては日常語で表された記事や解説も多いので、信仰的思考(整合性にとらわれない思考)について私も時々コメントを入れてきました。
 
さて信仰的思考、ここでは信仰について語るときはどうかというと、やはり、日常語レベルで、ある程度の整合性が必要になります。論理的整合性というと難しくなりますが、支離滅裂であってはいけないし、思い込みの繰り返しやごり押しであってもいけない、ということです。
 
信仰者としての聞く態度と思考には、賛成意見も反対意見もあるわけですから整合性というか説得力というか、根拠や筋道は必要になります。詭弁や思い込み~妄想を除外する必要もあるでしょう。キリスト者の共感として、キリストの共感が聖書にしるされてあり、信仰者のキリストへの共感があります。
 
信仰は理屈ではないし、神の側の整合性を語る能力は人の側にはありません。しかし人の側の信仰の受け取り方は、人間性の問題です。人間性の問題である以上、信仰における人の姿勢や態度そして思考について、信仰者という人間の共感に基づくところの弁えは必ず問われるのです。
 
それらすべてに、決定的に、致命的に、不合格なのが、楽山と、シャローム、という、良心のないゆえに、罪悪感も、共感もなく、妄想的な決めつけと信条だけの異常者なのです。信仰を持たないだけではなく、神に逆らって、反キリスト思想を刷り込もうとする彼らに、関わってはいけません。
 
 ※
 
現実を生きる信仰は、決して超常を理解することでも信じ込むことでもありません。宗教と言えば超常という先入観を作ったのは、キリスト教と他の宗教そしてカルトの責任であります。宗教と信仰の、現実の人間との関係をずっと考えています。超常の理解力は人間にはない、ゆえに超常と呼ぶのです。
 
人間が生きるために必要なことが超常であるなら、人間は決して救われません。キリスト教はキリスト信仰によって、キリストと心貧しい人々の間に生まれた温もりと潤いによって始まっています。キリストの、人々への悲しみへの共感こそが、人間が生きることの源泉となっています。
 
超常奇跡ばかりを語る説教を信じてはいけません。人間が生きるのには、人間らしい悲しみの共感が必要です。言葉ではなく、生きる理由が絆として心にあり、共感と癒しが人生に同伴することが、キリスト信仰の賜物であります。キリストとともに・・というのは、具体的には聖書とともに・・ということです。
 
超常は神のものです。まるで我がもののように超常を語る口に惑わされないでください。そのために、人には手に負えない、全知、全能、絶対、完全、永遠、不変、・・という言葉が、神を表す言葉として用意されました。超常に近づくのが信仰ではありません。祈りとともに生きるのが信仰です。
 
 
整合性

整合性
 
 
(2013年)
(2021年)
(2022年12月30日、再録+加筆)
 
 
 
  薄い
 
薄い
あまりにも薄い
ネットにおける匿名の関係
しかし利害でも理屈でもなく集うとき
薄い
最も薄い
目蓋の皮膚
だから目の
最も近くにある
 
 
  甘栗
 
甘栗を噛む
ぱりっと音がする
指で殻を割る
ころりと栗の実が顔を出す
今度はうまくいったと口に放り込む
手に残った小さな殻
ふと内側を覗(のぞ)く
しばらく見入ってしまう
一粒の小さな実を結ぶということ
 
 
  祈り・潜熱の循環
 
冷たい熱に
まだ温もりがあるならば祝福を
 
真空にエネルギーがあるように
虚空には潜熱がある
保存則を守りながら
やがて諦観となって灯火を揺らす
諦めとしての灯火と
諦めと裏腹な灯火と
どちらが燃え上がるでもなく
対をなして虚空を漂う
いつか再び温もりとしてこの胸に
還ることがあるでしょうか
 
クリスマスに何のお手伝いもできず
凍りついた無為のまま
震えて過ごした冷たい熱に
まだ生きて祝福を賜るならば温もりを
 
内に秘めた温もりを
人々の間に灯す術を知らず
潜熱として閉じ込めて
冷たい空へ解き放つ
冷たい空は冷たいままだ
身は熱を奪われてますます冷たい
何も伝わらなかった
何も伝えることができなかった
と次の潜熱が疼き始める
 
 
  アノニマス
 
気がつくと群れの中にいた
仕事をしているらしくもあり整然として
そのくせ働いたときの充足感も
疲労さえもなかった
そこではお互い顔を見ることも
肉声を聞くこともなかった
ある者は快く語り
ある者は苦悩をのぞかせ
ある者は淡々と語った
首のない会議
しかしその集まりは匿名ではなかった
それぞれが仮の名であれ名乗り
責めがあれば負う覚悟さえ示していたのだ
肉声を聞こうとし語ろうとし
高めようとする姿勢
それがすべての始まりであった
もどかしく伝えようとして伝わらないもの
もどかしさゆえに語ろうとしていた
それが終わりのすべてであったかもしれない
ある者はうなだれて去り
ある者は再開を期して帰っていった
 
気がつくと独り疲労があった
誰のために、と
ふと思った何のために
切られることもなく選ぶこともせず
自分を切り刻んで見せるだけで
高められる何があろうか
失ってみれば確かにその通りであった
旅立たせる翼はなくても
そばだたせる耳ぐらいは欲しかった
それだけはどうしても
 
ここで完ぺきなほどに匿名の
独りの声は宙にかき消え
磨いてきたつもりの刃に
ぽつぽつと浮いている錆を見つめていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のしてきたことは、「人間の性」で「自分もそんな風」という人間共通のことでは決してないわけです。楽山の固有の罪と偽善です。楽山は、空しい詭弁の言い逃れをしています。多くの人を、無駄に疲れさせ、だましてきたのは、罪悪感のない病質です。
 
良心のある人ならば、こうはなりたくないと思うような人間に、楽山は、なっているのです。言葉だけ見ても、バレていますし、これからもバレてゆきます。もはや、いくら、良さそうな言葉を見繕って並べても、病質は、必ず表れてるでしょう。楽山の、一切が、詭弁という無駄なのです。
 
反キリストの楽山と、偽牧師シャロームは、同一の成りすましかもしれませんが、いずれにしても、ネットの匿名性を悪用して、宗教、思想、映画、霊能、などを、興味本位で書いて面白がっているだけの、荒らし体質の者たちだと思います。決して関わらないでください。
 
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害:診断基準
 ハートクリニック こころのはなし
ハートクリニック こころのはなし
 
誇大性(空想または行動における)、賛美されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。
 
自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
自分が“特別”であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達(または団体)だけが理解しうる、または関係すべきだ、と信じている。
過剰な賛美を求める。
特権階級(つまり、特別有利な取り計らい、または自分が期待すれば相手が自動的に従うことを理由もなく期待する)。
対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する)。
共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
尊大で傲慢な行動、または態度。
 
 
 
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  あくどい偽善者楽山
 
 「和解」志賀直哉著
 2022年12月27日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
自分が上だという前提の奴隷になって意地を張る楽山には、あらゆる和解は成立しないでしょう。人間として最低限の身の程を弁える気さえないようです。読んだ、読んだ、・・で、内容が皆無の記事を書くのは、今に始まったことではありません。しかも、どんどん悪くなっています。
 
 
志賀直哉の「和解」を読んだ。本作は主人公とその父親の確執と和解をつづったものだが、自分には父子関係のあれこれよりも、主人公の悠々自適な生活ぶりが印象的だった。これには志賀直哉の創作方法を聞いた芥川龍之介のつぶやきを思い出さずにはいられない。
 
楽山が題材にしてきたから言いますが、楽山の親との関係はどうなのでしょう。最悪で見捨てられたのでしょうか。楽山と家族との話題がないようです。それとも、親族もだましているのでしょうか。特殊な家族関係の履歴がありそうな気がします。そうならざるを得ない病質を楽山が持っているからです。
 
「思い出さずにはいられない」・・で、書かないのです。読めないけど、知ったかぶりしたいのでしょう。知りたければ読んだらどうかね?・・とでも言いたいようです。楽山は、いかなる作文の方法も持たずに、宗教を貶めてくる人ですが、有名人を引用しては、有識者気取りの芝居をしてきます。悪いお手本です。
 
 
ところで、今回は「精選 名著復刻全集」の『夜の光』に収録されているものを読んだのだが、やはり戦前に発表された作品は旧字旧仮名遣いで読むと味わいがあってよい。これまで志賀直哉の作品は新字新仮名遣いのものばかり読んでいたので、余計にそのように感じるのかもしれない。このような復刻版はもっと増えてほしいし、そうでないとしても旧字旧仮名遣いで発表された作品はそのままの形で本にしてほしいものだ。
 
呆れます。本文の感想が、まるで無いのです。これで読んだ、感想文書いたことにして、志賀直哉も芥川龍之介も読みましたとか言いたいのでしょうか。書けないのでしょうか。楽山は、恐らく、親族に顔向けが全くできない人だろうと思います。文脈把握のできない読書障害も疑っています。
 
 
 
 「教会健康度チェック」を試してみた
 2022年12月27日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
楽山は無神教カルトの自己愛性パーソナリティ障害NPDであることを、カルトは嫌いという善人芝居でアピールして、ごまかしたいようです。うまくいくと思っているのでしょうか。既に3年以上の、中身の無い雑言しか書けない履歴があります。短い記事も、寸足らずになり、乱れてゆくようです。
 
 
*教会健康度チェック
ツイッターを見ていたら、「教会健康度チェック」というものが流れてきたので、とある教団のことをチェックした結果をつぶやいて↓みた。 リプによると、どうやら他の方々も、自分と同じような結果になったらしい。やっぱりそうなるよなあと思う。
 
「やっぱりそうなるよなあと思う」根拠を書かないのでしょうか。アンチなら書くでしょう。アンチじゃないからでしょうか。教祖願望の妄想があるからでしょうか。いつか教祖になって、偉いと言われたいのでしょうか。誰かを見返してやりたいのでしょうか。騙す範囲を広げたいのでしょうか。
 
楽山は、自分が極めて不健康なのに、教会を評価できると思うのでしょうか。楽山は、訂正不能で、自己中で、無反省、無責任、平気で嘘吐き、詭弁で相手を罠にはめて疲れさせる罪悪感のない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)~サイコパスであろうと判断しています。
 
 
 ↓
楽山のつぶやき
★こも/楽山日記3
@komo266
とある宗教を念頭に置いて試したら、合計150でした。さて、これは健康といえるのか、いえないのか?
 
アンチHSを気取っていて、キリスト教を超常奇跡が起こらないからと否定してきた楽山です。どの宗教か書かないわけです。下記の項目を、概略でも書かないのです。無神教カルトの教祖願望が楽山の夢だからでしょうか。このような短い記事を書いているのは、何も、伝えたい動機がないからです。
 
万事につけ、嫌らしい筆致になってしまいます。教会のカルト化とは何かも書かないのでしょうか。つまり、楽山にとっては、どの宗教もカルトで、自分の無神教妄想だけが真理だと思っているのでしょう。あらゆる真っ当な宗教の敵が、実は楽山です。
 
 
 教会健康度チェック
 
下記のことについて、0~3から選び、点数の高いのが不健康ということでしょう。楽山は、自説の無神教カルトを広めてヒーローになりたいのでしょうか。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山には無理という結果と経過が、すでに3年以上続いています。
 
 0 あてはまらない
 1 どちらとも言えない(わからない)
 2 少し当てはまる
 3 まったく当てはまる
 
Ⅰ 指導者の権威主義
1 指導者は、「私は特別に神から選ばれた者である」、「私は神の代弁者である」、「私は特別に神に近い関係にある」と主張する
2 指導者及び信徒を権威づけるために、しるし・奇蹟を利用する。
3 指導者及び信徒を権威づけるために、直接啓示を強調する。
4 指導者を権威づけるために、「使徒」や「預言者」と自称する。
5 指導者は信者に対して「あなたは霊的子どもだし、何もわからない。だから、私の言うことを聞きなさい」などと口癖のように言う。
6 指導者が不道徳や違法行為に対する責任を取らない。
7 牧師が誤りを犯しても、覆い隠すように指導する。
8 「指導」の名の下に、人格を傷つけるような暴言をはいたり不当な罰則を科すなど、パワー・ハラスメント行為やモラル・ハラスメント行為がある。
9 指導者は絶対的存在で、指導者に対する従順(もしくは不従順)は、神に対する従順(もしくは不従順)とみなされる。
10 指導者に絶対服従すべきこと、指導者に間違いがあっても批判したり意見したりすべきでないことなど、聖書を使って自己正当化する。
11 指導者について、信者間で意見や見解を述べる自由がない。
12 指導者は信者の質問や意見に耳を貸さずに、逆に怒る。
13 指導者の方針に対して反対意見を述べると制裁が加えられる。
14 指導者に批判的な信者を集団で取り囲んで攻撃することがある。
15 指導者を崇拝する(過剰な敬意を払う)ように、いつも信者を教育している。
16 指導者の矛盾が著しい。(教会の規約を無視、教えと実生活が著しく違う)。
17 指導者が特別裕福な生活をするために過剰な献金をさせる。
18 批判者に対して、「名誉毀損だ」とのクレームを濫発したり、「裁判するぞ」との脅しをたてに使ったりする。
19 批判者に対して脅迫や嫌がらせの文書を送ったり電話をしたりする。
問1~19 の小計
Ⅱ 教会(関連団体・集団)の公共性 
20 教会内に傷害事件や自殺者や自殺未遂者が普通より多く出ている。
21 教会周辺に暮らす住民生活への配慮が全くなく、苦情が多く出てくる。
22 教会活動の正当性をたてに、法を犯すことがある。神の名を用いて、他への迷惑行為について 責任を持とうとしない。
23 教会が関わって与えた被害や損害に対して誠意ある対応をしない。
24 「霊的訓練」の名のもとに信者に対する抑圧・虐待が起きている。
問20~24 の小計
Ⅲ 性的被害
25 指導者のセクハラ行為や疑われる行為がある。
26 性的虐待・性的強要の被害がある。
27 過去の性体験を指導者に告白するように、あるいは会衆の面前で告白し悔い改めるように強要される。
28 指導者が性行為について不当に介入する。
問25~28 の小計
Ⅳ 信者の健康被害
29 必要な診察や投薬が、「不信仰」と攻撃される。
30 偏った聖書解釈によって、必要な医療行為を制限されたり、禁止されたりする。
31 偏った聖書解釈のために、心身に異常をきたす人がいる。
32 長時間の伝道や奉仕活動を無理に連続して行わされ、心身に異常をきたす人がいる。
33 やるべき奉仕活動が多すぎて、慢性の睡眠不足に悩まされる。
34 劣悪な住環境に住むことを強要され、健康を害する人がいる。
35 長期間の断食を強要される。
36 病気や怪我は、全部、「悪魔のせい」とされ、医療行為は必要ないと言われる。
37 信仰や祈りの度合いでいやしを関連付ける抑圧的なメッセージや言動をする。
38 身体の不調や病気の時でも、教会の活動を休んだり医師にかかったりする自由がない。
問29~38 の小計
Ⅴ 子ども、未成年、家族の問題
39 子どもに対するせっかん・体罰が正当化され、日常的にある。
40 公教育を否定し、教会内の教育だけを正しいとする。
41 高校や大学進学など高等教育を受ける自由を制限されているか、もしくは必要ないように教えられる。
42 信者の家族が不仲になったり離婚したりなど家族崩壊が頻発している。
問39~42 の小計
Ⅵ 信者の経済被害
43 会計報告がほとんどない。または、適正な会計報告・監査がされていない。
44 有給スタッフへの給与は、支払い能力があるにもかかわらず、給与が支払われないか、 異常に低い額である。
45 財産や物品の個人的所有をほとんど認めないか、著しく制限する。
46 教会が家族に内緒にさせて多額の献金を強要する。
47 生活に困窮しても、教会が献金を強要する。
48 家族、友人、また消費者金融やカードローンから借金させてでも献金させる。
49 経済的に元の暮らしに戻れないほどの財産の寄付・高額の献金を求める。
50 私的な生命保険を解約させたり、資産を処分させたりして教会に献金させる。
51 教会が献金額に関する相談に一切応じない。献金額が減ると嫌味を言ったり、態度が変わる。
52 脱会者やその意思を持つ者が、財産返還を要求しても、それに全く応じようとしない。
53 健康保険、生活保護や年金の受給が制限される。国や家族から経済的支援を受けているのに、 献金を強要される。
問43~53 の小計
Ⅶ 極端な教理
54 「私たちだけが唯一正しい宗教(キリスト教)である」と言っている。
55 他の宗教団体・キリスト教会は「悪魔の手先」、「堕落してる」、「霊的にレベルが低い」とされている。
56 外部の人々に対して、エリート意識や優越感をもっている。
57 「私たちのグループは外部から迫害されている」と強調する。
58 「聖書の学び」で、いつも特定の教理や聖書箇所ばかりが強調される。
59 学校の行事参加や課外活動の参加を極端に禁止される。もしくは偏った教えによって、参加できない精神構造になる。
問54~59 の小計
Ⅷ 自由、人権問題
60 本人の了解なくプライベートな情報を漏らしたり、個人的な秘密を守らなかったりすることがある。
61 指定された場所で集団生活をさせられ、プライバシーがない。
62 個人の日記、手紙、メモ、メール、預金などを指導者に見せなければならない。
63 個人的な秘密も、集団の指導者に明かさなければならない。
64 たとえ家族であっても、集団外の者は信者の居住地を知ることができない。
65 個人的に大切にしていたものを捨てさせたり、大切にしていた対人関係の縁を切らせたりする。
66 伝道や奉仕活動に専念させる目的で仕事や学校を辞めることを望ましいとしたり、強制的に 辞めさせようとしたりする。
67 恋人や配偶者がいても、入信すると、別れるしかない。
68 伴侶が教会に対して好意的でない場合、指導者によって離婚させられることがある。
69 夫婦が教会や指導者の方針によって別々に暮らしている。
70 生活のすべてについて、指導者や上の立場の人に連絡・報告・相談をしなければならず、 自己決定権を大幅に制限される。
71 指導者が一部の者をサタンや悪霊呼ばわりし、他の信者にもそのような印象を持たせ、 付き合いを絶たせるように仕向ける。
72 指導者が信者の交わりや学びに過度に介入し、束縛する。
73 教会活動以外には無気力になる。
問60~73 の小計
Ⅸ 入信過程での問題
74 入信に際して、家族や友人・知人などの教会外の人々に相談させないようにする。
75 集団的な熱狂状態や情緒的な興奮状態の中で入信の意思決定を強要する。
76 「超常現象」と思わせる体験をさせて、吟味のないまま証で体験を強調し、指導者や教会の 思想や理念を正当化する。
問74~76 の小計
Ⅹ 批判や脱会に関わる問題
77 「退会すると不幸になる」「神に見離される」「罰が下る」「地獄に落ちる」 「この教会から出ることは キリストの傘から出ることだ」などの恐怖感を植えつける。
78 批判的な信者に対して、無視、侮辱、非難、などの精神的罰を与える。
79 退会した元信者に対して、脅迫したり、嫌がらせをしたり、汚名を着せたりする。
80 退会した元信者とはつき合わないように、話をしたり挨拶したりもしないように、信者を指導する。
問77~80 の小計
Ⅺ 信者がマインド・コントロールされている被害
81 たとえ内容に納得できなくても、指導者の指示や意見に従うことは当然とされている。
82 信者は、指導者の許可を得てからでなくては、行動できない。
83 多くの信者は、「指導者(団体)の助け(指示)がなければ、私は生きていけない」という考えを持たされた。
84 生活のスケジュールはすべて管理され、家事を含め個人で自由に使う時間がほとんどない。
85 入信してから、自分の考えを捨て教会の教えに従うよう教えられるため、自分の思考力、判断力、 決断力が低下してきた。
86 自分で考えることは「悪いこと」とされている。
87 信者は信仰において子ども扱いされる。
88 信徒は、キリストの導きを仰ぐというより、指導者の顔色をうかがって行動する。
89 教会や教団の規則が私生活にも及び、罰や報酬が与えられる。暴力がしつけと称されることもある。
90 伝道や奉仕において果たさなければならないノルマがある。
91 懲戒に関して、本人には弁明・反論する機会が十分与えられない。指導者の都合がよいように 歪曲されたり、偽りを蔓延させたりすることがある。
92 教会が勧める本以外に読んではならないなど、個人の自由な読書は認められない。
93 教会に対して批判的な情報はすべて禁止されている。
94 嘘が頻発する。
問81~94 の小計
 」
 
楽山は、自分は批判・評価する立場だと言いたいのでしょう。しかし、楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)こそが、最悪の、無神教カルトなのです。つまり、アンチカルトを気取っている楽山がカルトを批判すればするほど、楽山のカルト性が明らかになってバレてゆくのです。
 
教会の権威主義によって信徒を縛っているカルト性の尺度のようです・・くらい書けないのでしょうか。上のような評価尺度を紹介しながら、なぜ「150でした」で済ませるのでしょうか。言えば、自分の丁寧語による偽善性が明らかになるからでしょうか。中庸・中立を気取るのも、限界に来ています。
 
権威主義、公共性、ハラスメントと被害、嘘・偽り、マインドコントロール、などを尺度にしているようです。楽山の、虚妄の権威主義、公共の責任を負わない態度、詭弁と罠と雑言で貶めてくるマイコン、平気で嘘を吐き、詭弁を弄する体質が当てはまります。ちょっと見るだけで、楽山に当てはまってしまうのです。
 
上の尺度の悪いほうは、いずれも、楽山がそうありたいと思うことなのでしょう。しかも、楽山は、極めて怠慢なので、部下がいて、何でもやってくれるカルト組織を夢見ているのかもしれません。楽山は宗教を否定したうえで、無神教カルト教祖になりたいのだろうと思っています。実現させてはいけないことです。
 
薄汚れた楽山の精神は、サイコパスに向かいながら、なおも丁寧語を使うことで、また、実質もなく優しい世辞のような褒め言葉もたくさん使ってきた今までの経過から、分裂と崩壊に向かっています。ゆえに、ペテン師としてはバレてはいけないことが、じわじわと目についてきました。もっとひどくなるでしょう。
 
 
甚だしく足りない 中身なき気取り

甚だしく足りない 中身なき気取り
 
 
(2022年12月29日)
 
 
 
  疾走する闇

少しばかりの自負を抱き
捨てて
出発したのだ
魔界の裏側へ
地獄の底より下を目指して
頭は割れたのだ
脳髄は垂れ流しだ
脈管は怒張し虚脱した
青黒い溝となった
溝に白く細い筋が交叉するだけの
四肢を振り回し
皮下に残る油の
わずかな膨らみに歯噛みをした
引き裂かれたいためだ
引き裂かれるものも無くなるまでだ
跳んで来る矢も石も天の恵みだ
天の恵みもなくなるのだ
疾走する闇が風だ
失われる視野が道だ
失われる足元が光だ
すべては道標だ
すべては罠だ
引っかかった
転びはしない
伸び切ろうとするだけだ
影が主を失ったときからだ


  赤の明暗
 
雪に目を見張る少女
頬の赤み
 
白い中へ飛び込んでゆく
横面ひっぱたかれて腫れ上がった顔
頬の赤み
 
黒ずんで逃げ出してゆく
どちらも痛みを忘れる驚き
危うく帰らぬ人
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
迷路の途絶のような楽山の文章は、楽山の虚栄と病質と症状を表してきました。大事なことを何も分かっていない、恥を知らない、反省しない、楽山は、いつまでも、どこまでも、自らの廃墟を彷徨いたいのでしょうか。鏡で自分の顔を見ることもないのでしょうか。そして、笑い、怒るのでしょうか。ずっと末路なのです。
 
思想や宗教の理路も共感も欠落している楽山です。超常関連のカルトを批判して、ついでに、キリスト教も批判してきて、こちらの理路を全く受け取れない病質的自己満悦だけが明らかになりました。それで、もう3年以上も批判していますが、病質の衝動でしょうか、考えないのに書くことが止められないのです。
 
 
 
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  神を恐れる心4-3
 
   記事「神を恐れる」を修正加筆して再録
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/111022.html
 
 
 信仰の弁えは、神を恐れる心から生まれます。
 神は漠然としているのではありません。
 漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
 キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
 人の知恵では "決めつけられない" 御方ということです。
 
 聖書の記述から作ったイメージも人のわざに過ぎません。
 漠然とした神のイメージもまた正しくありません。
 神は、人において規定されうるようなお方ではありません。
 私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
 神は、決して人間の見識の対象とはなりません。
 私たちは、祈り願い、受ける立場でしかありません。
 
私たちの言葉は、一語は一つの意味だけでしょうか、違います。多義を持つ言葉があり、かつ、人によって受け取り方が違い、かつ、時によって受け取り方が違うのです。神の言葉は絶対ですが、それを読み取る私たちの言葉は、決して絶対ではないのです。感動は、やがて感動した記憶になります。
 
キリストが父と呼び、私たちが信じる神は、私たちが知らないだけであって、漠然とした神などではありません。漠然としているのは私たち人間のほうです。だから、様々なことに、神の存在でさえも、言葉で、条件を付けたがります。そうして、人は慢心に向かいやすいことを知るべきです。
 
不変の神に比べて、移り気で変わりやすく、不安定で偏りやすいのは、私たち人間のほうなのです。ゆえに、私たち人間から見た神が、多様になってしまうのです。それを救うのは、教理の正しさではなく、神に対して不完全な罪人であること認めて、正直に祈ることだけです。
 
私たちは神について想い考えますが、それは、不正確な想像という罪を承知で、想い考えるに当たってそうするしかないからであって、信仰の内実において神を対象化してはいけません。神は、人の想いと思考などという有限が向かう所に対象として在るような御方ではないからです。
 
神を信じるということは
神のイメージや概念を信じ込むことではなく
神についての
人の見識の絶対性を否定することです。
神についての
人の思いを相対的とすることです。
神についての
人の情熱を相対的とすることです。
 
神の御心は変わることはありませんが、神について人が思うことは、そのときの想いに過ぎません。
だから祈りのうちに、さらなる導きを待つしかないのです。キリストの同伴が、その生き方を支えることが信仰生活を成してゆきます。
 
神と人の契約とは、赦しと救いの約束であり、人が人らしく、神の前に低い存在であることを自覚しているあいだ無効になることはありません。ときに思い上がっても、のちに悔いて、正直に祈るなら、寛容な神は、赦しをもって関係を回復してくださるでしょう。救いに手遅れはないからです。
 
人が神や神の意志と行為を決めつけることは、自分が神と同等だと言うに等しく、人が神の前に故意に隠したり飾ったり偽ったりすることは、自分が神を騙せると思うに等しく、いずれも人が、神の前に低い存在という自覚を失っている姿です。
 
それは、神に対する反逆であり、ゆえに、その時、人が赦しも救いも拒んでいるのです。つまり、神と人の契約を破棄するのは、まさに、人の側でのみ起こることなのです。寛容なる神が、救いの約束を破棄されることはありません。
 
繰り返しますが、あるとき傲慢であっても、そのあと悔い改めて、神を恐れるに相応しい信仰になれば、神の側は破棄していないのだから、この上ない神の寛容によって、救いの約束は恵みとして有効であり続けます。
 
人を愛し救い、人に命の恵みを与える神が、あらゆる生殺与奪の全能を持つ神であり、人間などが、うっかり友だちのように、近づけるなどと思ってはいけないことに気づき、神を恐れること、それが信仰の節操の始まりです。馴れ合いは、神に対しては決して成り立たないということです。
 
神は、人間の俎上や机上に乗る御方ではありません。恐るべき神を知り、聖書から、キリストに愛され癒やされることに気づき、キリストを愛するようになること、それが信仰の情熱の始まりです。信仰は、人にとって、超越的に現実離れして神がかるような、超常のものではありません。
 
神という永遠不変は、人が、超常を知らないこと、いたらないことを、隅から隅までご存知ですから、超常を知らなくても理解と共感が可能なように、人間として正直な信仰を、超常と地上の間の仲保者として、キリストを遣わすことで与えられたのです。
 
神は理解する対象ではありません。
希望として信じ仰ぐ対象です。
 
神に対して、人の真・善・美・義は完全にはなりません。
人は、真も善も美も義も努めることが必要ですが、完全に到達することはありません。
 
したがって、
真も善も美も義も、
人の努力目標にはなっても、
人の信仰の芯にはなりえません。
これらは道徳か目標に過ぎません。
完全に守れる人はいません。
 
神に対して
通用する唯一の言動は
正直な祈りだけです。
人が救われるための必要十分条件です。
だから、信仰はシンプルなのです。
 
 
偏る(かたよる、片寄る)
騙す(だます)
 
 
恐るべき御方

恐るべき御方
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年12月28日、再録+加筆)
 
 
 
 愛の実態
 
愛は寛容ではない
情け深くない
妬(ねた)む
高ぶる誇る
不作法をする
自分の利益を求める
苛立(いらだ)つ
恨みを抱(いだ)く
不義を喜び真理を喜ばない
すべてを忍ばない
すべてを信じない
すべてを望まない
すべてを耐えない
 
とうに「愛」の理想は
人の実態において死んだが
ここにおいて
いまだ「愛」は死んでいない。
 
守れる者が一人もいないので
神の寛容が用意されるからである。
 
※ 以上は、以下の聖句を否定肯定を逆にしたものです。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)13:4-7
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
興味深いのはこの章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることである。信仰が、人間離れして、愛から離れたら、もはや、信仰ではないということだろうか。
 
本質的なところでは、信仰に、信条はない。
 
信仰は思想や戒律ではない。むしろ恋愛や結婚に似ています。しかもそれは人と人との間のように変わったり、片方の合意がなくなれば消えてしまう、というものではありません。人が躓(つまず)いて離れて行こうとしても、キリストがその絆(きずな)で捉えて離しません。
 
何故キリストの「負いやすいくびき」は人を捉えて離さないのでしょう。人間の最も大切な部分、それがなくなれば人間ではなくなるという部分に結び付けられているからです。その部分とは人間の最も暖かい感性あるいは愛、しんみりと悲しむ心、しかし言葉に尽くせるものではありません。 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 (マタイ11:28-30、新約聖書)
 
いつからか私は信仰について、糧(かて)と干物を区別したくて、心に響くものと響かない美辞麗句を区別したくて、理屈で考えることを控えるようになった。
 
思いで納得しなければ何も語ることのできない人の性(さが)、この矛盾を孕(はら)みながら、総てが既に知られている所から、日々の糧(かて)は与えられている
 
 
 
  祈り・フリー
 
過ごし
見過ごし
死に損なってゆく一日一日に
意味も喜びも見出せずにいますが
長年の柵(しがらみ)からは
フリーになりました
フリーです
自由です
自由契約です
要するに無職です
ワァーォ
過去の罪は消えないとしても
少し肩の荷が下りた気分があります
と同時にカウントダウンが始まりました
(数年後の経済状態
 を考えるのだけは…やめよう)
主よ、あなたが成就し
実践された愛するという使命も果たせないまま
じっと黙って心臓が止まるのを
待つだけの人生になりそうです
自殺は、どう考えても
御心に適(かな)っているとは思えないから
できるだけしないように努めますが
自力では運べません
運んでください できれば
許されるものなら
気の遠くなるところへ
肉の遠くなるところへ
何もかも無意味だったから
元々意味も名前も持たない遠くへ
遠くへ…
 
 
  時を探すとき
 
水は流れるとき
樋(とい)を探すだろうか
火は燃えるとき
炉を探すだろうか
風は吹くとき
崖を避けるだろうか
山は爆発するとき
焼かれることを恐れるだろうか
 
いつのことだったろう
山が燃えていた
街が燃えていた
海が燃えていた
 
人は喋(しゃべ)るとき
相手を探す
相手を見つけて喋る
相手が自分のときは独り言
時々か屡々(しばしば)
いかなる相手も見つけずに
独り言を喋っていた
 
誰に向かってでもなく
吐息を漏らすとき
 
相手はいない
探しもしない
ただほんの一瞬
吐息のない過去を見ている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己中の病質というのは、近づけば近づくほど、付き合いが長ければ長いほど、質問や批判をすればするほど、驚きや痛みとともに人格を損傷してきます。決して生き方として成り立たないのです。人は人、自分を貫く、などと言っていた楽山ですが、結局、自己中正当化の詭弁に過ぎないのです。
 
 
 
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  楽山の善人芝居2
 
 『生命に刻まれし愛のかたみ』三浦綾子著
 2021年12月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
前川正氏は、三浦綾子さんが、結婚する前に、付き合っていたキリスト者のようです。楽山の、世辞の、きれいごとです。今までも、詩のつもりの言葉で、丁寧語で、ボンヤリ言語で、トホホ言語で、言い逃れのための白々しい褒め言葉を書いていますが、実感のない言葉は文脈から浮いてきます。
 
 
本書は前川正氏の書簡、日記などを収録した遺稿集である。これを読むと氏は生身の人間であり、男であったことがよく分かる。もちろんだからといって氏への尊敬が薄れるということはない。むしろ生身の人間として、男としての悩みや苦しみを背負いつつも、あれほど高潔に生きたのだと思えばますます尊敬しないではいられないくらいである。
 
キリスト教と神を否定している楽山が、よくも「尊敬しないではいられない」などと書けるものです。前に書いたと思いますが、嘘を吐けば、楽山の履歴が、嘘を暴くことになります。他者を利用しても、自己愛に利用するだけで、誰も尊敬などしたことのない楽山です。世辞を書いても無駄なのです。
 
 
人であれば病状が悪化するほど思考力は低下し、あらぬことを口走ったり、気の利かない看護者に怒鳴り散らしたり、恋人には未練たらしいことを言い募ったりしたとしても致し方ないことである。
 
楽山は「病状が悪化するほど思考力は低下し、あらぬことを口走ったり」しているようです。またブーメランで、楽山に当てはまります。楽山は、誰にとっても必要もなく役にも立たない意見を、執拗に書いて、安っぽい言葉でヒューマニズムを気取って、粉塵のように、邪悪な正体を煙に巻きたいのでしょう。
 
 
けれども氏は最期のときまで看護者への思いやりを忘れなかったというし、恋人に対して紳士的な態度を少しも崩さず、その将来を気遣った手紙を残しているのだから感動せずにはいられない。
 
「感動せずにはいられない」・・同様の実感の無い褒め言葉です。自分の本心からのメッセージを書けないので、尊敬、感動、というような陳腐な言葉しか思いつかないのです。そして、他者への「思いやり」などの高等感情の実質を持たないので、言葉を並べることしか出来ません。だまされないでください。
 
 
また氏は優れた能力を持ちながらも、それを存分に発揮する機会を得られず、両親に孝行したくともそれも思うようにはできない状態のまま逝かねばならなかったのである。この無念さはどうだろう。氏はこういう状況に陥っても、決して捨て鉢になることはなく、自身の努力を続けつつ、他者をもいたわっていたのだから、これにはただただ頭を垂れるほかない。
 
「ただただ頭を垂れるほかない」・・楽山の、こんなにも人を尊敬できる自分は優しい人という嘘のアピールです。「ただただ」・・などと、大仰に書いて、真剣さをアピールしても、ただただ、純粋な人たちを、手のひらに乗せて玩び、自己愛のために悪用して、貶めているだけなのです。
 
 
自分は虚無主義者とまでは行かないにしても、厭世的、悲観的なところが多分にあるのだけれども、前川正氏のような人が存在したのであれば希望を持ってはいけないということはないようにも思えてくる。なんだか『道ありき』を再読したくなってきた。
 
虚無でも厭世でも悲観でもなく、楽山は、怠慢で邪悪なだけです。だから、今回も、自分を高めるためにだけ、書いています。反省せず、責任を負わず、嘘と詭弁で人を惑わし、悔い改めのない楽山には、欲望と企みだけがあって、希望は生まれようもないのです。
 
とうに偽善はバレているのに、まだ正常な良識人を気取る楽山の言は、どんなに、善人ぶって書いたとしても、三文芝居の安いセリフしか書けないという大根役者ぶりです。見るも無残な駄文です。いつまで、腐った人間像の典型を、得意げに表してくるのでしょう。
 
今までの、反キリストとしての、キリスト教と神を冒涜したことを、反省も修正もしないで、このような記事を書くことが、むしろ証拠となって嘘がバレているのです。楽山はこれからも、似たような記事を書くでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は凶悪です。
 
ありふれた言葉を並べるだけで、心を表せない楽山です。批判者を怒らせたいのでしょうか。こちらは、駄文という評価を貼り付け続けるだけです。楽山は、一生、安い芝居を続けるのでしょう。楽山が無視しているところで、楽山の偽善の悪臭が、楽山を否定してゆきます。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:10-14、新約聖書)
 
この例え話では、善人ぶる高慢が偽善という救いがたい最悪であることを、キリストは伝えています。私たちも、聖書をを学習することで、嘘吐きが「尊敬」「感動」「希望」などという褒め言葉を使って、何も反省せず、悔い改めることなく、きれいごとを並べていることが分かってくるでしょう。
 
 
言論の灰汁(あく)

言論の灰汁(あく)
 
 
(2021年12月13日)
(2022年12月27日、再録+加筆)
 
 
 
 inotiyorokondeiru’s blog
  「命が神?仏?」2021-12-11
   https://inotiyorokondeiru.hatenablog.com/
命が神?仏?・・神仏は信じる人間がいなくても存在価値は変わりなく続くでしょうか。・・・ 又、失敗ばかりする人間を創った責任はどうするのでしょう。 絶えず争い合う人間をなぜ創ったのでしょう。本質的全ての原因が命ですが創ったのではなく命が変化した結果です。 命、よろこんでいる
 」
 
「命よろこんでいる」という言葉は、心で唱えてみると、なんとなく、命に励まされているようで、心が落ち着いて、安らかに温まる感じがするので、優れた言葉です。人知はバカにはできません。そして、信仰に必須なのは、知識や理屈ではなく共感です。
 
しかしながら、「神仏は信じる人間がいなくても存在価値は変わりなく続くでしょうか」・・こういう超常の問いそのものが正体不明ですし無意味です。神は、人との関係において、人にとって信仰として活性を持ちます。それ以上の真理めいた話は、実体がなく、むしろ害毒です。
 
 
>神仏は信じる人間がいなくても存在価値は変わりなく続くでしょうか。・・・
>又、失敗ばかりする人間を創った責任はどうするのでしょう。
>絶えず争い合う人間をなぜ創ったのでしょう。
 
この、信じてもいない神の責任を問う高慢は、どうでしょう。楽山に似ています。こういうことだったか・・と思い、かつ、驚いています。楽山のツイートに、「いいね」を入れたこのブログ主は、楽山の仲間でしょうか。楽山の成りすましでしょうか。陰険なところも似ています。
 
すでに書いてきたことですが、神の辻褄が合うから神を信じるのではありません。このブログ以上の、支えとして、絶対孤独からの解放を与える祈りの信仰だから信じています。そういう真実をまるで理解しないで、神を人の辻褄で判断してくる無理解の楽山に、宗教を語る資格はありません。
 
このブログ主については、同じようなことを繰り返すかどうかによって、正体が分かってくるだろうと思います。楽山と社交の丁寧語だけで付き合って、だまされている人か、楽山の仲間か、それとも、楽山自身、即ち、HNを変えた成りすましなのか。
 
楽山の病質の根深さ、あるいは、楽山の共犯の人間関係の根深さを思います。楽山は、もはや、人間らしく生きる活性など持っていないと思います。命も、神も、人も、命も、よろこんでいない楽山です。極めて悪質だと思います。ネットにおいて匿名での発言は、悪の巣窟ともなりうるという例が楽山です。
 
人は、生き方を選択することは出来ますが、成り行きを決めることは出来ません。だから、成り行きは、神の導きだとしても、神がどうするかを、人は知りません。そこで、知りもしないし抗えもしない神に、恐れもしないで責任を問うか、神を仰ぎ神に祈るかが、分かれてくるのです。
 
 
 
  「それ」からの手紙
 
光があるから影ができる
しかし光があるから影があるのではないとも言える
夜の闇の恐怖に連なる暗さに似た
影というものの存在を目で見て知ったからこそ
影を作らせ反対側で闇をなくす
方向を持った存在を初めて知り
それを光と名付けた
 
ばい菌やウイルスがいるから病気になる
ばい菌やウイルスなど病原体そして
全ての病気の原因は
病気が起こるから探される
病気があるからそれがない状態を知る
それがありがたいから健康と名付けるがゆえに
予防しようという考えが生まれる
 
影によって光を知る
病気によって健康を知る
 
絶望によって希望を知る
希な望み
誠に希望を本当に知る人は少ない
欲望は派手な花々を求めてやまないが
希望はただ生きる魂を求めるのみである
 
 
  夜の行き方
 
夜を見ている目に
映らない夜が行きます
 
夜を見ない昼の目に
写らない夜が映っています
 
街の片隅
野辺の果て
唇を噛み締めて
拳を握り締めて
蹲(うずくま)る傷んだ黒い筋力が
痛みに盛り上がっていないと言えますか
 
夜と呼ばれる前に
夜は行くのです
闘いに
 
だからいつも抵抗する相手がいて
それぞれが独りで
抗(あらが)っては軋(きし)みながら
沈黙のうちに広がる暗黒の肉体を
引き裂こうと引き裂かれようと
潰そうと潰されようと
そうして夜は夜であり続けるのです
 
 
  正当性
 
熱を持たない夕日に焼けただれた雲の下
地雷の眠る森は暗く重く沈んで
明日までよみがえることはあるまい
 
焼かれてもいない正当性は
例えば単に
まっすぐな樹木の
どこが微妙に曲がっているか
を問うより間違っていた
 
辻褄や口裏は合わせられても
夕日もなければ森もない
元々熱を持たない正当性を
作られた角度から
いくら繰り返しても
いかなる納得の念じ方も
地雷の重みを示すこともできず
ましてや夕闇の雲と地平を
鋭角に貫くものなどあるわけもない
 
いわれもない教条
永遠によみがえることはあるまい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
楽山の病質の根深さと狡猾さ、あるいは、楽山の共犯の人間関係の根深さを思います。うわべだけの言論者である楽山の灰汁と罪と偽善の経歴は、今後も続くのでしょうか。こちらとしては、誰かが読んでも読まなくても、楽山の非を書き続けるだけです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペする程度)
 
 
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