ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2023年01月

 
  荒らしの楽山2
 
 
  聖書について思うこと(中村圭志氏のツイッター)
  2022年01月16日 楽山日記(LD)
 
 
節操も、理路も、共感もなく、無分別に、荒らしのような無神教徒の引用をしてくる楽山です。自分で書くと、下種の根性がバレるからでしょう。しかし、他者の悪い根性をバラしているのですから、楽山は、最終的に、誰からも軽蔑される路程を丁寧に踏んでゆくようです。
 
 
*聖書とは何か?
 ツイッター上にて、次のツイートがされていた。
 
聖書の話を、そのまま、あるいは自分で捻じ曲げて、受け取っています。聖書を学ぶのに、学習方法というより、学習する精神を失って、史実として扱って、揶揄し否定するだけです。よほど、キリスト教に怨念を持っているのでしょう。最初の話は、コピペしにくいので省略します。画像も省略します。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
オークワード聖書をちょっと見てみましょう。
表紙はノアの箱舟。海上に死屍累々。助かった動物さんたちはなんだか楽しそう。ノアはお気楽に唐笠つきジュースを飲んでいる。
勧善懲悪の御伽噺のはずなんですが、残虐さを何とも思わない義人ノアの姿は現代の子供たちには見せられないわけです。
 
教訓として学ばず、事実ならば残酷だということだけ吹聴する態度です。ノアの箱舟から、残虐だという見方だけを主張するのが、無神教カルトの刷り込みです。受け取れるものを受け取る柔和さではなく、疑問を提示するのでもなく、否定だけをしたがる者たちで、楽山も同じです。
 
大人であれば、説明があれば、聖書に象徴されている神の意志を、不十分でも、常識的な範囲で感受するでしょう。一方、楽山のように、大人になれなかった未熟は、悪意をもって悪い心象だけを吹き込んでゆくのだから、聖書からも神からもキリストからも、人からも、良きものを見い出せないわけです。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
先に紹介したロトの処女の娘の強姦許容の話と同様、現代と人権意識が異なるので子供に説明できない箇所も何か所か取り上げられています。
出エジプト21。奴隷は財産なので鞭で打っても1日2日生きている限りは神のお咎めなし。即死の場合はお咎めあり。
絵は昔のアメリカの奴隷農場となっています。
 
聖書の大昔の話を、キリスト教はこういうことをするんだぞ・・という煽りの見せ方です。悪意が明らかな絵とともに貶めて悪く言うのは荒らしに似ています。印象操作の悪意が見えた時点で、議論どころではなく、ドアをドンドンドン!と叩いて威す凶暴な悪党が来た!・・という備えになります。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
もう一つ紹介しましょう。
申命記22。男が処女の娘を強姦したところがバレたなら、父親に銀50払うべし。娘は強姦男の妻となるべし。男の意のままになったのでもはや離縁は禁止。
この絵本では男が父親にドルを渡して、ワゴンの中で強姦せんとするところ。原理主義者はこれを実践するんでしょうか?
 
大昔の、民族の掟みたいな話と、大間違いの原理主義者?の犯罪をあげて、そのことがキリスト信仰の是非に関わるでしょうか、否です。無神教カルトの、こういう発言は、いちゃもんだけの臭い腐れ話に過ぎません。既に、シャロームで10年、楽山で3年、うんざりするほど、経験済みのことです。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
聖書は人類史の史料として、ホメロスなどとともに図書館で読めばいいのです。しかし良き家庭の導きの書だとされている。が、実際には子供には読ませられない。もっとも信者は実際には聖書は読まない。読まないのに都合にあわせて聖書の権威で世の中に文句をつける。だから無神論者に文句を言われる。
 
聖書は、歴史の史料以上に、宗教と信仰の聖典ですが、100%理解した人はいません。聖書について史実がどうこうと騒ぐのは、聖書の意味も意義も理解していない楽山と同類の人です。背教者の例をもって、信仰を全否定するのは、妄想の為せる詭弁であります。悪魔性のサディストです。
 
 
*被害
一連のツイートで指摘されていることはどれも興味深いが、その中でも特に、聖書を読まずに「聖書の権威で世の中に文句をつける」人々の話は予想外だ。
こういう人々のために、無神論者らはやむなく聖書の権威を打ち砕くために聖書を批判することになっているのだとすると、聖書はとんだとばっちりを受けているということであるし、一番の被害者といえそうだ。
 
無神教カルトは、聖書を批判するのではなく、悪い話だけをして、否定する者たちです。楽山の同類です。柔和さも洞察力もなく、深い意味を汲み取れず、分からないことを保留することもせず、聖書に、信仰者に、害を与えているのは、楽山のような人たちでしょう。
 
「やむなく聖書の権威を打ち砕く」・・私には血も涙もないサディストに思えます。「聖書はとんだとばっちりを受けている」・・ここで聖書を弁護するのでしょうか。聖書と信仰者に、とばっちりを与えているのは、まさに、著者と楽山などの偏狭な無神教カルトです。
 
楽山は、今回、自分では、何も書けないから、無神教徒の言を引用して、文責を逃れようとしています。引用して批判しなければ賛同ですから、その責任は、どこまでも、いつまでも、楽山に着いてくるのです。楽山は、信仰と宗教を否定する印象操作をして煽っているだけです。
 
背教者の話を事実として予想外だと言い、そして、こともあろうに、無神教徒の不可効力を説いていますが、無神教カルトの楽山は、聖書を読解する気もなく、悪意の企みの文章しか書けません。聖書に「とばっちり」を与えようとしているのが、楽山と無神教徒であります。恐ろしい詭弁です。
 
「聖書の権威で世の中に文句をつける」人々というのは、考えてみると、妄想的思い込みを信仰と呼んで、訂正不能の、実際は偽善者かつ無神教カルトのほうだと思います。ですから思い込みの自己中病質の楽山と似た構造の体質ではないかと思われます。信仰者に権威はありません。
 
 
*立場
とはいえ、こういう指摘を読むと、とても自分には聖書に書いてあることはすべて正しいとすることはできないなと思う。もちろんだからといって、すべて間違っているとすることもできないのではあるが。
聖書に対する立場は人それぞれではあろうが、自分は先入観によって全肯定することも全否定することもせず、また禁忌事項をつくることもなく、人類の古典として謙虚に学びたいものだと思う。
 
楽山は、自己中からの妄想のために、また、ボンヤリ言語体質のために、体のよさそうな、否定も肯定もしないようなことを言っていますが、実際は、徹底した反キリストであります。騙されてはいけません。このように、言葉の皮だけ優しさを気取りものを、決して信用してはいけないのです。
 
否定肯定をぼかした楽山の印象操作のボンヤリ言語です。楽山の責任回避の筆致です。書いてあることは、何の糧(かて)にもならない読み方が正しいと言っているようなものです。決めつける権限は人にはなく、ましてや無反省で無責任の自己愛性人格障害の楽山にはありません。恐ろしく傲慢です。
 
楽山は、先入観しか持っていません。肯定も否定もしないなら、意見に成っていないので、書かないことです。肯定しても、否定しても、それぞれ責任があります。責任を負わずに両方言うことは、ただの、いい加減でしかなく、空っぽなのです。それを繰り返してきた楽山は異常者です。
 
つまり、聖書の心を読み取れない楽山が、正しいと言っても、間違っていると言っても、何の価値も説得力もないのです。無神教徒の力を借りて、楽山は、ますます、言論不能の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だという証拠を、自分で積み上げているのです。
 
人間は、自らの信仰も守れないほど不完全です。ゆえに、信仰者は、知性と感性を精いっぱい使って、できることして、結果を正直に祈って、神に委ねます。つまり、自らの言動を間違えることも通して、神に絶対孤独からの解放を恵まれ、救いと希望を祈り願うのです。
 
楽山は、他者を利用し、別の他者を傷つけて、無視スルーで、のんきに生きているようですが、最後には、報いとして自我の崩壊が結果する日を迎えるでしょう。神を持ち出さなくても、楽山の生き方は、人の世の非道として、無知と無恥とを告発され、逆に、廃物として遺棄される必然なのです。
 
 
無神教カルトの闇

無神教カルトの闇
 
 
(2022年)
(2023年01月26日、再録+加筆) 
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
※ 信仰についての議論
 
普通の理路で考えても信仰の必然を説明することは出来ず、信仰は、何より個人の、体験、特に精神生活上の体験に基づくので、現象や史実の皮相の事実や論理によって、ない、不当、などと言えば、そのまま発言者の、未熟と歪曲が、指摘されることになるでしょう。
 
ゆえに、宗教と信仰は、科学をもってしても、また、超常についての空想を前提に考えても、語れるものではなく、人間の心について共感のない者が語ることは、無理な否定になり、侮辱になり、嫌がらせになって、頑迷な屁理屈による妨害として、偽善と見なされるでしょう。
 
 
 
  二人のはぐれ者(創作です)
 
伝道を志しながら心を病んでしまったキリスト者がいた。少しばかりお金があったので当座の生活には困らなかったが、毎日気がふさぎ寝込むことが多く「自分など死んでしまえばいい」と思うこともあった。そのキリスト者の家に盗人が入った。
彼は何をやってもうまくいかず失敗の繰り返しで自暴自棄に陥っていた。刃物をキリスト者に向け
「金を出せ」と迫った。キリスト者は、
「盗人にやる金など一銭もない。欲しければ私を殺して家の中を捜せ。」
「命が惜しくないのか。」
「逃げられるものならば逃げる。だがまわりには誰もいないし、あなたは力が強そうだ。どうやら、かないそうもないゆえ観念した。それに・・・もうよい。」
キリスト者は目を静かに閉じた。キリスト者は目を閉じたまま、盗人はキリスト者をにらみつけ刃物を握ったまま黙っていた。
長い沈黙が続いたのち、盗人が言った。
「い、命を粗末にするな。」
「あなたがそれを言える立場かね。」
「本当に命が惜しくないのか。」
「もう・・・・どうでもいいんだ。」キリスト者は少し悲しげに言った。
「ちっ」と盗人は舌打ちをして刃物を床に捨てた。
「やめた。何て野郎だ。全部でなくても、少しばかり、まとまった金さえ出せば済むものを。お前、少し変なんじゃないか。」
「他人の金を盗んでどうするつもりだ。それに生活のための金を得る道なら他にもあるだろう。」
「どうするって、まとまった金があれば天国さ。何だってできるじゃないか。」
「金をいくらか持っていても私のような者もいる。いちばん大事なものは金ではない。」
「じゃ何だって言うんだ。」
「大切なものは多くはない、むしろただ一つだと書いてある。私もよく理解しているわけではないが、今あなたに刃物を捨てさせた何ものかだ。」
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違っても間違っても、正す精神を持たない楽山は、他者の言を利用して、自らの整わない頭と心を、よこしまな方向へ、自ら導いてゆきます。この世はウソに溢れているという私のブログタイトルですが、楽山は、真っ赤な嘘を使って、人より上にいられる気分を、生き甲斐のように求めてゆくのです。
 
楽山は偽善者ですが、偽善は善よりちょっと悪い感じ?・・ではありません。悪を、善に見せかけることであり、悪よりも、偽装という悪が加わるところの、より悪であり、最悪なのです。これより悪質な悪を知りません。大きな犯罪は、大方、偽善であります。楽山は、その、偽善者なのです。
 
 
 
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  良心4
  
 過去記事「良心」+加筆
  に一部、加筆修正して再録します。
 
 
キリスト者は、人間の良心を捨てて神に従うのではありません。良心とは、神から人が恵みとして与えられた良い心のことです。信仰へ向かう心も含まれています。人間としての知性と感性を捨てて信仰は成り立ちません。人知を捨てて有頂天に従うのはカルトのやり方です。
 
キリスト信仰は、人の心の良きところ、すなわち、良心を育てます。信仰者にとって、信仰と良心は区別できないものとして存在することになります。良心によって信仰を受け容れ、信仰によって良心は成長します。
 
信仰によって良心が成長するのは、人が、自らを神より低いと自覚している場合です。また、人間の良心に、神の導きはあるけれど、人は、それを確定できません。ゆえに、聖書の言葉を唱えればよいということではなく、御言葉を自らの人生において考えることが大事なのです。
 
神は、私たちが物事を、良心によって判断し行動することを喜ばれます。これが信仰の理想で、ときに悪意で行動することもあるのは罪の性質によります。
 
良心を捨てた者は、心を無視して、超常を信条とするカルトに走ります。人に理解できない魔法のような奇跡を期待することは、信仰ではありません。
 
 
キリストを信じる信仰者においては、神様のほうを向いて、信仰によって、聖霊によって、ということが、よく言われますが、神様のほうを向くことを自覚するのは祈りにおいてであります。すなわち、独りで祈ること自体が神のほうを向くことです。
 
信仰の本来の、欠くべからざる在り方として、そして、信仰者は、正直な祈りを捧げます。飾りや偽りや豪語は、神への冒涜というより、祈るとき既に、神によって見抜かれています。
 
信仰によって、また、聖霊によって、与えられたものを、これは信仰だから良いことで、それは欲望によっているから良くない、という判断が、人間によって、しっかり出来ているでしょうか。否です。神聖に捧げるものが、神聖に対する決めつけであれば、神への冒涜です。
 
神は完全ですが、人は罪の性質によって不完全です。人間は、神の望んでおられることを、そんなに、逐一、分かるわけではないのです。さらに、人は、自分の言動の影響を最後まで末端まで追うことは出来ません。ゆえにその善悪を、人は判断しますが、確定はできません。
 
人は、判断し、行動し、結果を反省し祈るのみです。キリスト信仰者は、判断し、行動し、反省し、その結果と裁きを、神に委ねます。ゆえに、究極的には、総ての結果をご存知の、神の裁きにお任せするしかないことを知っています。
 
良心のない一部の悪魔的なサイコパスを除きますが、どうしているか、どうするべきかというと、他でもない、私たちは、良心に従って、物を言い、行ない、生きようとしているのです。人間の良心は、信仰者であっても、完全ではないということを、私は書いてきました。
 
その良心の信仰に、信仰の良心に、神様が、どのように導きや恵みを与え、どのように言い、どのように行えばよいか、いちいち厳密に正しく見定めることは、できないのが人間です。人間が不完全だからです。私たち人間は、確定した真理に生きることは不可能です。
 
また、神様、そして聖霊、またキリストの同伴によって、私たちの良心が、何か、導かれることはあるのでしょう。しかし、それを、確定することは出来ません。人間の思慮は、神には及ばないからです。私たち人間は、確定した正義に生きることは不可能なのです。
 
聖書由来の、聖句由来の、聖なる言葉で表されたものによって、活動しなければならない、という観念があるようですが、実際は、自分の自由意志の選択と判断で行動しています。自分の言動を神の御心で正当化するのは、背教ということです。
 
神意が分かるかのように神聖の言葉を多用することは信仰ではありません。私たちの言動は、祈りによって、神に前に捧げるものであります。でないと、自分が、神の意志を代行するかのように思い上がります。できる努力をして、個人が、折々に反省し、祈ることが信仰だからです。
 
神様は、その全能によって、私たちが足らざることを既にご存知です。であるのに、私たちは、強迫神経症のように、神様の御心に沿っているかどうかを検証しながら生きているかのように、振る舞っているつもりになるのは、ある意味、危険でさえあるのです。
 
神様は全能だから、私たちが足らざることを既にご存知です。
 
私たちは、日ごろから聖書に親しみ、祈りを専らとしているなら、正直に祈るように真剣に努めているなら、むしろ、何でもかんでも、神の御心であろうかどうか、ということを、自分で確認できないことも知っているはずなのです。
 
つまり、私たちは、信仰生活の不可欠なこととして聖書に親しみ聖書について考えているなら、私たちが判断し実行していることについて、むしろ、完全とはなりえない自覚をもって、精いっぱいの自分の良心に従って判断していること、それ以上ではないことを弁えるべきなのです。
 
信仰者には、信仰者の良心があります。詳しいことは知りえない私たちに、気づかない導きもあるでしょう。私たちは、聖書を読み、正直に祈り、あとは、そこで導かれ培われたであろう良心に従って、行動するべきであろうと思いますし、信仰は、そういうありかたしかないのです。
 
信仰と良心は、別ではありません。神秘の神聖の言葉ばかりを使いたがるのは、カルトの特徴です。
例えば、カルトは、心を汚れたものとして見て、霊と言うと安心するようです。
 
心、霊、魂、精神、気持ち、これらの言葉は、目的によって使い分けられています。それらの違いを、人が分かっているわけではないのです。
 
信仰を受ける "土の器" も同様で、比喩表現でありますが、心以外のところにあるとは思えません。祈る時の飾りのない心の比喩だと思います。
 
聖書由来の神聖の言葉を並べれば神聖を語ったと満悦するのもカルトの特徴です。信条によって合理化して、良心を、ゴミくずのように捨ててゆくのも、カルトの特徴なのです。
 
私たちは、神によって、キリストの同伴によって、人間として良心が成長することを知っているはずです。そこに、人間離れした何かの魔法を結び付けたがるのも、カルトの特徴です。そういう者は、人間性を大事にすることを、人間信仰といって嘲ります。人間離れが信仰だと思っているからです。
 
しかし、人間が、全能の神の意志と行為を代行する自覚の、霊を振り回す信仰?こそ、人間を、自らを、全能者に結び付けて、真の全能者である神を冒涜する "人間信仰" つまり、自分信仰に他なりません。
 
私たちは、カルトと同じような、うわべの言葉だけ神聖なる言い方をして、神聖によって自らを正当化するような冒涜の愚を避けなければいけません。
 
私たちは、神の御心によって行なう、というのではなく、祈り願う信仰の、精いっぱいの良心によって、考え、判断し、行うのだという自覚を持つことのほうが、より敬虔に近づくと思います。カルトが装うところの、丁寧語だけの偽の敬虔?と同じであってはいけません。
 
私たちは、総てをご存知の神に養われているのだから、私たちの良心にも御心が働きかけていることを弁えています。ならば、自分の良心という成長可能なものを、信仰によって使い、育ててゆく自覚のほうが、人間であるキリスト者らしいと言えるのです。良心のないところに信仰はありません。
 
その生き方を支えるのは、キリスト信仰者においては、飾らない正直な祈りです。
 
神が与える信仰の義は、神に対して故意に偽ることをしない人に、即ち、精いっぱい正直な祈りを捧げる人に、惜しみなく与えられます。
 
与えられるのは、信仰の義であって、神の義ではありません。超常の義でもありません。信仰は、魔法ではなく、人間に共感できて、人間が大切に出来る恵みであります。それ以上のことは、神に任せられることです。
 
 
信仰の義は、不変の境地の完成ではなく、キリスト信仰者が成長しつつあることの証しであります。
 
 
 
成長というものが、全く見られないのが楽山とシャロームであります。
 
深い情緒が理解できない鈍麻したパーソナリティ。代わりに、わざとらしく感動したようなオーバーな褒め言葉を書いてくるが、その前後関係に表れていない、どう感動したか全く書かない、説得力の内実がなく説明しない、何も変わっておらず、言ったこと自体に、批評家気取りで満悦しているだけです。
 
理路もバラバラで、マイナスを書いて、あとでプラスを書いたら、プラマイゼロだから、責任は負わなくていいと思っているようです。そういうのは、いい加減な奴と思われて信頼してはいけない人だと見なされることが分からないのです。反省・責任感・学習意欲が、一切、見られない人です。
 
人間の知性と感性の及ぶのは、せいぜい、身の周り、情報として知っている範囲、言葉・画像・映像で、感じたり考えたりする範囲に過ぎません。そういう人間が、総てご存知の全能と言われる神を、評価して、その存在と不在、その善悪、などを云々するなど、決してできません。
 
自らの不完全に気づくことが信仰の入り口なのに、神への評価を無理にしようとして、神を、人間の乏しい脳みそで安易に決めつけて気づかないのが病的自己中の入り口にいる楽山とシャロームという傲慢の悪意であります。無神論者ではなく、無神教徒と呼んでいます。彼らに論などありません。
 
そういう人が、真面目なふりをして、真実の追求をしてますって感じで書いてきて人を惑わしているのは、どう見ても、不正だと思うので、こちらも批判を続けています。いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
神は完全なる御方として信じています。人は完全を知らないので、完全なる神を恐れます。神を信じる理由は、神に比べて人間は不完全だという自覚を持つためです。そこに、過剰な熱は取り去られ、祈りが生まれ、命が生まれ、成長が生まれます。
 
万能や超常を語る宗教と信仰は、神を知りません。シャロームや楽山などの、偽牧師や反キリストの無神教カルトは、自分を神?として、その醜さだけを表す因業の路程をうろつきます。彼らが語り否定する神?は、キリスト信仰の世界の、どこにもいない神?=言葉=概念=紙なのです。
 
牧師気取りのシャロームも、学者気取りの楽山も、玩具の遊び方のような幼稚な概念しか持っていません。似たような無神教カルトが他にもいるようです。騙されないでください。人間に完全な境地などありません。その自覚が、地獄のような巷(ちまた)から、人間を救うのです。
 
 
 
人間としての正しさを

人間としての正しさを
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年01月)
(2023年01月25日、再録+加筆)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
運命という言葉は、立ち向かうべき障害という意味で使われることと、予め決まっているどうしようもない定め即ち運命論の運命という意味で使われる場合とがあるように思われる。キリスト教で運命というときには前者の方が多いと思う。
 
後者の場合、自分の人生の責任をいわれもない第三者に帰するようだし、キリスト教では人知で計りがたい神の計画や神の導きということは言われるが、運命論を説いてはいない。信仰は、祈りを通して、神と人との双方向である。
 
しかし「目一杯生きてきたけど、こうなるしかなかったよな」というような気持ちをもって自分の人生を振り返ってみるとき、運命という言葉は使いたくない。まことに勝手ではあるが、今のところ宿業という言葉が少し好きだ。他に適当な言葉が見つかるといいのだが。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
書けば書くほど、底が知れてしまう楽山ですが、自己愛性人格障害だからでしょうか、偏向だけの、視野狭窄の、いちゃもんだけの文章を、平気で、しつこく書いて、恥をさらし続けています。不完全を自覚せず、不都合を忘却し、自己顕示だけの執着から、実験動物のように、繰り返しています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
「すべてが自分の思った通りになれば、結局、自分が思っている程度の人間にしかなれません。思った通りにならないからこそ、時々思いがけない試練がやって来るからこそ、自分の想像をはるかに越えて成長することができるのです。」
『こころの深呼吸~気づきと癒しの言葉366』(教文館刊)
 
楽山は、自分が思った通りになったことはないと思います。自分が、うまく騙(だま)したときに快感を感じるかもしれませんが、それを、楽山は、自分が正しい証拠として、勘違いして悦んでいただけなのです。そのような、自分に都合のよい妄想的な勘違いが、楽山の生き甲斐なのでしょう。
 
結局、勘違いや妄想は、生きる上で、必ず、現実や真実との不整合によって、不快な現象を結果してゆきます。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、どう慰めるのでしょう。独りで、ニヤニヤ笑い続けて、口を開けたまま、人生を終わりを迎えるのでしょうか。
 
楽山は、今は試練の時とでも思っているのでしょうか。自業自得は、乗り越えるべき試練でしょうか。否、反省して改めるべき罪なのです。しかし、楽山の病質は、無視しておれば解決して楽になる、と教えるのでしょう。自業自得を自覚しないならば、結局、自分の想像を超える崩壊が待っているのです。
 
 
 
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  人からの自由3
 
 
正月早々ポップアップで作業を妨害した可能性のある楽山は、証拠がないじゃろ❔・とでも言って、しらばくれるかもしれません。しかし、思い当たる加害者は、楽山以外にいないのです。楽山は、犯罪衝動を抑制できない人だということを自ら証明しました。つまり、弁明不可の、危険人物なのです。
 
 
今回は、キリスト信仰の話です。前に書きましたが、キリスト信仰においては、他者からの自由、人からの自由という大きな恵みがあります。ただし、楽山のような、無反省、無責任とは全然、違います。できること精いっぱいする、それ以上できないなら、あとは神に任せましょうということです。
 
しかし、一歩間違えると、神はいつも自分の味方、自分の敵は神の敵、いつか神が復讐してくれる、というような、恐ろしい自己中心の怨念信仰に陥る危険があります。神に対する身勝手な曲解に基づくもので、個人の偶像崇拝であり、正体は、結局、自分信仰であり、一種のカルトであります。
 
例えば、自分について、これでいい・・を神にささげることは出来ません。これでいいかどうかは、神が判断なさることです。これしか出来ません・・を捧げるべきです。
 
愛と恵みばかりを強調して、神への恐れ、戒める神、懲らしめる神を自覚せず教えもしない説教を続けていると、身勝手な依怙贔屓の神信仰、ありがたや信仰の、他罰性に陥る危険があります。
 
そういうカルトに共通しているのは、自己中心、自尊の絶対化、無反省、無責任、無理解、訂正不能、学習不能、成長不能、良心・良識・常識欠如、そして、結果として、妄想の絶対化、理解力・共感力の喪失という人格の破壊です。
 
 
人からの自由、というのは、超人になることではないし、他者からの自由、というのは、他者を無視することではありません。この2つは、似たような意味ですが、カルト的思考という点では、大きな問題であります。この2つを、そのまま実践しているような、反キリストのカルトが現にいるからです。
 
 
 
  「妄想コメント」
  に追加して
 
その偽牧師は「罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていい」「今、悔い改めないのは、悔い改めは神が与える」からだと言い、そのような詭弁で成り立つ信仰はどこにも存在しない、まず最初に自分が自分の自由意志で告白し悔い改めるのが信仰の始まりです。
 
悔い改めていないのは、神が何も与えていない証拠だと言うと「生まれながらの自由意志ではなく御言葉と御霊による自由意思」と言い出し、聖霊を自己正当化に振り回し、理解不能の造語的組み合わせをしてきます。その場で繕っただけの言葉遊びを聖霊によって正当化したつもりの偽牧師です。
 
このような妄想をキリスト教として言ってくることこそ、人間らしさから乖離した神がかりの超人意識であり、自分の思いつきが聖霊による神の啓示だと思いこみ、人間らしい自由意志を嫌い、人間を嫌って否定している証拠なのです。
 
そうして、こちらの言ったことを何一つ受け取れないほど理解力が欠け落ちて、妄想が固定してしまっている者がいるということです。人間が、人間離れしたら、人間的な情感の喪失と、人格の破壊によるところの、カルト的狂気に堕ちてしまうのです。
 
そこでは、人間離れした超人気取りが、神がかって、自分の言ったことを、総て、ほぼ自動的に、神の意志と思い込むということが起きていて、反省は皆無のまま、訂正不能になります。
 
そのくせ、好きなように言って、批判を受け取らず、理解も出来ず、しかも、それほど劣悪な精神を見せながら、世辞の丁寧語によって、いつも、まともな宗教指導者であると見せかけて、さらに、次の機会には、何事も無かったかのような白々しさで、挨拶を入れて、また、ゴタクを並べるのです。
 
自尊の絶対化、という、神が最も嫌う大罪を犯しながら、いつも、神の平安の中に守られています・・などと言うほどの、100%の背教と、180度の逆転が、恒常的に起きるのは、初期の信仰理解が、まるで成り立っていないからです。
 
まともに人の話を理解できず、自分の理解というより都合だけで、キリスト教の言葉を的外れの方向に振り回して、悦に入っている妄想的人格破壊の姿であります。それが、その者の中だけで終わらず、キリスト信仰として、広めようとするのだから、迷惑というより邪悪かつ有害であります。
 
 
キリスト信仰による人からの自由は、超人になることではなく、完全になることでもなく、また、ゆえに、神のしもべとして完全になるという詭弁でもなく、神に近づくことでもなく、他者より優位に立つということでもなく、優れた者になることではなく、ただ、人間としての一生を全うすることであります。
 
そのために、キリストの同伴を必要とし、主なる神を恐れ、主なる神に対してだけは正直となるためなのです。
 
キリスト信仰による人からの自由は、おもに、旧約聖書から、神という絶対の存在を知り、それとは違う不完全な存在としての自らを知ることです。見方を変えれば、自分と同じような不完全な他者に隷属する必要はないという意味で、人からの自由なのです。
 
そして、おもに、新約聖書から、キリストの御名によって、正直に祈ることを学びます。よって、他者の批判を無視することでなく、反省・自省・修正・学習したうえで、他者の執拗で悪質な言葉や、世俗の思い込みや先入観・固定観念から、自由になることです。
 
むしろ、神を恐れ、不完全な自分を知り、その違いと分別をわきまえ、主の慈しみを知るゆえに、恐るべき神への信仰が、人への恐れから解放し、ゆえに、人からの自由とも言えるのです。神を恐れ、主を愛するがゆえに、恐れることなく、人を愛するようになるという恵みです。
 
 (詩篇、口語訳)111:10
主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。
 (詩篇111:10、旧約聖書)
 
キリスト信仰による人からの自由は、キリストの御名によって、他者をないがしろにすることではなく、他者に誇ってよいことでもなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。だから、苦難に直面し、くずおれることなく、回復する力でもあります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、この世の形骸に命を託すことのないように、カルトの誘惑や脅迫に支配されることのないように、欲望を貪るだけの餓鬼になることなく、人を貪る悪魔に魅入られることなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリストの同伴という慈しみによって、人が見捨てても、見捨てられた者となることなく、絶対孤独に囚われることなく、生きることを諦めることがありません。罪深いこの世の形骸に、ときに従うことがあっても奴隷とならず、いかなる人の奴隷ともなりません。支えるのは、正直な祈りであります。
 
打ちひしがれることがあって失望しても、絶望とはなりません。悲しんでいても、絶望に支配されず、キリストの限りない愛と共感に個人として結ばれ、誤りのない生き方の境地とかではなく、信仰は、過ちを犯しても、正直に祈り、悔い改めて立ち直れる道であります。
 
ゆえに、キリスト信仰の、"人からの自由" は、他者の思惑に振り回されることなく、どのような境遇にあっても、他者から独立し自立した人格の尊厳から、むしろ、同じ人間である他者を大切に思う心を育てるためであります。人間を生かす愛と共感を学ぶために、キリスト信仰があるとも言えるのです。
 
 
人からの自由b

人からの自由
 
 
(2019年)
(2021年)
(2023年01月24日、再録+加筆)
 
 
 
  問いと自由
 
なぜ生まれたのか
なぜ生きるのか
なぜ死ぬのか
土の上にも土の下にも
答は見つからないだろうし
その答を探そうとするうちに
問いの方が先に消滅する
ということは分かっている
 
水の上にも水の下にも
問うこともなく
答を求めたがることもなく
生きて死ぬ動物も植物も
子孫を残すという目的に
すべてを捧げ命を削っている
 
子孫を残すかどうかを選ぶという自由は
火の上にも火の下にも
クローンの時代のように残酷である
 
自らの遺伝子を残すことに
無条件の喜びを疑わない一方で
動物にも植物にも人間にも
種を残せない生と死があることは
遺伝子の皮肉だろうか悲劇だろうか
種に問いかけられることのない
自由だろうか
 
問いの自由の
木から落ちた猿よ
 
 
  培地
 
つけっぱなしの蛍光灯で
夜は明るすぎて
 
閉めたままのカーテンで
昼は暗すぎて
 
培地の中の生命体は
増えようがなくて
 
昨日も今日も
ずっと一つのまま
外へ出るのは自由なのだが
またすぐ戻ってきて明日も
よくて一つのままだとわかっていながら
0(ゼロ)になることを恐れている
 
一つ・・のあいだに触手を伸ばす
ペン先の呼吸
 
つけっぱなしの蛍光灯では
夜は暗すぎて
 
閉めたままのカーテン越しに
昼は明るすぎて
 
隠れてないで出てらっしゃい
まだ一つにもなっていないくせに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びても芝居、反省も芝居、言ってることの根拠は偏見、攻めるに守るに嘘を吐き、失敗にも罪にも偽善にも悪にも気づくことなく、不都合を自分の中で無かったことにして、平気で厚顔無恥のまま行進しているつもりのピエロには、出会うことが不幸、つまり、楽山に関わること自体が災難であります。
 
 
 
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  神と信仰メモ3
 
 
なぜ、神の存在を信じる人がいるのでしょう。神の存在の証拠があるからでもなく、超常奇跡の成就を信じるのでもありません。個人にとって、生きるために必要だからなのです。この地上には、どうあがいても、自分の思い通りにならない悲しいことがあるからです。
 
そうして、今は、どうしようもない地上の汚れのうちにいる人の目には隠れて見えないが、悲劇の背後には、総てを統べる摂理を含む存在がいるのだろう。その御方は、人間に共感する御方であることが、聖書に書かれています。
 
そして、その御方、即ち、神は、今は隠れているけれども、完全なる真・善・美を携えて、同伴して見ておられるのだろう。私たち人間を無視してはおられないが、その御方には、われわれとは別の、我々が今考えても分からないような、計画があるのだろうと思うに至るのでしょう。
 
信じる人は、決して、いちゃもんのような、自分勝手な欲望に都合よく当てはめて決めつけたのではなく、生きるために悩み苦しんだ結果として、絶対者として、その御方を必要とし、望んだのだろうと思います。その凄みが、神という存在を、今に伝えているのであります。
 
そこから、人を理解しながら、人を超えている存在として、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在を、固有の「神」という名で呼ぶようになったのではないかと思われます。即ち、神は、その名で、人が呼んだとき既に、人に解明できたり、存在や不在を証明できるような、安い存在ではないということです。
 
その存在を知ることは、超常奇跡の不思議が起こらなければ直ぐ離れてもいいような物や肉体の奇跡ゆえではなく、人間の心の深みに残る、人間にとって、いちばん大切な、共感の同伴というあり方をもって、人の心に消えようもなく残ったゆえに、人々は、信仰の救いと呼ばれるようになったのでしょう。
 
 
神を、人間が自らの限られた有限の存在世界から、自らの持ち合わせた人間の安易な理屈と知識だけで、超常のホラーのような物語におとしめて、机上の辻褄合わせで、神を良いとか悪いとか、存在とか不在とか、決めつける無神教カルトが、いかに、的外れであるかを分かってほしいと思います。
 
信仰は、善悪を判断する道徳ではありません。美醜を判断する美学でもありません。正邪を判断する正義の軸でもありません。全能者が全能者のあり方で神の前に正直な人を救うために、つまり、人を愛するために、摂理の存在を信じ、キリストに共感することが救いなのです。
 
真善美が一体となる完全なる神が、寛容と慈愛と共感をこめて人に与えるのは、人間には届かない完全な真善美ではなく、完全なる神の義でもなく、ただ、神の前で、精いっぱい正直な祈りの告白だけで、不完全な人が、そのまま善しとされて生きるための信仰の義であります。
 
 
無明(むみょう)に注ぐ光

無明(むみょう)に注ぐ光
 
 
※ 
 
宗教にも無宗教にも非宗教にも反宗教にも、実に、嘘の、詭弁の、誘導の、印象操作の、鼻の曲がりそうなインチキの安い屁理屈で、神に、いちゃもんをつけて、人間の良心から神の存在に気づく直感の道を妨害しようとしている者がいます。
 
彼らは、神という存在を、そして、信仰を、安っぽい理屈で、揶揄したり、おとしめたり、侮辱したりしますが、彼ら自身には、何を解決する力量も、誰を救う力量もないのです。文句だけが執拗な彼らこそ、この地上のホラーであります。
 
信仰者は、神からのお告げかどうかを知らされることはなく、信仰者が安穏に暮らせるとは限らない地上で、人間として正直に反省し成長する意志をもって告白し祈ることで、いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2021年)
(2022年)
(2023年01月23日、再録+加筆)
 
 
 
 『易(えき)入門』黄小娥著
 2022年01月19日 楽山日記(LD)
 
 
やはり、楽山は、努力より、占いが当たることを望むのでしょう。短い記事ですが、さらに、褒めるだけの文章ですから、空疎としか言えない干からびた感想で、何のアドバイスにもなっていません。こういう文章を書いてくる厚顔が楽山の持ち味としか言いようがなく、ネットの屑となっています。
 
 
何年か前に易経に興味を持ち、いくつかの関連書籍を集めてはみたものの、どれも難しくてずっと積読状態になっていたのであるが、先日思い立って、それらの中でもっとも初心者向きらしい本書を開いてみた。
 
初心者に向けて、こういう本を読むとよい・・みたいな書き方をするのは、読解力のあるする専門家のすることです。楽山に、読書の勧めを書く資格はありません。あらゆる本を曲解して、キリスト教と信仰について、度外れた偏見を持つに至った楽山です。
 
 
一読して、本書が易の入門書として高く評価されている理由がわかった気がする。まず文章は平易で分かりやすいし、六十四卦の説明では冒頭に卦の意味を一言で提示してあって有り難い。実占のエピソードは、初版は昭和36年なのでいささか時代を感じさせるところはあるが、どれも印象的で記憶に残るものばかりである。おかげ様で未済まで興味を失うことなく読み進めることができた。
 
「易の入門書として高く評価されている理由がわかった」といって、専門用語の説明もせず、難しい書に見せかけても、「平易」「説明」「有り難い」と、「印象的」「記憶に残る」「興味を失うことなく」など、具体性のない陳腐な褒め言葉だらけです。いい加減な読書感想文の典型でしょう。
 
 
恥ずかしながら自分は、易経を読もうとして乾の途中で挫折したくちである。こんな自分でも最後まで通読できる入門書を執筆してくださった著者にはただただ感謝である。
『易(えき)入門』黄小娥著、裏
ちなみに、こちらは裏カバーである↑
著者紹介を読むと、著者は本当にすごい人のようだ。
 
らくざんは「すごい」ことを讃えます。楽山は、全く平均未満の知性と感性ですが、自分では学者に相当する助言者のつもりだからでしょう。そうして気取り、大仰に本を褒めて、評論家を気取り、その実質の欠乏を、ブログで日常的に漏らすことで露呈している結果と経過です。
 
楽山の記事に付き合うのは、時間の浪費です。それこそ、人生の貴重な時間を、どぶに捨てるようなものだと思います。批判以上では、楽山に関わらないでください。「ただただ感謝」「すごい人」・・読書感想文になっていません。感想を問われて「よかった」と言って、先生に怒られる小学生みたいです。
 
楽山は、故意なのです。一生懸命書いても、足らざれば、見せるのを控えるか、発表しないで置くか、むしろ、足らざる自分について考えるべきですが、楽山は、自己顕示欲から、人のためになるかのような、教えるような筆致で書いて、拙く短い文章では書けないテーマということに、気づかないのです。
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  約束のない地へ
 
無情でも無常でもなく
速度を測れる暇も与えず
出会ったものは皆お互い
それぞれ一目散に駆けてゆく
宝の地図を焼き捨てて
地図に名のある町を捨て
すべての飾りを脱ぎ捨てて
古びた預言を拭い捨て
もはや信じられるのは
されど信じられないのは
歌が止むときだけだ
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
 
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省と学習は、人間に必須です。それが出来ないならば、人間ではないと言ってもいいことなのです。なのに、楽山は、「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などという、まるで実感のない、ふざけたことを言って、読者を巻き込もうとします。何も出来ないのに、教えたがります。
 
 
 
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  楽山の現実逃避
 
 『死は存在しない 
  最先端量子科学が示す新たな仮説』田坂広志著
 2023年01月21日 楽山日記
   を批判。
 
多くの嘘を吐き、多くの妄想をさらけ出し、多くの詭弁を弄して、人を騙すことしかできない楽山は、ほとんど衝動的に、無条件で、無理解でも、科学の名が付いた説に飛びついています。なおも自分は難しいことが分かると言いたいのでしょう。しかし、これも人格崩壊への症状なのです。
 
 
*死は存在しない?
とある筋から本書のことを知り、興味を持ったので一読してみた。どうやら著者の主張は、次のようなものであるらしい。
 
「とある筋」とは何でしょう。自分は重要な秘密結社にでも属していると言いたいのでしょうか。楽山の現実感覚が精神病理として、さらなる嘘と妄想に飛んでゆくような記事になっています。およそ、一般には、ましてや、楽山などには、理解できそうにもない次元の学説?を語り始めました。
 
楽山が「死は存在しない」ということに飛びつく心理~精神病理は、恐らく現実逃避だと思います。追い詰められて、何を考える知性もなく何を感じ取る感性もない者が、飛びつくのは、何にもしなくてもすべてが解決するような身勝手な夢の世界なのです。むしろ、このことから楽山の救いがたさが表れてきます。
 
 
この世界には、ゼロ・ポイント・フィールド(深層世界)というものがあり、そこには人々の経験や思いが全て記録されている。人が死にその肉体は滅んだとしても、このゼロ・ポイント・フィールドに記録されている当人の経験や思いは失われないので、この意味で人に死は存在しないことになる。
 
「ゼロ・ポイント・フィールド」(Zero Point Field)とは、端的に言えば、この宇宙のすべての場所に偏在するエネルギー場のことであるが、この場に、宇宙の過去、現在、未来のすべての情報が記録されているという仮説である。
(そしてそれは)「波動」として「ホログラム的な構造」で記録されているという仮説が、現在、注目されているのである。
引用:参考書籍 田坂広志「運気を磨く〜心を浄化する三つの技法〜」
 」
 
書いてある用語に、納得できる根拠と説明がありません。楽山には、さらに人間としての根拠がありません。唐突に記事に書いてきたのは、恐らく、少年少女趣味と同じような、あるいは囚人の赦免妄想のような、現実逃避規制によって、犯罪者の本能として、衝動的に飛びついているのでしょう。
 
 
ただしゼロ・ポイント・フィールドは単なる記録保管所ではなく、一つの意識体であるから、そこに保存されているのは記録というよりは、記憶であり、刻々と変化して行くものである。だからゼロ・ポイント・フィールドに遺された死者の思いは、固定的なものではなく、少しずつ変化して行き、次第にエゴを失い、やがてはゼロ・ポイント・フィールドの意識と同化することになる云々。
 
「単なる記録保管所ではなく、一つの意識体」・・だからなんだというのでしょう。理解に結びつく何かの実証があるのでしょうか。どこかにある記憶の話をして、具体性がどこにあるのでしょう。「ゼロ・ポイント・フィールドの意識と同化」して、何が現実に起こるのでしょう。
 
楽山が、様々なHNを使って人を騙し誘導するように、楽山の欲望が成就するとでも言うのでしょうか。もはや、何の具体性もないものに楽山はすがりつきたいのでしょうか。まるで思春期の憧れのように、楽山が憧れる対象は、ほぼ全部、遠すぎて届かず、楽山は、話す方法さえ分からない世界に逃げています。
 
 
これはあくまで自分の読解であるから、不正確なところもあるかもしれないのだが、自分としては著者の意見を大体このように理解しつつ、人の意識のコピーは残るが、オリジナルは滅びるというのでは仕方がないというさみしい心持ちがした次第である。
 
「不正確」と言いながら「理解しつつ」と見栄を貼っています。「意識のコピー」が分かるというのでしょうか。楽山の空想非科学妄想全開です。科学の「か」の字も理解していない楽山が、何をもって「さみしい」と書いているのでしょう。書けば、必ず自己顕示欲だけが表れる楽山の因業であります。
 
 
しかしおそらくはこういった感慨は自我にとらわれているが故なのだろうし、ゼロ・ポイント・フィールドの記録をコピーとするのは間違いで、それに同化しない部分こそ偽物の自分だと考えるべきなのだろう。
 
「自我にとらわれている」楽山の、自我は欲望に囚われて、真善美からは遠ざかるばかりであるのに、またしても、小便臭い理想か空想を飲み込んで、妄想に酔っている楽山です。はっきり言って、楽山には本物はありません。今までも、これからも、楽山のハリボテのような、人間性の偽物だけなのです。
 
 
*不思議な出来事
また著者は、さまざまな不思議な出来事についても、このゼロ・ポイント・フィールドによって説明している。たとえば、予知などは、人の意識がさまざまな情報を集積しているゼロ・ポイント・フィールドと同通することでおきるだとか、故人の霊と会うというのは、ゼロ・ポイント・フィールドに保存されている故人の記録を合成したものと会うことであるとか、心霊スポットとはゼロ・ポイント・フィールドと同通しやすい特定の場所なのだろうなど。
 
全部、空想の辻褄合わせに過ぎません。楽山の精神世界は、結局、このような、科学に見せかけた夢幻の世界なのです。それを、分かったかのように現実世界の他者に投げつけるのは止めてほしいですが、夢見る楽山は、せっせと、それを、涎(よだれ)のように垂れ流してゆくのでしょう。
 
 
こういう説明を読むと、ゼロ・ポイント・フィールド仮説を用いれば、大概の神秘現象は説明できてしまいそうだからおもしろい。
 
つまり仮説なのです。実証しようもない。しかし、楽山においてだけは妄想化して、楽山にとってだけ現実との区別がつかなくなってゆくのでしょう。証明できないものによって「神秘現象」を説明できるという矛盾に至って、今度は、楽山が流涎するのでしょう。どこまでも神秘になりたがる楽山です。
 
 
*疑似科学?
個人的な感想としては、本書は疑似科学系のスピリチュアル本であるように思う。自分は最先端科学については何も知らないので、本書に書かれていることについて、科学的な観点から、あれこれ論評する能力はなく、これはあくまで自分がそのように感じたということにすぎないのだけれど…。
 
科学も疑似科学も理解できないのに、今回のように、悦んでいるのは、我欲の本能が感じていることにだけ従ってきた楽山の生き方そのものではないかと思います。独りでならまだしも、それをブログに書いて、人を惑わせようとするのは、まさに、今までと同じ、楽山の我執の妄想人生に他なりません。
 
 
ただそれはそれとして、著者の提唱するゼロ・ポイント・フィールド仮説は実にユニークであるのは間違いない。他の書籍も読み、著者の世界観をもっと知りたいと思う。
 
どうして楽山は「論評する能力はなく」と言いながら、「ユニークであるのは間違いない」などと言えるのでしょう。楽山の言は、書くたびに、矛盾し続けます。そしてまた欲と悪に飲まれ飲まれて、人をバカにする詭弁に至るでしょう。悲惨な楽山の病質的因業が、また害虫のように湧いています。
 
 
架空にすがりつく者

架空にすがりつく者
 
 
(2023年01月22日)
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
自分は今正常ではないのでは?常識的な判断ができてないのでは?と思える人は、メンタルが不調でも理性が残っている人。これが「自分は絶対に正しい、間違っているのはアイツ、社会」などとなり、何事も他責で考えるようになったら、理性を失っているか、元々理性的な判断ができない人だと思っていい。
 」
午前9:43 · 2023年1月21日
 
また、楽山のブーメランです。楽山は常識的判断が出来ているつもりの病質者で、不祥事を、全部、人のせいにしてきました。つまり、実際は、理性的な判断が、まるで出来ないのです。しかも、その自覚が全くありません。だから、こういうリツイートをしてきます。ブーメランの繰り返しです。
 
楽山は、対立する人に、指摘するつもりで、書いたり、リツイートしたりしますが、そこに、自分について省みるという機能を持っていないために、リツイートが、そのまま、自分に向かってくるのを感知できないでいます。こういう姿勢と結果は、楽山の常態なのです。だから病質なのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害のために、こういう姿勢しか持っていない楽山は、決して自分の非を認めず、自己主張を続けてきます。相手を責めて、疲労ばかりを与えてゆくのです。悪いことを、他者にだけ当てはめる楽山は、反省せず学習せず進歩しないので、誰にとっても迷惑な存在です。
 
4年くらい前にコメントの遣り取りをしたことがあります。楽山の言に反対意見を述べても、楽山は同じことを書いてくるか、話を逸らして、こちらを責めてくるだけです。つまり、議論をしても、全く、先に進みません。何の進展もない相手なので、議論から排除するしかないのです。
 
楽山は、自己満悦感だけに生きています。自分を肯定する人には、歯の浮くような世辞さえ言います。自分を肯定しない人には、相手が疲労して去るまで雑言ばかり当ててきます。百害あって一利ない人です。全否定するしかない人が現にいます。楽山には決して近づかないでください。
 
 
 
  蝋燭の日
 
学生の頃を思い出す
方程式は解けても
お金を出し合って買い物をしたとき
貸し借りや
お釣りの計算ができなくて誤解された
 
数学はできても算数はできない
それは今でも変わらず
暗算は苦手で
お釣りを確認しない
 
そういう人間が大学を出て
先生と呼ばれ小金持ちになった
夢があり希望があって
それは叶えられたのだ
 
それはマッチの火 蝋燭(ろうそく)の日
一人で持てる
少しばかりの贅沢を味わっている
 
あれが一つの伏線だったかと
学生の頃を思い出す
 
越えられなかった壁
直せなかった欠点を
数え上げれば切りがない
 
だとしても
すべては私の選択だった
 
選んだものの中に身を置いて
人間よりも機械に近しいかのようで
生産が受け身に代わり
欲望がだんだん下等になり
展望が鼻先のニンジンに変わり
同じ動作の反復が増えていく
 
だとしても
すべては私だ
まだ私だ
裁かれるように裁かれる
救われるように救われる
居るように居ない
古びた日記のせいにはしない
悪夢があり絶望があって
それは叶えられるだろう
だからマッチの火 蝋燭の日
一人で持てる
少しばかりの貧乏を味わっている
 
 
  夢より勝手に
 
まだ生きてたの
と言うのだ
かつての好ましからざる同僚が
まるで家畜を見るような目で
悪し様に言うのだ
もちろん夢の話だ おぞましい悪夢だ
いったいどんな思惑(しわく)が見させたのか
 
室温十四度の部屋で
汗をかいて目が覚めた
朝だ 夜は眠れたということだ
しかも晴れだ
何と裏腹な・・・こんな目覚め方
窓もドアも開けていないのに
蠅が一匹部屋の中を飛んでいる
 
まともなパターンの睡眠
悪夢のうちに取れましたと
日記に書いて落ち込んで
またベッドに入って
ふて寝して一日を過ごすか
 
嫌だな 夢にまで負けるなんて
気晴らしに出かけたからといって
どうなるものでもないが
二十日間ずっと眠っていたオートバイ
タンクの汚れをざっと拭(ぬぐ)って
起こして 逃げるとしよ
 
まとわりつく夢を振り切って
かつて衝突して骨折した防波堤のある
海沿いの道へ 晴れた春の海が
待っているということはないのだが
それで我が身の汚れが
拭えるわけでもないのだが
 
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
人間性から大きく逸脱して、無反省と無責任の無視の虫の道を進めると思っている楽山です。また新しくペテンの材料を見つけたようです。リーダー願望でしょうか。人を無視する楽山を無視してください。楽山の自己中の道は、道ではなく、地獄への通過点に過ぎません。羞恥心を持たない囚人の道です。
 
 
 
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