ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2023年01月

 
  楽山の遠吠え2
 
 信仰観は人それぞれ(st氏と楽山の場合)
 2022年01月05日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
告白と反省: 楽山のウイルス攻撃と言ってきましたが、直接の原因は、ワイヤレスキーボードの電池をプラスマイナスを逆に入れたことだった可能性が濃厚となりました。申し訳ありませんでした。そういう入れ違いの状態でも、不完全ながら一定期間キーボートが作動していたのが不思議です。
 
楽山という人物についてですが、約4年の間、批判しています。いつか、何か、やらかしてくるだろうという思いがあったため、先入観が働いたのだろうと思います。それに、下記のように、変なポップアップが出てくるということもありました。思えば、すごい年明けを迎えたものです。
 
 
1月1日の記事より:
 
昨日スクショした荒らしのウイルスによる広告は、今も並んでいます。×印を押すと順繰りに別のが並んできます。画面表示および作業を邪魔しています。こういうことをする者は、良心も思いやりもないサイコパスでしょう。楽山の特徴に合致します。楽山が、仲間に頼んでやっている可能性があります。
 
マカフィーとセブンイレブンの広告が、同じポップアップで出るでしょうか。sossiotron.com と書いてあります。誰なんでしょう。広告をどうしても削除できません。消すと、また大きな広告が出てきます。いずれにしても、楽山が関わっている可能性が大です。偽計業務妨害に当たるでしょうか。
 
人の迷惑など全く気にしないで衝動的に凶行に及ぶわけですから、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の病的ナルシストは、サイコパスへ、そして、いよいよ犯罪者に成り下がってきたのでしょう。犯罪者楽山の可能性が大です。人間の成長と尊厳とは逆の経過です。
 
 」
 
 
その日のコメント欄:
 
1.
とある場所に書き込みした後、大晦日からsossiotron.comとセブンイレブン
でてきました。
画面右下の吹きだしをクリックして右上の「通知の管理」を
クリックしたら「通知とアクション」のウインドウが表示されますので
下のほうの「送信元ごとの通知の受信設定」のsossiotron.comの
ボタンをオンからオフにしてみてください。
謹賀新年2023-01-01 12:53:27
 
2.
>謹賀新年さん
謹賀新年さんへ。なぜ、HNを隠すのでしょう。
記事をアップしてから、何を押したのか覚えていませんが、消すことが出来ました。恐らく、コメントにあるようなことをしたのでしょう。
あなたは sossiotron.comさんですが。楽山ですか。それ以外の人ですが。楽山を知っていますか。
このようないたずらは違法です。あなたがなさったのなら、二度としないでください。
st5402jp2023-01-01 14:11:25
 
 」
 
謹賀新年さんは、楽山かもしれないと、今も疑っています。
 
 
 
記事の本題に入ります。
 
 
人それぞれ・・前にも楽山は書いたことがありますが、サイコパスでネット犯罪者の楽山が、自己中の正当化に使った言葉です。大人でなければ、成り立たないことを、楽山は、人を傷つける自分の自己正当化に悪用しています。楽山は、何か、悪口をたくさん書いて、私を疲れさせたいようです。
 
愚かな間違いと無理解と詭弁と嘘が、ちりばめられています。楽山の知能そのものが低下してきたのでしょうか。書いていることの次元が、地獄に落ちてゆくようです。決して、巻き込まれないようにしてください。楽山は、病質の定めのように、良心の欠片もないことを、自ら表してゆくのです。
 
楽山は、自分が言われそうなことを、相手にぶつけてきます。この記事でも、しばしば見られることです。恐らく、楽山の処世術なのでしょう。つまり、きわめて次元の低いところで、楽山は、黒く黒く世渡りをして、とても醜いインテリ評論家?の面(つら)だけを向けてきます。毎度、吐き気します。
 
 
*st氏の信仰観
st氏のツイッターを見たら信仰について書いてあったので、ここに保存し、個人的な感想も書いてみたい。
 
ということで、私の記事を引用するのですが、引用だけのようです。
 
 
 私の意見の引用
 
人の人格や尊厳をおとしめる発言を公開した場合は、「個人的な感想」では済まないことさえ、楽山は、自覚できない哀れな病質者なのです。
 
信仰は、論理や事実によるのではなく、キリストを好きになることであり、神とキリストを矛盾なく正しいと証明することではありません。信仰以外に、人間として生きるために必要な、心に響く言葉を提示できないなら黙っているべきです。
 
聖書からは、絶望を希望に変えるような、心を生かす言葉を見つけて共感することであります。それは聖書がなければありえなかったこととして記憶され、聖書と、生きることの間を、何度も往復する動機となります。
 
信仰は、聖書の一つの言葉で生まれることもあり、人によっても、状況によっても、違うことがあり、それは、教理や理屈を大きく超えて、救いと癒しというテーマに関わることです。だから、その経験のない人が、通念的な理屈で語る神は、読むに耐えないほど、拙劣なものになるのです。
 
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという傲慢が明らかです。また、信仰は、神を判定することではありません。キリストの教えに、生きた言葉を見つけた人は、それが、生きる縁(よすが)になるのです。不躾に神聖を並べて、自分の屁理屈で判定する、・・楽山に似てる雑言です。
 
神と神の言葉を、自分で決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。
 
このブロガーが、批判するべきなのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。偏見をもって、既に救われ癒されて生きている信仰者の信じる神とキリストに向けることは、即、侮辱となります。
 
 」
 
*st氏とHS信者との共通点
st氏のツイートを読んで、まず思ったのは幸福の科学(HS)と同じことを言ってるということだった。
HSではよくこんな事が言われている。
「大川隆法総裁の言葉に、心を癒やされ、救われた。これは神でなければ説けない教えだ。総裁は神だ」
「凡人の小さな頭で、総裁の本心が分かるはずもない。にもかかわらず、総裁を疑い、信者を惑わすのは罪だ。それよりは黙って自らの未熟さを反省すべきだ」
「信仰は尊いことだ。信仰を汚すことは許されないことだ」
こうしてみると、st氏とHSとでは信仰対象に違いはあるものの、思考回路は同じだと言っていいだろう。以前、st氏の信仰観を支持していたHS信者がいたが、さもありなんである。
 
キリストに「癒され」「救われ」、神の「本心が分かるはずもない」・・何がおかしいのでしょう。HSではなく、キリスト信仰です。当然のことを言っているのですが、言葉が似ているから、おかしいと言いたいようです。信仰対象が違います。楽山は、そんなことも分からないのでしょうか。
 
信仰対象が違うということは別の宗教だということです。どうして思考回路が同じという話になるのでしょう。楽山に、知能はあるのでしょうか。信仰を云々する思考回路がない人のようです。
 
「st氏の信仰観を支持していたHS信者がいた」・・違います。信仰観ではなく、楽山はとんでもない奴だということが一致しているのです。自己中楽山の恐ろしい詭弁です。
 
楽山は狂いだしたようです。なりふり構わず、理路も情緒もお構いなしに、嘘吐き楽山がディスってきます。ふつうは、こういうやり方は恥ずかしくてしないのですが、羞恥心がなく、混乱している楽山だからでしょう。凶暴な楽山です。
 
 
*st氏と楽山との相違点(判断)
次に改めて思ったのは、st氏と私との相違点である。たとえば、この部分だ。
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという罪が明らかです。また、信仰は、神を判定することではありません。
 」
神と神の言葉を、自分で決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。
 」
前の記事でも触れたことではあるが、st氏は、人には神のことは分からず、決めつけてはいけないとしつつ、自分自身はイエスと聖書とを神と神の言葉であると断定しているようだ。
 
断定ではなく、救いと癒しは、個人として否定できないということです。そういう体験のない人に向かって決めつけているわけではありません。「イエスと聖書とを神と神の言葉である」・・救いと受け取った人にはそうなるということです。我執の断定と、信仰の区別のつかない楽山です。
 
楽山の、意見に対する評価の前提となる理路の判断を、やみくもに断定しているのは楽山のほうであります。刀を振り回しているだけで、既に、落城しています。知能そのものが低下しています。理解も謙虚もないなら、キリスト信仰については黙っていろ・・ということです。
 
 
信仰者というものは、人には神のことは分からないと言いつつも、「これこそ真の神だ」「これが神の言葉だ」「神の御心はこのようなものだ」などと、さも自分は神のことを分かっているかのように断言しがちなものであるが、st氏も例外ではないということなのだろう。
 
楽山は、仕返しのように信仰を否定しています。「神のことを分かっているかのように」・・私は、何度も、神を完全に理解することは人には出来ないと書いてきましたが、楽山が読み取っていないことは明らかです。知りもせずに文句ばかり言ってくるのは、楽山のほうです。あまりに拙劣です。
 
信仰について・・聖書は神の言葉でありますが、私たち人間は、人の言葉しか持っていないことを自覚するべきです。つまり、人の理解は不完全だということを書いてきました。楽山が、それを、今さら「分かっている」と「断言」していると言うのは、人の話をまるで理解できていない証拠です。
 
 
ちなみに私はと言えば、人には神のことは分からないと考えているので、「これは神でない」とも、「これは神である」とも断言するつもりはない。個人的な感想を述べることはあっても、その判断を他人に押しつけようとは思わない。
 
「人には神のことは分からないと考えている」・・嘘です。仏様の心が分かるっぽいと書いていたのは楽山です。楽山は自分が神仏同等のように思い上がって、訂正不能になっているのです。信仰がないことを、視野が広くて正しいかのように思い込んで自慢しています。悍ましいかぎりです。
 
「感想を述べることはあっても、その判断を他人に押しつけようとは思わない」・・感想が、否定であれば、さらに、嘘と詭弁であれば、感想ではなく、悪口そして偽善です。楽山に、罪悪感が全然ないことが表れています。楽山は意見と悪口の区別もつかないほど、知能が低下しているようです。
 
 
*st氏と楽山との相違点(聖書)
個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。
 」
このブロガーが、批判するべきなのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。
 」
ここを読むと、st氏の考え方は、人が決めつけた理屈である教義教理は批判すべきものであるが、聖書については批判は許さぬということであるらしい。
 
違います。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、こんなに的を外してしまうのです。分からないのでしょうか。聖書を読んで受け取るプロセスで、必ず、解釈しています。それが、教理に結びつきますが、人の言葉が、信仰としては、絶対ではないということです。
 
つまり、楽山のように、聖書を読んでも、我欲と自己愛性の障害のために何も受け取れないものだから、理屈にならないことを、屁理屈で、いちゃもんを書いてくるのでしょう。理路も感性も拙劣です。こういう人に頼ると、人格を破壊される可能性がありmす、
 
楽山の、聖書とキリスト教に対する批判が、常識に非常識を、良心に悪意を、塗りたくるように、あまりに的を外し過ぎているので、批判対象となっています。ここまで、訂正不能の曲解は、妄想とでも言うべきもので、つまり、楽山は正常人ではないということです。楽山は、病識のない病人です。
 
 
私はどうかといえば、人が決めた理屈…教義教理には聖書も含まれると考えている。
 
聖書は、解釈されるのは当然のことです。しかし、楽山が言っているのは、聖書とキリスト教と信仰の否定を広めようという嘘と詭弁教の宣伝であり、ゆえに楽山は、屁理屈で聖書を捏ねまわして、何の収穫もない徒労を繰り返しています。それは、楽山に正常な理路がないからなのです。
 
 
*st氏と楽山との相違点
とはいえ私は、他人の信仰や行動をコントロールしたいとは思わぬので、他人に向かって「聖書について自分と同じ見方をしないのはけしからん」とは考えない。上の見方に反対して、「聖書は神の霊感によるもので、人によるものではなく、一つも間違いはない。批判することは許されない」と信じたい人は信じればいいし、言いたい人は言えばいい。
 
楽山が、間違いに気づかず、誰も救えないボンヤリ言語を発して、キリスト教と信仰を揶揄してくることは、常に、批判対象となります。同じ見方でないどころではなく、あまりにも、理路も感性もお粗末なまま、いちゃもんを言うので、批判しています。
 
 
もし私が、神について正しい判断をくだせるなら、他人の信仰について、ああしろこうしろと口出しするかもしれないが、そうではないのだから自分は自分の判断をしつつも、他人には他人の判断があることを尊重しないわけにはいかないのである。
 
楽山は、キリスト教について、既に、さんざん悪口を言い、否定してきたのです。洟(はな)を垂らして泣き止まない子供のように、楽山の判断は、すべて、炎症性の、だまし文句の詭弁に過ぎません。議論にも交流にもならず、疲労と徒労を与えるだけです。人に自分の病気を移さないでほしいです。
 
 
st氏は自分の意見を述べ、かつ他者もそれに従わなければ承知しないようだが、
 
違います。楽山の言っていることが、この記事もそうだが、理路も感性も成り立っていない侮辱だからです。妄想的な思い込みで、被害的で、他罰的で、結論しかないのが、楽山です。楽山は、同情も共感もなく、他者を傷つけてゆきます。そして、罪悪感がなく後悔することもない変質者なのです。
 
 
私は自分の意見を述べはするが、他者の思想や行動までも指図する気はないのである。他者に向かって「信じろ」「信じるな」「意見を言え」「意見を言うな」などと求めるつもりはないのである。また他人からそんな命令をされたところで、自らの自由を放棄する気はないのである。
 
指図どころか、人格を、おとしめ、疲労させています。楽山が、無反省で無責任だからです。言ってるだけだから・・は、言い訳にならないのです。公開しているわけですから、否定すれば否定した責任が、肯定すれば肯定した責任が生じます。その責任を、一切負わないから批判します。バカなのか?
 
キリスト教について、否定して、別の記事で、肯定めいた記事を書いて、両方言ったから、責任問題は生じない・・などということないのです。大人なら分かることです。言論の自由には、言論の責任が伴います。楽山は、この当たり前のことが、分からない人です。
 
 
前々から分かっていたことだけど、やっぱりこの辺りの考え方は、st氏と私とではまるきり違うようだ。
 
「まるきり違う」のは「ようだ」ではなく決定的で、こちらの意見を踏まえず、無理解のまま繰り返し言い張ってくる自己愛と自己中は、反社会性の病質だと思います。批判にも意見にもならない幼稚なことを言い、責任を負わない楽山との意見交換は成り立ちません。
 
 
*st氏と楽山との相違点(信仰)
上のツイートによると、st氏は信仰については批判すべきであるとしつつ、批判ではなく沈黙すべきであるとして矛盾したことを書いている。
 
批判するなら、批判として成り立つ文章を書くべきであり、責任も負うべきだということです。そういう当然のことが出来ていないから、書くなと言っています。やはり、人格崩壊による知能低下が進んだのか、楽山は、何を聞いても無駄で、何を書いても成り立たなくなっています。
 
 
これはどのような意図で書いているのかは判然としないが、信仰には、人によるものと、神の恵みによるものとがあるという見方があるので、前者については批判すべきだが、後者については批判はできないということは言えば言えるだろう。
 
ボンヤリ言語です。詳細をぼかして婉曲的に、否定しています。卑しいことです。人による信仰が、人が作ったものということなら、それは信仰ではありません。恵みを受けたことのない楽山は、人によるとか、神によるとか、書くことが、いかに無意味であるかも分からないのです。
 
 
ただ私はこれはあくまで理屈であって、実践はできなかろうと考えている。「この信仰は人によるものである」とする場合も、「この信仰は神の恵みによるものである」とする場合も、結局、どちらの判断も人が行うものである。人には神のことは分からないのだとすれば、「この信仰は神の恵みによるものである」という人の判断は必ずしも正しいとは言えないからである。
 
こういうふうに、ややこしく語るのは、楽山は自慢したいようだが、言葉遊びに過ぎません。楽山の詭弁の理路には、付き合うだけ、無駄な疲労がたまります。信じ仰ぐ、ということが、まるで分かっていません。百害あって一利なし、これが、楽山の言であり、楽山と付き合うことです。
 
信仰の成り立ちは、聖書を読むことから始まります。しかし、楽山が、神と言うときには、神を、恐ろしく幼稚な概念として、楽山が、既に、分かったことにして、訂正不能となっています。恐らく、楽山は、これからも、自分の思い込みにないことは、何も理解しないでしょう。
 
そして、楽山は、安っぽい理屈をこねて、人を悩ませ、苦しめ続けるでしょう。理解力も感受性もないのに、背伸びした楽山の自己愛がもたらす害は、相対する人に心の傷を負わせます。楽山を、決して相手にしてはいけません。幹が悪いのに、葉っぱがどうのというような屁理屈が、楽山の自慢です。
 
 
それだから人には「この信仰は人によるものだから批判すべきである」とも、「この信仰は神の恵みによるものだから批判すべきではなく、沈黙すべきである」とも、断言することはできないのだ。
 
「できないの」は、楽山です。神と人の区別なら、思い込み、訂正不能、先入観を排除するべきでしょう。しかし、楽山こそは、偏見に固定されて、自己中のために訂正不能になっている典型なのです。悪意は、批判にはなりません。救いの代わりに疲労を、平安の代わりに苛立ちをもたらすのが楽山です。
 
 
せいぜい、どちらの信仰についても、「自分はこのように判断しています」と言えるくらいであって、それを他人に押し付けることは無責任な行為でしかないのだ。
 
楽山を信用しないでください。楽山は、何も理解していないのに、成り立たない言い分を、繰り返し言ってきます。自己愛のために、理解することも理解させることも出来ない人です。楽山に関わることは時間の無駄です。関わらないでください。近づかないでください。
 
私は、楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと判断します。症状として、身勝手で、自己中で、無反省で、無責任で、妄想的確信があり、訂正不能で、温もりと潤いの高等感情と共感のない、羞恥心のない、そして、罪悪感のないサイコパス(精神病質)だと判断しています。
 
 
st氏は自己の信仰についての判断を他人に押し付けることに何らの疑問も感じていないようであるが、私はこのような考え方なので絶対にそんな風にはなりたくないと考えている。
 
こちらを無視して勝手に押しつけだと決めつけるのは、傷つけ疲れさせるのが目的です。根拠のない結論です。これが、他者を害して得意になるサイコパスです。一日も早くネットからいなくなってほしい存在ですが、信仰者としては批判できるだけ批判して、神の裁きを待つことにします。
 
良心のある人は、信仰者でなくても、宗教と信仰については寛容です。楽山には、良心がないので、自説を錆びた刀を何度も振り回して顰蹙(ひんしゅく)を買い続ける運命です。楽山は、宗教の代わりとなる救いを何も語れません。楽山は、無関係のホラーをネタにして、救いを邪魔する悪魔性です。
 
楽山は、聖書に書いてある、崖に突進して自滅する豚よりも醜い存在だと思います。豚は笑いませんが、楽山は、この世で一番見苦しいあざ笑いがベースにあり、そこから書いてきます。崖に向かいながら、笑っているのです。このような類人は、近づく者を崖に誘うでしょう。
 
 (マタイによる福音書、新約聖書、口語訳)8:32
そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
 
楽山は、キリスト信仰者を、奇跡を信じ込んでいる愚か者という解釈に短絡して、そこから一歩も出ることのない思い込みを見苦しく語り続け、人間の心の問題を何一つ語れません。楽山には、自分を見る目がないからです。そこで結論を吹聴する楽山は、欠陥人格を代表する恥さらしでしかありません。
 
楽山は、いずれ自暴自棄となって錯乱し何らかの犯罪を犯すでしょう。人間に起こるパニックは必ず周囲を巻き込もうとするので、人々が自分の人生を守るためには、楽山からは一斉に離れるしかないのです。楽山というHNとその性根を知って崖っぷちでガハガハァと叫ぶ楽山から離れてください。
 
 
偏見と妄想

偏見と妄想
 
 
(2022年)
(2023年01月21日、再録+加筆)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
しかも区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
 
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ることもできるが
迷うことも飢えることもある不自由
 
つまるところ
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
その両価性を循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる楽山は、人間であることをやめて、我欲から神を決めつけて、ゆえに魅力の欠片もないのに、人に迷惑をかけるだけの生業で、誰のためにも存在せず、それで、嘘と詭弁で人を騙すことに終始して、自分が、どれだけ醜くなって迷惑をかけているかも気づかないのです。
 
 
 
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  楽山の無神論漁り2
 
  「新無神論bot」を見てみた(1)無神論を支持する有名人
   2022年01月03日 楽山日記(LD)
    を改めて批判。
 
 
壊しておいて、後始末をせずに、知らぬふりをしている犯罪者によって、スクリーンキーボードとマウスによる遅々たるブログ編集の日々でありました。結局、Q&Aサイト閲覧、セキュリティによるフルスキャン、再起動などを繰り返して、よく分からないけど正常に戻りました。
 
正常に機能するということの幸いを味わっています。
 
 
自分の言葉が破たんして、何も言えなくなっている犯罪者楽山の常套手段は、有名人の言葉を引用して、こんな人も言っているよ・・みたいに、無神論を、論ではなく、印象として擦り込んでゆくことです。引用部分は、大方、楽山が妄想的に決めつけて快感を得ているだけなのです。
 
楽山の言説は、正当なキリスト教と信仰の本質に触れるものが一つもない曲解だけで出来ています。キリスト教と信仰は、堕落しても、立ち直りを喜ぶ神の寛容によって、いつでも改めることが出来ます。楽山は、無反省に詭弁と嘘と悪用だけを続けている亡者であります。
 
宗教と科学が同じ土俵に立つことはありません。楽山のようなインテリ気取りの反キリストのペテン師の企みに過ぎません。そういう者は、いつの時代にもいたということです。姑息をつないで、ごまかして生きているのが楽山です。
 
 
*まえおき
「新無神論bot」を見てみた。その感想を書いてみたい。
*ハリー・ポッター
僕は信仰は持たない。僕は無神論者だ。そして、宗教が立法に影響を与えようとしたときは、戦闘的な無神論者にもなるよ。―ダニエル・ラドクリフ
 」
これは意外だ。役柄と俳優本人は違うと承知してはいても、ハリー・ポッター役の俳優が無神論者だというのは意表を突かれた思いがする。
 
間違って権威主義になっている偽キリスト教はあるでしょう。戦闘は穏やかではありませんが、それに対する無神論者の闘いは、むしろ、人間らしいものだと思います。宗教が堕落し変質すると、人間離れ、現実離れして、サイコパス的恐怖になるのです。その典型のような楽山を批判しています。
 
サイコパス人格の楽山は、有名人とは全く違って、人を苦しめて快感を得るサディストとして、有名人を、安っぽいブログの小手先で悪用して我欲を満たしてだけです。だから追いつめられると犯罪行為に及んだのです。本質を見抜けず、字面の浅いところだけを舐めてきた破綻が表れています。
 
 
*アミダラ女王
私はあの世なんて信じない。この人生こそがすべてだと思ってるし、それが最も賢明な生き方だと信じてる。―ナタリー・ポートマン
 」
こちらも意表を突かれた。シャーリー・マクレーンや美輪明宏などの影響のせいか、芸能人にはスピリチュアルなことを信じている人が多いイメージがあるけれども、当然ながら必ずしも皆がそうだというわけではなく、結局は人それぞれということなのだろうな。
 
皆がスピリチュアルではない、❔❔当たり前です。引用部分は、自然に受け取れる意見です。生きている間が全て、・・当然です。何故なら、あの世があっても、地上を生きている私たちには、信ずるべき具体は確定できないのであって、今できることをして祈る姿勢に、何の変わりもないのです。
 
 
*ザッパ
キリスト教の神髄はエデンの物語に表れてる。あなたのあらゆる苦しみの根源は物事を知ろうとしたことだ。黙って問いを発することなく大人しくしてれば良かったと。賢くなったら痛い目に合わせるぞなどと主が語る宗教はなんと反知性的だろう?―ザッパ
 」
 
例えば、神は、カインを殺しませんでした。カインが、弱みを見せたからです。神は、冷たい超常の存在ではありません。「物事を知ろうとしたこと」「黙って問いを発することなく大人しくして」・・これは神髄ではありません。人が受け取るべきは、キリストの洞察と共感であります。
 
「問いを発することなく大人しくしてれば良かった」「賢くなったら痛い目に合わせるぞ」・・これは楽山の姿勢であって、似たようなキリスト教を自認する偽物は、日本も外国も、ひどいことを言ってる人がいると感じます。神への服従は、人への服従ではありません。
 
恐らく、従属を強いる教派の長は、楽山に似ていると思います。誰も楽山のような者の従者にならないように、楽山にだまされることのないように、楽山批判を書いています。議論も意見交換も全くできない訂正不能の楽山がいるのと同様に、狂った病質的教派がキリスト教を名乗っているということです。
 
 
ザッパには前衛的なイメージがあるので、この発言に驚きはないし、共感できる。
自分には、人が知性を磨くことを喜ぶ神様は想像できても、それを禁ずる神様は想像できない。また女性を学校に通わせない、勉強させないという考え方も分からない。
今どき、宗教について疑問を述べたり、意見を述べただけで、「そんなことは言ってはいけない、黙っていなさい」と怒る人がいることもよく分からぬ。  
 
知性を禁ずる神というのは、楽山の悪質な偏見への誘導です。ここに書いてあることは、あってはならない人権問題でしょう。そういうのは、キリスト教でも信仰でもないのです。これがキリスト教だよ悪い奴らだね・・という印象操作を企む楽山が最悪です。キリスト教でも信仰でもないのです。
 
引用された人間の叫びと反キリストを区別でないのは、楽山が、冷血の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。楽山は、貧困な偏見の塊で、偽キリスト教系カルトと、キリスト教を、区別できないのです。何でもかんでもエゴのために悪用する楽山に関わらないでください。
 
 
*科学と宗教
権威に基づく宗教と、観測と理性に基づく科学との間には根本的な違いがある。そして科学が勝利をおさめる、なぜならそれは機能するから。―スティーブン・ホーキング
 」
スティーブン・ホーキングは無神論者だという話は聞いたことがあるので、この発言に驚きはない。
「権威に基づく宗教」というのは、その通りだと思う。大概の宗教は、「教祖様(神様)のおっしゃることに間違いはない」「教祖様(神様)を疑うのは傲慢だ。己の分を知れ」という考え方をするものなので。
 
科学は物質と人体に機能しますが、物質だけで、人体だけで、人は生きられません。また、科学と宗教と、どちらが勝利するかなどという問題こそ、サイコパスの所産であります。物質は勝利を目指さず、信仰は勝つことを求めず、神は既に勝っているからです。
 
 
*連戦連勝
ここにいるみなさんにお伺いしたいが、かつて我々が科学的解答を持っていながら、それが誤りだと判明し、今ではその最善の答えが宗教的なものであるようなことを、一つでも思い浮かべることができるだろうか?―サム・ハリス
 」
こんな事は考えたこともなかったが、言われてみればその通りだ。たとえば、「この病気の原因は、××菌だとしていましたが、それは間違いで神の怒りによることが証明されました」なんて話は聞いたことはない。
 おそらくは、これまでも、これからも科学によって宗教はどんどん隅の方へ追いやられていくことになるのだろう。「科学が発達して、神様は貧しくなった」という話があるけれども、これは本当だと思う。
 
「言われてみればその通りだ」というのが楽山のボンヤリ言語の誘導です。科学的問題を、宗教的なものが答えることはありません。また、宗教的問題を、科学が解決することもありません。科学は宗教を語れず、宗教は科学を語れません。そこを外れたら、科学も、宗教も、成り立たなくなるでしょう。
 
さらに、楽山は、自然科学と人文科学の区別も出来ていないようです。理路も弁えず、あらゆることを混同して、話を混乱させてゆきます。最も批判され、まず最初に追放されるべきは、我欲だけのサイコパス、楽山であります。
 
 
*新無神論とは?
当該アカウントのプロフィールでは、新無神論について次のように説明している。
新無神論とは自身が無神論者であることを積極的に公表し公に宗教批判を行う人々によって発展させられている新たな無神論の流れであり、組織宗教に限らず、あらゆる不合理な信念が批判の対象とされる。
 」
自分は宗教に批判的なところはあるが、無神論者ではないし、不合理な信念のすべてを否定しようとは思わないので、どうやらこの定義には当てはまらないようだ。
 けれども当該アカウントのツイートには共感できるものが多々あるので、これからもフォローを続けたいと思う。
 
「宗教に批判的なところはあるが、無神論者ではない」・・楽山特有の、断定してないから責任はない、という言い逃れです。詭弁は、断定より、悪質な悪そして偽善であります。サイコパス性を発揮し続ける楽山は、決して許してはいけない人~ヒト型動物です。無知の詭弁屋に過ぎません。
 
今まで楽山の引用で見てきたかぎりでは、新無神論は、「新」ではないと思います。「論」は、宗教と信仰を語れないと思います。楽山は、人間ではないと思います。人格障害は、しばしば、人間ではなくなり、ケダモノ以上に冷酷になります。近づかないでください。
 
楽山は、信じることの切実な欲求もなく、また、神を否定しても、別の救いを何も表せず、無神論の論の欠片も書けないでいて、何を引用で語りたかったのでしょう。引用された言葉は、人間性として理解できる範囲です。楽山の文章は、人間に理解できる何ものも含まない、悪魔性の企みに過ぎません。
 
楽山は、人格障害のために、最低限の正常な人格形成が出来ていません。楽山は自分が裸でタコ踊りしていることに気づけないのです。ずいぶん長く続けて、何の学習も成長もないのが、証拠でしょう。これからも、ケツ丸出しの、みっともなさを、出してくるのでしょうか。吐き気がします。
 
 
発情する偽善

発情する偽善
 
 
(2022年)
(2023年01月20日、再録+加筆)
 
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
結局、誰にも相手にされなくなるであろう訂正不能の嫌な奴、楽山は、ペテンを止めません。私は、こういう人間が一番嫌いです。ずっと前にも、少し前にも、丁寧語で、人を平気で傷つける者がいました。サディストと言っていいような、こういう人は、隔離された場所で生存するべきだと思っています。
 
どうして楽山のような者が、生まれて、生きているのでしょう。いかなる生産活動もできず、いかなる知性的または感性的な糧(かて)も産みだせず、参考となる経験談も、何も持っていない人格です。原因は、学習せず、反省しないからです。そして、怒りと笑いだけで、弱そうな他者を侮辱して楽しむ人です。
 
 
人類の敵は、国家でも民族でもありません。人類の敵は、サイコパスです。大きな災いの降りかかる時と所、必ずサイコパスが暗躍~支配しています。サイコパスは、自分の物質的または精神的利益を求めますが、それを与えることは遂にありません。他者は、利用する対象に過ぎません。
 
楽山は、理路を理解できず、組み立てることも出来ません。また、共感性もないので、私の批判記事を読んでほしいのは、当ブログを訪問してくださった楽山以外の人たちです。異常者についての一種の警鐘として書いています。時々書いている厳しい比喩表現だけが、楽山に向けて書いたものです。
 
 
 
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  詭弁に乗る楽山2
 
 これからの宗教と無神論(中村圭志氏のツイッター)
 2022年01月02日 楽山日記(LD)を批判。
  を再録+加筆して批判。
 
 
楽山という人は、キレイごとを書きながら、それを裏切ってゆく生き方をしている偽善者です。ウイルスでしょうか、私のPCのキーボードをブロックしました。現在、スクリーンキーボードを使っています。楽山は、怖い人です。言論者ではありません。サイコパスだと思います。
 
楽山は、他者の詭弁を利用するしかなくなっています。元々頭のまとまらない人です。理路は散乱し、多くの人格に成りすましているので、脳も精神も、マルチなHNと同様、乖離~分裂しているのかもしれません。楽山は、悪だくみを実行するので、精神病ではなく人格障害だろうと思います。
 
楽山は、体質的な精神病質(サイコパス、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害、NPD)だと思います。自己顕示欲が原動力であるため、その半端な言論の、虚言と自己愛と、罪悪感の欠如は、関わる人を病ませる可能性があるので、決して関わらないでください。
 
 
*偶然
 今年は、無神論についてもっと積極的に書いてみようと思っていたら、タイムラインに次のツイートが流れてきた。こういう偶然はちょっとうれしい。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
ドーキンスの無神論関連の本に関しては、アマゾンなどでは宗教信者からの否定的なコメントが書かれることがありますが、書き手に読解力がないことは明らかです。信者が相手にしないのに無神論を説くことに何の意義があるのか?との意見もありますが、やはり未来の世代を見据えての展開だと思います。
午後1:43 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
無神論が通ったら、未来はよくなるのでしょうか。はっきり分かるもの、例えば、物体や、その運動のようなものでないと信じない者たちは、恐れもなく物体のように神を考えるのでしょう。何故なら、宗教的感性がないからです。宗教的感性とは、謙虚な良心であります。分からないと言える心であります。
 
 
*無神論と向き合う信仰
これには同感だ。本当の信仰というものは、無神論から目を背けることではなくて、それを学び、理解し、乗り越えてこそ成立するものではないかと思う。
 
すごい詭弁です。否定しているのに、「理解し乗り越え」るなどと言っています。「本当の信仰」と言いながら、信仰を否定するのです。神の論も、神がいない論も、成立することはありません。神は、人の論で成り立ってなどいないからです。ましてや、楽山は、人の論も成り立ってもいないのです。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
現代における無神論の台頭には論理的な必然性があるので、信者がどのような心情をもとうとも、これに向き合わなければどうにもならないと思います。無神論に顔をそむけてどうにかなると思うのは、30年間何もしないでひたすら没落してきた平成の日本のようなもの、あるいは日本の保守のようなもの。
午後1:46 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
無神論は台頭しているのでしょうか。半端な理屈が半端な理屈を自画自賛しています。誰も褒めてくれないものだから、説得力のない「論理的な必然性」という言葉が浮いてきます。そして、神に「顔を背けてどうにか」しようと、没落するカルトの干物のように、強張って硬くなるのでしょう。
 
 
*宗教と論理
これは自分には理解が難しい言葉だ。とはいえ、宗教においても論理は無視できないということはわかる。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
宗教は第一に情念の問題ですが、情念だけじゃどうにもならないというのは論理の問題です。そして情念がころころ変わってきたというのは歴史の問題。これからの宗教学は、教団の調査などより、知性の歴史の勉強と、論理的思考にかかっていると思います。宗教信者にとっても、これからは論理の時代です。
午後1:48 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
「理解が難しい」のに「とはいえ」でつないで、逆の「宗教においても論理は無視できないということはわかる」のだそうです。こういうことで「理解が難しい」が嘘だと分かるわけです。楽山は、いたるところで理路が破たんしてきますが、元々、国語の勉強が成っていないのだと思います。
 
 
論理は、前提がなく積み重ねのない欲望からの結論を防ぐために、宗教でも必要です。宗教と信仰は、情熱ではあっても「情念」という言葉で済ませられるものではありません。こういう言葉で、無神論者は、心の問題を理解できないことを表し、やたら、論理、論理と、振り回すことになります。
 
 
この世のすべてを、論理で理解することは困難ではあろう。宗教は特にそうだろう。
ただそれでも明らかに論理に反する宗教の未来は明るくはないだろう。
 
良心の正論と直観がない犯罪者詭弁屋楽山の「未来は明るくはない」のです。「論理で理解することは困難」なのに「論理に反する宗教の未来は明るくはない」という詭弁で、理路を恣意的に捻じ曲げています。混乱させるために、大事なところでも曖昧な筆致を使うしかないのが楽山です。
 
 
論理によって結論が出せないものであれば信じることは可能かもしれないが、論理によって明確に否定されるものを信じることは無理だからだ。少なくとも私の場合はそうである。論理で判定できない論理を超えるものは信じられもしようが、論理的矛盾まみれの宗教を信じるのは無理だ。
 
信仰は、論理によって肯定も否定も結論は出せません。これは、基本的な信仰理解です。楽山には、その理解がないということです。ひどいですね。また、楽山の言う論理的矛盾は、空想の超常話の否定でしかありません。本質は、そこにはないのです。
 
つまり、楽山には、まさに、信仰を受け取るための飾らない「土の器」がないのです。そういう、ならず者たちが、超常より、さらに思い上がった超常気取りの屁理屈をもって、"無神論" という成り立たない傲慢の産物を掲げているわけです。信仰は、人を救うことがありますが、無神論は、誰も救えません。
 
無神論は無神論者が快感を得る遊び道具です。彼らには、独特の、勝ち誇ったような、平安からは程遠い笑い顔があります。醜いです。悪魔のように見えることもあります。正直言って、信じないだけでなく、否定して悦ぶ無神論者は、サディストだと思います。
 
論理によって明確に肯定できないものを、論理によって明確に否定だけできるという楽山の惨めな非論理的詭弁です。論理的にも心情的にも、嘘まみれ詭弁まみれの楽山を「信じるのは無理」です。論理、論理、などと振り回す者ほど、本当の論理も神も知らず、知らないという共感さえないのです。
 
心貧しい、即ち、虚心の信仰者は、理屈では知らない神に、人生の縁(よすが)になるほどに大切に想うほどの、温もりと潤いを与えられています。不完全で頼りない、この情緒は、理屈屋が干からびるほど唾を飛ばしても得られないような、信仰という命の賜物なのです。
 
 
*ドーキンス
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
というわけで、私は必ずしもドーキンスらの宗教観に全面賛成ではないのですが、ドーキンス抜きで宗教は語れないと思うので、しばらくは、(図像学だの死生学だの映画や小説の話だのと並んで)無神論の話を投稿していきますので、おつきあいくださいましな。
午後1:50 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
さて、この後どんな話が続くのか楽しみだ。
ちなみに自分の場合は、ドーキンスの宗教批判は若干遠く感じることがちょくちょくある。たぶん自分は日本的な宗教観を持っているのに対して、ドーキンスはキリスト教を念頭に置いて話すことが多いせいだろう。これは宗教的文化的背景が異なるのだから、致し方のないことであり、自然なことでもあるのだろうと思う。
 
「おつきあいくださいましな」という軟派言葉にだまされないでください。そして、楽山は、日本的な宗教観も、外国的な宗教観も、霊的な宗教観も、持っていません。また、楽山は、キリスト教を念頭に置くことなど出来ません。楽山は、大事なことを何もかも腐らせてゆく変質した粘性人格なのです。
 
この楽山という犯罪者の、みじめな荒らし人格は、宗教もなく、文化もなく、背景もなく、どこにも至ることもなく、自然な何ものでもなく、嫌いなものをロンリー的に否定したつもりの孤独な固陋(ころう)のナルシストで、自分の世界でだけ一人前を気取って慰めとしている独り芝居の大根役者に過ぎません。
 
楽山みたいな、心の芯にカビが生えた人格にならないように、どうか、楽山に関わらないでください。近づかないでください。楽山を正常な人間だと思わないでください。いちゃもん屋、雑言屋、夜店のインチキ、見世物小屋のペテン、そして犯罪者の、永遠に埒(らち)の開かない"lonely"ピエロなのです。
 
楽山は、"ウソッピ" 物語の、オオカミ少年です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
要は私は、人生論的な心の教えには共感、支持はするが、普遍的ではない党派的で偏った考え方には反発するってことです。
そうしてSNSでは、前者を話題にするより、後者を話題にする信者が多いので、勢い批判が多くなるということですよ😊
2023年1月11日
 
楽山は、普遍的な考えなど、何も持っておらず、その偏狭な妄想的偏見を振りまわして混乱を招くだけの荒らしです。気に入らないと、ウイルスなど卑怯な手段も使ってくるので、決して関わらないでください。自己愛性パーソナリティ障害NPD、そして、サイコパス、異常者です。
 
 
lonely-論理ー

lonely-論理-
 
 
(2022年)
(2023年01月19日、再録+加筆)
 
 
 
  陰・陽
 
木陰から
雲雀が飛ぶ
雲雀と気付かれぬまま何も告げずに
脇侍(きょうじ)を務めるのは
寂寞を捏(こ)ねる四十年(よそとせ)の落魄
 
白紙の涅槃(ねはん)を装丁する
風の産土(うぶすな)をたずねるように
 
ゆえに折れる木は燃える前から
当然として折れるであろう
 
表裏一体の巡る日の下で
遠く雷は感電して
細い折れ線を自らに向けるに過ぎず
砂塵よりも大量に散乱する光に打たれ
爬虫は狼狽(ろうばい)となって類を呼び
蠢(うごめ)くものは既に顕れており
 
たとえ雲が山陰に隠れても
木陰が木陰である間
惜しみなく
陰にも陽は射している
 
 
  失楽園
 
緑児(みどりご)は自ら進んで
血糊(ちのり)を見せることはない
 
大人はときに血糊を
見せざるを得なかったり
見て欲しくなったりする
失楽園
善かれ悪しかれ
知恵をつけた結果である
 
生きて楽園へ戻る道は
もはや何処にもないが
心有る人々には
姿なき幼児(おさなご)が
ときおり問いかけてくる
 
あなたはだれ?
なにしているの?
 
楽園の住人に問われても
楽園を追われ
忘れてしまった大人たちは
それゆえそのとき
むしろ悩んだり悔いたりする
 
血糊が減ることはないのである
一方で人々はしばしば
血糊に因縁話を付け加えながら
地上の楽園を探し求めて
赤児(あかご)を自慢の腕に抱き
善かれ悪しかれ
やがて知恵を吹き込んでゆく
 
いずれにせよ
血糊が減ることはないのである
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
とある新興宗教の信者だったので、これはよく分かる。
こうしないと悪霊に憑依され、地獄に堕ちる
ああしないと天変地異が起きて大勢亡くなる
などと何度も何度も聞かされました😅
引用ツイート
naru@脱・自己愛被害
@kokorodrugstore
1月14日
あなたをコントロールしようとする人は、あなたに「言うことをきかないと悪い」かのように思わせます。道徳や良心の話を持ち出して罪悪感を煽ったり、宗教ならば信仰心がどうとか呪いがだのバチが当たるなどと言うでしょう。
惑わされないでください。
相手はあなたをコントロールしたいだけです。
 」
午後9:31 · 2023年1月15日
 
「悪霊」に「天変地異」❓❓❓超常言葉が並びます。いずれにしても、超常の呪いで脅迫するのはカルトで、霊が分かるっぽいと言って自分のほうが正しいとばかり、宗教と信仰を先入観で節操もなく全否定するのは楽山です。楽山に道徳はありません。あれば、ウイルス攻撃など出来なかったはずだからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の病質の大方はバレています。批判を書いても、感情的に、この野郎などとは思わず、批判するにあたっては、それこそ人間性の深みを持たない存在困難者くらいに、文章に表れた筆致や文脈を観察することが必要です。病質者・犯罪者と、まともに付き合ってはいけません。
 
 
 
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  自己愛の偏向
 
 公平とはどういうことだろう?(批判者の存在価値)
 2023年01月17日 幸福の科学とは何だろう?
   などと言う白々しい凶悪犯、楽山を批判。
 
 
ふてぶてしく厚かましい楽山が、また書いてきました。罪悪感も良心も持っていない証拠です。たとえば、恥ずかしいとか、まずいことをしたとかを、全く考えない、感じない、訂正不能の自己中サイコパスの生存方法なのでしょうか。犯罪者楽山を、このまま許してはいけません。
 
新年になっって早々に、人のPCを妨害・破壊してきたネット犯罪者の楽山に、公平を語る資格はありません。騙されないでください。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして、サイコパスです。良心も罪悪感も持たない異常者です。騙されないでください。
 
楽山の詭弁が全開のようです。一言も成立せず、人格未熟の悪あがきだけが見苦しい楽山です。こういうインテリ気取りの虚言癖を真に受けると、共に人格の鈍麻~破壊に向かう可能性もあるので、決して関わらないでください。病識もなく他者の人格を平気で破壊する変態です。
 
 
*まえおき
 先日、公平について考えさせられる出来事があった。
 これは大切なことだと思うので、自分の考えをここにメモしておきたい。頭の中で考えただけでは、すぐ忘れてしまうので…。
 
「忘れてしまう」というのは本当です。楽山は、自分の罪も悪も都合の悪いことは、すべて忘れてしまうか、無視します。そして三文芝居で善人を気取ります。すべて悪意によるもです。実際は、無視して、平気でいられるほどの自己中の病質なのです。無反省で無責任です。成長できない人なのです。
 
 
*えこひいき
 まず自分が、公平について強く意識するようになったのは、小学生時代だった。教室内では「先生は優等生をえこひいきしてる」という声があって、私もそのように考えていたのだった。
 
楽山は自分だけを依怙贔屓(えこひいき)して、自己正当化をしてきますが、嘘だらけの弁明、成り立つことはありません。自分を省みて反省することがなく、全て人のせいにします。恐らく子供の頃から問題を起こしてきたと思われます。楽山の言うことは、全て三文役者の芝居です。
 
 
*偏向マスコミ
 次は青年時代である。政治に興味を持ち始める年頃になると、マスコミの偏向がやたらと気になりだし、テレビ、新聞を見る度に、いつも腹を立てていたのだった。
 
楽山の政治思想は、右翼、ネトウヨです。A級戦犯を讃える男です。民主主義を嫌い、さらに、何主義でもなく、利己に凝り固まって、知性も、感性も、育て損なった病質者です。全ての良心を、危険な思想に陥れることが、楽山の快感となります。真実追求の議論からら追放されるべき人です。
 
 
「マスコミに中立公正な報道を期待しても仕方がないのではないか。そもそも人には中立公正な判断なんてできないのだ。それならマスコミ各社がそれぞれどういう理念によって判断していのか旗幟鮮明にして報道するのならそれでよしとすべきではないか。仮に一社の報道が偏向していても、さまざまなマスコミの報道を確認、比較するなら、その偏りに惑わされる危険は少なくなるだろう。実際多くの人はそれを実践しているだろう」云々。
 
「中立公正な報道を期待しても仕方がない」・・自分の自己中を正当化する詭弁の誘導です。楽山には、旗幟(きし、のぼり、立場)などありません。詭弁、刷り込み、印象操作などによって、人を操って、満悦する変態です。決して真に受けないでください。約4年、批判を続けています。
 
 
*ブログの方針
この考え方は、いまでも有効だと思っていて、当該ブログもその立場で書いている。「一つのテーマについて、自分は自分の意見を書く。自分自身は公平中立な意見を述べているつもりでも、おそらく偏りはあるだろう。けれども仮に意見に偏りがあったとしても、同じテーマについて他の人は異なる意見を書くだろうから、それによって偏りは無効化されるのでさほど問題にはなるまい。むしろ多少の偏りがあった方が、意見の多様性という観点からはプラスになるだろう」と。
 
「自分は自分の意見を書く」「異なる意見」「偏りは無効化される」と言っていますが、楽山の魂胆は、印象操作であります。印象は残るので、無効化は、されません。好き勝手に発言していい理由にはなりません。こういう詭弁の自己正当化を成り立たせてはいけないのです。
 
「多少の偏り」ではありません。洗脳に近いものです。楽山は、そういうやり方で、キリスト教を否定したことから、ペテンがバレてきました。言ったら、言いっぱなしで、反省もせず、責任も負う気ももない、言論失格のサイコパスなのです。決して関わらないでください。
 
 
*批判の必要性
ちなみに上の考え方は、少し視点を変えると、こうも言える。「仮に、Aという宗教団体が存在したとすると、A教団は自分たちの正統性を主張し、信者もそれに同調するだろう。こういう状態は、いわばA教団について肯定的情報だけが流れている偏った状態である。これを是正するにはA教団について否定的情報もあった方がよい。A教団にとって、肯定的、否定的どちらの情報も存在してこそ、中立公正な判断が可能となり、社会全体の利益にもなる。このためには信者ブログとアンチブログは、どちらも必要である」云々。
 
賛否はあったほうがよいが言ったことには責任が伴う、という常識が欠損している、ある種の発達障害であり、人格が自己の思いつきが固定した妄想レベルのままなのです。Aとか書いても無駄なのです。何ごとにつけ、学習と成長が見られないまま、大人のつもりだけの、理路未発達の偏向者が楽山です。
 
 
教団にとっても、信者にとっても、アンチは煙たい存在かもしれないが、教団に興味を持った人が、さまざまな情報を得て、多角的視点から判断できるようになるためには、それは必要なのだと思う。おそらくはアンチの存在価値はここにある。
 
楽山は、アンチではありません。ネットにおける精神の詐欺師です。あらゆる宗教と思想の敵です。自己の妄想的な悦楽を求めるだけの未熟者~破綻者です。笑いと怒りの感情はあるが、しんみり悲しんで反省する心を持たない精神の病質です。
 
 
*両論併記
 次に、両論併記について書いてみたい。
 自分は公平性の担保のためには、両論併記が必要だと考えてきたのだけれども、それとは違う考え方もあるようだ。
マスコミが一つの問題に対し、必ず賛否両論を併記するのは中立性を担保するための免罪符であり、同時に自分たちの本音を隠す手段でもある。社会に多様な声があるのは当たり前だが、一つのニュースに対する市民の賛否両論の分量は、つねに同じではない。これに対し、マスコミが各種の声にほぼ均等なスペースを割く慣習は、かえって不公平だ。
〈省略〉
第一歩として、まずは賛否両論を併記して中立を装う慣習を改めよう。責任を持って堂々と自分たちの考えを主張するジャーナリズムに生まれ変わってこそ、オピニオンリーダーとしての誇りを維持することが出来るのだ。
 
楽山は勝手に物が言いたいだけです。賛否両論の中に、嘘や詭弁が入ってはいけないのです。さらに、楽山と議論してはいけません。楽山は、思想家気取り、宗教家気取りで、自分を立派に見せたいという自己顕示欲しか持っていません。得意なのは、話を逸らして相手を混乱させる悪趣味だけなのです。
 
 
・日本のマスコミの両論併記の慣習はガラパゴス - JICA
ファクトに基づいているのはどちらか、そもそも並列にしていい性質のものなのか。
そう問いかけることは、必ず君の判断の手助けになるはずだ。フェイクニュース時代を生き抜くために、ぜひそんな習慣をつけてほしいと思う。 
 
楽山の意見は、成り立たない嘘と詭弁がメインで、そこを、気取りと丁寧語でごまかして、柔和を装ってきます。批判しても、言い方を変えてごまかします。議論など、出来ない、成立しない人なのです。気取りの筆致に騙されないでください。
 
 
・松原 耕二 - 第13回“両論併記の罠”に気をつけよう
どこかで、「カルトを批判するのに、いちいちカルトの意見なんか紹介する必要はない」という趣旨の発言を読んだ記憶があるのだが、上の文章を読むと、どうもこれにも一理あるように思えてきた。
カルトは違法行為や人権侵害を行うからカルトなのである。それを批判するのに、いちいち違法行為や人権侵害を正当化するカルトの屁理屈を宣伝する義務はあるまい。
 
楽山の意見をまともに読んではいけません。誰かが言いそうなことや、当たり前のことしか言えない人で、そこを、まともそうに、持論であるかのように、ねじ曲げてきます。正体が分かると、いかに徒労だったが分かり、異常な疲労を感じます。経験済みです。楽山は、無視するしかない病質者です。
 
 
とはいえ、根がどこまでも臆病にできている自分は、それでもやはり意見を主張するときには、反対意見も紹介しておかないと何となく気が引けてしまうのではあるが、この問題についてはもう少しゆっくり時間をかけて考えてみたいと思う。
 
また嘘を吐いています。楽山は、臆病どころか、誰よりも厚かましく傲慢な人格で、知情意が発達しておらず、まともに考えることも整えることも出来ない人です。その分、妄想や思いつきで、ごまかして、悪意で騙して、まともに見せかけようとするのです。
 
 
凶悪

凶悪
 
 
(2023年01月18日)
 
 
 
   (抜粋)
 
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
 
ちぎれてゆく紙の音
震え過ぎた紙の声
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が
神の声にも聞こえよう
 
人格の崩れゆくとき
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
 
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  (抜粋)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
白々しい詭弁で
キレイごとを書いてくる
 
サイコパスは居直る
 
どこまでも悪臭のゲロが
まだ物を言う
 
二目と見られぬ不感の貧相は
自らの腐敗を誇るほどに
心の失せてゆくままに
 
気づかないまま
また顔を出してくる
 
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の詭弁明2
 
 通知があったので見てみたけれど…
 (st問題を振り返る)
 2022年01月02日 楽山日記
  を改めて批判。
 
犯罪者楽山の被害は継続中です。相変わらずキーボードは打っても何も反応しません。スクリーンキーボ-ドで書いています。画面上の絵のキーをマウスでクリックします。片手操作なので遅くなります。画面の作業エリアは狭くなります。その分、楽山を赦さない気持ちが強くなります。
 
楽山は、人が困るのを見て、ニヤニヤ笑っているような筆致で書いてきます。その印象は、浮いてくる軽さであり、それは実感の無さでもあります。言葉だけ専門用語を好むようです。評論家気取り、丁寧語、世辞とか、論理に見せかけった迷路という罠もあります。得るものは何もありません。
 
それにしても楽山はどうするのでしょう。人のPC壊しておいて、逃げ続けるつもりでしょうか。いつまでも壊したままなら、私は、ことあるごとに犯罪者楽山の名前を出して、恨みを込めて、ことの次第を何度も話すでしょう。そうすると楽山の罪は、未解決の永遠の放屁になります。
 
 
楽山は時々やることですが、ブログ記事は長ければよいということではないという典型です。それと、私に問題があると固定しているので、st問題と言っていますが、私は、犯罪者楽山問題として、楽山を批判し否定し続け、楽山に近づかないように、読者に訴えてゆくわけです。
 
キリスト信仰は、論理で語れるものではありません。ああだこうだの辻褄合わせは醜いだけです。聖書を読んで、神とキリストを主と仰ぐ気になるかどうかです。しかも、完成するのではなく、信仰者として、人間として、学び、成長する道を知ることなのです。その深みを、楽山は全く知りません。
 
ブログとツイッターなど、楽山のネット活動は、誰にとっても、益はないのに、丁寧語や詭弁や謙虚芝居によって刷り込んで誘導してきます。真面目な人が読んで理解しようとして、楽山と遣り取りなどすると、トラウマになりそうなくらい病的な疲労を与えられるでしょう。関わらないでください。
 
 
*通知
ツイッターを見ていると、時々、st氏から通知が入る。
どうやら、コピペする時に「@komo266」の文字までしてるせいらしい。
 
「文字までしてる」・・意味不明。私からの「通知が入る」と勘違いしているのか。メールやコメントは書いていないし、楽山との双方向など、とうに禁忌です。楽山から直接のメールやコメントや、通知?が来ても、私は記事に書いて返すでしょう。悪い風評でも流したいのでしょうか。
 
楽山は、だんだん現実検討能力も低下しているようです。実感がなくなって離人症になりつつあるのでしょうか。それにしては、楽山の悪意は、嘘と詭弁とともに、治まることがありません。成り立たないのに、深みも成長もないことを書いてきます。ハッとすることのない、だらけた文章です。
 
通知?・・私は書いているだけで、通知?とか、するやり方を知りません。書いて公開しているだけです。ツイート自体を言っているのでしょうか、それは、ブログと同じく、私が気遣うことではありません。私の批判は、ブログが先で、メインです。ツイッターは、ほぼブログのコピペです。
 
ブログやツイッターの「@komo266」については、楽山のツイッターからコピペして書くこともあり、ツイートの文字数の関係で省略することもあります。楽山には、サーバーから通知でも来るのでしょうか。こちらからサーバーに何か要請はしていません。
 
理由を知りませんが、楽山は、3つの中のツイッターの一つをブロックされているようです。注意・警告・ブロックなのでしょうか。もし、サーバーからの警告であるならば、私は、「@komo266」を、できるだけ、入れるようにしたいと思います。
 
 
*st問題を振り返る
通知が入ったので、ひさしぶりにこの問題の発端を思い出した。
st氏から楽山日記にコメントがあり、話をするようになった
 
およそ3~4年前の、数か月の遣り取りがあったという話です。楽山は、相手の意見を考えて反論弁明するのではなく、無視して、嘘と詭弁を弄する人です。しかも、理解者を装う書き方をしてくるので騙されないように、関わらないようにしてください。数か月、私は騙されていたのです。
 
楽山の、分かっているような言い方と態度を真に受けないでください。上からの雑言なので、以前、とても異常な言い知れぬ疲労を覚えました。病質と直接の遣り取りをすると、異常な疲労を受け取ることになります。楽山には本気も誠意もありません。
 
楽山は、双方向の、議論、遣り取り、意見交換の出来ない人です。宗教についても、意見交換するのではなく、神不在の結論から組み立ててくるので、議論は成り立たず、疲労だけが積み重なります。それより悪いのは、信仰を全く知らないのに、神と信仰について知ったかぶりをする自己中であります。
 
 
st氏のシャローム批判を読んで、シャロームは悪い人だと思った
この後、シャローム氏とも話をするようになり、st氏がいうほど悪い人ではないと分かった
私がシャローム氏と仲良くしていたら、st氏は、シャロームと話をするな、話をするならシャロームの仲間として批判すると言い出した
こうしてみると、つくづくst氏は気の毒な人だと思う。
 
シャロームshalomは、楽山と同じ自己中であり、偽牧師です。の立場に立ち、同じような丁寧語を使って、上から決めつけてきます。ゆえに、今も、楽山の成りすましではないかと疑っているわけです。楽山は、三文芝居好きの大根役者です。
 
相手を、さんざん、おとしめて、「気の毒」と哀れみ言葉を書いてくるのは、傲慢からの軽蔑の常套手段であろうと思います。まだ通用すると思ってる・・。学習と成長がない者は、同じことを繰り返して自らの堕落と怠慢を表します。・・バレてるのに、よく書いてくるものです。
 
 
*同一人物?
 通知ついでにツイートを見てみると、どうやら最近は佐倉哲氏と楽山は同一人物だと疑っているらしい。<
 
ブログ記事に書いて、それをツイッターにコピペしています。シャロームについても同様ですが、佐倉哲と楽山は筆致と理路の欠陥が、よく似ているので、同一人物の成りすましをを疑っています。狂ったネットマニアの楽山は、他にも成りすましが多いのではないかと思います。
 
 
なぜそんなことを考えるのだろうか。佐倉哲氏の知力も人物も、楽山より遥かに上なのは誰の目にも明らかだろうに。
 
佐倉哲を褒めていますが、都合のよい人をベタ褒めするのは楽山の常套手段です。成りすましなら自分を褒めていることになります。佐倉氏が言っているのは、楽山とほぼ同じの幼稚な屁理屈です。佐倉氏のプロフィールは、どこにあるのでしょう。あっても、あの文章では、全く信用は出来ませんが。
 
 
*的外れ
st氏は相変わらず的外れなことばかり書いてる。
佐倉哲氏は事実と論理によって意見を述べている。だからこれを批判するには、まず事実誤認や論理破綻を指摘することが肝要である。
これをせずに事実や論理を脇にどけて、自らの信仰観を開陳したところで的外れで、独りよがりなものにしかならない。事実と論理による議論と、好き嫌い、信じる信じないということは別の話なのだ。
 
「事実と論理によって」・・二千年前の宗教的事実は、確定できず、永遠に不明です。それは、話として、人の生ける糧(かて)になるか、その説得力があるか、という判断の理路になります。楽山も佐倉哲も、キリスト教を理解しているとは思えず、説得力は皆無です。子供の屁理屈遊びのようです。
 
楽山は何を言っているのでしょう。信仰は、キリストを好きにならないと成り立ちません。事実や論理だけでは決して表せません。「事実誤認や論理破綻を指摘する」だけでは信仰の肯定にも否定にもなりません。そういう主張は、有害無益かつ甚だ迷惑です。何にも分かっていない人の言です。
 
 
*分からないということ
st氏は、人には神や聖書のことは分からないと言いつつ、佐倉哲氏の神や聖書に関する判断は間違っていると言うことに何の矛盾も感じないようだ。
 
佐倉氏と楽山は似ていて、聖書の入り口で、既に大きく間違っているからです。楽山には、心の真実を受け取る器がありません。成長が止まっているために、小学生のような辻褄合わせしか考えられず、人間ならば持っている共感性も罪悪感もないのです。だから人間の言葉として成り立ちません。
 
信仰は、神を希望として、キリストの共感に支えられて生きることです。事実や論理で語れるものではありません。事実や論理を必須とするのは、大方、カルト的な思考しか持たず、感性の鈍い人か妄想家に過ぎません。楽山と佐倉哲は、教条だけ知ってるつもり?の人です。関わってはいけません。
 
普通に考えれば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、st氏にも神や聖書のことは分からないことになり、佐倉哲氏が神や聖書について何を書いたところで、その正誤は判断できないという結論になるだろう。
 
私が、分からないといったのを、何も分からない全否定だと決めつける詭弁です。聖書は、神の関わる書として、人が全てを理解するのではなく、そこから生きる糧を見つけるために読むのです。楽山は、心が無いゆえに何も受け取ることがないので、神と宗教について何も書くべきではありません。
 
こういうところを見ても、楽山は、読書が出来ない人だと思います。だから、これも、あれも、読んだ読んだと、都合のよい字面を漁っては引用して箔をつけたいのでしょう。そして、ますます、学習も成長も出来ない自分を表してゆきます。
 
 
またさらに踏み込んで言えば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、「人には神や聖書のことは分からない」ということさえも分かるはずがないことになる。つまり「人には神や聖書のことは分からない」ということは、それ自体が矛盾しているのだ。
 
楽山のような、全と部分を混同する気取りだけの詭弁屋は、命題として表層を取り上げて得意になりますが、聖書理解は、人間として、良き訪れ(福音)受け取ることです。したがって、ここで、楽山の辻褄理解と、聖書の命の理解が、全く別物だということです。楽山の悲惨な屁理屈です。
 
 
st氏はこういうことをすっ飛ばして、神や聖書のことは分からないものだとしつつ、佐倉哲氏など他人の神や聖書についての判断は間違っていると批判するのだからおかしい。
 
私がすっ飛ばしているのではなく、楽山が大事なことを、楽山の我執に従って、間違った受け取り方で、間違った否定を、間違った妄想として書いているに過ぎません。こういう屁理屈を相手にしていると、病的な人格破壊へ向かう疲労を味わうことになります。どこまで執拗な害毒なのでしょう。
 
 
*心象風景
st氏には、この世には良心のない人がいっぱいいるように見えているらしい。こういう考え方をしているのであれば、被害妄想が強いのも仕方ないのかもしれないなと思う。
 
「良心のない人」は人格障害からの少数の悪です。楽山は、良心未発達の自覚がないことが表れています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。「この世には良心のない人がいっぱいいる」のではなく楽山に良心がないのです。一般化の詭弁で理路が破綻しています。
 
 
*願望
これは、st氏がどういう願望を持っているかが、よく分かるツイートだ。
st氏は自身のことを「単一の信仰者」としていることからすると、これは願望だけでなく、独りぼっちで孤立している自身の投影もあるのだろう。
 
こういう侮辱で傷つけようとする楽山の悪意です。私は「独りぼっちで孤立してい」ます。しかし、楽山の、この発言は、孤独に生きる人への侮辱です。しかも、私の言論が、その投影だと言っています。心理学の用語を、気安く使って、人を見下しながら、楽山は、自らの墓穴を掘ってゆきます。
 
 
また、st氏は上の文章のように、ちょいちょいおかしな文章を書いている。以前は、意図的に詩的に凝った書き方をしているのだろうと善意に解釈していたけれども、改めてこの手の文章を見てみるとどうもそんな単純なことではないかもしれないな。
 
例示できないですね。詩は好きだから書きます。楽山は、感傷的な詩を書いていましたが、感性を鍛える学習をしていないので読めたものではなかったです。なのに、身の程を弁えず、思いやりもないために、他者すなわち私の詩をけなしています。楽山は、書けば、ほぼ全部、おかしな文脈になります。
 
 
*現実
st氏はまた的外れなことを書いている。正解はこうだ。
×「長期に渡って批判されても平気なのはおかしい」
○「長期に渡って誹謗中傷され続けたら、その異常性には誰だって気付くし、無視するようになるのは当たり前だ」
 
批判と誹謗中傷を同一視する詭弁です。批判を無視するのが当たり前だと言っています。楽山は、自分の言う通りでないと、誹謗中傷と見なして、無視が当たり前、と思って生きてきたのでしょう。ならば、従わない人を、ことごとく悪と見なすわけだから、もはや頭がおかしいとしか思えません。
 
箇条書きと、○×で、理屈を並べて、私からの批判を、誹謗中傷と印象付けたい楽山です。こういう自己愛からの無理解だから、私の批判は、楽山を変えるためではありません。
 
楽山という変質者に、誰も近づかないように、楽山の偽善と詭弁の有り様を、ずっと書いています。
 
 
ところで、マリア氏はこの間こんなことを書いていた。
相手にすると、だめなのよね。
一人相撲させるしかない。
 
楽山は、対立すると、他者の言を借りてでも、おとしめてきます。私は、楽山に相手にされることなど、とうに諦めています。楽山の独り相撲に、決して付き合わないように、一般に、また特に、クリスチャンに、呼びかけたいのです。けっして、楽山を、相手にしてはいけないと言うためです。
 
 
(まだ追いかけて批判してた - マグダラのマリアの部屋)
ヤフーブログ時代を振り返れば、とあるクリスチャン氏やmine氏のようにコメントにはすべて返信する人であっても、st氏のことはスルーしていただろう。易坊氏、こうさん氏、ヨシュア氏など、st氏と議論した人たちであっても、みんな去って行っただろう。
st氏はもういい加減、現実に気付いてもいい頃ではなかろうか。
 
自称マグダラマリアと自称ヨシュアは、キリスト教に似せた偽クリスチャンのカルトです。神の教えを守って完全になるという真逆の勘違いがありました。呪いをかけたつもりで、あと何日..とか言う人です。易坊は荒らしです。こうさんも荒らしです。私のヤフーブログを荒らしてきました。
 
こういう人たちも、楽山の成りすましの可能性があるのです。根拠は、みな自己中発言~暴言しか言えないからです。保身のために、神もキリストも利用して、命懸けみたいな白々しい筆致で大仰なことを書くこともあります。
 
いくら、返しても、返す文章に、書くたびに、自己中が表れていること、楽山は、気づかないのでしょう。他者のことを言っても、自分を振り返ることのない病質者の特徴です。こういう筆致、そして、この現実、楽山だけは、気づかないのです。人格障害というのは悲惨です。
 
 
*自己愛
ところでst氏の自己愛の強さは、ツイッターをチラ見しただけですぐ分かる。
ブログ更新のお知らせをツイッターで流すだけならまだしも、st氏は自己のブログ記事をツイッターにコピペして、拡散、保存している。一回だけならまだしも、記事更新のたびにそんなことを繰り返しているようだ。しかも長文記事をそうしてる。よほど自分が大好きなのだろう。
 
邪悪で哀れな自己中である楽山の情報を敷衍(ふえん)したいのだから、ブログからツイッターにコピペしています。拡散したいのです。楽山に何を責める正当性があるというのでしょう。ここにも、全ての規範を自己愛性人格障害の視野からしか判断できない楽山が表れています。
 
 
そういえば、st氏はシャローム氏からコメント削除されたことを、何年にもわたって怒り続けていたのだった。論争中にコメント削除されたら怒るのも無理はないけれども、何年にもわたって怒り続けるとしたらそれは病的にすぎるだろう。
 
大事な発言について、応答せず、承認せず、削除するのは、大いに、信頼を失わせることになります。論争中ならよくて、長期にわたるのは悪い、という性質の違いはありません。楽山は、こちらを「病的」だと言っています。自分が言われそうなことを相手に向けるのは、楽山とシャロームの常套手段です。
 
 
st氏の自己愛はこんな風に屈折したところがあるし、それだからいつものように自己の問題を他に投影して、楽山は自己愛性人格障害だと強弁することになっているのだろう。気の毒な人である。
 
これも同様に、自分が言われている自己愛を、こちらに向けています。違いは何でしょう。楽山は、全く根拠を示せないのです。結論で、悪口の言い張りだけだから、説得力など、あるはずもないのです。ゆえに、楽山が、こちらに向ける悪口は、楽山に返ってゆくブーメランとなってゆきます。
 
 
こう言っては何だけど、st氏は他人のことをとやかく言うより先に、まずは自分の問題と向き合った方がいいと思う。
 
これもそうです。何が「何だけど」なのでしょう。他人の中の、特に異常な楽山や所在不明のシャロームを批判しています。被害の自覚だけしかない楽山に、病識も罪悪感もないことが分かります。だんだん高慢の地獄が酷くなるようです。あわれです。
 
楽山は、キリスト信仰について、とんでもない詭弁でデマと偏見を宣伝しています。ゆえに、批判対象として、私が生きて書ける間は、批判が止むことはないでしょう。直接コメントなどで遣り取りなどは、病原である楽山に対して、私の精神衛生のために、しないのです。
 
 
◇◆ 追記 2022.1.2 ◆◇
*理由
ついでだから、st氏から長きにわたって誹謗中傷されても平気な理由も書いておこう。
まず一つは、何度も書いているようにst氏の書くことは的外れなことばかりだからだ。人は図星を指されると過剰反応してしまいがちだが、的外れな悪口は無視しやすいものだ。はじめは怒ったとしても、それが続けば相手にするのも馬鹿らしい心境になる。
 
自慢と高慢だけでの楽山は、お世辞のコメント以外は、的外れと感じるのでしょう。批判と悪口の区別もつかない人です。楽山には、反応できる「図星」はないです。楽山には、真実も図星も真摯な見解も、何もないから、無反省、無責任、無視、無理解でいられるのです。
 
 
もう一つは慣れの問題だ。議論慣れしていない人であれば、st氏の口撃にたじたじになる場合もあるかもしれない。でも自分の場合はそれなりの議論経験があるので、くだらぬ悪口には慣れてるのだ。
 
楽山は議論したつもりだけです。詭弁慣れ、嘘吐き慣れしているだけで、議論の、理路も、経験も、能力も、分別も節操もありません。無視だけを返してきます。楽山本人の欲望から、インテリ気取りで、独り芝居で、嘘と詭弁を今日も並べているのです。その高慢が臭いです。
 
「馬鹿らしい」「的外れ」「くだらぬ悪口」と進めています。中身はないが、楽山は、気持ちよいのでしょうか。楽山の言い分は、品のなさによって、マイナス言葉に置き換えられてゆくようです。楽山は、一切、根拠を示せないまま、偏狭な感情と結論だけの貧弱な文脈になってゆくようです。
 
「議論経験があるので」・・思い込みです。楽山の議論が成り立ったことはないと思います。「くだらぬ悪口には慣れてるのだ」と言うが、だったらどうして、こんな長くて、根拠のない嘘と詭弁の悪口を書いてくるのでしょう。人格崩壊が近づいているのでしょうか。だとすれば、ますます危険です。
 
その危険は、ウイルス攻撃となって、今年、新年早々、表れてきました。
 
 
あとは信頼というのもある。私はリアルの世界で高い評価を得ているわけではないけれども、幸いにある程度の評価はしてもらっている。
 
いったい、誰が、評価するというのでしょう。関わっている人がいたら、目を覚ましてほしいです。あり得ないと思います。だまされている人が今もいるのでしょうか。仲間褒めか、成りすましのことか。今も、世辞の丁寧語で、だまそうとしているのかもしれません。身の毛がよだちます。
 
 
だから社会に対して、見る人は見てる、分かる人には分かるという信頼感があり、たとえ誹謗中傷されても、世間の人たちがそれを信じてしまうのではないかと心配することもないのだ。
 
訂正不能の高慢が表れています。好意的に評価されることを自慢する楽山ですが、騙されている人が今もいるということです。誰からも信頼されなくなりつつあり、文章が、誇大で過剰で妄想的です。騙される対象がいなければ、騙すことは出来なくなります。まさにそれがこちらの目標なのです。
 
 
それから…承認欲求が希薄だということもあるかもしれない。自分はぜひとも人から好かれたい、そのために何かをしなければいけないという気持ちはさほど強くない。自分を評価しない人がいても、それは仕方がないと思える。たぶん親から十分に愛情をもって育ててもらったお陰なのだろう。
 
また、嘘を吐いています。魅力もなく権力もなく、だますことで満悦してきた楽山は、まるで、悪い政治家の語るリップサービスみたいです。目的もなく中身もなく、うわべの刹那的な承認欲求しかないのです。楽山は、こういう嫌がらせをしてくるほどに、我欲の権化です。
 
 
もっと考えれば、誹謗中傷されても平気な理由はもっと思いつきそうではあるが、とりあえずはこんなところである。
 
楽山が、批判に対して平気なのは、羞恥心、罪悪感、自責の念、共感、・・などの、受け取って反省するための高等な感性が欠如しているからだろうと思います。楽山は平気なのでしょう。何らかの公の強制力か、被害者の暴力的な復讐の対象にならないあいだは。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
嘘と詭弁の興奮

嘘と詭弁の興奮
 
 
(2022年)
(2023年01月17日、再録、加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いかに実態が暴かれても、これだけ白々しい嘘が吐ける楽山です。人間で在りたくないもかもしれません。楽山は、超常の預言者か教祖になりたいのでしょうか。私は、楽山の言が、全ての人によって、否定されることを祈り願いながら、日々、キリスト者として、できることをしているだけであります。
 
全能と言われる神は人に対して、できるだけの正直を求めておられます。正直ということを一切持たない楽山の異常な有り様は、反キリストそして偽善者の典型として検証されるべき大事な問題です。楽山の嘘と詭弁と偽善の有り様を知って、決して近づかないようにしてほしいです。
 
嘘を吐いて人をあざむき、詭弁で人をだまし、幼稚な屁理屈で自己正当化の言い逃れをしてくる楽山は、最低の男です。いちいち理路が捏造されています。ある意味、暴力を振るう乱暴者よりも酷いのです。暴力は、大方、その時その場ものですが、詭弁は人生の正道を歪めてゆくからです。
 
恐らく、楽山の周りの人も、そばにいる人も、楽山を、説得も、制止も、出来なかったのでしょう。約4年近く批判されて、ろくに返せないのに、まだ平気でいられるわけだから、いったいどれだけ、羞恥心と罪悪感が欠如しているのだろうと思います。
 
 
 
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