固定観念3
    加筆して再録。
 
 
楽山の文章から平板な宗教概念しか受け取っていないことを指摘しても、宗教や信仰を知っているような固定観念からの見なしを語る癖をやめない楽山です。楽山の本質は、無宗教ではなく、反信仰・反キリストだと思います。
 
信仰は自分を空しくすることですが、楽山は、他者も、思想と宗教と信仰をも、自己中心に、自己の下に置いて、上から見ている姿勢と態度しか表れてきませんでした。
 
楽山の、もう一つの大きな罪は、楽山というHNです。"楽山" は、中国の観光名所であり、多くのサイトやブロガーが、HNや記事に利用しています。さらに、
楽山が、多くの善良な "楽山" の中に、紛れ込んでいること自体が、狡猾な悪意だということです。
 
 
  ふりだしに戻る(抜粋)
  2019-12-30NEW !
 
 
思想宗教は、青年期以降にいろいろ凝ったり、かぶれたりもしたが、結局はもとの無宗教に戻ってしまった。自分にはやはり特定の思想宗教によって定められた教義や価値観に則って考え、行動することはできない。
 
宗教は信仰のためにありますが、信仰は、教義や価値観に従って考えたり行動したりすることではありません。メニューの中から、気に入った思想内容を選んで信じ込むのが信仰だと思い込んでいて、いつも、自己中心の思想からしか見ない楽山のような人には、届くことのないものです。
 
 
一巡した後で、元に戻ったというのは、そう珍しくはない話だけども、どうも自分もあらゆる面でそうなっているらしい。元に戻ったというところだけをみると、それまでのことは無駄であり、徒労にすぎなかったようにも思えてくるが、ずっと同じところにいたのと、いろいろなところを巡って還ってきたのとでは、大分ちがうだろうし、経験という点では益があったと思いたい。
 
「あらゆる面で」「元に戻った」なら、楽山には、成長がないということです。その原因は、体質的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による無反省と無学習ということになります。実際、楽山には、そのような、嘘と詭弁の証拠だけが明らかになってきました。
 
楽山の一巡は、いろいろなところを巡って、自らの固定観念という基準で、気に入った商品はありませんでした、というような受け取り方ですから、信仰とは、また思想としても、物見遊山の散歩をしてきたに過ぎず、どう告白されても、意味はないと思います。楽山は一歩も進んでいないのです。
 
楽山は、信仰とは関係のないところを堂々巡りしているだけなのです。そのような態度では、救いにも恵みにも気づくことはありません。そのことに、まるで気づかずに、我執によって、ペンを控えることをしないのが、楽山の高慢の表れです。そういう人には信仰は生まれません。
 
 
 
  罪の意識を利用して、人を操る?
  2019-12-30NEW !
 
 
加藤諦三さんの本はあんまり読んだことはないが、ツイッターに流れてくる言葉を読んでると、なるほどと思えるものは多い。たとえば、これとか。
(加藤諦三bot @心理学@katotaizobot )
相手の言うことに逆らったり、抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう時には、相手は要注意人物である。多くの人は罪の意識から相手の言いなりになる。そこが相手の付け目なのである。
 
楽山には罪悪感はないと思います。今まで見たことがありません。そういう人こそ、要注意人物であります。それはサイコパスの性質だからです。4年批判してきて、もはや、楽山は、ネットの言論のレベルにも、いてはならない人だと思います。
 
「抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう」なら、まず、自分の理非を考えるべきですが、楽山は、ダイレクトに、「相手は要注意人物である」と言っています。これこそが、楽山が、自己正当化の妄想者である証拠です。いつも人のせいにする人です。
 
つまり、要注意人物の楽山が、要注意人物を指定して批判しているのです。
 
キリスト信仰では、罪の意識は、神に対して持つものです。楽山のような、人をだます詭弁屋に罪の意識を持ってしまうと隷属しかなくなります。決して、楽山を、まともに聞いてはいけません。
 
 
こういうことは考えたことはなかったけど、過去を振り返ってみれば、「これを断ったら可哀想かな。冷たすぎるかな…」とか、「前にも断ってるし、そう何回も断るなんてできない」なんて考えてしまって、断りたいのに断れないという困った状況になったことはあった。
 
困った状況になるのは、楽山が相手の意見を平気で無視する自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害で、受け取って考えて必要なら反論か弁明をするということが全くできない無反省だからです。楽山は恐ろしく自己中で残酷な病質者で、騙すために丁寧語を使う人格障害者です。
 
 
上のツイートのような見方を知ってみると、それこそが相手の狙いだったのだろうか。考えてみれば、そういう時の相手はやっかいな人が多かった。申し訳ないけどできないと断ると、怒って噛みついてきたりとか…。
 
「怒って噛みついてきたり」・・楽山こそが、被害者意識しかない欠格者であります。むしろ楽山の特徴です。これは、だますための芝居です。楽山の自己中、自己正当化、不祥事は全て人のせいにするという病質の表れです。どんどん白々しさが明らかになってゆきます。
 
「冷たすぎるかな…」・・「かな」ではなく、楽山は、共感からの思いやりのない冷たい人です。それを隠すために、「かな」とか「断るなんてできない」と書いて、思いやりのあるふりをして、そのあと「やっかいな人」と書き、相手を「怒って噛みついてきたりとか」などと、結局、否定するやり方です。
 
宗教を、ホラー映画の超常や、世辞や社交の関係でしか考えない楽山です。真実の追求という大きなテーマにおいては、しっかり受け取り、真剣に返すことが大事になりますが、楽山は、趣味や道楽としてしか見ていないのです。その上での理屈遊びなので、何も実はないということです。
 
楽山は、人を思いやることができない人です。約3年間の言説に見られたのは、どこまでも自分基準で物事を訂正不能に決めつける狭量だけです。楽山こそが「やっかいな人」なのです。
 
「可哀想かな」「何回も断るなんてできない」なんて、真っ赤な嘘の芝居です。「断りたいのに断れない」・・いいえ、気に入らないことは、総て平気で無視する人です。
 
楽山は、自分が無反省かつ無責任であることを指摘されて弁明できないために、相手を、いじめっ子のような立場に、おとしめて否定し、被害者面をして同情を引くために書いている詭弁の悪口に過ぎません。こちらが言いたいことを、逆に、先に、こちらに向けて言い逃れとするペテン師なのです。
 
 
なんだか、そういう狙いで圧迫してきていたのだとすると、断ることに引け目を感じていたことがバカみたいだ。よし、今度からは、断る時には余計なことは考えず、きっぱり断ることにしよう。
 
このように、楽山の結論は、断ること、無視すること、聞かないこと、否定することに、全く、引け目を感じない自己正当化になっています。何か言われると、肝心なところは無視して、まわりくどく、相手をおとしめてくるのが、楽山の常道ですから、相手にしないでほしいと思います。
 
断るか否かの前に、上に書いたような、思想を、まるで品物でも選ぶような態度なら、宗教も信仰も語る資格はないということです。楽山には、知らない、分からない、という謙虚ということに相応しい自覚が、まるでありません。まさに、無反省の自己中の高慢が特徴です。
 
楽山のように、宗教・思想・政治・人生というような大きなテーマについて、勝手なことを書いて、責任は負わない、反省はしない、ということでは、いかなる話し合いも交流も言論も成り立ちません。
 
否定を書いて、あとで肯定のようなことを書き、どちらとも断定していないから責任問題は発生しない、などと言っていたのが楽山です。楽山に対しては、非常識で病的な精神から病的疲労を与えるだけの病原として批判して楽山の情報を積み上げ、相手にしてはいけないことを広めるしかないのです。
 
宗教・思想は、思い付きで辻褄合わせ・噂話・世辞・悪口を語ればいいようなテーマではないのです。未熟ならば、その自覚を持っていなければならないところで、恐ろしく未熟なのに知ってるふうを装い、誰よりも高慢な決めつけを当ててくるのが、楽山です。
 
 
蛇足ながら、メタリカのドキュメンタリーを見てたら、ジェイムズ・ヘッドフィールドが歌うことをきっぱり拒否する場面があったのだった。自分は喉が痛い、もう限界だ、だからこれ以上歌うことは御免こうむると。
自分はどうも根がどこまでも優柔不断でお人好しにできているようで、取り付く島もないほどきっぱりした拒絶は気が引けるのではあるが、今度からはジェイムズ・ヘッドフィールドになったつもりで、断るべきことは断ることにしたい。
 
まず、ミュージシャンが歌うのをやめることをあげて、楽山が反省せず責任を負わないことを、、同次元で語ることは出来ません。信仰を知らないのに信仰を語るという酷い詭弁の偽善者が楽山です。楽山は、書けば、的を外してばかりです。楽山は、人が悪いどころではなく、明らかに害毒です。
 
楽山は、はっきりした意見を持てない人です。楽山は、決してお人好しではなく、悪意の因業の病質者です。信仰を、軽く扱って書いて、おとしめて、気持ちよくなりたいだけなのです。楽山に出会うことは、不幸そして不運ですが、受け入れると、精神の疲労から自分の人格を損なう恐れがあります。
 
 
 
  宗教の押しつけ
  2019-12-30NEW !
 
 
・海外「日本人はキリスト教徒的なのに…」 カトリック司教が語る日本での布教の難しさが話題に|パンドラの憂鬱
コメント欄を読むと、宗教の押しつけに対する嫌悪感はすごい。一神教もイメージはよくないようだ。
信者側からすると、私はこれで救われたという思いや、これこそ正しい宗教だという確信が強いほど、布教活動に熱心になるのだろうけど、一般人からすると、熱心に宗教をすすめられるほど、たとえそれが善意によるものであったとしても、押しつけと感じて迷惑するのだろうから、布教活動にまつわる問題はややこしい。
 
押し付けの代わりに印象操作による誘導を、善意の代わりに嘘と詭弁を、生業としているのが楽山です。もはや、いかなる許容もしてはいけない人だと思います。人格障害者の楽山を、人格として付き合うことが禁忌なのです。
 
「一神教もイメージはよくないようだ」・・これは、明らかに、キリスト教などの一神教の悪いイメージを刷り込む印象操作です。楽山が身に着けてきたことは、真実追求への深い思考ではなく、嘘と詭弁だけの誘導だということが、明らかになってきた約4年間でした。
 
楽山は、いつものように、反宗教・反信仰の宣伝に専念して印象操作をしています。楽山は、一般人ではなく、宗教と信仰に強い偏見を隠し持っている無神教カルトなので、一般にとっても、特別に、特殊に、有害だと思います。まともに交流も議論も出来ない人で、関わってはいけない人です。
 
一部の刷り込み屋の詭弁をもって、信仰全体を否定することはできません。批判には、信仰を、ある程度、人間として常識的に理解しておくことが必要ですが、楽山は、宗教・信仰に、ケチを付けようと、悪い例だけを漁っているのでしょう。自己愛を満足させることだけを本能としている体質です。
 
 
実際のところは、信仰観は人それぞれであってそれを一つにまとめ上げることは不可能であろうし、もし仮に唯一の正しい信仰があったとしても、人がそこに辿り着くには各人に定められた時があり、その時が来るまでは周囲がいくらやきもきしたところでどうにもならず、その時を早く招き寄せようと焦って働きかけても相手の心を頑なにするばかりでかえってその時を遠のかせることになりがちでもあり、結局は周囲にできることはその時が来るまで見守り続けることくらいしかないのだから仕方がない。
 
楽山が「仕方ない」で言い逃れしようとも、隅から隅まで、詭弁のペンキを糊塗してくる楽山は、生きている間、批判の対象にしかならず、交流の対象にしてはいけない人であり、楽山が寄ってくるなら、きっぱり遠ざけるしかありません。それは、楽山に誰も近づかないように批判を公表することです。
 
楽山は、浅はかな曲解で悪口を言ってきます。これからも、宗教と信仰に、楽山のような病質者が介入して余計なことを触れ回ることでしょう。楽山は、混乱と疲労を人に与えますが、理解もヒントも与えることはありません。いつも嘘っぱちで、社会人のふりをしても楽山は反社会です。
 
信仰観?、楽山の場合、訂正不能の信条ですから、反信仰観であります。しかも、安っぽくて深みのないものです。楽山は、自己満悦感に生きているので、事実と言葉の選択も歪んできます。そのベースから、宗教も信仰も、余計なおもちゃと見なしているだけなのです。
 
宗教の強制は、硬派カルトの特徴です。真実の宗教と信仰は、強制など出来ないことを本質とします。楽山などの丁寧語を使う無神教軟派カルトは、自己肯定の妄想的信条を持っており、楽山の文章には、いつも、表れています。ほのめかして婉曲的に誘導することを手段としているのです。
 
アドラー教にならって、自己中を広めている楽山は、カルトを批判しているように言っていますが、楽山のやり方は、ボンヤリ言語によって、"一般に・・ですよね" 的な印象を植え付けようとしているのでしょう。こういうやり方をしてくるのが、軟派カルトの特徴なのです。
 
高圧ではなく、空約束でもなく、印象を吹き込み、刷り込んできます。この記事も、はっきり言わずに婉曲的な書き方をしています。これは、楽山のような無神教カルトに特徴的で、言論において陰湿で卑怯なやり口ということになります。ジメジメした陰気で、地を這う目立たない害虫です。
 
楽山に「見守り続ける」などというスタンスはないと思います。共感からの思いやりがないからです。楽山が何か書くたびに、楽山の冷酷な恣意から何ごとかを吹き込んでくるわけですから、楽山に見守られることは、人格の隷属と破壊を意味します。背筋が寒くなります。
 
 
こういう考え方は、心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者には受け入れがたいことだろうけど、自分はかつてとある新興宗教に凝り、伝道活動をした経験からすると上のようなパターンは多かったし、
 
「心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者」・・こういう大袈裟な書き方は、揶揄でしかありません。対象が見苦しいことを強調する書き方です。信仰熱心は、沸騰ではありません。楽山は、実に、質の悪い男だと思います。楽山は沸騰しますが、厚い信仰は沸騰しません。
 
このように、楽山が、硬派カルトを批判しながら、自身の軟派カルトの刷り込みをしたり、クリスチャン芝居をしたり、批判されても書こうという執念深さを思うと、楽山は、とんでもない企みを持っている確信犯、あるいは、パーソナリティ障害の不治と判断せざるを得ないのです。
 
 
そのせいか宗教とは距離ができた今は、宗教を信じている時に必要なことは、人を裁いたり、善導しようとお節介をすることより、まずは自分を律しつつ、相手を信じて待つことではないかとつくづく思うようになった次第である。ちなみにこれは、宗教の布教活動だけでなく、その反対のカルト信者に対する脱マイコン活動についても言えることだと思う。
 
楽山が、自分を律するなら、楽山は、去るしかないのですが、楽山は、無反省・無責任ですから、他者に対しても、誠意があるような三文芝居をするだけです。しかし、本当の真摯な態度を持ちません。だから「信じて待つ」などということは、最初からできない人です。嘘ばかりです。
 
宗教を信じることが、害であるかのような誘導をしています。宗教・信仰は、いい加減でよい、という刷り込みをして、無信仰~反信仰を刷り込んでゆくのが楽山です。ゆえに、決して信頼せず、批判しないのであれば相手にしないでください。
 
少なくとも、キリスト信仰においては、神の前の祈りの正直さにおいて、いい加減であってはいけないのです。そこを、楽山は、カルトしか知らないくせに悪い例だけを挙げて、宗教全体を踏みにじっています。これはカルト批判ではありません。双方向の批判を、決めつけの悪口におとしめる企みです。
 
自分を律するということが自己愛の強い楽山にはできないのだと思います。そして、硬派の高圧的態度ではなく、遠回しに、自分は一般人ですよ、という立場で、すりこみ、吹き込んで、ほのめかして、印象操作~マインドコントロールしてゆくのが、軟派カルト楽山の手口のようです。
 
 
こってり固定観念

こってり固定観念
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年01月)
(2023年01月27日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
【定期】「伝道のためなら嘘が正当化されてしまう」「組織のためなら人権侵害や公共の福祉を破壊しても許される」「組織やリーダーを疑うことが許されない」といった点が当てはまるなら、それは健全な信仰ではなく、カルト信者の思考です。「信仰深さ」は「無批判になること」ではありません。
2023年1月25日
 
賛同したのなら、また、楽山へのブーメランです。平気で嘘を吐き、悪意で疲れさせて退かせるという人権侵害に近く、反論を無視して、雑言で返し、自分を疑うことを学んでいない、それは健全な精神ではなく、無神教カルトの思考です。まさに「信仰深さ」は「無批判になること」ではありません。
 
 
 
  歌えない傷
 
モチーフモチーフと
擦り合わせる空白だけは持っている
涸れた乾いた干割れたと
よく効く軟膏を欲しがって
塗られたがる傷だけは持っている
すこぶる順調です
歌えないことをモチーフに
空白を合わせて塗り固めて
設(しつら)えた線路は
白い海に向かっていて
レールは汽車を乗せ
汽車には傷が乗り
傷は何も乗せていませんから
 
 
  色褪(あ)せる死
 
よほど悲惨な死に方は別として
近づいてくる当たり前の死
年を取れば取るほどに
死は近づいてくるのだが
年を取れば取るほどに
死は悲しまれなくなり
死の色合いは薄れてゆく
よほど特殊な事情は別として
同世代の高齢者が
畳の上で死んだとき
号泣(ごうきゅう)する友人は少ない
先に逝っちまったか
次は自分か
そのうち自分も
みたいな共有される平板の上を
ひとりひとりの褪色(たいしょく)が包んでゆく
年を経れば経るほどに
誰もが忘れる頃
ある日ふと
いないんだった
もういないんだ
な・・・
どこかの深い深い洞穴(どうけつ)から
短すぎて呼べない季節のように
少しだけ身に迫る
冷気の蒼(あお)い風のひととき
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いつまでも訂正不能の自己愛に執着して、人の意見を聞かない、そして、考えない、それで通用すると思っているのは、もはや、妄想の無自覚の信念とでも言うべきものです。経験から学ばず、子供の頭のまま、宗教と信仰に、とやかく言っても、迷惑~有害なだけで、何も収穫などないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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