解釈それぞれ?
解釈それぞれ
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41568338.html
2019/8/11(日) 午前 11:37
この記事は、新しいブログには、載せていないようです。
http://mn266z.blog.jp/archives/2019-08.html
スピ系のが多いそうです。スピ系にもいろいろあります。
ボンヤリ言語の成り立ちを表すような文章です。
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相手に合わせた言葉遣いをしているのだというのは、
ネット上で口汚い言葉を使っている者がよく言う台詞に似てる。
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早速、自分が言われそうなセリフを、先に書くわけです。
うわべだけの丁寧語を向けられるのは、殴られるより悪い。
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「お前に合わせて汚い言葉を使ってるのだ!
汚い言葉を投げつけられると、どんな気持ちになるか、身をもって知るがいい!」というやつである。
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身をもって知ることの、まるで無い楽山のようです。
そのベースがアドラー教、表れがボンヤリ言語です。
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この信者は、大川隆法の言葉の汚さに気付きつつも、
意図的か、無意識かは分からないが、できるだけ好意的に解釈しようとしているのだろう。
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カルトは、大方、そうなのでしょう。
楽山は、何事にも確信が持てないので、ボンヤリ言語を発明しています。
そして根拠も説得力もなく、シャロームに好意的です。
柔らかく言えば誰もが聞いてくれると思うのでしょう。
しかし、代わりに、嫌らしさ満載となっているのが、今までの経過です。
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これは冷めた見方をすれば、解釈それぞれってことになるのだろうけれども、
「この宗教は本物だ」「この人は神だ」といったん思い込んでしまったばかりに、
たとえその思いに反する事実を目の当たりにしても、
自分の思いを継続するために
自分の思いに合致する解釈をこしらえ続けなければならぬとしたら、
これは大変だろうと想像するし、気の毒に思う。
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この典型こそ、シャロームの、神の啓示?ゆえ議論無用の無罪妄想信仰なのです。
シャロームは、そういう訂正不能信条を身にまとい、一切の反省を放棄しています。
思いに反する事実や理路を全く理解しようとしないのが楽山であり、
楽山は、思いに反する事実から目を逸らします。
自分の思いに合致する解釈と言っていますが、
つまり、それが、騙されやすい人へのボンヤリ言語となっているのです。
煙に巻くようなもので、反対しにくく、
また、はっきり言わないから、どこが悪いとも言いにくい
という性質を文章に表した筆致なのです。
気の毒というより、卑劣だと思っています。
>
恥ずかしながら自分もそういう状況に陥っていた経験があるので、この大変さはよく分かるつもり。
だから本当に気の毒に思う。
とはいえ、本人はあっけらかんとした性格で、
そういうことには全然頓着しないし、苦痛は感じませんというのであれば、
私の思いは自己投影しているだけで、まったくの見当違いということになるんだけどね…。
<
今は、楽山自ら、ボンヤリ言語で、詭弁の解釈を通そうとしています。
性能の悪いロボットのようにリピートが多く、
人間と違って、疲れてくじけて、やめるということがなく、
ボンヤリ言語は、カルトなんかの危険はありませんよ
と言いたげな甘い筆致で、誘ってくるのです。
甘すぎて、何を言いたいのか、分からないまま引き込もうとしてきます。
解釈など、どうでもよいのでしょう。味方になってくれればよいのでしょう。
上から、従えと言うのではないが、いつのまにか、同じところにいて当たり前というような
刷り込みの手法が、楽山のアドラー教のボンヤリ言語です。
HSのような硬派のカルトより、いっそう、陰湿な軟派のカルトなのです。
決して真に受けないように願います。
悔い改め?
悔い改めと赦し (『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川健三著)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41568315.html
2019/8/11(日) 午前 10:03
これも、新しいブログには乗っていないようです。
読み取りにくい本の写真を載せています。はっきり読めれば批判されるからでしょう。
このような姑息な真似と、書かなくてもいいような文章が楽山の生業(なりわい)のようです。
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でも改めて読み返してみると、「~とすれば」「~はず」という仮定や思い込みの強さを感じさせる言葉が目立つのは気になる。
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仮定は仮定です。「~はず」は、前提が正しいかどうかが問題となります。
楽山が気にするのは、何も、自分では、はっきり言えないからでしょう。
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またこれと似た考え方としては、他宗教において「人は特別な何かをするまでもなく、既に赦され、救われている。ただこのことに気付いているか、気付いていないかという違いがあるだけだ」というようなものがあったかと思う。
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気づいているかどうか、ということは、よく宗教で言われますが、楽山のアドラー教では、気づかなくてもいいよ、と言ってあげるのでしょうか。それは、何の助けにもならないわけです。
つまり、気づきに導くほどの説得力が無いものだから、その否定を前提にして、ボンヤリしているだけなのでしょう。それは、人を一歩も前進させず、心を少しもアクティブにできません。
結局、無駄ばかりで、読むほうは、うなずくか、さもなければ、疲労するだけですから、たまったものではありません。
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とすれば上の考え方は、とてつもなく特殊な考え方だとは言えなそうだ。別に驚くほどでもない。思想は時代を下るにつれて、とことん極端な方向に突き詰められていくことはそう珍しくないし、上の解釈もその例なのだろう。
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極端な偏執を是とするのでしょうか。真実は変わらず、変わってゆく時の流れの中で、変わるな、進むな、と言っているようなものでしょう。何も、語ったことにならない楽山とは時間の無駄遣いをすることになるでしょう。気づかない者が、自己正当化を図っているだけ。詭弁だらけの楽山。
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ただもしイエスが当時すでに上のような考えに到達していて、それを公然と口に出していたなら、これはとてつもなくすごいことだったにちがいない。
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キリストは、楽山とは違います。楽山は、嫌なことは極端と呼ぶのでしょう。楽山は、ボンヤリ曖昧なところに逃げて、何を、キリストと比較して、何の根拠で、キリストを評価しているのでしょう。この楽山と時間と伴にしないでください。無駄に疲労するだけです。楽山は、何の答えも持ち得ていません。
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聖書は奥深い書物であって、その中から様々なものを取り出せるという話を聞いた覚えがあるが、著者の解釈もその一例なのだろうと思う。
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このように、様々なものと言って、正邪を区別できず、発散して、とりとめのないことにしかならないのです。それが、ボンヤリ言語、楽山の筆致です。
真実は、様々ではなく、一つです。人に、その真実を、言葉で一通りに表せないのは、人間が不完全な存在だからです。同じ言葉でも人によって受け取り方が違ったり、あるとき分かっても、別のときには分からなかったり、これは、人が、神でない証拠なのです。決して、真実が様々でよい、ということではありません。
楽山のアドラー教では、気に入らないことは無視する、という、自己中の生き方で、気に入ったものだけで生きてゆくことになります。
それは、受ければ、学習も成長もなく、児戯に等しく、駄々っ子のまま大人になります。
伝えれば、人間を鈍麻させ、無反省と無思考と無感動の砂場でヘラヘラ笑って遊ぶような、人間の全般的な劣化を招くカルトです。楽山の言説に、既に、その症状が表れていることなのです。
いつもながら、とても気色の悪い文章でした。これで人を騙つもりでしょうか。しかし、油断すれば、だまされる人がいるでしょう。楽山を信頼しないでください。書いている総てが、根腐れを柔和に見せかける楽山の芝居だと思っておいたほうがよいです。
私は、楽山とシャロームに対しては、今まで、できる限りの厳しい批判を向けて生きました。正常な神経を持っている人なら、なぜ?どこが?ということを問わずにはいられず、自分について考え込むはずです。その良識を持っていない、欲望だけ、そして自尊だけの彼らだから、平気で、おとしめや、言いがかり、言い訳に、専念できるのです。ゆえに、彼らは人間として明らかに異常だと判断しています。そのことを確かめるための批判でもあったのです。彼らは、自尊のために、弱みを見せることの出来ない種類の存在として、なおも、弱き心の人に、下心で働きかけてくるでしょうから。
(2019年09月09日)
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