嘘吐きの妄想
 
   楽山日記(a)『サピエンス全史(下)』
   『サピエンス全史(下)』2019-09-15 06:00:04NEW !
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12525444275.html
 
 
宗教も信仰も理解できない者が、それらを妄想と決めつけて、都合の良い本を引用して、面白い、面白い、と言いながら、結論としては、極めて曖昧で、何の救いにもならないようなことを書いています。これが、楽山と言う人の筆致であり言論なのです。
 
誰にも、癒しの話も、救いの話も、楽山は、提供し得ず、ただ、自慰行為のように、自分が納得するだけの記事を書いて、宗教と信仰を揶揄しています。
 
その曖昧なボンヤリ言語をもって、訪問者を、宗教と信仰から引き離し、恐らく、アドラー心理学という学問だから安心ですよと、自身のアドラー教カルトへと、誘導したいのでしょう。どこまでも、作為と悪意の企みの止まない楽山です。
 

上巻と比べて、下巻は少々飽きてきておもしろさはさほど感じなくなってきていたが、「第19章 文明は人間を幸福にしたのか」では目が覚める思いがした。科学は進み、社会制度は充実することで、人は本当に幸せになったのか、私たちは、前近代の人々、はたまた国家誕生前に少数の集団で狩猟採集を営んでいた時代の人々よりも、本当に幸福になったといえるのかという疑問提示はよくあるものではあるが、そのあとの幸福とは何かという考察はおもしろい。

 
これは、本当に、よくある話です。かといって、古代に戻りたいと思う人は、殆どいないでしょう。これを書いて、次に、楽山が面白いと感じる話に入ります。
 

幸福とは、金持ちになったとか、夢が現実になったとか、外的なことではなく、内的なこと、自分の心が決めることだろうというのはわりとよく聞く普通の結論ではあるが、そうであれば幸福かどうかはその人の思考の背景にある遺伝、脳内作用などで決まり得るのかという掘り下げ方はおもしろい。

 
面白いそうですが、幸福という基準自体が曖昧な話について、もともと曖昧な楽山は、遺伝と脳内作用しか考えないのでしょうか。何でも、その機械的な仕組みしか思いの及ばない心の貧困を感じさせる文章です。これで、楽山は、科学的かつ学問的に書いているつもりなのです。
 
幸福という学問の外にあるテーマを、学問で、こじつけたがる心性が表れています。それで、こういう本を選択するというのも、楽山の心性なのでしょう。付け焼刃の興味だけで考えるのを、昔、私は、オモシロガリズムと呼んだことがあります。
 

たとえば幸福の尺度が1から10まであるとして、ある人の脳は5~8の間で働き、またある人の脳は2~6の間で機能するようにできていたとしたら、外部の環境はどうあれ前者は概ね幸福であろうが、後者はそのようにはなれないだろうとか、

 
幸福の尺度を1~10などと気軽に定められるのでしょうか。だいたい、主観なのか客観なのか、客観化することは困難だろうし、主観ならば、気づいていない幸福もあるでしょうし、このようなあっさりした書き方で割り切れるものと考えることに疑問があります。
 
このように、例えばの話にしても、分かりやすくしたつもりで、数字を出してきて、わざわざ分かりにくくしているのです。それこそ、遺伝か脳内作用の欠陥を持っている人は、恐らく、今まで、お仲間同士の世辞や仲間ぼめ以外、誰とも、本当の共感や理解の共有に至ったことはないのでしょう。
 

独身者より既婚者の方が幸福だという話があるが、結婚相手としては前者のような人の方が選ばれやすく、悲観的な後者は選ばれにくいだろうから、既婚者になる人は結婚する前からもともと幸福を感じやすく、独身者の方はそうではないようになっているのではないかとか、もし仮に後者のような人物が結婚したとしても、はなから幸福は得られにくい脳を持っているのだから、結婚によっていつも幸福になるとは期待できまいとか。

 
そういう人は、こういうナゾナゾのような話を好むのでしょう。そして、どうすれば愛されるのか、どういう生き方をするべきか、といった話には恐ろしく無関心なのです。だから、人生の重要な問題も、全部、謎解きのクイズと言葉遊びのレベルでしかなく、面白がることしかできずに、深く考えることが出来ないのでしょう。
 

また中世の人々は、現代と比較したら、かなり厳しい環境にあったようにも思えるが、当時の人々はたとえ現世では苦しくとも、信仰によって幸福であったろうとしている。「中世の祖先たちは、死後の世界についての集団的妄想の中に人生の意味を見出していたおかげで、幸せだったのだろうか? まさにそのとおりだ。そうした空想を打ち破る者が出ないかぎりは、幸せだったにちがいない」と。

 
ここで、また、信仰を集団的妄想そして空想と決めつけて、好きなだけ、おとしめています。反キリストというのは、こういう者なのです。恐らく楽山には信仰に結び付く心など、ひとかけらもないと思います。そういう男が、クリスチャン芝居をブログに書いていたわけですから、いかに、キリスト教を嫌っているかが分かるでしょう。バカにしたいだけなのです。
 

さらに著者はこのあと例によって、科学的な見地からすれば、人類は目的を持たない進化の過程で生まれた存在で、人生に意味はないとしつつ、宗教のみならず、人間至上主義的意義も、共産主義的意義も、資本主義的意義も、みんな妄想と断じ、したがって自分自身の妄想を、その時々に社会の主流になっている妄想と重ねることができれば、とりあえずの幸福感は得られるだろうという皮肉なことを言ってる。いやはやこれは著者の言う通り気が滅入ることである。

 
心のない理路が、いかに無意味であるかが表れています。総ての正しさを目指す人文科学系の学問や宗教と信仰を妄想だとする話を出してきます。強烈に罵ったうえで、ごまかしのように、ボンヤリ言語で、いやはや・・気が滅入る・・などと、おふざけで済ましている狡猾さです。実に汚い。
 

ただ著者は最後に一つの希望を述べてはいる。仏教でいわれるように渇愛から離れれば安らぎを得られるかもしれない云々と。不快からも、快からも、苦しみからも、喜びからも離れ、なにものにも執着しないならば、そこに安らぎがあるという風に。

 
安易な話です。渇愛から離れれば安らぎと言っています。快・不快・喜怒哀楽の感情に執着しなければ安らぎと、仏教的なことで、意味を強めています。そんなに離れられるものでしょうか。つまり、このことこそが、真の安らぎを得ることは賢者が挑むのであっても難しい、ということを物語っているのです。賢者とは真逆の俗物である楽山が偉そうに何を言っているのでしょう。
 

これについては宗教が妄想なら仏教も妄想ではないか、仏典のなかで釈尊が説くような境地に人が達することは果たして本当に可能かどうかというような議論も不必要ではないように思われるが、一応の結論としてはこれで十分ではあるのだろう。

 
「議論も不必要ではないように思われるが、一応の結論としてはこれで十分ではあるのだろう」というのが、楽山特有の曖昧で遠回しの、そして、卑怯な自己正当化の手段であるところの、ボンヤリ言語です。そして、さらに、どうしても、楽山は、宗教の総てを、妄想としないときが済まないようです。
 
そのくせ、以前の記事「心の理論」では、自分は仏様の心が分かるっぽい、という意味のことを言って、自身の霊感をアピールしているのです。何ごとにつけ、いい加減で、一貫性がありません。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
 

なにごとかを欲することもなく、欲しないこともなく、したがって喜ぶことも、喜びを失うこともなく、心は常に平安であるなら、そりゃあ生きるのは楽になるだろうから。

 
「欲することもなく、欲しないこともなく、したがって喜ぶことも、喜びを失うこともなく」という、否定でも肯定でもない表現は、ただ、何も言えない者が、お茶を濁しているだけなのです。付き合わされるほうは、じれったくて、たまらないと思います。こういうことを言って、読者を煙に巻くくらいなら、何も言わないほうが、まだマシなのです。
 
それでも、これで十分だと言っていますが、上に述べたように、いちばん、陰性の感情や欲望や自分の都合や保身や自己正当化や快楽や執着に縛られて、批判者を罵る楽山が、どうして、引用のような、無我の悟りの境地に至れるでしょう。読者を愚弄するのも、いい加減にしてほしい。あらゆる、真実追求の言論において、楽山は、失格です。
 
「そりゃあ生きるのは楽になるだろう」・・この言い方に、楽山の筆致として、真剣味がなく、おざなりに、乱暴に、他者を嘲笑うかのような、いい加減なことを言って、結びとして、ごまかしてしまう、そして、自分が満足すれば他者など、どうでもいい、という、書くことに投げやりな姿勢が表れていることを忘れないでください。どこまでも、無自覚で、訂正不能の、怖い男です。
 
思い出したのは、楽山は、自分のブログのコメント欄に批判を書かれると、実に嫌らしいレスを入れてきますが、こちらのブログで批判記事を書いてもなにも反応しません。つまり、自分が見に行かなければ、批判について読むこともなく、ゆえに何も感じないで、すなわち、そのことを、ハッピーでいられることと見なすわけです。それが、楽山のアドラー教のようです。
 
つまり、楽山は、自身が正しいという慢心の境地から、批判を煩わしものと見なすゆえに、批判を受けて考えるのではなく、批判を自分が感じなくなることをハッピーな結果と感じるわけで、これは「気に入らないことは無視しましょう」というアドラー教に従っているのです。批判されているという事実などは、楽山にとって、どうでもよいのでしょう。
 
ここにおいて、心の真実に加えて、出来事の事実さえも、無視してしまう安楽の道が、楽山の勧めるアドラー教なんだと分かるのです。知らないうちに、周りが様変わりしていても、平気で、今まで通り、幼稚な嘘、つまり、臭い芝居とボンヤリ言語で、優しいお人柄を演じ続けるのでしょう。これこそが、詭弁と嘘の美味しい誘導によって、うっかり捕らえられると、人間の心を吸いこみ呑みこんで、光さえも脱出することが出来ない良心のブラックホールなのです。
 
 
宗教と信仰を、冗談半分に愚弄する者には、決して分からないことを申し上げます。
 
私たちは、奇跡が大昔起こった事実と信じ込んだから、または、神について、空想だが必要悪、などと理屈が言えるから、軽い気持ちになって、罪がチャラになるのではないし、癒されるのでもないし、幸福になるのでもないし、救われるのでもありません。
 
赦し、慰め、癒し、救い、導きを、信仰の幸いとして、折々に、神様から、与えられるのは、私たちが、今、慢心できるような何ものをも持たず、ただ、温もりと潤いを、何よりも心に欲して、神の前に、小さい魂をふるわせて、正直な祈りを捧げようと努めているからに他ならないのです。
 
 
(2019年09月17日)
 
 
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