アドラー心理学:言い訳
 
    2019-04-07  
   【読まないと損❗️】試練は幸せへの扉
   https://www.adlersalon.com/entry/2019/04/07/%E3%80%90%E8%AA%AD%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E6%90%8D%E2%9D%97%EF%B8%8F%E3%80%91%E8%A9%A6%E7%B7%B4%E3%81%AF%E5%B9%B8%E3%81%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%89
    アドラー心理学サロンです。
 
 
気に入らないことは無視する、という、教えの招く矛盾を、詭弁で言い逃れようとしているように思われます。ストレス解消のように言ってきた無視、という言い方を、今回は控えているようです。
 

あなたはこれまで辛かったこと、悲しかったことを経験されたことはありますか?
あなたを含めて、この世に生きる人には必ず何らかの試練が待ち受けております。
ただ、試練は乗り越えれば、乗り越えるほどにあなたの心は強く磨かれていきます。

 
気に入らないことは無視しましょう、と言ったのは誰でしたか。
無視するのと、乗り越えるのとは、違います。
 
前者は無かったことにすること、つまり、何も学習しません。
後者は、無視ではなく、受け止めたうえで何らかの処理や対策を考えなければ出来ないことです。
 
無視することは、乗り越えることをも無視することになります。
 

一度大きな試練を味わった人は同じような試練に見舞われても、それほど慌てずに冷静に対処できるようになります。

 
無視せよと、また、言うのでしょうか。
それとも、あれは、間違いだったというのでしょうか。
 

最初の試練を乗り越えることさえできれば、その経験があなた自身の大きな自信となって、次の試練に冷静に対処できるようになれます。

 
乗り越え方を、まだ、何一つ、語っていません。言えば、無視することに、少なくとも、無視しましょうと言ったことに、言及せざるを得ないからでしょう。
 

どんな試練が訪れても、最初の試練を先ずは乗り越えれることが大切なのです。
むしろ、試練なんて早いうちにできるだけたくさん経験しておく方が、後の人生の大きな宝にも武器にもなります。

 
ずっと無視し続けるということでしょうか。
 
>試練は幸せへの扉でもあるのです。<
 
とても、気安く美味しい言い方、カルト的な美味しい言い方です。
 

アドラー心理学では、何事も捉え方次第であり、すべては主観的な判断でしかなく、主観的にあなたがどう捉えるのかがポイントであるとしています。

 
自分勝手に、都合よく捉えよと言うのでしょうか。
 

試練に対する捉え方を「幸せへの扉」に変更してみれば、試練が単なるつらいものには見えなくなります。

 
カルト的な詭弁です。言葉を変えても、現実は変わりません。
 

周りは幸せそうなのに、自分ばかりがつらい思いをしている…
自分ばかりつらい思いをしている…と思われている方へ、そんなことはありません。

 
くよくよしないことと、他者を無視することは違います。
 

人は生きていれば、試練が必ず訪れるのです。自分ばかりが大変な思いをしているわけでもありませんし、他人にも同じくらい大変なことが起きているのです。

 
人と比較するなと言ってたのではないですか。
 

試練には、見えやすい貧困などの苦労ばかりが注目されがちですが、それ以外にも星の数ほどの種類の試練があります。
経済的に豊かで恵まれていても、その内実の家庭環境も同じように豊かで恵まれた環境であるとは限らないのです。

 
当たり前のことを書いて何になるのでしょう。
 

あなたから見たらうらやましいことも、その人から見たら不幸であることもあれば、その人から見たら、あなたにうらやましいところがあります。

 
気に入らないことは気に入らないこと、失敗は失敗、不都合は不都合、なんですけど。
 
めいっぱい、他者のことを言っているではないですか。他者の課題を、自分の課題から切り離して、無視して、それで、他者のことを考える、なんてことは出来ません。
 

それは人それぞれの価値観によるものですので、一概には言えません。同質社会でありみんなが良いとすることを絶対的な価値と混乱しやすい日本では、他人との比較で苦しむ方が後を絶ちませんが、本質的には価値観なんて他人とは共有なんてできないのです。

 
だから、人は人、と言って、気に入らないことは無視すればいい、と教え続けてきたのでしょう。
 

心理学者アドラーの提唱する課題の分離の考え方の真髄は、ここにもあります。
他人が何を考えて、何をするのかは自分の課題ではなく、その相手の課題です。

 
他人がすることによって、良くも悪くも、影響される自分に対して、相手の課題だと、無視するように勧めてきたわけですね。
 
課題の分離とは、実は、他者に対する不感不応なのでしょう。それでは、人間は、学習のしようがなく、成長のしようがないのです。
 

他人のことを変えることはできず、自分にできることは相手に自分が良いと思うことを教えてあげる程度であり、本質的には他人の課題には介入なんてできませんし、介入すべきでもありません。

 
唐突に、他人を変えることはできないとか、他人に介入とかになっているが、
自分の学習と成長のために、どうしたらよいかという問題のはずです。
すごいスリ替え、ずっとやってますよね。
 

こう言うと、「分かりました!他人のことなんてどうでもいいと思って自己中に生きていきます」と短絡的な理解をされる方がおります。

 
まさに、それは、ブログ主であり、アドラー教の中心のように言っ放っていたではないか。
 
言葉だけ否定しても、今まで言ってきたこととの整合性が取れません。
 

そうした人に私が聞きたいのは「他人の課題である、他人が起こした行動や言動の責任を、すべてあなたは取れるのですか?」と。

 
スリ替えたテーマ上で言われても、それこそが、自分がどうすればいいかについては何の関係もないことです。他人の課題を、他人のことを、自分がどう考えるか無視するかという問題です。
 

要するに、他人と自分の課題を区別することは、相手を尊重することにも、自分を守ることにもつながるのです。

 
気に入らなければ、他人の課題として、無視するのではなかったでしょうか。
 
他人の課題だからと無視することは、無視された相手からすれば、否定も肯定も批判も意見もなく、言うだけ無駄なのだから、疲労を与えるだけで、何の尊重にもならないことは言うまでもありません。殴られるほうがまだマシかもしれません。すさまじい詭弁です。
 

少し話が逸れましたが、他人と自分の比較をしても根本的に課題が違うので比較する意味が無いのです。

 
課題を共有する場合があることを否定しています。
だから、結局、人のことは考えるな、という教えにしかならないわけです。
 

あなたの試練はあなたの試練、他人の試練は他人の試練です。もちろん、自分の負担にならない程度に助けようとしてあげたり、相手が困っている時に助けてあげる優しさは大切です。
しかし、無闇に他人の課題に介入するのは良いことではありません。

 
どっちなのですか。こういうことは、一概には言えず、個別のこととして検討するべき課題です。
「自分の負担にならない程度に」とは、実に曖昧な基準です。
 
さらに、他人の課題に介入することと、他人に対する自分の立場を考えることは、別なのですが、むしろ、課題を分離するべきなのは、ブログ主のほうではないのか。
 
つまり、アドラー教は、他者とのかかわりについての理路において矛盾を来たしており、その言い訳に、助けてあげる親切はいいが、分離して介入不要、という、両極を机上で結び付けて、言い逃れようとしているのです。
 
親切ということについて、例えば、
ある種の、ひどい侮辱として、あなたを哀れみます、と言うのがあります。
例えば、
こちらに無視されて、こちらの負担にならないように、哀れみますと、こちらに言われた相手が、侮辱と感じて、それで、怒って、罵詈雑言を言ったら、しめたものという口喧嘩のやり方があります。怒ったことで、全部、相手のせいにするのです。
 
どうやら、この記事を書いたブログ主は、人間関係を深く考えたことがないようです。恐らく、人間関係が面倒で面倒で、嫌だな、と思っていたところで、アドラー心理学に出会い、飛びついたのでしょう。好きなように、言葉をつないで、ごまかして、一貫性をなくしてゆく途上のようです。
 

アドラーの課題の分離は、合理主義的でいて、冷酷なイメージを強く持たれることが多いのですが、あなたと他人のお互いの幸せにもつながります。

 
だいたい、課題というのは、複数の人がいっしょに関わっている場合、そんなに誰の課題か、はっきり分離できるものなのか。それはあなたの問題と、分離するのは、自己中心~利己で決めつけないと出来ないことではないだろうか。
 
ある愚か者は、人の話を、返せるところだけ返して、残りは全く反応せず、無かったかのように無視しました。だから、どこまでも、全体の文脈での話が通じません。会話や遣り取りが成立しません。
 
その者はアドラー心理学の名をあげて言ったのです。気に入らないことは無視しましょうと。とんでもない命題です。私は、そのときから、カルトだと思って、アドラー教と呼んでいます。アドラーの真意がどうであれ、自己中心な人によって、たやすく、自己中心な方向に伝わっているわけです。
 
対話や議論、共有や共感、こういったことが出来なくなるような無視を勧めて、学習と成長を困難にして、人格の退行と、ゆくゆくは人格の破壊に至る方向を助長しています。
 
人の話を受け止めて、考え、反応して返す、という、初歩的なことが出来なくなるような人格破壊を招くでしょう。人間関係が成り立たなくなります。世辞ばかり言うようになって、それで、いい交わりを持ちましたと自己満悦する者を育てています。
 

お互いの試練を区別することで、自分主導で試練を乗り越えた経験を持つことができますので、その成功体験はより大きな自信になります。

 
自分の課題は、言われなくても自分主導で試練を乗り越えるしかないのは当たり前です。
具体的にどうするのかということです。何も実のあることを語っていないではないですか。
 
課題は分離したとして、相手の課題はどうするのですか、無視するのでしょうか。
 
その課題に自分が関わっていても、共通の課題でも、無視するのですか。
ならば最初と同じ不都合無視教です。だから、嫌われても平気だと教えていますね。
 
問題は、嫌われることではなく、無視した分、学習が疎かになり、
感性が鈍感になってゆくことです。
 
それとも、関わるのですか。ならば、無視しましょうなんて言えないですね。
 
無視して気楽になるのは、一時のこと、無視すれば学習も成長もないのです。
 
それに、アドラー心理学が心理学という学問ならば、指示や命令はしないはずです。
 
「気に入らないことは無視しましょう」というカルトとしか思えない教えを引っ込めないかぎり、自信ではなく、一時的な自己満悦で、傍迷惑な人を育ててゆくだけですが、その責任は取らないのでしょう。それは、あなたの課題だ、とか、言うつもりでしょうか。
 
こういう、簡単ですよ、心理学だから安心ですよ、幸せの扉、などと言ってくるのは、カルトの要素を持っていると言われても不思議ではなく、控えめに言っても、学問ではなく宗教です。
 
 
※ 
プロフィールの画像は、アドラーのようですが、ブログ主の解釈を語るのなら、ブログ主の何かにするべきであって、アドラーの画像は出すべきではない。また、同じ理由で、ブログのタイトルには、アドラーの名を出すべきではありません。
さらに、また今後も同じことを教え続けるのなら、明らかに宗教です。こうしましょう、こうしなさい、ということを言いたのなら、心理学という言い方も使うべきではありません。
 
 
(2019年09月18日)
 
 
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