短絡人間
 
    2019-05-20  
   ナルシストで何が悪い❗️自分で自分を褒めよう❗️
   https://www.adlersalon.com/entry/2019/05/20/%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E6%82%AA%E3%81%84%E2%9D%97%EF%B8%8F%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%A7%E8%87%AA%E5%88%86%E3%82%92%E8%A4%92%E3%82%81%E3%82%88%E3%81%86
アドラー心理学サロンです。
 
 
人間を一面的、一方的にしてしまう、アドラー心理学というよりアドラー教と言うべきカルトの、短絡志向が表れています。そして、全体に、全く反省の必要と余地を認めていません。
 

自分で自分を褒めてあげることは、単純なようで自分に元気と余裕を与えることができます。

 
程度問題ということを知らないのでしょうか。
 

自分が他人にしてあげた思いやりへの見返りが無かった時に、人は落ち込む時があります。
勝手な期待をして、自分の期待通りに相手が反応してくれなかったからと恨んだり、嫌ったりすることは依存になりかねません。
しかし、人間ですので、時と場合によっては自分の思いやりへの期待外れな相手の反応に失望してしまう時もあることでしょう。
その代わりに、自分で自分を褒めてあげるのはいかがでしょうか?
「上手く相手には伝わらず、感謝の言葉も無かったけど思いやれる自分は素敵だな」
「他人を思いやれることができる私には、存在価値があるんだ!」

 
他者の評価を気にして、それに左右される自分であってはいけないというところから、じっくり考えるのではなく、自分を褒めることでマイナスがプラスになると言っています。とても早計で単純で身勝手な短絡だと思います。
 
ナルシシズムの勧めでしょうか。過ぎれば、自己愛性人格障害となり、話が通じない人になってゆきます。ブログ主は、放言が好きなようです。
 
言いたいことを言うが、人の話は聞かない、教えたがるが、学習しない、こういうふうになったら、人格が破壊されているのです。
 

自分で自分を褒める自画自賛な行為は、謙虚であることを良しとする日本人には抵抗があるかもしれません。

 
程度問題だから、抵抗云々ではなく、過ぎれば、謙虚さという知恵を失うのは当然です。ますます反省の出来ない人になるでしょう。
 

時には、バカバカしいとまで思ってしまうかもしれませんが、人に聞かせる訳でもなく、自分の心の中で思うだけのことなので恥ずかしがることはありません。

 
心に思うことを繰り返すことが、思い込みとなり、訂正不能となって固定して、偏向した人格を作ってゆくのです。
 

むしろ、落ち込んで自己肯定感を下げてしまい、やる気を失ってしまうよりは、どんな方法であれ自分を鼓舞して気持ちを盛り上げることはとても健全です。

 
反省せずに、鼓舞ばかりしていることは、不健全、というより、異常です。直感的に分かるはずですが、その直観が、既に壊れた人が教えているのでしょうか。
 

不機嫌になることは惰性であり、嫌なことや辛いことがあった時に機嫌悪く振舞ったり、やる気を失ってダラダラと仕事をしたりすれば、他人の迷惑になりかねません。

 
ブログ主がそうだった、ということを言っているのでしょうか。上手に反省できなかったものだから、やたらプラス思考になって、自分を褒めてばかりいるナルシシストになったのでしょうか。
 
ここで、他人の迷惑、と言っていますが、反省せずに自分を褒めてばかりいるナルシシストのほうが、人の言うことを聞かず、進歩も成長もしないので、よほど迷惑度が大きいのです。
 

それならばむしろ、自分で自分を褒めて、自分の意思で上機嫌になってやる気を取り戻りましょう。

 
褒めれば上機嫌になる、という、お粗末な短絡命題です。人間を、道具か機械のように扱って、あるいは、実験用単細胞のように見ているようです。
 

あなたのご機嫌なんて、他人は取ってくれません。
自分の機嫌を取ることは、自分の課題です。

 
よほど、機嫌を取ってほしいのでしょうか。ご機嫌取りに左右されるような性格なのでしょうか。ブログ主は、自分の機嫌を取る、ということに、直感的に恥ずかしさや醜さを感じる、というセンスを持たない人のようです。
 

フランスの哲学者であるアランは、言葉で明確に「上機嫌は意思、不機嫌は惰性」という言葉を残しております。
アドラー心理学でも、かなり似通った考え方をしております。

 
上機嫌になり、ハイになり、そう状態になり、節度を失って、しかも、それが頻繁になったり、常態になったり、・・こういう人になりたいのでしょうか、あるいは、既に、なっているから情緒が変になって言っているのでしょうか。
 
不機嫌になる原因や要素について冷静に考えてゆくことのほうが大切です。
 

心理学うんぬん以前に、不機嫌になって「あれやだ、これやだ」言ってると、子供じみた印象を与えてしまいます。

 
子供じみた未熟な印象は、この記事全体に、表れています。ブログ主は、かなり偏った性格で、マイナスを極度に嫌い、そのために、やたらプラスだけになりたいのでしょう。自己愛性は、自己中心でもあります。ブログ主の話は、節度が欠けています。だから程度問題が直観できないのでしょう。
 

どんな時も、他人や環境がどうであるかに関わらず、自分がどうするのか?という視点を持てるようにしておくことは、充実した人生を生きる為にはとても大切な考え方です。

 
他人を想わず、環境を考えず、自分のことばかり考えたいようです。そういう人生は、身勝手が高じて、思慮に欠けて、深みのない情緒となって、浅薄で幼稚な決めつけ魔になってゆきます。しかも不快を無視しますから、訂正不能なのです。
 

心理学者アドラーは他人と自分の課題の分離という考えを持っており、応用すると自分の機嫌を良くするのか悪くするのかは自分の課題であって、他人の課題ではないと考えることもできます。

 
課題の分離が、ここでは、自己中心に、自分だけで何とかできると思っているようです。そういうことは、無人島にでも住まない限り出来ないことです。人間社会と人間の心は、そんなに単純に割り切れるものではないと思います。
 
自分の機嫌を良くするとか悪くするということを、極めて、単純に考えて、自分を褒める一辺倒で、あっさり変えられると思うなら、結局、あっさりしすぎて深みのない薄笑いだけになるでしょう。
 
不機嫌は、多くの場合、他者が関係しており、その関係における自分の行いの結果でもあります。そこで反省せず、自分を褒めていたのでは、いつまで経っても、自分の課題を見つけられず、また、立ち向かうことが出来なくなります。
 
ここで言う課題の分離は、問題点の無視であり、自分勝手の始まりであり、経過であり、結果としての、自家発電的な頑固な思い込みとともに、誰からも孤立することを意味しています。とんでもない話です。
 

あなたが不機嫌でも、それは他人には何の関係も無いことなのです。

 
自分の不機嫌は、交わりや作業において、必ず、他人に影響します。
 
不機嫌の原因が自分にあるなら・・などとは考えてもみないわけですから、他者の立場を思いやることの出来ない、自己中心の典型的な身勝手になり、何を言っても改善せず、例えば、クビを言い渡されるまで気づかない人になるでしょう。ついには、クビにされ続けて、犯罪に及び、なおも、牢屋で、薄笑いしているような人間になるのでしょうか。
 

失敗したり、嫌なことがあっても、取り敢えず自分を無理矢理にでも褒めることで、気持ちを前向きに保つことができます。

 
無理は無理なのです。そこには、建設的な道理は生まれません。やたら機嫌がよく、つまり、多幸的で、言論において、無遠慮で、攻撃的で、同じことを何回も繰り返し、指摘してもニヤニヤしているだけの、進歩と成長のない、何も解決する意志のない存在になるでしょう。結局、周りから賢い人は去って行って、自己中は孤立に至るのです。
 

常に自分を前向きな姿勢にできるようにしておくことは、幸せにつながります。
最初は照れくさいかもしれませんが、そのうち習慣となってあなたを元気と余裕で満たしてくれます。

 
自分を褒めれば、何も解決していなくても、前向きになる?という短絡があります。無条件に前向きになることは、照れ臭いなどという次元の問題ではなく、何も解決していないところに、無理にでっちあげた上機嫌によって、他者はどうでもよく自分だけが大事という極端な個人主義、つまり、自己中心を信条として、あらゆる節操や道徳を無視するようになるでしょう。
 
自己中心は、良識や良心から、乖離し、どこまでも離れてゆくベクトルだということを知ってほしいです。そのような人格のアンバランスは、社会にとって、有害無益の作用しか及ぼしません。それは、幸福なのでしょうか。
 
時と場合の状況を弁えない無理な自画自賛の上機嫌は、自己中心にしかならず、他者の不幸にしか生まないのです。他者の不幸を前に、冷静な思考と感受性を失って、なおも、不自然で、狂気に近く、さらに平気で笑っていられるような人になりたいでしょうか。もはや、人間とは思われません。
 
こういう態度は、例えば、カルトなどの有頂天や陶酔気分に現れるものです。習慣となり体質となれば、やはり、人格を捨て去った薄っぺらがモノだけは言う、文句だけは執拗に言う、人の話は聞いていない、という存在になりたいでしょうか。
 
ここで語られているアドラー心理学は、一面的で、一方的で、とても危険な、人間破壊のカルトです。
今までの記事で、一面的、一方的、というのが、既に、教えに、刷り込まれて、教え込まれているのが分かります。反社会性人格障害を作りたいかのようです。
 
ブログ主は深く考えることをせずに、読者に深く考えないことを勧めて、乱暴で原始的な方向に話を持ってゆこうとしています。無思考、無反省、無視の、三無主義から、独善と感情の鈍化の必然に誘っているようです。見ざる、聞かざる、そして、言うだけは言う、という、社会において、さらに、いかなる人間関係においても成り立たない人間離れのカルトだと思います。
 
人間は、単純な短絡で、不自然に、語り、行なえば、人格を損なうように出来ています。自らを省みない者は、他者を顧みないで、自覚的に好きなように生きることを目指しているので、いずれ、反社会的存在となるでしょう。何だか、この社会をぶっ壊したい陰謀ではないかとさえ思われます。
 
 
(2019年09月20日)
 
 
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