人のせいに?
 
   アドラー心理学ブログ批判
   人のせいにした時点で、あなたの負けです❗️
   https://www.adlersalon.com/entry/2019/09/14/085624
    2019-09-14  
   人のせいにした時点で、あなたの負けです❗️
   アドラー心理学サロンです。
 
 
やはり、勝つために宣伝してきたようです。幸福になるということは、勝つことでしょうか、ということは、相手を負かすことでしょうか、人を出し抜くことでしょうか。勝者として、敗者を下に置きたいのでしょうか。だとすれば、社会正義とは違う、というか、対立するのでしょうね。
 

あなたもこれまでの人生で、何らかの局面に「言い訳」をしたご経験はあるのではないでしょうか?
もちろん、正当な理由であるのであれば「言い訳」ではありませんが、それはやれることをやり切った上での話であり、判断をするのは他人の課題です。

 
とてもあいまいな部分に気がついたでしょうか。
正当な理由、これが、そのとき分かるでしょうか。ブログ主は、読者を有能という前提で語っているのでしょうか。
また、やれることをやり切った、ということが、いつでも、誰でも分かるのでしょうか。
肝心なところで、教えが、責任逃れのように、曖昧になっていることに気づいてください。
 

自分以外に自分が起こした行動の責任を取らせるような思考は、あなたの人生を破滅に導きます。
「人のせいにする癖」は、他人に責任を求めて自分を守る方法として、多くの人達が活用してしまう本能的な技術です。
しかし、「人のせいにする癖」は、決してあなたを正当化してはくれませんし、自分を守れてはいません。

 
人のせいにした時点、と言いながら、ここでは、人のせいにする癖、という言い方になっています。
ここで、あるときの言動と、いつもの言動が、混同されています。
 
それと、人のせいにしても正当化できないし自分を守れていない、ということは、それは私の問題ではない、と思って、無視して、気持ちが楽になったような気がしても、いつも、ついてくることなのです。
 
気に入らないことや他者を無視して、無かったことにして、正当化できるものはありません。即ち、楽になるのは、自己中の一時的な気分に過ぎません。無視は、負債となるでしょう。無力の自覚ゆえの保留とは、全然、違うのです。
 

もちろん、あなたの中では「自分は悪くない」と思い込むことができて、自分を否定せずに済むので安心感が得られることでしょう。
ただ、それは本質的に問題解決になっているのでしょうか?
むしろ、人のせいにしたことによって、自分で自分の首を締めているだけの行為ではありませんか?

 
安心感が得られることを、アドラー教は、宣伝してきました。しかし、ここでは、問題解決と思うことが、問題となっています。つまり、アドラー教の、気に入らないことは無視しましょう、という教えは、何も解決していないということでしょう。
 
その上で、人のせいにすることを戒めています。いったい、どれを指して、ブログ主は、自分で自分の首を絞めていると言いたのでしょうか。アドラー教の宣伝をやめたほうがいいのではないでしょうか。自分の首を絞めているのはブログ主ではないでしょうか。
 

あなたが自分で望むと望まざるとにかかわらず、行動した結果を何でもかんでも他人のせいにしてしまっているということは、あなたは自分で自分の人生を他人に委ねていることになります。
人のせいにして言い訳をするということは、自分では決して変えることのできない他人によって不幸にされてしまうことを良しとしているのです。

 
アドラー教の影響を受けた者で、最も悪質な者たちは、何でもかんでも、すまして、平気で、他人のせいにしてきます。他人との関わりに依存しているということです。
 
言うならば、他人を変えることが出来るのが当たり前という先入観を取り除くことが重要なのです。
 
自分では他人を変えることはできないと断定していますが、断定していいものでしょうか。ときには、自分がきっかけとなって他人が変わるということはありうるからです。
 
自分が変えたのではないが、自分が影響を与えることは、常にあると思っていたほうがよいのです。知らないうちに、とんでもない敵に囲まれている可能性が、嫌われる勇気を推奨しているアドラー教にはあります。そのときが一種の破局点になるでしょう。
 

どんなに大変な状況でも、どう考えても自分の責任ではなくて他人の責任であっても、あなたにできることは自分のできることを最大限に努力することでしかありません。
人のせいにした時点で「自分の努力」を放棄して、他人任せにしたことになります。

 
他人のせいにするということは、決めつけであり、批判とは全く違う判断です。批判は、他人のせいにして保身することではなく、どう考えても特定の他人が、まともでないときに、どこがどういうふうにおかしいのかを指摘することです。
 
ブログ主は、ここで、批判をするなと言っているのでしょうか。アドラー教の宣伝をしてきた者も、執拗に、同じことを繰り返して、相手をおとしめるために、閉鎖した理路を堂々巡りしていました。
 
人のせいにすることは責任放棄だというのは当たり前のことなのです。責任放棄は、信頼されないということです。失敗したら、原因と結果を明らかにする務めがあり、責任を負うということは、自分の都合で他者を無視していたのでは、決して出来ないことなのです。
 

つまり、人のせいにするということは「言い訳」を口にするかしないかというよりも、あなたの心の中で「自分は悪くない、あいつのせいなんだ!」と思った時点で成立するのです。
他人が何であれ、周りの環境がどれだけ悪かろうと、他人が自分の都合に合わせて変わってくれることはありません。

 
自分は悪くないと人のせいにすることを戒めているようですが、自分の悪には、自分の気に入らないことが必ず含まれています。それを無視するな、と言っているようなものです。これは、気に入らないことは無視しましょう、という教えと矛盾しています。アドラー教は矛盾しています。
 
私は、無視することは間違っているという主張ですが、ブログ主は、気に入らないことは無視しましょう、と言いながら、自分の都合の悪いこともある、ということを、今は、受け入れさせようとしています。とても、いい加減な説教によって、とても、いい加減な、その場しのぎのような言い逃れと言ってよいでしょう。
 

もちろん、「~してくれない?」などとお願いすることは大切ですが、実際にどうするのかは本人次第です。
それならば、自分でコントロールできることに集中しましょう。
「あんな奴がいるから」、「あの人が~してくれない」だの文句ばかり言っていないで、自分にできることを考えて行動するしかありません。

 
「~してくれない?」などとお願いすることは大切なのでしょうか。この書き方では、おねだりしているようです。しかも、どうするかは、本人次第だと付け加えています。書く意味、あったのでしょうか。
 
自分でコントロールできることに集中するように言っています。アドラー教では、自分の課題は自分でコントロールできると言いたいのでしょうか。
 
自分の課題を、しばしば、自分でコントロールできないところに、その自覚に、宗教は芽生えてゆきます。コントロール不可による苦しみを乗り越えることが信仰の目的でもあります。それは、無視することによっては、決して解決しません。
 
そして、最後には、文句ばかり言ってないで、自分に出来ることをするように言っています。当たり前の説教です。課題の分離という難しそうなことを言いながら、結局は、ぼやいているようです。このように、理路を考えてゆくと、めんどくさくなってしまうのが、アドラー教なのです。
 

むしろ、みんながニコニコしてあなたのご機嫌を取るように振舞ってくるような環境に、あなたは囲まれたいのですか?
みんなが本心を隠して、あなたのご機嫌を伺ってくるような歓喜では、人間不信になってしまいますし、気持ちも悪ければ居心地も良くはありません。

 
実際、アドラー教を宣伝していた者は、優しいお人柄、と言われて気をよくしていました。アドラー教を信じて、問題を起こさない方法は、世辞しか言わないことになってゆきます。
 

あなたがお店を経営していたとして、お店が儲からない理由を「お客さんに見る目がないからだ」として売れない理由をお客さんのせいにしてもどうにもならないでしょう?
ならば、お客さんが欲しがるものを調べて提供するようにしたり、どうしたら売れるのかを考えるのが筋合いなのです。

 
まるで、小学生に教える道徳のような書き方です。こんなことを言ってみても、アドラー教の欠陥とズレはどうしようもないと思います。当たり前と妄想のあいだを、無限往復しているようなものです。
 

あなたが失敗した理由は、良いお客さんと環境に恵まれなかったからですか?
そんなこと、あなたは望んではいなかったはずです。
自分にできることを最大限に努力して、試行錯誤することであなたは自分の納得のできる結果を得られるようになります。

 
試行錯誤には、お客さんの意見や不満を聞くことも、当然、含まれているわけですが、一方では、それは、客の課題だからと、気に入らないことは無視しましょうと、何もせず、何も聞かないでいることを勧めてきたのです。今さら、当たり前の正論を語ろうとしても、無駄でしょう。課題の分離は、役に立つ説教にはならないということです。
 

何だって同じことですが、どんなに努力してもできないことは存在します。
今からプロ野球選手になりたいと言い出す大人がいたとして、可能性はゼロではないにしても現実性は低いことでしょう。
できる時はできますし、ダメな時はダメなのです。

 
出来ないこともあると、勢いがなくなっています。諦観がアドラー教なのでしょうか。ダメなものはダメ、できることはできる、と教えられることが、普通の社会において、生きにくいから、新しい教えを求めたのではないでしょうか。それに答えられないなら、最初から、語るべきではないのです。
 
実際に必要とされるのは、なんでも成功ではなく、失敗したときの癒しと立ち直りなのです。
 
問題を掘り下げて考えることなしに深い洞察もなく豪語していたのでは、どやしているに過ぎず、何も解決はしないでしょう。
 

とにかくやってみて、ダメならダメで「自分にできないこと」が分かり、そこには答えは無いと一歩前進できているのです。
自分にできないことを知れば、自分にはどんなことができるのかを知る良い機会にもなります。

 
答えが無いということが、一歩前進だそうです。つまり失敗や出来ないということが、一歩前進という逆説になります。出来ないことを知ればできることを知る、という単純な言い分といい、失敗したアドラー教徒には、ずいぶん、鉛のように鈍くて重たい言い逃れと責任回避が付きまといそうな雲行きです。
 

無駄な努力は存在しませんが、報われない努力は存在します。
ただ、無駄な努力を積み重ねることによって、あなたは新しい知識や経験を得て、着実に前進しているのです。

 
無駄な努力は、無駄だと分かるから、無駄ではない、ということを言っているようです。しかし、幸福になれると意気込んでいたのは、誰なのでしょう。前に言ったことを訂正しないまま、このようなことを言うのは、それこそ、責任逃れなのです。
 
最初から大言壮語してはいけなかったのです。アドラー教は、その本質において、自己中にしか向かいません。自己中心は、それこそ、感じ方も考え方も自己中になって狭小化するので、人間の正常な情感と理路を奪ってゆきます。
 

多くの人達は、無数の試行錯誤の中から、自分のできることを見つけ出しています。
あなたも「今やれること」に集中することで、必ず今よりもより良い未来を獲得することができます。

 
無数の試行錯誤が、他者からの苦言を無視しているなら、これは、社会において、見逃してはいけないと思います。それこそ、やってみよう、ということで、考えもなしに、考えることを、悔いることを、他者を想うことを、やめようと言ってきた責任を取ってほしいです。無責任に豪語して事を運んできたのが、ブログ主その他のお仲間なのです。
 
ですから、今回の批判によって明らかになったのは、アドラー教の教えで、学問であるはずのアドラー心理学を唱えるのは、実践的に破綻百出であり、無理があるということなのです。
 
何につけても、人が自分で考えて作り出す宗教的な当為は、自分本位、自分中心になりやすく、絶対を自分の外ではなく自分の中に置いて、不安定かつ勢い任せ、思い込み、自己満足、尊大、誇大的、恐れを知らぬ傲慢、訂正不能、そして、妄想に、そして、他害的になりやすい危険が付きまとうと思います。
 
 
(2019年09月22日)
(2019年09月24日、一部修正)
 
21日夜、日記、余談:
テレビの”キングオブコント”で、
もしかしてだけど♪の、どぶろっくが、金の斧と銀の斧の話、
そして、大きなイチモツをください♪・・と歌って、優勝しました。
 
昔々、私、子どもの頃、素人演芸会で、若い女性が、
「アルゼンチンは男ばかり。なぜなら有る全チンだから」というネタに、
審査員のミヤコ蝶々さんが「次はチン抜きでお願いします」と言ったのを思い出しました。
金の斧ってのも、妙につながって、しばらく、こびりつきそうです。
私のイチモッツ君は、もはや斧の芋っ子、やっぱりこびりつきそうです。
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事は載っていません)
 
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