ついでのキリスト教?
 
   楽山日記(a)2019-09-29 17:08:31
   『魯庵随筆 読書放浪』の感想つづきより抜粋
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12530828834.html
 
 
読書のついでに、載ってるからと、また、キリスト教を否定しにかかっている楽山です。このように、いい加減な気持ちで考えて、いつまでも、心で受け取ろうとしない者に、キリスト信仰の心が分かることはないのです。
 

本書ではキリスト教にも触れられている。著者は青年時代に教会学校に通ったことがあり、日本人牧師、外国人宣教師の話を聞き、聖書も読み、「内外教師の人格や学問には推服し教会の事業にも亦同感したが、肝腎の教理其の物はイツマデ経っても私には混沌たるケオスであったから、数年基督教会に親しんでいたが到底洗礼を受けなかった」という。

 
教会で聞いても、聖書を読んでも、先入観的な理屈とイメージで、こんな感じ・・みたいに受け取れば、キリスト教を受け入れることはできないでしょうし、楽山は、そういう有名人がいることをもって、またしても、信じてもいないキリスト教だから、おとしめてくるのでしょう。そのおとしめに対して、どんなに批判しても、軽い気持ちと軽口は止まることがないようです。楽山の体質だと思います。
 

これは分かる気もする。自分はキリスト教会にはパイプオルガンの演奏会を聴きに行ったことがあるくらいで、頻繁に通ったことはないが、遠藤周作や三浦綾子の著作を読むと共感することは多いし、またホスピスなどにも賛同する。でも聖書とその関連書籍を読むと、どうしても異文化の壁を感じ、ある一定の距離までしか近付けない心持ちがする。

 
楽山は何に惹かれるかと言えば、パイプオルガン即ち教会音楽と、文学即ち小説ということです。聖書を読んでも異文化の壁を感じると言っています。異文化の文化的側面しか見ない人は、そうなるのでしょう。これは、キリスト教のせいではなく、不可避的な異文化の話から、人類共通のテーマを、楽山は見い出せなかったということに過ぎないのです。
 
キリスト教が異文化と思っている限り、壁を作っているのは、楽山自身です。読んでみて分からないという謙虚さではなく、受け入れようとする気が最初からないから、執拗に文句ばかり言う習性になっているのです。
 
信じるつもりがないのであれば、書かなくてよいものを、ちゃんと考える自分を出したくて、また、書いてくるのです。そして、また、恥ずかしげもなく、自覚もなく、信仰の的を外すことになります。自分に分からないことは意味がないという自尊から、分からないことがらには、ケチを付けるだけの楽山です。
 

たとえば犠牲だとか、生贄だとかの考え方は了解しようと思ってもどうにも了解できないところがある。農作物を神様にお供えするというのは分かるのだけども、羊などの哺乳類を生贄にするというのは分からない。ましてや神の子が生贄になってくださったので罪をゆるされたというのはさらに分からない。

 
誰が、生贄のことが分かってキリストを信じるようになるでしょう。キリストの心を分かろうともしない者は、ケチをつけるにあたって、形ある生贄や儀式の話にこだわるしかないのでしょうか。残酷になるのが、信仰だとでも思っているのでしょうか。呆れます。
 

理屈としては、遊牧民が神に捧げものをするとしたら農作物ではなくて、自分たちの持ち物でもっとも大事だろう羊を捧げることになるだろうとか、捧げものは清らかでなければならないので、罪にけがれていない神ご自身が捧げものになっていただくしかないということにならざるを得ないだろうなどと考えることはできるのだけれども、実感としては神様は殺生はよろこばない、肉や血を神前に出してはいけないという感覚があるので、これらのことはどうにもこうにも心にぴったり来ないのである。

 
次に楽山は「神様は殺生はよろこばない」という感覚?で、ぴったり来ないと言っています。何という先入観の固定観念を、聖書以上の、判断基準に置いていることでしょう。聖書から何も受け取っていない証拠です。
 
言っておきますが、楽山は、アドラー教の宣伝によって、人を犠牲者に変えようとしてきた者です。犠牲がかわいそうという前に、ねちねち言語の無遠慮な刷り込みで、人を犠牲にするなと言いたい。
 

自分の罪をゆるしてもらおうと殺生したら、それがまた新たな罪となって罪に罪を重ねる結果になってしまいそうな感じがしてならないのである。

 
まさに進んで罪に罪を重ねてきたのは、楽山その人であります。殺生を嫌うなどと善人芝居に過ぎません。こういう芝居を平気でする間、キリストの心を知るのはほとんど不可能でしょう。
 
それどころか、この執拗さで、ねちねちと、これからも、人間を傷つけてゆくのでしょう。今まで、私は、楽山のナルシシストの騙し屋の詭弁家ぶりをずっと書いてきました。人を傷つけることを何とも思っていない反キリストと判断しています。
 

また、これは私の肉であり、血であるといって、パンとワインを差し出されたら、それを口に入れるのはどうにも難しい心持ちはする。旧約ではヨシュア記なども理解し難いものはあるし、やっぱり自分にはキリスト教には共感できるところもずいぶんあるのだけれども、よく分からなぬところもあり、そのすべてを飲み込むことはどうにも大変ではある。

 
今度は、パンとワインの比喩さえも、気持ちが悪そうに書いて、博愛主義を気取るのでしょうか。人を傷つけることも、人を無視することも、平気な楽山であるのに。
 
キリスト信仰は、比喩的にも、飲み込む?ものではありません。また、キリスト信仰者には、総てを理解して信じている人はいません。
 

でもよくよく考えてみれば、これはキリスト教以外のどの宗教、思想についても言えることかもしれない。仏教、儒教の本を読んでみても、共感できるところはあっても、そのすべてを信じるというのは容易ではない。神道に関しても古事記をそのまま信じろと言われても無理であるし、平田篤胤の著作についてもそれは同じだ。そんなわけで自分は、結局は、無宗教というところで落ち着くことになる。

 
宗教は、みな残酷だから、無宗教の自分は正しいと言いたいのでしょうか。宗教を理解する気のない者が、下世話なことをあげつらって、言いがかりをつけているだけです。心を受け取る気もないし、心を向ける気もない、ということが明らかになっているだけです。
 

ドーキンスみたいに元気満々の人であれば、どの宗教も信じられないということから無神論に到達するのかもしれないが、自分はそこまでの元気はないので、無宗教の不可知論者という程度でおさまるわけである。

 
外国の科学者と自身を比較しています。そして、元気という言葉だけで、元気はないと言いながら、無宗教の不可知論者という程度でおさまるなどと、なんというか、尊大の桁外れなことを露呈しています。真実を追求する誰とも比較にならない自己中心だと判断しています。
 
ヤフーからアメブロへ、アメブロはまだ続くでしょうから、私が、ずっと書いてきたように、楽山は、カルト宣伝者、ボンヤリ言語を使う刷り込み屋であり、理路を心で追えない楽山の名を忘れないでください。
 

少し細かいことをいえば、以前は無自覚な無宗教の不可知論者だったが、その後はいろいろな宗教や思想を巡ってみた結果、近頃は自覚的な無宗教の不可知論者になったということだ。これが善いことか、悪いことかは分からないが、ココが自分の居場所らしくは感じられる。

 
楽山は典型的な自分信仰だと思っています。「無宗教の不可知論者」と自分で言っていて、そう自覚していた者が、どうして無自覚だったなどと言うのでしょう。「近頃は自覚的」とは、はっきり言って、悪意が増してきただけのことだと思います。
 
さらに、そこは、いかなる居場所でもありません。居てはならない場所です。悪と偽善の者は、罪悪感も病識もないので、居場所だと思い込んでいるだけなのです。
 

本書では宗教についてはこの他にもいろいろと興味深いことが書いてあるのだが、たとえば宗教の勢いが減じてきているのは経済方面のことに不足するところがあるのではないかという指摘をしている。「仏教や基督教が振るわないのは霊魂だけ救えば宗教の能事は畢れりとし、生活はドウでも肉体は餓死しても霊魂を済い得られるものと思っているからだ」「先ず霊魂を済う前に霊魂を保全する肉体を如何にして済うべきかと考えなければならない」と。

 
すごい言いがかりですね。楽山は、いったい、どこのキリスト教が、経済性など構わず、餓死しても霊魂だけ救われればいいと言っている、などとと言うのでしょう。とにかく文句を言って否定したい楽山のようです。冷静のふりをして、その実、いちばん激しく乱れて偏向するのが、楽山なのです。
 
信仰は魂の救いですから、貧困問題に直接一般的解決を宣べ伝えるものではありません。経済的問題の解決は、隣人愛の日々の努力と、あとは、法制度と政治の問題でしょう。食えない宗教の話を刷り込んでくる反キリストの楽山の悪意が、あらわになっています。
 
楽山は、このような、低次元のことさえも分からず、にもかかわらず、知識人気取りで、読書してますアピールをしながら、自尊を増大してきたのでしょう。楽山という自覚的な無宗教の不可知論者の、くずれ方は、半端ないものに思われます。
 

これはわりとよく聞く意見ではあるが、『切利支丹文学抄』という書物の話はユニークなものになっている。これには「聖ばるらあんと聖じよざはつの御作業」という物語が収録されていて、内容は次のようなものだそうだ。「聖じよざはつというは印度の太子悉達で夙くから人間の無常を観じて切支丹に帰依したるを、切支丹を好まざる父王が憂い悲みて、太子の為めに新たに宮殿を営み、美人を侍かせて歌舞音楽の歓楽に興じさしたが、栄華に飽かせれば飽かせるほど益々人間を厭離して切支丹の信頼を深くしたという物語の筋である」。なんと、釈迦がキリスト教徒だったことになってるのは驚きだし、これには著者も、こう書いている。「仏教国の日本へ切支丹を弘めようとするに方って仏陀を切支丹とする伝説を伝道のトラクトとしたは伴天連も中々隅に置けない商売上手であった」

 
キリスト教伝道を陰謀だと言いたいのでしょうか。キリスト教批判だとしても的を外し過ぎで、楽山の視野は、興味の範囲から一歩も出ておらず、それゆえに、分からないことについても分からないと言わず、そのくせ、蝋細工の食品サンプルを見る眼しか持っていなことを自分で表しています。・・楽山は、命と真実の問題に、悪口を言って楽しんでいるのです。
 

また著者によれば、仏耶同祖説なるものもあるのだそうな。「西蔵には夙くから仏在世の日、遠く西天から如来の法徳を慕うて来竺せる沙門があって、随身して如来の獅子座に持する数年、成道して再び西天に帰ったという伝説があるそうだ」と。 オカルト本では、キリストが若い頃にインドで修業したとしているものもあるけれども、これも根っ子を同じくする話なのだろうか。でもこういう伝説は一体だれがこしらえて、誰が弘めたのだろうか。またどういう伝説が事実のように信じられるようになり、どういう伝説がトンデモ、デンパとして笑話のようになっていくのだろうか。この辺りの分かれ目には何かあるのかな。

 
楽山が宗教を考えると、このような話に堕ちて、このような楽しみ方しかできないのでしょう。宗教について人生について他者について、真剣味が、まるで無いなら、書くなと言いたい。オモシロガリズムと書いたことがあります。真実を喜ばず、時間の無駄を悦ぶ楽山。
 

そういえば、キリスト関係の伝説といえば、日本にはキリストの墓があるという話がある。十字架にかけられたのはイエスの弟のイスキリであって、イエスは十字架を逃れて日本に来て亡くなり、その墓があるという話。トンデモにもほどがあるとは思うのだが、山根キクという人は本気で信じていたようであるし、この手の話は、宗教、ミーム、心のウイルスなどの発生と伝播を理解するには良い材料になるにちがいない。

 
これは、楽山の、宗教、ミーム、心のウイルスを表しているようです。くれぐれも汚染されないように気をつけてください。自分振り下ろした剣で、自分が斬られるパターンです。
 
(検索→ウィキペディア)
ミーム:
ミーム(meme)とは、脳内に保存され、他の脳へ複製可能な情報である[1]。例えば習慣や技能、物語といった社会的、文化的な情報である
ミームは遺伝子との類推から生まれた概念である。それはミームが「進化」する仕組みを、遺伝子が進化する仕組みとの類推で考察できるということである。つまり遺伝子が生物を形成する情報であるように、ミームは文化を形成する情報であり、進化する。
ミームの日本語での訳語は模倣子、模伝子、意伝子がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A0
心のウイルス:書籍名
「あなたの悩みは、あなた自身の「思考パターン」がつくりだしている。」
https://books.rakuten.co.jp/rb/1404187/
 

本を読んでいると、ある一文から何かを連想し、そこからいろいろなことを考えはじめて、本を読むのを忘れてしまうということがあるけれども、本書を読んでいるときもそういうことは度々あった。自分の集中力が欠けているせいもあるだろうけれども、魯庵の随筆が自分の脳に刺激を与えたということもあるだろう。この点、本書は自分にとっては、いろいろ考えさせてくれたり、ひらめきを与えてくれるよい本である。上に書いた以外にも、万年筆のことなど面白い話はたくさん書いてあるし、これは折に触れて読み返したい本になりそうである。

 
楽山の特徴は、ただのインテリ気取りとは違います。楽山は、どんな問題にも、頭の体操とか謎解きクイズのような興味しか、元々持っておらず、それに沿ってしか、話を進めることが出来ないのです。それが、楽山の思考パターンであり、楽山のミームであり、楽山の心のウイルスなのです。
 
だから、いつも、宗教にまつわる周辺の、ガセネタ、皮肉、茶化し、作り話、怪しい異説、などを啜って面白がる以外、何も出来なくて、低劣な悪口だけの、一種の精神の貧困か破壊過程を表す結果にしかならないのでしょう。
 
でありながら、平気で執拗に書いてくるのは、もはや興味でさえないのかもしれず、迷惑をかけて傷つけることを悦ぶ、という、サディスティックな心性なのかもしれません。楽山のミームつまり故意の刷り込みしかない"意伝子"にも、楽山の"心のウイルス"にも、感染しないように、くれぐれも関わらないようにしてください。
 
 
(2019年10月01日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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(古い記事は載っていません)
 
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