さりげない悪意
 
   ドラマ『まだ結婚できない男』
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12540159777.html
   楽山日記(a):」楽山のブログ
 
 
ドラマ「まだ結婚できない男」は、前の「結婚できない男」から、再放送も含めて、私は、ファンですから、よく見ていました。
 
「まだ結婚できない男」について、楽山は、感想を書いていますが、その中で、ネットの誹謗中傷が描かれていることをネタにして、大きな社会問題だと、自分の罪を蚊帳の外において、言っています。
 
批判され、正当な反論や弁明をもって返すことも出来ずに、代わりに、嫌がらせ、当てつけ、雑言を飛ばし、かつ、同様のさらに酷い異常者であるシャロームに無条件に味方して、シャロームの呆れるような妄想の肩をもつ楽山の意図を考えてみます。
 
(一部抜粋のみ)

ドラマの全体の流れは、一回一回で一応の区切りをつけながらも、ネット上における誹謗中傷という事件が幹となって全体を統一しているようである。自分としては、本シリーズでこういう殺伐とした話が出てきたのは意外ではあったけど、ネットでの誹謗中傷は、いまや大きな社会問題でもあろうし、こういう現代性を取り入れつつ、桑野さんを誹謗中傷している匿名者は誰かという謎をドラマ内に持ち込むというアイディアには驚かされた。

 
コメディの中の、ネットで中傷コメントが書かれた話を、何を、そこだけ真に受けて、現代の大きな社会問題だからと、分かったようなことを言うのでしょう。このドラマは、コメディだから、見れば直ぐに、そういう社会問題を正面から扱うようなドラマでも情報でもない、ということの察しがつかないのでしょうか。
 
「おもしろかった」「桑野(阿部寛)さんは相変わらずおもしろい」「すごい」「もろにハマってしまっている」「ラブコメ要素」といったような、誰でも書きそうなベタな感想だが、そういう、まったりしたことを書きながら、楽山は、その記事の中に潜ませるように放り込んでくるんですね。
 
看過できないところとして、「ネット上における誹謗中傷という事件が幹となって全体を統一している」と言うには全く当たらないこと。どういう目で、コメディを見ているのだろう。
 
また、「犯人は誰かという推理とサスペンス」・・面白くするための設定ではあるが、前作にも、ストーカーが出てきたように、桑野が一見やばい人ように、姿勢や目つきなど、見えることと関係あるのかな・・とも思いますが、そのことも含めて、コメディを引き立てる出来事としての一要素であり、推理サスペンスではないこと。
 
部分に、主題となるようなサスペンスという言葉をくっ付けて、それを、気になってるからと重たく語って、全体を総合できずに、バランスとか、主題と副題とかを、総合・統一することが出来ないでいるようです。これは、何故なのでしょう。私も、よく分かりません。
 
楽山は、自分が、私の批判を、まともに受け取って考えることなく、また、何も返せないものだから、誹謗中傷を受けた被害者のつもりになって、過剰にシリアスになって集中し、そういうジャンルの違うドラマの要素を、コメディなのに、持ち出して的外れに大真面目に当てつけるのだろう。
 
 
実際には、誹謗中傷の言葉を、訂正不能に、理路の成り立たない同じ自己中仲間のシャロームというカルトの味方をしながら、婉曲的な言い回しで、ずっと書いてきたのは、楽山である。こういうところにも、自己中心の身勝手な見なしが表れている。
 
楽山は、執念深い尊大と怨念を、ボンヤリ言語の柔和?と中庸?の表面で隠しながら、企みの言葉の操作で、そっと吹き込んでくるカルト宣伝者に他なりません。決して関わってはいけない人です。
 
私は、毎日、批判対象のブログを覗いて、お気に入りの100くらいのブログを見て回りますが、当然ながら、お気に入りブログの中には、批判するべき対象はありません。しかし、シャロームは、約8年、楽山は約1年批判してきて、これからも批判を続けるつもりでいます。普通のブログではない、全く違う、と思っています。
 
この二人も、最初は、お気に入りに入れていたブログです。しかし、底が浅いだけでなく、かつ、悪意あるサイトというのは、しばらく付き合うと、疲れるだけだと分かるほどに、自己中な発言を言うだけで、他者の意見を聞く耳を持たない、ということを知るようになって、今日に至っています。
 
話にならないこの2つのサイトが、信仰者を含め、一般に対しても、抵抗しにくい独特の偽善的な害があることを、ずっと書いてきました。それが、批判というものです。二人とも、何か言って変わるものではないほどに訂正不能です。だから今は、機会あるごとに、関わってはいけないということを読む人に伝えるために、今までのことを含めて、批判を続けています。
 
 
楽山は、アドラー教の宣伝者です。彼の記事の中に、気に入らないことは無視しましょう、というアドラー教の言葉が書いてあります。・・と思ったら、削除したらしく、記事が見当たりません。都合の悪いことは、隠蔽して、知らぬ顔をする、という、悪い政治家がするようなことを平気でやってくる楽山です。
 
こういうところは、楽山やシャロームなどに共通した偽善者の卑怯なところです。アドラー教信者でなくなったのなら、宗教は大きなテーマなのですから、今までの記事に書いたアドラー教を勧める記事の教えをその記事とともに否定する訂正記事を書くべきだ、ということを言論者の常識として弁えていないのです。
 
好きなように、自己中心に動いているところは、まさに、アドラー教の言葉、上に加えて、課題の分離の曲解によって、自分の課題だから勝手にして、それをどう思うかは相手の課題だから知らないよ、という、アドラー教もどきのスタンスそのままです。
 
アドラー教の批判を書いたように見せかけていましたが、何も変わってはいないのです。というより、自分が元々体質的に持っていたナルシシズムからの自己中にアドラー教が適っていたから気に入って宣伝していたのかもしれません。
 
ベースにアドラー教または過剰な自己愛があるとしか思えない自己中心が、無反省と、他者の意見に対する無理解・無思考と、全体の文脈を把握できないために自分が揶揄したり否定したりできそうなところだけ取り上げて否定してくる姿勢に、今までずっと表れてきました。
 
そして、ねちねちと執拗に絡みつくような言いがかりをつけてきて、あたかも被害者であるかのように見せかけ、誤魔化すために、軟いテーマを選んで、軟い言葉で、ああでもないこうでもない曖昧ボンヤリ言語で刷り込んでくることが続いていました。
 
また、聖書を引用して、クリスチャン芝居をしたこともあります。恐らく体よくキリスト教が分かることを自己顕示したかったのでしょう。楽山には、ひとかけらの信仰もないことが、記事を削除したとしても、彼の、過剰な自尊と、別の記事の、キリスト信仰に対する、いちゃもんに、表れていて、時々に、既に、私が批判記事を書いているのです。
 
自分を高みにおいて、神がいるならば何ゆえ悪を造るのか、などと言って、悪を神のせいにする態度は、自分が悪と偽善であることを省みもしないで、自ら、滅びゆく資質をあらわにしている態度に他なりません。
 
神は、神が与えた良心によって、人が悔い改めることを期待しておられるということです。そのシンプルなことが分からず、分からない苛立ちのまま、訂正不能の自己愛によって思い上がり、アドラー教に似た学習不能と成長不能から、今もなお、神に敵対する詭弁を弄しているのが、楽山です。
 
さらに、何度も批判されて、まともに返せないのに、まだ、文句をつける、または、婉曲的に、被害者か、客観的に見ている批評家のような書き方をやめないこと、等々に、楽山の本質的な不遜と異常性が表れています。
 
 
悪の最上級が、悪を隠し善に見せかける偽善というものです。楽山とシャロームは、まさに、その道を歩んできて、相変わらず、自責の念、反省する心、訂正する思慮、いずれも皆無であります。
 
偽善の大きな特徴は、すぐには罵詈雑言を言ってこないことです。だから、ネットで罵詈雑言ばかり飛ばしてくる者たちは、悪と分かりやすく、そういう場合、偽悪者との区別のほうが大事になるでしょう。
 
最悪の偽善者は、専ら、丁寧語の世辞と社交の薄っぺらな言葉をもって、刷り込んできます。すなわち、優しそうな筆致で書いて、よく読むと婉曲的に悪口を潜ませているという形の文章によって、後から振り返るときに、こうも言ってたっけ・・という印象を残すやり方です。
 
それが長く続いていることが、人のことなど自分を褒める者たちくらいにしか見ていない彼らの企んだ誘導の技と意図なのでしょう。楽山とシャロームの悪意の根深さを表しています。
 
 
罪悪感や羞恥心を感じることがなく、自己愛が過剰で、批判されると、罵ることしかできない者たちは、私の経験の範囲で、HNをあげるなら、成りすましが疑われるものも含めると、少なくとも今まで10人くらいになります。もっといるのは確実と思いますが、10人さえも、総てを批判対象にすることは一人では到底できないので、今は、批判対象を、シャロームと楽山、そして、アドラー教に限っています。
 
その3人を、最初に無益な50~100コメ超を私に強要してきた易坊という荒らしのHNに因んで、易坊類と呼ぶことにしています。皆、似たような性質を持っていて、それらが、成りすましなのか、親類縁者なのか、組織なのか、仲間なのか、友達なのか、ネットで明らかにすることはできないでしょう。そこにつけ込んで、無責任のまま、蔓延っている現状です。
 
 
なお、偽善に近い考えや行為は、根腐れの偽善者でなくても、気がつかないまま、普通にやっていることもありますから、要注意です。折々に、自ら省みて反省してみることの大切さを思います。
 
 
キリスト信仰の立場から言うと、きわめてシンプルなことが言えると思います。
 
悪人は罪人であり、救われることがあります。悔い改めることがありうるからです。
 
偽善者は偽善者であるあいだ救われません。悔い改めることがないからです。悪を隠す偽善の行為が既に自分を善に見せかける行為であり、反省とは逆の邪悪な自己正当化という偽善だからです。
 
このように、救いを拒むのは、常に、人からであります。
 
どういう人に対しても、神が救いの約束を反故にすることはありません。神は、いつも、罪人である人間が、正直に罪を認めて告白してくるのを待っておられると思います。
 
神に対して正直に罪を告白することが、そのまま、俗でも欲でもなく、神のほうを向くという悔い改めであって、罪の償いの善の行為は、あったとしても、信仰の結果の副産物に過ぎません。キリスト信仰が、行為義認ではなく、信仰義認であるゆえんです。
 
ここで、人間に与えられる義は、あくまで、信仰によって罪が赦されるという信仰の義であって、絶対の神の義とは異なります。そこを勘違いしているカルトもいます。
 
このことは、聖書を読めば、キリストの敵は、偽善者であったことから、明らかです。
 
罪人は、キリストにとって、赦す機会を与えられた人であり、罪の自覚を持ち得ます。
 
正直に罪を認めて、その小ささの低みから謙る罪人は、
それこそ、救いの対象として、キリストに愛される人です。
 
偽善者の言は、受けが良いこともありますが、偽善を隠して企みの言葉の技(わざ)だけで書いた文章は、たとえ、一時的に得意になることはあっても、私の肉体と精神を滅ぼすことがあっても、ついには、真実を求めようとする真剣な言葉には敵いません。
 
そして、その導きと最終的な裁きは、言うまでもなく、神の業(わざ)であります。
そこに向かって、キリスト者は、一人一人が、出来ることを努めてするだけです。
ゆえに、キリストの荷は軽いと言われます。
 
 
今、「まだ結婚できない男」を見ていますが、桑野のサイトに中傷コメントを入れてくる者のことを、桑野のお母さんが、さみしいのね・・と言う場面がありました。楽山に利用されそうです。
 
桑野は、なんだか、それは、あなたの課題です・・とか、言いそうに見えますが、言わない理由があり自己中でないとすれば、桑野には、気づかないままだが、人一倍、情があるからです。
 
情の絡む場面では、情に負けることが多く、誰かのように、平気で人を無視する、なんて出来ないで、頼まれると、折れて、結局、人のために実行力を発揮する場面が、多々ありました。その辺は、批判対象の易坊類とは全然違って、魅力的なところです。
 
 
どうしようもない男は、楽山のほうでありますから、私は、冷静に、批判を続けます。正しさについては、それを求めていますが、結論は、神に任せるしかありません。長く続けるためには、淡々と続けることが必要です。
 
 
(2019年10月30日、同日一部修正)
 
謙る(へりくだる、遜る)
 
 
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