嘘と世辞と侮辱(4)
 
   嘘と世辞と侮辱(2)のコメント欄
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   シャロームのコメント
 
 
シャロームが、また、コメントを入れてきました。
シャロームのコメントは、結果を受けて、考えて書く、というものではありません。
総ての経過と文脈を無視して、その時その場で捏造してゆく、という場当たり的な作り話なので、はっきり言って、読む値打ちも聞く値打ちも皆無です。
 
シャロームは、自分が、いかに恥ずかしいことをしているか、分からないのです。
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年11月02日 09:17
いつも、いつまでもお疲れ様です。

 
「いつも、いつまでもお疲れ様」というのは、
私が、性懲りもなく、批判していると、揶揄したいわけです。
揶揄によって、自分が見苦しくなっていることに気づきません。
超常の救われ妄想に侵されているシャロームは、状況が分からないのです。
いつのまにか自分が素っ裸であることに気づかないのです。
 

イエスさまは言われました。
 「私は平安をあなたがたに残していく。
わたしの平安をあなたがたに与える。
わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。
あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな。」
 (ヨハネによる福音書14章27節)
st5402さん あなたはイエスさまがどのような状況で
弟子たちに語られたのかをご存知ですか。
イエスさまが私が与えると言われた平安はありますか。

 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
14:25-26
これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
14:27
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
14:28
『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。
14:29
今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。
 (ヨハネ書14:25-29、新約聖書)
 
シャロームは、心を騒がせるな、おじけるな、という聖句を、何にも心配せず、考えもせず、好きなようにしていなさい、という意味にでも受け取ったのでしょうか。
 
世が与えるようなものとは異なる、というのを、超常奇跡の贈り物だから、好きに見なし、好きに使え、とでも、受け取ったのでしょうか。
 
シャロームは、その部分の解釈を何も書かないで、何も言わないで、言い得たとばかり慢心しているのです。まだ教える気でいるのが、シャロームの、今までの彼の偽善と嘘という愚かな振る舞いを、まるで気にせず、無視できてしまう人間性を失った鬼畜の所業です。
 
聖書の深い意味に、一度も触れたことのない者、シャロームが、気軽に文言だけをあげて、泡を吹いている見苦しい有り様に、いったい、誰が従うというのでしょう。
 
神の与える平安を、自作捏造の底なし沼のようなドロドロの安楽と勘違いし、キリストの死と復活を、自らの無罪妄想に結び付けて、超常の魔法のようにだけ受け取って、吹聴してきた妄想家シャロームは、いずれ、心が騒ぎだけになり、怖気だけになる日を、洞察できません。
 
キリスト者は、みな、そのような日ではなく、悔い改めて、赦される希望に生きることを選んでいる人です。シャロームには、それが分からないのです。
 
だから、批判を受け取らず、完成した捏造境地にしがみついて、まだゴタクを並べようとするのでしょう。昨日も今日も、恐らく明日以降も、有頂天シャロームのゴタクが続くのでしょうか。それを、止める者も、近くに誰もいないのでしょうか。
 
聖句の中の、事が起った時、というのが、キリストの死と復活なのか、終末なのか、私は知りません。しかし、それが、シャロームのような偽善者を喜ばせるものでないことだけは知っています。
 
主は正義の主であり、罪人の救いだからです。主は、偽善者の主ではなく、偽善者は主の敵だと知っているからです。欺く者に待っているのは、永遠の裁きだけなのです。
 
キリストは、聖霊が遣わされることを語っておられますが、シャロームは前から自らの正当性の根拠に、弁えも節操もなく、聖霊による啓示をあげていました。
 
考えるのが面倒なシャロームのような無分別で快楽原則しか持たないものにとっては、聖霊という目に見えない助け主は、好きなように言葉だけを引き寄せて、人に自慢するのに好都合なのでしょう。しかし、神聖を悪用すれば、待っているのは、この世においては、人間でなくなることであり、その先は・・何とも言えないものです。
 

その平安はこの世が与えるようなものとは異なると言われましたが、
「キリスト教の基本的な考え方」をよく知っておられるという
あなたの心にその平安はありますか。
イエスさまが与えると言われた平安はありますか?

 
あなたシャロームは、先ず、自分に問うてみることです。そして、シャロームが、言葉に表せば、どこにも響かない、歯の浮くような讃美言葉にしかならないこと、それを、ごまかすために、聖句を、全く理解しないまま、シャロームは並べるしかないことが明らかになるでしょう。
 

「心を騒がるな、おじけるな」とも言われていますが、
イエスさまから平安を与えられていなければ、
わたしたちはだれでも、心を騒がせ、おじけてしまうのです。
私もそのひとりです。
shalom!

 
もう、どう思われてもシャロームは構わないのでしょう。だから断末魔と言っておきます。だから、私が書いてきたことを何も考えないで、自分に神の平安がある前提で、平安を与えられていなければ、などと言ってくるのです。
 
逆方向に勘違いさせるシャロームの意図ですから、だまされないでください。
 
「私もそのひとりです」とは、平安を与えられているので、心を騒がせることも、おじけることもない、という意味ですから、だまされないように。何の共感でもありません。
 
シャロームは、独り舞い上がっている哀れな人ですが、その分、偽善者として人を騙してきたので、計り知れない偽善と背きの罪を、神の前で、晒されることになります。
 
罪を認めて正直に告白するという悔い改めをせず、独りで思い上がる妄想カルトのシャロームのような者は、信仰者や聖職者ぶってきた分だけ、厳しい裁きが待っている、というのが、キリスト教であります。
 
そして、その分、キリスト信仰の、悲しみを感じて悔いる感性、救われる喜びを味わう幸いから自ら遠ざかり、幸い?を自分で、でっち上げて、平安です、平安です!、shalom!、と声高に、おらびまくるしかないのでしょう。
 
心貧しさも、敬虔も、損なっているシャロームは、いつも笑って讃美しており、それが信仰だと思い込みます。それを、約8年間も見せられると、さすがに、気づくわけです。
 
いつも笑う、いつも讃美する、というのは、実は、暴力的で、正直に、分かりませんと言う心を失っているのです。分かりません、ということが言えない者の、苦し紛れの、笑うためだけの、自己正当化の手段として、使われている、ということに気づくべきであります。
 
聖書に書かれている、いつも讃美する、また、ほめたたえよ、というのは、いつも命を与えられたことを喜ぶ、ということが前提となっています。そうあれ、というのは、まさに、激励であります。そこを、まじないのように勘違いすることだけはしないでください。
 
勘違いしか出来ずに、信仰者?そして伝道者?のつもりでいるシャロームのような宗教くずれに、決して見倣わないでください。シャロームと同じようにならないでください。
 
 
悲しみを知る人は、好都合であれ、不都合であれ、神の前に正直であります。そのような人たちが、キリストによって、見出され、救われているのです。
 
 
悲しみを憎むシャロームのような者たちは、不都合を無視し、好都合だけを大仰に吹聴します。そして、節操もなく讃美しまくり、自己顕示欲で教えたがります。そして、本音においては、人を憎み、神を憎み、最後には、自分を憎むしかなくなるのです。シャロームを見ていると、殆ど、悪魔を見ているような気がします。
 
シャロームが、このように返せないのに、書き続けるのは、恥ずかしいことを書いたという自覚を持ち得ないからでしょう。つまり、恥知らずなのです。いつからそうなのかは知りませんが、情性欠如の惰性と言ってよいでしょうし、カルトであるゆえに仲間の手前、墓穴であっても、ちゃんと返したふうを装うために、掘り続けるしかないのかもしれません。ならば、それで済むと思っているのは、仲間を、相当、バカだと思っていることになります。
 
聖書に登場する悪魔は、結局、神またはキリストによって退けられます。つまり、悪魔は、神に勝てないことを知っているように思えます。ならば、悪魔の分別さえ、シャロームや、易坊類は、持っていないようです。人間として生まれたゆえの悲劇なのでしょう。
・・というように、私も、ときどきは、超常のことを考えはします。信仰は人間のためにあるのですから、人間のことを考えるべきですが、要は、その区別が出来ているかどうかです。シャロームのように、混同して、ゴチャゴチャになってはいけないという話です。
 
シャロームは、自他未分化を私に当ててきます。しかし、シャロームは、神と人、神聖と被造物についての考えが、未分化なのです。恐ろしい自他未分化です。だから、一体であるかのように信じ込んで、神の立場で物を言ってきます。人間離れと神がかりは、このような存在の根っこの腐れから始まるのでしょう。
 
私は、シャロームが相手でも、私なりに学習しているつもりです。シャロームに学んでいるのではありません。悪があれば、その対極に善を推測する、あるいは、そのヒントを見出す、ということが可能です。シャロームの言の対極にあるものに向かって学習するのです。だから、シャロームの言は、既に、ずいぶん前から、反例の資料となっているのです。
 
脱線気味になりますが、文系、人文科学系の、論理というのは、数学の論理とは違います。よりファジー(fuzzy,曖昧)ということですが、加えて、心を動かすかどうか、ということが正しさの問題になるのです。シャロームの言は、ベタな話かお決まりの言葉の継ぎはぎか、また、誰かの二番煎じで出来ているので、それに心を動かされたことは一度もありません。
 
文章を書くときに、表現を工夫しようとするのは、相手の、あるいは、一般の他者の、心に何らかの道筋を通そうとする努力なのです。同じかどうかは知りませんが、ある論理学のサイトには、議論の論理には必ず飛躍がある、というようなことが書かれてあったのを思い出します。私の記事とコメントは、シャロームにではなく、一般の読者に対して、カルト、特に、シャロームに近づかないように、という主旨の文章を書きたくて、非力ながら努力しているところです。
 
反キリストのシャロームは、何も分かっていないから、その時の場当たり的な悪口や当てつけや言いがかりや言い逃れを書いてきて失敗におわるだけです。
 
私たち信仰者の言動と活動は、世をないがしろにすることではありません。しかし、実が成るという実績や、何かの役に立つとかは、願いであって、私たち信仰者は、総て、神の憐れみを受けたい心で行動しています。すなわち、究極的には、効率とか仕事量とか人気とかには関係なくなるのです。
 
それが、世に仕えず、神に仕えることです。それが、神を、命と人生の拠り所にするということです。結局は、キリスト信仰者である個人が決心することゆえに、キリスト信仰は、キリスト教と全くの同義ではないということになるのです。キリスト教は授ける側の教えを中心とし、キリスト信仰は受ける側の心を中心とします。
 
 
(2019年11月05日、同日一部修正)
 
 
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