他者を悪用
 
   「こうであって欲しい」という押しつけ
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12542715737.html
   楽山日記(a)
 
 
楽山は、ツイッターの他者の言葉を悪用しまくっています。自分で言うと、破綻百出であることを認めたようなものです。引用されているどの言葉も、楽山の実態とは対照的です。楽山は、何も反省しないから楽なのでしょうけど、そのために、正常な弁明が成り立たない迷路をさまよっています。
 
(楽山が引用)

自己肯定感が
安定した状態って
私の経験からすると
地味な日常にも
幸せを感じやすくなったり
人に、自分の気持ちを
伝えやすくなったり
相手の気持ちを
受け取りやすくなったり
落ち込みや、イライラ
が激減したり
そんな感じで
結構地味だけど
楽です
https://jnpta.com/seminar-event/201911-tokyo

 
楽山の「楽」は、人より上に立っていること、何を言い、何を仕出かしても、批判されず、文句を言われないことです。楽山は、反省をしない、訂正をしない、下に見る、結論が前提となったところからしか物を言わない。なのに、決めつけが悪い、などということを言ってくる。いちばん決めつけているのは、楽山。
 

ちなみに、のんさんの歌(歌詞ノマアキコ)にも、これに通ずるものはある。

 
(楽山が引用)

 ちょっと待って寄ってたかって
 あたしのあれこれ決めつけないで
 あなどるなかれ ベビーフェイス
 ホントのあたしを知らないくせに
 ・のん やまないガール 歌詞

 

こういう押しつけ、決めつけ、過干渉などは、有名人に対してのみならず、程度の差はあれども、一般人の間でもあるね。ふつうの親子関係、友人関係、恋愛関係などでもざらにある。
もちろん宏洋氏が述べているように宗教でもある。むしろ宗教では一般の場合よりも、その程度は激しいかもしれない。宗教は人に対して、ああしろ、こうしろと命ずるものだから。
ほんと、価値観の押しつけという点では、宗教はやっかいだ。まともな宗教であれば、ある程度は、個人の個性を尊重してくれるだろうからよいとしても、カルト宗教はそうじゃないから困る。

 
今回、他者の言葉、特に有名人の言葉を悪用する楽山です。
 
楽山は、自分が批判されてることが、のんさんと同じ立場だというのでしょうか。のんさんと、世間ずれの悪知恵だけの狡賢い楽山の、味わっていることが同じでしょうか。
 
それに、決めつけた決めつけない、ということが、確認も実証もしないで、一般化できることでしょうか。どこまで自分を高く見積もれば気がするのでしょう。どこまで他者を自己正当化に悪用するのでしょう。直接交わることのない芸能人だからって勝手に引き合いに出されたほうの迷惑を考える節操がないのでしょうか。
 
真実を語る代わりに、印象操作をしたり揶揄を語るような者は、他者の言葉を借りても、そこには、別の意図があり、本来のあるべき引用のやり方ではなく、悪用の企みになります。
 
決めつけてきて、当てつけ、印象操作、遠回しな悪口、ホントの自分を出したことがなく、いつも隠して、体のいい言葉飾りで、人をあざむく香具師(やし)的存在である楽山は、有名人の言葉を、香具師的に流行に飛びついて、自らの怠慢ボンヤリ言語の継ぎはぎに使って悪用している、という、罪も偽善も考えることが出来なくなった人。
 
楽山は、批判を過干渉といいたいのでしょうか。「あるね」「ざらにある」という、雑な強調や、「宗教では・・激しい」などと、自らの単方向性と卑怯なボンヤリ言語と言論の廃人シャロームを応援したことを省みることもなく、決めつけて、印象を流し込んでいる。
 
「宗教は人に対して、ああしろ、こうしろと命ずるものだから」とは、正当な宗教を何も知らず何も分かっていない楽山の言。このようなことを平気で言ってくることから、楽山の宗教批評失格が明らかであります。
 
宗教は、行為そのものを命じるものではありません。行為義認は、聖書におけるパリサイ人の信仰であり、また、批判を一括して良くないと決めつけている楽山のカチンカチンの宗教観念であり、すなわち、都合の悪いことに対して排除という解決しか考えられないカルトの持ち物です。
 
正当な宗教は、干渉はしないし、むしろ、それぞれの人間性を大事にする必然があります。キリストは、様々な人に合って、それぞれを洞察し、様々な対応をしました。それを、何も読み取らないで、聖句や教理を引用してキリスト教批判めいた嫌がらせをしてきたのが楽山であります。
 
カルトは、特に楽山は、良心欠如で、さらに狡賢いから粘着して執拗で、自分の言葉が通用しなくなった必然をまるで考えず、やみくもに手段を選ばなくなっているのです。そのことのために有名人をネタにするとは、恐れを知らない。
 
カルト宗教は個性を尊重しない、ということは、軟派カルトである楽山に顕著である。手段を選ばない楽山の、無反省の執拗な、当てつけの、嫌がらせの、快感のみ追求の自慰行為あるいは憂さ晴らし。
 
苦言に表された望ましくないことを、自分に向けてみることだけはしない楽山。遠回しならいいということではない。遠回しに言えば、遠回しに自分に跳ね返ってくるだけです。
 
 
   つぶやき
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12542591917.html
   楽山日記(a)
 
 
(楽山が引用)

サイコパスは人が「いい思い」「得」をしていること、幸せであることが許せず、ありとあらゆる巧妙な妨害をする。邪悪な人が親だと、子どもが楽しそうにしていることも許せず、さまざまな圧力をかける。

 
霊が分かるっぽい楽山の「いい思い」は、偽善の成果として、人を騙し得たと思うときだろう。例えば、印象付けで、やさしいお人柄、などと言われたときだろう。それが当然だと、どう育ち、生きれば、思うようになるのだろう。
 
楽山の「得」は、やはり、人を騙し得たときだろう。褒められることだけを求めて、批判を一切無視する楽山は、反省して、欠点に気づいて改める喜びを一度も知らない。この人には、決して関わらないでほしい。
 
(楽山が引用)

三流は、人の話を聞かない。
二流は、人の話を聞く。
一流は、人の話を聞いて実行する。
超一流は、人の話を聞いて工夫する。
これは、羽生善治名人の名言だけど本当にその通り。
最近、四流の人と出会う事が多い。
四流は、人の話を聞かず、ただ批判したりバカにすることしかできない。

 
楽山は、三流のみならず、唱えて批判され否定されたことを、いつまでも、いつまでも、あたかも、新しいものであるかのように、駄々っ子のように繰り返す四流以下である。自分の話が通じないことを、批判されることを、受け止められず、相手のせいにして、バカにする当てつけか印象操作しか出来ない。そのために、有名人の名前さえ利用するとは、身の程知らずも甚だしい。
 
今回の「決めつけはよくない」と言いたいらしいテーマもそうだ。その度に、楽山の決めつけの怖さが伝わるが、そういう自省の感受性は楽山にはないようだ。なりふり構わなくなったら、もはや、自他を区別することさえできなくなる。だから、身の程知らずに有名人まで利用するのか。名のある人までを、おのれの醜さでけがすとは。
 
(楽山が引用)

優れた画家は、汚れて短くなった鉛筆を使ってさえ、美しい絵を描きあげます。「自分は罪深く、取るに足りない人間だ」と思っても、諦める必要はありません。神様は、そんな私たちを使ってさえ、何か美しいものを作り出すことができるのです。今晩も皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父

 
偽善カルトの楽山は、キリスト教とキリスト信仰を自分の幼稚な疑問で否定しようとしたり、逆に揶揄目的で、ボンヤリ言語でクリスチャン芝居をしたりするようなことさえする人です。自分の言葉で言えないものだから、どこかの神父の言葉を借りて、神父が言ってんだぞと、利用し、ますます、宗教も真実もけがしてゆく。
 
(楽山が引用)

 ✔  @kagekineko 
憎しみは捨てる。
心に炎症を起こすから。
悲しみは受け入れる。
心を浄化させるから。
その程々を悟り
気持ちを切り替える。

 
楽山の言いたいことは、一人称ではなく、自分の怨念を省みないままで、仮想の二人称の批判者に言いたいことの暗示でしょう。すなわち、憎しみを捨てよ、悲しみを受け容れよ、つまり、批判するな、と言いたいのです。
 
何故なら、一度も、楽山は、引用にあるところの自分を対象とした反省のような文章を書いたことがないからです。そういう心が無いから、そういう文章が、自分で書けないので、言葉だけ借りて、仮想の相手にだけ向けるのでしょう。
 
反省をしたことがなく、相手が悪いとしか思わない心からは、この言葉が、自分に向かうことなど、考えもしないのでしょう。こういう精神だから、記事が、自分に跳ね返ってきても、また批判されても、悪口ぐらいにしか受け取れないのです。この成長不全の男に関わらないでください。
 

心が受け入れる悲しみはその心を浄化します。ただし、その段階で気持ちを切り替えないといつまでも悲嘆にくれて心を痛めます。切り替えどきを誤らなければ悲しみとスッキリ離れられます。

 
楽山には、心に受け入れる悲しみの器が無いので、今まで、そのような悲しみを書いたことがありません。解決していないのに、切り替えたつもりでいることが、いちばんの問題だということに気づかないのです。
 
自分が何を仕出かしても、はかりごとを巡らすか、意地悪く楽しんでいるのです。この記事もそうでしょう。決めつけはよくないという話が続いていますから。このまま、偽善の反キリスト者であるシャロームのように、心と言論の廃人になりたいのでしょうか。
 
(楽山が引用)

人間関係で一番大事なのは、腹八分ではなくて腹六分。
夫婦、恋人、親子、仕事関係、すべて腹六分でお付き合いを。
親しき仲にも礼儀あり。
美輪明宏 名言

 
まず、私は、楽山とは、まったく親しき仲ではありませんから、礼儀を守る必要はありません。
 
楽山がこれを引用したのは、批判されて都合が悪くなるからでしょうが、都合を悪くしたのは、人間としての自然な心の進み方を拒否している楽山です。軟派カルトといっても、自分の間違いを認めないところは、やはり社会悪に結び付く危険のあるカルトなのです。
 
それにしても、有名人の言葉を利用して、弁明と反論に代えようというのは、呆れます。楽山は、自分で、自分には言葉がありません、と言っているようなものです。
 
何を言っても、反論、弁明、反省、訂正、謝罪、どれもなければ、手加減などしないのです。ふつうはあるはずの反省機能が、楽山やシャロームには、出会ってから、ずっと欠落しています。
 
しかも、テーマは、真剣に取り組むべき宗教と信仰という真実追求のテーマなのです。対して、楽山は、ふざけた軽口ばかり言ってきたのです。そのことを指摘しても、何も変わらないところも、カルトであることを濃厚に示唆しています。
 
 
ですから、
「四流は、人の話を聞かず、ただ批判したりバカにすることしかできない」が
当てはまるのは、楽山に他なりません。
 
私は、日記でも、ポエムでも、政治と思想でも、お気に入りサイトの記事を、熟読しているとまでは言えないが、楽山やシャロームの言とは全然違う人間らしい文章として、真実のヒントを探して読ませてもらっています。
 
 
楽山は、自分で書けないので、都合のよさそうな意見を探して、とうとう、有名人の言葉を、無作法に無責任に書いてくるという暴挙に出ています。それによって、結局、動機の不純と、陰険な目的によって、無反省に無理解を上塗りしてゆく愚かさを露呈しているのです。
 
気楽に有名人の言葉を、その有名人が好きだから引用するのではなく、明らかに自分の利益のために恣意的な目的で引用しています。そのことについて、何も、恥ずかしいとか、的外れであるとか、自分の欲望のための私用に供してはいけないとか、感じないのでしょうか。
 
しかも、結果として、それらの言葉に反しているのも、楽山のほうなのです。学習機能も修正機能もなく、成長するこがなかったからです。真に受けて付き合う人は誰でも、ボンヤリ言語という飴を舐めさせられることになり、真実追求からは、限りなく遠ざかり、ついには、耐えがたい疲労を与えられるだけでしょう。
 
 
(2019年11月08日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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