嘘と世辞と侮辱(7)
 
   嘘と世辞と侮辱(6):コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4108802.html#comments
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
   コメントを編集して記事にしています。
 
 
また、シャロームがライブドアの私のブログにコメントを書いてきました。ことあるごとに、超常カルトのシャロームは、信仰の総てを超常の業(わざ)として書いてきますが、シャロームの教理?は、自己正当化のために、出まかせに捏造されたものなので、まるで辻褄が合わず、理解不能なことばかりです。
 
その中身は、幼稚で、思慮がなく、罪悪感も、節操もない、まるで成り立たない造語的な思い付きに過ぎません。シャロームの教えと摂理を、人が信じることは、本質的にできない、ということが、シャロームには分からないのです。シャロームは、信仰を、心で受け取るということが分からないからです。
 
シャロームは、むしろ、人が理解しないことをもって、自らの優越を自慢したいだけです。どうか、相手にしないでください。批判を始めて、もう8年になりますから、既に、底が知れているので、檻の中の動物を見るような視線でいいと思っています。
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年11月10日 09:30
(私のコメントを引用)
「弱さを誇ろう、というのは、逆説ですから、このまま、弱いんだぞと自慢するのは笑えない冗句で、弱くあることや弱さの自覚が、少なくとも強くあることや強さの自覚よりも、とても貴いのだということを、パウロは言っているのだろうと思います。」
とのことですが・・・
パウロの弱さ自覚はst5402さんのような弱さの偽装ではないでしょう。パウロの弱さ自覚は自己の全人格にかかわる生ける神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚であって、人間は誰でも弱いという単なる人間の言動における弱さの自覚ではないのです。

 
まず、弱さの自覚が全くないために、聖句をあげて空しく強がっているあなたシャロームに、弱さを語る資格はありません。ここにおいても、まだ、恥を知らないようだ。
 
言ってることが滅裂です。人間自らの弱さの自覚として「神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚」という大仰な飾りが、罪を認めないあなたシャロームの強がり豪語の、著しい的外れの証拠なのです。
 
使徒パウロの名をあげて褒めることで、人をおとしめようとしているシャロームです。それで、あなたシャロームの信仰が、まともになることはありません。
 
使徒であり預言者であるパウロを持ち上げて、まるで、ごまをすっているかのようです。あなたは、一人のキリスト者であることさえ、罪を認めず悔い改めないことで、否定しているのですから、それで、あなたと、あなたの評価が、マシになることは、一切ないのです。
 
あなたシャロームが「人間は誰でも弱い」ということを、甘く甘く受け取って、信仰者として全く実感を持っていないことが明らかです。信仰者の弱さは、神の前での弱さです。神の前に弱いからこそ、その自覚に生きることが、神の前に生きることです。
 
あなたシャロームは、またしても、それこそ安い言説を飾っては、また、尊い自覚を欠如していることを表しています。
 

だれもが負っていながらその弱さの自覚を失っているのは人と比べていてはわからず、だれでもみんな弱いというほかないのです。

 
愚かです。自分は弱い、不完全だ、ということは、人間ならば誰でも分かることです。それ以上に、さらに理解を深めることもありますが、それは、人生と、人間と、特に自分と、信仰の理解を深めることでもあります。努力しないシャロームには分からないので、神のせいにでもしたいのでしょう。
 
人間が自分は弱いという自覚を持つことを軽視しています。そして、聖人とも言われるパウロの弱さを持ち上げて、シャロームは、弱さを自覚するのではなく、総てのキリスト者という人間を軽視して思い上がっているのです。教祖シャロームは、地に落ちた雑巾です。触れると魂が汚れます。
 

そのために傷つけあったり、裁きあったり、傷をなめ合ったり、慰め合ったり、正当化しながら、生きていくほかないのです。それが私たちの弱さの自覚の実態でしょう。

 
「私たち」に、弱さではなく、人をおとしめる傲慢を、今まで、ずっと表してきたあなたシャロームは、信仰における弱さを自覚する人に含まれていません。あなたシャロームは、独り舞い上がって、聖書と聖三位を、ないがしろにしてきました。
 
あなたシャロームの愚かさは、今回も、聖書が分かるかのような、言い分があるかのような、身勝手な筆致に表れています。それは、とても、醜いことです。
 
あなたシャロームは、罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていいと言ったときに、すでにキリスト者ではなく偽者者であることが明らかとなっているのです。そうして、今も悔い改めてなどいないことが、このコメントの醜い言い訳によって、また、教えようとする態度によって、明らかになりました。
 
それゆえ、何を語っても、キリスト信仰について信頼できる言説を語ることはないのです。人をおとしめる、あなたの傲慢は、神によって、おとしめられる時を待つばかりなのです。
 

2. st5402さん おはようございます
 2019年11月10日 09:33
パウロ書いている弱さとはイエス・キリストの十字架のみじめな死の姿に自らのみじめな死の姿との出会いによってのみ与えられる自覚なのです。その自覚をとうして、神があらわしてくださる神の御業を強さと述べているのです。

(「とうして」は、恐らく「通して(とおして)」でしょう。)
 
シャロームは分からないようです。キリスト者の弱さの自覚は、パウロの言うところの弱さの自覚であること。キリスト者の救いは、パウロの言うところの救いであること、すなわち、成し遂げたことの違いはあっても、弱さにおいて、そして、救われることにおいて、使徒パウロと私たちの間に変わりはないのです。でなければ、パウロが、人々に多く語ることはないはずです。
 
そして、ご存知のように、パウロ、すなわち、パリサイ人であったサウロもまた、キリストによって救われて使徒パウロになったからです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
6:6
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8
もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
 (ローマ6:6-8、新約聖書)
 
信仰者は、罪の奴隷とならない。何故なら、祈りと悔い改めの道が与えられているからです。
 
それを、シャロームは、罪を悔い改めなくてよい自分に結び付けるという自己中心の人間離れの妄想にしています。シャロームは、ずっと、万事、このような解釈です。悔い改めなくなったらどうなるだろう、怖い、ということを感じることも考えることも出来ないのです。
 
神の御業(みわざ)の強さは、何故表されるのか、人が弱いからにほかなりません。それを、あなたシャロームは、おのれの奇跡信仰によって、シャロームの神?を飾ることによって、自らの、どうしようもない弱さを、またしても否定して強がっているのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
6:10
なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
 (ローマ6:10-11、新約聖書)
 
罪に死ぬことは、罪が無くなることではありません。罪の奴隷とならないことです。キリストにあって神のしもべとして生きることであります。それが、信仰による悔い改めの道です。
 
ずいぶん前に、罪に死んだことを、死体に喩えて、蹴っても叩いてもビクともしないと、信仰に喩えた人の記事を、シャロームが引用していました。信仰を死体に喩えるのは乱暴すぎます。
 
しかし、まさに、シャロームの信仰は、死体のようなものです。だから、何を言われても、シャロームは、受け取らないし、気にもしないわけです。言い換えれば、シャロームと議論することは、亡霊を相手にするようなものです。
 
これが、信仰の忍耐強さと全く違うところの、異常なシャロームの不感不応です。つまり、シャロームが、びくともしないのは、忍耐強さなどではなく、何を言われても、何も感じないで、自分の言いたいことだけを書いて、人をなじることを快感としているからです。
 
ゆえに、シャロームは、こちらにとっては、疲労物質のしての機能以外、何も持ち得ないのです。そう書いたのに、まだ、書いてくるのも、その性質が為せるわざなのです。殆ど相手にはしていませんが、書いてきたことを、いちいち否定しないことには、信仰の記事にならないので、批判コメントと批判記事を書いています。
 

ですから、
 「主が言われた、「私の恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。それだから、気rストの力が私に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。だから・・・私は弱い時にこそ、私は強いからである。」と書いているのです。

>2.の6段の「気rストの力」は「キリストの力」の誤りです。<
 
あなたが、かつて「超常現象です(笑)」と言って、自らに起こった奇跡を語って、それを、恐れもなく根拠にしたように、あなたシャロームの神?は、いつでもあなたを奇跡で守る神?であり、パウロの信仰と伝道と殉教に表れる神ではありません。
 
パウロをネタにして、またしても、自分を高めようとしているあなたシャロームは、弱さ、低さ、罪深さという信仰の気付きを、何も知らないことが、書くたびに表れています。これからもそうでしょう。
 

ローマ人への手紙5~7、8章14節にもパウロはそのような自分の生々しい実体験を通して自分のみじめな死の姿について述べながら、またそのような自分を死のからだからイエス・キリストのよみがえりの命に生きる者としてくださったこと、それはイエスの死と、よみがえりと聖霊による神の恵み、たまものとして与えてくださったとイエス・キリストの父なる神に感謝しているのです。

 
ひと言で言えば、パウロには、人間としての豊かな心があったということです。だから、本当の恵みを受け取り得たのでしょう。パウロの言説には、まだ、私には、分からないでいることもありますが、少なくとも、シャロームの妄想で理解できることは何もないのです。
 
このように、神の恵みばかりを、豪語してくる、あなたシャロームの言説は、あなたにとって都合の良い恵みが、あなたにだけは来ないことをもって、泣くしかないのでしょう。
 
何故かと言えば、神の恵みが、罪深いキリスト者に、キリスト信仰ゆえに注がれるときにも、弱さを自覚しないあなたシャロームは、それが恵みだとは気づかないからです。
 

3. st5402さん おはようございます
 2019年11月10日 09:34
st5402さんはイエス・キリストは処女マリアから生まれ、罪なき神の御子イエス・キリストの死による罪のあがない、死からよみがえり、聖霊の働き、によって私たちのこの死のからだに成就してくださった神の恵み、救いを信じておられますか。これがすべての人に与えられた神の救いの福音なのですが信じておられますか。

 
私には、分からないことがいっぱいあります。人間だからです。実感のないことについて、信じているのは、あなたシャロームと同じ思いこみから信じ込みに至った教条主義に過ぎません。だから、私は、あなたシャロームを、カルトと呼んでいるのです。
 
人間は、超常の神聖の仕組みを、知識としては教理と聖書から得ていますし、それを、いつかは理解する時が来る、という希望として持つことはあっても、それを分かったかのように信じるというのは、シャロームのような傲慢な妄想家であることを表します。
 
あなたシャロームは、その超常を豪語して、自分は分かっている、そして、それによって、私を裁こうとしている、という醜いさまを、神の前に晒している自分の姿に、まだ、気づかないのか。
 
あなたの教条を披露しても無駄です。どうして、他者の信仰ばかり書いて、自らを見ないのでしょう。そういう者に、信仰の成長はなく、成長しない信仰?は、どれだけ多く言葉を放っても、臭みをまき散らす不潔な糞尿のごときものです。
 

信仰義認とはどういうことかを理解するためには、自分の本当の弱さの自覚、自分の死の姿の自覚が不可欠ですが、それは神が与えてくださる神の恵みの賜物としてのみ与えられるというのです。

 
あなたシャロームの、弱さの自覚、死の姿の自覚、いずれも、妄想です。人間の心に響くことを、わざわざ、超常の出し物に置き換えて、どこにも響かないものにして、神の恵みの賜物を、あなたの都合に合わせて、それこそ、自らを超常になぞられる、忌まわしきカルト信条です。
 
死の姿の自覚など、生きている人間に出来るはずはないのです。そのことは、全知全能の神は、既に、ご存じなのです。安い思い付きで、人を惑わすのは、あなたシャロームの常道ですね。
 
あなたシャロームは、今まで、ずっと、超人になるかのような現実離れの妄想教理を吹聴しては、神とキリストと聖霊と、信仰と信仰者を、けがしてきただけなのです。
 

パリサイ人は罪を悔い改めていることを、いつも人の面前で灰をかぶって、衣を裂いて自分が罪人であることを人の前にあらわし、自分を義としていました。
それは弱さや罪の偽装の姿でした。ですから人を裁き、人を罪に定めることを神の代行人のように行っていたのです。
それが神を見失った生まれながらの私たちの姿です。
パウロもその一人でした。

 
パリサイ人は、悔い改めない人々です。だから、あなたシャロームと同じように、教条主義によって、心を失い、守っている、分かっている、という偽善に走ったのです。
 
パリサイ人は、弱さの姿ではありません。シャロームは、そおっと、都合よいように、言葉を忍ばせてくる卑怯者なので、注意してください。
 
「それは弱さや罪の偽装の姿でした」の「弱さや罪」の自覚は信仰につながりますが、「偽装の姿」はパリサイ人とシャロームのの偽善そのものです。シャロームは、それを並べて、パリサイ人は弱かったから偽装した、という憐れみの印象を刷り込もうとしています。とんでもない人です。
 
ずっと前に、シャロームは、苦し紛れに、偽善も罪だから、悔い改めなくても赦される、などと言っていました。偽善は、故意に欺くことで、人を騙す悪意の行為です。それを憐れんで信仰など成り立つわけはないのです。
 
今、神の代行人のように、人を裁こうとしているのは、私を問いただして、問い詰めようとする、あなたシャロームに他なりません。まさに、前から言っていましたが、あなたシャロームは、現代のパリサイ人です。教条を振り回し、全く心に信仰を受け取っていないことが明らかです。
 
パウロは、元パリサイ人サウロ、そして、悔い改めて、使徒パウロとなった人です。
そこを「パウロもその一人でした」で、あとを書かない作為の愚かさ。
 
シャロームの卑怯と愚かが表れています。シャロームが、そういう人だと分かってからは、こういうのを見ても、バカか、と思うだけです。
 
シャロームは、体質としては現代のパリサイ人、そして、罪を認めず、悔い改めず、自家製の妄想教条のゴタクを並べている裸の王様です。
 

しかし、感謝すべきかななのです。
shalom!

 
今までの、そして、今回のコメントから、申し上げます。
 
あなたシャロームの感謝と讃美は、厠(かわや)に堕ちてゆきます。
 
あなたシャロームの説教を聞くことは、信仰者にとって、大きな災いです。
 
今回、私が書いたようなことは、今までの8年間に、何度も言ってきたことです。そして、シャロームの弁明も反論も成り立ったことはないのです。にもかかわらず、また、性懲りもなく書いてくるのは、嫌がらせ以外の何物でもないでしょう。決して誰もシャロームに関わらないでください。
 
 
(2019年11月11日、同日一部修正)
(2019年11月12日、一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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