謙譲の裏側
 
   『神は妄想か?』マクグラス
   http://mn266z.blog.jp/archives/21988124.html
   楽山日記(仮)2019年11月09日
 
 
神を否定する人を批判する人のことを書いて、そののち、後半では、やんわり逆説をもって、神を否定している楽山です。相変わらず卑怯な筆致です。シャロームが、私のブログにコメントを書いているときに、私が、それを批判している間に、楽山は、よく記事を書いてくるようです。
 
楽山は(仮)の付いたもう一つのブログで、有名人らしい引用元のキリスト教批判に対する批判の本の作者を利用して、それを、ボンヤリ言語で、ちょろっと支持して、ちょろっと弁護して、ボンヤリ言語で、結局は、キリスト教とキリスト信仰に対して、いちゃもんを付けてくるのです。こういう筆致が、前からの特徴です。
 
しかし、その疑惑は、今までも楽山が書いてきたような、幼稚で、辻褄だけを追い、聖書を、恐らくどんな書物も文章も、心で読むことのできない者の宿命を表しています。誰にでも、普通にあるところの良心や共感性がないために、辻褄合わせでしか読めない楽山の体質が表れているのです。
 

本書は、ドーキンスの『神は妄想である』を批判するものだけど、以前何回かチラ見し、今度また少し読んでみた。はじめて見たときは、ドーキンスの「神は妄想であって、存在しない」という主張に、真っ向から勝負を挑み、「神は妄想ではなく、存在する」と反論しているのにちがいないと期待していたので、ドーキンス批判に終始していて、神の存在証明を目指しているようではないと分かったときは肩透かしされた感じがしてズッコケてしまったのではあるが、ドーキンス批判の書と割り切って読めばけっこうおもしろい本である。

 
妄想と言うのは、1.非合理であること、2.訂正不能であること、3.異常な確信に満ちていること、という3つが必要ですが、
1については、神の存在は、非合理ではなく、証明不可能であること、
2については、信仰者は、この地上に置いて訂正不能であってはならず成長可能を期するべきこと、
3については、2ゆえに、信仰者は、不明のことを言葉だけ鵜呑みにして、いるんです!と確信することではなく、人間として受け取れることを支えとして生きること、
ということをもって、妄想ではないことを、私は主張します。
 
神は、人間による証明や、人間の理屈の対象になることはありません。しかし、聖書には、人間が共感をもって受け取れることがいっぱい書いてあります。それを、受け取ることが信仰です。
 
ただ、この文章によって、完全に否定される信仰?があります。それは、他でもなく、楽山のお仲間であるシャロームの信仰です。シャロームは、非合理を平気で唱え、しかもその超常と神聖を自らに当てはめています。異常な確信に満ちて、訂正不能で、人の言うことを、あざ笑い、まるで聞かないカルトの典型的思想というより妄想となっています。楽山のこの文章は、図らずも、皮肉なことに、他でもなく、楽山の友だちであるシャロームを完全否定しているのであります。
 

まず著者は、ドーキンスは自説に好都合なことは針小棒大に拡大したり、特殊例を一般化して吹聴していながら、都合の悪いことは黙殺し、神学の理解は浅く、宗教に無知であるにもかかわらず断言、決めつけが多く、科学者であるはずなのに科学的な思考を捨て去っていてあまりに独善的にすぎるなどと、具体的な証拠と論理を示しつつ、ドーキンスの難点を指摘していてなかなかの説得力がある。

 
ドーキンスの欠点を言っているようですが、総て、シャロームに当てはまることです。楽山は、お仲間シャロームを全否定しています。
 
針小棒大に拡大:シャロームの誇大妄想と奔逸、だらだら書き。
 
特殊例を一般化して吹聴:自分の病気が治ったことを神?の恵みといって、以後、神?がずっと守ってくれると信じているようです。どんでん返しの奇跡で救われると表現していました。シャロームの信仰には、戒める神も、懲らしめる神も、いません。
 
都合の悪いことは黙殺:シャロームはコメントを都合の良いように賛同は承認し、批判は削除したり承認せずにコメント欄をとても醜いものにしたりなど、全く恣意的に捜査してきました。過去にはコメント欄を閉鎖していた時期もあります。コメント欄は、シャロームにとって、自分を飾り自分を讃美するためのツールに過ぎなかったのです。
 
神学の理解は浅く、宗教に無知:シャロームは、聖書を読んでいないと思います。読んでいても理解しておらず、自家製の解釈で妄想に利用しているだけであることが、今までずっと表れてきました。
 
断言、決めつけ:シャロームは根拠に神の啓示と聖霊を上げて、議論の対象ではないと言っています。つまり、何も議論する気はなく、彼の中だけで、決めつけて断言してきたのです。
 
科学的な思考を捨て去っていてあまりに独善的:以上より、独善的なカルトであるのがシャロームです。
 
全条件に合致するシャロームが、楽山によって、ボロクソに、完全否定されました。シャロームのカルト性が、楽山によって、明らかとなっています。
 

さらにはドーキンスはあまりにも極端で攻撃的で独断的な言辞が多い無神論原理主義者のようになっているために、本来ならドーキンスを支持するだろう無神論者である科学者たちが、最も熱心な批判者になっている例が少なくないとか、ドーキンス批判の急先鋒になっているはずの知的設計者運動を支持し反進化論の立場にある者が、ドーキンスのおかげで無神論に距離をおく者が増えるのを期待できると皮肉交じりの感謝の言葉を述べている例を挙げたりもしている。

 
私は、反進化論者ではありません。また、進化論者でもありません。私は、「・・論」や「・・学」は、参考にはしても、メインには語りません。私は、心で共感できる信仰を語ることを求める目標としています。
 
このように、ドーキンスと同様に、シャロームは、お仲間からも疎外される運命を持っていることを、楽山が明らかにしています。
 

いやはや、これではドーキンスも形無しである。ただ著者の主張を読んでいると、著者のイエス観、キリスト教理解にはやや首を傾げてしまうところも無くもない。たとえば著者は「ナザレのイエスは誰に対しても暴力を振るわなかった。彼は暴力を受ける対象にはなったが、暴力を行う行為者にはならなかった」(p.96)と書いているけれども、聖書ではそのようには語っておらず、イエスは神殿で屋台などを打ち壊し、商人らを追い出したとしているだろう。これは明らかな暴力であり、実力行使だと思うのだが、著者はそうではないという解釈なのだろうか。

 
暴力:(ネットより)
乱暴にふるう力。無法な力。
https://www.google.co.jp/search?sxsrf=ACYBGNQkw4Y7xsQpkyVjuvpeQ3gA5M5T5w%3A1573461012800&ei=FBzJXc2-MJTU-QbR8bjoBA&q=%E6%9A%B4%E5%8A%9B&oq=%E6%9A%B4%E5%8A%9B&gs_l=psy-ab.3..35i39j0i4i37l7.8529.9699..10281...0.2..0.132.832.0j7......0....1..gws-wiz.......0i71j0i131j0j0i4i30j0i30j0i4i30i23j0i30i23j35i304i39j0i13.nU1O4tI4OrM&ved=0ahUKEwjNmPGF3-HlAhUUat4KHdE4Dk0Q4dUDCAo&uact=5#spf=1573461023671
他者の身体や財産などに対する物理的な破壊力をいう。ただし、心理的虐待やモラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B
 
つまり、暴力は、みだりに強制力を奮うことです。
 
まことに、以下に書いていることを読むと、楽山は、このような幼稚な誤解~曲解なのか、と呆れるところです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
21:12
それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
21:13
そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
 (マタイ21:12-13、新約聖書)
 
神殿の堕落を憂えてのことです。妄りでないことは明らかです。楽山は、恐らく、静かで動じない悟りの無表情な基督?を思い描いているのでしょうか。とんだピント外れであります。こういう情ないような、いちゃもんを言ってくるのが、楽山の特徴なのです。
 
キリストは、信じて寄る辺とする人にとって、神の子という神聖と、人として生きた人間性を、併せ持っている御方です。鋭い感性と豊かな感情をも持っておられたことが聖書には書かれています。だから、人々の不幸にも寄り添える御方です。両方が表れています。だから、怒っても、泣いても、それに基づく行動があっても、何ら不思議はないのです。
 
そして、この聖句は、キリストが、神殿をつかさどる者たちの恨みを買うことになる、という意味では、重要なのです。
 
形式だけの形式を、打ち崩す、という使命に沿っている、ということを、全く考えない楽山は、ひどい暴言者です。上のWikiに書いてあるように、言論における精神的暴力というものです。
 

またイエスは別のところでは、いちじくの木を呪って枯らしたり、母親に親孝行とは言えないような発言をしたり、その他にもかなり厳しい発言も少なくないし、こういったエピソードからするとイエスは非暴力主義者の側面はあるにしても、必ずしもそれだけの存在ではなく、もっと深みがあり、そう簡単に「〇〇はしなかった」「××と考えていた」というように決めつけることはできない存在だったように思えるが、著者はどのように考えているのだろうか。

 
人間的感情を併せ持っているキリストが、神の権威をもってイチジクの木を呪ってはいけないのでしょうか。イチジクの木を枯らしてはいけないのでしょうか。そのあと弟子たちに説教したことを知らないのでしょうか。また、厳しい発言は当然の使命であります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
12:46
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。 12:47それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
12:48
イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。 12:49そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50
天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
 (マタイ12-46、新約聖書)
 
地上の親族よりも、使命を重んじるキリストの発言と教えです。キリストが、楽山の基準に合わせる必要は、どこにもないのですが、楽山は、どういう意味かを知らないで、「母親に親孝行とは言えない」と言っています。楽山は、キリストに、楽山が分かるような小学校の先生が語るような道徳を求めているようです。あるいは、刷り込みのための、いちゃもんでしょうか、汚いと思います。
 
楽山は、何を、いちゃもん吹っ掛けているのでしょう。程度が低すぎます。ずっとそうです。
 
そして、楽山は、「もっと深みがあり、決めつけることは出来ない存在」と言っています。誰が、決めつけているのでしょう。また、決めつけと決めつけ、決めつけはいけないと決めつけている楽山なのです。まだ、この矛盾律に囚われているようです。それでも真摯な態度なら、もっとマシなことが言えるはずですが、楽山の言は、読むに堪えないことばかりでした。
 
これも楽山の特徴なのですが、語尾の、否定肯定以外の、書き方にこだわります。それで、毀滅化かどうかを判断するようです。間違っています。語尾ではなく、文脈、さらには、それまでの発言の流れを考えるべきです。
 
こういうこだわりは、楽山に顕著ですが、語尾を優しそうに書けば、優しさを伝えたと思い込むのでしょう。シャロームは丁寧語で侮辱してきます。やさしい言い方も、「殴られるより悪いことがある」というのは、三島由紀夫原作の映画「午後の曳航」の中の台詞ですが、これを、楽山とシャロームには、しばしば、というより、毎回、感じています。実に気持ち悪いです。
 

著者の立場からすると護教的になってしまうのは致し方ないとしても、この辺りを読むと、自説に不都合なことは無視し、都合の良いことは膨らまして語るというのはドーキンスに限ったことではなく、著者についても言えないことでもないような気がしないでもない。

 
前の、シャロームの言である、悔い改めは神が与える、つまり、だから今は悔い改めないで待つ、みたいなことでしょうが、悔い改めないことを指摘されたことに対して思い付きで作った詭弁です。悔い改めは、先ず、信仰の入り口ですることです。悔い改めないのは、信仰を理解しておらず、キリスト者ではない証拠なのです。
 
そういう、悔い改めないことの言い逃れの詭弁を、楽山は、詭弁と見抜けないのか、好都合だと思ったのか、考えずに、お仲間だから、賛同したのです。これこそ、不都合を無視して、好都合を膨らます、という楽山の行為なのです。自分で書いて、書いたものに斬られる、という、詭弁家の出口のない地獄への洞穴へ、楽山は入っているようです。
 

というか、こういうことがまるで当てはまらない人なんていないのではなかろうか。他人を批判したら、自己紹介になってしまったというのはそう珍しくないことではあるし、自分も気をつけなくてはならないことではあるけど

 
みんな罪深く、みんな同罪、という、理屈を、ここで持ってきた楽山ですが、上のほうに楽山が引用した「特殊例を一般化して吹聴」しています。みんな罪深いが、特定の場合の特定の罪については、個別にしか語れないわけです。
 
誰に向かって言っているのでしょう。他者一般を罪に定め、自分については正当化してやわらげるために、みんな同罪というほうに持っていきたいのでしょう。共感の押し売りとも言えるでしょう。
 
「他人を批判したら、自己紹介になってしまった」が、私への当てつけだとしたら、ボンヤリ言語が、どれほど強い悪意によって語られるかという証拠でしょう。前から、こういう婉曲的な言い方が目立ってきたことが、仮に、楽山が、自分のことですよ、という言い訳をしたとしても、信用できない理由です。既に、楽山の信頼度は、地に堕ちています。
 
自分も気をつけなくてはならない、と言うなら、キリスト教については書かないことです。前にも、同じような謙譲言葉を書いていますが、この記事で、こういう無遠慮な有り様なら、今までの謙譲は嘘だったということになるでしょう。
 
「自分も気をつけなくてはならないことではあるけど」・・取って付けたような、わざと曖昧にしか言わない、ボンヤリ言語、言葉だけ柔和に見せかける楽山、前からです。
 
 
私は、はっきり批判しますが、決めつけたわけではありませんし、修正可能です。しかし、決めつけだったということを分からせるような、修正する気にさせるような、新しい理解による弁明や反論を、今まで、楽山もシャロームも、何一つして返してこなかったということです。返ってくるのは、いつも、それこそ妄想や決めつけの、いちゃもんだけなのです。
 
 
(2019年11月12日)
 
 
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