無力を憐れむ?
 
   『侍』遠藤周作 2019-11-15 
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12545598721.html
   楽山日記(a)
 
 
楽山は、本を読んだことを披露したいのでしょう。キリストがどうだったかについては、決して興味本位で決めつけてはいけないところですが、楽山は、無力なキリストを描きたいようです。辻褄だけを追って否定したり、小説を持ち出して無力なキリストがいいと言ったり、キリスト者でもないのに、キリストを云々する批評家気取りをやめない楽山です。
 

*分身
ここのところ、遠藤周作の『侍』を読んでたのだが、昨日とうとう読み終えた。あらすじは、侍らが主君の命を受けて欧州に行くというものだけども、正直、序盤は少し退屈したが、中盤に入って元修道士が登場した辺りからおもしろくなった。著者の作品は、「おバカさん」「わたしが・棄てた・女」「深い河」など、イエスの分身らしき人物が登場するものが多いけれども、どうやら本作の元修道士もそうらしい。
著者は「イエスの生涯」において、イエスは現実的には無力であったが、虐げられた者に寄り添い、ともに苦しみ悲しみつつ同伴者として生きたというイエス観を述べているが、本作に登場する元修道士も無力であり、教会での生活から離れ、貧しく苦しんでいるインディオとともにあることを選択したという点では、著者のイエス観にピタリと重なる。

 
キリストの同伴は、キリスト信仰の大切な恵みです。キリストの同伴など、欲しいとも何とも思ってない楽山が、何故、キリストについて物を言うのでしょう。今までの経過からは、クリスチャン芝居や、他者の言を借りて神を否定してきた楽山は、キリストに憐れみでもかけようというのでしょうか。
 
言論の責任を負わず、好きなように、キリストとキリスト信仰を対象物としてモノ化してきた楽山とシャロームは、自分がキリストや神を批判しておいて、自分が批判されることを極度に嫌います。そういう自己中の人に、キリストとキリスト信仰は憐れまれる必要も好まれる必要もないのです。
 

また本作では、これ以外にもイエスと関連させた描写が散見される。たとえば、長谷倉らは旅先で誰からも敬遠され、孤立し、枕するところもなくなったり、宣教師べラスコはいくぶん野心まじりではあるものの愛と信仰に基づく正論を述べるも、枢機卿の語る組織の論理を前に無力であったり、長谷倉もべラスコも権力者たちの政治的な駆け引きによって不条理な扱いを受け、罪無くして裁かれることになったりしている。
自分の知識では、本作とイエスとの関連はこのくらいしか見つけられないのではあるが、おそらくは自分より知識が豊富な人であればもっとたくさん見付けられるだろう。
遠藤周作の作品はまだ少ししか読んでいないけれども、どうもこの分で行くと、その作品を開いてみるたびにイエスの分身と出会うことになりそうだ。著者は生涯を通じて自分の信じるイエスについて書き続けた作家だったのだろうな。

 
キリストを暗示するような小説の登場人物からは、作者の意図を感じることが必要ですが、キリストの分身と言い、キリストご自身ではなく、分身などと言ってキリストを云々するのは、いかにも、姑息な楽山らしいやり方です。文章は、おのれの鏡でもあります。
 
ただ、楽山が、キリストの神性を認めず、イエスという弱い人間として低く評価しても、信仰を持ち得ない者の意見ですから、神聖そのものを、讃えるのではなく低く評価したい楽山、という印象しか残らないでしょう。そのほうが、一般には受けが良いと考えたのでしょうか。
 
信仰というものを、まるで知らないくせに、一段高いところから見下ろすかのように、信じてもいないキリストをあれこれと批評する見苦しい自己顕示欲は、今に始まったことではないのです。楽山が何を言っても、神聖を見下ろす立場など、どこにも存在しません。
 

*もう一人の分身
分身と言えば、本作の長谷倉は著者の分身のように造形されている。著者は幼い頃に、キリスト信者となった母親によって、洗礼を受けさせられたあと、紆余曲折を経て信仰を持つようになったらしいけれども、長谷倉もこれと同じく、役目を果たすためにやむなく形だけ洗礼を受けることにしたのではあるが、その後イエスについて考えないではいられない状況になって行く。
著者によれば、どのような形であれどもイエスと一度でも関係したら、もう二度とイエスを忘れることはできず、そのことを考えないではいられなくなって行くものだそうだけども、長谷倉もそうらしい。

 
つまり、一度も、キリストに関心があるような、弱さや罪深さや低さの立場を認めたことがなく、社交の世辞のように妄想カルトのシャロームに仲間として無条件で賛同したり、クリスチャン芝居をしたり、嘘だらけの文章を書いてきた偽善趣味の者には、決して、さわれもしない、かすることさえないのが、キリスト信仰です。
 
しかし、楽山は、自分は知っているという自尊の闇から、今日も、空しく、ちょうど良さそうなことを書いて、盲目の自尊を満足させるのでしょうか。
 
信仰は有無であって、軽重もなく、ちょうど良いスタンスもありません。信仰はインテリジェンスでもなく、知的遊戯でもありません。知らないなら、知らない自分を書くべきところを、どうしても、知っている、ということにしないと気が済まない楽山のようです。
 

*イエス観
著者のイエス観について、上で少し書いたけれども、作中では長谷倉と元修道士の問答という形で、もっと詳しく書いてある。たとえば長谷倉は磔にされたイエス像について、「あのような、みすぼらしい、みじめな男をなぜ敬うことができる。なぜあの痩せた醜い男を拝むことができる。それが俺にはようわからぬが……」と語り、これに対して元修道士は自分も昔は同じように考えたが、「今は、あの方がこの現世で誰よりも、みすぼらしゅう生きられたゆえに、信じることができます。あの方が醜く痩せこけたお方だからでございます。あの方はこの世の哀しみをあまりに知ってしまわれた。人間の嘆きや苦患に眼をつぶることができなかった。それゆえにあの方はあのように痩せて醜くなられた。もしあの方が我らの手も届かぬほど、けだかく、強く、生きられたなら、このような気持ちにはなれなかったでございましょう」と答えている。

 
みすぼらしい、みじめな、やせた、みにくい、という軽蔑言葉を、平気で使う楽山の意図は、キリストからの救いに結び付く共感も洞察力も書くことが出来ず、使命ゆえに権威あるものとして語ったことも無視して、今まで同様、おとしめに専念しています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)7:29
それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
 (マタイ7:29、新約聖書)
 

「あの方は、生涯、みじめであられたゆえ、みじめな者の心を承知されておられます。あの方はみすぼらしく死なれたゆえ、みすぼらしく死ぬ者の哀しみも存じておられます。あの方は決して強くもなかった。美しくもなかった」とも言う。

 
遠藤周作は、キリストの奇跡を否定する傾向が、少なくとも、ある時期、あったと思いますが、キリストの肉体や物に起こる奇跡は、あったか、なかったか、今の人間は証明も出来ないし知りようもありません。だから、否定することにも意味はありません。どちらを信じても、決めつけです。信じ込んだからといって、そういう奇跡は、少なくとも滅多に起こらないという現実があります。
 
またしても、楽山は、みじめであられた、みすぼらしく死なれた、うつくしくもなかった、という言葉で、逆説的に高めたふうに装いながら、実は、今までと同様、逆の逆によって、おとしめているのでしょう。
 
今までの言論の経過は、その後の解釈の方向を規定する必然があるということです。楽山が、褒めることにも、けなすことにも、信頼性はないのです。
 
相変わらず、自分で責任を負いたくないために、他者の文章をもって、当ててくる気持ちの悪さは、経過を無視して、そのとき思いつくことを書くだけという筆致に、楽山もシャロームも表れているのです。このような者たちに、今後予想されることは、物や肉体の奇跡云々より、いちばん大事な魂の奇跡さえも知らずに過ごして去ってゆくことでしかないのです。
 

自分はキリスト教信者ではないので、

 
だったら、訳知り顔に評論家気取りで書くなどということは出来ないはずです。それを、何を言われても、しないではおれないところに、霊が分かるっぽいと言う虚妄の自尊に持ち上げられた我執が見え隠れしているのです。
 

こういう著者のイエス観が、教会からどのような評価を受けているのかはよく分からないのではあるが、著者に対してはキリスト教側からの批判があるという話は聞くので、著者のイエス観はキリスト信者全体が納得できるものではないのだろうとは思う。ただ自分には、こういう著者のイエス観はよく分かるし、共感するところもある。このことを本書を読み、再認識した次第である。

 
楽山に、イエス観が分かる、ということはないのです。分かったら、信じているはずだからです。
 
楽山に、共感するところがある、ということはないのです。共感したら、今までの記事は無かったはずです。大嘘のクリスチャン芝居など出来ないはずだからです。
 
いつも、ちょうどよいと思って、嘘をあつらえる楽山は、自分の意見を修正することもなく、その場で、見繕ったことを書いて、インテリぶって、自尊を満足させているだけだと思います。そのような者の意見を、決して真に受けてはいけません。
 

*ペトロの否認とイエス
ちなみに自分は、上で語られているイエスからは、ペトロの否認の時のイエスを何となしに連想する。ペトロがイエスのことは知らないと三度繰り返したあとで、鶏がなき、「主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:61)という場面である。この時のイエスの目は、人のみじめさも、かなしさも、すべて承知したものであり、やさしく、さみしい目であり、それだからこそペトロも泣かないではいられなかったのではないかと…。

 
キリストの優しさと眼差しのことを、楽山が言ったのなら、気色の悪いことです。何故なら、楽山は、ボンヤリ言語と私が名付けたように、真摯に語るということが、今までなかったからです。楽山が、何故、嫌いな共感のことを書き、ペテロが泣いたことを解説するのでしょう。
 
そもそも、なぜ、信じてもいないキリストのことを執拗に書くのでしょう。知ったかぶりで揶揄したいだけでしょう。本当は、信仰より、自分の知性を自慢したい、という、欲望が、今までの記事の高慢さに表れてきたのです。それを、宗教が分かるっぽい?記事にしているだけだと思います。
 
キリストは、権威を持っていても、それを振り回して従わせるような人ではなかったということであり、キリストの共感の表れでしょう。
 
ペテロは、キリストを裏切ったことを悔いて泣いたのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:33
するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。
26:34
イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
26:35
ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
 (マタイ26:33-35、新約聖書)
 
ということを言っていたからでしょう。つまり、他の弟子たちも、皆、裏切ったのです。
 

福音書のイエスは、やたらと厳しすぎるのではないかと感じられるときと、限りなく優しく、さらには、もの悲しく感じられるときもあるけれども、自分はどうも後者のイエスを想像すると堪らなく切ない心持ちになるようで、それだから遠藤周作のイエスに共感してしまうのだろうと思う。

 
権威を持って語るキリストと、共感するキリストが、同一であってはいけないでしょうか。楽山の、頭と辻褄だけの考え方では、権威と、哀れみ深さは、別でないと気が済まず、その狭い了見だけで、云々するしかないのでしょう。
 
救い主イエス・キリストを信じる者は、ああでもないこうでもない・・ではなく、キリストを必要とするから信じているのです。キリストを必要としない者が語っても何の参考にもならないのに、上から見下ろして分かるっぽい?楽山は、自慢をしないではおれないのでしょう。
 
切ない心持ちになる、というのは、そのまま、真に受けてはいけないと思います。今までのような、嫌らしい当てつけや辻褄合わせや引用で、キリストも神も否定してきたことと矛盾するような、今さら、心があるような書き方が通用すると思っていることが、楽山の、真実と現実のセンスからの、白々しい的外れなのです。
 
信頼を失った者は、狼と少年、というのを覚悟しなければなりません。
それが偽善に対する宿命的な報いです。
 
 
(2019年11月17日)
 
 
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