被害的・他罰的(3)
 
   st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ)
   2019-11-21
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12547467881.html
   楽山日記(a)より抜粋
 
 
楽山は、すでに書いて私が批判した記事に、追記して、よほど私を悪者にしたいようです。それに、相変わらず、批判と悪口の区別がつかないようです。
 
私は、罪深い人間ですが、楽山は、罪を隠して、人を罪に誘導する偽善者です。
 
今回、最悪に近いです。悪意がそのまま出ています。
こういう人をうっかり信頼して引っかかっていると人生を失うでしょう。
 
(楽山)

*動機(追記 2019.11.23)
  ちなみに今回の記事を書こうと思ったのは、下のやり取りを見たから
 だ。shalomさんは、vさんはstさんの攻撃で深く傷つけられたと語ってる。

 
シャロームは、いつも、余裕綽々な様子で、びくともしないという風情を見せて、書いてきます。それは、こちらの言うことを、完全に無視するという不感不応の凝り固まった自尊があるからです。このシャロームの自尊で、関わる人を亡者に変えてゆくのでしょう。
 
(シャローム)

[省略]
vさんは神学者、哲学者として福音を土台として人間学的な聖書理解をしようとしておられました。イエスの死とよみがえり、聖霊信仰もその根底にありました。そのことで、あなたの激しい批判の的にされ、中傷され、人格否定をされ苦しまれたのでしょう。
あなたは謝罪したようなコメントもされていたようですが、
あなたの姿勢はその時から一貫して変わっていないようですね。
 思い当たるのではありませんか?
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4173311.html#comments

 
すでに書いたことは、私は絶交したのだから謝罪していないこと、Vさんは、シャロームの影響下から逃れられなかったこと、そして、私のコメントを隠して、シャロームに調子合わせの受容をしてしまったこと、そのことで、私は、Vさんと絶交していること、などです。シャロームになびけば、そういう奴隷のような人になってしまうのです。それを、シャロームは、私のせいにしているわけです。シャロームは、心の底まで腐った男。そのシャロームの仲間が、楽山であります。
 
(楽山)

これに対して、stさんは、それはshalomが原因だ、shalomは何でも人のせいにするといいつつ、すべてをshalomさんのせいにしてる。vさんについても、shalomさんの味方をしたから批判したとか何とかいって、vさんに落ち度があったからだとしてる。

 
Vさんには、確かに落ち度があったのです。しかし、ここでのことには関係ありません。
 
なぜ、ここに、Vさんが出てくる?・・シャロームの言うことを鵜呑みにしたに過ぎない。一連のここでの批判には無関係なVさんという他者を巻き込むことに罪悪感を全く感じない楽山です。
 
怖いことです。こういう書き方をするんです。良心がない証拠です。相当の勇気と覚悟が必要だと再認識します。
 
(楽山)

自分も言い過ぎたようで申し訳ないことをしたという謝罪反省の言葉は見当たらない。これには驚き、あきれずにはいられないし、これからも同じ事を繰り返すんだろうなと思わずにはいられない。だからこの記事を書くことにしたわけである。将来、stさんに標的にされ、粘着攻撃されて難渋してる人が、この記事を見つけて、いくらかでも楽になってくれたらうれしい。

 
訂正不能に自己中な者に対して批判するときに「自分も言い過ぎたようで申し訳ないことをしたという謝罪反省の言葉」などと書くようになったら、私は、おしまいだと思っています。
 
ストレートに書かず、デマをもとに決めつけて、嫌がらせばかりで粘着攻撃しているのは楽山のほうです。私は、表れている不正から、それを指摘して批判しています。彼ら易坊類に対して、言い過ぎました、などと言うことはないのです。もし仮に権力を持てば、人間を、社会を、国を、滅ぼすような、邪悪な精神性を持っている者たちです。
 
いくつか前の記事で書いたことですが、
シャロームの「罪はく改めなくても赦されるから気にしなくていい」が、キリスト教およびキリスト信仰に反していて、それこそ真逆であること、および、この信条で生きてゆくなら社会悪になる自己中心であること、つまり、成り立たないことは、一般教養としての知識があれば、分かるはずです。・・(A)
楽山は、それが分からず、シャロームのゴタクですっきり解決したなどと言い、シャロームの味方をしたのだから、その時点で、二人に、常識がない、キリスト教を知らない、ということは、既に、確定しているわけです。それを、訂正せずに、後で何を加えても、いくら芝居をしても、無駄なのです。楽山は、シャロームの仲間、キリストを殺す側の者、つまり、反キリストです。・・(B)
 
つまり、はっきりした根拠があるから、批判しています。AとBだけではないですが、大きな根拠ではあります。
 
楽山の、大嘘と敵意と悪意が、明らかになっています。だんだん悪性度が増し、凶悪さが加速されていることが、筆致に表れています。
 
一貫して、楽山は、反省していません。というより、自己愛性人格障害か何かのために、反省という心の機能を持っていないのです。今後は、シャロームと同様、サイコパス相当として考えてゆかねばならないでしょう。
 
反省しない人間は、訂正不能の自己愛から、逆に、こちらが無反省だと決めつけてきます。互いに、無反省を当てて、水掛け論に持ってゆくのが狙いでしょう。しかし、上に書いたAとBからも、楽山が、教養も、知識も、常識も、信仰も、持っていないことは明らかであります。
 
楽山が、易坊やシャロームの、仲間か友人か親族か、あるいは、成りすましで意図的に筆致を変えたキャラなのか、今のところ、不明ですが、AとBなどより、彼ら易坊類には、弁明の余地はありません。
 
楽山は、本格的な罵りモードに入っています。AとBは特に重要です。つまり、楽山とシャロームの易坊類に、反省を求めること自体が無駄なのでしょう。彼らに、やさしい人だと思いますよとか言って、下手に関わらないでください。彼らを裁くのは、神ご自身の運びに任せるしかないのかもしれません。人に必要なのは、たかだか、おかしいことを、おかしいと言う勇気です。
 
楽山「いくらかでも楽になってくれたらうれしい」・・嘘です。本気でそう思っているなら、今すぐ、いかなる記事も書くことをやめるべきです。今は、それしかありません。粘着攻撃は、今、楽山がしていることです。楽山は、批判と攻撃の区別も出来ないのです。
 
これから楽山は、シャロームと同じように、息を吐くように嘘を吐いてくるでしょう。偽善者の成り行きは、目覚めてから眠るまで、そして、死ぬまで、嘘で捏造してゆくしかありません。そして、さらに、嘘と詭弁だらけになって、信仰とも希望とも愛とも、反する破局に、自ら向かってゆくのです。
 
ただ、神の前に、神の見ているところで、精いっぱいの正直を示し得る信仰者なら、人の前でも、この記事に書いたような恐ろしい人格破壊の嘘と欺瞞に走ることはなかったのです。
 
神は、人間が、自由意志をもって、ご自身のほうを向くように導かれます。神は、そのために、人をロボットのように従順な者としてではなく、自由意志によって信仰の道を選ぶことを願っておられるのだろうと思います。
 
神に対しては、導きに反応する人と、反応しない者と、あざ笑う者がいます。
 
何故、楽山やシャロームや易坊という、総称して易坊類と言っていますが、そのような、偽善者が出来てしまうのか、私には、分かりません。彼らは、真実の代わりに嘘を食らい、信仰の代わりにカルト妄想を食らい、希望の代わりに野望を腹にため込み、愛の代わりに憎しみを育てて、命の伝道の代わりに命を食い尽くす欲望の自尊を養っています。
 
今までの経過から、こちらが丁寧に話して、易坊類が丁寧に返してきたとしても、彼らは、何も気にせず、何も残らず、何も成長しません。そして、罵りの材料以外は、忘れてゆきます。精神のブラックホールのように、彼らは、人の良心を呑みこんでゆきます。
 
易坊類の書く文章には、わざとらしい、白々しい、あざとい、うそ臭い、胡散臭い、独特の、詭弁臭と偽善臭があります。実感とは、かけ離れたところで、企みによって誘導と操りのための言葉を組み立てるからです。ドラマの感想も、日常のことも、感謝も、好意に返す言葉も、仕返しするときも、書けば、その臭みは腐った人間の悪臭として思慮深い人には分かるでしょう。
 
彼らは、嘘がばれることを、避けますが、恐れません。何故なら、全く道理の成り立たないところでも、嘘を吐くことが出来て、結果を無視することが出来て、忘れることが出来るからです。
 
信仰の危機は、このような易坊類からもたらされると思います。何故なら、彼らの行動パターンは、逆らう者は許さないという独裁と酷似しているからです。今は悪口で攻めてきますが、もっとひどくなる可能性があります。彼らについて、物騒なことを言っていない、ふつうに見える、などと安心しないでください。それは、芝居です。
 
そういう柔らか返事は、相手が自分の脅威でないときに返され、そうでないときには、つまり、真実に近づけば近づくほど、はぐらかし、無視、言い逃れ、言いがかり、皮肉、当てつけ、詭弁、妄想豪語、というふうに、エスカレートするでしょう。その先に、どういう問題を起こすかは、彼らが、どれほど、具体的な力を持つかで決まります。
 
サイコパス相当の易坊類のような人は、この世界に、いっぱいいると思います。批判すれば、同じ批判を返し、前もって、言われそうなことを相手に当てることもあります。彼らに賛同すれば、気色の悪いほど飾った世辞を重ねて返してくるでしょう。餌を蒔いているのです。
 
楽山の世辞と言えば、「元気になれる」「もりもり力が湧いてくる」「自信が持てて」「他人のことも大切にしたくなる」「素敵なお話」「どえらいツボ」「リアル」などを、最近、書いてきました。
 
くじけることのない悪意と敵意による作為は、人間の尊い命から、かけ離れたところに、幻の自尊の世界と自分を同一化しているからでしょう。つまり、自分に舞い上がっているのです。
 
愛とか思いやりとかは、人を操るための言葉として、彼らに存在しているだけであって、本体がどこにもないので、こう言えば好感度を得るために、戦略のように身につけて覚えているだけだから、褒め言葉が大袈裟で、わざとらしく演技的で、しまりがなくなるということです。
 
彼ら楽山やシャロームなどの易坊類は反省をしません。代わりに次はこうしようという作戦の練り直しをすることで、取り入ってくるのです。人の心の隙間に。
 

*反省(追記 2019.11.24)
今さらながらに気づいたが、自分はまた同じ失敗を繰り返したようだ。上に述べた通り、今回の記事は、将来またvさんのような被害者が出ないように注意喚起したり、もし不幸にして被害者が出てしまったらその手助けになればと思って書いたわけだが、よく考えてみれば自分は情に流され、取り越し苦労をし、要らぬことをしてしまったかもしれぬ。

 
楽山は、稿を改めないで、先頭ではない記事の末尾に追記しています。
先頭に書かず、隠すことで自己満足したいのでしょうか。問題にしていないから・・とでも言いたいのでしょうか。多くは書けないからでしょうか。そっと、読む人に、読んでも知らないうちに、私について、悪い印象を与えたいのでしょうか。
 
楽山のブログには、ときに、読む人を無視しているかのような長い記事があります。段落分けをせずに、さらに、ぎっちり文字を書いた画像を出してきたときもあります。テキストのように簡単にコピペで引用して批判の題材にされるのを防ぐためかもしれません。今回の批判対象記事も相当長くなりました。
 
執拗に稿を重ねながら、読者を侮っている感じです。可能な見やすさを考えていない、褒めてくれる人以外に用はない、という、自己中心の自己顕示欲が表れています。
 
取り越し苦労ではなく、悪意による罵りのネタに使っているのです。
それらしくなってきました。
 
楽山のこの記事は、反省ではありません。大もとの自分の非を認めていないのだから、またしても詭弁であります。
 
楽山は、こともあろうに、人を思いやり、よかれと思うことを、やめるのかもしれぬ、と言っているようです。人を思いやることが、取り越し苦労で、要らぬことだと言っているようです。
 
楽山の愚行は、人を思いやるふりをして愚弄してくることです。そして、Vさんが私の犠牲者だと、今回、はっきり決めつけることで、嘘吐きと騙し屋の正体をあらわにしています。
 
音信がないので詳細不明ですが、Vさんは、シャロームに相づちを打つことで、シャロームの犠牲になったのかもしれません。もしそうだとすれば、Vさんは、楽山やシャロームなどの易坊類ではないのかもしれません。私は、絶交してからは、関わりはありません。
 

こう言っては何だがstさんのヤバさ、おかしさはブログを見れば、誰だってすぐ分かることだし、仮に分からなくてもじきに「あれ?」と気づくだろう。いちいち注意喚起するまでもないことなのだ。自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。

 
楽山の情とは、こういうものです。つまり、はかりごとの中で、反省に見せかけ、情があるかのように見せかけることです。またしても、情ではなく、底知れぬ作為の災いの有り様を、楽山は見せているのです。
 
楽山が、情に流されると、悪意がむき出しになるということ。つまり、情に流されないと、悪意を隠すということでしょう。
 
あらゆる救いを拒み、神の敵となってゆく者の定めのように、まるで、罪悪感がない、ということを、自分を正常な方向に改めることなく無視と鈍麻の境地に沈没することで、改めて?楽山は自分で証明しているのです。
 
どう改めねば・・と言っているのでしょう。もっと不感不応になるというのでしょうか。もっと嘘を吐こうと言っているのでしょうか。身の毛が弥立ちます。修正不能の恐ろしさ。
 

でも今回の失敗で、アドラー心理学の「課題の分離」の価値を再確認できたのはよかった。自分の理解だと、この考え方は、自分の努力で変えられるもの、変えられないものを見分けて、変えられるものに優先的に取り組もうというものだけど、ついつい変えられないものに手を出してしまい時間や労力を無駄にしてしまう自分にとってはこれは本当に役立つ方法論だ。

 
やはり、以前の記事ではアドラー教に不満を述べていたのに、アドラー教から離れるどころか、再確認だそうです。役に立つ方法論だそうです。結局、楽山は、小細工の言葉で逃げ切ろうとして、柔和を装い、また、必要だと思って、再確認と言っているのは、宗教を道具としか考えていない証拠です。
 
しかし、楽山の悪意は、楽山の課題です。重要なことが明らかになっています。自己中の人は、ますます、アドラー教を自己中に向かわせる。何故なら、自分の課題について、自己中の方向にしか修正できないからです。
 
つまり、アドラー教によって、自己中は、ますます、自己中になるのです。
 

ついでに書くと、以下の考え方も、余計なことに手を出してしまいがちな自分にはどうしても必要なものだ。
 「人の心は変えられない。変えられるのは自分の心だけだ」
 「他人の事をとやかく言う前に、まず自分の事をしなさい」
 「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ(ニーバー)」
 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:3)」
 「修身斉家治国平天下」

 
自分の考え方だけは、修正不能に正当化し続ける楽山なのです。このように、修正と学習の出来ない自我は、サイコパスの特徴である無反省と絶対自己正当化になります。
 
ここで、また、自分を悪と偽善の圏外に置いて、聖句を、相手にだけ向ける、という、楽山の偽善が全開です。そうして、ますます、これからも、偽善一筋の決意でしょうか。
 
これらが、楽山やシャロームなどの易坊類が、「自分の目の中の丸太に気づかない」理由でしょう。批判者の目ばかりをとやかく言うのも、そのためでしょう。
 
心の根っこが腐った者は、このように、不敵な、そして、醜いことを、平気で、行ない、かつ、何も気づかない固定した観念の世界に安住することを、余計なことに手を出さないこと、と言う自家製の道徳にしてしまうのです。ますます恥を知らなくなるでしょう。
 

やっぱり自分は、他人のことを心配するより先に、まずは自分づくりに専念しよう。といっても、またすぐに情に流され、自分のことより他人の事に手を出してしまうのだろうけれども、それでも自分づくりに専念しようという意識は常に忘れないようにしよう。

 
楽山は、自分も、他人も、破壊してゆくことに、何を指摘されても気づかない、というのが、絶対自己正当化である、という例示となっています。
 
他者との人間関係を無視して、自分づくりなど出来ません。だから、詭弁をまくしたてて、またしても破壊の種を蒔きながら、自他破壊の洞窟を歩んでいる楽山です。
 
楽山に本当の情はありません。今まで、楽山は、悲しみの情を表したことがないからです。オーバーなゲラゲラ笑いと、わざとらしい分かったふうのニヤニヤ笑顔と、反省に見せかけて騙そうとするエヘヘ笑いのイメージだけであり、それは、情ではなく、悪意と作為だからです。根底にあるのは、悲しみとは対極の、憎しみに他ならないのです。
 
楽山やシャロームなどの易坊類にあるのは、とても陰湿な怨念であります。それは、今、楽山において全開です。だから、このように、まわりくどい偽の理屈をこねて、途方もなく的を外した聖句の悪用までやってのけるのです。
 
(ネットより)
修身斉家治国平天下(読み)シュウシンセイカチコクヘイテンカ
デジタル大辞泉の解説
《「礼記」大学から》天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%AE%E8%BA%AB%E6%96%89%E5%AE%B6%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E4%B8%8B-526978
 
楽山ふうに言うと、楽山は天下を治めたいっぽいのでしょうか。
 
付け焼刃の知識で利用すると、自分を斬ることになるようです。昔の道徳である修身だけにしておけばよいものを、ナルシシストは、我が物顔を出さずにおれないのでしょう。
 
私も知識は付け焼刃で、検索を多用していますが、付け焼刃であることを承知で使っています。だから、引用して、読む人と同じ地平で物が言いたいのです。誰でも分かるように。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、のぼせたインテリ批評家気取りだから、無から有を作り出す気分で、いたるところで、いたるときに、大きな言葉を使ってしまうのでしょう。それが、今回は、楽山の文章に表れているということです。
 
隠れていたものが表れると、ここでは、隠していた自己愛が、のぼせ頭から表れると、とても、醜い、二目と見られない、という例です。上の格言だけでなく、引用した本文も、また、本音を隠して冷静に書いているつもりで、意識するしないに関わらず、空回りして、うっかりぽろっと自分の偏った見方を、漏らしてしまうのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)10:26
だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
 (マタイ10:26、新約聖書)
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、脆弱な精神を隠します。弱さを見せず、強さを誇ります。謙譲は言葉だけで、この記事でも自分の正当性の立場からしか物を言いません。だから、反省という言葉も空回りして、違和感となるのです。まことに、見苦しい有り様です。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、雑踏のようなものです。過ぎてしまえば、何も残らない、本人にさえ。特にシャロームの言は、すっかり忘れてしまうような無意味なものです。このような者たちに関わって、後には疲労感と空しさだけ、ということの無いように批判を書いています。
 
では私はというと、私も残りはしないでしょう。でも、人間の心で受け取れるものだけを書く、ということを努めているつもりです。楽山やシャロームなどの易坊類といっしょにされたくないという気持ちはあります。
 
楽山やシャロームなどの易坊類の目指すのは、誰かの受け売りか、デマか妄想か、でっち上げに過ぎないものですから、有意義な中身は皆無です。自己正当化のために書くと、そうなります。
 
 
ときに完全の理想を目指して努める今の歩みはあっても、完全である今の位置などは無いのが人間です。そこに、何よりも尊い人間らしさがあるからなのでしょう。
 
ですから、自分に欠点があることを自覚できる人も信仰者もいるでしょうから、私発信の言葉も交えているつもりです。また、前に書いたように、批判は、対象を悪い見本として提示することで、その対極に良いものを暗示しているので、それを表すことを忘れないようにしようと努めている途上です。
 
心貧しさの幸いは、不完全な罪人であるがゆえに、
完全なる神の前に、正直以外持ち得ないことです。
 
 
(2019年11月26日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事は載っていません)
 
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http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(更新、コメント不可、12月消える)
 
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(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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