神の与える益
 
 
シャロームという偽善者の最悪の実例を見てきたことから、
信仰というものを、よくよく考えてみる必要があります。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ3:28、新約聖書)
 
このことについて、シャロームは、次のように書いています。
 
「かつてはその弱さにつけ込まれ誘惑されて罪を犯していたのですが、しかし、信仰によってその弱さが神の愛と力があらわされる恵みの水路となるのです。神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方であると聖書に書かれているとおりです。」
 
シャロームは何をしてきたかと言うと、
1.罪と認めず、悔い改めをしない、という、キリスト信仰とは真逆な信条、
2.1を批判し、おかしいと指摘すると、悔い改めは神が与える(だから今はしない)などと言う言い訳。
3.さらには、人間の自由意志を、聖霊による自由意志とは違う、という詭弁。聖霊を知っているかのように、自分を神格化しているだけです。
4.おびただしい偽の解釈と、詭弁だけでなく、平気で嘘を吐く、でっち上げの作り話で、批判者をおとしめる、など、悪意だけが明らかになってきたのです。
いったいどこが、神によって益とされたと言うのでしょう。人にとって害となることだけなのです。
 
つまり、シャロームは、聖句の益ということを、自分に好都合の益だと思い込んでいるのです。だから、何を仕出かしても、神が与えた益だからありがたやと、反省しないのでしょう。
 
神が「万事を益となるようにしてくださる」とは、「ご計画に従って召された者たちと共に働いて」と書いてあるように、人と神の共同作業であり、信仰の恵みを受けて答える双方向であり、導きの願いと、行いと悔い改めの祈りの、信仰生活そのものなのです。
 
それを、曲解して、シャロームは、神が益としてくださったのだから、なんでも正しいと思い込んで、好きなように、自分の身勝手を通す理由にしているのです。
 
信仰には、勘違いしやすいことがあります。さらに妄想化したのがシャロームです。
 
救いは具体的な奇跡が起こること、恵みと益は自分の身勝手の実現、罪に死んだから無罪になった、神の平安と言って自らの無為と怠慢の安穏の正当化、二千年前の肉体の復活を根拠にして信仰の心に根拠を求めなくなる、聖霊、異言、預言などの異常体験、神は絶対だから信仰も絶対とばかり豪語して自らを絶対化する、自己正当化の絶対化、
等々は、おぞましき背教であり、シャロームは、このほとんどが当てはまるのです。
 
これらの悪い見本を、否定してゆくことで、望ましい信仰を、浮き彫りにすることが、ある程度、可能です。
 
1.神の与える恵みや益は、人にとって、いつも分かりやすいわけではなく、人の都合の良いものとも限らないこと。
2.物や肉体の奇跡は、少なくとも現代では、めったに起こっていないこと。
3.神の与える平安は、癒しであり、信仰という道の途上で、悲しみに対して与えられるものであり、信仰者が何時も味わえるようなお気楽な安穏の境地ではないこと。
4.信仰の根拠は、心の癒された体験と、キリストを忘れられない気持ちがあり、キリストの同伴を祈る気持ちであります。人間の良心と心から離れたところに信仰はありません。
5.聖霊体験や、異言や預言は、それが神からのものか、人の自己顕示欲によるものか、見分ける必要があり、さらに見分けるのは必ずしも容易くはなく、一般的には、神の意志と行為を決めつけてはいけないということが言えるのです。
6.神は絶対ですが、人は絶対ではない、ゆえに、人の信仰も絶対とは成りえません。
 
私たちの信仰は、赦し、癒し、慰め、導きを与えられるために、神に憐れまれることを求めることであり、それは、魂の奇跡として、人の心に与えられるものです。
 
祈りも悔い改めも、信仰生活も、そのためにあり、物や肉体の奇跡は、人の手に負えるものではなく、神に任されることであります。
 
絶対ではない人間は、絶対である神に対して、祈ることをもって双方向となり、信仰者となった後も、正直な祈りをもって神に仕え、神の民としての人生を送ることを唯一の信仰の目的としています。
 
 
 悪意による破壊:コメント欄
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4236059.html
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが、性懲りもなく、またコメントを書いてきました。
いつものように、あざといことです。
 

1. st5402さん お久しぶりです。
 2019年11月21日 09:20
「山本太郎は・・、船後さんと木村さんを国会に送り込んだのです。」
 「イエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです」
 送り込んだ、遣わされた、対応させたとみるのが自然だと思いますよ。書き方の不備だと思います。上の「わからい」も、よくあることですが、じっくり読み直してみてください。


おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です。
10数年前と相も変わらず、ご親切に、
文字や文章を修正、校正することがお上手ですね。
ありがとうございます!

 
わからないですか。本心で「お上手ですね。ありがとうございます!」と言う人は、「おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です」という皮肉は言わないんです。あなたシャロームの、軽蔑の笑いが表れています。
 
つまり、「おやおや」「いつまでもお疲れ様です」「お親切に」という皮肉の後に、褒めて、礼を言う、ということから、あなたの悪意の笑いがイメージされてしまうわけです。
 
いつまでも、執拗に、意地悪コメント書いてきているのは、あなたシャロームのほうです。
 
「おやおや」「いつまでもお疲れ様です」「お親切に」・・ずっとこんな調子で通ると思っているのが不感不応・学習不能の経過と結果なのでしょう。私が、あなたシャロームの褒め言葉を真に受けることはないと分かり切っているのに、また書いてくる。
 
あなたシャロームのコメントには中身がないから、考える材料にもならず、こちらは殆ど遊び感覚になっています。
 
書くたびに、恥ずかしいことになっていると、あなたシャロームだけが、気づかない。
 
 
  悪意という病:コメント欄(補足)
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4202269.html#comments
 
もう一度、3度目ですが、シャロームの発言を考えてみます。
 

山本太郎は自分は落選しながら、船後さんと木村さんを国会に送り込んだのです。山本太郎はカトリックですが、イエス・キリストを信じるクリスチャンのようです。まるで末期症状を呈している日本にイエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです。

 
分けて見ます。
 
1.>山本太郎は自分は落選しながら、船後さんと木村さんを国会に送り込んだ
2.>山本太郎はカトリックですが、イエス・キリストを信じるクリスチャンのようです
3.>イエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです
 
2が特に不可解でした。カトリックならクリスチャンのはずと思うので「ようです」の不可解は、
シャロームが、1の二人の議員さんをクリスチャンの「ようです」と喩えたということでしょう。
 
行為の主体が、1.山本太郎、2.山本太郎、3.イエス・キリスト。
行為の客体が、1.船越さんと木村さん、2.キリストを信じるクリスチャン、3.遣わされた人々。
という対応にしていると考えると、
 
2は、山本太郎はカトリックですが、議員の二人はまるでキリストを信じるクリスチャンであるかのよう。
3は、キリストによって、二人が遣わされたかのよう。
と考えると、
「ようです」は、行為の主体が3つ、好意の客体が3つ、この2つがそれぞれ同一であるかの「ようです」ということなんでしょうか。
コメントの遣り取りでは、シャロームが、早速、分からないのですか、と言ってきたのは、わざと分かりにくくして、引っ掛けるための罠だったかもしれない、ということを示唆しています。しかし、それは、そのまま、分かりやすく書くのではなく、罠として、分かりにくい書き方をする、あるいは、書き方がお粗末である、ということを示すことになります。
 
シャロームがどう考えたかにかかわらず、日本語の筋道としては、
「クリスチャンのようです」が仮想となり、「遣わされた人」も仮想として、二つの「ようです」が不自然だという問題も、いずれも、仮定の比喩表現となって、シャロームの言葉遣いの意図が、薄々見えてくる「ようです」。
 
シャロームが、いい加減な文脈を、推敲・修正せずに、書いてきたために、山本太郎をキリストに喩え、議員二人を遣わされた人に喩えたことが、無理があるために、分かりにくかったということでしょう。
 
文脈を理解した上で、なお、この比喩は、信仰上、無理があるということになります。シャロームが、誤解させるために、この文脈を作為したとすれば、かなり、あくどい煽動と刷り込みの詐欺師のわざであり、底知れないシャロームの悪意ということになります。
 
シャロームは、しばしば、人に問いかけ、人を試すような書き方をしてきました。彼が、習ったかもしれない牧師の影響があるのでしょうか。人を試す、ということは、自分は分かっていることを表します。そのことが、さらに、どうしようもなく、牧師としても、信仰者としても、資格のないシャロームの、あざとい見栄なのでしょう。
 
その欺瞞の姿こそ、シャロームの反信仰の証拠として空しさだけを表しており、この反面教師の偽キリスト者シャロームから、信仰者は、信仰において見栄を張ってはいけないことを学ぶだけです。シャロームの信仰?は、文章の上からも、箸にも棒にも掛からないほど、救いがたい醜さを露呈しています。
 
 
あなたシャロームの信仰は、あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という発言と訂正不能によって、全否定されています。誰にとっても、益にならず、害にしかならない、自己中の妄想です。
 
私の批判コメントに対して、あなたシャロームは、削除、コメント欄閉鎖、未承認としました。つまり、隠蔽し、無視しました。私はあなたシャロームの嫌がらせコメントに対して、いちいちレスして批判しています。この違いは明らかです。
 
私は、あなたシャロームが、実に白々しく嫌な丁寧語の書き方で、前と同じような嘘っぱちを、独り得々として、だらだら書いてきても、無視するのではなく、コメントの質が悪くても、あなたシャロームが下劣な悪意の表れでしかなくても、どんなに、つまらない、何の糧にもならないコメントでも、受け取ったのち、批判を書いて晒し、かつ、記事にしています。
 
そうする私の意図は、汚い言い方ですが、
これがクソです、ということを示すことで、クソでないものを大切にしたいからです。
 
私は、最初から捨てることで解決することなどないこと知っており、ゆえに、読んで、考えて、返して、保存して、記事にするのです。
 
あなたシャロームは、捨て去ることで、経過するので、捨て去ったものに気づかず、いつか、捨て去ったものに、忘れたものに、捨て去られてゆきます。
 
これらは、次の記事にも書きます。
 
 
(2019年11月27日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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