「信仰は母性?」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12536084241.html
 
 
  宗教を語る軽口
 
   「没後10年 遠藤周作と〈母なる神〉」加藤宗哉
   http://mn266z.blog.jp/archives/22511962.html
   楽山日記(仮・倉庫)
 
 
楽山は、性懲りもなく、前に書いた記事を、批判に答えたことは一度もないくせに、また載せてきます。改めて批判せざるを得ませんが、楽山の、こういう習癖は、自画自賛で、人の言うことを聞かないナルシシストの特徴のようです。言い張って、言い張ることだけで、満悦するのでしょう。シャロームに体質が酷似しているので、成りすましを疑っています。
 

『宗教と現代がわかる本 2007』(渡邊直樹責任編集)を眺めていたら、遠藤周作についての文章があったので読んでみた。江藤淳が『沈黙』に描かれたキリストについて、母性的な面が強調されて日本の母親のような存在に描かれていることを指摘したという話は知っていたけれど、「元来、キリスト教は〈父なる神〉と〈母なる神〉の両面をあわせもつ宗教だが、日本へは前者の面だけが強調される形で伝達された」という見方は知らなかった。

 
キリスト教を「〈父なる神〉と〈母なる神〉の両面をあわせもつ宗教だが」と説明する短絡が、楽山の高慢なナルシシズムの特徴でしょう。父性だ、母性だ、あわせもつ、いずれとも、人は、神と違って不完全なのだから、決めつけてはいけないことです。
 
外からやって来て、信仰者でもないのにクリスチャン芝居をして、一方では、キリスト教とキリスト信仰を、自尊の分かってるつもりの思い上がり軸から、猥雑な文章で、軽しめて、おとしめることを止めない。逆にそれが、信仰者ではない証拠となっているのが現状です。
 
いわば、楽山は、キリスト教とキリスト信仰をレイプしているようなものだ。
 
神を、父性とも、母性とも、決められる人間はいません。在って在るもの、すなわち、神を、絵画か彫刻か、あるいは、何か物ででもあるかのように軽く決めつけて済ませる楽山は、キリスト教についてもキリスト信仰についても、今までの経過から、何も知らない者です。知らないという無知があり、それでも語ろうとする無恥があります。
 

でも考えてみれば、キリスト教にはその両面があるというのはその通りのように思える。ただ日本ではマリア観音というものもあったというし、父なる神という「面だけが強調され」たというわけでもないようにも思うがどうなんだろう。

 
「考えてみれば」・・楽山は、キリスト教について、何も考えていないと思います。まるで、思い付きのような軽口だけで語ってきた楽山です。そして、ここでその根拠と言ったら、マリア観音なのです。楽山という思想家気取りは、軽く軽く、仏教まで軽口の巻き添えにするつもりでしょうか。
 

それはさておき、上の考え方からすると遠藤周作の語るキリストは必ずしも否定されないということになりそうではある。自分は遠藤周作のキリストに共感するところがあるのだが、それは遠藤周作によって日本人に合うように仕立て直しされたキリスト教であるからある意味当然であり、そういうキリストに共感したとしても実際のキリスト教のキリストを知ったことにはならないだろうし、遠藤周作のキリスト像を批判するクリスチャンからしたら遠藤周作のキリストに共感することはむしろキリストから遠ざかることにさえなりそうだと思ったりもしていたのではあるが、これはそれほど気にしなくてもよいということになるのかもしれぬ。

 
さておくのだそうです。「遠藤周作の語るキリストは必ずしも否定されない」という部分否定ですが、その否定肯定を、誰が、何も信じていない楽山に与えたのでしょう。
 
そして、遠藤周作が、キリスト教を日本人に合うように仕立て直した、みたいなことを言っています。これは、同氏に対する侮辱になるでしょう。
 
楽山のピント外れが全開のようです。前からそうです。「遠藤周作のキリスト像を批判するクリスチャンからしたら遠藤周作のキリストに共感することはむしろキリストから遠ざかることにさえなりそうだと・・・それほど気にしなくてもよい・・かもしれぬ」・・いったい、なんなのでしょう、この気持ち悪い婉曲の筆致は。当たり障りが嫌なら、書くな。
 
こういう筆致では、反論しても、暖簾に腕押し、という感じで、答えることも今までなかったわけだし、楽山の文章は、何も得るものがなく、気取りだけの、しみったれた文章になり、実に、思考と読書の意欲を減退させるものだと思います。感動とは正反対の、まがい物の災いです。
 

また著者によれば、『日本人と母 文化としての母の観念についての研究』(山村賢明著)では、母親は「つねに、堪え忍び、あるいは家族に尽くす存在であり、子供の側から見れば〈受難者〉といった感じが強い」とされているとしており、それは「母親はあれほど苦労したのに自分は何もしてやれなかったという罪悪感」にもつながり、その辺りのことはキリストへの気持ちと、母親への気持ちは重なり得るのではないかとのことである。

 
人間の母性について、本を読んだからと、そこから、神の性別を語ろうとするのは、暴挙であり、ましてや、信じてもいないのだから、まるで深みがなく、読んでみても、時間を奪い、疲労させるだけであり、迷惑以外の何物でもないのです。それを、学者の名を出してまでも、やめようとしないのが楽山です。自己顕示欲の亡者のように思われます。
 

これは少し分かるようにも思う。母親へのすまないという気持ちは何らの前提なしに分かるし、キリストの場合もその教義から想像すれば自分のせいで罪無くして裁かれたとも言えるようであるし、いたたまれない心地はするので。

 
まるで聖書が分かっていない人の書き方と考え方です。聖書の目的は、母親へのすまない、でしょうか。何を考えているのでしょう。親子の情は、むしろ、キリストの使命からすれば、はっきり分離するべきことだったと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
12:46
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。
12:47
それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
12:48-50
イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
 (マタイ12:46-50、新約聖書)
 
キリストは、個人的な親兄弟と、信仰の親兄弟は、はっきり分けていたのですし、そのことが必要な立場だったのです。全く、楽山の貧弱な話には、あきれることばかりです。
 

さらに著者は、遠藤周作のキリストは無力な同伴者であって「奇跡は何も起こせず、無力だが、ただ黙って傍らに寄り添う」存在としており、これには「無力だがすべてを赦し、じっと子供を抱きしめる母親の姿がかさなる」としている。

 
楽山の本音として、キリストを、奇跡も起こせない無力へと、おとしめたいのでしょう。そして、キリストを何か、犠牲になった人として、母親的な、やさしい慈愛の人を持ち出して、か弱い無力なキリストとキリスト教にしたいのでしょう。全く、楽山は、人間の不完全や罪の性質を真剣に考えようともせず、史実を知っているかのような思い上がりから、信仰を好きなだけ捻じ曲げてゆく意図があるのでしょう。
 
楽山の書いたものを、私が読むのは、参考としてではなく、どれほど、楽山が、いい加減な文章を書く人であるかという情報を、広く知らせ拡散したい、という以上の目的はありません。
 

ここも分かるように思う。自分はここから連想するのはミケランジェロのピエタだけども、こうしてみるとたしかにキリストと母親の姿は重なるようではある。でもそうすると自分としては、ピエタをじっと見ているとだんだんにキリストと母親(マリア様)が重なり、母性の権化のようなマリア様こそがキリストそのものという感じがしてきて、無意識のうちに祈るときにはキリストにではなく、マリア様に向けて祈りたい心持ちになってしまうのだから我ながらおかしなものではある。

 
(ネットより)
ピエタ(イタリア語:Pietà、哀れみ・慈悲などの意)とは、聖母子像のうち、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)の彫刻や絵の事を指す[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%82%BF
 
今までの経過も合わせると、楽山は、浅はかな感傷で鑑賞する態度しか持ち合わせていないと思います。それで、このような祈りとか書いてくるのは、信仰を、真剣に考えるということをバカにしている者の態度であり、それは、神を知らず、キリストを知らない者だということです。
 
まるで、かっこつけるみたいに、キリスト教文化を知っているかのように語る態度と、さらに、恐れを知らずにズカズカと信仰の話を突き付けてくる無思慮と無分別は、信仰者でないのはもちろんのこと、求道者でもないことを示しています。
 
キリスト教文化をネタに自己顕示したいだけだとバレてしまうのです。実に、傍迷惑な部外者、そして、宗教を上から見て味見したかのような見掛け倒しのインテリ気取りと言ってよいでしょう。
 

三浦綾子は、「祈る対象は、この世を造り給うた全能の神でなければならない」(「天の梯子」第一章祈りの姿)ときっぱり言い切っているし、理屈から言えば、キリスト教ではそれが正しいのだろうとは思うのだけども、自分の場合は根が多神教体質にできているせいかどうか祈ろうとするときには、全能の神とキリストはもちろん、マリア様を心に描き、そこに向けて祈ってしまいもするし、むしろそれこそが一番自然な流れだったりもするわけであり、もしそれを変えようとするならば自分の意志の力で自分の中の自然な流れに逆らおうと始終力んでいなければならなくなり、そういう状態は到底長続きさせることは無理なのだからしょうがない。こうしてみるとやはり外国の宗教を理解し、実感として分かるようになり、元から自分の中にあったもののように馴染み切るというのは本当に難しいものだと思う。

 
楽山は「キリスト教ではそれが正しいのだろうとは思うのだけども」と言いながら、「自分の場合は根が多神教体質にできているせいか」などと言っています。キリスト教と多神教は、両立することはないのです。まことに、楽山の読書は、物見遊山と、おみくじ目的の社寺参拝のようなものです。
 
つまり、楽山は、茶化しているかのように、不真面目に宗教を捉えて、どうでもいいキリスト教へと誘導してゆく企みの偽善者なのです。
 
さらに楽山は「全能の神とキリストはもちろん、マリア様を心に描き、そこに向けて祈ってしまいもする」と言っていますが、キリスト教を婉曲的に否定しておきながら、かつ、多神教体質と言いながら、神聖に対して祈る、などと言うことが成り立つこともないのです。嘘っぱちであること明らか。
 
悪意をもって、キリスト教を揶揄する者は、キリスト信仰の節操も何もお構いなく、まともを装って、刷り込んでくるようです。楽山は悪意の宗教家気取りそして批評家気取りとしか言えません。
 
さらに、酷い詭弁として、楽山は「変えようとするならば自分の意志の力で自分の中の自然な流れに逆らおうと始終力んでいなければならなくなり」と言って、人間が変わることが、始終力んでいることだと言っています。これこそ、宗教も信仰も、まるで分かっていない者の言であり、いい加減な思考で、宗教をもてあそんでいる自己中の力みであります。
 
かつ、批判されたにもかかわらず、それを、受け取ることなく、反論も弁明も出来ないまま、また、同じ記事を出してくることからは、自己顕示欲と意地で、自説を通そうと言う執拗なキリスト信仰への破壊活動としか受け取れないものであります。なんて、いい加減で、悪意に満ちた低劣な心得で、冒涜の悪意の反キリストの限りを尽くそうとしていることでしょう。
 
 
神の性別は、誰も確定できるものではありません。いくら論じても結論は出ませんから、個人によって、イメージにも若干の差は出てくるでしょう。そして、信仰者は、そのことも神はご存知だと、考えるべきでしょう。
 
楽山は、聖書から何も読み取っていません。だから、本を読んだ、批判するなら本を読んでからせよ、などという煩わしいクレームをつけてきたりしますが、読書自慢に過ぎません。
 
聖書を学んでいない者が、学ぼうとさえしない者が、学者や小説家の書いたキリスト教の本を、いくら読んでも、川に落としたティッシュの行方を、ああでもないこうでもないと考えるようなもので、体験も思考も感性も浅すぎる中学生が、自慢したいがために、高慢で軽率な能天気で、ゲームをしているようなものにしかなりません。的外れもいいとこなのです。
 
キリストとマリアの関係においては、マリアの神への従順と、キリストの人間への共感と愛が、父なる神による救いにつながる神の計画の主軸となっています。マリアも、そして誰よりも、キリストも、溢れるばかりの温かい人間性を持っていました。
 
そのことに全く共感できない者が、父性だ母性だとか、無力だったとか、まるで、自分の生い立ちを悩むことより拙劣な文章に書いてくるのは、退屈を超えて、迷惑を超えて、有害だと思います。
 
以上のように、信じる気もない者が、なんだか評論家気取りで、読書自慢のために、言葉と理屈と浅い情緒で、知ったかぶりをして賢者を装うのは、見苦しいだけです。
 
 
(2019年12月15日)
 
 
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