「無知と無恥」リブログまたはリンク
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知と恥を捨てる者
シャロームのような、欺きのペテン師を批判してきたことから、その笑いから、その同語反復から、幼稚なことを絶対化する傾向から、何よりも安易であり、しかも、それを、後生大事に絶対化して拝み守ろうとする訂正不能から、浅ましさから、卑怯から、嘘と、その場だけの自己正当化から、詭弁から、考えることがあります。
シャロームのように、人を人とも思わず、不快なことはすぐに忘れ、都合の悪いことには不感不応で、自分を責める者が言うことを何も気にせず、ほぅほぅほぅと笑ってあしらうかのようで、何も気にしなければ、こんなに楽なことはないですよとでも思っているのか、神の恵みだけを声高に伝えて、理路も、感性も、捨ててしまえばいいと、いつもいつも、そのように念じている者は、本当に、それに近くなるでしょう。まったく、恥を感じなくなるからです。
それをシャロームは実践し、それを"神の平安"と呼んでいるのだから、あきれます。
そして「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」というキリスト信仰とは真逆の信条を、シャロームは福音伝道として、すなわち、広める意志があるということです。看過できるわけがなく、キリスト信仰にとって、真っ向からの反キリストだと思います。
そのような人ばかりになったなら、真実の文明も学問も宗教も生まれはしないのです。そこに知性も感性もないからです。無知になることをシャロームは勧めているのです。
そして、実際、シャロームほど無知な人間はいないと思います。その無知は、無視を生み、無恥へと至ります。学習しないからです。
さらに、何も感じなくなります。何も考えなくなります。感性と知性が鈍麻するということです。そして、原始反応しか持たない肉的そして物質的な存在になります。今、シャロームは、まさに、そのような者になっています。
何を言っても無駄で、一方的な罵り言葉か、世辞を専らとして、話に何の意味もなく、何の進展もしない無刺激のままだとしたら、それは、平安でしょうか。否、それは無為であります。
しかも、そこに、愚かという自覚もないのです。それが、どれほど、迷惑なことか、有害なことか。シャロームは、さらに、それを福音伝道と称して、吹聴しているのですから。
何故か、今の時代、何も深刻に気にするな、という思想が流行っているようです。そうして、自分の世界だけを考え、自分の心地よいことだけを考えれば、不快が少なくなるように感じるのでしょう。
しかし、感動することも少なくなり、挙句の果てには、なくなってしまうでしょう。さらに、個人において、進歩ということがなくなります。疑問をいだき、解決のために、考えたり行動したり努力することがなくなるからです。いつも、おめでたいことを、感動と呼ぶようになるのでしょう。
ただ、退屈を嫌って、ある方向、例えば、スポーツや、お笑い、ゲームなどにおいてのみ、集中する人が多くなります。諍(いさか)いや喧嘩を避けるために、葛藤や苦悩を避け、多くの人が平板な考えに賛同するようになります。
人間の在り方や生き方について考えるというような複合的な思考は抑制され、邪悪で余計なものと見なされて、技術的なことと興味の方向以外は重んじられなくなるでしょう。
技術を持たない者たちは、そのような世界では、遊びの楽を楽しむしかなくなり、思考が弛緩してゆき、自覚がないために、安易に短絡した固定観念を知識と呼ぶようになり、その知識では、何の役にも立たないために、保身のために、固定観念による判断を常識と呼ぶようになります。
想像ではありますが、自分はちゃんとジョーシキ的に考えたのにぃ無視してるのはそっちじゃん、などと不平を漏らすところの、"ていうか族"とでも言うべき人々が多くなります。
何を言っても向上心がない者たちは、はあ?と返して互いに遊び以外を無視し、無視されてゆきます。深い思索は摘み取られてゆくのです。
このように、結論が出にくく曖昧で奥の深い人文系が無視される世の中では、理系の知識の便利さが珍重され、褒められ、多くのテーマに理系の接頭語か接尾語が付くと立派に見られるようになります。分析、解析、確率、公式、等々です。
それに加えて、大袈裟な言葉が、流行るわけでもないのに、付いてきます。利点は規模を拡大して流され宣伝され、派手な単純さを繰り返すことが流行り、さらに、絶対、完全、必勝、秘訣、裏技、などによって、都合の良い誘惑のショートカットが宣伝されます。殆ど、パリピか、お祭り騒ぎのようになってゆく傾向かもしれません。歴史は動いているのに。
聖書というキリスト教の聖典を、恐ろしくショートカットしたのが、妄想教祖シャロームであります。
固定観念の浅さのままで是非をもてあそんだのがイージー楽山であります。
ポテトチップのような理屈を振り回したのが荒らしの易坊であります。
総称して、易坊類と呼んでいます。
彼らには、一切、共感が成り立ちません。共感という言葉自体が、彼らの心と感受性には深みがないので成り立ちません。なお、この三者には成りすましキャラの疑惑があります。
そういうカルト的な狭い世界では、深いことが理解されず、共感されず、共有されません。そういう世界に、嵌りこんで、それが普通と思い込むと、元々あったはずの知性と感性が鈍麻し破壊されてゆくのです。
結果、名のある人の言葉の都合のいいところや、聖書語などの、退屈させるだけの、無思考の、無抵抗の、言い古された受け売りが並べられて、理解の的を外しながら、読後感想文として、乾燥した藁(わら)のような部分だけが吹聴されることになるでしょう。
無為とは、行動面だけではなく、思考や感性の世界で、停滞することです。
その結果としての無知について、自覚すれば、敬虔となり、停滞から学習へのステップとなるでしょう。
しかし、それを自覚せず、知っている、という自覚のままであれば、無恥となります。
シャロームって、すごい生きものです。娼婦も、取税人も、十字架の犯罪人も、ペテロも、パウロも、皆、悔い改めて、キリスト者になったというのに、シャロームは、悔い改めないのだそうです、罪を認めないのだそうです。
もちろん、このようなキリスト者?なんてのは、過去・現在・未来において、存在しません。それでも、シャロームが、教えようとしてくるのは、尋常の精神性ではない、ということを表しているとしか考えられないです。
本来、そのようにだけはなってはならないための活性によって、人間は、生きてゆくはずなのです。信仰は安穏の境地ではなく、活性であり、気づきであり、道であります。
(箴言、口語訳)1:7
主を恐れることは知識のはじめである、
愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。
(箴言1:7、旧約聖書)
信仰は、人間離れすることでも神がかることでもありません。
主を恐れることは、神の完全と、人間としての自分の不完全、という違いを弁えることです。
それゆえに、人間としての信仰者は、不完全ゆえに、神の民として、少しでも成長するために、聖書と経験から学ぶことを覚えるのです。
(2019年12月16日)
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コメント
コメント一覧 (19)
精神科の医師として患者さんと面会し、あなたは大切なことを学んでいながら、実践しておられることは前半だけで、後半は少しも実践していないようですね。
「精神科の面接をしていて、心に弱点を持つ人に接して、考えたことがあります。依存されないために大事なことは、好意的な、よそよそしさを持つ、ということです。あなたはあなた、私は私、でも、できることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然のことなのです。」
「あなたはあなた。私は私、でもできることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然なのです。」
いいですね!
st5402jp
が
しました
日本社会は母性社会であり、自他未分化、共依存社会ですから、この人と人との精神的な距離、境界線が不明瞭な社会であると「母性社会日本の病理」において河合隼雄氏は書いておられるようです。
自分が自分であることができないため、他者を他者として認め、人を個人として受け容れることができない、つまり、自分と他者を区別できず、あるがままで受け容れることができない、愛することが執着化してしまい、心の病の主因ということもできるかなと思います。もちろんその他の多くの要因はあると思われますが・・・
※人を個人として受け容れることができない・・・
自民党の憲法改正案には現在の憲法に規定してある「人は個人として尊重される」ではなく、「人として尊重される」という文に書き換えられていることは注目しなければなりません。基本的人権を否定する道に通じています。
グローバル化し、異なる国、民族が、異なる価値観、文化が激しく衝突を深め、国も民族も、個人もアイデンティティー危機によって、ますます混乱と閉塞感を深めていくことでしょう。
分断を深めていくか、統合の道を見出すことができるか?
わたしたちは、死ぬか、生きるかの分かれ道に立たされているようです。迷走と模索は続きますが、人の手の内に、その道があるのか疑問です。
st5402jp
が
しました
新約・マルコによる福音書1章1~3節
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
1:3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてある。
統合の道は主の道か?
新約・マタイによる福音書7章13~14節
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
ST5402さん 永い間ほんとうにお疲れ様でした。
随分悪態をつき、有終の美とは程遠い終幕となりましたが、
ありがとうございました!
人生の終幕はイエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ、
拓かれていますので、希望をもって、
イエスさまが開いてくださった新しい道を歩みたいと思っています。
Shalom!
st5402jp
が
しました
シャロームは、もはや、常識的な判断力がないのでしょう。完全に拒否しているのに、相変わらず、お愛想で、訪問すればよい、と思っているのです。総てが崩れているのに。つまり、シャロームは、既に瓦礫と化した中を、デパートの売り場を巡るように、和みを表しているつもりで、歩いている亡者なのです。
st5402jp
が
しました
1. shalomです。おはようございます
2019年12月16日 08:49
引用した言葉はST5402さんが書かかれたものです。
精神科の医師として患者さんと面会し、あなたは大切なことを学んでいながら、実践しておられることは前半だけで、後半は少しも実践していないようですね。
「
「精神科の面接をしていて、心に弱点を持つ人に接して、考えたことがあります。依存されないために大事なことは、好意的な、よそよそしさを持つ、ということです。あなたはあなた、私は私、でも、できることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然のことなのです。」
「あなたはあなた。私は私、でもできることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然なのです。」
」
いいですね!
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いいですね!と、ここに至って、丁寧語でごまかしていますが、シャロームの丁寧語=慇懃無礼の害毒であること知ってほしいと思います。
st5402jp
が
しました
シャロームは、持ち前の丁寧語という害毒で、偽善的に、思いやりを示したことにしていますが、シャロームの丁寧語は、底意地の悪さを隠すための、言うだけはタダという、これも気持ちとは裏腹な作り事、つまり嘘なのです。長く受けておれば、むしろ、いっそう、嫌らしさが伝わってきます。
st5402jp
が
しました
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2. shalomです。おはようございます
2019年12月16日 08:52
精神的な距離という言葉もいいのですが、私は境界線という言葉をよく使います。アドラー心理学もとても大切にしている考え方のようです。
日本社会は母性社会であり、自他未分化、共依存社会ですから、この人と人との精神的な距離、境界線が不明瞭な社会であると「母性社会日本の病理」において河合隼雄氏は書いておられるようです。
自分が自分であることができないため、他者を他者として認め、人を個人として受け容れることができない、つまり、自分と他者を区別できず、あるがままで受け容れることができない、愛することが執着化してしまい、心の病の主因ということもできるかなと思います。もちろんその他の多くの要因はあると思われますが・・・
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あなたの見解など、何も聞いておりませんが。あなたシャロームの日本語は、ずいぶん以前から、理路も共感もないと言ってきました。心が無いのに、何かを伝えた気になりたいのでしょう。境界線、母性社会、自他未文化、共依存社会、・・シャロームの言っていることは、既に、大方、私に当てつけたボロクソ節なのです。そういう話を何度も聞かされているものには、吐き気のするほど、食傷する独り善がりなのです。
st5402jp
が
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※人を個人として受け容れることができない・・・
自民党の憲法改正案には現在の憲法に規定してある「人は個人として尊重される」ではなく、「人として尊重される」という文に書き換えられていることは注目しなければなりません。基本的人権を否定する道に通じています。
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ここで、脈絡もなく、政治の話になっています。嘘吐きの話を、誰かの正論であっても、決して受け入れてはいけません。これも騙しのテクニックです。体のいい返事などすると、大喜びの振りをして、うんざりするような続きを聞かされるでしょう。すでに経験・実証済みです。
st5402jp
が
しました
グローバル化し、異なる国、民族が、異なる価値観、文化が激しく衝突を深め、国も民族も、個人もアイデンティティー危機によって、ますます混乱と閉塞感を深めていくことでしょう。
分断を深めていくか、統合の道を見出すことができるか?
わたしたちは、死ぬか、生きるかの分かれ道に立たされているようです。迷走と模索は続きますが、人の手の内に、その道があるのか疑問です。
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このような話は、シャロームの得意なボロクソ節です。独り有頂天の誇大妄想です。言論が統合を失調しているのは、文脈が、個人の人間関係から、国政の話へと、脈絡もなく飛んでいます。つまり、その間にあることを、スコ~ンと無視している、つまり、話の筋を負えない、シャロームです。
あなたシャロームには、悔い改めないのであれば、キリスト者として生きる道はありません。また、政治思想は、あまりにも貧弱でお粗末な、受け売りと人真似と誇大妄想ですから、これも、生きる道にはなりません。
みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。
かわいそうなどと思ったら、あざ笑う用意だけはいつもしているシャロームに、食われてしまいます。
st5402jp
が
しました
3. shalomです。おはようございます
2019年12月16日 08:53
統合の道は人の道か?
新約・マルコによる福音書1章1~3節
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
1:3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてある。
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先ず、おのれから、まっすぐにせよ。嘘を吐くな。これは、聖句というより、信仰に適うところの、人間の道徳です。
st5402jp
が
しました
先ほどの「統合の道を見出すことができるか」の流れなら、
(マタイによる福音書、口語訳)22:21
彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
(マタイ22:21、新約聖書)
と書いてあります。信仰の話に、政治をぶっこむな。
st5402jp
が
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新約・マタイによる福音書7章13~14節
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
<
あなたシャロームは、安易な、広き道、嘘吐きの道、讃美しておけばいいという大袈裟な豪語の道、陰気な暗闇の洞窟を、ずっと、選んできました。
st5402jp
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ST5402さん 永い間ほんとうにお疲れ様でした。
随分悪態をつき、有終の美とは程遠い終幕となりましたが、
ありがとうございました!
人生の終幕はイエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ、
拓かれていますので、希望をもって、
イエスさまが開いてくださった新しい道を歩みたいと思っています。
Shalom!
<
こうやって、言葉面だけ、整えようとするのが、あなたシャロームの、忌まわしい丁寧語なのです。昔、ずいぶん騙されたものです。丁寧語の中の、獣性を見逃さないことが大事です。
「随分悪態をつき」・・あなたのことですか。心にもないことを。もう何を言っても信頼されないところに来ています。
「イエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ」ているなら、今までのことはなかったはずなのです。
「イエスさまが開いてくださった新しい道」・・悔い改めない者には開かれていませんし、希望もありません。白々しい聖句引用はやめてください。全部、嘘でした、全部、嘘です。今となっては、もう、はっきり言えることです。
st5402jp
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