仮想読書
 
   『仮想儀礼(上)』篠田節子
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12553934345.html
   楽山日記(a)
 
 
カルトは、常識を装って、その懐にあるところの、宣伝、暗示、印象操作、刷り込みと言った卑怯な手段で、人々を引き込み、陥れようとしてきます。楽山やシャロームなどの易坊類は、ナルシシストのカルト集団、あるいは、成りすましです。
 
訂正不能の自己中心の思い込みがあり、このブログのように、批判されても批判されても、同じようなことを、他者の書籍などを利用して、書いてきます。
 
また、逆に、カルトを題材として、自分は大丈夫と言うことを、刷り込もうとしてくるのが特徴です。理解力がなく、無反省であり、理屈っぽいことを言いながら、他者の言うことなど、不感不応で気にしない横暴で執拗な体質を持っています。
 

『仮想儀礼』は前に読んでおもしろかったので、また読んでみた。今は上巻を読み終わり、下巻にはいったところだけども、やっぱりおもしろい。
大まかなあらすじは、詐欺に遭って仕事も家庭も失った男が、起死回生の一策として、顧客(信者)に心の癒しを与えて、相応の対価を得るという形のビジネスとして宗教をはじめるものの、集まってきた信者などに引き摺られる形で道を踏み外してゆくというもの。
教祖となった男が何てことのない常識論を語っただけで、それに大感激して信者になり、多額のお布施をしようとする者が出たり、有り合わせの材料でつくり、魂入れもしてないような仏像とは知らずに、その前で精神統一していた信者が、思わぬ超常現象を引き起こしたり、教祖の男にとっては想定外の出来事が次々に起きて驚き慌てる姿はリアルで読みごたえがある。

 
常識論的なことを、ボンヤリ言語で、ああでもないこうでもないという曖昧さで語り、おやさしいお人柄と言われて、悦んでいるのが、楽山です。
 
有り合わせのベタな言葉を後生大事にして、「かなぁ」「とも言える」「否定はできない」というボンヤリ言語の特徴的な語尾で語り、印象操作で刷り込んでゆくのが、楽山のやり方であることが、明らかになっています。
 
気をつけてください。常識的な話の中に、知らず知らず、恣意の方向を吹き込んでゆく狡猾さが、楽山やシャロームなどの易坊類の常套手段なのです。
 

ちなみに本作と同工異曲的なものとして、萩原浩の「砂の王国」がある。こちらも、失業してどうにもならなくなった男が、生活のために宗教を始め、ある程度の成功を収めるも最後は…という大筋は大体同じだけど、やっぱりおもしろい。
本作はあくまでフィクションだろうけれども、エンターテイメント作品として楽しむ以外にも、新興宗教の内実、教祖の思いなどを想像するにはよい材料になるし、それらに興味がある人にとっては、一読の価値がある。上下巻でページ数は多いけど、ストーリーも文章もよいから、小説は読みなれてなくても、さくさく読めると思う。

 
読むのは、人それぞれの自由です。しかし、そのことを、自己中で作為的な楽山が言えば、罠になります。楽山は、ときに中立に見せかけ、ときにキリスト教寄りに見せかけ、ときにクリスチャン芝居をしたり、キリストは人だとか、神は母性だとか、キリスト教は簡単だがアクセサリであるかのような軽さの方向に誘導して、分かりもしないことを塗り付けて、キリスト教よりも優位に立とうとしてくるでしょう。それが、軟派カルトのやり方であることを、私は批判的に学んできたつもりです。
 

*追記 2019.12.7
この手のノンフィクションとしては、M.ラマー キーンの告白本がある。
タイトルは、『サイキック・マフィア―われわれ霊能者はいかにしてイカサマを行ない、大金を稼ぎ、客をレイプしていたか』というもの。
こういう本を読むと、やはり宗教やオカルトには近づいてはいかんと思うし、触らぬ神に祟りなしというのは本当だなと思うね。

 
以前「心の理論」という記事で、霊が分かるっぽいという自覚を語った楽山が、オカルトに近づいてはいかんと思う、などと言っていますが、いちばん、オカルトにもカルトにも親和しそうなのが、楽山その人であります。
 
 
  『仮想儀礼(下)』篠田節子
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12558527165.html
  楽山日記(a)
 
 
カルトの不気味さと社会悪の危険を、読みごたえがあるという感想で表している楽山です。
 
実際には、楽山は、シャロームという妄想カルトの味方をしてきました。また、アドラー心理学という自己中になりやすい言を含むためにアドラー教と私が呼んでいるカルト臭い宗教の宣伝者です。懐疑的なことを言いながら、今も、アドラー教が抜け切れていないか、元々、アドラー教に似た思想を自己中として持っていると思います。
 

今朝で、『仮想儀礼』の再読終了。
上巻では、顧客に心の癒しを与え、それ相応の対価を得るという教祖の描く宗教ビジネスが成功して行くさまが描かれ、上巻の後半から下巻にかけては教祖が思わぬしっぺ返しを受けるさまが描かれている。
教団が急成長することで、海千山千のものが寄って来てその誘いに乗らないととんでもない嫌がらせをしてくるだとか、そういうものと関わったせいで警察や税務署からにらまれるとか、マスコミにあらぬことを書かれて、信者も、世間的な信用も失い、社会的に孤立するとか、熱心信者のなかに暴走するものがでてくるとか、常識的な路線を進もうとしている教祖にとってはやっかいなことばかりが連続しておきている。特に信者の暴走についての描写は、念入りに描かれていて読みごたえがある。

 
どういう読みごたえがあると言うのでしょう。人間が暴走する悲劇を、読みごたえがあると言い、面白がっています。悲劇を興味本位にしか見ない楽山のようです。
 

教祖はビジネスとして宗教をはじめたつもりだったのに、その宗教は教祖とは独立した生き物となって成長してゆき、信者だけでなく、教祖自身をも飲み込み、法律も、道徳も、教義も、そんなことはたやすく乗り越えて肥大化して行き、教祖も信者も教団内の者たちは誰もそれを止められなくなるという流れは本当に恐ろしい。

 
このように、常識から乖離してゆく教義と信条を持つカルトですから、暴走して、犯罪行為や破壊的になってからでは遅いと言えるわけです。つまり、違法行為をするようになる前から異常なのだから、早期発見して、言論において、その異常性を訴えることが必要であり、早めの批判が不可欠であることは明白なのです。
 
しかし、楽山は、カルトの定義を、違法行為の有無で判断して、違法行為がなければカルトではないと言っています。カルト寄りの楽山だから、違法行為がなければいいだろ、カルトじゃないだろ、と言ってきているわけです。これは、明らかに間違っています。
 
カルトが違法行為に至る前日は、カルトではないのでしょうか。犠牲者が出るまで待たなければならないでしょうか。そうではない。違法行為がないから、カルト的思想が自由だというなら、違法行為がなくても、カルトを批判する思想も自由なのです。
 

こういう話を読むと、宗教はそれ自体は意思も、命も持たないものではあろうけれども、一度発生すると、人の心から心へと感染し、状況によって変異しつつも、その支配領域を増やしてゆき、場合によっては宿主を殺してしまうことさえある寄生生物のようでもある。

 
このように言いながら、カルトを、違法行為に至るまで放置するようなことを言ってきた楽山です。いかに、楽山が、カルト寄りであるかが表れています。手遅れにならないように、おかしなことを、おかしいと言う批判をすることが、できる限り、早期に必要なのは言うまでもありません。
 

ここは不気味だし、触らぬ神に祟りなしとは本当だなと思わされる。こういう考え方は極端すぎるかもしれないけれども、宗教を信じるということは、ある意味、自分を死に至らしめることもある寄生生物を心に入れるということでもあろうし、よほどの覚悟を必要とすることなのだろうと思う。

 
宗教を信じることを寄生生物に喩えて、死に至らしめると言っています。宗教とカルトの区別もできず、また実際、区別せずに、カルト寄りの自分をカムフラージュするために、警告するふりをしている楽山の悪意を見逃さないでください。
 
不気味だから、触らぬほうがよいと言っています。こういうことを言うのは、言い換えれば、死に至らせる寄生生物がいたら、何もせずに、触らないほうがいい、ということでしょうか。バカなのでしょうか。社会正義を考えない人なのでしょうか。良心の敵なのでしょうか。
 
不気味ならば、誰かが、正体を見極める必要があります。異常であれば、異常だから近づかないようにと、警鐘を鳴らす必要があります。何が、「よほどの覚悟」なのでしょう。だまされる覚悟でしょうか。脅しているのでしょうか。楽山は、良心がないのでしょうか。良心の敵なのでしょうか。
 
恐ろしいカルトになる可能性のあるような、曲がった教義「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」と言って訂正していないシャロームの味方をして、その異常性を正当化してきたのが楽山です。楽山やシャロームなどの易坊類は、信じる者が多くなれば社会悪になりうる思想の持ち主です。
 
この楽山の記事は、自己とお仲間の異常な思想を正当化するために書いたのではないかと思われます。カルトは、こんなに酷い、自分たちは違う、と言いたいのでしょう。いつも、共感を装う楽山の狡猾な言い逃れの詭弁なのです。
 
 
楽山の読書と読書の勧めというのは、楽山が学んでいるのではなく、楽山の自己中の思想に都合の良い本を読んで、その都合の良さを書いてくるだけなのだろうと思います。楽山、という、偏向し、狭量でありながら、自己完結しか持ち合わせない者の読書を信頼してはいけません。
 
自分は中立?であるかのようなふりをして、書いていますが、楽山は、自己中で訂正不能であることが、今までの経過に表れてきました。実際、自己中に結び付きやすいアドラー教の宣伝をしてきたのです。そこを忘れてはいけませんし、実際に中立というのは、一般的にも難しいのですから、楽山は、企みとして、中立に見えるような書き方をしてくる詭弁家そして宣伝者と言ったほうがよい人です。
 
 
(2019年12月18日、同日一部修正)
 
 
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