トンデモ信仰
 
  2019年12月22日 「st、楽山 問題を振り返る」
  http://mn266z.blog.jp/archives/22718002.html
  からのリンク
  2018年07月05日 信仰について思うこと (過去の短文記事から)
  http://mn266z.blog.jp/archives/17513006.html
  楽山日記(仮、倉庫)
 
 
楽山は、2つのブログに、彼の過去記事を掘り出して、記事を書き、また、再録し、長い記事に、いっぱいリンクをつけてきたことで、彼の宗教の未熟で安易な考え方を明らかにすることができそうです。
 
楽山は、ブログのタイトルを、楽山日記(仮)→楽山日記(仮、倉庫)→楽山日記(LD)と変えています。でも、私のブログのリンクで分かると思いますが。
 
楽山は、都合の悪い記事を削除して無かったことにしますし、読みにくいように、批判しにくいように、子供のイタズラのような細工もしてきます。前からです。精神は、成長していないのかもしれません。その流れで、成りすましもしている可能性があります。
 

*信仰について
信仰についての短文記事を、加筆修正のうえで以下にまとめてみた。
*神のイメージ
神のイメージは人によって様々であり、恐ろしく厳しい存在だという人もいれば、限りなく優しい存在だという人もいる。
自分の場合は、後者であり、もし神が存在するならば、優しく、穏やかな存在にちがいないと思える。というか、そういうイメージしか持てない。

 
楽山が、どういうイメージを持とうが、楽山の勝手です。しかし、キリスト者のイメージに干渉して、ああだこうだ、母性だ、神は疑問だ、ということは、言論の責任を問われることであります。
 

*神を忘れる信仰
痛いところはどこもなく、健康なときは、体のことは忘れているという。たしかにその通りである。
そうであれば信仰についても、健全な状態のときは、神のことは忘れているものかもしない。

 
健康なときには、楽山のような者は、信じていないのだから、神を忘れるでしょう。
 
信仰者にとって、神とキリストは、人生の同伴者だから、忘れることはないのです。
 
私は、楽山やシャロームなどの易坊類については、早く忘れたいところです。しかし、彼らは、厚かましく、サディスティックに、かつ、自慢げに、信仰を妨害してきます。
 

*信仰について (無宗教という信仰)
自分には、無宗教が性に合っているようだ。

 
だったら、宗教については、身の程知らずに語らないことです。
 

特定の宗教を信じているわけではないが、かといって神様を信じていないわけではなく、いろいろな神様に対して素直に手を合わせるという感じである。

 
念のため、キリスト信仰は、神様と信じていないわけではない、という信仰ではありません。だから、信仰告白があり、悔い改めがあり、祈りがあるのです。
 
色々な神様に対して素直に手を合わせるのは、楽山が、何も信じていないという証拠です。
 

神社、寺、教会、墓、仏壇…どこでも手を合わせるというのは、節操がなさすぎる気もするが、自分にはこういうのが落ち着くようだ。

 
ならば、キリスト信仰について、とやかく、まるで知っているかのように、語るな。
 

*信仰について (ことばの限界)
宗教体験は、言葉では表現できないといわれる。
けれでも、これは言葉の限界を示しているというよりも、その人の認識力や表現力の限界を示しているだけではないだろうか。

 
人間の言葉には限界があります。人間はどこが限界かさえ知らずにいる。
 
とりわけ楽山の認識力や表現力には、身の程を知らないと言えるほどの限界があり、まるで、子どもが政治を語っているようなものである。
 

自分の体験を的確に言葉に置き換える能力があるなら、宗教体験を言葉で表現することも可能となるのではないか。

 
人間には、何事も、的確に完全に言葉に置き換える能力はなく、人間の言葉自体も、テレパシーや神の啓示のような高性能ではないので、様々な誤解が生まれるのです。
 
>ことばが神であるとするならば、ことば(神)に不可能はなさそうである。
 
楽山は、「ことば(神)に不可能はなさそう」などと、人間の言葉と神の言葉を区別しないで言っているのは、自分が何か語れると言いたいがための、導入の詭弁でしょう。、
 

*信仰について (合理性)
信仰は、論理を超えることはあっても、論理に反することはないのではないだろうか。

 
このような、幼稚な論理しか、楽山は持っていないのです。「心の理論」を勘違いするような、心無い楽山の児戯に等しい論理では、信仰を語れないのです。さらに、それだけでなく、謙虚さがなく、語れると思っているからこそ、そのゆえに、楽山は、とても信仰を語れる器ではないのです。
 
>三次元の論理で結論が出せなくとも、異次元の論理で結論が出せる場合はあるかもしれない。
 
夢でも見ているのか。
 

けれども、三次元の論理ではっきりバツと結論が出たのに、異次元の論理では、それとは反対にマルになることなんてあるのだろうか。

 
異次元の論理?を知っているそうです。幻覚を見ているのか。
 

三次元と異次元の世界が、まったく別個の独立した世界なら、そんなこともあるかもしれない。
でも三次元を異次元の世界が包み込んでいるとするならば、三次元の論理ではっきり出せた答えが、異次元の論理でひっくり返るというのは考え難いように思う。

 
楽山の幼稚な空想で、あるいは妄想で、信仰が語られることは永遠にないでしょう。
 

*信仰について (議論の困難さ)
信仰についての議論が難しいのは、信仰は理性を超えたものであり、議論には適しないからなのだろうか。
それとも、信仰は論理ではなく、情緒であるからだろうか。
どちらが本当だろう? どちらも本当かな。

 
楽山の、持ち前の安易な粉末のような言い方なら、どちらも、嘘です。
 
「超えた」という言葉の、安易さには呆れる。
 

*信仰と妄想
信仰とは、素朴に、善なる存在を信じること。または論理的、宗教的に突き詰めて考えたあとで、それでも信じることを止めないこと。

 
信仰とは、究極的には、善とかではない。人間の善など、高が知れているし、それより、人間に完全な善悪の判断など出来ない。
 

妄想とは、馬鹿げたことを、考えなしに事実と思い込むこと。または屁理屈を重ねて、馬鹿げたことを事実だと言い張ること。

 
非合理の現実離れ、訂正不能、異常な確信、というのが、妄想の条件であり、その典型、または、妄想のような作為のでっち上げが、シャロームの信条?である。楽山は、シャロームの味方である。このことから、楽山の信用度はゼロである。
 

*信仰とトンデモ
信仰は、真摯で、切実で、涙に通じる。
トンデモは、興味本位で、軽薄で、笑いに通じる。

 
加えて、自己中心で、訂正不能であるのが、シャロームのトンデモ。そのシャロームに、楽山は、賛同した事実は、楽山が反省し、はっきり否定して、それを表さない限り、消えない。
 

*信仰の共有は可能なのか?
同じ宗教を信じている者同士でも、信仰について話をしてみると、なかなか意見が合わなかったりする。浅い話であれば合わないこともないが、深く掘り下げていくと段々に合わなくなってくる。

 
信仰話の、浅い深いが、楽山に分かるとは思えない。さらに、楽山は、信仰の話を、深く掘り下げることが、全くできていない。なのに、言い分だけが、愚かだと分かるほど、尊大である。
 

こういうことが何度もあると、どうも信仰とは個人的なものであって、他人と共有することはできないのではないかと思わないではいられない。

 
今までのことから、楽山が信仰について語ることの信用度はゼロである。
 

「これからの宗教は、組織的なものではなく、個人的なものとなっていくだろう」という意見があるけれども、これは自分に関しては当たっているようだ。

 
楽山は、自己中で自己愛が強く、信仰の欠片もなく、実に安易に信仰を語っている間、偽善者である。
 
なのに、楽山は、シャロームという狂気に、味方したのである。その時点で、楽山は、信仰の敵となった。早く、信仰と宗教について語るのをやめるべきである。
 

*信仰について (個人的な問題?)
神は、個々人が心に描いた妄想にすぎないなら、信仰は、個人的な問題にすぎないのかもしれない。
けれども、神は個人の妄想でなく、客観的に存在するなら、信仰は、個人的な問題ではすまず、もっと大きな問題となりそうだ。

 
神の存在も不在も証明できないのだから、この楽山の「かもしれない」「なりそうだ」、および、神が妄想か客観か、などという問題について語ることは、この楽山において、いちばんの神への冒涜になるだけで、ことごとく無意味なのです。
 

*信仰と自己責任 1
信仰は、自分の意思だけでは、どうにもならないものらしい。
たとえば、〝神を信じなければならない〟と思うのに信じられなかったり、
〝この宗教はおかしい。信じるべきでない〟と思うのに棄教できなかったりするのは珍しいことではない。
もし信仰は意思の外にあるならば、信仰を持っているか、持っていないかについて責任を問うのはおかしなことではある。

 
信じていないのに、知ったかぶりで、いい加減な考えで、信仰を語ることについては、責任が問われる。信仰者と求道者を惑わす迷惑言語と迷惑思想だからである。
 

*信仰と自己責任 2
もしも、神様が地上に降りて、救世主として清らかに生きたとき、それを信じなかった者が責任を問われて、地獄に堕とされたとしても自業自得であり、仕方のない話ではある。
けれども、神様が地上に降りて、救世主として清らかとはいえない生き方をしたとき、これを信じなかった者が責任を問われて地獄に堕とされるとしたら、なんだか、やりきれない心持ちがする。

 
どこから清らかでない救世主という妄想着想になるのか。キリスト信仰において、元々、救世主は清らかという性質でしか語られない。楽山は、おとぎ話レベルの話をして迷路を作っている。言葉遊びも甚だしい。異常だから、早く止めてほしい。
 

*信仰と知識
世の人々を見ると、知識が豊富な人よりも、あまり教養があるとは言えないような人の方が神とつながっていると感じることは少なくない。
神とつながるためには、知識は必ずしも必要ではないらしい。

 
最低限の節操となる知識が必要です。それを持っていないのが、楽山やシャロームなどの易坊類です。知識だけでなく、人間らしい心の器が必要です。それをもっていないのが、楽山やシャロームなどの易坊類です。さらに、良心が必要です。それをもっていないのが、楽山やシャロームなどの易坊類です。
 

*神を信じることは出来るのか
以前の自分は、本気で神を信じているつもりだった。
でも実際には、自分は神を信じていたのではなくて、〝これこそ本物の神だ!〟という自分の判断を信じていただけだったらしい。
神を信じるのは難しい。

 
楽山が、本気で信じるのは、霊が分かるっぽい自尊においてですから、思い込みに過ぎません。今までの経過からの判断です。
 
よって、楽山が、今の楽山のまま、神を信じるのは、きわめて難しい~不可能でしょう。
 

*神と向き合う信仰
信仰についての意見を聞いていると、神の前に頭を垂れる信仰が多いようだ。
でも自分は我が強いせいか、神の前であっても、きちんと顔を上げて、自分の意見を言いたくもある。

 
聖書には、思いをはっきり言って、食い下がった人もいました。それが本音であるなら、キリストは、義としました。
 
本気でない楽山の自己中の遊び半分に付き合う救世主はいないのです。
 

神の前で、「自分は自分の為しうる限りのことをしました。何ら恥じるところはありません」と胸を張ることができる人生を送れたら、どんなに幸福だろうと思う。
でもこれは絶対無理だろうなあ。とほほ。

 
神の前で、出来ることをしましたとは言えても、何ら恥じるところはないと、言える人はいません。似たようなことを言ったのは、聖書のパリサイ人です。また、シャロームも同類です。
 
楽山は、また、虚言がバレています。
 
そして、シャロームと楽山は似たようなものです。そこが分からないあいだ、無理なトホホは、恥を知らない者になってゆくのです。
 
 
(2019年12月24日)
 
 
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