本質知らず
 
   2019年12月21日
   『ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯 原始仏教1/中村元選集 第11巻』
   http://mn266z.blog.jp/archives/22691792.html
 
 
投稿の順序が前後していると思いますが、楽山批判の下書きが、今の時点で、一つ残っているので、アップしておきます。それぞれ、相手の言葉を引用しての逐一批判なので、順序が前後しても焦点がズレるという影響はないと思いますが、ご意見など、ありましたら、コメントください。
 
キリスト信仰について、本質を求めずに、ゴシップ的なことばかり熱心で、軽く見て、どうでもよいものとして、宗教をおとぎ話にしてしまいたい楽山は、仏教も同じように、オモチャにしたいようです。自分だけが客観的に分かっている賢者という自己顕示欲のためでしょう。
 

本書では、神格化された信仰上の釈尊ではなく、実際の釈尊はどのような人物であり、どのような生涯をおくったかを明らかにする試みがなされている。たとえば初期の仏典では、弟子でさえも釈尊のことを、「シャカ」「ゴータマ」などと呼び捨てであったのが、時代が下がるにつれて尊称がつけられ神格化されて行く様子を明らかにしたり、梵天勧請のような伝説はなぜ生まれたか、現実はどうだったかなどについて語られている。また当時の釈尊は剃髪していただろうから、事実かどうかという視点から見た場合は、仏像に髪があるのは間違いだと見もふたもないことも書いている。

 
だから、楽山は、先ず、史実にこだわります。キリスト信仰の心ではなく、キリストや神についての史実から、いちゃもんをつけてきたように、いちゃもん屋の楽山は、知識豊かな博識と言われたいのでしょう。教えそのものよりも、表面に浮いてきて掬いやすい灰汁のような知識を求めて、宗教を、安く手に入る惣菜として料理したいのでしょう。
 

こういう試みは、信仰上のお釈迦様を大事にしたい人からしたら愉快ではないかもしれないが、自分は信仰上のお釈迦様のみならず、実際のお釈迦様はどうであったかにも関心があるので非常にありがたいし、わくわくするほど面白く読めてよい。大いに歓迎する。

 
楽山は、いったい、どういう立場で言っているのでしょう。知りもしない信仰の教祖について、大いに歓迎する、などと言えるのは、いったい、どういう尊大さなのでしょう。わくわくするほど面白がるのが信仰だとでも思っているのでしょうか。真面目に救いを求めている人々への侮辱だと分からないのでしょうか。
 
仏教についても、また、既に、キリスト教についても、楽山の自己愛による自己中の身勝手と傲慢は、個人の安易な知識欲と興味の範囲でしかないのに、そこを超えて公開文書で語ってしまうのが、楽山の特徴であり、宗教の知識として受け取れる質を持っていません。しかも、人の意見を全く聞かないのだから、自己愛のインテリ気取りの独り有頂天ほど迷惑なものはありません。
 

とはいえ、こういう自分もかつてはこの種の試みは大嫌いだった。仏陀はこの世だけでなく、この世を超えた世界をも知り尽くしている故に仏陀なのであって、仏陀の超人的、超自然的な側面を除外して見ようとするならその真の姿は決してつかみ得ぬだろうし、それは仏陀を矮小化し、自分の解釈可能な範囲内に押し込めようとする甚だしく不遜で愚かな行為であり、無意味なことだと考えていたのだ。

 
楽山は、あるときは、霊が分かるっぽいと自分で思って、超常の世界を好むくせに、別のときには、神やキリストの実在を問うのと同じように、幼稚な疑問で否定しにかかる、という、興味のおもむくままに、宗教を茶化してきただけなのです。
 

でも近頃は、霊能、神通力、奇跡…という超自然的なことは、前ほどは信じなくなったせいか、そういう超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった。

 
楽山の言う近頃というのは、どれほどのタイムスケールなのでしょう。仏様の声が分かるっぽい発言は、昔のことであっても、それをブログで語っているわけです。祈りや聖句などを書いてクリスチャン芝居をして記事に書いたのは、何年も前というわけではないでしょう。自分の興味によって、ころころ、立場を変えているだけという節操のなさは、宗教を語る者として、どこにも通用しないです。
 

信仰心旺盛だった頃は、信仰がなければ真実は分からぬと考えていたけれども、近頃は信仰が強すぎれば現実が分からなくなると考えるようになったのである。

 
楽山に信仰心旺盛だったことなど無いと思います。それは、たぶん、超常に浮かれていた頃のことを、そう言っているのでしょう。楽山にとって、宗教に気分をよくしているときは、超常へ興味が向かうときで、宗教に悪口を言うときは、史実にこだわったり、幼稚な疑問だらけになるようです。そんなに前のことではありません。
 
楽山は、自己愛のために、現実が分からなくなっており、好き勝手に、こだわり方を変えて、仮想現実のような何でもありになることがありますが、楽山の半端な理路では、現実問題に答えることなど出来るはずもありません。奇跡の見分け方についての記事とか、妙に浮かれた言葉を並べるとか、不安定な精神状態が、楽山の書くものに表れてきました。
 

現実をありのままに見ようとするなら、信仰は捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといた方がよかろうと…。本来、信仰は尊いことだろうけれども、それが思い込み、決めつけ、偏見のようになっている場合は、信仰が目のウロコになってないかどうか、注意が必要なんだろうと思う次第である。

 
またしても、おかしな思想背景から、ほどほどにしといたほうがよいなどと、信仰を侮辱しています。信仰は現実において生きるためにあります。楽山にとって、信仰は非現実、という、とても安っぽい先入観が働いているわけで、そのことこそが、楽山の、信仰を語ることにおける欠格を表しているのです。
 
「捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといたほうがよかろう」信仰?など、むしろ、持つ価値など全くない信仰?であり、真の信仰に救われた人々に対する最大の侮辱です。信仰の奥深さを全く知らない者の著しい誹謗中傷であり、単純な無知が、傲慢による無恥を伴うと、こうなるという例です。
 
 
  「st、楽山 問題を振り返る」2019-12-20
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12561107920.html
  楽山日記(a)( 楽山日記(DL)とは別のブログです)
 

*実際のところ
 ちなみに楽山日記とは何なのかと言えば、実際のところは、平凡人が平凡なことをつづっているだけのブログだ。閲覧者はわずかしかいない。
 yahooブログ時代のことではあるが、楽山日記は、stさんから沢山批判されても、閲覧者は増えなかったし、stブログからの流入も確認できなかった。stさんがコメ欄にきて連投し、議論をはじめたときは、閲覧者は増えるよりも、むしろ減っていた。特に女性の閲覧者は、普段は全閲覧者の三、四割いたが、ほとんどゼロになってた。

 
自分が何をしているか、まだ分からないようですね。反信仰として批判するということは、楽山ブログの閲覧者ゼロを目指すということです。誰にも、楽山には、関わってほしくないということです。
 

知名度の高い人気ブログであれば、批判、炎上によってアクセス殺到ということもあるかもしれないが、楽山日記のような閑散ブログの場合は、もとから興味を持っている人は稀であるし、そういう楽山の批判が書かれたり、コメ欄炎上したところで、誰も読まないということなのだろう。

 
楽山の記事やコメントが、読む価値がなく、読んでも嘘と間違いだらけで、むしろ害毒のほうが大きいと判断して、批判しています。信仰を知っているキリスト者にとっては、楽山は、嘘を宣伝しているわけだから、甚だ迷惑で、しばしば、書くのをやめるようにも言ってきたのです。
 

また仮にわずかながらも楽山日記を愛読してくれる人がいたとしても、そういう人はstさんとは考えは合わないだろうから、stさんの楽山批判を読んでもそれに影響される人はいないだろう。

 
楽山と一蓮托生のお仲間たちにとっては、自主性も創造性もなく執念深さだけの根性にマインドコントロールされているわけだから、私とは考えが合わないのが当たり前ということです。
 
私は、私と同じ考えになってくれとか、私と一緒に批判してくれとか、頼むために批判記事を書いているわけではありません。私の務めとして、楽山やシャロームなどの易坊類が邪悪だという情報をできるだけ広めるために書いています。それに、コメントを読む人は少ないでしょうし、批判の本体は、私のブログの記事であります。
 

ようはstさんが、楽山がああだこうだといくら書いても、現実は変わらないということ。おそらくこれは、shalomさん、マリアさんについても同じだ。stさんがマリア批判をしたところで、それ以降もマリアさんとこは人気ブログであり続けてるし、shalom批判をしたところでshalomさんが皆から糾弾されるということもないし、shalomとの会話を拒否する人もいないだろう。

 
ネットでは、興味本位のブログが多いですから、だいたい、批判記事というのは、嫌われる傾向であることも知っています。
 
相手が変わるかどうかではなく、間違っているということを、書けるのに書かないでいることは反信仰を放置したという罪そして反信仰になるので、批判を書ける人、あるいは、書こうという意志のある人が書くべきなのです。
 
だから、訪問者数に依存したブログを書こうとして、受けるための興味本位の書き方を工夫したり、他者に迎合するようになるなら、信仰の記事を真剣に正直に書くという節操にも反してくるのでしょう。嫌われ、読まれなくなっても、言いたいこと、大事だと思うことを最優先に書くことにしています。
 
楽山もシャロームも、お仲間の数や、訪問者数のことを、おとしめる目的で書いてきますが、それは、信仰者としての節操も弁えも使命感も持っていない、例えば、流行るかどうかを判断の基準としているような香具師(やし)か的屋(てきや)みたいな下劣な姿勢と体質を表しているということです。
 

私から見た現実はこのようなものではある。stさんは、マリアさんのブログでは下のような決意表明を書いていたし、命がけでカルトと戦っているつもりかもしれないけど、そろそろ現実に気づいてもいい頃ではないかと思う。

 
楽山から見た現実は、バーチャルであることがよく分かる文章です。核心に入ってゆけないために、分かりやすい指標に頼って、批判しても無駄だと、おとしめてきます。無駄でよいのです。真善美から程遠く、高慢から礼節も弁えず、だらだらボンヤリ言語を垂れ流し、社会悪につながりそうな自己中の邪悪に対して、できることをしているだけですから。
 
 
(2019年12月28日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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