安易な感想
 
 
   大晦日
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12563563269.html
   楽山日記(a)2019-12-31
 

上馬キリスト教会さんのツイートを見てると、いろいろなことが知ることができて楽しいのだけど、この話もおもしろい。

上馬キリスト教会@kamiumach 
【今日は何の日】 12月31日 大晦日 日本ではクリスマスは友達や恋人と過ごしますが大晦日や正月は家族で過ごします。 キリスト教国ではクリスマスは家族と過ごしますが大晦日は友達や恋人と騒いで過ごします。 皆さま良いお年をお迎え… https://t.co/NtG5Zz14f9
2019年12月31日 06:35
 」
当該ツイートの返信に、教会で年越しそばを食べる話がでてるのもおもしろい。キリスト教というと、ちょっと異質で、敷居が高いような感じがしたりするけど、教会で年越しそばと聞くと、ぐっと身近に感じてくるのだから不思議だ。

 
キリスト者は年越しそばを食べないと、楽山は思っていたようです。このように、心のない楽山は、神聖の言葉からの安っぽい短絡や、文化的行為だけで、宗教を考えています。
 
年越しそばで、身近に感じるというのは、いったい、何を宗教だと思ってきたのでしょう。
 

今年は、上馬キリスト教会さんのツイートでいろいろなことを教わったけど、大晦日にまで教わるとは思わなかった。ありがとうございます。
また今年は、ヤフーブログから、アメブロに移動して、新たにさまざまなブログを訪問させていただき、たくさんのことを教わり、刺激を受けました。ありがとうございます。
みなさま。よいお年を!

 
自分の、至らなさや、弱さや、欠点や、悪や、罪や、偽善や、冒涜を、全く、考えず、気にもしないで、このような、白々しい感謝と挨拶を書けることが示しているのは、上から目線で良し悪しを語ってきた楽山の立場が、たとえ感謝や挨拶の世辞を書いても、それこそ、人に義を与える神の立場に近いところに思い上がり続けていることを示しているだけなのです。
 
楽山の言には、随所に、通念的な概念や話と神聖についての言葉を組み立てると宗教や信仰になるとでも言うような思慮の浅さが表れてきます。信仰の話は、高度で難しい話ではありませんが、人間の罪性を学ぶためには謙虚さが必要ですし、癒しと愛を学ぶためには人間らしい心が必要です。楽山やシャロームなどの易坊類のように、話の通じない者たちというのは、前から言っているように、人間らしい心が無いのだろうと思っています。
 
それと、反論も弁明も出来なかったことについて、無かったかのように無視して、また続けて書くことができるというのは、彼らが思っている以上に、異常なのです。単なる無知ではなく、返せなかったということに恥ずかしさを覚えない情緒の欠陥を想定せざるを得ないのです。いわゆる無恥、恥知らず、羞恥心の欠如、ということになるのです。
 
それとも恥や罪を、むしろ喜び~勲章みたいなものとして、なお、相手を笑ったり、平然としていたりできるということでしょうか。だとすれば、彼ら楽山やシャロームなどの易坊類は、ますます、誰も巻き込まれてはいけない者たちということになるのは当然なのです。それはカルト以上に狂気~病気なのですから。
 
 
   『HK/変態仮面』を観たのだが…
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12563557373.html
   楽山日記(a)2019-12-31
 

『HK/変態仮面』を観た。パンツをかぶったヒーローが出てくるコメディというくらいのことしか知らなかったのだが、想像以上のヘンタイだったので驚いた。
主人公は女性用下着をかぶって変身するのだが、使用済みでなければ変身できないだとか、自分の履いているパンツをぐいと上げて股間をもっこりさせてパワーアップとか、必殺技は自分の股間を敵の顔にぐいぐいこすりつけることだとか…まさに下ネタ満載だ。

 
こういう感想文を書くのには、とても不適切なブログをあり方を示してきたのが楽山であります。こういう記事は、カムフラージュと言ってよいでしょう。
 
こういう記事を書いて、笑い合いたいのなら、信仰や宗教を否定するような、決めつけるような記事は書かないはずなのです。依怙贔屓と詭弁と誘導で出来ている記事しか書けない楽山は、真剣な記事のあいだに、オチャラケ記事を挟むのが、ごまかしですと言っているようなものです。
 

しかもヒロインは、そういう変態仮面をかっこいいとして恋するのだからおかしい(笑)。悪者は戦闘中に、自分で自分の乳首をすりすりし続けていたのも見逃せない。
これはもう完全にネタ映画になってる。ただそれでも主人公が正義の実現のために葛藤する場面はいろいろ考えさせられるものはあった。その具体的な内容はこういうものだ。
主人公は普段は無力で悪に対抗できない。悪に立ち向かおうとしても返り討ちにあう→でも変態仮面に変身すれば無敵となって悪を倒し、正義を実現できる→ただし変態仮面に変身するには新品の下着ではなく、使用済み下着をかぶらなくてはならない→使用済み下着を持ってない主人公は正義の実現のために女子更衣室に忍び込まざるを得なくなる。

 
ある意味、楽山は、変態仮面みたいなものです。柔和な常識人を装いながら、シャロームの狂信条に呼応して、味方して、かえって、自らを辱めてきたのです。
 
哀れと言えば哀れですが、そのような情など掛けても意味がないのは、楽山自身が、シャロームに酷似していて、無反省、訂正不能、霊が分かるっぽい自覚で、ずっと、とても常識人とは思えない記事とコメントを書いてきたからです。
 
ちなみに、楽山を若者と思っているなら、じっくり見ていくか、関わらないほうがいいでしょう。若者とは思えないところがあるのは、若者言葉が、本当に若者とは感じられないほど、センスがなくて、とても不自然だからです。
 

これは「なんじゃ、そりゃあ!?」という理屈ではあるが、ひょっとしたらこれって必要悪をよしとする人に対する皮肉、風刺なのだろうか。考えすぎかな。どうだろう。

必要悪とは道徳的、法律的には悪いことであり社会的にマイナス効果があるが、それがなかった場合により大きなマイナスがある時に存在を肯定される悪のことである。
必要悪は法律で決まっていることもあるし、暗黙の了解で決まっていることもある。悪人の開き直りにも使われることもある。必要悪もまた悪であることを忘れてはいけない。 !}
・必要悪とは (ヒツヨウアクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%BF%85%E8%A6%81%E6%82%AA
 」
必要悪について、自分は頭ごなしに否定するつもりはなく、そういうこともあるかもしれないと思ったりもするのだが、本作をみるとこの点についてはもうちょっとよく考えてみた方がよさそうな気はしてきた。

 
言ってみれば、大人数の犠牲と、少人数の犠牲の、どちらかを選ばざるを得ないときに、後者を選ぶような判断と行為のことでしょう。楽山は、ボンヤリ言語の書き方で、また、分かってない自分をごまかしています。
 
はっきりした意見が言えず、苦し紛れに、分からないくせに、「頭ごなしに否定するつもりはなく」「あるかもしれない」「よく考えてみた方がよさそうな気はして」と言って、分かってるんですけどね的な印象を与えようとする詭弁の一種です。とても、みじめな、楽山。
 

でもまあ、それはそれとして、こういう場面は見ていて和むなあ。ぎこちなさが、かわいい。

 
このような、おどけは、小芝居であります。今までも、こういうオチャラケ記事を挟んできたのが、楽山なのです。
 
そして、大事なところでは、シャロームの味方をして、理路のない詭弁を弄してきたのも楽山であります。こういう、感じない、そして、考えない、気に入らないことを全部無視する人の存在によって、シャロームは、ネットで笑いながら生き延びてきたのです。
 
 
  楽山の「st、楽山 問題を振り返る」
  http://mn266z.blog.jp/archives/22718002.html
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12561107920.html
 
この記事で、楽山は、次のように言っています。
 

楽山日記とは何なのかと言えば、実際のところは、平凡人が平凡なことをつづっているだけのブログだ。

 
しかし、楽山は、平凡人でありながら、信じる人にしか分からないはずの宗教の深い真実について、恐れも慎重さもなく、宗教知ったかぶりの幼稚な先入観からの固定観念と詭弁で、良し悪しを語ってきたのです。平凡な人なら言わないような宗教と信仰への侮辱を、当てつけと、お芝居と、曖昧なボンヤリ言語で、無反省に向けてきたのが楽山です。
 
楽山は、自分のお粗末ぶりと裏腹なインテリ気取りの思考力のいい加減さを、ごまかすために、このような、おどけ芝居の記事を挟んでくるのです。この、おどけの軽口で平凡人の振りをしても、決してそのような身の程を弁える男ではない。
 
好き放題に、平凡人の弁えはないのに、専門家の鋭さも深さもないまま、うんざりするような粘着性の記事を、すっとぼけて書いてくる独りナルシシストの傲慢人なのですから。
 
そういうところ、実に、シャロームにそっくりであります。そして、シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という妄想を熱心に執拗に支持していたのが、楽山であります。気取りだけで、満悦する楽山の、おどけ芝居に騙されないでください。
 
 
  映画『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12563896877.html
  楽山日記(a)2020-01-01NEW !
 

本作のストーリーは、米英は、街中の一軒家にテロリストたちが集まっているのを確認し、ミサイル攻撃をしようとするが、その家の前にパン売りの少女が立ったことから、軍人や政治家らの間で議論がはじまるというものだ。
自爆テロをたくらんでいるテロリスト殺害のためにミサイル攻撃をすれば、高確率で攻撃対象の近くにいる少女をも死なせてしまうことになる。けれども少女のためにミサイル攻撃を中止すれば、テロリストらを見逃すことになり、自爆テロによって、より多くの犠牲者を出すことになる。この二つの選択肢のうち、どちらを選ぶかという議論だ。

 
この記事とは違うけれど、ずっと前に書いたことで、聖書の汝殺すなかれ、という教えについて、罪を考えるうえで重要なこととして、
殺人犯が目の前にいる。今なら銃で殺せる。どうするべきかという問題で、殺せば教えに反する。殺さなければ殺人犯は、自分を殺すだけでなく、さらに殺人を繰り返すだろう、さらに百人を殺すかもしれない。殺すべきか、殺さざるべきか、どちらが正しいか、どちらが罪であるか、ということを書いたことがあります。
 
外国の刑事ドラマや映画などでは、殺すことが多いようです。
 
そのときの私のテーマは「どちらを選んでも罪」だったと思います。罪を犯さない正しさは、人間には不可能である、罪なき者は一人もいない、というようなことだったと思います。
 
道徳であれ、宗教であれ、教えというものは、教えだからと、単純に守ろうとすると、ときに、矛盾を来すことがある、という思考実験的な話だったと思います。そこから、人間は、罪から逃れることは出来ない、罪なき人はいない、ということが言いたかったのかもしれません。
 
記事の話とは、どちらも罪に結び付くという点で、共通していると思います。
 
描かれるテーマは、ほかでもない、罪・・だと思います。
 
楽山は何を受け取ったのでしょう。
 

本作では、この議論が延々と続くのだが、どの登場人物も自説を主張するときには感情を抑制して、論理を通しているところは印象的である。

 
論理が通っていたのでしょうか。論理を通すことができるのでしょうか。通らない場合だからテーマになっているのではないでしょうか。
 
似たような選択において、映画などでは、その町や人々には知らせず、ミサイル発射というシーンがあったような気がします。それで正しいとは言えないが、やむを得ないという理屈になるのでしょう。
 
この問題は、つまり、どれが正しい、という結論の出ない問題なのです。
 

大きな不幸を回避するために誰かに犠牲をしいることは許されるのか、大悪を裁くために小悪を犯すことは許されるのか…といったことは、昔からある議論だけど、上のような状況がありえることからすると、まだまだこの問題は解決できそうもないな。必要悪という考え方は嫌いだけども、それをきっちり否定できないところはつらい。

 
考えただけでも、そういう場合があることは想定できるでしょう。好き嫌いではありません。
 
必要悪は、正しいか、ということでありますが、正しい悪というのは矛盾律でもあるのです。人間は、そういう矛盾の中で生きているというテーマでもあります。やむを得なかった、というのは、不可避を表しているが、正しさを表すわけではないということです。
 
善悪の二元論的に、罪を犯すな、という教えではなく、聖書の、罪なき者は一人もいないから、赦しが必要だという信仰の話にも結び付いてくる重要なテーマになります。
 

この人物は、終始、強硬に攻撃を主張していて、少女を犠牲にすることに何の迷いも感じて無さそうでサイコパスっぽかったが、最後には暗い表情をしていたのでやはり葛藤はあるのだろう。人間らしいまともな情緒をもちながら、責任ある立場に立たされている人はこういう時はかわいそうだ。

 
楽山は「人間らしいまともな情緒をもちながら」と書いて、結論は、責任者は「かわいそうだ」ということのようですが、小学生の作文ではあるまいし、書いてどうなるのでしょう。責任者の判断に命を左右される人あるいは人々のことを考えに入れなければ、感想としても結論としてもテーマとしても意味はないでしょう。
 
人間の罪というものを考えるうえで、不可欠の問題です。責任者「かわいそう」で済ませてはいけない問題だと思います。罪という問題の広さと深さと難しさを思い知らされる問題だと思います。「かわいそうだ」という結論や結びの言葉を拒む重みを持っているわけです。
 
 
今では、楽山やシャロームなどの易坊類、と呼ぶ批判対象者に、なんというか、私が、最初に反感に近い疑念をいだき始めたときの直感的な気持ちを表して、
 
・・うさんくさい・・、そして、・・いけすかない・・。
 
と言えば、彼らは、それを、無根拠に、こちらに向けて、返したつもりになるか、
あるいは、無頓着に、同じことを、平気で、繰り返し言ってくる。
 
そうやって、批判者が、うんざりするのを見て、納得~満悦するのだろう。
だから、関わらないことが、難を逃れる唯一の方法である。
 
・・ということを伝えるために批判記事を書いています。
 
 
(2019年01月03日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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