サイコパス、カルト
 
   『夜の哀しみ』三浦哲郎:抜粋
   http://mn266z.blog.jp/archives/22600729.html
   楽山日記(仮、倉庫)
 
 
良心の呵責を感じない楽山が、良心の呵責を感じないサイコパスについて語っています。自分は違うと、的を逸らすためか、いわゆる予防線だと思います。
 

*悪役とサイコパス
本作の登場人物の中には、サイコ的なものが二人いる。聖次と克夫だ。聖次は自分のために人を利用し、用済みになれば捨ててかえりみず、その事に良心の呵責を感じないらしい。克夫もこれと大同小異で、人の弱みに付け込み、それを最大限に利用しようとする。人を苦しめることに楽しみを感じてさえいそうだ。

 
楽山は、サイコパスと思われるシャロームの仲間です。お仲間として、シャロームの味方をしました。シャロームは、何でもいいから打撃を与え、相手を打ち負かすことを悦びとして、しょっちゅう、憎まれ口を、悪口を、いろんなことをネタに、個人情報までバラして、叩いてきます。
 

身から出た錆とはいえ、この二人に挟撃されている登世は、本当に気の毒だ。登世はこの二人に出会わなくとも結局は道をあやまったのかもしれないが、この二人と出会わなければ大過なく過ごせたかもしれないのだから、ここは同情しないではいられない。

 
楽山が、被害者に同情すると言うのは、やはり、自分は違うという予防線でしょう。シャロームとの連携は硬くて、ボロボロだけど、縁が切れることはないようです。仲間か、成りすましか、親族か、など、疑っています。
 

小説に限らず、映画やドラマでも、悪役はサイコ的な特徴を持っていることが多いが、そういうものを見るたびに、「相手がサイコパスだと気付いたら、即、逃げろ!」という教訓は本当だなと思わないではいられない。

 
「即、逃げろ!」・・なのに、楽山は、シャロームと仲良しです。今後も一緒に、キリスト教とキリスト信仰を、おとしめてゆくのでしょう。罪悪感を感じないで嘘も好きなようについてきたシャロームと仲良しの楽山が、サイコパスについて書くのは、笑止、いや、悪意の企みです。
 

現実のサイコパスは、小説や映画ほど分かりやすくはないだろうが、百人に一人はサイコパスだという調査もあるようだし、用心するに越したことはない。むやみに人に偏見を持ったり、差別したりするのはよくないことではあろうが、サイコパスの疑いがある人とは、距離をとるのが無難ではあるだろう。

 
こういう、自分は関係ないけど、みたいなことを平気で書けることが、疑いを深くするでしょう。「距離を取るのが無難」と書いていますが、上では「「即、逃げろ」という教訓は本当だな」と書いている不整合に気づかない人のようです。「無難ではあるだろう」と、「即、逃げろ!」・・この2つは、ニュアンスが違う?、いや、全然、違うと思います。私は、批判するようになってからは、一貫して、関わらないようにするしかないと書いてきました。
 

本作は、性に翻弄され、道をあやまった女の物語とも読めるが、サイコパスに利用され、破滅させられた、無垢な女の物語とも読めるだろうし、その意味で不倫ものではなくて、サイコホラーと言えば言えそうでもある。不倫ものには興味ないという人でも、サイコパスの怖さを知りたい人には、一読の価値ありである。

 
私が言いたいのは、サイコパスの怖さを知る前に、楽山やシャロームなどの易坊類からは、即、逃げろ!です。他人事ではないのです。罪悪感がない、反省しない、人の言うことを受け取らない、自己中心、訂正不能、ナルシシスト、という共通点のある3者です。
 
 
  宏洋氏の動画を見てみた!
  http://mn266z.blog.jp/archives/22600860.html
  楽山日記(仮、倉庫)
 
 
他者の口を借りて、自己弁護したいのでしょうか。自分のことは、棚に上げて。
 

*カルトはどこも一緒
この本はまだ未見なので、こういう動画を見ると読みたい気持ちが高まってくるなあ。
「カルトはどこも一緒…」という言葉については大いに共感する。紹介されてる書籍はまだ読んでないけど、他のカルト関連の本を読んでても、元信者さんらの言葉を聞いてても、そういう感想はもちますね。
カルトによって、その程度、言葉遣い、信仰対象などに違いがあったとしても、基本的なところは同じだなあと。

 
これは、楽山の筆致です。楽山は、カルトはどこも一緒、という意見に共感するのだそうです。私としては、カルトは違法行為に走る前日はカルトでないかと言えば否ですから、その成立過程は様々だと思います。まだ、目立たないカルトがいっぱいいるだろうとも思います。だから、みな一緒ではないでしょう。
 
共通しているのは、社会悪に発展しうる現実離れの神がかりの教祖中心の信条、そして、訂正不能、罪悪感も捨てる、反省しない、根拠のない異常な確信、などです。妄想の定義に似ています。
 

*にがい顔
エホバの証人については、自分は、二、三の思い出がある。一つは社会見学のつもりで、王国会館に行ってみたときに、自分の隣りでにがい顔をして座ってた男性に「信者ですか」と聞いたら、ぶすっとして首を振っていたことだ。
そのときは、信者の奥さんに無理矢理つきあわされて、ぶすっとしてるんだろうと想像しただけだったが、今にして思うと、いい年した大人の男性が、みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌を隠そうともしない状態というのは、よほどのことだったろうなと、前以上にこの男性に同情してしまう…。

 
まだカルトに属している状態の人に同情するのだそうです。この状態で同情は届きません。同情するのは脱却するときでしかないでしょう。
 
それと、不機嫌を、カルトの現れみたいに書いているのは、根拠にもならない邪推の段階でしかないでしょう。何の言い逃れか、実に奇妙なことを楽山は書いています。
 

*マイコン
もう一つの思い出は、近所の本屋の店員さんがエホバの証人だったので、「輸血拒否っておかしくないですか」と聞いたら、微笑を浮かべつつ、ゆったりと頷き、「勉強すれば分かりますよ」と言ってたことだ。

 
カルトにおいて、恐らく、勉強は洗脳だろうと思います。否と言えない状況に置かれて、同じことばかり聞かされ読まされていると、分かったような気になるのでしょう。自己暗示でもあるのでしょう。楽山には、どういう思い出なのでしょう、忌まわしい記憶とは、言わないようです。
 

ちなみに先の記事に取り上げた本だと、「今にわかるよ! もっと学ばねば!」というのは、マインド・コントロールで使われる常套句らしい。常識的にはおかしいことに思うかもしれないが、教義を学ぶと真実だと分かりますという風に、教義を学び、その通りに思考することを促す言葉。

 
やはり、勉強というのは、教義を学ぶことですから、閉鎖された環境で同じことを聞かされ読まされることなのでしょう。
 
しかし、それ以外に、シャロームや楽山などの易坊類のやり方として、丁寧語や、ボンヤリ言語で、婉曲的に暗示したり、印象を吹き込まれることも、特に初期には、あるでしょう。そこから罠は始まっているのです。
 

当たり前に考えてみれば、その宗教の教義を学ばなければ分からないというのは、ようするにマイコンされなければ分からないということなんだから、分からないままでいるのが正解なんだけども、教団の中にどっぷりつかっていると、この辺りの常識を見失ってしまうのが悲しいところだ。

 
ボンヤリ言語で婉曲的に吹き込まれるときには、印象または先入観として植え付けられるでしょう。楽山が、しばしば、曖昧表現で言って、いつのまにか、何かを否定し、何かを植え付けようとするのも、印象操作という暗示で吹き込むやり方でしょう。
 
楽山は、アドラー教の影響と受けています。そして、気に入らないことは無視しましょう、という信条を書いています。それは、今も、訂正されておらず、生きていると思います。彼は、気に入らないこと、都合の悪いこと、失言などは、まるで、記憶に残っていません。
 

教団内では、教義に則って考え、行動する人ばかりなんで、そういう人たちに囲まれていると、自分からすすんで教義に染まり、みなと同じになりたいと思わないではいられなくなるとか。

 
楽山は、シャロームの味方です。「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という真逆の信条を持つ凶悪偽善カルトのシャロームを、熱心な信仰と褒めて、味方したのです。これは事実だから、心から改めない限り、何度も言うことになります。
 
シャロームについては、約8~9年、批判していますが、まるで変わらない訂正不能で、人間性が破壊され、楽山同様、不都合を、覚えていません。そういう凶悪なシャロームと縁を切ろうとしない楽山を、信頼するのは、極めて危険です。
 

マイコンはカルトに限らず、大なり小なり至るところに存在するという見方もあるけれども、カルトのように一般常識から極端にズレたことを正当と思わせるというのは、巷によくある誤解、偏見、先入観の類とは大分ちがうし、本人にとっても社会にとっても悲劇だし、ここは気をつけなければならんと改めて思う。

 
楽山は、カルトが社会にとっても悲劇だと言いながら、私が、楽山やシャロームをカルトだと指摘したことには、何も反応しないし、ここにも何も書かない、これこそが、情報の選択であり、逆に、カルト被害者を装う軟派カルトのやり方であると、前に書いたと思います。
 
共感を装って、言い逃れをする楽山は、カルト被害者ではなく、カルト宣伝者です。のんびり、まったりした話題を提供しながら、読書自慢して、分かっているふうの知的で柔和で中立な人間を装うので、押しの強い硬派カルトより、さらに厄介になる可能性があります。
 
カルトではないかという目で見てゆくと、相当、白々しくて気持ちの悪いことを言っていることに気づくでしょう。私は、いつも自己顕示欲と自己正当化を出してくるくせに、キリスト信仰だと言い張るシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という、とんでもない真逆の決定的な偽信条を中心に、楽山が、味方したときからカルト、あるいは、カルトの手下か仲間だと判断しています。
 
 
(2020年01月07日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html