アドラー教について(11)
 
   2019-11-05  
  【永久保存版】いじめる心理、いじめられる心理とは
  https://www.adlersalon.com/entry/2019/11/05/150559
 
 
いじめ問題について、様々なケースがありそうなところを、いじめはなくならないという前提、いじめは本能の問題、優越性の追求から劣等感となり、いじめは八つ当たり、いじめられるのは劣等感の不幸アピール、などと短絡して、不健全な努力と言っていますが、その前に、十把一絡げに書くこと自体に問題があると思います。
 

アドラー心理学サロン(ポジティブ心理学サロン)です。
今回はいじめをテーマに、いじめの対策についてお話しさせて頂きます。
きっかけは、フォロワー様から先日に下記のようなメールを頂いたことです。
---メールの内容---
フォローさせていただいてます!
表題のとおり、いじめに役立つのでは?と思い連絡しました。
いじめる側の心理、いじめられた時の対処法
これを各学校などで活用できるような資料を作成、配布、または公演など出来ないでしょうか?
特にいじめる側の心理を子どものうちから周知すると、いじめる子どもの問題解決にもなり、いじめられる側が悪いという風潮がなくなると思います!
不満を攻撃するのではなく、自分を大切に自立していきやすい世の中になるといいですね。
思いつきですが、ご検討いただけたら幸いです!
暑いですがお身体にお気をつけください
---

 
私が注目するのは「いじめられる側が悪いという風潮」というところです。そういう風潮があるのなら、大問題でしょう。それも、いじめではないかと。
 

結論から申し上げますと、いじめは無くすよりもエスカレートさせないようにするしかないと考えています。

 
ブログ主は、いじめをなくすよりエスカレートさせないようにする、という方向に向かっています。ちょいとネガティブに傾いています。実践において、なくならないということなら分かりますが。
 

なぜなら、いじめをすることも、いじめられることも人間の本能に関わることであり「いじめ」そのものを否定することは人間を否定することに繋がってしまうからです。

 
いじめ問題は、個々をなくす、防ぐ、そして、ゴールは、全部なくすべきことでしょう。なのに「「いじめ」そのものを否定することは人間を否定することに繋がって」と言っています。人間の悪はなくならないという前提なのでしょうか。悪がなくなると、人間否定なのでしょうか。
 
ネガティブに沈没していると思います。
 
性悪説の受容でしょうか。ダークサイドは、人間成立の条件なのでしょうか。その上での対策ということなら、悪い奴は悪い奴、一生変わらん、という考えのベースがありそうなことを言っています。ブログ主は、何のために、いじめについて書いているのでしょう。
 

「いじめをすることも、いじめられることも人間の本能って言うと、人間はいじめたり、いじめられることを楽しんでいるとでも言うのか⁉︎」と批判を受けそうなので、詳しく解説します。
いじめをすることにも、いじめられることにも根本的な原因は劣等感の取り扱い方にあります。
アドラー心理学では人は今よりも良い状態を求める「優越性の追求」という性質があるとしています。
今持っているものよりももっと良いものが欲しい、今持っているよりも多くを手に入れたい、こうした欲求が人間に劣等感を感じさせます。

 
劣等感が、加害・被害ともいじめの原因で、より多くを手に入れたいという欲求が、さらに深い原因だと言いたいのでしょうか。いじめは、欲望のせいだと言っています。
 
いじめられる子の欲求は、苛めないでほしいことではないのでしょうか。
 
優越性の追求をするから、苛められるのでしょうか。アドラー教が扱える問題に、強引に方向づけしてはいないでしょうか。そういう問題ではないと思います。
 

満たされない自分の欲求を満たす為に、人間は現実の自分と向かい合って健全に努力するタイプと、現実の自分を否定して不健全に努力するタイプに大別されます。
健全に努力ができる人は、例えば勉強や仕事に打ち込んでより良い成績や成果を残そうとします。
しかし、不健全な努力をしてしまう人は、自分がダメな理由は家庭環境や周りの人達に恵まれなかったからだと不幸自慢をしたり、他人に八つ当たりをして自分は悪くないと自分を正当化してしまいます。

 
努力を、健全と不健全に分けて、いじめは、不健全な努力の結果、不幸自慢、または、八つ当たりと自己正当化が原因だと言っています。
 
苛められる人は、不幸自慢をしているのでしょうか。どういう自慢でしょうか。大いに疑問です。
 
まず、苛められる側と、苛める側を、同じ原因で説明しようとするというのは、どういう理解なのでしょう。被害と加害が、同一の原因だというのでしょうか。
 
アドラー教で、無理やり、ドカンと、一気に、説明して、いい気持ちになりたい欲求で書いている感があります。信じ込むと、全部、信条に当てはめて、上から説教を垂れるカルトに似ています。
 

そうすることで努力できない、結果を出せない自分は仕方がないのだと周囲にアピールして、特別な存在であろうとしてしまうのです。

 
いじめる側には、例えば、人格障害とか、教育の問題とかも考えるべきでしょうに、アドラー教で全部説明できるという信じ込みの固定観念があるようです。
 

非行に走り、言うことを聞かず、権力に逆らう自分はカッコいいと思い込んでいる不良少年が良い例です。
このように不健全な努力をしては自分の価値を高めようとすることを「安直な優越性の追求」と呼びます。

 
「安直な優越性の追求」・・卓見などというものではないですね。優越性の追求自体が、教育問題となるでしょう。
 

早い話がいじめをする人間は他人に八つ当たりをすることで憂さ晴らしをして自分を正当化しており、いじめられる人間は不幸アピールをして自分は可哀想だから仕方ないんだと他人に訴えています。

 
いじめられる人間は、不幸アピールをしているのでしょうか。自分はかわいそうだから仕方ないんだと訴えているのでしょうか。一部の例があったとしても、一部で全部は語れないですね。殆ど、暴言です。
 

世の中で発生するいじめは、この両者から始まって時に健全な努力をしている人間にまで飛び火してきます。

 
よほど、いじめられる人も、いじめる人も、アドラー教は邪魔なようです。
 

お互いが自分を正当化する為に、無意識のうちに求め合っているに等しいとも言えます。

 
いじめられる子が、いじめる子を、刺激するところがある、という一部の現象があっても、さて、求め合って、いじめは起こっているのでしょうか。なぜ、社会問題になるのでしょう。ひょっとして、ブログ主は、いじめる子も、いじめられる子も、嫌いなのではないでしょうか。それとも、めんどくさいと言いたいのでしょうか。
 

いじめる側もいじめられる側も、率直に言うと人の気持ちが理解できていません。
八つ当たりされた人は何の罪も無い被害者ですし、不幸自慢された人はその分あなたに気を遣わなくてはならなくなりますので負担を感じています。

 
ブログ主は、いじめる側と、いじめられる側の、どちらも、気持ちを理解できていないと思います。
 

いじめられる方にも問題があるという話をあなたも聞いたことがあると思いますが、間違ってはいないのです。

 
と言いながら、
 

ただ、圧倒的に悪いのはいじめをした方なのは確かなことです。暴力を振るわれて傷付いた方が悪いなんて話はまかり通りません。

 
いじめられる子と、いじめる子とを、同じ原因でくくってきたブログ主の話も通らないと思います。
 
あんまり思い切って書いてものだから、絆創膏を貼るように、言い訳しているのでしょう。
 

もちろんいじめの形態は一様ではなく、その他の物事と同じように例外はあります。
何の落ち度もないのにいじめを受けていた人もおりますので、いじめられている人を責めるような意図ではありませんことをご了承下さい。

 
だったら、上のようなことは、書かないことです。何の説明にもなっていません。だいたい、いじめ問題について語れると思うブログ主に問題があるのでしょう。了承してはいけません。
 
今までも似たようなことがありました。豪語して、自己中だと批判されて、自己中ではないと答えるだけで、訂正も、弁明もしていないと思います。批判を言葉の上で否定しただけでは反論になりません。
 

前置きが長くなりましたが、劣等感を不健全に穴埋めしようとする人によって、いじめが発生してしまうのです。

 
白々しく、また、元に戻って、自分の結論を繰り返しています。ここ数行は、やはり、自分は分かったうえで教えを垂れるんだから文句を言うな、という、予防線だったのでしょう。狡い策略的な詭弁であり、一般性も整合性もないと思います。
 

劣等感の扱い方が原因なので、大なり小なりどんな場所であっても「いじめ」もしくは近いことは起きてしまいます。
どこからをいじめと思うのかは人によって解釈がかなり乖離するので、具体的な定義は難しいので「やられた側が傷付くがどうか」を基準とするならどこにでもいじめは存在すると言えます。

 
安心して、話を、お得意のアドラー教へ誘導しています。
 

つまり、メールでいじめを無くす活動をして欲しいとのリクエストを頂きましたが、いじめそのものを無くすことは不可能です。

 
はっきり言えることは、不可能と思っている人には、明らかに不可能なのです。
 

いじめを減らすことは道徳の授業を増やしたり、厳しく教師や上司が監視して罰することで可能ですが、根本的には無くなることはありません。
前述の通り、むしろいじめをエスカレートさせない仕組みを整えることが大切です。
対策は千差万別ですが、不健全な努力をしないで健全に努力できるように勇気づけをする機会や制度を設けたり、いじめを見て見ぬふりをすることも、いじめに加担していることと同じであるということを継続的に指導するなどです。

 
そして、結論として、いじめはなくならないと念を押し、あとは、既に、多くの人によって、考えられていることだと思います。ブログ主は、ささっと、済ませていまいました。
 

人間の性質を否定するよりは、むしろ受け入れて問題が起きる前提で対策を講じた方が効果は高いと考えられます。

 
受け入れて問題が起きる前提での新しい対策を何も語りえていないブログ主です。
 
子どものいじめは、先ず、当事者が言って来ても来なくても、決して見逃さないことが大切だと思います。次には、チクったと、あとの仕返しをゆるさないことが大切なのでしょう。
 
子どものいじめであれば、自然に年長になれば収まることもあるかもしれませんが、教育による説諭と、さらには、ときに医療が必要になることもあるでしょう。目を背けないことです。注目し、連携することです。重要な人格異常が含まれている可能性もあります。
 
いじめはなくならないと言って、自説自慢のネタにするようなことをしてはいけません。
 
 
(2019年01月17日)
 
 
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