ぼそっと感慨
 
 
食べる物と寝る場所があるから
今日一日、ためしに生きてみる。
一日を生きずに死んでしまうよりは
できることをして一日を生きて
明日があったら、また考える。
青年期にそう決めてから早40年。
 
 
話すたびに
神とキリストの名を出して
福音伝道したつもりになるなら
勘違いも甚だしい。
 
非信仰者にとって
神とキリストは、まだ、よそ者だ。
神聖の名前だけ繰り返されても
文字列を宣伝しているようなものだ。
 
神と聖霊の導きがあるからなどと言えば
できることをしないでいる怠慢を
神聖の御名によって言い訳している。
 
では、どうすればよいのか。
話題が共通なら
頷きの賛同とは異なるところの
共感ならば
同じ人間として可能だろう。
 
信仰だからといって
驚くような、感動するような話は
こちらが感じることが稀なのだから
無理はしないで、
ふつうの良心が必要なのであって
自らに
預言者の洞察を当てはめてはいけない。
 
非信仰者のどこに働きかけるか
信仰者には信仰だが
非信仰者には良心だろう。
 
良心について考えること
良心のおもむく方向を考えること
これは、神のわざを考えることより
信仰者において大事である。
信仰は良心を育てるからだ。
 
神のわざは、信仰者にとっても、人知では語れないからだ。
 
それを語ろうとすれば聖書の話になり
あったなかったで、
信仰者は決めつけに走る傾向があり
つまり分かっていないことを表してしまう。
 
信仰者は人間である。
人間であることは救いの根拠であり条件である。
そこからしか信仰の理解は始まらない。
 
人間離れは超常を根拠とするために
悪魔的であるか神がかってくるので
その方向に救いに至る道はない。
 
人間だから祈りが必要なのであって
一人だけの祈りの時と所が必要であって
祈りにおいて人間としての弁えが必要である。
ただ一つ、精いっぱい、正直であること。
 
 
(2020年01月20日、同日一部修正)
 
 
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