分かったふう?
 
 2020年01月30日
 『ブラインド・ウォッチメイカー : 自然淘汰は偶然か?』
 ドーキンス著、中嶋康裕ほか訳
 http://mn266z.blog.jp/archives/23315368.html
 
 
ドーキンスという人は、科学者で、無神論者のようです。無神論者には、人間の、特に、自分の、知性で、必要なものは賄(まかな)える、という、自己愛性の強い人が多いように思います。卑近な例では、自己愛性人格の者は、宗教嫌いの無神論者と、自分信仰のカルトがいます。
 
(ネットより)
クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者である。
ドーキンスは率直な無神論者で、宗教批判者である。「無神論は進化を理解することの必然的な延長である」と考えている[35]。また「宗教は科学と両立し得ない」とも考えている[36]。
『盲目の時計職人』では次のように述べている。
ダーウィンの以前に無神論者というものがいたとすれば、その人はヒュームに従ってこう言うこともできただろう。「生物の複雑なデザインについての説明を私は持ち合わせていない。私に分かっているのは、神を持ち出してもそれをうまく説明できないということだけだ。そういうわけで我々は、誰かがよりうまい説明を携えて現れるのを待ち望むほかない」と。そういう立場は、論理的に聞こえはしても、聞く者にとても納得のいかない気分を残すものだし、無神論はダーウィン以前でも論理的には成立し得たかもしれないが、ダーウィンによってはじめて、知的な意味で首尾一貫した無神論者になることが可能になった。[37]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B9
 
神は、学問によって説明する対象ではありません。説明できる対象でもありません。神は、学問のように何かを説明するためにあるのでもありません。神を学問と同列に考えることは出来ません。
 
宗教は信仰のためにあり、信仰は、神を詳しく知るためではなく、人を、特に自分という人間を、深く知るためにあります。神を信じる信仰は、人が生きるためにあるのです。
 

本書はドーキンスの代表作だけども、まだ読んでいなかったので、ざっと斜め読みしてみたのだが、自分にとっては程度が高すぎて難しい本である。でもドーキンスの著作はあれこれつまみ読みしているので、見覚えのある論点、お馴染みの話が散見されるのは楽しい。

 
楽山は、何度か、ドーキンスの記事を借りて、気色の悪い独特な婉曲表現であるボンヤリ言語をもって、神と信仰を否定してきました。狡くて卑怯な人だと思います。
 

自分は迷信深い性質なので、こういう本を読んでどうやら神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じてしまい、無神論にどっぷりハマり続けるということはできないのではあるが、それでもドーキンスの本を読めば、今自分が生きていること、地球上に奇跡としか思えないほどのすばらしい生物があふれていることなどについて、神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う。

 
楽山が、迷信深いから神の臨在を感じると言っていることを見逃さないでください。信じるどころか、楽山にとって、恐らく最初から、神と迷信は同列なのです。迷信深いのなら、神についても、信仰についても、学問についても書いてはいけないのです。
 
楽山は、またしても、神を引き寄せて、自分は特別と思わせたいようだが、実際には「神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じて」しまうことはないと思います。神の臨在を感じたなら信じるはずだからです。つまり嘘です。
 
楽山は、神の臨在を感じながら、無神論を理解しているようなことを言う、つまり、どっちも分かっている、という、嘘っぱちの立場にいる妄想的学者気取りです。
 
いつも、はっきり言わず、どっちつかずであるように装っていますが、楽山が神に親和するときの、神の臨在、というのは、実に、いかなる宗教とも思えないような、気色の悪いオカルト興味の飾りで出来ています。こうやって、楽山は、心の中の正気を失い、妄想様観念を、ぶくぶくと膨らませてきたのでしょう。
 
楽山が信じているのは、自らの霊が分かるっぽい自覚だけです。そういう思い込みがあるために、楽山は、神、宗教、信仰、心霊、など超常について自分は語れる、という訂正不能の妄念の奴隷として、読めば、浅はかさが表れているだけのような自慢の記事を書いてくるのです。
 
楽山は、まるで宗教について評論家にでもなったかのような態度で、ああでもないこうでもない、でも神はいないと、深みも意義もない繰り言を書いてきているに過ぎません。
 
そういう自覚によって、宗教についての単なる感想にとどまらない是非を語ろうとして、失敗しては、なお反省はせずに、病識のない自意識だけを保とうとする記事を、また、批判に答えることもなく、性懲りもなく、書いてくるのです。自己愛性人格障害を思わせる危険な人だと思っています。
 
>神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う<
 
神は、持ち出される存在ではなく、また、何かの説明に使われる存在でもありません。この幼稚な安っぽい妄想に付き合わされる人は、犠牲者でしかないです。よく平気で、これだけ整わない作り話が出来るものだと思います。
 
楽山は、人間らしい理路から外れる度合いの分だけ、人格が破壊されている表れとなるのでしょう。何でもわかっているという誤った自尊~妄想を出しながら、かつ、自分は柔和だと思わせたがるのは、まさに、カルトの特徴と言ってもいいと思います。
 

とある書物…うろ覚えだけども『パパラギ』だったかな…では、自然は神のものであったが、この木は俺のものだなどという人々のために、神は貧しくなってしまった云々という話があったと思うが、この話に乗っかって言うならば、人々の所有権によって神は貧しくなったように、進化論によって神は創造者としての地位をも失ってしまったと言えるのかもしれぬ。

 
これが、楽山の本音の方向だと思います。神を、机上の概念か、自分の批評の下にある類人格としてしか扱えないのです。そのような人の言論は、永遠に神について語れることはないと断言してもいいでしょう。
 
楽山が、書けば書くほど、表れてくるのは、救いようのない慢心に満たされて、保身しようとする醜い人格に他なりません。神は貧しくなったと書いていますが、神に貧富はありません。楽山は、心の貧困によって、人間でさえなくなりつつあります。
 

自分はもともと創造論者ではなく、生物の進化についてはごく自然に受け入れてはいたのではあるが、

 
自然に受け入れて・・というこの時点で、自然に、ということさえ、当たり前の先入観の固定観念になっている、ということからも、楽山の無反省な不自然さが表れています。いかなる論者にもなれない者の、知的な本を読んでるからというだけの自己顕示欲です。
 
恐らく、読書をしても、表層だけしか受け取っていないと思います。それで、本と、人と、神の、是非を語ろうとする楽山なのです。身の程を弁えない言論の浅さは、読む人の思考を乱して疲労させるだけで、考察の糧(かて)にもならず、自尊だけが異常に目立っていて、百害あって一利ないことを特徴としています。
 

そこには神の意思があったのだろうとは考えていたので、神の存在も、その意思も関係なしに、進化は成立しうるというのはやはり驚かないではいられないし、こういう驚きを与えてくれたドーキンスと、ドーキンスの著作を教えてくれた知人には感謝したいと思う。もちろんダーウィンにも…。

 
神の意志も関係も、誰も確定的に知ることはないのです。しかし、楽山は、神の存在と意志が関係していないと分かるような進め方をするのです。そして、進化論の成立を、既成のことのように語ります。進化論を知っているのでしょうか。否、楽山は、身近にかかわってくる人の気持ちも分からない人だと思います。そこで成り立っていない人が、何を得ているというのでしょう。
 
そして、同じように、知っている、分かっている、というスタンスで、学者に感謝を述べるのは、自分も、同じ列にいるつもりなのでしょう。よく読めば、楽山のナルシシズムぶりは、いたるところに表れてくるのです。
 
楽山の、分かったふう?の気取り、というのは、いかなる信仰にも反する態度ですし、宗教と信仰の名を上げながら、まるで理解していない楽山の、机上や手のひらで堂々巡りをする繰り言であり、一歩も進んでいない足踏みであり地団駄であります。それを、思慮だと勘違いしているのです。
 
愚かでありながら、それに気づかない者が、三途の川の石積みのように、見ようとしない目と、聞こうとしない耳と、感じようとしない心と、考えようとしない頭で、その時その時の欲望でたどる結末への不毛の砂場なのです。そこは目に見えない多くの虫の猟場であるでしょう。
 
それを、ブログに書いて、人に見せようとする自己顕示欲が、かえって、楽山の不遜の怖さを見せつけています。自分のためには、いかなる嘘も、印象操作も、詭弁も、手段を選ばず使うカルト的偽善者です。楽山やシャロームなどの易坊類に共通してみられる特徴です。
 
共感もなく、反省もせず、鼻先の人参を追い求めるように、批評家気取りで発信だけを続けるナルシシストは、誰もいない砂漠で叫びながら骨になってゆく宿命から逃れることはないのでしょうか。
 
誰とも人間らしい共感が成り立たず、読書自慢と心霊の話で世辞だけを待っているような、楽山の軽薄な文章を決して真に受けないでください。
 
 
(2020年02月01日、同日一部修正)
 
 
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