捏造の文脈
 
 2020年03月23日
 教と幸福の関係について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24060313.html
 
 
ウィキペディアには本の著者は哲学者・心理学者と書いてあるのに、楽山は、哲学者・心理学者と言って、著者 W・ジェイムズという人の本を多く引用する記事を書いて、批判を無視して、連作のように、自己正当化に専念しているようです。
 
(ネットより)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA
 
(楽山)「著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。」
 
(私)「ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12575215059.html
 」
 
少しでも自分に有利な言葉を見つけようとして、見つけたつもりの曲解の自己愛に基づいて、詭弁を重ねています。まさに、そういう欺瞞の態度こそが、楽山の本質的な魔性を証明することになります。
 
カルトに警戒を呼びかける文脈を作りながら、こういうことを書いている自分は大丈夫ですよ、という印象を与えようとしています。根腐れのわざ、と言っておきます。いちばん危ない人が、自分を除外して呼びかけている、という気色の悪い文脈です。
 
こういう捏造の文脈に対しては、もし警戒を呼びかける心の持ち主なら今までの情報操作と詭弁と嘘などは無かったはず、という根拠において全否定するべきです。今まで楽山の書いてきたことが、この記事のインチキを証明しているのです。意地で連作している感じが、臭い。
 
たしかに、こういう考え方をしている宗教信者は多いと思う。もっとも私が知っている宗教信者というのは大方は幸福の科学の信者のことだけど。
宗教と幸福とがこのような関係にあるとすれば、人々が宗教的信仰の与える幸福をばその宗教的信仰の真理であることの証拠と見なすに至るのも、驚くにあたらないであろう。もしある信条がある人に幸福感を与えるものであれば、その人がその信条を奉ぜざるをえなくなるのは当然であるといっていい。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.122)
 」
 
ここでは、まず、"幸福感"という言葉を用いて、楽山は、騙す騙されるということを読者の意識から除外したいようです。しかし、カルトについては、刷り込み、イメージ操作、やさしい言葉、夢物語、おとぎ話、詭弁、脅迫、によって、"騙(だま)す"ということを除外しては語れないものです。カルトの幸福感は偽りです。
 
たとえば、信者からこういう話を聞かされるのは珍しいことではない。
「自分はこの宗教を信じてから幸福になった。この宗教は本物だ」
「この教えを実践したら幸福になった。この教えは本物だ」
でも本当なら、宗教の正邪と幸不幸とは別問題であり、正しい宗教を信じたら幸福になり、間違った宗教を信じたら不幸になるとはかぎらず、正しい宗教を信じていてもよくないことが起きたり、間違った宗教を信じていても幸福感に包まれることはありえるだろうし、
 
幸福感は主観であり、騙されているときの異常な気分からも生じ得るもの、そして、経過によっては大いに揺らぎ得るものです。そのことを無視して、正しくなくても幸福になればいい、というような感覚を植え付けようとする詭弁です。
 
また人が何を幸福と感じるかは人それぞれ異なっているのだから、自分がA教で幸福感を得たとしても、他の人もA教で同じだけの幸福感を得られるとは必ずしもいえないことだ。
 
これは、信仰は"人それぞれ"、ということを悪用して、幸福になるのだったら、いいじゃないか、という自己正当化の詭弁です。カルトは、幸福感のまま、人を犯罪に誘導する、ということは、危惧として、また、事件として、明らかになっているのです。
 
いかなる言い訳も無駄となった事態に、さらに、悪あがきをしている楽山の底が見えてきます。寒気がします。
 
人は宗教に凝ってしまうとそんな簡単な理屈も分からなくなってしまうことがあるから困る。
 
楽山は、前に何度も書いたことですが、軟派カルトの宣伝者です。被害者面と傍観者面と批評家面と丁寧語とボンヤリ言語が、楽山の騙しのテクニックなのです。
 
宗教も、信仰も、理屈も、情緒も、人間について言葉以上の深い理解の欠けている楽山の、詭弁による自己正当化なのです。今、この記事で、誰よりも困らせているのは、楽山その人です。
 
実を言えば自分も宗教にはまり込んでしまっていた時期はそんな風になっていたのだから恥ずかしい。
 
何も変わっていません。今もカルト宣伝者です。証拠は、破たんした理路に、気づかない感受性に、ここまでずっと表れてきました。そして、ここでも詭弁を武器としていることで、いっそう、明らかです。
 
どこまでも、批評するかのような芝居で、どこまでも、自己正当化を図っていますが、もはや、総て無駄なのです。汚い本性が、ずっと、表れているのです。本人だけが気づかない、あるいは、知らぬふりをしている。身の毛が弥立ちます。
 
これも一種のマインドコントロールなのだろうけれども、宗教を信じてしまったがために思考力、判断力が低下してしまうこともあるし、ここはよくよく気をつけたい。
 
楽山は、自分も前にカルト信者だったが、今は、大丈夫だから、気をつけてください、みたいなことを言いたいのでしょうか。誰よりも、楽山に気を奪われないようにきをつけてください。
 
ヤケクソ状態に近いのであれば、いっそう危険です。決して関わり合いにならないでください。平静を装っても、楽山は、カンシャク玉か、ネズミ花火のような状態です。ますます人間性を失って、見境がなくなり、節操を失うプロセスにあります。
 
私が楽山について言ってきたところの、カルトによって思考力判断力が低下する、ということを、逆手にとって、よくよく気をつけたい、などと言っています。気をつけたいなら、楽山は、背筋の寒くなるような騙しの詭弁をやめなさい。書くのをやめなさい。
 
被害者意識をもって、気をつけたい、などと言っても、騙し続けてきたのは、今までの記事とコメントの文脈から、楽山であることが、とっくに明らかになっているのです。
 
楽山という、ネットの臭い臭いネズミは、断末魔でしょうか、バーゲンでしょうか、嘘吐きパリピでしょうか、何も応えることなく突っ走って、まっすぐ物を見る目を失って、くるくる這いまわっています。
 
腐った根性が、出没ではなく、ずうっと、無実を装う素知らぬ顔のままだから、平気を装う醜い姿で芝居がかって、結局、ますます深い深い悪意を示すことになります。
 
こういう人の書く文章は、意味を汲み取ろうとしてはいけません。伝えようとしているのは、意味ではなく、無節操な支配欲ですから、まともな理路も情緒も表れてはいません。
 
騙(だま)しの悪だくみだけが、隙(すき)あらば、袖(そで)からも、裾(すそ)からも、ずけずけと無遠慮に入り込もうとする貪欲の病原が、臭く息荒く流涎しているだけの様相です。
 
 
学んだこと:
 
正直という人間の真実を失った者は、やがて、自分自身をも隠すようになるだろう。
そしてついには自分自身をも失ってしまうだろう。
 
 
(2020年03月24日、同日一部修正)
 
 
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