憂さ晴らし?
 
 山口敏太郎と藤倉善郎、そして幸福の科学(HS)
 2020年04月23日 (抜粋)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24514557.html
 
 
楽山の、やたら長い記事です。殆どツイッターからの引用で、責任回避するとともに、キリスト教を、揶揄したくて、否定したくて、たまらない楽山は、HSについての記事の、おまけのように、キリスト教の歴史の一つの仮説のようなものを出して、また、反キリストぶりを、ツーンとする悪臭の鼻息で突いてきます。
 
根拠を示せず、真剣な議論が出来ないときに、揶揄だけしておく、それが楽山です。いいかげん男は、他者のツイートさえ利用します。
 
実は稲荷がキリストだった!? https://mnsatlas.com/?p=58156  @より
実は稲荷がキリストだった!?
 
こういう引用をしてキリスト教をバカにするのが楽しい楽山なのでしょうか。引用して、アハハ、と笑うのが、楽山の憂さ晴らしの八つ当たりの軽口なのでしょうか。
 
恐らく、神のもとに平等ということが、楽山の自己満足の優越意識を妨げるから気に入らないのでしょう。まともな返しが全然できないから、稲荷がキリスト、→、キリストは稲荷、→、キリストは狐、キリストは稲荷ずし、狐の好物、油揚げ、という連想で、あざ笑ってストレス解消したいのだろうと思います。子供みたいです。
 
より高くを目指す学習ではなく、既に高い自覚から自慢となり、ゆえに、いかなる対象をも自分より低く低く蔑(さげす)むことで、楽山の狭い狭いワールドを誇大化して満悦するのです。髭を不器用に剃りながら血の滲(にじ)む病気の子供?なのです。
 
全国津々浦々で祀られている稲荷神であるが、狐の姿をした神様をイメージする方が多いであろう。稲荷神と同神と言われる宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)の別名である、御饌津神(みけつかみ)に「三狐神」と当て字されたからだと言われている。関西で狐は
トメぞう@おだ団イコラブ班莉沙推し
@3tome1ro
 · 2020年4月21日
返信先: @bintarouさん
原始キリスト教若しくは初期キリスト教が古代日本に伝来していて、神道の成立に影響を与えたって説は昔からよく聞きますね
山口敏太郎
@bintarou
古代の日本に原始キリスト教が流入している事は学術的真実だと思います
 
引用元のリンク先サイトを抜粋してみます。 https://mnsatlas.com/?p=58156 
仮説にすぎないと思いますが、読みたい人は、どうぞ。
 
 
全国津々浦々で祀られている稲荷神であるが、狐の姿をした神様をイメージする方が多いであろう。稲荷神と同神と言われる宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)の別名である、御饌津神(みけつかみ)に「三狐神」と当て字されたからだと言われている。関西で狐は「けつ(ね)」と呼ばれていた。
だがあくまでも狐が仕えているのであって、稲荷神は狐ではない。荼枳尼天(だきにてん)という白狐に乗った天女の姿をした仏教神との習合ともされている。
なぜ「稲荷」という名前なのであろうか。農耕の神様として「稲を荷なう」という字があてられ、稲が成るという意味も込められている。だがこれは後付けである。
 
元々は「伊奈利」と万葉仮名で書かれていた。現代では外来語にカタカナが使われているが、奈良時代は万葉仮名をあてていた。
これは多胡羊太夫(たごひつじだゆう)(聖徳太子に仕えていた秦氏の一族とも言われている。)という有力者の石槨から発見された、銅板に書かれていた「JNRI」が語源と言われている。
 
「INRI」とも書くが、当時の万葉仮名に「ン」がなかったため「イナリ」になったそうだ。
これはキリストの十字架の罪状書に書かれていた、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」という意味の頭文字である。当て字として使われた「伊」は人編と神の杖という意味の「尹」で組み合わせてあるが、聖職者や治める者を意味している。「奈」には高杯に木を乗せて示すという意味がある。この2文字は、イエスと十字架を表していたようだ。
 
多胡碑の下に十字架も発見されている。「多胡」とは胡人が多いと書くが、胡人とは渡来人のことである。東方キリスト教徒も当時から日本に渡ってきていたのである。稲荷神社を建てた秦氏も同じく東方キリスト教だったと言われている。
 
稲荷神は豊受大神(とようけのおおかみ)とも同神とされている。「ウケ」は食物を指す古語であるが、ヘブライ語でも食べ物という意味である。
豊受大神は日本最初の神である天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とも同神である。古来の神道は現代のような多神教ではなく、元は一神教だったのだ。
日本の有名な神々である伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)は、旧約聖書のアダムとイブがモデルではなかろうか。
 
稲荷神社には赤い鳥居があるが、これも過越の日に子羊(雄)の血を2本の門柱と鴨居に塗ったという旧約聖書の記述が元でできたと言われている。
さらに平安京は船岡山を頂点とした十字架のような配置に並ぶ各地区が中心にあった。船岡山には「元稲荷」とも言われる義照稲荷神社が建てられている。ちょうど十字架の罪状書に位置されているようだ。
しかもユダヤの聖地であるエルサレムは、「神の平安」という意味なので平安京と同じである。
 
以上のことから、三位一体神であるキリストが稲荷神のルーツであった可能性が窺える。大手創業者にはなぜか稲荷信仰が多いそうだ。現代でも御利益を求めて多くの人々が稲荷参拝している。
 
キリストが数々の奇跡を起こしてきたという逸話も未だに残されているが、果たして稲荷神社の御
利益に繋がっているのであろうか。ただし稲荷参拝する際は、しっかりマナーを学んでからにした方が良いであろう。万一狐の祟りがあるかもしれないからである!
 
 」
 
最後は、引用元の冗談でしょうか、狐の祟りなどと言っています。ご利益に祟りにと、キリスト教には縁のなさそうな話ではあります。
 
(ネットより)
山口 敏太郎(やまぐち びんたろう、1966年7月20日 - )は、日本の作家である。
またライター、実業家、タレント、漫画原作者、オカルト研究家、超常現象研究家[1]、YouTuberとしても活動している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E6%95%8F%E5%A4%AA%E9%83%8E
 
(ネットより)
久保 有政(くぼ ありまさ、1955年[1]7月13日 - )は、日本のプロテスタント系の聖書解説家、単立・池袋キリスト教会初代牧師。レムナント出版、レムナント・ミニストリー代表。作家として、月刊誌『レムナント』の主筆を勤め、誌上で求道者、クリスチャン向けに、聖書の基本的な教えを解説している。また、キリスト教に関する著述や講演も行なっている。兵庫県伊丹市生まれ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E6%9C%89%E6%94%BF
 
イスラエルから中国の秦に行った人々がいて、さらに、日本にわたって秦人と呼ばれ、日本の神社建築や、儀式などに影響を与えた、という説は、何かに書いてあったのを読んだことがあります。
 
しかし、仮説であります。しかも、神社や儀式の形式が、キリスト信仰の中心ではありません。だから、私は、ほとんど、こだわりを持っていません。
 
しかし、楽山のような人は、信仰ではなく、歴史の事実や形式に、キリスト教を卑しめるためにも、異常なこだわりがあるので、上のようなサイトの文章に執着するか、または、これこそはと悪用するのでしょう。
 
神社側は、どう考えているのでしょう。その視点は、楽山にはないようです。楽山は、自分の都合だけで、学説も仮説も解釈も選んで、総合的な見方はしない、ということが表れています。
 
聖書研究家としては、学説としてあってよい話です。しかし、これに、楽山のような香具師(やし)的興味が関わると、無根拠空想家である楽山自身の霊能話に結び付けるか、キリスト教批判に悪用するか、ということしか生まれません。楽山は、けなすために利用しているだけでしょう。
 
楽山や好事家つまり物好きと違って、神がこうである、こうであったと語るのは、歴史による場合は、ひとつひとつ事実として考察され、結局、歴史の仮説になるだけでしょうが、あくまで宗教の周辺の資料に過ぎないのです。それ以上を、または、それより深いところを、楽山が語れないことから明らかでしょう。
 
そういった研究をするのも、その文章を読むのも、個人の自由です。しかし、キリスト者は、歴史の仮説に、あるいは、たとえそれが事実であったとしても、そこに、信仰の中心はないということを弁えておくべきです。
 
学問が、歴史が、直接、信仰とはなりません。
 
神について、人は、決定的なことは、何一つ語れないし、語ってよい資格と能力を持ちません。私たちは、神ではないし、神と同等の能力も視野も持ってはいません。私たちは、全知でも全能でもないのです。神は、正しく理解できる対象ではありません。ゆえに、信じ仰ぐのです。
 
邪魔だけしかできない楽山や、好事家の言を、少なくとも信仰として、真に受けるべきではないと思います。それらは、信仰ではなく宗教の、しかも周辺の、あくまで歴史の説の域を出ません。ましてや、地道な努力をする気のない楽山の言など、一瞥の価値もないのです。
 
好事家(こうずか):
(ネットより)
こう ずか かう- [0]【好事家】
変わった物事に興味を抱く人。物好きな人。また、風流を好む人。 「 -向きの品」 「 -の手になる研究」
https://www.weblio.jp/content/%E5%A5%BD%E4%BA%8B%E5%AE%B6
 
私たちには、みだりに神の名を唱えるな、という戒めもあるように、神の全能とは違う不完全の人としての弁えが信仰を支えるものです。そういう立場の人間である自分を、神の前に、キリスト御名を通して捧げるのが、祈りであります。
 
 
(2020年04月25日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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