詭弁と公共の害(2)
  
  
(罵詈雑言、辛辣な比喩について)
 
相手が、無根拠の罵詈雑言相当の悪口である場合、ストレスがたまる。
その場合、相手は、こちらの言い分を全く無視して読んでいないことがしばしばである。
それが、カルトのストレス回避であり、こちらへのストレス攻撃であり、体質となっている。
 
こちらのストレス解消の意味もあるが、
むしろ、理路を受け取らない場合、
辛辣な比喩のほうが言えてると思うことがある。
ときには、相手が、結局、
辛辣な比喩にだけ反応していると思われる状況もある。
 
根拠をあげた後で
いちばんインパクトの強いのは
カルトが、人間らしさから乖離することをもって、
卑しさと非人間の比喩である。
相手の言を喩(たと)えて、流涎、尿失禁、脱糞、吐物、排泄物、汚物、など。
相手の非人間を喩えて、ゴキブリ、ドブネズミ、吸血、汚染、病原、害毒、など。
そのような相手の低格化を喩えて、相手が幼稚であることの指摘に加えて、
小学生、子供のケンカ、背伸びだけ、学習機能の欠如、自覚~病識の欠如、自慰行為、など。
苦手な人は、やめておいたほうがよい。
 
なお、カルトにおいては、ベースが妄想的確信であり、
正常の議論では進まないことを前もって認識しておくべきである。
 
 
(議論に必要なこと)
 
議論は、論理的であるべきだとか、論理のみと思われやすいが、そうではない。
 
論理・理路・理屈は、人間として自然に受け取れることを旨とする。
議論は、理路のみではなく、人間らしい共感が成り立つ関係においてのみ成立する。
 
議論には、人間ならばありえない、ということのみで否定されることがあるからだ。
 
特に、人間離れしたカルトには、そういう人間離れした話が多い。
それは、宗教だから・・ではない。
人間の良心を蝕(むしば)むような教理と信条は宗教ではない。
 
そこに、カルトの反社会性が表れてくる。
 
だから、犯罪に及ぶのがカルトではなく、犯罪行為に及んでカルトと呼ぶのではなく、
 
教理と信条に反社会性に結び付く危険があればカルトとして、
犠牲者を出したくなければ、少なくとも、批判してゆく必要がある。
 
犯罪行為に及ぶ前日はカルトではなかったとは、とうてい、思えない。
 
批判がいつも対峙しており、生まれてくる、
ということが、犯罪以前のカルトへのブレーキである。
 
したがって、社会悪につながる、人道に反する、良識に反する、という、カルトへの、理屈だけではない説得力のある指摘が必要で、そのための人間らしい理路を深める学習を続けておく必要がある。
 
この場合、説得力とは、カルトに対してではなく、一般の人に対してである。カルトは、理路にも説得にも乗らないので、むしろ、そのカルトの怖さを、一般の人に向けて警鐘を鳴らすための理路と説得力である。
 
カルトは、受け取りやすいような言い回しを使うが
実際は、少し考えてみると、人間の思慮としておかしいことが多い。
 
理路というものは、多く、直観的なことを含んでいる。
人間としての感性と発想の学習経過があるからだろう。
持っている理路の中で、使うべき理路を引き出す場合など。
 
相手が理屈屋の場合、しかもカルトである場合、
相手は論理的に正当なことを言っているつもりでも、
損なわれた感性は論理の筋道も腐らせていることが多く、
うっかり、または、信条として、
しばしば、人間性を外れた奇妙な理屈を言うことがある。
そこを見逃さないこと。
 
カルトは妄想狂でありながら
一般受けを良くするために妄想を隠して
誤魔化して、体のいい言葉を並べることが多い。
 
主張の中心となるところを言わせる。
そこに、反社会性につながる妄想がある。
 
カルトの腐っているところを指摘することは
犯罪行為がなくても出来る。
 
カルトは最初から基本から腐っているので
多くの大袈裟な飾りをつける。
 
真の信仰は
飾りを排除してゆく生き方である。
 
飾り、すなわち、丁寧語、美辞麗句、讃美言葉、世辞、丁寧な言動
これらは、本来、即、悪いこと、というわけではない。
 
カルトは、飾りによって、
大事な真実を歪めたり隠したりするからゆるされない。
 
 
 (言葉だけの反省)
 
カルトが、反省を示し、マイナスの要素を認めたとしても、冷静に見てゆくと、言論の流れの中で、そういう反省がそれまで表れておらず、今にになって、反省している自分であることを見せかけるために、書いている場合がある。
前の私の記事「人を疑わない?」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12591418212.html
カルトは、反省の言葉など書かないことが大部分だが、中には、反省の言葉を書けば、反省したことになると思っている場合がある。カルトの反省文には、十分注意する必要がある。カルトは、真実に対して、実に軽く見なしているし、平気で、嘘を吐くことを忘れてはならない。
 
先ず1つの発言ではなく、それまでの言動の流れの中で、言うことに反省が表れてきたかを考えるべきである。表れていなければ、その時点で、反省したとは言えない。ゆえに、さらに今後、反省が文章に表れるかどうか、反省後の姿勢と態度になっているかどうか、それとも、相変わらず、同じような、自己中思想を続けているか、などを、厳密に見ていく必要がある。
 
経験した場合を言うと、全く反省などしていない場合があるということ。マイナスを、やたら自分に当てはめているが、今まで、総て、逆のことを言ってきた者の言など信頼するに値しないことが分かる。
 
さらに、その証拠としては、その時点でも、批判者を、例えば、反面教師と言って、自分の悪より、批判者が悪だからという主張をしていることがある、それを見逃さずに指摘するべきである。
 
嘘の反省をしてくるような者は、口では何とでも言って、気を緩めたら、いずれ、また、何ごともなかったかのように白々しく、偽善者、反宗教、反信仰の言を、気づかれぬように少しずつ紛れ込ませようとするだろう。
 
基本的に、自己愛性人格障害のナルシスト、反社会性人格障害のサイコパスは、質的に社会悪については、ほぼ同一の精神性を示す。彼らは、まことに、ウソッピ物語なのだ。
 
 
あらゆる改善のためのミッションにおいて、選ばれるべき人というのは、成長可能な人です。そこから臨機応変の対応というものが生まれるからです。
 
ゆえに、いちばん最初に、ミッションに値せずというダメ出しを食らうべきなのは、自己確信に酔い痴れている自己愛性人格障害者なのです。
 
 
(2020年04月27日)
 
 
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