信仰は
 
 
信仰は史実に依拠しない
史実であってもなくても信仰は生まれるからである
また信仰は出来事に依拠しない
 
さらに信仰は人にも組織にも依拠しない
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠する
 
与えられるためには人間らしい温もりと潤いが必要である
 
与えられるのは人間らしい温もりと潤いの道である
 
決して安穏の保険ではない
 
奇跡と神秘の沙汰は神に任せられ
人が云々できることではない
 
人は人の知り得ないところへ導かれ
守られる身であるのに
 
史実信仰や奇跡信仰は熱心であればあるほど
依拠するところを守ろうとするだろう
 
奇跡に反するものから目を背け
むごたらしい信仰が人に向かうとき
「悲しみを喜びなさい」
「それは言っちゃいけないんだよ」
「自殺しちゃいましたよ」
暗黙の不敬罪を人に着せてしまうのだ
 
これが信者から猛者へと変質して
信仰という名をかぶった確信であり
信仰者という名をかぶった無資格超人気取りである
 
信仰はいかなる事実にもかかわらず
計りがたい神の意思に
委ねるほかはない一人の人間の在り方である
 
信仰者は依拠する御方の行為や意思を計り知った
という思い込みの確信を砕かれてゆく一生を選び
またそのために選ばれた者である
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠する
 
 
(2011年09月24日)
(2020年04月26日、一部修正)
 
 
信仰者である人は神に甘えることがあります。
ときに愚痴を言ったり駄々を捏ねたりします。
 
祈りにおいて正直であることだけが条件となります。
 
神に対してだけは甘えないと生きていけません。
だからこそ甘えであることを自覚しなければいけません。
 
神からの奇跡を人が受けたと思い込む確信は、
神に対する甘えの自覚を失った人の姿です。
それは、
神が自分にとって都合よく働いてくれる
という、神を恐れず、
神の都合を自分の都合に合わせる的外れの自覚と感謝に陶酔して
甘えの中に溺れている人の姿なのです。
 
そういう人ほど神を讃えます。
 
これは、一部ではなく、
私たちの中にある稀ではない罪性であります。
 
ゆえに、折に触れて、信仰者にも悔い改めが必要になります。
 
私たちは信仰によって、信仰者として、死ぬまで成長し続けて、
「神を恐れよ」を言われ続けることになるでしょう。
そのたびに、祈り、主の慈愛と神の寛容を頼みとする道に帰るのです。
 
 
ところで、呆れた書き方でキリスト教を揶揄してきた楽山は、今度は、何を言っているのか分からないHS関連の記事を次から次に、今のところ7記事ですが、発作みたいに書きまくっています。新しい記事で、批判されたキリスト教否定の記事を隠したいのでしょうか。こういうのは、相手にしてはいけないと思います。
 
 
(2020年04月29日)
 
 
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