猛者への堕落(再)
 
 
人間性を失った名ばかりの信仰?には
ある種の猛々しさが残る
 
せっせとお味方になる意見を集めている
それは猛々しい文章である
その威勢のよさの分だけ
また人間としての共感を失ってゆくのは
字面だけを追って
お味方になる意見というだけで
悦び、褒めまくるからである
 
一般的にヒューマニズム云々を
社会通念に過ぎないものとして批判して
そして福音のヒューマニズム化を嘆くのだが
 
そういう福音の変質を語る前に
他者を語る前に
人が考えるべきもっと重大な
自らの問題を考えていない
 
人間性を欠いた信仰?は
神性と神聖と真正の確信?に満ちて
正当化だけに懸命になる畑で偽善の種を育てる
 
自らに目を向けず
反対意見に耳を貸さず
お決まりの聖なる?文句を呪文のように繰り返して
ますます話し合う余地のない確信に凝り固まってゆく
 
そして実際に賛同者以外とは
つまり反対者とは話さなくなる
そしてその根拠を神に担保してもらっているつもりである
 
しかし、いったい
神への恐れを知る信仰ではなく
むしろ神を恐れず誇大化した自我からの
尊大な妄想的確信に
担保されうる何があろうか
 
しかし、それでも保険のように
神の側に担保される
という神の意志を自らのものにして
さらに確信してゆくので
恥ずかしげもなく
信仰の名を借りた残酷物語の主人公になってゆく
 
元々信仰に羞恥心を持つ必要はないのだが
 
人が持つべき羞恥心は
実際には
信仰?によるつもりであろうがなかろうが
自己の不完全性の無知と無恥からの
異なる意見の軽視~無視に対してであり
さらに最悪な恥の自覚として
信仰?によるという間違った確信において
異なる意見を封殺する非人間性による自らの行いに対してである
 
しかも嘆くべきは
確信に満ちた非人間性は
自分とお仲間と被害者以外の賛同を得られない妄想に過ぎず
詭弁に満ちた言説の崩れ方でありながら
何事も無かったかのように慢心していられるほどの
罪悪感と羞恥心を持たないでいられるという特徴なのだ
 
 
カルトは、根拠のない超常的妄想をベースとしていて、行動化以前であっても反社会性を潜在的に主張の中に持っているので、いつも、そのベースにおいて崩れる定めである。
 
キリスト教内外に、カルト臭が漂ってくるような時代に、私たちは生きている。
 
しかし、真のキリスト信仰は、物や肉体の奇跡が本質ではなく、人間の心において理解可能な共感性が中心となっていることによって、いつも、そのベースにおいて説得力がある。
 
キリスト信仰は、たとえカルトが同じ名前や言葉を使っても、カルトには決して真似のできないところの、共感性に溢れた理路というところから癒しと救いを宣べ伝えることが出来るだろう。
 
 
(2011年09月22日)
(2019年04月25日、修正)
(2020年05月01日、さらに修正アップ)
 
 
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