共同幻想
 
前に書いたことですが、
 
 
ほぼ恒常的で、ほぼ秩序立っていて、ほぼ双方向の感覚であれば、
人間は、それを感覚に過ぎないとは思わず、幻想だとも思わず、
実在だと思い込む。
 
つまり、実世界は、そのような感覚世界と、つまり、ある意味、共同幻想と、同値である。
 
 」
 
これは、別に、私が考えた新説でもなんでもなくて、高等なことでも難しいことでもありません。共同幻想であることと、実世界であることとは、感覚と心を与えられているだけの人間にとって、同じことだという意味です。
 
つまり、上のことは、この世の現象に実体がなく、神が、神秘の摂理として整った共同幻想を与えるのだと仮定しても、私たちは、地上で実在と同じように暮らしている、ということを意味しています。
 
例えば、仏教では、人間の存在に実体がない、という話があったような気がします。違っているかもしれませんが、空(くう)の思想とかには惹かれるものがあって、聖書では、伝道の書に、似たことを感じていました。存在を否定するものではないのです。
 
そして、このことは、科学によっても、否定することは出来ないことなのです。科学は、どのように現象が起こっているかを追求する学問であり、なぜ現象が起こるかという原因を追求することは出来ません。現象からの帰納によって法則を見出し、事件や観察によって矛盾しなければ、正しい法則だ、という追求の仕方で、世の中を便利にしてきました。
 
科学が追えないし負えないこととして、法則で総てを説明できる世界なのか、ということと、一つの法則は、宇宙の果てでも成り立つか、果てしない過去と未来においても成り立つか、ということです。科学には歴史があり、その始まりはだいたい分かっており、その終わりは人類が存続する間に限られているので、総てを明らかにすることはないでしょう。
 
科学を根拠として、神はいないと言うのは、科学教の信仰?ということになります。
 
したがって、共同幻想ではないことを、科学が証明することは出来ないのです。
 
さて、超常や人間を離れたことの嫌いな信仰者である私が、このような共同幻想の話をするのはなぜかというと、人間が共同幻想を作り出すことは不可能であり、共同幻想を造っているのは何らかの摂理ということになりますが、もし、神が共同幻想の造り主であるならば、・・ということを考えてみたいのです。神と人の違いは、ふつう思われているより、はるかに大きいということです。
 
共同幻想の考えからは、私たちには今持っているつもりの肉体という実体はなく、存在という形無きものだけがあるとして、神が、心と感覚だけを与えていて、ある程度、調和できるような、上の3条件のような世界を、共同幻想として与えているということになります。
 
キリスト信仰の神が、人格的側面を持っているのは聖書から明らかですし、それゆえに、人間に共感できる神です。しかしながら、神は、同時に、宇宙と世界の仕組みと秩序を支配する全能者でもあります。ここでは、宇宙をも支配する神であるなら、私たちが、ふだん思っている人格的な神のイメージにとどまらない摂理としての神の存在も考えてみようというわけです。
 
そうすると、私たち人間が、何らかの意識をもっていたとしても、その神に直接会えるでしょうか、否である、という話なのです。形無き私たちは、神の与えた共同幻想の仕組みについての摂理を目にしたり理解するなどということは出来ないからです。
 
実際そうであってもなくても、キリストの父なる愛の神を想っていても、神の絶対的存在ということを、本気で考えている人は、意外に少ないような気がします。
 
神は、人間の手の届かない次元におられ、そこから、私たちの次元に様々のものを与えることのできる全能の存在であることに変わりはないのです。つまり、人間が、神が神がと、口酸っぱく言えるような、お父さま的な存在だけではなく、果てしない次元を超える存在でもあるということです。
 
つまり、神は、上の共同幻想があってもなくても、私たち人間の、限られた超常ではない認識に、入りようのない存在だと言うことです。万物の摂理を支配する御方は、私たちに、導きという作用を及ぼしても、私たちと、決定的な違いがあることを認識してほしいというのが私の意図です。
 
共同幻想の考えから言えば、幻想を作り出している神に、存在の、それこそ点に過ぎないような、いや、形無きがごとき私たちが、地上において、幻想の仕組みなど知りようがなく、その造り主になど、会えるはずもないと言うことです。
 
もし、仮に、天国で、美しい楽園を与えられ、神に会えたとしたら、神が、天国という幻想と同値の世界を、恵みとして、与えて下さっていることになりますし、地上での私たちの心に与えられる恵みもまた、とても手の届かないところから与えられるものであるということになります。
 
私はそれで十分です。それ以上の責任を負うことは、むしろ、恐ろしいくらいです。それ以上の能力の自覚?は、滅びゆくカルトの持ち物です。
 
神の持つ人格性は、聖書から、神が人間に共感できる性質であることが私たちに分かるということですが、例えば、人間にはとても手の届かないところからの、恵みと赦しと癒やしと救いと導き、神にとっては、たとえるなら、指先を少し動かすだけで足りる、というほどの全能なのです。
 
それで十分なのに、人間は、神をイメージするときに、どうしても、人格をイメージしてしまいます。それで、人格的側面が際立って言われていることは、ある意味、災いをもたらしています。
 
人は、神聖を見たがります。理解したがります。そして、悪いことに、人よりも知っていると言いたがるのです。その典型が、聖書のパリサイ人であり、現代では、キリスト教内外にたむろしているカルトであります。私の焦点が見えてきたと思います。
 
神は、超常も、地上も、摂理として支配する御方です。私たちは、せいぜい日常の、限られた時空を、不完全に知って、そこで、不完全に、動いたり、何かを動かしたりしているだけの存在です。
 
共同幻想であろうとなかろうと、私たちは、神の支配下で生きています、いくらでも言い替えが出来るでしょう、神の掌中で生きています、いつも神に俯瞰され且つ詳細に見られています、神に全てを見られています、つまり、神の前で生きているのです。
 
その上で、神は、赦されることと赦されないことを明白に裁く存在です。聖書から、恵み、愛し、寛容であるとともに、同様に聖書から、戒め、懲らしめることがある、ということを忘れてはいけません。
 
そして、神は、祈りという秘密の小部屋を、すなわち、そのための小さい時空を、人のために、いつも用意して待っておられるのです。
 
私は、それで必要十分なのです。信仰に何が必要十分かは、前にも述べたように、精いっぱい正直な祈りであります。
 
神が、あたかも、身近にいるアドバイザーを兼ねたお味方であるかのように見るのは、また、人についてのことを疎かにして、神の意志と行為を、自身の信仰の知識で説明できると思って、そればかり追求しようとするのは、神の人格的イメージが勝ってしまった信仰?の、人間という被造物としての身の程を忘れた姿勢だと思います。
 
神は、神は、云々と、知ったかぶりで名指しして人間の言葉の粗野な断定の対象とすることなど、決して出来ない存在が、私たち信仰者の、信じ仰ぐ神であります。
 
人格的唯一神は、人格だけではない総ての摂理を支配する全能者です。人は、神の人格性も、全能性も、完全に理解することはありません。
 
私の言っている共同幻想は、神が、人によって限定されないことを示すための仮の理路であります。くれぐれも、逆に、自らの作りだした幻想の確信?に、また他者の作り出した幻想の決めつけに、取り込まれないようにしてください。
 
想い描くところに神はいない(シモーヌ・ベーユだったか?)。この意味は、神が、人間の理屈や想像のイメージなど、何の役にも立たないところから、人間の必要に答えて、その恵みと、甘いだけではない導きを与える御方だということでしょう。
 
私たち信仰者が、聖書を読んでいた信仰の原初において、今までにないような共感と慈しみを体験しているために、いかなる状況でも、祈らないではいられないということです。
 
そこには、共同幻想などという考えはないのですが、いや、幻想だろうが、目に見えない実在であろうが、目に見える総ての物や人や現象よりも、衝撃的に、瑞々しく受け取ってしまうものがあるからなのです。
 
それが、人の心を揺さぶり、解放し、動かすから、信仰者が誕生するのです。
 
つまり、共同幻想という考え方は、一見、総てが空しく思えますが、そういう共同幻想の世界であったと仮定しても、人に共感する神の、支配の内にいることが、心の幸いとなるでしょう。
 
神が人に共同幻想を与えているとしても、人が見るのは、神が幻想を与える姿でも理路でもなく、人の感覚によるものだけですから、証明などは出来ません。あくまで、人の想像と思考の、神についての限界のようなものでしょう。
 
しかしながら、考えることが好きな人や、考えてしまう人にとっては、人間の自由な想像力の飛躍として、現実の目に見える世界に慣れてしまった善と愛の思想から、もはや、生死を超えた生命の、被造物と呼ばれる人間の感覚に対する神の摂理の支配を想うとき、それまでよりも、はるかに大きな次元の絶対者の存在を想像することで、はるかに大きな愛の支配する世界に気づくヒントにはなると思っています。
 
神という存在、そして、神秘というものの、人には決して到達しえない秘密をもって、人は、神に対して、今まで以上に、人という存在の小ささを、不完全さを、その決定的な違いを、知るべきだという目的のための記事でもあります。その自覚こそが、信仰者に人としての敬虔を生み出すのです。
 
 
(2020年05月20日、同日一部修正)
 
俯瞰(ふかん)=高い所から見下ろし眺めること
 
 
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